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「神道」の版間の差分

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日本国憲法には信教の自由が定められている。したがって、勝手に「日本の心だ」と断定するのは矛盾である。
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2019年1月8日 (火) 13:26時点における版

神道(しんとう・しんどう[1])とは、霊魂観念(アニミズム)や巫術(シャーマニズム)から由来している、日本民族宗教[2]祖先神自然神への尊崇・崇敬を中心としており[3]古代に成立して以降は仏教儒教キリスト教などの外来諸宗教・思想から影響されて多様に展開した[4]。「神道(しんどう)」はまた神祇へ行く、墓道、墓門を指す[3]

「神道」という漢字二文字は中国で作られた成語であり、儒教道教呪術方術仏教キリスト教をも意味した[4]江戸時代日本では本居宣長二宮尊徳山崎闇斎らの説によって、「神道」とは神の神々の道、天照大神の道、神勅に仕え奉ることであると説かれるようになった[5]自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた[6]

天照大御神の孫であるニニギノミコトが降臨した高千穂河原
樹齢約3000年の武雄神社御神木

概要

国産みを描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯画、ボストン美術館所蔵)

神道は古代日本に起源を辿ることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では何教と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。伝統的な民俗信仰自然信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[7][8]。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である[9]

神道には確定した教祖、創始者がおらず[10]キリスト教聖書イスラム教コーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが[11]、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている[12]森羅万象が宿ると考え、天津神・国津神祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[13]。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」であるといわれる[14]。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌〔わらべうた〕『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。

神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。一方で伊勢神宮のように早くから神仏分離して神事のみを行ってきた神社もある。明治時代には天皇を中心とした国民統合をはかるため、全ての神社で神仏分離が行われた。

神道と仏教の違いについては、神道地縁血縁などで結ばれた共同体部族など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や救済国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[7]

神道は日本国内で約85,000の神社が登録され約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札等の呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[15]

分類

神道は、

皇室神道(=宮中祭祀
皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道である[16]。皇室神道では、新年の四方拝歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭(天皇即位後初の新嘗祭は大嘗祭という)などが行われる[17]
神社神道
神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[18]
民俗神道
民間神道ともいう。民間でおこなわれてきた信仰行事をいう。道祖神田の神山の神竈神など。修験道密教仏教、あるいは道教の思想と習合している場合も多い。いざなぎ流なども入る。
教派神道(神道十三派)
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い。
古神道(≒原始神道)
江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構され、復古神道古道・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう。
国家神道
特に近代(明治維新より第二次世界大戦終結まで)において国家の支援のもとにおこなわれた神道を指す名称である[19][20]
橘家神道(きつけしんとう)
橘諸兄子孫である玉木正英江戸時代家伝宗教から興した神道。口伝や秘伝が多く「鳴弦」「蟇目」「守符」「軍陣」などの秘儀を行ったとされる。その一方、吉田神道陰陽道の影響も受けていると言われる。橘家神道はほぼ消滅したとされるが、その修法思想などが民間信仰に残っていると言われる[21]
雲伝神道(うんでんしんとう)
慈雲が説いた神道。慈雲は真言宗僧だが、仏教色を感じさせず、古事記日本書紀を中心にした復古神道的思想で、日本世界の要とし「真心」を重要視した神道を興した。また儒教的な面もあったが、明治以降に断絶した[21]
三輪流神道(みわりゅうしんとう)
僧の慶円が説いた奈良の三輪山を中心に、三輪伊勢の神を一体とし、大日如来を含めた神道。大神神社にて両部神道神仏混交の影響などを受け、室町時代に発生し、伊勢神道真言宗陰陽道なども混ざり合った信仰明治時代に廃絶に至るも、一部に細々と存続しているという[22]。能「三輪」に影響を与えている。
烏伝神道(うでんしんとう)
賀茂規清が江戸時代に興した神道説。万物や現象等は神霊霊魂が影響するという思想。また誕生は「幸魂」、は「奇魂」が作用すると説いた。しかしその教義は人を惑わすとして、規清は、流罪になり、死去した。烏伝神道は廃絶したが、その一部は禊教に継承された[22]

以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。

また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。

  • 祭り型神道(社人神道 - 儀礼を中心とする)
これは上記の「皇室神道」「神社神道」「民俗神道」等のことである。

以上のように分けられる[16]。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道の一つではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない。

由来と教義

春日大社にて、おみくじを結ぶ人々
一般家庭で祀られる神棚
神社本庁東京都渋谷区代々木)

神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている[14]

「神道」という名称については「かんながらの道(神道)[23]」と言う意味である。中国の『易経』や『晋書』の中にみえる[24]神道は「神(あや)しき道」と言う意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。同様のケースに、卑弥呼の時代の宗教感に対し鬼道という表現がなされるが、これは当時の中国における鬼道が異国の諸宗教に対して用いられていた[25]ことからも、日本での呼称とは全くの別物であることが分かる。

日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが[26]、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[27][28]

解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説[29]、稲作の様な自然の理法に従う営みを指して神道とする説などがある[29]

明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始め、同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[30]、学問上でも「神道」の語が確立した[31]

もともと、神道にはイエス・キリスト釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった[13]。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」[32]だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。

実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道をはじめとして、吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく[33][34]。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、近世以降の儒家神道も勢力はさほどではなかったものの、そこで主張された名分論は各神道説に影響を与え、尊王攘夷思想を広めるとともに討幕の国民的原理ともなっていった。

近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた[35]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。

神道における「神」

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利の後、天照大神が最高の神格を得たが[36]、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い[29]

大洗磯前神社の神磯の鳥居
厳島の戦い

気象、地理地形等の自然現象に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める[29]。いわゆる「八百万の神々」である[29]アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている[37]。詳細は神道における神を参照のこと。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神[29]。 自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」が行っていた仕事の一つである。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の神は地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている(荒魂・和魂[29]。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったと捉えることが出来る[38]

人間も死後神になるという考え方があり、社会的に突出した人物や、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物なども、「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[29]

神道の研究

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[29]。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[39]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[40]

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[41]

戦前の教科書の神と神代

戦前は、学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史についての、以下の説明がある。 「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである。」[42][43]

現代の神道

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[44]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人の一つである。

皇室と神道

天皇陵(仲哀天皇・恵我長野西陵)
皇室の祖先神を祀る伊勢神宮内宮
1990年(平成2年)今上天皇大嘗祭
大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣と国民安寧を祈る神道祭祀である。

宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つことが上げられる[37]。また、神道の信仰の対象としての天皇とその祖先神の存在がある[37][29]

多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。

歴史

神話

古代

奈良時代

平安時代

  • 延喜式(第9-10巻を通常「神名帳」と称し、全国の朝廷、国司が祭る社格を定めた一覧表になっている)

中世

近世

近代

参拝の方法

簡易な参拝

厳島神社(広島県廿日市市)

以下は一般的な参拝の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。

参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清めるが必要である。これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが[47]、現代であれば、一般参拝では入浴シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居神門をくぐる際は「小揖(身体を15度折り曲げる礼)」するのが望ましい。このときには脱帽し、服装もきちんと整えるようにする。

次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。これは拍手と神拝詞奏上を行なう手口(さらには)を清める意味合いを持つ、一つの禊である。手水の作法としては、

  1. まず、手水舎の前で小揖する。
  2. 柄杓を右手で持って水をすくい、その水を左手にかけて清める。
  3. 柄杓を左手に持ち替え、右手を洗い清める。
  4. 柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。
  5. これらが終わった後、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。
  6. 洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチなどでぬぐう。
  7. 最後にもう一度小揖する。
  8. これらの作法は一連の動作で行うのが好ましい。

なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水を使い終わったら拝礼をおこなうために参道を通り社殿へと向かう。神前ではまず神への供物として(供物を捧げる他にお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する[48]。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う[47]、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる[49][50]

鈴鐘を鳴らした後に拝礼をおこなう。拝礼の基本的な作法は「再拝二拍手一拝」である[47]。すなわち、

  1. 拝(身体を90度折り曲げる礼)を二度おこなう。
  2. 拍手を二度打つ。より具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせてを出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め最後に両手を下ろす[51]
  3. 一拝する。
  4. 神拝詞を奏上する場合は、再拝→神拝詞奏上→再拝二拍手一拝の順で行う。

というもの。再拝二拍手一拝の前後に深揖(身体を45度折り曲げる礼)を行うとより丁寧である。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に氏名及び居住地と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、神恩感謝を述べたい場合も同様である。かつて、拝礼の作法は各神社によってさまざまだったが、現在の再拝二拍手一拝に統一されたのは第二次世界大戦後である。現在でも一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社[47]宇佐神宮彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている[52]

への供物
厳島神社に奉納された酒樽。手前に千福が見える。
香取神宮、御田植祭御斎田での供物。香取市。

注意事項

  • 身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要がある[47][53]死穢の観念からである[54]
  • 神前に捧げる御饌は、火を通したもの(熟饌)を供える場合神聖な炎として厳粛に起こされた火を用いるのが望ましい[55]
  • 一部で女性は音をたてて拍手してはいけないという珍説を信じる者がいるが、間違いである。音を微かにたてる拍手は「忍び手」と言って、葬儀のためのものであり、性別は関係ない[56]

神道諸派

脚注

  1. ^ 松村明ほか (2018年). “デジタル大辞泉”. 小学館. 2019年1月8日閲覧。
  2. ^ 須藤隆仙『世界宗教用語大事典』新人物往来社、2004年、543頁。ISBN 978-4404031389 
  3. ^ a b 須藤隆仙『世界宗教用語大事典』新人物往来社、2004年、544頁。ISBN 978-4404031389 
  4. ^ a b フランク・B・ギブニー『ブリタニカ国際大百科事典』 10巻(第2版改訂版)、ティビーエス・ブリタニカ、1993年、360頁。 
  5. ^ フランク・B・ギブニー『ブリタニカ国際大百科事典』 10巻(第2版改訂版)、ティビーエス・ブリタニカ、1993年、365-366頁。 
  6. ^ 岡田荘司 2010年 p.22-23
  7. ^ a b 『世界大百科事典』 217-218頁。
  8. ^ 『神道』 12-13頁。
  9. ^ 岡田荘司 2010年 ⅲページ
  10. ^ 岡田荘司 2010年 ⅲページ
  11. ^ 神道国際学会のホームページ”. 2016年4月28日閲覧。
  12. ^ 長野県神社庁のホームページ”. 2016年3月24日閲覧。
  13. ^ a b 『神道』 18頁。
  14. ^ a b 大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 三笠書房
  15. ^ 日本の宗教人口-2億と2-3割の怪の解-” (PDF). 武蔵野大学仏教文化研究所 渡辺浩希. 2014年7月3日閲覧。
  16. ^ a b 『神道』 20頁。
  17. ^ 主要祭儀一覧”. 宮内庁. 2018年5月24日閲覧。
  18. ^ 『世界大百科事典』 219頁。
  19. ^ 『神道』 134頁。
  20. ^ 教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった。宮沢俊義『憲法講話』(第2版)岩波書店岩波新書〉、1967年6月1日(原著1967年4月20日)、pp. 28-29頁。 現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の宗教法人法により、多くの神社が政府機関から伊勢神宮を中心とした神社本庁傘下の宗教法人へと変更された経緯がある。石原藤夫 『靖国神社一問一答』(展転社、2002年12月23日) 26頁。
  21. ^ a b 『神道ガイド』村上書店1996年1月30日発行222頁中180頁
  22. ^ a b 神道の本-八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 2) 出版:学習研究社 1992/3 ISBN 978-4051060244
  23. ^ 表記例として、『日本文徳天皇実録』(9世紀成立)仁寿元年(851年)に、「神那我良(かんながら)」の記述がみられる。
  24. ^ 『世界大百科事典』 216頁
  25. ^ 武光誠 『邪馬台国と卑弥呼の事典』 東京堂出版、96頁。
  26. ^ 即位前紀。
  27. ^ 『世界大百科事典』 216-217頁。
  28. ^ 『神道』 16頁。
  29. ^ a b c d e f g h i j 三橋健 『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社
  30. ^ 磯前順一『近代における「宗教」概念の成立過程』 第3巻(初版)、岩波書店〈近代日本の文化史〉(原著2002年1月15日)、p. 185頁。ISBN 400011073X 
  31. ^ 山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版、1995年。
  32. ^ 万葉集』巻第13「柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く」。国歌大観番号3253番。
  33. ^ 『世界大百科事典』 218-219頁。
  34. ^ 『神道』 128頁。
  35. ^ 『日本史大事典』平凡社1993年、「国家神道」の項参照。
  36. ^ 『古神道の本』 学研 30頁。
  37. ^ a b c 菅田正昭 『面白いほどよくわかる神道のすべて』 日本文芸社
  38. ^ 直木孝次郎の説、1982年。岡田荘司 2010年 24ページ
  39. ^ 『神道の本』 学研 174、175頁。
  40. ^ 岡田荘司 2010年 ⅴページ
  41. ^ 岡田荘司 2010年 15-16ページ
  42. ^ 石原藤夫 『靖国神社一問一答』(展転社、2002年12月23日) 52頁。
  43. ^ 前田晁 『少年國史物語』 早稲田大学出版部
  44. ^ 『神社』 136頁。
  45. ^ 大日本神社志, 第 1 巻、出版:大日本敬神会本部, 大日本敬神会 編, 1933
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参考文献

関連項目

外部リンク