中島正武
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中島 正武(なかじま まさたけ、1870年10月4日(明治3年9月10日) - 1931年2月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]高知県土佐郡小高坂村(現・高知市)にて[1]、中島正篤の息子として生まれる。海南中学校、陸軍幼年学校を経て、1890年7月、陸軍士官学校(1期)を卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科20番/103名で卒業している。翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。日清戦争に出征。1899年12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。
歩兵第3連隊中隊長、参謀本部出仕、参謀本部員などを経て、日露戦争では大本営運輸通信長官部参謀であった。第1師団参謀、東京衛戍総督部参謀、歩兵第68連隊長、ロシア大使館付武官、参謀本部課長などを歴任し、1915年1月、陸軍少将に昇進した。
参謀本部付となり、第一次世界大戦に観戦武官としてロシア軍に従軍。1916年の閑院宮載仁親王のロシア皇帝訪問の際には随員を務めた[2]。歩兵第30旅団長、参謀本部第2部長、ハルピン特務機関長、浦塩派遣軍参謀などを経て、1919年1月、陸軍中将となった。参謀本部第2部長、兼同総務部長、第2師団長、近衛師団長を歴任。1923年8月、待命となり、翌月、予備役に編入された。その後、賀陽宮宮務監督、日露協会会長を勤めた。
1931年、東京代々木の自邸にて死去。墓所は青山霊園[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1915年(大正4年)11月7日 - 勲二等旭日重光章・大正三四年従軍記章[4]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[5]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[6]
家族親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 高知新聞社 1999, 556頁.
- ^ 1916年閑院宮載仁親王のロシア訪問―来露100年を記念してセルゲイ・チェルニャフスキー、東京大学史料編纂所研究紀要 第27号 2017年3月
- ^ 『官報』第2576叙任及辞令」1892年2月4日。
- ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854。
関連項目
[編集]- 日和山 (名取市) … かつて「中島山」「中嶋山」とも呼ばれた。