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サマリア人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲリジム山のサマリア人(2006年)。

サマリア人(さまりあじん、さまりあびと)とは、時代によって意味が変わるが、主にサマリア地方の住民、特にイスラエル人アッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々やその子孫、およびサマリア教徒のことをいう。

概要

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サマリア人はホロンテルアビブ近郊)とシェケムナブルス)を中心に住む人々。北イスラエル10部族のうちエフライム族マナセ族に加え、レビ族の末裔を自認している。独自の宗派サマリア教ヘブライ語版英語版を信仰している。2016年現在、初代アロンから数えて137代目と伝わる独自の大祭司とその家系図を擁している[1][2]

シェケムに住むサマリア人はイスラエルヨルダンパレスチナ自治区パスポートを持つため、タクシーやトラック輸送など物流にかかわる仕事に就く者も多い[1]

全盛期には300万人を擁していたが、長年の支配と迫害によって1917年には147人にまで減ってしまった。その後、改宗者の女性を配偶者として受け入れるなどして、2015年には777人にまで回復した[1]

歴史

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サマリアは北イスラエル王オムリが築いた都であったが、アッシリアサルゴン2世の攻撃により紀元前721年に陥落。住民は捕囚の民となり指導的地位にあった高位者は強制移民により他の土地に移され[3]、サマリアにはアッシリアからの移民が移り住んだ。このとき旧イスラエル王国領の残留イスラエル人と、移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれた。

彼等は少なくとも紀元1世紀頃のユダヤ人たちから、サマリア人が自分たちと同じ神を崇めるのは「『列王記』下17:27-28にあるように、戻ってこられた北イスラエル王国の祭司が布教したから」として、北イスラエル王国と直接関係ないアッシリア系移民の子孫と見られていた(後述のフラウィウス・ヨセフスユダヤ古代誌』第9巻277-290節にこうした記述がある)。

また、アレクサンドロス大王の時代にゲリジム山に独自に神殿を築いたこともユダヤ人たちからよく思われず、ハスモン朝ユダヤ王国のヨハネ・ヒルカノス1世によるサマリア地方侵攻時(BC128年)に前述のゲリジム山の神殿が破壊されるという事態が起こっている[4]

なお『列王記』の記述(偶像崇拝多神教的な要素があったなど[5])で誤解されやすいが、サマリア教はアッシリア捕囚の直後はともかく、西暦1世紀頃までには、ヤハウェを唯一神とし、偶像崇拝は行わず[6]モーセをもっとも偉大な預言者として、割礼安息日といったユダヤ教と同じ風習も持っていたが、相違点として聖地エルサレムではなくゲリジム山であり、モーセ五書(トーラー)は聖典であったが他の書(ユダ王国起源のものなど)は聖典に加えなかったなどがあり、特にユダヤ教のファリサイ派とはトーラーにない宗教的規定を守るかどうかで考えが異なっていた(なお、サドカイ派は規定についてサマリア人と同じように「トーラーを守ればよい」としていた)[7]

『ユダヤ古代誌』第9巻の記述などを見る限り、この時代のユダヤ人がサマリア人を嫌ったのは異教徒や異民族との混血ではなく[8]「自分たちを都合によってユダヤ人と同族扱いしたり、逆に他からの移住者で関係ないとする日和見的な人たちだ」といったように見ていたためらしい(同書290節附近[9])。

もっとも、ユダヤ人たちもサマリア人を完全に異民族として見ていたわけではなく、前述のヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でもユダヤ人の領域を上げる際にサマリアが入っていたり[10]、ラビたちもタルムードでサマリア人を異教徒扱いにするかユダヤ人に準ずるかで意見が分かれたり[11]、キリスト教の『マタイの福音書』にもイエスの弟子たち(主にガリラヤ在住のユダヤ人)が、サマリア人を異民族に入れるのか否なのか迷うらしい描写がある[12]

これ以外にも新約聖書にはしばしば登場し、イエスの福音を受け入れたものも多かった[13]。また、イエスも彼等を迫害の対象とはせず、「隣人」として受け入れていた[14]

ローマ帝国時代の37年、ユダヤ総督のポンテラス・ピラトゥス(ピラト)が、ゲリジム山に臨時の礼拝に来たサマリア人を暴動目的の集結と思い、軍を用いて強引に鎮圧させ死傷者多数発生。後日サマリア人の指導者が上記の虐殺は冤罪だとピラトゥスの上司のシリア総督に訴えた結果、ピラトゥスは更迭された[15]

ユダヤ総督がクマノスの時代[16]、エルサレムへ向かうガリラヤ人複数人がサマリアのギナエという村で殺害される事件が発生、クマノス総督の対応が悪いと不満を持ったユダヤ人たちとサマリア人たちとの間に抗争が起き、最終的にクマノスが流刑になるほどの問題となる[17]

66年ユダヤ戦争勃発でシケム近郊のサマリア人たちも蜂起し、ゲリジム山に集まるがウェスパシアヌス将軍率いるローマ軍に鎮圧された[18]

東ローマ帝国ゼノン皇帝の時代、サマリア人が反乱を起こすが鎮圧され、彼らのシナゴーグがキリスト教会に改変される[19]

現在、ユダヤ人たちとは和睦が成立し、ユダヤ教徒の一派として認められている。

サマリア人の人口は、長年の迫害や同族内での結婚が続いた結果、20世紀初頭には150名程度の集団になってしまった。その後ユダヤ人女性との通婚などで、2007年には700名余りに回復したものの、依然厳しい状況は続いている。特に男性の結婚難が深刻で、近年ではロシア東欧に新婦となる女性を求める動きが見られるが、伝統的なサマリアの習俗への服従等が足かせとなって、思うようにはいっていないようである。

さらに、ヨルダン川西岸地区の帰趨によっては、サマリア人は聖地を捨ててユダヤ人に同化するか、それともゲリジム山に逼塞して平和を待つかという、厳しい選択を迫られることになる。

「善きサマリア人」

善きサマリア人

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逸話の内容

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有名なイエスの説法に、「善きサマリア人」の逸話がある。

ある律法の専門家が立ち上がり、彼を試そうとして言った、「先生、わたしは何をすれば永遠の命を受け継げるのでしょうか」。
イエスは彼に言った、「律法には何と書かれているか。あなたはそれをどう読んでいるのか」。
彼は答えた、「あなたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神なる主を愛さなければならない[20]。そして、隣人を自分自身のように愛さなければならない[21]。」
イエスは彼に言った、「あなたは正しく答えた。それを行ないなさい。そうすれば生きるだろう」。
しかし彼は、自分を正当化したいと思って、イエスに答えた、「わたしの隣人とはだれですか」。
イエスは答えた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。同じように一人のレビ人も、その場所に来て、彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。ところが、旅行していたあるサマリア人が、彼のところにやって来た。彼を見ると、哀れみ[22]に動かされ、彼に近づき、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、世話をした。次の日、出発するとき、2デナリオンを取り出してそこの主人に渡して、言った、『この人の世話をして欲しい。何でもこれ以外の出費があれば、わたしが戻って来たときに返金するから』。さて、あなたは、この三人のうちのだれが、強盗たちの手中に落ちた人の隣人になったと思うか」。
彼は言った、「その人にあわれみを示した者です」。
するとイエスは彼に言った、「行って、同じようにしなさい」。 — 『ルカによる福音書』第10章第26~37節

祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのは、両者は祭礼にかかわる人物であり、人命救助より祭礼を優先したとする説。また、同じく祭礼にかかわる人物には「死体に触れてはならない」禁忌があり、被害者がもし死んでいたならば、禁忌に反することになることを恐れたため[23]という説がある。

このことから、「善きサマリア人」とは、「そのことによって、自分が不利益を被るリスクを顧みず人助けをする行為」を指すようになった。

年表

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有名なサマリア人

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サマリア人協会

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サマリア人協会という団体があり、メンタルヘルスをサポートするイギリスチャリティー団体として活動を行っている[24]

脚注

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  1. ^ a b c 臼杵陽鈴木啓之『パレスチナを知るための60章』明石書店、2016年4月10日、59頁。ISBN 978-4-7503-4332-7 
  2. ^ 早尾貴紀 (2019年12月3日). “「パレスチナの民族浄化」の完成形態としての「ユダヤ人の国民国家法」”. Webあかし. 明石書店. 2021年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月28日閲覧。
  3. ^ 当時捕囚は被征服民族を支配する上で一般的な方法だった。
  4. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第13巻255-256節。なお、神殿なきあともゲリジム山はサマリア人の聖地として礼拝の場となった。
  5. ^ 『列王記』下17:29-41など
  6. ^ マカバイ記2』6:2-3で「ゲリジム山の神殿で地元の人の要望でゼウス信仰が行われた」、またタルムードにも「サマリア人が偶像を崇めている」という文章があるのだが、これは「都市の方のサマリア(マケドニア王国軍によって植民が行われ、ヘレニズム文化の影響が強かった。)の住人」と民族としてのサマリア人(シケムを中心に済むようになった)の混同の可能性がある(E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽安達かおり馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻、P46)。
  7. ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻、P28-30
  8. ^ 筆者のヨセフスはサマリア人について同書の278-279節で「イスラエルの全住民がメディアペルシアに連れていかれ、代わりにクタという土地から連れてきた民族を定住させた。」、288-290節で「クタ人は祭司から教えられた後は熱心にいと高き神(注:ヤハウェのこと)に奉仕した」「クタ人はギリシャ人がサマリア人と呼ばれている人達。」という記述をしており、サマリア人を「イスラエル人とは混血も何もそもそも無関係だったが、教えを受けてからは我々と同じ慣習を現在に至るまで守るようになった人たち」と認識していたようである。
  9. ^ この文章は他にも何度か出てくるうえ、前後の文脈とのつながりが不自然なものもあるので、当時のユダヤ人のサマリア人へのステレオタイプイメージの文句を挿入した可能性がある。
  10. ^ 基本的に「ガリラヤペレア、サマリア、(狭義の)ユダヤ」の名を上げる。なお「サマリアがヘロデ王の領地やユダヤ属州に入っているからユダヤの領域」というわけではなく、双方に含まれるイドメアはヨセフスは数えない。
  11. ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻、P39・46
  12. ^ マタイの福音書』10:5でイエスが十二使徒にも初めて布教をさせる時、今は地元(ガリラヤ地方)限定と「異邦人の土地に行くな」と言った後「サマリア人の町にも行くな」と念を押すくだりがある。
  13. ^ ルカの福音書』第17章11-19、『ヨハネの福音書』第4章。ただし『使徒行伝』に第8章にはサマリアできちんと福音を受け入れたものに交じって、下心ありきでキリスト教に入ったシモンという男が出てくる(民族的なサマリア人なのか、サマリア地方在住者のどっちかは不明)。
  14. ^ ただし、少なくとも「別の地域の人」という認識はしていたらしく、上記の『マタイの福音書』10:5で「異邦人の土地」にサマリアも入っていたり、『ルカの福音書』17:17などで病気が治ってお礼を言いに来たサマリア人を「この他国の人」と呼んだとされる。
  15. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』第18巻、85-89節
  16. ^ 西暦48~52年
  17. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』第2巻、233-246節。および『ユダヤ古代誌』第18巻、118-136節。
  18. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』第3巻
  19. ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻、P46。
  20. ^ 申命記』第6章4節から5節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
  21. ^ レビ記』第19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
  22. ^ 佐藤研「キリスト教はどこまで寛容か(その1)」『福音と世界』2007年8月号、新教出版社、p.41 には「腸(はらわた)のちぎれる想い」とある
  23. ^ 『レビ記』21:1-4・11によると、「祭司は屍に近寄ってはいけない」、「親戚であっても両親・自分の子供・兄弟・姉妹(未婚限定)以外の死体に触れることは許されない」とある。
  24. ^ メンタルヘルスのプロ5人が実践する「セルフケア術」[リンク切れ]

関連項目

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外部リンク

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