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2016年11月10日 (木) 23:42時点における版

たかくら けん
高倉 健
高倉 健
本名 小田 剛一(おだ ごういち)
生年月日 (1931-02-16) 1931年2月16日
没年月日 (2014-11-10) 2014年11月10日(83歳没)
出生地 日本の旗 日本 福岡県中間市[1]
死没地 日本の旗 日本 東京都
身長 180 cm[2]
血液型 B型[2]
職業 俳優歌手
ジャンル 映画テレビドラマCM
活動期間 1955年 - 2014年
配偶者 江利チエミ1959年 - 1971年
主な作品
電光空手打ち
流星空手打ち
暴力街
日本侠客伝シリーズ
網走番外地シリーズ
昭和残侠伝シリーズ
新幹線大爆破
八甲田山
幸福の黄色いハンカチ
冬の華
野性の証明
懲役三兄弟
君よ憤怒の河を渉れ
あなたへ
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1977年
幸福の黄色いハンカチ』 / 『八甲田山
1981年
『動乱』 / 『遥かなる山の呼び声
1982年
駅 STATION
2000年
鉄道員(ぽっぽや)
ブルーリボン賞
主演男優賞
1977年
『幸福の黄色いハンカチ』 / 『八甲田山』
1999年
『鉄道員(ぽっぽや)』
その他の賞
モントリオール世界映画祭
主演男優賞
キネマ旬報賞
主演男優賞
1977年
『幸福の黄色いハンカチ』 / 『八甲田山』
1999年
『鉄道員(ぽっぽや)』
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高倉 健[注釈 1](たかくら けん、1931年昭和6年)2月16日 - 2014年平成26年)11月10日)は、日本俳優歌手。愛称、健さん。福岡県中間市出身、身長180cm、体重71kg血液型B型[2]。高倉プロモーション所属。石原裕次郎勝新太郎と並び日本を代表する映画スターで、半世紀以上にわたり活躍してきた。代表作は映画『日本侠客伝シリーズ』、『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』、『南極物語』、『ブラック・レイン』、『鉄道員(ぽっぽや)』、『あなたへ』など。1998年紫綬褒章2006年文化功労者2013年には文化勲章を受章した。

来歴

俳優になるまで

1931年福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[3]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシング英語に興味を持った[3]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[3]。英語は小倉米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[3]旧制東筑中学福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。

大学を卒業したが思ったような就職先がなく一旦帰郷した。家業を手伝っていたが、10か月後に上京[注釈 2][要出典]1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサーマキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[4]。同期に今井健二丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。

主演スター

ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという[5]。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。その後、アクション喜劇刑事ギャング青春もの戦争文芸作品ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍し、1960年代前半まで時代劇映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵中村錦之助美空ひばりの映画などにも助演していた。また、自らを厳しく律してを飲まず、筋力トレーニングを続けていた。

仁侠映画

1963年に出演した『人生劇場 飛車角』以降、仁侠映画を中心に活躍[6][7][8]、耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した[9]。本作を切っ掛けに、翌1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる[6][9][10][11]。『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ[12]1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている[注釈 3]

70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマン学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが[6]、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 4]。当時の風貌は、劇画ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという[注釈 5]

独立

映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに、ハリウッド映画や東映以外の作品にも出演していたが、1970年に「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する[14][15]。しかし翌1971年8月に大川が死去。社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと反故にされた[14][16]

1972年11月、高倉の海外旅行が「高倉健 蒸発」「仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た」と報道された[14][17]。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの[14][17]1973年には『仁義なき戦い』がヒットすると[18]、岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」[19]実録路線に変更したため[17][20]、高倉と岡田の関係は悪化[21][22]。「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり[23]、東映作品の出演を拒みだすようになってしまう[14]。そんな矢先に当時海外で流行中だったパニック映画に触発され東映が企画していた大作『新幹線大爆破』の台本を手にする。本作の企画の面白さに高倉は新幹線に爆弾を取り付ける犯人グループの主犯・沖田哲男役を希望し本作の主演を務めることとなる。高倉がこれまで演じてきた役柄とは大きく異なるキャラクターではあったが、従来のイメージを一新するステップアップ作となり、また海外にも輸出され本作はヨーロッパで空前の大ヒット作となる。その後、高倉は1976年に東映を退社した[21][22][24]

フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である[25]。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。

1994年前後にハリウッド映画『ブラック・レイン』で一緒に仕事をしていたヤン・デ・ボンがハリウッド版『ゴジラ』の監督に就任した際に劇中に登場する日本人科学者役を高倉にオファーし快諾、ハリウッドに渡米してスクリーンテスト撮影を行い日本のメディアでも報じられるなど出演する準備を整えていた。しかし当時の制作会社だったトライスター・ピクチャーズが制作予算の懸念からヤン・デ・ボンを監督から降ろす処置を取ったため高倉も出演を取りやめている。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の4位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第2位になった。

2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

晩年

2006年4月に北京電影学院客員教授に就任。同年11月に行われた天皇・皇后両陛下主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席[26]

2012年8月、前作『単騎、千里を走る。』から6年ぶり、205本目の主演作品となる映画『あなたへ』で銀幕復帰。11月27日、本作により「第37回報知映画賞」主演男優賞を受賞した。高倉の同映画賞での受賞は1977年に『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』で主演男優賞を受賞して以来、35年ぶりである[27]。本作では12月6日に発表された「第25回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞」でも主演男優賞を受賞。作品は石原裕次郎賞を受賞した。2013年1月22日に発表された日本アカデミー賞優秀主演男優賞にも選出されたが、「若い人に譲りたい」との理由で、これは辞退している。受賞辞退は2002年の『ホタル』以来2度目となる。10月10日には「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優としての存在感」により、第60回 菊池寛賞に選出された。授賞式は欠席し、代理人を通じて「思いがけない受賞で驚いています。非常に光栄です。ありがとうございます」とのコメントを寄せた[28]

2013年10月25日、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定[29]11月3日、皇居で親授式が行われた[30]。親授式後の記者会見で高倉は、「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている[31][32]。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している[5]

主演となる次回作の映画『風に吹かれて』の準備をしていたが[33]2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去[34][35]。満83歳没(享年84)。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われ[36]、終わった同月18日に高倉プロモーションから「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉が添えられたFAXでその死が発表された[33][34][36]。5年ほど前に前立腺癌で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた[33]。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず[注釈 6]、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた[33]

没後

高倉の訃報を受け、各界から追悼が寄せられた。

芸能界では東映ニューフェイスの後輩で長年交遊し共演してきた千葉真一が「日本の映画界にとって、そしてわたくしにとって大変大事な方の訃報に今でも信じられない気持ちです[38]。人生においても俳優としても唯一尊敬し続けた方でした[39]」と話し絶句した[38]。高倉が出演した『あゝ同期の桜』(1967年)でメガホンをとった映画監督中島貞夫は「役作りに執念を持ち、役と一体になりきる人だった。存在をすべてかけて映画を撮っていた希有な俳優だった」と振り返り[39]、『駅 STATION』の脚本を手がけた倉本聰は「あれだけ健康に留意していた健さんが私より先に亡くなるなんて。自分より年下でも、相手が板前さんでもタクシー運転手でも駅員さんでも、きちんと立ち止まって礼をする人だった」と沈痛な様子で語り惜しんだ[39]。『南極物語』で共演した渡瀬恒彦は「東映に入社して45年、私にとってずっと『親方』の様な存在でした。突然のことで、只々言葉もありません」と偉大なる先輩の死を悼んだ[40]。遺作となった『あなたへ』(2012年)で共演した浅野忠信Twitterで「ご冥福をお祈りします。本当に悲しいです。ありがとうございました」[40]、『あ・うん』(1989年)で共演以来、公私ともに付き合いがあった板東英二は「つい一週間前に健さんの事務所に直接お伺いし、お手紙を預けてきた所でした。いつもご丁寧な方がお返事が来ずに不思議だと思っていましたが、驚きで声も出ません」と突然の訃報を驚いた[40]。高倉の新たなイメージを作った『新幹線大爆破』(1975年)をはじめ、複数の高倉主演映画の演出を担当した佐藤純彌は「時代を背負ったスターと共に仕事が出来たことは幸せでした。決して死なないような気がして訃報を聞いた時は、ひとつの時代が終わったことを実感しました」と希代のスターをしのんだ[40]。『捨て身のならず者』など高倉の数々の出演作のメガホンを執り、遺作となった『あなたへ』を演出、幻となった次回作もタッグを組む予定だった降旗康男は「残念の一語に尽きる」とそのひと言に万感の思いを込めた[41]

スポーツ界からは親交のあった長嶋茂雄が「彼から教わったことは多かった」と追悼の辞を発表[42]政界では石原慎太郎が「最後のビッグスターだった。名声が長くもった希有な人だった」と悼んだ[43][44]

文化大革命直後の1979年に『君よ憤怒の河を渉れ』が公開された中華人民共和国では、日本で高倉の死去が報じられると、中国中央電視台新聞聯播』を始め、地方テレビ局もニュース番組で一斉に報じたほか、同日夜には、中国中央電視台は25分に渡り特集を組んだ[45]中華人民共和国外交部報道局洪磊報道官は18日の定例記者会見で「高倉健さんは中国人民だれもが良く知る日本の芸術家であり、中日の文化交流の促進に重要かつ積極的に貢献した。われわれは哀悼の意を表す」と談話を出した[46]

11月19日には、歌手として「唐獅子牡丹」などのヒット曲を放った功績が評価され、高倉に2014年度『第56回日本レコード大賞』特別栄誉賞が贈られることが発表された[47][48]が、所属事務所の意向によりそれを辞退した事が12月17日に発表された。

12月発表の『キネマ旬報』による『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優4位となった[49]

2016年、高倉の記録映画『健さん』が第40回モントリオール世界映画祭 ワールドドキュメンタリー部門 最優秀作品賞を受賞[50]

人物

人柄

礼儀正しい人物であり、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う[3]

千葉真一は高倉を“一生あこがれの存在で永遠の師匠”と公言している[51]。「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった[51]」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた[51]」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった[51]」、「(千葉が)東映労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた[3]」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった[51]」と語っている。

気持ちの通じ合った共演者には「高倉健」という名前を彫った高級ブランドの腕時計をプレゼントしており[52]ビートたけし[52]、千葉真一[52]田中邦衛[52]渡瀬恒彦、板東英二、宇崎竜童石倉三郎中井貴一[要出典]らが貰っている。田中も高倉をこよなく尊敬し、出かける際にはその時計を身に付けている。『あなたへ』で共演した岡村隆史は撮影現場での取材中、「岡村! 嘘ばっか言ってんじゃないよ(笑)!」と近寄ってきた高倉から、「忘れもんだよ」と高倉の私物であるポルシェ911のキャップ(帽子)にオリジナルのバッジが添えられた物を、プレゼントされている。[要出典]

ブラック・レイン』で共演したマイケル・ダグラス大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃。その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた[53]。『君よ憤怒の河を渉れ』が中華人民共和国に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており[54]、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。高倉のファンである映画監督・張芸謀は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している[注釈 7]

夜叉』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉がロケ現場へ激励に現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた[55]

上記の人柄や1984年日本生命のCMでの「自分、不器用ですから」の台詞で朴訥・寡黙なイメージがあるが、これは作られたもので、実際は常に誰かが側に居てほしいと言うほどに話好き・悪戯好きで、ユーモアを交えながら共演者やスタッフを和ませている。またロケ先では周辺を散策し、地元の住民との交流も欠かさない。「『不器用ですから』って、何となく、そういう僕はイメージなんだろうなと……そんなことはねぇよって、どっかで思ってますけど」と実際の自分とパブリック・イメージとの違いを語っている。[要出典]

漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした[56]

志村けんには自ら電話を入れ、『鉄道員(ぽっぽや)』の出演を要請。「お笑い一本」との姿勢を一貫していた志村を口説き落とした。留守番電話に高倉直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「健さんの申し出があったのに出演しないとは言えず、断れなかった」と振り返っている。この時の録音テープは、家宝として今も大切に保存しているという[要出典]

第23回日本アカデミー賞に出席した岡村隆史は、高倉に長年のファンであることを伝えた。この時、主演作『無問題』で話題賞を受賞し、「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」との受賞スピーチで会場から笑いが巻き起こる中、高倉は独りにこやかに立ち上がって拍手を送った。2010年、岡村が病気で半年にわたり療養した際にも電話や手紙で激励しており、岡村は高倉の遺作となった『あなたへ』で共演を果たしている[57]

役作り・姿勢

余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る[58]仕事に対する姿勢の一端として「親族の葬儀なども一度も参列していないし、それを理由に撮影中止にしてもらったことはない。それは自分にとってのプロとしてのプライドであり、課してきたこと」「(この仕事に就いた時から)捨ててるもんだと思いますよ。捨てなくたって、やろうと思えばできるんだもんね」と語っている。『あ・うん』撮影時に母親を亡くした時も葬儀には参列せず、軽妙な役柄を演じ切った[要出典]

「俳優は肉体労働」というのが信条で筋力トレーニングジョギングを欠かさなかったが、2012年時点ではウォーキングストレッチを日課としており、起床するとマウスピースを噛み、脳へ刺激を与えていた[58]。酒を飲まず、煙草も1日に80本も吸うヘビースモーカーであったが、映画『八甲田山』が3年がかりの長期ロケとなったため、完成の願掛けに正月の成田山の初詣の際、禁煙して以来、30年以上絶っている[59][注釈 8]。都内に居る時には毎日、血糖値測定や健康チェックを行い、朝食ではミューズリーグラノーラなどのシリアルにプレーンヨーグルトをかけたものを常食とし、毎日しっかり摂ることで体のリズムを整える。体型を維持するため、大好きな甘い物も我慢し、夕食まで殆ど食べない生活を続けており、ウオーキングも欠かさず行い、ウエストも体重も何十年も維持し続け、細心の注意を払ってきた[58]

自身は賭け事も一切せず、麻雀好きの片岡千恵蔵からは「麻雀ができないで、なんで良い役者になれるか 健坊」と何度も怒られたが、結局覚える事は無かったという。また銀座のような歓楽街に出ていくこともしない。この事については「変わってると言えば、変わってるのかもしれないね。だから『色気が無い』とか言われちゃうんじゃないの? やっぱりそっちを少しは勉強しておかなくちゃいけなかったのかもしれない。でももう遅いからね、それは……」と述懐している[要出典]。このような仕事への真摯な姿勢は北大路欣也も影響を受けたと述べている[60]

撮影現場で座らないということについて「疲れますよ、やっぱり。ただ、座ると何となくもう…。だんだん精神的にファイトが無くなるような気がして、立っていたほうがいいなと…」と自分に課した事のひとつである事を明かしている[要出典]一方では「たけちゃんがあっちこっちで『座らない』『火に近づかない』なんて言うもんだから、おいそれと出来なくなった」と冗談にして答えている。「撮影現場でも座りますよ」とも語っているが、それはあくまで「座っている場面を演じている時に……」である[要出典]何よりも「現場に居てこそ感じられる事がある。その場の景色や空気、スタッフの努力など、見ていて鳥肌が立つ思いの時がある。だからこそこに居たい」「自分よりもお金を貰っていない人たちのほうがはるかに頑張っている。現場はそうした人たちによって成り立っている。そんなことに気づくまで何十年もかかった」と、出番以外も常に現場に立ち続ける事への思いを語っている[要出典]

完全なオフの期間を含めて都内にいる時にはほぼ毎日、40年来懇意にしている港区高輪にある理髪店に通い、髪を切っている。ここには高倉専用の個室が用意されており、撮影に入る際には店主と髪型を打ち合わせて、役柄のイメージでカットしてもらう。この個室で長時間過ごす事もあり、高倉の私物も数多く持ち込まれている。事務所からの連絡を受けるためにFAX電話も設置されている[要出典]

常に感性に磨きをかけ、「感じやすい心」を保っておくために、読書や刀剣・美術品鑑賞、映画、音楽など、常に気に入ったものに触れる機会を作り、海外旅行へも出かけていく。撮影に際して、台本のカバーや裏表紙には有名、無名に関係なく、気に入った「心を震わせる」フレーズや詩歌などを貼りつけたり、忍ばせて持ち歩いている。『あなたへ』の撮影では、相田みつをの詩や会津八一の短歌など[58]と一緒に、雑誌に掲載されていたという東日本大震災の被災地での1コマを撮影した写真[注釈 9][61]も一緒に貼りつけて持ち歩いていた。山本周五郎の著作のフレーズや、主人公の生き方について書かれた木村久邇典の『男としての人生 - 山本周五郎のヒーローたち 』[注釈 10]もお気に入りの1冊として持ち歩いている。長期間の撮影の中では、ベテランの高倉でも感情のコントロールが出来ない時があり、そうしたときは持っているこうした物にすがっているという。また台本だけでなく、自宅の洗面所などにもこうしたものが貼られており、気持ちを盛り上げている。この事について「俳優ってそれほど頼りないものなんですよ」と語っている[58]

映画『網走番外地』ではヒロインもラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の映画となって売り上げが見込めないと予算をカットされた。添え物映画でモノクロ作品にすると社長の大川博に言われ、意見すると「嫌なら主演を梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまう。仕方なくロケ地の北海道で撮影に入ったが、監督の石井輝男がなかなかやって来ない。スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井が窓の隙間から雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていた。高倉は「この映画をヒットさせるためなら…。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもするぞ」とスタッフに漏らし、『網走番外地』シリーズは計18作の大ヒットシリーズとなった[62]

1976年に東映から独立以降、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分が本当に納得できる作品を選んで出演している。一方で、「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」も信条としている[要出典]。初の松竹出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンカツ丼を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。

1983年に『居酒屋兆治』の準備をしていた矢先、映画監督・黒澤明から「鉄修理(くろがねしゅり)」役で『』への出演を打診されている。「でも僕が『乱』に出ちゃうと、『居酒屋兆治』がいつ撮影できるかわからなくなる。僕がとても悪くて、計算高い奴になると追い込まれて、僕は黒澤さんのところへ謝りに行きました」と述懐している。黒澤は当初から高倉を想定してこの役をつくり、自ら高倉宅へ足繁く4回通った。「困ったよ、高倉君。僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗康男君(『居酒屋兆治』の監督)のところへ謝りに行きます」と口説いたが、高倉は「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが僕には出来ない。本当に申し訳ない」と丁重に断った。黒澤から「あなたは難しい」と言われたが、その後偶然『乱』のロケ地を通る機会があり、「畜生、やっていればな……」と後悔の念があったと語っている結局、この役は井川比佐志が演じている。[63][注釈 11]

東映を離れ、フリーに転じてから、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れ、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としている。それは、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、“深い喪失感”に関係しているという。特に『あなたへ』に主演する前には、自身最長となる6年間の空白期間が生じた。前回主演した日中合作の映画『単騎、千里を走る。』の後、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと『あなたへ』の出演を決めたことについて、「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ。」と、その心情を初めて漏らしている[64]

交友

東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は外国人の友人・知人が多い[3]千葉真一は高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に、千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を目の当たりにしている[3]

かつて東映内には千葉真一・梅宮辰夫山本麟一山城新伍など、高倉を慕う人達で集まって遊ぶ「野郎会」というものがあった[3]。名の由来は「男(野郎)ばかり」なのと「何でもやろう」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の幹事が決めた遊びをしていた[3]。高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が幹事の時には遊郭に行って、お大尽遊びの真似事をしていた[3]明治大学の先輩で東映ニューフェイスでも1期上である山本も高倉と仲が良く、この集まりに参加していた[3]。『網走番外地シリーズ』『昭和残侠伝シリーズ』で共演した潮健児は自伝『星を喰った男』の中で、「面倒見がよく、周囲に気を遣い、傍に誰か話し相手が居ないとしょげてしまう程の寂しがり屋」「大勢役者が揃って『何かやる』という時、その言いだしっぺは大抵、健さんだった」と回想している[65]

石原裕次郎とは同時期にデビューし、共演経験が無かったが親交があり、お互いに「健さん」「裕ちゃん」と呼びあう仲だった。[要出典]長嶋茂雄との親交は互いの若い時からつとに知られており、正月には成田山新勝寺にて初詣を共に行っていたこともある[66]。長嶋の長男である一茂1999年12月3日に箱根神社で結婚式を挙げた時、冠婚葬祭の類にはめったに現れない高倉が出席したので、結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。村田兆治の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある[67]仰木彬は高校の後輩。

山口組三代目田岡一雄とも親しい[68]。田岡を江利チエミとの結婚披露宴へ招待したり、江利と共に清川虹子の自宅で田岡や美空ひばり小林旭夫妻とも親交した[69]。酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり「受け取れ」と強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めてもらった[69]。田岡が1965年(昭和40年)に心筋梗塞危篤に陥り、面会謝絶だったが高倉は江利を伴い、見舞いに訪れた[70]。後に『山口組三代目』『三代目襲名』で高倉は田岡を演じることとなるが、撮影現場を訪ねてきた田岡に激励されている[71]

ビートたけしとは1985年の『夜叉』で共演以来親交があり、互いに「健さん」「たけちゃん」と呼び合う仲であった[52]

2005年8月12日、『網走番外地』シリーズの石井輝男監督が死去。石井の遺志により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建立され、2006年8月5日、納骨の儀が執り行われた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである[72]

2009年11月、同年8月に亡くなった女優大原麗子の墓参に訪れ、掃除をし、30分以上語りかけていたことが2010年8月に報じられた[26]

草彅剛へ自ら手紙を書いて以降、草彅とは文通や電話のやり取りをしており、二人で食事をしていたり、草彅を自宅へ招き入れるなどの親交があった。遺作『あなたへ』で共演している[73]。同作に関する授賞式では、自身の代理出席を草彅に頼んだ[74]

2012年10月2日、『あなたへ』で共演した大滝秀治肺扁平上皮がんのため、87歳で死去。訃報を受け、公式に「大滝さんの最後のお仕事の相手を務めさせていただき、感謝しております。本当に素晴らしい先輩でした。静かなお別れができました。」とのコメントを発表した[75]

2013年6月5日横浜市のロイヤルホールヨコハマで行われた勝新太郎の『17回忌を偲ぶ会』では渡哲也藤村志保らとともに発起人に名を連ね、会場にも足を運んでいる[76]

2014年、8月26日に亡くなった米倉斉加年のお別れの会が10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発した[77]

趣味

趣味は旅・乗馬ライフル射撃・車・刀剣の収集など。コーヒーと夜更かしが好きで、若いころはよく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。自身も「自分は遅刻魔だった(笑)」と告白している。

好きなミュージシャン大塚博堂である。友人にもらったカセットテープを聞いて、「自分にない何かがある」と感銘を受けたことがきっかけだった。デビュー曲「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」はじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた作詞家の藤公之介に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。しかし、その後間もなく大塚が急死したため、「夢のコラボ」は幻に終わった。大塚の曲では「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「旅でもしようか」「ふるさとでもないのに」を特に気に入っている。直接対面することは無かったが、大塚のメモリアルイベントなどでは、一ファンとして何度かメッセージを贈っている。千葉真一野際陽子の結婚10周年記念には「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」をBGMにして、自ら祝辞をカセットテープに録音してプレゼントしており、千葉と野際からとても喜ばれた。

東日本大震災の発生後、メディアでよく聴く機会が増え、以来毎日のように聴くようになった曲として山下達郎の「希望という名の光」を挙げており、台本のカバーに歌詞カードを忍ばせている[要出典]

キリン生茶」のCMで共演した総合格闘家宇野薫によると、高倉は格闘技にかなり詳しく「休憩中に健さんから『UFCの試合をよく観ていますよ。応援しています』と話しかけられ驚きました」と語っている。

世界で一番好きな場所はハワイ。このことについて沢木耕太郎に「ドスを片手に敵地に乗り込む高倉健とハワイの取り合わせは意外なようだが、それは何故か」と問われて、高倉は「人が温かい」ことと、東映時代に過酷なスケジュールをこなしている中で、たまの休みにハワイの海岸で寝て過ごす解放感がたまらなかった、と述懐している[78]

江利チエミ

1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で江利チエミと結婚。3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった[79]。江利の異父姉が様々なトラブルを起こし、結婚に悪影響を及ぼしたとされる[注釈 12]。江利側からの申し入れで1971年9月3日に離婚した。離婚原因は江利チエミの親族にまつわるトラブルからである[80]。その後、高倉は女性との交際の噂はあったものの、再婚はしなかった。一方、離婚から11年後の1982年2月13日に、江利は脳卒中吐瀉物誤嚥による窒息のため、45歳の若さで不慮の急死を遂げている。葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた[81]

1962年の主演映画『三百六十五夜』は、東映東京撮影所の所長兼取締役・岡田茂がなかなか芽の出ない高倉をスターにするため、江利・美空ひばり雪村いづみ三人娘鶴田浩二の共演で企画された作品だった[82][83][84]。岡田は江利に「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」とオファーしたが、「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた[82][83][84]。高倉は岡田から「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて、勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけられ、奮起を促されたという[82][83][84]

岡田茂と俊藤浩滋

岡田茂(元東映社長)と俊藤浩滋プロデューサーは高倉の育ての親である[8][11][85][86]。高倉はいきなり『電光空手打ち』で主演デビューを果たしたように会社の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった[87]。そこで岡田が一計を案じ、トップスターである美空ひばりの相手役を務めさせることで知名度を上げ人気を高めさせようとした[87]。こうして製作されたのが『べらんめえ芸者』シリーズで、高倉は二作目以降、美空の相手役として出演している。しかし一連の作品で高倉は芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、イモっぽい雰囲気が漂った[87]。粋さが求められるひばりの相手役には違和感があり、ひばりも高倉と組まされ続けることに不満タラタラで、岡田がひばりに毎回頼み込むことで共演を成り立たせた[87]。燻り続ける高倉に岡田は「今の路線ではダメだから、アクションスターになれ。あなたほどの立派な顔だったら、スターになれるよ」と日活から引き抜いた井上梅次監督の『暗黒街最後の日』を始め[82][88]アクション映画に出演させアクション路線に転換させた[82][88]。当時東京京都撮影所所長を歴任しながら東映作品のラインナップを事実上指揮していた岡田は[89]、高倉には話すよりその立ち姿に魅力があると踏み、台本に目を通し「高倉のセリフをどんどんカットしろ」と指示した[86]。俳優の特徴や育て方を直感的に見抜く岡田の才能は群を抜いていた[86]1963年に岡田が企画して「仁侠映画」の魁となった『人生劇場 飛車角』では高倉を準主役に抜擢[6][7][84][90][91][92]。本格的な大作の準主役は初の抜擢だった[93]。高倉は本作で任侠映画のスターとしての足掛かりを掴むが[84]、さらに翌1964年の『日本侠客伝』でも出演を渋る中村錦之助に代わり、岡田が高倉を主演に抜擢して[94][95]高倉は東映の看板スターにのし上がった[84][95][96][97]。一部の文献に「『日本侠客伝』での高倉の主役抜擢は俊藤が決めた」と書かれた物があるがそれは考えにくい[注釈 13]。寡黙な立ち姿と目力が岡田と俊藤浩滋が手掛けた任侠シリーズでその威力を発揮した[86]。元々、高倉の担当は岡田であったが、大川博社長(当時)が俊藤の方が合うんじゃないかと勧め、担当を徐々に切り替え高倉は俊藤と組んで仕事をするようになった[92]

その他

祖先は鎌倉時代執権北条家の一門である名越氏の一族・刈田式部大夫と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった[3]。当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった[3]江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだ いえこ)は先祖にあたる[98]

バラエティ番組トーク番組への出演は『スター千一夜』『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)、『土曜大好き!830』(関西テレビ)、『徹子の部屋』(テレビ朝日)や、親交のある田中邦衛北大路欣也と3人で出演した1980年の『すばらしき仲間』(中部日本放送)程度であったが、平成になってからは、新作映画のプロモーションを兼ねて『SMAP×SMAP』(1997年9月15日、関西テレビ・フジテレビ)や、2001年5月17日には『クローズアップ現代』「第1424回 高倉健 素顔のメッセージ」(NHK)で国谷裕子からのインタビューを受けている。ちなみに『SMAP×SMAP』(BISTRO SMAP)にゲスト出演したこの回は、2005年12月26日に放送された同番組の特番『SMAP×SMAP 歴史的瞬間全部見せます!! 史上最強の4時間半SP!!』で視聴者から寄せられた『BISTRO SMAP名場面リクエスト』第1位に輝いている。

草彅剛にサプライズで出演したいという高倉自らの希望が実現し、2012年8月に放送された生放送のテレビ番組に生で出演した。同番組の放送内容は主演映画『あなたへ』の公開に際しての高倉健特集で、当映画に出演し高倉と共演した草彅が生出演することは告知され、前述の理由から高倉が生出演することは草彅のみならず視聴者にも事前に知らされなかった。同番組には、草彅が撮影外のことで、高倉に呼ばれてホテルで二人で朝食をとったときのエピソードを話している最中に登場した。高倉にとって15年ぶりのテレビ番組のゲスト出演で、高倉が生放送の番組に出演するのは初[73]、かつ、生涯で一度きりのこととなった[52]。翌月8日と『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル』と10日に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健インタビュースペシャル』(NHK)では『あなたへ』の撮影現場への長期密着取材に応じ、俳優生活56年にして初めて自身のプライベートに関することや本音、俳優としての信条などの一部を明らかにしている。

オレたちひょうきん族』に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがあるが、それを聞いた高田文夫は「『タケちゃんマン』に弟子の“ケンちゃんマン”を出そう」と提案している[99]

理想の俳優はジャン・ギャバンで、決して大仰でない抑えた芝居に徹しながら(ジャン・ギャバンが演じている、という)存在感があり、それでいながら神父からギャングに至るまで、どんな役柄を演じても似合う(作品の中で破綻をきたさない)「ああいう芝居を目指したい」という。「でも、役者の理想と実生活の理想は別だよね。ジャン・ギャバンって実生活は本当に不幸な、寂しい人生だったし……」とし、実生活での理想は、前妻シモーヌ・シニョレと死別後、1987年、38歳年下の秘書と結婚し、1988年、65歳にして長男を儲けたイヴ・モンタンを挙げ、「いいよねぇ。フランスの奴、みんな憧れてるよ」と語っている[要出典]感銘を受けた映画は『ゴッドファーザー』(1972年)、『ディア・ハンター』(1978年)だという[要出典]。特に『ディア・ハンター』では、主演俳優で親交のあるロバート・デ・ニーロが「あんな芝居はもう二度とできない」と語っていた事も含め、非常に大きな衝撃を受けた、と語っている。

1972年、東映の先輩である萬屋錦之介(年は高倉の方が1歳上)の勧めで神奈川県の鎌倉霊園に生前墓を建立している。この墓所内には上述にある、「この世に生を受けなかった我が子」のために、水子地蔵も建てられている[100]

TBSラジオの人気番組大沢悠里のゆうゆうワイドのファンであり、同番組からゲスト出演のオファーがあったが、映画撮影の為出演は叶わなかった。 後日、同番組宛に、その旨を伝える手紙を送っている。

高倉健と親しかった横尾忠則によると、高倉健は1970年(昭和45年)11月25日に起こった三島事件に触発され、三島由紀夫の映画を製作する予定だったという[101]。具体的プランも煮詰まり、ロスアンゼルスへ何度も渡航していた高倉健について横尾は、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんのが高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と述懐している[101]。ところが土壇場で未亡人(平岡瑤子)の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、多磨霊園に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「カメラを持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという[101]。ちなみに、三島由紀夫は、高倉健や鶴田浩二主演の任侠映画を好み、特に『昭和残侠伝 死んで貰います』を高評価していた[102]。三島事件当日も、市ヶ谷駐屯地へ向かう車内では、他の「楯の会」メンバーと『唐獅子牡丹』を歌っている[103]

受賞・受章

出演

☆太字は主演作品。

映画

東映(〜1975年)

1956年

1957年

1958年

1959年

1960年

1961年

1962年

1963年

1964年

1965年

1966年

1967年

1968年

1969年

1970年

1971年

1972年

1973年

1974年

  • 三代目襲名 - 主演田岡一雄 ※年度別日本映画の国内興行成績4位(2本立て)

1975年

東映以外

(1976年独立以降の東映作品含む)

ドラマ

テレビドラマ
ラジオドラマ

ドキュメンタリー

CM

追悼番組

  • 徹子の部屋「追悼・高倉健さん」 (2014年11月19日、テレビ朝日
  • 緊急追悼特番 高倉健さん83歳逝く 不器用な男の銀幕伝説 (2014年11月21日、フジテレビ)
  • 高倉健さん追悼特別番組 映画「南極物語」 (2014年11月21日、フジテレビ)

ディスコグラフィ

  • その灯を消すな (1958年
  • 野暮は言うなよ (1959年
  • 愛のブルース (1959年) ※作詞と作曲は江利チエミ
  • 網走番外地 (1965年
  • 男の裏町 (1965年)
  • 横顔 (1965年) ※B面「男の裏町」
  • 男涙の雨が降る (1965年) ※B面「唐獅子牡丹」
  • 男の誓い (1965年)
  • 唐獅子牡丹 (1966年
  • 霧の波止場 (1966年)
  • 男なら / 泣かせるぜ (1966年)
  • 男ごころ (1968年
  • 望郷子守唄 (1971年日本コロムビアの洋楽規格「L盤」としてリリース
  • はぐれ旅 (1975年
  • 朝顔の詩 (1976年
  • 男の忘れもの (1979年
  • 日本海 (1979年)
  • 時代おくれの酒場 (1983年※B面「幸せという奴は」(詩 朗読)
  • 挽歌 (1990年八代亜紀とデュエット。1991年三菱ふそう・ファイターのCMで流された。
  • あの人に似ている (1994年裕木奈江とデュエット
  • 約束 (1995年
  • 旅人 (1996年
  • 南極のペンギン 曲:宇崎竜童、集英社 ※CD

著書・参考文献・ウェブサイト

  • 『あなたに褒められたくて』 集英社文庫 (1991年)、ISBN 4-08-775148-1。集英社文庫で再刊 (1993年) 1993年の「第13回日本文芸大賞」エッセイ賞を受賞[115]2008年6月28日に『南の文芸館』(NHKラジオ第1、九州・沖縄ローカル)でこの書籍から3作が朗読された。
  • 『旅の途中で』 新潮社 (2003年)、ISBN 4-08-901151-5。新潮文庫で再刊 (2006年)
  • 『南極のペンギン』 集英社 (2001年)、ISBN 4-10-125411-7。集英社文庫で再刊 (2003年) 絵本。「自身の体験を子どもたちへ伝え、エールを送る」とのコンセプトで制作された[116]。絵を担当したのは唐仁原教久
  • 『想 俳優生活五〇年』 集英社 (2006年)、ISBN 4-08-747644-8 ※フォトエッセイ
  • 日刊スポーツ文化社会部 相原斎と日刊スポーツ特別取材班『健さんを探して 最後の銀幕スターの秘密』青志社、2015年6月9日。ISBN 978-4-86590-007-1 
  • 『私の八月十五日』今人舎(2015年)ISBN 4905530377。桂歌丸や村山富市と共に自身の経験が綴られている。教育機関専用に音声ガイドペン付きが700部ほど製造され、高倉健が音読した音声が収録されている。(この音声を録音したのは亡くなる直前でほとんど知られていないが実はこれが真の遺作なのである)

脚注

注釈
  1. ^ デビューした1950年代にはクレジット表記で「」をあてがう作品もある。
  2. ^ 大学時代に知り合った東京にいる女性を追いかける形で家出同然で戻ったと、2014年11月19日に追悼放送された『徹子の部屋』(1980年に『動乱』告知で出演)で「その女性とはうまくいかなかったですね 残念なことも多いんですよね まいったな」と語っている。
  3. ^ 高倉はこの曲を気持ちよく歌った事が1度も無いという。東映時代、年4回ほどキャバレーでの営業を指示されていた。嫌々ステージに上がると、酔客の歓声や罵声の中、ホステスが感激のあまり失神する騒ぎが起こる…などの経験から、以来、キャバレー営業はできるだけ断っていたという。しかし、映画1本のギャラが80万円のところ、キャバレーの1ステージは500万円と破格で、「お金を残そうと思ったら、キャバレー回りをしてたでしょうね。それで今頃は映画を作ってたかも知れませんね。」と語っている。また、映画『あ・うん』の時には撮影中、母親が死去し、周囲には一切伝えずに撮影に参加し続けたが、ある日の事、滞在先の旅館の大型モニターを使って「特報」や「予告編」のスタッフ試写が行われ、その後はスタッフのカラオケ大会となったが、高倉はとても加わる気になどなれなかった。しかし仲居が要らぬ気を利かせ、この曲を予約。「入ってますから」と声をかけられ、この上なく切ない気持で嫌々歌ったのも印象深いと語っている[13][出典無効]
  4. ^ 任侠映画の役作りについて「想像を一生懸命かきたててね。僕の(生まれ育った)町は『川筋』って(呼ばれるような)炭鉱町で乱暴な町だったのね。毎年、お盆の盆踊りのあった後って、必ず殺人があってね。朝、学校行く時、必ずそういう…ムシロがかけてあったりね。そういうのいっぱい見ましたよ、うん。だから僕は品のいい京都とかで生まれて育ってたら、とてもヤクザものはできてないでしょうね。」出身地の土地柄、気風、身近だった光景など、少なからず影響している事を語っている。『川筋』という俗称は北九州地区でかつての炭鉱労働者やその運搬に関わる港湾労働者、そうした人々の住んでいた地域などをさす言葉。川筋者とは俗に「頑固な荒くれ者、そうした気質」を言う。
  5. ^ 詳細は『ゴルゴ13 (1973年の映画)』の項を参照。
  6. ^ スポーツニッポンの取材では、世話をしていた知人が映画会社2社のトップにだけ病状を伝えていた[37]。2人が見舞った際には既に意識がなく、臨終にも病院スタッフだけが立ち会った[37]北九州市で暮らす縁戚も詳しい病状は伏せられていたので、その悲報に身内も驚いていた[37]
  7. ^ 中国では、大物俳優は現場でも威張り散らしているのがほとんどであるという。
  8. ^ 1983年の映画『南極物語』の極地ロケに際しては、撮影中の無事を祈願して大好きなコーヒーをクランクアップまで絶っている。
  9. ^ イタリア在住の作家、塩野七生が現地の雑誌に掲載されていた写真を紹介したもの。1人の少年(?)がうつむいて口を一文字に結び、歩いている。本人の物とは思えない、袖丈が余るフライトジャケット風のジャンパーにピンクの長靴姿。給水所から戻った様子で、両手には1本ずつ水が満杯に入った焼酎の大型ペットボトル……というもの。高倉は台本に貼りつけやすいようにB5判サイズしたものを持ち歩いていた。
  10. ^ 1982年グラフ社刊。 ISBN 4-7662-0025-X
  11. ^ 『南極物語』撮影前より黒澤サイドからのアプローチがあったという。学生時代からの憧れだった黒澤からの打診に気持ちが動き、何度か顔合わせをしていたが、極地ロケを終え帰国してみると、既に『居酒屋兆治』のプロジェクトが始動。函館での実景撮影が進行しており、諦めざるを得ない状況となっていた。この事について「黒澤監督には本当にご迷惑をおかけしました」と振り返っている。そんな経緯もあり『居酒屋兆治』は当初、「全く乗らない撮影だった」と語っており「現場では怒鳴りまくってましたからね……」と述懐している。しかし、仕上がった映画は「しみじみと味わい深い作品」となり「これも運でしょうね」と、今はこの時の決断に満足している旨を語っている。 - 2012年8月26日『日曜邦画劇場』(日本映画専門チャンネル)、「高倉健ロングインタビュー」での高倉の証言。
  12. ^ 離婚に至った原因は不仲によるものではなく、江利の異父姉が芸能人である江利を妬み、妹を貶めるため意図的に仕組んだ事が原因とされている。江利の異父姉が 家政婦・江利の付き人として小田家に入り込み、江利からの信用を得て実印を預かるなど、家族同然の立場になると、やがてふたりへ双方に、でっちあげの誹謗中傷を吹聴、相互不信となった夫妻を別居に追い込み、その後の離婚の足掛かりとした。また、夫妻の財産横領を行うようになり、発覚後も容疑を否定、週刊誌で反論や夫婦の私生活についてリークや誹謗中傷を展開するなど悪質・執拗なもので、挙句に失踪・自殺未遂騒動を起こしている。結局「これ以上(高倉健に)迷惑をかけられない」と江利側から離婚を申し出た。この異父姉はその後、江利自身により刑事告訴され、実刑判決を受けている。[要出典]。また1970年1月21日には当時世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)にあった邸宅を火災で焼失した。
  13. ^ 俊藤浩滋の著書『任侠映画伝』66-67頁に"私が高倉に『日本侠客伝』の主演をやってもらおうと直接交渉した"と書かれているが、119頁には"高倉に白羽に矢が立てられ〜"と書いており、高倉の主演起用は俊藤主導でないことが伺える。俊藤が実績を挙げたのは1964年の、ほぼ同時に公開されたこの『日本侠客伝』と鶴田浩二主演の『博徒』の第一作が大ヒットし、さらに後続の映画もヒットさせたことで力を付けていったもので『日本侠客伝』の一作目を製作中にはまだ実績はなく力もない。東映の大作の主演交代を俊藤が決定できるはずがない。京都に戻っていた岡田の使者として東京の高倉に交渉に行ったものと考えられる。
  14. ^ 30年来の親交がある永谷園取締役相談役・永谷明から和紙にしたためた出演依頼の手紙を送られ、そこに記されていた永谷の兄で創業者・永谷嘉男への思いに感動し、CM出演を決意した。- 2012年8月26日『日曜邦画劇場』(日本映画専門チャンネル)、「高倉健ロングインタビュー」での高倉の証言。
  15. ^ 「不器用でも信頼のおける会社でありたい」という企業理念と企画趣旨に共感し、文化勲章受章後初のCM出演が決まった。またCMソングには高倉と同郷の井上陽水の「少年時代」が採用され、移動の車中でもよく井上の曲を聴いていた高倉は「いつか彼の曲をBGMに演技がしたいと思っていました」と話した。なお、所属事務所の意向もあり、哀悼の意を込めて没後も放映が続けられている。
出典
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外部リンク