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猪子一時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
猪子一時
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天文11年(1542年
死没 寛永3年3月28日1626年4月24日
別名 通称:次左衛門、三左衛門、内匠助、内匠頭
墓所 天徳寺栄立院(東京都港区虎ノ門)
官位 従五位下
主君 織田信清信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 猪子氏
父母 父:猪子久左衛門[1]
兄弟 一時一俊(高就)、加助(賀介)[2]
一日正次一成
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猪子 一時(いのこ/ゐのこ かずとき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将旗本

略歴

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寛政重修諸家譜』によると、猪子氏は、源頼政の嫡男仲綱が末流で、初め摂津国生田に住して生田氏を称し、後に猪子に改めたとする。元は源氏であるが、藤原氏とされている詳細は不明という[3]

猪子久左衛門[1]の子。弟に兵助(一俊または高就)がいる。初め、父と同じく、尾張国犬山城主・織田信清に仕えて、永禄元年(1558年)、浮野合戦で岩倉織田氏と交戦した様子が『甫庵信長記』にある。

その後、織田信長に仕えて、永禄3年(1560年)、18歳の時に赤母衣衆に追加で選ばれる。天正6年(1578年)には、有岡城攻めに参加。後に高槻城の番衆の1人となる。

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死亡した際に、その近習であった弟兵助も、二条御新造で織田信忠らと共に討死した。

以後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585年)に摂津太田郡に1,000石を知行。後に近江国愛智郡河内国河内郡伊勢国河曲郡において加増され、合わせて2,730余石となり、黄母衣衆に列したという。秀吉の御咄衆となり、文禄の役でも名護屋城に駐屯。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に属して参加。田中吉政金森素玄[4]可重らと功を争って敵陣に斬り込んで首級を上げ、茶入「常陸帯肩衝[5]」を褒美に与えられた。慶長19年および20年の大坂両陣にも従軍。元和3年(1617年)には、徳川秀忠の御伽衆の一人になった。寛永3年(1626年)に武蔵国にて没。享年85。

人物

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茶の湯千利休古田織部に学んだ茶人でもある。

脚注

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  1. ^ a b 兵助。諱は「一崇」とも言う。
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』にはないが、『尾張群書系図部集』では末弟とする。
  3. ^ 堀田 1923, p. 911.
  4. ^ 金森長近の長男義入は、一時の弟のように、本能寺の変で亡くなっている。
  5. ^ 京極高次から豊臣秀吉に献じられ、秀吉がさらに徳川家康に贈った名物。猪子家は後に断絶し、現在は西本願寺が所蔵か。また 猪子一時は『利休百会記』にも名が見られ、千利休とも親交があった。

参考文献

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  • 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、65-66頁。ISBN 4642027432 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 猪子氏」『寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、911-912頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/464 国立国会図書館デジタルコレクション