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大平秀雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
対米英蘭開戦を告げる大平報道部長

大平 秀雄(おおひら ひでお、1898年明治31年)12月4日[1][2] - 1995年平成7年)1月20日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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香川県出身[1][2][3]。農業・大平万太良の二男として生まれる[1]。旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校33期)を卒業[1][2][4]。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第22連隊付となる[1][4]。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校43期)を卒業し歩兵第22連隊中隊長に就任[1][2][3]

1932年(昭和7年)12月、参謀本部付勤務となる[1]。以後、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、中国駐在(南京香港)を経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級[1]。1937年(昭和12年)4月、歩兵第27連隊大隊長に就任し、同年10月、第2軍参謀に発令され日中戦争に出征[1]。1938年(昭和13年)7月、歩兵中佐に昇任し、同年11月、第21軍参謀に就任[1]。1939年(昭和14年)9月、陸大教官に発令され帰国[1][3]。1941年(昭和16年)8月、陸軍大佐に進んだ[1][3]

1941年10月、大本営陸軍報道部長に就任[1][3]。1942年(昭和17年)3月、歩兵第239連隊長に発令され臨汾に駐屯[1][2][3]。1943年(昭和18年)3月、近衛第2師団参謀長に発令され太平洋戦争に出征し、スマトラ島の警備を担った[1][2][3]。1944年(昭和19年)4月、第25軍参謀に転じ、1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進んだ[1][2][3]。同年7月、陸軍歩兵学校付に発令され帰国[1][2][3]。同年8月、東部軍管区参謀副長に就任[1]。同年10月、東京連隊区司令官となり、同年12月に復員した[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

戦後

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復員後は故郷の三豊郡に戻り、讃岐罐詰株式会社に職を得て、同社専務取締役、社長を務める[6]。退任後は再び東京に移ったが、12歳下の正芳存命中は選挙の度に故郷に帰ってその運動を見守った[要出典]。1995年死去、96歳歿(享年98)。

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本陸海軍総合事典』第2版、38頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』160頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』449頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』446、449頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。
  6. ^ 新修財田町誌』662-663頁。
  7. ^ 『軍人スポークスマンの戦争 ~大本営発表の真実~』NHK 2022年12月17日放送

関連項目

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参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 新修財田町誌編纂委員会編『新修財田町誌』香川県三豊郡財田町、1992年。