「内田常雄」の版間の差分
外部リンクの修正 kokkai.ndl.go.jp |
|||
59行目: | 59行目: | ||
[[松本高等学校 (旧制)]]文科甲類、[[東京大学|東京帝国大学]]経済学部卒。[[1930年]]、[[大蔵省]]入省。[[国有財産局|管財局]]属<ref name="Nihon kanryōsei 1986 - 2000">『日本官僚制総合事典』[[東京大学出版会]]、2001年11月発行、279頁</ref>。同期に[[渡辺武 (官僚) |渡辺武]]、[[河野一之]]ら。 |
[[松本高等学校 (旧制)]]文科甲類、[[東京大学|東京帝国大学]]経済学部卒。[[1930年]]、[[大蔵省]]入省。[[国有財産局|管財局]]属<ref name="Nihon kanryōsei 1986 - 2000">『日本官僚制総合事典』[[東京大学出版会]]、2001年11月発行、279頁</ref>。同期に[[渡辺武 (官僚) |渡辺武]]、[[河野一之]]ら。 |
||
戦後[[経済安定本部]]財政金融局長、管財局長などを経て、[[1952年]]山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。当選9回。[[自由民主党の派閥|自民党内派閥]]は[[宏池会]]([[池田勇人]]→[[前尾繁三郎]]→[[大平正芳]]派)に所属。選挙区では[[金丸信]]([[周山会|佐藤派]]→[[木曜クラブ|田中派]])、[[中尾栄一]]([[政策科学研究所 |
戦後[[経済安定本部]]財政金融局長、管財局長などを経て、[[1952年]]山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。当選9回。[[自由民主党の派閥|自民党内派閥]]は[[宏池会]]([[池田勇人]]→[[前尾繁三郎]]→[[大平正芳]]派)に所属。選挙区では[[金丸信]]([[周山会|佐藤派]]→[[木曜クラブ|田中派]])、[[中尾栄一]]([[政策科学研究所|中曽根派]])らと競合していた。[[1970年]]1月、第3次[[佐藤栄作]]内閣の[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]として初入閣。第2次[[田中角栄]]内閣で[[経済企画庁長官]]をつとめる。 |
||
[[1976年]]9月、党内抗争「[[三木おろし]]」の最中、党役員改選で[[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]に内定するが、幹事長候補に提示された[[松野頼三]]<ref group="注釈">松野は反主流派の一角である[[清和政策研究会|福田派]]に属しながら反主流派と距離を置き、三木に近い立場であった。</ref>が反主流派の猛反発を招き、内田が横滑りで幹事長に就任する。内田は党務のキャリアが乏しく、幹事長ポストへの指名は予想外のものであった。しかも幹事長となれば執行部の代表として自ら属する反主流派の大平派との対立を余儀なくされかねなかったため、就任に対して強く難色を示した。結局説得により引き受けることになったが、就任記者会見で「道を歩いていたら、[[マンホール]]に落ちたような気分だ」と思わず心境を吐露し、「'''マンホール幹事長'''」と揶揄された{{Sfn|奥島|pp=71-72}}。 |
[[1976年]]9月、党内抗争「[[三木おろし]]」の最中、党役員改選で[[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]に内定するが、幹事長候補に提示された[[松野頼三]]<ref group="注釈">松野は反主流派の一角である[[清和政策研究会|福田派]]に属しながら反主流派と距離を置き、三木に近い立場であった。</ref>が反主流派の猛反発を招き、内田が横滑りで幹事長に就任する。内田は党務のキャリアが乏しく、幹事長ポストへの指名は予想外のものであった。しかも幹事長となれば執行部の代表として自ら属する反主流派の大平派との対立を余儀なくされかねなかったため、就任に対して強く難色を示した。結局説得により引き受けることになったが、就任記者会見で「道を歩いていたら、[[マンホール]]に落ちたような気分だ」と思わず心境を吐露し、「'''マンホール幹事長'''」と揶揄された{{Sfn|奥島|pp=71-72}}。 |
2023年1月9日 (月) 23:19時点における版
内田 常雄 うちだ つねお | |
---|---|
生年月日 | 1907年6月30日 |
出生地 | 山梨県甲府市 |
没年月日 | 1977年12月29日(70歳没) |
出身校 | 東京帝国大学経済学部 |
前職 | 国家公務員(大蔵省) |
所属政党 |
(自由党 →) 自由民主党(大平派) |
称号 |
正三位 勲一等 |
第24代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 第2次田中内閣 |
在任期間 | 1973年11月25日 - 1974年11月11日 |
第47代 厚生大臣 | |
内閣 | 第3次佐藤内閣 |
在任期間 | 1970年1月14日 - 1971年7月5日 |
選挙区 | 山梨県全県区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 |
1952年10月2日 - 1953年3月14日 1955年2月28日 - 1977年12月29日 |
その他の職歴 | |
第18代 自由民主党幹事長 (総裁: 三木武夫) (1976年9月 - 1976年12月) |
内田 常雄(うちだ つねお、1907年6月30日 - 1977年12月29日)は、厚生大臣・経済企画庁長官・自由民主党幹事長を歴任した政治家。山梨県全県区選出の衆議院議員。
来歴・人物
松本高等学校 (旧制)文科甲類、東京帝国大学経済学部卒。1930年、大蔵省入省。管財局属[1]。同期に渡辺武、河野一之ら。
戦後経済安定本部財政金融局長、管財局長などを経て、1952年山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。当選9回。自民党内派閥は宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳派)に所属。選挙区では金丸信(佐藤派→田中派)、中尾栄一(中曽根派)らと競合していた。1970年1月、第3次佐藤栄作内閣の厚生大臣として初入閣。第2次田中角栄内閣で経済企画庁長官をつとめる。
1976年9月、党内抗争「三木おろし」の最中、党役員改選で政務調査会長に内定するが、幹事長候補に提示された松野頼三[注釈 1]が反主流派の猛反発を招き、内田が横滑りで幹事長に就任する。内田は党務のキャリアが乏しく、幹事長ポストへの指名は予想外のものであった。しかも幹事長となれば執行部の代表として自ら属する反主流派の大平派との対立を余儀なくされかねなかったため、就任に対して強く難色を示した。結局説得により引き受けることになったが、就任記者会見で「道を歩いていたら、マンホールに落ちたような気分だ」と思わず心境を吐露し、「マンホール幹事長」と揶揄された[2]。
幹事長となった内田は党の分裂を避けるべく、幹事長でありながら三木の円満退陣を模索、事務局と党則や議員総会規則などの研究を行った。結局、次期総選挙後の話し合いによる新総裁選出という方針で党内をまとめた。12月の第34回衆議院議員総選挙(ロッキード選挙)を幹事長として仕切ったが分裂選挙に苦しみ議席を減らしたため三木は退陣、ともに執行部から退いた。最終的に、自民党の分裂という事態は回避された[3]。この選挙で同じ山梨全県区から自民党無派閥で出馬し初当選した堀内光雄(後に宏池会会長)が、内田の死後に宏池会入りして派閥の地盤を継承している。
1977年12月29日、死去。追悼演説は同じ山梨全県区選出の鈴木強(日本社会党)が行った[4]。
経歴
脚注
注釈
出典
参考文献
- 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』中公文庫、2005年9月25日。ISBN 4-12-204593-2。
関連項目
議会 | ||
---|---|---|
先代 三池信 |
衆議院大蔵委員長 1967年 - 1968年 |
次代 田村元 |
先代 二階堂進 |
衆議院商工委員長 1964年 - 1966年 |
次代 天野公義 |
公職 | ||
先代 小坂善太郎 |
経済企画庁長官 第24代:1973年 - 1974年 |
次代 倉成正 |
先代 斎藤昇 |
厚生大臣 第48代:1970年 - 1971年 |
次代 斎藤昇 |
党職 | ||
先代 中曽根康弘 |
自由民主党幹事長 第16代:1976年 |
次代 大平正芳 |