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2020年7月22日 (水) 04:46時点における版
近衛師団 | |
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近衛師団司令部庁舎 (現:東京国立近代美術館工芸館) | |
創設 |
1891年(明治24年)12月14日 1943年(昭和18年)6月1日 (近衛第1師団及び近衛第2師団に改編) |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 |
歩兵 (自動車化歩兵 (1940〜)) |
所在地 |
東京-台湾-東京- -東京(近衛第1師団) -マレー半島-スマトラ島(近衛第2師団) |
編成地 | 東京 |
通称号/略称 |
宮 (〜1943) 隅 (1943〜)(近衛第1師団) 宮 (1943〜)(近衛第2師団) |
補充担任 | 近衛師管・全国・第1師管・東京師管・東京師管区 |
最終上級単位 | 第25軍(近衛第2師団) |
担当地域 | 宮城 |
最終位置 |
東京(近衛第1師団) スマトラ島 メダン(近衛第2師団) |
戦歴 |
日清 - 日露 - 二・二六事件 宮城事件(近衛第1師団) マレー作戦 - シンガポールの戦い(近衛第2師団) |
近衛師団(このえしだん、正字体:近衞師團)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊(軍隊)として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。
帝国陸軍における軍隊符号はGD(一般師団はD)。太平洋戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には近衛第1師団 (1GD)・近衛第2師団 (2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成された。
なお戦後から現代にかけて、自衛隊の陸上組織、陸上自衛隊において他の君主国における近衛兵のような部隊等は存在しておらず、旧宮内省の皇宮警察、禁衛府、皇宮警察署、皇宮警察局、警視庁皇宮警察部と変遷を経て、警察組織である現在の皇宮警察本部がそれらの役割を担っている[1]。
特徴
将来の天皇(大元帥)となる皇太子(東宮)は、西洋社会におけるノブレス・オブリージュを模範として近衛歩兵第1連隊附となるのが通例であり、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)は近歩1附であった。
近衛師団は禁闕守護の任から衛戍地は東京市(現在のほぼ東京23区)であったものの、他の一般師団と異なり、連隊区といった特定地域からの徴兵によるのではなく、大日本帝国全国から選抜された兵士によって充足されていた。近衛兵になることは大変な名誉とされた[2][3]。
軍服も一般師団とは区別され、
- 一般の将校准士官正衣の正帽(旧称:第一種帽)のクラウン部が濃紺(黒色)絨、将官を除く一般将校准士官下士卒の明治38年制以前の第二種帽の鉢巻部・一般騎兵下士官兵の胸飾紐(肋骨服)が黄色であるのに対し、「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する軍隊に属する者ではそれらの部分が緋色。
- 近衛師団の各近衛兵の中でも、特に近衛騎兵は観兵式など式典における儀仗部隊としての色彩が強かったため、一般騎兵下士官兵用のドルマン式ジャケット(肋骨服)が廃止された後も、近衛騎兵下士官兵には近衛騎兵供奉服として存続。
- 将校准士官下士官兵共通として、明治45年制以降の軍帽および昭和13年制の略帽の帽章の五芒星(五光星)には、周囲を囲む桜葉を付す。
等の差異が存在した。
また一般師団の下士官兵には基本的に第二装(程度の良い中古品、主に外出や儀式用)・第三装(着古したり傷を補修した中古品、主に普段の勤務や訓練用)の軍装が支給されたのに対し、近衛師団では「ご守衛勤務」で使うための第一装(新品または新品同様。一般師団では主に出征時や戦地の勤務用)もあわせて支給された。
-
緋色の第二種帽を着用した近衛後備混成旅団の将兵
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近衛歩兵第2連隊附当時の朝香宮鳩彦王
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近衛歩兵第4連隊附当時の大山柏
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近衛騎兵連隊附時代の閑院宮春仁王(将校)
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近衛野砲兵連隊中隊長時代の北白川宮永久王(将校)
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近衛歩兵第1連隊附時代の辰口信夫(兵)
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近衛第1師団長時代の森赳(将校)
沿革
成立前史
江戸幕府を倒し明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩(現:鹿児島県)、長州藩(現:山口県)、土佐藩(現:高知県)の「薩長土」に依存する脆弱な体制であった。そのため1871年(明治4年)、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。この御親兵は、1872年(明治5年)に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城(皇居)の守護」という任務が課せられた。
1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。1874年(明治7年)、近衛歩兵大隊を基幹として近衛歩兵連隊(第1大隊と第2大隊を基幹に近衛歩兵第1連隊、第3大隊と第4大隊を基幹に近衛歩兵第2連隊が新設)が編成され、同1月23日には帝国陸軍では初めて軍旗が近歩1及び近歩2に親授された。
1877年(明治10年)の西南戦争(日本史上最後の内戦)では、鍋田川の戦い、田原坂の戦い、城山の戦いに従軍する。翌1878年(明治11年)には近衛砲兵大隊が恩賞への不平から武装反乱する竹橋事件が起こった。
1891年(明治24年)、鎮台が廃止され師団に替わることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は隷下の各中隊が輪番制で天皇や宮城の警護などに当たり、戦時には野戦師団のひとつとして出征し戦闘に参加することとなった。師団編制となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵などの特科部隊が統合されていた。
その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による大日本帝国陸軍の解散まで各戦争・事変・紛争に従軍し、出征中の近衛師団に代わって天皇及び宮城の警護に当たった近衛師団は留守近衛師団とされた。初期は留守近衛連隊が、のちには近衛歩兵第6連隊などがそれにあたる。
歴史
日清戦争
日清戦争に従軍、台湾平定(乙未戦争)で先発する。後発した乃木希典率いる第2師団とともに平定するも、山根信成近衛第2旅団長、北白川宮能久親王近衛師団長をはじめ、多くの戦病死者を出した。
日露戦争
日露戦争では第1軍隷下として従軍。長谷川好道率いる近衛師団(近衛第1旅団と近衛第2旅団から構成される)と、 梅沢道治率いる近衛後備混成旅団が出征した。長谷川好道が鴨緑江会戦及び遼陽会戦の軍功により朝鮮駐剳軍司令官に就任したため、沙河会戦以降は浅田信興近衛第1旅団長が近衛師団長となった。沙河会戦では旅団長梅沢の功績により、後備近衛混成旅団が「花の梅沢旅団」と呼ばれた。奉天会戦にも参加している。
また、日露戦中の1904年(明治37年)6月15日には、輸送船にて輸送中の後備近衛歩兵第1連隊が玄界灘でロシア海軍ウラジオストク巡洋艦隊の装甲巡洋艦3隻の攻撃を受け、軍旗を奉焼し連隊長以下1,000余名が戦死する事件があった(常陸丸事件)。
明治末から大正期
1910年(明治43年)5月29日、師団司令部が東京市麹町区代官町2番地に移転[4]。
1918年(大正7年)6月20日、兵器部が師団司令部構内で事務を開始[5]。
昭和
参考までに、1930年(昭和5年)時点の近衛師団の一覧表を示す[6]。
種類 | 旅団司令部 | 連隊(聯隊) | 大隊 |
---|---|---|---|
歩兵 | 近歩第1旅団司令部(東京・北ノ丸) | ||
近衛歩兵第1連隊(東京・北ノ丸) | |||
近衛歩兵第2連隊(東京・北ノ丸) | |||
歩兵 | 近歩第2旅団司令部(東京・赤坂一ツ木) | ||
近衛歩兵第3連隊(東京・赤坂一ツ木) | |||
近衛歩兵第4連隊(東京・青山北) | |||
騎兵 | 騎兵第1旅団司令部(習志野) | ||
近衛騎兵連隊(東京・戸山) | |||
騎兵第13連隊(習志野) | |||
騎兵第14連隊(習志野) | |||
砲兵 | 野戦重砲兵第4旅団司令部(東京・世田谷) | ||
近衛野砲兵連隊(東京・世田谷) | |||
野戦重砲兵第4連隊(下志津) | |||
野戦重砲兵第8連隊(東京・世田谷) | |||
工兵 | - | - | 近衛工兵大隊(東京・赤羽) |
鉄道連隊 | - | 鉄道第1連隊(千葉) | |
- | 鉄道第2連隊(習志野・津田沼) | ||
電信連隊 | - | 電信第1連隊(東京・中野) | |
飛行連隊 | - | 飛行第5連隊(立川) | |
気球隊 | - | 気球隊(所沢) | |
輜重兵 | - | - | 近衛輜重兵大隊(東京・大橋) |
二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件では近衛から叛乱将校がクーデターに加わるも、昭和天皇は「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン(私自ら近衛師団を率いて彼らの鎮圧にあたる)」と発言した。
日中戦争
前述のように近衛師団は日露戦争以降長らく実戦経験がなく、盧溝橋事件勃発後にも出動命令が下ることがなかった。このことから、出動命令を受けた他の師団より「あれはおもちゃの兵隊さんではないか」と揶揄されることも少なくなかった。たまりかねた師団長の飯田貞固中将は昭和天皇と面会した折「将兵一同は皆出征を希望しております」と具申。天皇は驚いて「そんなに皆、出たがっているのか」と承諾した[7]。 こうして1939年(昭和14年)、日中戦争に動員下令、近衛第2師団の前身となる近衛混成旅団となる。近衛混成旅団は第21軍隷下となり、南支那方面軍として広東に上陸する。近衛混成旅団は広東作戦、南寧作戦(翁英作戦は中止)に従軍し、南寧を包囲する国民革命軍と激戦を展開した。
仏印進駐
近衛混成旅団は第5師団や台湾混成旅団とともに、第22軍隷下となり、仏印進駐を担当する。
近歩1・近歩2は、仏印進駐完了後は復員することとなる。この復員は、南支那方面軍が事実上廃止(第23軍に改組)され、印度支那派遣軍(司令官西村琢磨、歩兵団長桜田武)が復員するのと同時期である。
近衛混成旅団と印度支那派遣軍歩兵団は、両者とも桜田武が旅団長・歩兵団長として指揮をとったので桜田兵団と呼ばれていた。この桜田兵団が留守近衛師団の近歩6などと加わり、留守近衛師団から近衛第1師団となる。
一方、近歩3・近歩4・近歩5等は、太平洋戦争開戦以降、河田混成旅団長の近衛混成旅団から近衛師団として南方軍の第25軍隷下として、タイを経て南方作戦のマレー作戦に参加することとなった。
第二次世界大戦
上述の近衛師団は、太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、1941年(昭和16年)12月8日から1942年(昭和17年)1月31日のマレー作戦には第25軍隷下として、近歩3・近歩4・近歩5及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。
改編
1943年(昭和18年)6月1日に、オランダ領東インド(現在のインドネシア)スマトラ島メダン方面で作戦中の近衛師団は近衛第2師団(2GD)に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団(1GD)が、更に1944年(昭和19年)7月18日には留守近衛第2師団を基幹として、近衛第3師団(3GD)が編成される。第二次世界大戦終戦時の近衛第3師団は千葉県成東(旧:山武郡成東町、現在の山武市)にあって連合国軍の関東上陸作戦(本土決戦・決号作戦)に備えていた。
近衛第2師団と近衛第3師団がそれぞれ作戦地に赴任していたため、本来の近衛兵としての任務は近衛第1師団が担当する予定であった。
宮城事件
1945年(昭和20年)8月14日未明にポツダム宣言受諾が決定し、それを昭和天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせる「玉音放送」を放送することが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛第1師団長森赳中将へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの叛乱を知り、叛乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる。
のちにこの事件は半藤一利により『日本のいちばん長い日』として小説化され、二度にわたって映画化も行われた。
戦後
終戦時には近衛連隊でも軍旗奉焼・復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移ったが、禁衛府解体に伴い完全に消滅した。
なお、近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館工芸館となっている。
また、戦後の皇室および現在の自衛隊(陸上自衛隊)において、皇太子含め男性皇族が自衛官または自衛隊員としてそれらの職務に従事するようなことはなく、旧陸軍の近衛師団のような他国における近衛兵に相当する部隊・組織は存在しておらず、警察庁附属機関である皇宮警察本部がその役割を実質的に担っている。
師団長
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 明治24年(1891年)12月14日 | 小松宮彰仁親王 | |
2 | 明治28年(1895年)1月28日 | 北白川宮能久親王 | 台湾征討を指揮する。戦病死。 |
3 | 明治28年(1895年)11月8日[8] | 野津道貫 | |
4 | 明治29年(1896年)5月10日 | 佐久間左馬太 | |
5 | 明治29年(1896年)10月14日 | 黒木為楨 | |
6 | 明治30年(1897年)10月27日 | 奥保鞏 | |
7 | 明治31年(1898年)1月14日 | 長谷川好道 | 明治37年6月大将昇任 |
8 | 明治37年(1904年)9月8日 | 浅田信興 | |
9 | 明治39年(1906年)7月6日 | 大島久直 | |
10 | 明治41年(1908年)12月21日 | 上田有沢 | 明治44年8月18日退任[9] |
11 | 明治44年(1911年)9月6日 | 閑院宮載仁親王 | |
12 | 大正元年(1912年)11月27日 | 山根武亮 | |
13 | 大正4年(1915年)2月15日 | 秋山好古 | |
14 | 大正5年(1916年)8月18日 | 仁田原重行 | |
15 | 大正6年(1917年)8月6日 | 由比光衛 | |
16 | 大正7年(1918年)8月9日 | 久邇宮邦彦王 | |
17 | 大正8年(1919年)11月25日 | 藤井幸槌 | |
18 | 大正11年(1922年)2月8日 | 中島正武 | |
19 | 大正12年(1923年)8月6日 | 森岡守成 | |
20 | 大正14年(1925年)5月1日 | 田中国重 | |
21 | 大正15年(1926年)7月28日 | 津野一輔 | |
22 | 昭和3年(1928年)2月28日 | 長谷川直敏 | |
23 | 昭和4年(1929年)8月1日 | 林銑十郎 | |
24 | 昭和5年(1930年)12月22日 | 岡本連一郎 | |
25 | 昭和7年(1932年)2月29日 | 鎌田弥彦 | |
26 | 昭和8年(1933年)8月1日 | 朝香宮鳩彦王 | |
27 | 昭和10年(1935年)12月2日 | 橋本虎之助 | 二・二六事件では宮城警備を指揮する。 |
28 | 昭和11年(1936年)3月23日 | 香月清司 | |
29 | 昭和12年(1937年)3月1日 | 西尾寿造 | |
30 | 昭和12年(1937年)8月26日 | 飯田貞固 | |
31 | 昭和14年(1939年)9月12日 | 飯田祥二郎 | |
32 | 昭和16年(1941年)6月28日 | 西村琢磨 | シンガポールの戦いを指揮する。 |
33 | 昭和17年(1942年)4月20日 | 武藤章 | 昭和18年6月1日近衛第2師団に改称 |
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 昭和18年(1943年)6月10日 | 豊島房太郎 | 留守近衛師団長から転じる。 |
2 | 昭和18年(1943年)10月29日 | 赤柴八重蔵 | |
3 | 昭和20年(1945年)4月7日 | 森赳 | 玉音放送盤を奪う叛乱計画に反対して殺害される。 |
4 | 昭和20年(1945年)8月15日 | 後藤光蔵 | 師団の復員を指揮した後に初代禁衛府長官に転じる。 |
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 昭和18年(1943年)6月1日 | 武藤章 | |
2 | 昭和19年(1944年)10月5日 | 久野村桃代 |
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 昭和19年(1944年)7月18日 | 林芳太郎 | |
2 | 昭和20年(1945年)5月23日 | 山崎清次 |
参謀長
- 近衛師団
- 立見尚文 歩兵大佐:1891年(明治24年)12月14日 - 1894年6月14日[10]
- 鮫島重雄 工兵大佐:1894年(明治27年)6月18日 - 1896年10月15日[11]
- 松村務本 歩兵大佐:1896年(明治29年)10月15日[12] - 1897年9月28日[13]
- 大谷喜久蔵 歩兵大佐:1897年(明治30年)10月11日 - 1898年3月3日[14]
- 牟田敬九郎 砲兵大佐:1898年(明治31年)3月3日 - 1902年5月5日[15]
- 重見熊雄 砲兵中佐:1902年(明治35年)5月5日[16] - 1906年5月14日[17]
- 藤室松次郎 砲兵大佐:1906年(明治39年)5月14日[17] - 1909年11月30日[18]
- 藤井幸槌 歩兵大佐:1909年(明治42年)11月30日 - 1912年4月12日[19]
- 内野辰次郎 歩兵大佐:1912年(明治45年)4月12日- 1913年2月24日[20]
- 蟻川五郎作 歩兵大佐:1913年(大正2年)2月24日 - 1915年2月15日[21]
- 種子田秀実 歩兵大佐:1915年(大正4年)2月15日 - 1917年8月6日[22]
- 大内義一 歩兵大佐:1917年(大正6年)8月6日 - 1918年7月24日[23]
- 太田黒竜亮 騎兵大佐:1918年(大正7年)7月24日 - 1920年8月10日[24]
- 竹内栄喜 歩兵大佐:1920年(大正9年)8月10日 - 1922年1月10日[25]
- 寺内寿一 歩兵大佐:1922年(大正11年)1月10日 - 1924年2月4日[26]
- 細木研 歩兵大佐:1924年(大正13年)2月4日 - 1926年3月2日[27]
- 猪狩亮介 砲兵大佐:1926年(大正15年)3月2日 - 1927年7月26日[28]
- 青木政喜 砲兵大佐:1927年(昭和2年)7月26日 - 1930年8月1日[29]
- 周山満蔵 歩兵大佐:1930年(昭和5年)8月1日 - 1932年12月7日[30]
- 柴平四郎 砲兵大佐:1932年(昭和7年)12月7日 - 1934年3月5日[31]
- 沢田茂 砲兵大佐:1934年(昭和9年)3月5日 - 1935年3月15日[32]
- 岡田実 砲兵大佐:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年8月1日[33]
- 小林浅三郎 歩兵大佐:1936年(昭和11年)8月1日 - 1937年11月1日[34]
- 麦倉俊三郎 歩兵大佐:1937年(昭和12年)11月1日[35] - 1939年3月9日
- 西大條胖 歩兵大佐:1939年(昭和14年)3月9日 - 1941年5月29日[36]
- 今井亀次郎 大佐:1941年(昭和16年)5月29日 - 1942年2月18日[37]
- 小畑信良 大佐:1942年(昭和17年)2月18日 - 1943年3月18日[38]
- 大平秀雄 大佐:1943年(昭和18年)3月18日[39] - 1943年6月1日
- 近衛第1師団
- 岩崎春茂 中佐:1943年(昭和18年)6月10日 - 1944年11月27日[40]
- 小野打寛 大佐:1945年(昭和20年)1月9日 - 1945年6月1日[41]
- 水谷一生 大佐:1945年(昭和20年)6月1日[42] - 1945年8月15日[43]
- 石川晋 大佐:1945年(昭和20年)8月15日 - 1945年9月10日復員[43]
- 近衛第2師団
- 近衛第3師団
近衛師団に属した軍人
- 伊東祐俊(佐賀藩):近衛歩兵第一聯隊大隊長、水戸連隊区司令官。日露戦争の奉天会戦・黒溝台会戦において近衛師団第一軍聯大隊長として先陣隊を指揮する。
- 滋野清彦(長州藩):日清戦争時、現役復帰して留守師団長を務めた。
- 梅沢道治(仙台藩):日露戦争では、近衛歩兵第4連隊長から近衛後備混成旅団長となり、沙河会戦で梅沢旅団の名を挙げる。
- 森林太郎(津和野藩):1898年(明治31年)10月 - 近衛師団軍医部長(陸軍一等軍医正)となる。
- 土屋光春(陸軍兵学校卒):明治時代に近衛歩兵第1旅団長。
- 白川義則(陸士旧1期):1886年(明治19年)近衛工兵中隊(工兵科下士官)。1902年(明治35年)2月に近衛師団参謀。
- 橘周太(陸士旧9期):1888年(明治21年)12月に近衛歩兵第4連隊附となる。1895年(明治28年)12月に近衛歩兵第4連隊中隊長となる。
- 久松定謨(フランス・サンシール陸軍士官学校卒(旧11期相当)):1891年(明治24年)12月に近衛歩兵第2連隊附(陸軍歩兵少尉)。1895年(明治28年)1月近衛師団副官(陸軍歩兵中尉)。日清戦争に出征。1897年(明治30年)12月近衛歩兵第2連隊中隊長(陸軍歩兵大尉)。1914年(大正3年)5月11日に近衛歩兵第1連隊長。
- 三井清一郎(陸士6期):明治30年代に近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる(陸軍歩兵大尉)。
- 真崎甚三郎(陸士9期):近衛歩兵第1連隊長。
- 篠塚義男(陸士17期):1914年(大正3年)9月歩兵第1連隊中隊長(陸軍歩兵大尉)。
- 東條英機(陸士17期):近衛歩兵第3連隊中隊長(陸軍歩兵大尉)経験あり。
- 前田利為(陸士17期):1923年(大正12年)8月7日 - 近衛歩兵第4連隊大隊長、後年に近衛歩兵第2連隊長となる。
- 阿南惟幾(陸士18期):近衛歩兵第2連隊長。
- 原守(陸士25期):近衛歩兵第4連隊長。歩兵第23旅団長を経て留守近衛司令部附。
- 栗林忠道(陸士26期):1943年(昭和18年)6月 - 留守近衛第2師団長(陸軍中将)。
- 李王垠(陸士29期):1939 - 1940年に近衛歩兵第2旅団長。
- 岩畔豪雄(陸士30期):陸軍中野学校設立後、1941年(昭和16年)8月10日 - 1942年(昭和17年)2月3日、近衛歩兵第5連隊長。
- 西久保豊成(陸士33期):1921年(大正10年)10月26日 - 近衛歩兵第3連隊附(陸軍歩兵少尉)。
- 中橋基明(陸士41期):近衛歩兵第3連隊第7中隊。二・二六事件の首謀者の一人。
- 北白川宮永久王(陸士43期):1931年(昭和6年)10月 - 近衛野砲兵連隊附(陸軍砲兵少尉)、1937年(昭和12年)3月 - 近衛野砲兵連隊中隊長(陸軍砲兵大尉)。
- 小泉親彦(東京帝大医学部卒):1932年(昭和7年) - 近衛師団軍医部長(陸軍軍医監)。
- 黒田長久(東京帝大理学部動物学科卒):第二次世界大戦中、近衛師団に属した。
- 木越二郎:1939年(昭和14年)3月9日 - 1940年(昭和15年)3月9日、近衛師団に属した。
最終所属部隊
以下は近衛歩兵連隊のみ。
- 近衛第1師団
- 近衛第2師団
- 近衛第3師団
脚注
- ^ なお、内閣府の一機関である宮内庁と、警察庁の附属機関である皇宮警察本部とはあくまで別組織である。
- ^ 一族や郷土の誇りとして、縁談が多く舞い込み地元の名士から一席設けられることも多かった
- ^ 「天皇の護衛を掌る部隊のため、主に美男子が採用された」という証言が広く聞かれるが、元近衛兵によっては「必ずしも美男子が多かったわけではない」と証言している者も居り、はっきりしない。
- ^ 『官報』第8079号、明治43年5月30日。
- ^ 『官報』第1766号、大正7年6月22日。
- ^ 作表は昌弘社 編輯部「最新百科知識精講」昌弘社、1930年(昭和5年)、741頁の資料に基づいた。
- ^ ノーベル書房編集部編『陸軍郷土歩兵聯隊写真集 わが聯隊』 ノーベル書房、1979年。p93,95
- ^ 『官報』第3711号、明治28年11月9日。
- ^ 『官報』第8449号、明治44年8月19日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』22頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』30頁。
- ^ 『官報』第3993号、明治29年10月19日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』30頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』53頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』49頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』69頁。
- ^ a b 『官報』第6860号、明治39年5月15日。
- ^ 『官報』第7932号、明治42年12月1日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』75頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』93頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』99頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』103頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』115頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』122頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』143頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』171-172頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』170頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』190頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』208頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』221頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』230頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』256頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』311頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』312頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』374頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』424頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』418頁。
- ^ 『帝国陸軍編制総覧』771頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』451頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』447頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』454頁。
- ^ a b 『帝国陸軍編制総覧』1184頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』449頁。
- ^ 『帝国陸軍編制総覧』852頁。
- ^ 『帝国陸軍編制総覧』1298頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』453頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』444頁。
- ^ 『帝国陸軍編制総覧』1121頁。
参考文献
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。