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「フランク・ライカールト」の版間の差分

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{{サッカー選手
{{サッカー選手
|名前=フランク・ライカールト
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|画像=Frank Rijkaard (2007).jpg
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|本名=フランクリン・エドムンド・ライカールト<br />{{lang|nl|Franklin Edmundo Rijkaard}}
|愛称=フランク、パイン、ブラックスワン<ref name=goal>{{cite web|url=https://www.goal.com/it/notizie/frank-rijkaard-il-cigno-nero-centrocampista-dominante-di-milan-ajax-e-olanda/1izn0u9sp98cc1fkqv2odi3k42|title=Frank Rijkaard, 'Il Cigno' nero centrocampista dominante di Milan, Ajax e Olanda|website=GOAL.COM|date=2022-10-30|accessdate=2023-8-27|language=it}}</ref>
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|利き足=右足
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|ユース年1=1973-1979|ユースクラブ1={{Flagicon|NED}} {{仮リンク|AFCドース・ウィルスクラフト・ステルク|label=AFC DWS|en|AFC DWS}}
|クラブ={{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]<br />{{flagicon|POR}} [[スポルティングCP]]<br />{{flagicon|SPA}} [[レアル・サラゴサ]](lorn)<br />{{flagicon|ITA}} [[ACミラン]]<br />{{flagicon|NED}} アヤックス
|ユース年2=1979-1980|ユースクラブ2={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|年=1980-1987<br />1987-1988<br />1987-1988<br />1988-1993<br />1993-1995
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|出場(得点)=206 (46)<br />0(0)<br />11 (0)<br />142 (16)<br />55 (19)
|年2=1987-1988|クラブ2={{Flagicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]|出場2=0|得点2=0
|年3=1987-1988|クラブ3=→{{Flagicon|SPA}} [[レアル・サラゴサ]](loan)|出場3=11|得点3=0
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|年5=1993-1995|クラブ5={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]|出場5=55|得点5=19
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|代表={{NLDf}}
|代表1={{NLDf}}
|代表年1=1981-1994<ref name="rsssf">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/rijkaard-intl.html|title= Frank Rijkaard - International Appearances|publisher=rsssf.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>
|代表年=1981–1994
|代表出場得点=73 (10)
|代表出場1=73|代表得点1=10
|監督年1=1998-2000|監督チーム1={{NEDf}}
|監督年=1998–2000<br />2001–2002<br />2003–2008<br />2009-2010<br />2011-2013
|監督チーム={{NEDf}}代表<br />{{flagicon|NLD}} [[スパルタ・ロッテルダム]]<br />{{flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]<br />{{flagicon|TUR}} [[ガラタサライ]]<br />{{KSAf}}代表
|監督年2=2001-2002|監督チーム2={{Flagicon|NLD}} [[スパルタ・ロッテルダム]]
|監督年3=2003-2008|監督チーム3={{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]
|監督年4=2009-2010|監督チーム4={{Flagicon|TUR}} [[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライSK]]
|監督年5=2011-2013|監督チーム5={{KSAf}}
}}
}}
'''フランク・ライカールト''''''Frank Rijkaard'''[[1962年]][[9月30日]] - )は、[[オランダ]]・[[アムステルダム]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]([[ミッドフィールダー|ボランチ]])、[[ディフェンダー (サッカー)|DF]](センターバック)。[[スリナム]]系オランダ人。
'''フランク・ライカールト'''こと'''フランクリン・エドムンド・ライカールト'''({{lang-nl|Franklin Edmundo Rijkaard}}, [[1962年]][[9月30日]] - )は、[[オランダ]]・[[アムステルダム]]出身の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは主に[[ミッドフィールダー]]([[ミッドフィールダー|ボランチ]])、[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]](センターバック)。[[スリナム]]系オランダ人。


様々なポジションをこなす[[ユーティリティープレイヤー|ユーティリティ性]]<ref name="マルチ500-501">[[#国吉 2006|国吉 2006]]、500-501頁</ref>、身体能力だけでなく的確な判断に基づいた守備力、中盤の底で正確なパスを散らすゲームメイク力を併せ持ち<ref name="マルチ500-501"/>、現役時代には「最も現代的なサッカー選手<ref>[[#地球の歩き方編集室 2005|地球の歩き方編集室 2005]]、319頁</ref>」「トータルミッドフィールダー<ref name="フリエロス175">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、175頁</ref>」と評された。[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]では1988年の[[UEFA欧州選手権1988|UEFA欧州選手権]]優勝、クラブレベルでは[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]や[[ACミラン]]で国際タイトル獲得に貢献した<ref name="マルチ500-501"/>。引退後は指導者に転じ、オランダ代表や[[FCバルセロナ]]などの監督を務めている<ref name="マルチ500-501"/>。
1988年から1990年代前半の[[イタリア]]・[[ACミラン]]の黄金時代を支えた「[[オランダトリオ]]」の1人。指導者としては[[2003年]]から[[2008年]]まで[[FCバルセロナ]][[監督]]を務め、リーグ2連覇や[[UEFAチャンピオンズリーグ]]制覇などを達成した。


== 経歴 ==
== 生い立ち ==
オランダ領ギアナ(後の[[スリナム|スリナム共和国]])出身のプロサッカー選手だった父{{仮リンク|ヘルマン・ライカールト|label=ヘルマン|en|Herman Rijkaard}}<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、44-45頁</ref>とオランダ人の母との間に生まれる。幼少の頃から背が高く運動能力に恵まれていた<ref name="フリエロス47">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、47頁</ref>ことや父や3歳上の兄の勧めもあって7歳の時に地元のアムステルダム・スポーツクラブの下部組織に入団し10歳以下のカテゴリーに所属した<ref name="フリエロス47"/>。
[[1980年]]、17歳でプロデビュー。この頃から既に[[ヨハン・クライフ]]にその実力を認められていた。現役時代は主に[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]とイタリア・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[ACミラン]]の中心選手として活躍。[[ルート・フリット]]、[[マルコ・ファン・バステン]]と共に、[[1980年代]]末から続いたACミランの黄金期を支えた。


1970年にアムステルダム市内のシャッセーストラート地区に引越し、この地区にある広場(大通りの名前にちなんでバルボア広場と呼ばれた)で近所の子供達とストリートサッカーに興じる様になった<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、53頁</ref>が、その中には後にオランダ代表やACミランでチームメイトとなる[[ルート・フリット]]がいた<ref name="フリエロス54">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、54頁</ref>。ライカールトと同様にスリナムにルーツを持ち幼少の頃から身体能力に恵まれていたフリットとは通う学校は違ったものの直ぐに意気投合し親友となった<ref name="フリエロス54"/>。また、当時のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]で憧れの選手は[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]の[[マリオ・ケンペス]]だった<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、48頁</ref>。
[[1995年]]に現役を引退。[[1998年]]にオランダ代表監督に就任し、指導者としての第一歩を踏んだ。[[2003年]]、当時低迷していた[[FCバルセロナ]]の監督に就任。語学力と巧みな人心掌握術でバルセロナを再建し、2004-05、2005-06シーズンの[[リーガ・エスパニョーラ]]優勝、さらに2005-06シーズンに[[UEFAチャンピオンズリーグ]]優勝へと導いている。


ライカールトはフリットと共に{{仮リンク|AFCドース・ウィルスクラフト・ステルク|label=AFC DWS|en|AFC DWS}}の下部組織に加入しユース年代のカテゴリーに所属<ref name="フリエロス60">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、60頁</ref>。1979年にアムステルダム選抜に選ばれ[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]のユースチームと対戦した際、オランダ国内で最強と呼ばれたチームを相手に5-1と大勝したことから関係者の関心を集め<ref name="フリエロス60" />、責任者の[[レオ・ベーンハッカー]]からフリットと共にアヤックスのユースチームへと勧誘された<ref name="フリエロス60" />。ライカールトはこの勧誘を受けて同年7月にアヤックスのユースチームへ入団し[[ヴィム・キーフト]]や[[ジェラルド・ファネンブルグ]]とチームメイトとなった<ref name="フリエロス61">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、61頁</ref>。その一方でフリットはトップチームの選手としてプレー出来る環境を希望しアヤックスからの勧誘を断り[[HFCハールレム]]へ入団した<ref name="フリエロス61" />。
しかし、2005-06シーズン終了後にアシスタントコーチとして作戦面を取り仕切っていた[[ヘンク・テン・カテ]]がチームを抜けて以降、タイトルを逃し続ける状況が続いた。
2008年5月、同月の[[エル・クラシコ]]で[[レアル・マドリード]]相手に1-4と敗戦を喫したのが口火となり、バルセロナの監督職を辞任した(事実上の解任)。後任は[[ジョゼップ・グアルディオラ]]。
2009年にトルコの名門・[[ガラタサライ]]の監督に就任したが、2010年10月に双方合意の下、契約を解除した<ref>[http://www.goal.com/jp/news/122/移籍情報/2010/10/20/2174398/ガラタサライライカールトの退任を発表 ガラタサライ、ライカールトの退任を発表] goal.com</ref>。


== エピソード ==
== クラブ経歴 ==
=== アヤックス ===
[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]、対[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦において2度の警告処分を受け退場。[[サッカーオランダ代表|オランダ]]敗退の戦犯となった(西ドイツ代表の[[ルディ・フェラー]]に人種差別的な暴言を吐かれた事に対し、感情をあらわにし相手の顔に唾を吐きつけた為。後に本人は謝罪した)。
[[ファイル:Ajax selectie seizoen 1981 1982 nr. 140a E. Ophof speler, nr. 15a F. Rijka, Bestanddeelnr 253-8568.jpg|thumb|left|180px|アヤックス時代のライカールト。]]
育成部門の責任者だったベーンハッカーがトップチームの監督に就任。若手選手を積極的に登用する方針を打ち出したベーンハッカーの下で1980-81シーズン開幕前からトップチームの練習に参加する様になり、1980年8月23日に行われたリーグ戦の[[ゴー・アヘッド・イーグルス]]戦で初出場をした<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、64頁</ref>。


2年目の1981-82シーズンにはベーンハッカーから{{仮リンク|クルト・リンダー|en|Kurt Linder}}に監督が交代したものの、リンダーの下でも引き続きレギュラーポジションを獲得<ref name="フリエロス71">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、71頁</ref>。また往年のスター選手である[[ヨハン・クライフ]]がチームに復帰したこともありリーグ優勝を成し遂げ、翌1982-83シーズンにはリーグ戦と[[KNVBカップ]]の二冠を獲得した<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、72-73頁</ref>。クライフは1982-83シーズン終了後に[[フェイエノールト]]へ移籍したものの、ライカールトはその後も中心選手としてチームを牽引し、1985年には『{{仮リンク|テレ・フラーフ|en|De Telegraaf}}』紙が選ぶ[[オランダ年間最優秀選手賞]]に選ばれた<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、75頁</ref>。
== 所属クラブ ==
*1980-1987 {{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
*1987-1988 {{flagicon|POR}} [[スポルティング・リスボン]]
*1987-1988 {{flagicon|SPA}} [[レアル・サラゴサ]]
*1988-1993 {{flagicon|ITA}} [[ACミラン]]
*1993-1995 {{flagicon|NED}} アヤックス


{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
== 監督歴 ==
|-
*1998-2000 {{NEDf}}代表
|<div style="position: relative;">
*2001-2002 {{flagicon|NED}} [[スパルタ・ロッテルダム]]
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
*2003-2008 {{flagicon|SPA}} [[FCバルセロナ]]
{{Image label|x=0.35|y=0.38|scale=200|text=[[マルコ・ファン・バステン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・バステン'''</span>]]}}
*2009-2010 {{flagicon|TUR}} [[ガラタサライ]]
{{Image label|x=0.08|y=0.50|scale=200|text=[[ロブ・ウィツヘ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウィツヘ'''</span>]]}}
*2011.6-2013.1 {{KSAf}}代表
{{Image label|x=0.62|y=0.50|scale=200|text=[[ヨン・ファント・シップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファントシップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.42|y=0.60|scale=200|text=[[アーロン・ヴィンター|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヴィンター'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=0.78|scale=200|text=[[アーノルド・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.68|y=0.78|scale=200|text=[[ヤン・ボウタース|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボウタース'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.42|y=0.95|scale=200|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライカールト'''</span>}}
{{Image label|x=0.85|y=1.13|scale=200|text=[[ピーター・ブーフェ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブーフェ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=1.13|scale=200|text=[[フランク・フェルラート|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フェルラート'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=1.13|scale=200|text=[[ソニー・シローイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シローイ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.50|y=1.30|scale=200|text=[[スタンリー・メンゾ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''メンゾ'''</span>]]}}
|-
|style="font-size: smaller;"|UEFAカップウィナーズカップ1986-87決勝、ロコモティヴ・ライプツィヒ戦のメンバー<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season=1986/intro.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100503063433/http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season%3D1986/intro.html|title=1986/87: Ajax revive their traditions|publisher=UEFA.com|archivedate=2010-05-03|accessdate=2013-12-21}}</ref>。
</div>
|}
1985-86シーズン、現役を引退したクライフがアヤックスの監督(正式には監督ライセンスを所持しておらず、「テクニカルディレクター」という肩書き)に就任した。クライフは[[マルコ・ファン・バステン]]を主将にライカールトを副将に抜擢すると、KNVBカップを制して[[UEFAカップウィナーズカップ 1986-87]]へ出場した<ref name="フリエロス78">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、78頁</ref>。この大会で決勝進出を果たすと1987年5月13日に行われた決勝戦では[[ドイツ民主共和国]]の[[1.FCロコモティヴ・ライプツィヒ]]を下してクラブにとって14シーズンぶりの国際タイトル獲得に貢献した<ref name="フリエロス79">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、79頁</ref>。また、同年には『テレ・フラーフ』紙が選ぶオランダ年間最優秀選手賞に再び選ばれた<ref name="フリエロス78"/>。

一方、クライフはライカールトに対して「世界最高水準の最も完璧な選手になる才能を保持しているにも関わらず、伸し上がろうとする貪欲さに欠けている」として厳しく接していた<ref name="フリエロス79"/>。1986-87シーズン終了後に主将のファンバステンが[[イタリア]]のACミランに移籍すると新たにライカールトを主将に指名するなど期待をかけていたが、繊細な性格のライカールトはストレスを抱える様になった<ref name="フリエロス94">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、94頁</ref>。1987年6月、2試合のみのレンタル契約でACミランの選手として、[[FCポルト|ポルト]]、[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]との親善試合に出場した<ref name=goal/>。

1987年8月にアヤックスとの契約更新間際に[[PSVアイントホーフェン]]とライカールトが極秘に契約を交わしたことが問題となりメディアの注目を集めたが、[[オランダサッカー協会]]の仲裁により1987-88シーズンもアヤックスでプレーすることが決まった<ref name="フリエロス93">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、93頁</ref>。しかしシーズン開幕後は調子が上がらず、パフォーマンスに満足しないクライフだけでなく<ref name="フリエロス93"/>、メディアからも批判を受けることになった<ref name="フリエロス94"/>。クライフからの要求や自身の契約問題や批判に耐えかねたライカールトは<ref name="フリエロス95-96">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、95-96頁</ref>、シーズン最中の9月25日に行われた練習中にクライフに対し「黙れ」と一喝すると、そのまま練習場から去り二度とクライフ指揮下のチームに戻ることはなかった<ref name="フリエロス95-96"/>。

=== スポルティングCP ===
クライフとの確執以来、自宅にも戻らずライカールトの行方は一切判らなくなっていたが<ref name="フリエロス95-96"/>、友人の勧めもあり[[ポルトガル]]の[[リスボン]]に滞在していた<ref name="フリエロス100">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、100頁</ref>。12月に『フットボル・インターナショナル』誌の取材に応じ<ref name="フリエロス95-96"/>「アヤックスを退団し[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]に入団する」意向であることを明らかにし<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、97頁</ref>、代理人を介した移籍交渉が成立し1988年2月8日までにスポルティングの選手となった<ref name="フリエロス106">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、106頁</ref>。一方、アヤックス側が移籍証明書を直ちに発行しなかったことから<ref name="フリエロス106"/>、[[ポルトガルサッカー連盟]]がライカールトの選手登録を認めない判断を下したためポルトガルでの出場機会を失い<ref name="フリエロス107">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、107頁</ref>、[[スペイン]]の[[レアル・サラゴサ]]へ3か月間のレンタル移籍をすることになった<ref name="フリエロス107"/>。

=== サラゴサ ===
サラゴサでは1988年3月20日の[[バレンシアCF]]戦でリーグデビュー。アヤックスの退団騒動以来6か月近く実戦から遠ざかっていたこともあり、体力消耗を避ける為に本来の守備的なポジションではなく、攻撃的ミッドフィールダーのポジションで起用され、11試合でフル出場を果たした<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、113頁</ref>。一方でシーズン最中の、5月4日にアヤックス時代の監督であるクライフがFCバルセロナの監督に就任することが決まると、「バルセロナに欠けている条件を満たすことが出来るのはライカールトだけである」としてクライフ自ら獲得に名乗りを上げた<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、116頁</ref>。クライフはライカールト獲得に熱意を見せたものの<ref name="フリエロス117">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、117頁</ref>、この獲得競争にはイタリアのACミランもバルセロナに先んじて名乗りを上げており、ライカールトはミラン側の掲示した条件(7億ペセタ(約9億8千万円)の契約金<ref name="フリエロス117"/>)を受け入れミランへ移籍することが決まった。

=== ACミラン ===
==== 国際タイトルの獲得 ====
[[ファイル:Ruud Gullit 1988.jpg|thumb|left|180px|オランダトリオの1人である[[ルート・フリット]]。ライカールトと同様に[[スリナム]]にルーツを持ち、[[ドレッドロックス]]の風貌と[[カリスマ|カリスマ性]]を備えていた<ref>[[#国吉 2006|国吉 2006]]、403頁</ref>。]]
[[ファイル:KNVB-bekerfinale FC Den Haag tegen Ajax het hele Ajax-team met beker, Bestanddeelnr 934-0064.jpg|thumb|left|180px|オランダトリオの1人である[[マルコ・ファン・バステン]]。[[バロンドール]]を3度受賞するなど高い評価を得ながらも、選手経歴の晩年には足首の怪我に悩まされた<ref>{{Cite book|和書|author=ジャック・ティベール|chapter=欧州フットボール春秋|title=[[サッカーマガジン]]|volume=1993年2月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社|page=125}}</ref>。]]
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.18|y=0.45|scale=200|text=[[マルコ・ファン・バステン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・バステン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.74|y=0.45|scale=200|text=[[ルート・フリット|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フリット'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.85|y=0.65|scale=200|text=[[アンジェロ・コロンボ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''コロンボ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.65|scale=200|text=[[ロベルト・ドナドーニ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ドナドーニ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.80|scale=200|text=[[カルロ・アンチェロッティ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アンチェロッティ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.13|y=0.80|scale=200|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライカールト'''</span>}}
{{Image label|x=0.78|y=0.98|scale=200|text=[[マウロ・タソッティ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''タソッティ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.98|scale=200|text=[[パオロ・マルディーニ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''マルディーニ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.25|y=1.13|scale=200|text=[[アレッサンドロ・コスタクルタ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''コスタクルタ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.68|y=1.13|scale=200|text=[[フランコ・バレージ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バレージ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.50|y=1.30|scale=200|text=[[ジョヴァンニ・ガッリ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ガッリ'''</span>]]}}
|-
|style="font-size: smaller;"|UEFAチャンピオンズカップ 1988-89決勝、[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]戦のメンバー<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://2000.uefa.com/uefachampionsleague/season=1988/matches/live/day=15/session=1/match=924/matchcenterlight/index.html|title=UEFA Champions League 1988 - Steaua-Milan MatchCentre |publisher=UEFA.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>
</div>
|}
ミランがライカールトの獲得に乗り出した背景には1988-89シーズンから[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の外国人選手枠が1チームに付き従来の2人から3人に拡大したことが挙げられる<ref name="クーパー27">[[#クーパー 2010|クーパー 2010]]、27頁</ref>。その際にライカールトの獲得を要望したのは監督の[[アリゴ・サッキ]]であり<ref name="ウィルソン389">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、389頁</ref>、オーナーの[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]は[[カルチョ・コモ]]にレンタル移籍中だった[[アルゼンチン]]の[[クラウディオ・ボルギ]]をチームに復帰させることを要望していた<ref name="ウィルソン389"/>。

ミランではフリットやファン・バステンといったオランダ代表の同僚と共に「オランダトリオ」を形成。それまでセンターバックやリベロとして起用される機会の多かったライカールトだが、サッキ監督の志向した[[プレッシング]]スタイルのサッカーの下では守備的ミッドフィールダーとして起用され<ref name="クーパー27"/>、相手の攻撃の目を摘み取る一方でパスを散らして試合をコントロールする役割を担い<ref name="クーパー27"/>フリットやファン・バステンらの攻撃陣を後方から支援した。

1988-89シーズン、8月21日に[[コッパ・イタリア]]で対戦した、[[ブレシア・カルチョ|ブレシア]]戦で公式戦デビューを果たし、この試合ではセンターバックのポジションで起用された<ref name=goal/>。リーグ第6節の[[アタランタBC|アタランタ]]戦で移籍後初ゴールを決めた<ref name=goal/><ref>{{Cite web|url=https://www.legaseriea.it/it/serie-a/match-report/1988-89/UNICO/UNI/6/MILATA|title=Match Report 1988-89 6ª Giornata|publisher=Lega Serie A|accessdate=2021-10-16}}</ref>。リーグ戦では[[ローター・マテウス]]を擁する[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]や[[ディエゴ・マラドーナ]]を擁する[[SSCナポリ]]に競り負け3位でシーズンを終えたものの、[[UEFAチャンピオンズカップ 1988-89|チャンピオンズカップ]]では1回戦で[[ブルガリア]]の[[PFCレフスキ・ソフィア|ヴィトシャ・ソフィア]]、1回戦で[[ユーゴスラビア]]の[[レッドスター・ベオグラード]]、準々決勝で西ドイツの[[ヴェルダー・ブレーメン]]を下し準決勝進出を果たした。準決勝はスペインの[[レアル・マドリード]]との対戦となり敵地での第1戦を1-1で引き分けたものの、ホームでの第2戦ではライカールトの得点などで5-0と大勝して決勝進出を果たした<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/season=1988/matches/round=29/match=881/index.html|title=UEFA Champions League 1988/89 - History - Milan-Real Madrid|publisher=UEFA.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>。1989年5月24日にスペインの[[バルセロナ]]で行われた決勝の[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]戦ではフリットとファンバステンがそれぞれ2得点をあげ4-0のスコアでステアウアを下し<ref name="uefa1988/89">{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.uefa.com/uefachampionsleague/news/0252-0cda61ca82aa-10643d9167f1-1000/|title=1988/89: Stylish Milan return to the top|publisher=UEFA.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>[[UEFAチャンピオンズカップ 1968-69|1969年]]以来となる20年ぶり2度目のチャンピオンズカップ優勝を成し遂げた<ref name="uefa1988/89" />。この試合でライカールトは後半開始早々に、巧みなボールコントロールから相手DFを置き去りにし、ファン・バステンの2点目のゴールをアシストした<ref>{{Cite book|和書|author=牛木素吉郎|chapter=世界のサッカーはスーパースターの活躍で華やかにイタリア'90をめざしている|title=[[サッカーマガジン]]|volume=1989年8月号|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|page=106}}</ref><ref name="ストライカー198912">{{Cite book|和書|chapter=短期集中連載 (4) トヨタカップで来日するACミランのすごいヤツら オールランドプレーヤー ライカールト / ドナドーニ|title=[[ストライカー (雑誌)|ストライカー]]|volume=1989年12月号|publisher=[[学研ホールディングス|学研]]|page=140}}</ref>。

ライカールトはミランやオランダ代表での活躍もあり1988年の[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)の投票では1位のファン・バステン(129ポイント)、2位のフリット(88ポイント)に次いで3位(45ポイント)に選ばれ、翌1989年の投票でも1位のファン・バステン(129ポイント)、2位の[[フランコ・バレージ]](80ポイント)に次いで3位(43ポイント)に選ばれる評価を受けた<ref name="フリエロス170">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、170頁</ref>。

1989-90シーズンにはリーグ戦での優勝を2季連続で逃したものの、国際舞台では[[UEFAスーパーカップ]]ではスペインのバルセロナを下し、ヨーロッパチャンピオンとして挑んだ[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1989|トヨタカップ]]では[[コロンビア]]の[[アトレティコ・ナシオナル]]を下しタイトルを獲得。[[UEFAチャンピオンズカップ 1989-90|チャンピオンズカップ]]では2年連続で決勝進出を果たすと、1990年5月23日に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で行われた決勝の[[SLベンフィカ]]戦では27分にファン・バステンからのスルーパスを受けて右足アウトサイドで決勝点を決め<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.football-italia.net/103006/day-milan-back-back-triumphs|title=On This Day: Milan back-to-back triumphs|publisher=Football Italia|date=2017-05-23|accessdate=2021-10-16}}</ref>、1-0のスコアでベンフィカを下し大会2連覇に貢献した<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.football-italia.net/103006/day-milan-back-back-triumphs|title=1989/90: Rijkaard seals Milan triumph|publisher=UEFA.com|accessdate=2020-12}}</ref>。1989-90シーズンにはフリットが膝の重傷を負い長期離脱していたものの<ref name="フリエロス175">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、175頁</ref>、彼に代わってチームを牽引するようになり、サッキ監督から「トータルミッドフィールダー」と評された<ref name="フリエロス175"/>。

1990-91シーズンのUEFAスーパーカップではイタリアの[[UCサンプドリア]]を下し大会連覇。1990年12月に行われた[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1990|トヨタカップ]]では[[パラグアイ]]の[[クルブ・オリンピア|オリンピア]]との対戦となったが、この試合で2得点を決めて大会連覇に貢献すると共に最優秀選手に選ばれた<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、176頁</ref>。この試合での活躍を『[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]』紙は「彼が高レベルの才能の持ち主であることを証明した」と報じるなど<ref name="フリエロス177">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、177頁</ref>、当時28歳のライカールトはキャリアのピークを迎えていた<ref name="フリエロス177"/>。

==== オランダトリオの終焉 ====
[[UEFAチャンピオンズカップ 1990-91|チャンピオンズカップ]]の準々決勝では[[フランス]]の[[オリンピック・マルセイユ]]との対戦となりホームでの第1戦を1-1で引分け、敵地での第2戦を迎えた。試合は72分にマルセイユの[[クリス・ワドル]]が得点を決め先制した<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/season=1990/matches/round=38/match=3328/index.html|title=UEFA Champions League 1990/91 - History - Marseille-Milan|publisher=UEFA.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>直後に場内の照明設備の一つが消灯し<ref name="フリエロス178">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、178頁</ref>、マルセイユサポーターがピッチに入り込んだため、ミランの選手全員が更衣室に一時引き上げた<ref name="フリエロス178"/>。照明の問題は解決したもののミランの選手達が試合続行を拒否する事態となり、[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) はこの試合を没収試合としてマルセイユの3-0の勝利とする決定を下し<ref name="フリエロス178"/>、ミランに対しては1年間の欧州での国際試合出場を禁止する処分を下した<ref name="フリエロス178"/>。これによりミランはチャンピオンズカップ3連覇を逃した。セリエAでの優勝争いは最終節までもつれたものの、[[ジャンルカ・ヴィアリ]]や[[ロベルト・マンチーニ]]らを擁するUCサンプドリアに競り負け3季連続でリーグタイトルを逃す結果となり、シーズン終了後にサッキ監督は辞任した<ref name="フリエロス177"/>。

1991-92シーズンからは新監督に[[ファビオ・カペッロ]]が就任。国内リーグ戦ではオランダトリオが好調を維持し2位の[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]に勝ち点8差を付け無敗で優勝を達成した<ref name="フリエロス186">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]。186頁</ref>、優勝を決めた第32節のナポリ戦では1ゴールを挙げて勝ち点1獲得に貢献、チームは優勝を果たした<ref>{{cite web|url=https://newsmondo.it/napoli-milan-1-1-con-il-gol-di-rijkaard/calcio/|title=Napoli-Milan 1-1, il gol di Rijkaard fa vincere lo Scudetto ai rossoneri|website=NEWSMONDO|date=2017-11-14|accessdate=2023-7-14}}</ref>。1992-93シーズンもリーグ連覇を成し遂げたほか、前シーズンの1991年5月19日から1993年3月21日に行われた[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]戦で敗れるまで58試合無敗の記録を打ち立てた<ref name="フリエロス186"/>。ライカールトは1992-93シーズンのリーグ戦では22試合に出場し2ゴール7アシスト、チャンピオンズリーグでは6試合3ゴール1アシストと中心選手としてチームを牽引したが、一方で他の2人は負傷を抱え10数試合に出場するに留まり、フリットはチーム内でのトラブルの末にシーズン終了後に退団<ref name="クーパー28">[[#クーパー 2010|クーパー 2010]]、28頁</ref>。ファン・バステンは[[UEFAチャンピオンズリーグ 1992-93|チャンピオンズリーグ]]決勝のオリンピック・マルセイユ戦を最後に実戦から遠ざかった<ref name="フリエロス188">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、188頁</ref>(1995年に引退<ref name="フリエロス188"/>)。ライカールトはシーズン終了後に契約延長のオファーを受けたが<ref name="フリエロス187">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、186頁</ref>、この申し出を辞退し退団することが決まった<ref name="フリエロス187"/>。

1993年5月30日に行われたセリエA第33節・[[ブレシア・カルチョ]]戦がミランでの最後の試合となった<ref name="pianetamilan">{{it icon}} {{Cite web|url=https://www.pianetamilan.it/la-storia/amarcord/30-maggio-1993-lultima-partita-di-rijkaard-con-il-milan/|title=30 maggio 1993: l’ultima partita di Rijkaard con il Milan|publisher=PIANETAMILAN|date=2020-05-30|accessdate=2020-12}}</ref>。この試合でライカールトは81分に[[デメトリオ・アルベルティーニ|アルベルティーニ]]の先制点をアシスト<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/2216341|title=Milan AC - Brescia Calcio, May 30, 1993|publisher=Transfermarkt.com|accessdate=2021-10-16}}</ref>。試合は引き分けに終わったものの、優勝という形で最後を締めくくった<ref name="pianetamilan"/>

=== アヤックスへの復帰と引退 ===
1993-94シーズンからは古巣のアヤックスに復帰する事が決まった。当時のチームには[[エドガー・ダーヴィッツ|エドガー・ダービッツ]]や[[クラレンス・セードルフ]]らといった若手選手が数多く在籍しており、[[ルイ・ファン・ハール]]監督から「彼らの手本となり経験を伝えて欲しい」と依頼されたことも復帰する上での動機となった<ref name="フリエロス192">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、192頁</ref>。平均年齢23歳と若いチームの中でライカールトはベテランの[[ダニー・ブリント]]と共にチームを牽引し1993-94シーズンにはリーグ戦30試合出場10得点を記録しリーグ優勝に貢献した<ref name="フリエロス201">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、201頁</ref>。

翌1994-95シーズンもリーグ戦26試合出場2得点を記録し連覇を達成<ref name="フリエロス201"/>。10月26日のヘーレンフェーン戦で決めたゴールが現役ラストゴールとなった。[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95]]ではグループリーグで古巣のACミランを相手にホームと敵地で共に2-0と勝利し、決勝トーナメント進出を果たし、準々決勝で[[クロアチア]]の[[ハイデュク・スプリト]]、準決勝でドイツの[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]を下し決勝進出を果たす。この時のファン・ハール指揮下のチームはサッキの指揮したACミランやクライフの指揮したFCバルセロナと並び高い評価を得た<ref name="フリエロス195">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、195頁</ref>。決勝では1995年5月24日に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で行われ、古巣のACミランとの対戦となったが、この試合で守備的ミッドフィールダーとして起用されたライカールトは0-0で迎えた85分に[[パトリック・クライファート]]の決勝点をアシストし1-0の勝利に貢献した<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、198頁</ref>。

ヨーロッパチャンピオンとなった3日後、同年5月28日にホームの{{仮リンク|デ・メール・スタディオン|en|De Meer Stadion}}で行われた[[FCトゥウェンテ]]戦を最後に現役引退を発表した<ref name="フリエロス199">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、199頁</ref>。

== 代表経歴 ==
1980年にオランダユース代表に選ばれ同年4月に[[フランス]]の[[カンヌ]]で開催された国際大会でデビュー<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、61頁</ref>。5月からはドイツ民主共和国で開催された[[UEFA U-19欧州選手権|UEFAユーストーナメント]]に出場し、1981年に[[オーストラリア]]で開催される[[1981 FIFAワールドユース選手権]]の出場権獲得に貢献したが、オランダサッカー協会は出場を辞退した<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、62頁</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tablese/ec-u18-80.html|title=UEFA Youth Tournament Under 18, 1980|publisher=rsssf.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

1981年、{{仮リンク|ケース・ライフェルス|en|Kees Rijvers}}監督の下でフリットやキーフトらと共にオランダ代表に初招集され9月1日に敵地の[[チューリヒ]]で行われた[[サッカースイス代表|スイス]]戦で代表デビューを飾った<ref name="rsssf"/><ref name="フリエロス71"/>。1983年12月17日に行われた[[UEFA欧州選手権1984予選]]の[[サッカーマルタ代表|マルタ]]戦では[[エルウィン・クーマン]]との交代で後半から出場し代表初得点を記録した。この試合でのライカールトの2得点の活躍もあってオランダはマルタ戦終了時点で全日程を消化し2位の[[サッカースペイン代表|スペイン]]に対し得失点差11をつけて優位に立っていたものの<ref name="フリエロス74">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、74頁</ref>、スペインが12月21日に行われたマルタ戦で12-1と大勝し最終的に得失点差を覆したため本大会出場を逃した<ref name="フリエロス74" />。

1984年から始まった[[1986 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|1986 FIFAワールドカップ・予選]]では代表チームのレギュラーに定着し、同予選のH組でオランダは[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]に次いで2位となり[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]とのプレーオフに進出した。プレーオフでは1勝1敗2得点2失点の成績で並んだものの、アウェイゴール2倍のルールが適用されて1984年の欧州選手権に続いて本大会出場を逃した<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、136頁</ref>。

=== UEFA欧州選手権1988 ===
1986年から始まった[[UEFA欧州選手権1988予選]]では[[リヌス・ミケルス]]監督の下で引き続き代表チームのレギュラーを務め同予選の5試合に出場したが、1987年9月のアヤックスからの退団騒動もあり代表チームからは遠ざかった<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、137頁</ref>。オランダ代表はライカールトを欠いたものの本大会出場権を獲得したが、ミケルス監督はライカールトを必要な人材と考えサラゴサへの移籍後も視察に訪れており<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、113-114頁</ref>、最終的に1988年6月に[[西ドイツ]]で開催される[[UEFA欧州選手権1988|本大会]]のメンバーとして招集することを決めた<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、138頁</ref>。

この大会でライカールトは[[ロナルド・クーマン]]と共にセンターバックを務めたが彼とはユース代表時代からの旧知の間柄であり<ref name="フリエロス284-285">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、284-285頁</ref>、守備や最終ラインからのパス供給で試合をコントロールするだけでなく<ref name="フリエロス284-285"/>、一方が攻撃参加を行う際にはもう一方が攻撃参加によって生じたスペースのカバーリングを行うなど最終ラインのコンビネーションは円滑に行われた<ref name="フリエロス284-285"/>。オランダ代表はグループリーグ初戦で[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦]]に敗れたものの尻上がりに調子を上げ、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]と[[サッカーアイルランド共和国代表|アイルランド]]を退けグループリーグ2位の成績で決勝トーナメント進出。準決勝で地元の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]を破り決勝進出。決勝ではグループリーグで敗れたソビエト連邦との再戦となったが、ライカールトはキーパーの[[ハンス・ファン・ブロイケレン]]とともにソ連の[[オレグ・プロタソフ]]、[[イーゴリ・ベラノフ]]のツートップを抑えると<ref name="ストライカー198912"/><ref name="uefa20131015"/>、フリットとファンバステンの得点により2-0のスコアで下し初優勝を成し遂げた<ref name="uefa20131015">{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.uefa.com/uefaeuro/match/22--ussr-vs-netherlands/postmatch/report/?referrer=%2Fuefaeuro%2Fseason%3D1988%2Fmatches%2Fround%3D210%2Fmatch%3D22%2Fpostmatch%2Freport%2Findex|title=Van Basten volley crowns Netherlands' EURO 1988 final win against USSR|publisher=UEFA.com|date=2013-10-15|accessdate=2021-03-18}}</ref>。

この大会での活躍によりライカールトはファンバステン、フリット、クーマンと共に国際的なスター選手としての評価を得た<ref name="フリエロス284-285"/><ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、142頁</ref>。

=== 1990 FIFAワールドカップ ===
欧州選手権終了後にミケルス監督が退任し、後任として{{仮リンク|テイス・リブレフツ|en|Thijs Libregts}}が監督に就任。1988年9月から始まった[[1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|1990 FIFAワールドカップ・予選]]では西ドイツ、[[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]、[[サッカーフィンランド代表|フィンランド]]と同じグループとなったが無敗で予選突破を決めた。しかし、リブレフツ監督が「フリットやライカールトらの黒人選手は白人選手よりも問題がある」との[[人種差別]]発言がサッカー専門誌に掲載されると波紋を呼び<ref name="フリエロス144-145">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、144-145頁</ref>、代表選手がリブレフツの解任を求める事態となった<ref name="フリエロス144-145"/>。その際、選手達は後任監督について[[FCバルセロナ]]で監督を務めるクライフの就任を要望したが<ref name="フリエロス144-145"/>、代表監督退任後にオランダ協会のテクニカル・ディレクターを務めていたミケルスは大会の1か月前にクライフではなく、ベーンハッカーを監督に指名した<ref name="フリエロス144-145"/>。この決定についてクライフの監督就任を望んでいた選手達は不満を抱くことになった<ref name="フリエロス144-145"/>。

[[ファイル:Rudi voeller stadtbuch.jpg|thumb|200px|決勝トーナメント1回戦の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦では[[ルディ・フェラー]]とトラブルとなり双方とも退場処分を受けた。ライカールトが行動に至った背景にはフェラーによる侮辱的発言があったといわれ物議を醸したが、後に当事者双方が否定した。]]
1990年6月に[[イタリア]]で開催された[[1990 FIFAワールドカップ|本大会]]では2年前の欧州選手権とほぼ同じ代表メンバーを揃えながらもグループリーグ初戦で各下と見做されていた<ref name="フリエロス146">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、146頁</ref>[[サッカーエジプト代表|エジプト]]と1-1で引分け。続くイングランド戦とアイルランド戦も引分けに終わりイングランドとアイルランドとで勝ち点、得失点差で並んだ為、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) による抽選によりグループ3位で決勝トーナメント進出を決めた<ref name="フリエロス146"/>。

[[ミラノ]]で行われた決勝トーナメント1回戦は西ドイツとの対戦となったが、この試合においてオランダ陣内で西ドイツのFW[[ルディ・フェラー]]との間でトラブルが発生した。20分にオランダ陣内のタッチライン際でドリブルを仕掛けるフェラーにライカールトがスライディングを仕掛けて転倒させたため主審から警告を受け<ref name="賀川">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=540|title= 欧州の巨人激突クリンスマンとフリットの明暗|publisher=賀川サッカーライブラリー|author=[[賀川浩]]|accessdate=2013-12-21}}</ref>、フェラーもライカールトに駆け寄り口論となったため主審から警告を受けた<ref name="賀川"/>。その直後のフリーキックの場面でフェラーは[[アンドレアス・ブレーメ]]から供給されたボールを追ってペナルティエリア内で[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]の[[ハンス・ファン・ブロイケレン]]と接触し転倒<ref name="賀川"/>。その際に再びライカールトと口論になったため、主審は両者に退場を命じた<ref name="賀川"/><ref name="フリエロス147">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、147頁</ref>。退場となりピッチから退く際に、ライカールトはフェラーを追いかけて唾を吐きかけた<ref name="クーパー105">[[#クーパー 2001|クーパー 2001]]、105頁</ref>。この事件は物議を醸し、オランダとドイツの国境では暴動が発生する事態となった<ref name="クーパー105"/>。

この事件の経緯について、交錯した際にフェラーがライカールトに対し侮辱する内容の発言をした<ref name="賀川"/><ref name="グランヴィル382">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、382頁</ref><ref name="クーパー106">[[#クーパー 2001|クーパー 2001]]、106頁</ref>と言われているが、フェラー自身は「なぜ反則をしたんだ」と問いただしただけだと主張し<ref name="クーパー106"/>、ライカールトも「ドイツ人を憎んでいない。振り返ると些細な話だ」と述べるなど、両者は互いに険悪な関係や人種差別的意図はなかったとしている<ref name="クーパー106"/>。なお、試合中に[[黒人]]選手がボールを持つたびに観客から非難を意味する[[口笛]]が吹かれており負の感情が連鎖した、との証言もある<ref name="クーパー107">[[#クーパー 2001|クーパー 2001]]、107頁</ref>。

試合は両チームの主力選手を欠き10人対10人の試合となり1-2でオランダが敗れたが、白熱した展開となったことから<ref name="グランヴィル382"/>専門家の{{仮リンク|ブライアン・グランヴィル|en|Brian Glanville}}は「凡戦となったこの大会の決勝戦よりも遥かに決勝に相応しい。ワールドカップ史上に残る試合<ref name="グランヴィル382"/>」「両者の退場も試合内容を損なわなかった<ref name="グランヴィル382"/>」と評している。また二人が退場したことによる影響について[[賀川浩]]は「点取り屋のフェラーを失った西ドイツよりも攻守の舵取り役のライカールトを失ったオランダの方が影響は大きかった」と評している<ref name="賀川"/>。一方、オランダ代表の内部では大会前からの内紛の影響もあって大会を通じて秩序や団結心を喪失しており<ref name="フリエロス147"/>、ライカールトは大会終了後に代表チームからの引退を表明した<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、148頁</ref>。

=== UEFA EURO '92 ===
代表チームからの引退を表明し復帰を拒否していたライカールトだが、1990年のワールドカップ終了後に監督に就任したミケルスの説得もあり<ref name="フリエロス149">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、149頁</ref>、1991年9月11日に[[アイントホーフェン]]で行われた[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]との親善試合で代表復帰を果たし、[[UEFA EURO '92予選]]の2試合に出場。[[1992年]]6月から[[スウェーデン]]で開催された[[UEFA EURO '92|本大会]]ではファン・バステン、フリット、クーマンらの前回優勝メンバーに[[デニス・ベルカンプ]]や[[ブライアン・ロイ]]らの若手が加わり、グループリーグでは[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]や西ドイツを下して決勝トーナメント進出を果たすと優勝候補の最右翼と目された<ref name="賀川EURO92">{{Cite web|和書|author=賀川浩|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2216|title=EURO92観戦記(1)オランダの連覇を予感。しかし現実は…|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2013-12-21}}</ref>。ライカールトは守備ラインに留まらず、前方のスペースに積極的に飛び出し攻撃に絡む動きを見せ<ref name="賀川EURO92"/>、グループリーグ初戦のスコットランド戦ではベルカンプの決勝点をアシスト、第3戦の西ドイツ戦と準決勝の[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]戦で1得点ずつを挙げる活躍を見せたが、準決勝でダークホースのデンマークにPK戦の末に敗れ大会連覇を逃した<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、149-150頁</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefaeuro/season=1992/matches/round=216/match=6097/postmatch/report/index.html|title=Schmeichel helps Denmark down Netherlands|publisher=UEFA.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

=== 1994 FIFAワールドカップ ===
EURO92での敗退後に監督に就任した[[ディック・アドフォカート]]の下でもレギュラーを務め、[[1994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|1994 FIFAワールドカップ・予選]]では[[サッカーノルウェー代表|ノルウェー]]やイングランドを退けて2大会連続でワールドカップ出場を果たした<ref name="フリエロス152">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、152頁</ref>。一方、ファン・バステンが足首の怪我<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、151頁</ref>。により辞退、フリットがアドフォカートとの対立が原因となり大会の出場辞退を表明するなど<ref name="フリエロス152"/>、新旧交代の時期に差しかかり、ライカールト自身もこの大会を最後のワールドカップとして捉えていた<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、153頁</ref>。

1994年6月に[[アメリカ合衆国]]で開催された[[1994 FIFAワールドカップ|本大会]]ではグループリーグで第2戦のベルギー戦で敗れたものの2勝1敗の成績で決勝トーナメント進出を果たし、決勝トーナメント1回戦ではアイルランドを下し準々決勝進出を果たした。準々決勝の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦は「この大会で最高の試合」と評されたものの2-3のスコアでオランダが敗れた<ref name="フリエロス154-155">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、154-155頁</ref>。ライカールトは、この試合を最後に32歳で代表チームから引退した<ref name="フリエロス154-155"/>。通算成績は国際Aマッチ73試合出場10得点<ref name="フリエロス154-155"/>。そのうち71試合に先発出場し<ref name="フリエロス154-155"/>2試合で主将を務めた<ref name="フリエロス152"/>。

== 指導者経歴 ==
引退後はサッカー界から退くと直ちにアパレル業界に進出し、自らのデザイナーブランドを立ち上げ、男性用の下着類を取り扱っていた<ref name="フリエロス204-205">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、204-205頁</ref>。2年後の1997年に業界から退き、サッカー界への復帰を決意するとオランダサッカー協会の主催する6か月間の特別講習を受講し監督ライセンスを取得した<ref name="フリエロス204-205"/>。1998年6月に[[フランス]]で行われた[[1998 FIFAワールドカップ]]の際には[[フース・ヒディンク]]監督から勧誘を受けて、代表チームのアシスタントコーチを務めた<ref name="フリエロス204-206-207">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、206-207頁</ref>。

=== オランダ代表 ===
ワールドカップ終了後にヒディンクが監督を辞任したことを受けて、オランダサッカー協会は2000年に隣国の[[ベルギー]]との間で共同開催される[[UEFA EURO 2000]]に向けた新監督の選定に取り掛かり、ミケルスやクライフ、ヒディンク前監督らの推薦を受けてライカールトが代表の監督に選ばれた<ref name="フリエロス208">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、208頁</ref>。ライカールトはこれまでクラブや代表チームを率いた経験が一度もなかったものの、ヒディンクの下でアシスタントコーチを経験し、チームの内情を熟知し尚且つ尊敬を受けていた点が決め手となった<ref name="フリエロス208"/>。一方で、[[コー・アドリアーンセ]]の様に、この決定に対して異議を唱える者も多かった<ref name="フリエロス209">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、209頁</ref>。

ロナルド・クーマンや[[ヨハン・ニースケンス]]をアシスタントコーチとして迎え、1998年10月10日に行われた[[サッカーペルー代表|ペルー]]との親善試合を皮切りに本大会までに17試合を消化し、2000年6月の本大会を迎えた。ライカールトはEURO優勝の目標を掲げ<ref name="フリエロス210">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、210頁</ref>、グループリーグでは[[サッカーチェコ代表|チェコ]]、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]に勝利し、第3戦で[[サッカーフランス代表|フランス]]に敗れたもののグループ首位で決勝トーナメント進出を果たした。準々決勝では[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]に6-1と大勝し準決勝進出を決めたが、準決勝の[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦では相手が退場者を出し数的優位に立ちながらも守備を崩しきれず0-0のスコアのまま延長戦でも決着がつかずPK戦の末に敗れた。試合終了後の記者会見の場でライカールトは「私は失敗した。我々は前半に試合を支配しながらも得点を決めることが出来ず、得点できないことで弱気に取り付かれてしまった。それに対してイタリアは賢く組織的で、素晴らしい守備をした」と発言し辞意を表明した<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/euro2000/teams/holland/812243.stm|title= Rijkaard quits after semi-final loss|publisher=BBC SPORT|date=2000-06-29|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

=== スパルタ・ロッテルダム ===
2000-01シーズンからは[[スパルタ・ロッテルダム]]の監督に就任した。なお、スパルタは伝統あるクラブだが組織や資金面に乏しい点から、クライフをはじめ周囲からは監督就任を辞退する様にアドバイスを受けていた<ref name="フリエロス214-215">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、214-215頁</ref>。シーズン中盤まではリーグ戦で中位につけていたものの主力選手の負傷や選手の来季の契約問題などからチーム内の士気が低下<ref name="フリエロス214-215"/>。クラブ史上初の2部リーグ降格という結果をもたらすと<ref name="フリエロス214-215"/>、2002年5月に辞任した<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2002/may/31/newsstory.sport7|title= Rotterdam coach Rijkaard quits|publisher=The Gurdian|date=2002-05-31|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

=== バルセロナ ===
[[ファイル:FC Barcelona NASA Jsc2006e33425.jpg|thumb|left|200px|バルセロナ監督時代のライカールト。左から[[シャビ・エルナンデス]]、ライカールト、[[ロナウジーニョ]]、[[カルレス・プジョル]]。]]
2003年6月、ライカールトは[[オランダ領アンティル]]の[[サッカーキュラソー代表|代表チーム]]監督就任のオファーを受け準備を進めていたが<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、231頁</ref>、時を同じくしてスペインのFCバルセロナから年俸100万ユーロ(約1億2000万円)2年契約(成績に応じて契約期間を更に2年間延長できるオプション付き)のオファーを掲示され契約に合意<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、245頁</ref>。6月23日に就任記者会見を行った<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、251頁</ref>。

この監督就任の背景にはバルセロナの首脳陣に対するヨハン・クライフによる推薦があった。会長の[[ジョアン・ラポルタ]]は同年6月の会長選挙で当選後、幹部の[[サンドロ・ロセイ]]や[[アイトール・ベギリスタイン]]らと共に新監督の選定に着手し、候補としてフース・ヒディンクやロナルド・クーマンの名が挙げられていた<ref name="フリエロス239">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、239頁</ref>。彼らから相談を受けた際にクライフは両者がオファーを受け入れる可能性が低いことを指摘し<ref name="フリエロス239"/>、自身が保障の出来る人物としてファン・バステンとライカールトの名前を挙げた<ref name="フリエロス240-242">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、240-242頁</ref>。ファン・バステンについては監督ライセンスを所持しておらず監督経験がなかったことからクライフ自ら却下し<ref name="フリエロス240-242"/>、ライカールトを「選手としても監督としても素晴らしい哲学の持ち主であり、内容のあるサッカーを好む人物」として推薦するに至った<ref name="フリエロス240-242"/>。クライフの推薦があったとはいえ、バルセロナの首脳陣はヒディンクやクーマンとの交渉を優先しライカールトは3番手の候補と見做していた<ref name="フリエロス244">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、244頁</ref>。
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.50|y=0.38|scale=200|text=[[サミュエル・エトオ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''エトオ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.82|y=0.50|scale=200|text=[[リュドヴィク・ジュリ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ジュリ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.10|y=0.50|scale=200|text=[[ロナウジーニョ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ロナウジーニョ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.65|scale=200|text=[[アンデルソン・ルイス・デ・ソウザ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''デコ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.20|y=0.65|scale=200|text=[[マルク・ファン・ボメル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファンボメル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.42|y=0.83|scale=200|text=[[エジミウソン・ジョゼ・ゴメス・ジ・モラエス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''エジミウソン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=1.00|scale=200|text=[[オレゲール・プレサス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''オレゲール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=1.00|scale=200|text=[[ジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブロンクホルスト'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.30|y=1.15|scale=200|text=[[ラファエル・マルケス (サッカー選手)|<span style="font-size: 90%; color: white">'''マルケス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.64|y=1.15|scale=200|text=[[カルレス・プジョル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''プジョル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=200|text=[[ビクトール・バルデス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バルデス'''</span>]]}}
|-
|style="font-size: smaller;"|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06・決勝|UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06 決勝]]、[[アーセナルFC|アーセナル]]戦のメンバー<ref>{{Cite web|url=http://www.uefa.com/newsfiles/ucl/2005/1108503_lu.pdf|title=Line-ups|publisher=[[欧州サッカー連盟|UEFA]]|format=PDF|date=2006-05-17|accessdate=2013-12-21}}</ref>
|}
バルセロナでの初采配となった2003-04シーズンでは[[ブラジル]]の[[ロナウジーニョ]]が加わるも、リーグ戦序盤は成績が伸び悩み前期を終了した時点で首位の[[レアル・マドリード]]に対し勝ち点差15をつけられていたが、後期に入ると15試合連続無敗を維持するなど最終的に2位でシーズンを終え、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の出場権を獲得した<ref name="フリエロス260">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、260頁</ref>。

2004-05シーズンでは[[ポルトガル]]の[[アンデルソン・ルイス・デ・ソウザ|デコ]]や[[カメルーン]]の[[サミュエル・エトー]]が新たに加わり、リーグ戦では第6節で首位に立つとその座を維持し続け、最終節を待たずして2005年5月14日の[[レバンテUD]]戦で5シーズンぶりの優勝を決めた<ref name="フリエロス261">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、261頁</ref>。同年7月には契約期間を更に2年延長し2009年6月までとすることに合意した<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=320491.html|title= ライカールト監督が契約を延長|publisher=UEFA.com|date=2005-07-26|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

2005-06シーズンではロナウジーニョ、エトー、[[シャビ・エルナンデス]]といった主力選手のコンビネーションも強化され、リーグ戦では14連勝を記録<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.uefa.com/memberassociations/association=esp/news/newsid=1587883.html| title= バルセロナがクラブ最長タイの14連勝|publisher=UEFA.com|date=2011-01-22|accessdate=2013-12-21}}</ref>するなど18試合連続で無敗を続け2連覇を達成。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06]]ではグループリーグを勝ち抜いた後、[[チェルシーFC]]、[[SLベンフィカ]]、[[ACミラン]]を下して決勝に進出。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06・決勝|決勝]]では[[イングランド]]の[[アーセナルFC]]を2-1で下し、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92|1991-92シーズン]]以来となる2度目の優勝を成し遂げた<ref name="フリエロス262-263">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、262-263頁</ref>。なお、ライカールトは選手としても監督としてもヨーロッパチャンピオンを経験したが、ライカールト以外には[[ミゲル・ムニョス]]、[[ジョバンニ・トラパットーニ|ジョヴァンニ・トラパットーニ]]、[[ヨハン・クライフ]]、[[カルロ・アンチェロッティ]]、[[ジョゼップ・グアルディオラ]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]がいる<ref name="フリエロス262-263"/>。

バルセロナを指揮した実績により2005年から2006年にかけて[[UEFAクラブ・フットボール・アワード]]最優秀監督賞、[[国際サッカー歴史統計連盟]] (IFFHS) 世界最優秀監督、[[オンズドール]]年間最優秀監督賞をそれぞれ1回、[[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀監督賞を2回受賞するなどの評価を得た。

一方、2006-07シーズンを前にライカールトの参謀役を務めていた[[ヘンク・テン・カテ]]がチームを退団<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2059278/568050|title= <サッカー>バルセロナのテン・カテ・アシスタントコーチ アヤックス監督に就任 - スペイン|publisher=AFPBB News|date=2006-05-20|accessdate=2013-12-21}}</ref>。シーズンが始まると主力選手の負傷離脱やパフォーマンス低下もあり<ref name="フリエロス34-35">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、34-35頁</ref>無冠に終わるとライカールトの手腕を疑問視する声が現れ始めた<ref name="フリエロス34-35"/>。

2007-08シーズンではロナウジーニョの退団騒動が持ち上がる<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.afpbb.com/articles/-/2288835?pid=2181778|title=ロナウジーニョ問題でスペイン国内騒然|publisher=AFPBB News|date=2007-09-26|accessdate=2013-12-21}}</ref>など内紛が続き、2008年5月7日に行われたレアル・マドリードとの一戦([[エル・クラシコ]])で1-4と大敗<ref name="AFPBB20080509">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2288835?pid=2181778|title=バルセロナ グアルディオラ氏の新監督就任を発表|publisher=AFPBB News|date=2008-05-09|accessdate=2013-12-21}}</ref>を喫するなど2季連続でタイトルを逃すことが確定すると、翌5月8日にラポルタ会長からライカールトの2007-08シーズン限りでの解任が発表された<ref name="AFPBB20080509"/>。5月17日のリーグ戦第38節、[[レアル・ムルシア]]戦がバルセロナでの最後の指揮となり、[[ジョバニ・ドス・サントス]]の3得点などで5-3と勝利した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2392757?pid=2939832|title= バルセロナ ライカールト監督最後の試合を勝利で飾る|publisher=AFPBB News|date=2008-05-18|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

=== ガラタサライ ===
2009年6月5日、[[トルコ]]の[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライSK]]の監督に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2609031?pid=4234890|title= ガラタサライ 新監督はライカールト氏に|publisher=AFPBB News|date=2009-06-06|accessdate=2013-12-21}}</ref>。2009-10シーズンのリーグ戦では優勝を逃し3位となり<ref name="サッカーキング20101020">{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/europe/article/id=5274|title=ガラタサライがライカールト監督を解任|publisher=サッカーキング|date=2010-10-20|accessdate=2013-12-21}}</ref>、2010-11シーズンのリーグ戦では8試合を終了した時点で首位との勝ち点差8の9位と成績が低迷し<ref name="サッカーキング20101020"/>、また、[[UEFAヨーロッパリーグ 2010-11]]予選ではプレーオフに進出するも[[ウクライナ]]の[[FCカルパティ・リヴィウ]]に敗れ本大会出場を逃した<ref name="サッカーキング20101020"/>。2010年10月19日に双方合意の下、契約を解除した<ref name="サッカーキング20101020" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/122/%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E6%83%85%E5%A0%B1/2010/10/20/2174398/ガラタサライ、ライカールトの退任を発表|title=ガラタサライ、ライカールトの退任を発表|publisher=Goal.com|date=2010-10-20|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

=== サウジアラビア代表 ===
2011年6月28日、[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア代表]]の監督に就任した<ref name="goal.com20110630">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/3476/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2/2011/06/30/2553637/ライカールトがサウジアラビア代表監督に就任|title=ライカールトがサウジアラビア代表監督に就任|publisher=Goal.com|date=2011-06-30|accessdate=2013-12-21}}</ref>。契約期間は3年<ref name="goal.com20110630"/>。[[2014 FIFAワールドカップ・アジア2次予選]]では[[サッカー香港代表|香港]]に大勝し[[2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選|3次予選]]進出を決めたが、同年9月から[[2012年]]2月にかけて行われた3次予選では[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]と[[サッカーオマーン代表|オマーン]]に競り負け、1勝3分2敗の成績で予選敗退となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/match/64345/オーストラリア-vs-サウジアラビア/report|title=サウジ、W杯予選敗退でライカールトの進退は ?|publisher=Goal.com|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

2013年1月に[[バーレーン]]で開催された[[ガルフカップ2013]]では[[サッカーイエメン代表|イエメン]]に勝利したものの[[サッカーイラク代表|イラク]]と[[サッカークウェート代表|クウェート]]に敗れ1勝2敗の成績でグループリーグ敗退という結果に終わると同年1月16日に監督を解任された<ref>{{Cite web|url=http://arabnews.com/sports/rijkaard-sacked-saudi-football-coach|title=Rijkaard sacked as Saudi football coach|publisher=arab news|date=2013-01-16|accessdate=2013-12-21}}</ref>。

== 人物 ==
選手時代には[[ディフェンダー (サッカー)#センターバック|センターバック]]、[[ミッドフィールダー#ボランチ|ボランチ]]、[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的ミッドフィールダー]]を務める多才さで攻守にわたりチームに貢献し、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]や[[ACミラン]]でチームメイトだった[[マルコ・ファン・バステン]]や[[ルート・フリット]]と比べて最も安定度のある選手とも評される<ref name="フリエロス25">[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、25-26頁</ref>。ACミランでは攻守を支える柱となり、フリットの欠場時には背番号10番をつけてプレーしたこともあった<ref>TOYOTA CUP 1990年 大会公式パンフレット、26頁</ref>。

足元の正確な技術に加え戦術的な洞察力、激しい守備に対応する屈強な身体能力を持ち合わせており<ref name="classicfootball">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fifa.com/classicfootball/players/player=44566/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120227160452/http://www.fifa.com/classicfootball/players/player=44566/index.html|title=Dutchman who ruled Europe in three shirts|publisher=fifa.com|archivedate=2013-12-21||accessdate=2023-04-01}}</ref>、そのプレースタイルから「[[ハリケーン]]」とも評された<ref name="classicfootball"/>。一方でファン・バステンやフリットに比べ低評価を受けていたともいわれるが<ref name="フリエロス25"/><ref name="サカマガ19930221">{{Cite book|和書 |chapter=ファンバステン三度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ|title=サッカーマガジン|volume= 1993年2月21日号 | publisher=ベースボール・マガジン社 |pages= 174-175}}</ref>、ファン・バステンは1992年の[[バロンドール]]授賞式の際にライカールトについて次のように評した。
{{Quotation|ライカールトがバロンドールの投票で10位という結果に終わったのは理解しがたい。彼は優れた選手であるにも関わらず評価が低いのは残念だ。彼は技術、知性、戦術眼を備えており、あらゆるプレーを体現、あらゆる局面に対応する。彼がいなければ私はバロンドールを一度も受賞することは出来なかっただろう<ref name="サカマガ19930221"/>。}}

一方で普段は冷静な性格であるにも関わらず、選手時代には1987年の[[ヨハン・クライフ]]との衝突や、1990年の[[ルディ・フェラー]]への唾吐き事件など思わぬ局面で感情を爆発させることがあった<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、27頁</ref>。クライフは衝突の経緯についてライカールトの控えめな性格を挙げており、「1番になりたいのなら、相手の出方を待つのではなく、積極的にボールを奪え」と諭したことが対立の原因となったと語っている<ref name="サカダイ19950125">{{Cite book|和書|chapter=ヨハン・クライフのフットボーラーよ聞け! TEXT13|title=[[サッカーダイジェスト|週刊サッカーダイジェスト]]|volume=1995年2月21日号|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|pages= 110-111}}</ref>。

監督としては、相手チームの詳細な分析を行ったりチーム全体に戦術を浸透させるタイプではなく、選手の[[想像力|イマジネーション]]といった感覚的な要素を重視し、個々の選手の相性やポジション配置によって生み出されるコンビネーションを高めることに時間を費やした<ref name="村松82-85">[[#村松 2010|村松 2010]]、82-85頁</ref>。[[FCバルセロナ|バルセロナ]]で2005-06シーズンに国内リーグと[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の2冠を達成した際には「[[エル・ドリーム・チーム|ドリームチーム]]の再来」と評価を得たが、次第に選手個々のコンディショニングや意欲の面で差異が生じるようになるなど、チーム状態が下降した際の対応策を持ち合わせてはいなかった<ref name="村松82-85"/>。

1989年6月にスリナム系オランダ人によるオランダ代表(通称:カラフル・イレブン)がスリナムに遠征した際に[[スリナム航空764便墜落事故]]に遭遇し、選手18名中15名が死亡した(3名の生存者の内競技に復帰できた者は1名のみ)。このカラフル・イレブンにライカールトも選出されていたが、所属クラブの意向で辞退した為に命拾いしている。尚、フリットも同様の理由で命拾いしている。

== 個人成績 ==
=== クラブでの成績 ===
1994-95シーズン終了時の成績<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.national-football-teams.com/v2/player.php?id=14728|title= Player - Frank Rijkaard|publisher=National Football Teams|accessdate = 2013-12-21}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/teamsandplayers/players/player=412/profile/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120418225303/http://www.uefa.com/teamsandplayers/players/player%3D412/profile/index.html|title=Frank Rijkaard UEFA stats|publisher=uefa.com|archivedate=2012-04-18|accessdate=2013-12-21}}</ref>
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align: center;"
|-
!rowspan="2"|クラブ
!rowspan="2"|シーズン
!colspan="2"|リーグ
!colspan="2"|カップ
!colspan="2"|欧州カップ
!colspan="2"|その他
!colspan="2"|合計
|-
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
|-
|rowspan="9" valign="center"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|1980-81
|24||4||6||0||1||1||0||0||31||5
|-
|1981-82
|27||4||1||0||0||0||0||0||28||4
|-
|1982-83
|25||3||6||1||0||0||0||0||31||4
|-
|1983-84
|23||9||2||0||1||0||0||0||26||9
|-
|1984-85
|34||7||4||1||4||1||0||0||42||9
|-
|1985-86
|31||9||6||4||2||0||0||0||39||13
|-
|1986-87
|34||7||7||0||9||2||0||0||50||9
|-
|1987-88
|8||3||0||0||1||1||0||0||9||4
|-
!小計
!206!!46!!32!!6!!18!!5!!0||0!!256!!57
|-
|rowspan="2" valign="center"|[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]
|1987-88
|0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
!小計
!0!!0!!0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|rowspan="2" valign="center"|[[レアル・サラゴサ]]
|1987-88
|11||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
!小計
!11!!0!!0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|rowspan="6" valign="center"|[[ACミラン]]
|1988-89
|31||4||6||0||9||1||1{{efn|name="a"|1988年スーペルコッパ・イタリアーナ}}||1{{efn|name="a"}}||47||6
|-
|1989-90
|29||2||6||0||11||2||1 {{efn|name="b"|1989年トヨタカップ}} ||0{{efn|name="b"}}||47||4
|-
|1990-91
|30||3||2||0||6||1||1{{efn|name="c"|1990年トヨタカップ}}||2{{efn|name="c"}}||39||6
|-
|1991-92
|30||5||5||0||0||0||0||0||35||5
|-
|1992-93
|22||2||5||0||6||3||0||0||33||5
|-
!小計
!142!!16!!24!!0!!32!!7!!3!!3!!201!!26
|-
|rowspan="3" valign="center"|アヤックス
|1993-94
|30||10||4||0||6||1||1{{efn|name="d"|1993年オランダ・スーパーカップ}}||0{{efn|name="d"}}||41||11
|-
|1994-95
|26||2||2||0||10||0||1{{efn|name="e"|1994年オランダ・スーパーカップ}}||0{{efn|name="e"}}||39||2
|-
!小計
!56!!12!!6!!0!!16!!1!!2!!0!!80!!13
|-
!colspan="2"|通算
!415!!74!!62!!6!!66!!13!!5!!3!!548!!96
|}

=== 代表での成績 ===
オランダ代表として最後の試合となった1994年7月9日のブラジル戦までの出場数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
!colspan="8"|[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]
|-
!rowspan="2"|年
!colspan="2"|国際大会
!colspan="2"|親善試合
!colspan="2"|合計
|- style="background:beige"
!出場
!得点
!出場
!得点
!出場
!得点
|-
|1981
| 0 || 0 || 1 || 0 || 1 || 0
|-
|1982
| 1 || 0 || 4 || 0 || 5 || 0
|-
|1983
| 1 || 2 || 2 || 0 || 3 || 2
|-
|1984
| 1 || 0 || 1 || 0 || 2 || 0
|-
|1985
| 4 || 0 || 1 || 0 || 5 || 0
|-
|1986
| 3 || 0 || 1 || 0 || 4 || 0
|-
|1987
| 2 || 0 || 2 || 0 || 4 || 0
|-
|1988
| 7 || 0 || 3 || 0 || 10 || 0
|-
|1989
| 4 || 0 || 1 || 0 || 5 || 0
|-
|1990
| 4 || 0 || 3 || 1 || 7 || 1
|-
|1991
| 2 || 0 || 1 || 0 || 3 || 0
|-
|1992
| 7 || 2 || 4 || 1 || 11 || 3
|-
|1993
| 4 || 0 || 0 || 0 || 4 || 0
|-
|1994
| 4 || 0 || 5 || 4 || 9 || 4
|- style="background:beige"
!通算
! 44 || 4 || 29 || 6 || 73 || 10
|-
|}

オランダ代表として最後の試合となった1994年7月9日のブラジル戦までの得点数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable collapsible collapsed"
|-
! # !! 開催日 !! 開催地 !! 対戦チーム !! スコア !! 結果 !! 試合概要
|-
| 1. ||rowspan="2"| 1984年12月17日 ||rowspan="2"| [[オランダ]]、[[ロッテルダム]] ||rowspan="2"| {{MLTf}} || 3-0 ||rowspan="2"| 5-0 ||rowspan="2"| [[UEFA欧州選手権1984予選]]
|-
| 2. || 5-0
|-
| 3. || 1990年6月3日 || [[ユーゴスラビア連邦|ユーゴスラビア]]、[[ザグレブ]] || {{YUGf}} || 1-0 || 2-0 || rowspan="2" | 親善試合
|-
| 4. || 1992年5月27日 || オランダ、{{仮リンク|シッタルト|en|Sittard}} || {{AUTf}} || 1-0 || 3-2
|-
| 5. || 1992年6月18日 || rowspan="2" | [[スウェーデン]]、[[ヨーテボリ]] || {{GERf}} || 1-0 || 3-1 || rowspan="2" | [[UEFA EURO '92]]
|-
| 6. || 1992年6月22日 ||{{DENf}} || 2-2 || 2-2<br/>{{smaller|PK 4-5}}
|-
| 7. || 1994年1月19日 || [[チュニジア]]、[[チュニス]] || {{TUNf}} || 1-1 || 2-2 || rowspan="4" | 親善試合
|-
| 8. ||rowspan="2"| 1994年6月1日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{HUNf}} || 5-1 ||rowspan="2"| 6-1
|-
| 9. || 6-1
|-
| 10. || 1994年6月12日 || [[カナダ]]、[[トロント]] || {{CANf}} || 3-0 || 3-0
|}

=== 監督成績 ===
{{updated|2013年12月21日}}<ref name="stats">{{en icon}} {{Cite web |url=http://www.footballdatabase.eu/football.joueurs.frank.rijkaard.2834.en.html|title=Frank Rijkaard|publisher=Football Database.eu|accessdate=2013-12-21}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web |url=http://www.rsssf.com/players/rijkaard-coach-ec.html |title=Franklin Edmundo Rijkaard – Coach in European Cups|publisher=RSSSF.com |accessdate=2013-12-21}}</ref>
{| class="wikitable" style="text-align: center"
! rowspan="2!" style="width:150px;"|チーム
! rowspan="2!" style="width:90px;"|就任
! rowspan="2!" style="width:90px;"|退任
! colspan="7" |記録
|-
!width=40|試合
!width=40|勝利
!width=40|引分
!width=40|敗戦
!width=50|勝率
|-
|align="left"|[[サッカーオランダ代表|オランダ]]
|align="left"|1998年6月
|align="left"|2000年7月
{{WDL|22|8|12|2}}
|-
|align="left"|[[スパルタ・ロッテルダム]]
|align="left"|2001年6月
|align="left"|2002年5月
{{WDL|38|6|12|20}}
|-
|align="left"|[[FCバルセロナ]]
|align="left"|2003年7月
|align="left"|2008年5月
{{WDL|273|160|63|50}}
|-
|align="left"|[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライSK]]
|align="left"|2009年6月
|align="left"|2010年10月
{{WDL|67|37|15|15}}
|-
|align="left"|[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]]
|align="left"|2011年6月
|align="left"|2013年1月
{{WDL|27|7|9|11}}
|-
!colspan="3"|合計
{{WDLtot|427|218|111|98}}
|}


== 獲得タイトル ==
== 獲得タイトル ==
{{col-begin}}
=== 選手として ===
{{col-2}}
==== クラブ ====
*[[UEFAカップウィナーズカップ|欧州カップウィナーズカップ]] 1回 (1986-87シーズン)
*[[UEFAチャンピオンズリーグ|欧州チャンピオンズカップ]] 3回 (1988-89、1989-90、1994-95シーズン)
*[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]] 2回 (1989、1990年;1990年大会は大会優秀選手)


{{big|'''選手'''}}
==== 代表 ====
=== クラブ ===
*[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]] 優勝 (1988年)
; アヤックス
※代表キャップ数73、通算10ゴール
* [[エールディヴィジ]] (5) : 1981-82, 1982-83, 1984-85, 1993-94, 1994-95
* [[KNVBカップ]] (3) : 1982-83, 1985-86, 1986-87
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] (1) : 1986-87
* [[ヨハン・クライフ・スハール|オランダ・スーパーカップ]] (2) : 1993, 1994
* [[UEFAチャンピオンズリーグ]] (1) : [[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95|1994-95]]


; ミラン
==== その他 ====
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]] (2) : 1988, 1992
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 54位 (ワールドサッカー誌選出 1999)
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (2) : [[UEFAチャンピオンズカップ 1988-89|1988-89]], [[UEFAチャンピオンズカップ 1989-90|1989-90]]
* [[UEFAスーパーカップ]] (2) : 1989, 1990
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]] (2) : 1989, 1990
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] (2) : 1991-92, 1992-93


=== 監督として ===
=== 代表 ===
; オランダ代表
==== クラブ ====
* [[UEFA欧州選手権]] (1) : [[UEFA欧州選手権1988|1988]]
*[[リーガ・エスパニョーラ]] 2回 (2004-05、2005-06シーズン)
*[[UEFAチャンピオンズリーグ|欧州チャンピオンズリーグ]] 1回 (2005-06シーズン)


==脚注==
=== 個人 ===
* [[オランダ年間最優秀選手賞]] (2) : 1985, 1987
<references/>
* セリエA最優秀外国人選手賞 (1) : 1992
* {{仮リンク|グエリン・スポルティヴォ|en|Guerin Sportivo}} 年間最優秀選手賞 (1) : 1992
* [[バロンドール]] 3位 (2) : 1988, 1989
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|ワールドサッカー選定 20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 54位 : 1999
* [[FIFA 100]]
{{col-2}}
{{big|'''監督'''}}
=== クラブ ===
; バルセロナ
* [[プリメーラ・ディビシオン]] (2) : 2004-05, 2005-06
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]] (2) : 2005, 2006
* UEFAチャンピオンズリーグ (1) : [[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06|2005-06]]


=== 個人 ===
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録|titlestyle = background: gold;
* [[ドン・バロン・アワード]]最優秀監督賞 (2) : 2004-05, 2005-06
* [[UEFAクラブ・フットボール・アワード]]最優秀監督賞 (1) : 2005-06
* [[UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー]]最優秀監督賞 (1) : 2006
* [[国際サッカー歴史統計連盟]] 世界最優秀監督賞 (1) : 2006
* [[オンズドール]] 最優秀監督賞 (1) : 2006
{{col-end}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=国吉好弘|others=[[サッカーマガジン|週刊サッカーマガジン]]責任編集|title=サッカーマルチ大事典 改訂版|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|year=2006|isbn=4-583-03880-1|ref=国吉 2006}}
* {{Cite book|和書|author=ジョナサン・ウィルソン|translator=野間けい子|title=サッカー戦術の歴史|publisher=[[筑摩書房]]|year=2010|isbn=978-4-480-87822-9|ref=ウィルソン 2010}}
* {{Cite book|和書|author=サイモン・クーパー|authorlink=サイモン・クーパー|translator=柳下穀一郎|others=[[後藤健生]]解説|title=サッカーの敵|publisher=[[白水社]]|year=2001|isbn=4-560-04960-2|ref=クーパー 2001}}
* {{Cite book|和書|author=サイモン・クーパー|translator=田邊雅之|chapter=グランデ・ミランの神話を巡る オランダトリオ美しき衝撃 フリット、ファンバステン、ライカールト|title=[[Sports Graphic Number]]|volume=767号 |publisher=[[文藝春秋]]|year=2010|ref=クーパー 2010}}
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル|others=[[賀川浩]]監修|translator=田村修一、土屋晃、田邊雅之|year=1998|title=決定版ワールドカップ全史|publisher=[[草思社]]|isbn=4-7942-0818-9|ref=グランヴィル 1998}}
* {{Citation|和書|editor=地球の歩き方編集室|title=地球の歩き方プラスワン405 欧州サッカー観戦ガイド|publisher=[[ダイヤモンド社]]|year=2005|isbn=4-478-03774-4|ref=地球の歩き方編集室 2005}}
* {{Cite book|和書|author=トニー・フリエロス|others=サッカー・プラネット監修|translator=山名洋子|title=フランク・ライカールト--狂気を秘めた人格者|publisher=[[東邦出版]]|year=2008|isbn=978-4-8094-0728-4|ref=フリエロス 2008}}
* {{Cite book|和書|author=村松尚登|year=2010|title=スペイン人はなぜ小さいのにサッカーが強いのか|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]]|isbn=978-4-7973-5237-5|ref=村松 2010}}

== 外部リンク ==
{{commons category|Frank Rijkaard}}
*[http://www.bdfutbol.com/j/j3179.html Frank Rijkaard's La Liga stats] - BDFutbol.com {{es icon}}
*[http://www.bdfutbol.com/l/l3179.html Frank Rijkaard's La Liga stats as manager] - BDFutbol.com {{es icon}}
*[http://www.parman.eu/players/frank-rijkaard/ CV of Frank Rijkaard] {{nl icon}}

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[[Category:オランダのサッカー選手]]
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[[Category:スリナム系オランダ人]]
[[Category:スリナム系オランダ人]]

2024年5月27日 (月) 11:40時点における最新版

フランク・ライカールト
名前
本名 フランクリン・エドムンド・ライカールト
Franklin Edmundo Rijkaard
愛称 フランク、パイン、ブラックスワン[1]
ラテン文字 Frank Rijkaard
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
スリナムの旗 スリナム
生年月日 (1962-09-30) 1962年9月30日(62歳)
出身地 アムステルダム
身長 190cm
体重 80kg
選手情報
ポジション MF / DF
利き足 右足
ユース
1973-1979 オランダの旗 AFC DWS英語版
1979-1980 オランダの旗 アヤックス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1987 オランダの旗 アヤックス 206 (46)
1987-1988 ポルトガルの旗 スポルティングCP 0 (0)
1987-1988 スペインの旗 レアル・サラゴサ(loan) 11 (0)
1988-1993 イタリアの旗 ACミラン 142 (16)
1993-1995 オランダの旗 アヤックス 55 (19)
代表歴
1981-1994[2] オランダの旗 オランダ 73 (10)
監督歴
1998-2000 オランダの旗 オランダ
2001-2002 オランダの旗 スパルタ・ロッテルダム
2003-2008 スペインの旗 FCバルセロナ
2009-2010 トルコの旗 ガラタサライSK
2011-2013 サウジアラビアの旗 サウジアラビア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フランク・ライカールトことフランクリン・エドムンド・ライカールトオランダ語: Franklin Edmundo Rijkaard, 1962年9月30日 - )は、オランダアムステルダム出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは主にミッドフィールダーボランチ)、ディフェンダー(センターバック)。スリナム系オランダ人。

様々なポジションをこなすユーティリティ性[3]、身体能力だけでなく的確な判断に基づいた守備力、中盤の底で正確なパスを散らすゲームメイク力を併せ持ち[3]、現役時代には「最も現代的なサッカー選手[4]」「トータルミッドフィールダー[5]」と評された。オランダ代表では1988年のUEFA欧州選手権優勝、クラブレベルではアヤックスACミランで国際タイトル獲得に貢献した[3]。引退後は指導者に転じ、オランダ代表やFCバルセロナなどの監督を務めている[3]

生い立ち

[編集]

オランダ領ギアナ(後のスリナム共和国)出身のプロサッカー選手だった父ヘルマン英語版[6]とオランダ人の母との間に生まれる。幼少の頃から背が高く運動能力に恵まれていた[7]ことや父や3歳上の兄の勧めもあって7歳の時に地元のアムステルダム・スポーツクラブの下部組織に入団し10歳以下のカテゴリーに所属した[7]

1970年にアムステルダム市内のシャッセーストラート地区に引越し、この地区にある広場(大通りの名前にちなんでバルボア広場と呼ばれた)で近所の子供達とストリートサッカーに興じる様になった[8]が、その中には後にオランダ代表やACミランでチームメイトとなるルート・フリットがいた[9]。ライカールトと同様にスリナムにルーツを持ち幼少の頃から身体能力に恵まれていたフリットとは通う学校は違ったものの直ぐに意気投合し親友となった[9]。また、当時のポジションはフォワードで憧れの選手はアルゼンチンマリオ・ケンペスだった[10]

ライカールトはフリットと共にAFC DWS英語版の下部組織に加入しユース年代のカテゴリーに所属[11]。1979年にアムステルダム選抜に選ばれアヤックスのユースチームと対戦した際、オランダ国内で最強と呼ばれたチームを相手に5-1と大勝したことから関係者の関心を集め[11]、責任者のレオ・ベーンハッカーからフリットと共にアヤックスのユースチームへと勧誘された[11]。ライカールトはこの勧誘を受けて同年7月にアヤックスのユースチームへ入団しヴィム・キーフトジェラルド・ファネンブルグとチームメイトとなった[12]。その一方でフリットはトップチームの選手としてプレー出来る環境を希望しアヤックスからの勧誘を断りHFCハールレムへ入団した[12]

クラブ経歴

[編集]

アヤックス

[編集]
アヤックス時代のライカールト。

育成部門の責任者だったベーンハッカーがトップチームの監督に就任。若手選手を積極的に登用する方針を打ち出したベーンハッカーの下で1980-81シーズン開幕前からトップチームの練習に参加する様になり、1980年8月23日に行われたリーグ戦のゴー・アヘッド・イーグルス戦で初出場をした[13]

2年目の1981-82シーズンにはベーンハッカーからクルト・リンダー英語版に監督が交代したものの、リンダーの下でも引き続きレギュラーポジションを獲得[14]。また往年のスター選手であるヨハン・クライフがチームに復帰したこともありリーグ優勝を成し遂げ、翌1982-83シーズンにはリーグ戦とKNVBカップの二冠を獲得した[15]。クライフは1982-83シーズン終了後にフェイエノールトへ移籍したものの、ライカールトはその後も中心選手としてチームを牽引し、1985年には『テレ・フラーフ英語版』紙が選ぶオランダ年間最優秀選手賞に選ばれた[16]

UEFAカップウィナーズカップ1986-87決勝、ロコモティヴ・ライプツィヒ戦のメンバー[17]

1985-86シーズン、現役を引退したクライフがアヤックスの監督(正式には監督ライセンスを所持しておらず、「テクニカルディレクター」という肩書き)に就任した。クライフはマルコ・ファン・バステンを主将にライカールトを副将に抜擢すると、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87へ出場した[18]。この大会で決勝進出を果たすと1987年5月13日に行われた決勝戦ではドイツ民主共和国1.FCロコモティヴ・ライプツィヒを下してクラブにとって14シーズンぶりの国際タイトル獲得に貢献した[19]。また、同年には『テレ・フラーフ』紙が選ぶオランダ年間最優秀選手賞に再び選ばれた[18]

一方、クライフはライカールトに対して「世界最高水準の最も完璧な選手になる才能を保持しているにも関わらず、伸し上がろうとする貪欲さに欠けている」として厳しく接していた[19]。1986-87シーズン終了後に主将のファンバステンがイタリアのACミランに移籍すると新たにライカールトを主将に指名するなど期待をかけていたが、繊細な性格のライカールトはストレスを抱える様になった[20]。1987年6月、2試合のみのレンタル契約でACミランの選手として、ポルトパリ・サンジェルマンとの親善試合に出場した[1]

1987年8月にアヤックスとの契約更新間際にPSVアイントホーフェンとライカールトが極秘に契約を交わしたことが問題となりメディアの注目を集めたが、オランダサッカー協会の仲裁により1987-88シーズンもアヤックスでプレーすることが決まった[21]。しかしシーズン開幕後は調子が上がらず、パフォーマンスに満足しないクライフだけでなく[21]、メディアからも批判を受けることになった[20]。クライフからの要求や自身の契約問題や批判に耐えかねたライカールトは[22]、シーズン最中の9月25日に行われた練習中にクライフに対し「黙れ」と一喝すると、そのまま練習場から去り二度とクライフ指揮下のチームに戻ることはなかった[22]

スポルティングCP

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クライフとの確執以来、自宅にも戻らずライカールトの行方は一切判らなくなっていたが[22]、友人の勧めもありポルトガルリスボンに滞在していた[23]。12月に『フットボル・インターナショナル』誌の取材に応じ[22]「アヤックスを退団しスポルティングCPに入団する」意向であることを明らかにし[24]、代理人を介した移籍交渉が成立し1988年2月8日までにスポルティングの選手となった[25]。一方、アヤックス側が移籍証明書を直ちに発行しなかったことから[25]ポルトガルサッカー連盟がライカールトの選手登録を認めない判断を下したためポルトガルでの出場機会を失い[26]スペインレアル・サラゴサへ3か月間のレンタル移籍をすることになった[26]

サラゴサ

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サラゴサでは1988年3月20日のバレンシアCF戦でリーグデビュー。アヤックスの退団騒動以来6か月近く実戦から遠ざかっていたこともあり、体力消耗を避ける為に本来の守備的なポジションではなく、攻撃的ミッドフィールダーのポジションで起用され、11試合でフル出場を果たした[27]。一方でシーズン最中の、5月4日にアヤックス時代の監督であるクライフがFCバルセロナの監督に就任することが決まると、「バルセロナに欠けている条件を満たすことが出来るのはライカールトだけである」としてクライフ自ら獲得に名乗りを上げた[28]。クライフはライカールト獲得に熱意を見せたものの[29]、この獲得競争にはイタリアのACミランもバルセロナに先んじて名乗りを上げており、ライカールトはミラン側の掲示した条件(7億ペセタ(約9億8千万円)の契約金[29])を受け入れミランへ移籍することが決まった。

ACミラン

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国際タイトルの獲得

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オランダトリオの1人であるルート・フリット。ライカールトと同様にスリナムにルーツを持ち、ドレッドロックスの風貌とカリスマ性を備えていた[30]
オランダトリオの1人であるマルコ・ファン・バステンバロンドールを3度受賞するなど高い評価を得ながらも、選手経歴の晩年には足首の怪我に悩まされた[31]
UEFAチャンピオンズカップ 1988-89決勝、ステアウア・ブカレスト戦のメンバー[32]

ミランがライカールトの獲得に乗り出した背景には1988-89シーズンからセリエAの外国人選手枠が1チームに付き従来の2人から3人に拡大したことが挙げられる[33]。その際にライカールトの獲得を要望したのは監督のアリゴ・サッキであり[34]、オーナーのシルヴィオ・ベルルスコーニカルチョ・コモにレンタル移籍中だったアルゼンチンクラウディオ・ボルギをチームに復帰させることを要望していた[34]

ミランではフリットやファン・バステンといったオランダ代表の同僚と共に「オランダトリオ」を形成。それまでセンターバックやリベロとして起用される機会の多かったライカールトだが、サッキ監督の志向したプレッシングスタイルのサッカーの下では守備的ミッドフィールダーとして起用され[33]、相手の攻撃の目を摘み取る一方でパスを散らして試合をコントロールする役割を担い[33]フリットやファン・バステンらの攻撃陣を後方から支援した。

1988-89シーズン、8月21日にコッパ・イタリアで対戦した、ブレシア戦で公式戦デビューを果たし、この試合ではセンターバックのポジションで起用された[1]。リーグ第6節のアタランタ戦で移籍後初ゴールを決めた[1][35]。リーグ戦ではローター・マテウスを擁するインテル・ミラノディエゴ・マラドーナを擁するSSCナポリに競り負け3位でシーズンを終えたものの、チャンピオンズカップでは1回戦でブルガリアヴィトシャ・ソフィア、1回戦でユーゴスラビアレッドスター・ベオグラード、準々決勝で西ドイツのヴェルダー・ブレーメンを下し準決勝進出を果たした。準決勝はスペインのレアル・マドリードとの対戦となり敵地での第1戦を1-1で引き分けたものの、ホームでの第2戦ではライカールトの得点などで5-0と大勝して決勝進出を果たした[36]。1989年5月24日にスペインのバルセロナで行われた決勝のステアウア・ブカレスト戦ではフリットとファンバステンがそれぞれ2得点をあげ4-0のスコアでステアウアを下し[37]1969年以来となる20年ぶり2度目のチャンピオンズカップ優勝を成し遂げた[37]。この試合でライカールトは後半開始早々に、巧みなボールコントロールから相手DFを置き去りにし、ファン・バステンの2点目のゴールをアシストした[38][39]

ライカールトはミランやオランダ代表での活躍もあり1988年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では1位のファン・バステン(129ポイント)、2位のフリット(88ポイント)に次いで3位(45ポイント)に選ばれ、翌1989年の投票でも1位のファン・バステン(129ポイント)、2位のフランコ・バレージ(80ポイント)に次いで3位(43ポイント)に選ばれる評価を受けた[40]

1989-90シーズンにはリーグ戦での優勝を2季連続で逃したものの、国際舞台ではUEFAスーパーカップではスペインのバルセロナを下し、ヨーロッパチャンピオンとして挑んだトヨタカップではコロンビアアトレティコ・ナシオナルを下しタイトルを獲得。チャンピオンズカップでは2年連続で決勝進出を果たすと、1990年5月23日にオーストリアウィーンで行われた決勝のSLベンフィカ戦では27分にファン・バステンからのスルーパスを受けて右足アウトサイドで決勝点を決め[41]、1-0のスコアでベンフィカを下し大会2連覇に貢献した[42]。1989-90シーズンにはフリットが膝の重傷を負い長期離脱していたものの[5]、彼に代わってチームを牽引するようになり、サッキ監督から「トータルミッドフィールダー」と評された[5]

1990-91シーズンのUEFAスーパーカップではイタリアのUCサンプドリアを下し大会連覇。1990年12月に行われたトヨタカップではパラグアイオリンピアとの対戦となったが、この試合で2得点を決めて大会連覇に貢献すると共に最優秀選手に選ばれた[43]。この試合での活躍を『ガゼッタ・デロ・スポルト』紙は「彼が高レベルの才能の持ち主であることを証明した」と報じるなど[44]、当時28歳のライカールトはキャリアのピークを迎えていた[44]

オランダトリオの終焉

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チャンピオンズカップの準々決勝ではフランスオリンピック・マルセイユとの対戦となりホームでの第1戦を1-1で引分け、敵地での第2戦を迎えた。試合は72分にマルセイユのクリス・ワドルが得点を決め先制した[45]直後に場内の照明設備の一つが消灯し[46]、マルセイユサポーターがピッチに入り込んだため、ミランの選手全員が更衣室に一時引き上げた[46]。照明の問題は解決したもののミランの選手達が試合続行を拒否する事態となり、欧州サッカー連盟 (UEFA) はこの試合を没収試合としてマルセイユの3-0の勝利とする決定を下し[46]、ミランに対しては1年間の欧州での国際試合出場を禁止する処分を下した[46]。これによりミランはチャンピオンズカップ3連覇を逃した。セリエAでの優勝争いは最終節までもつれたものの、ジャンルカ・ヴィアリロベルト・マンチーニらを擁するUCサンプドリアに競り負け3季連続でリーグタイトルを逃す結果となり、シーズン終了後にサッキ監督は辞任した[44]

1991-92シーズンからは新監督にファビオ・カペッロが就任。国内リーグ戦ではオランダトリオが好調を維持し2位のユヴェントスに勝ち点8差を付け無敗で優勝を達成した[47]、優勝を決めた第32節のナポリ戦では1ゴールを挙げて勝ち点1獲得に貢献、チームは優勝を果たした[48]。1992-93シーズンもリーグ連覇を成し遂げたほか、前シーズンの1991年5月19日から1993年3月21日に行われたパルマ戦で敗れるまで58試合無敗の記録を打ち立てた[47]。ライカールトは1992-93シーズンのリーグ戦では22試合に出場し2ゴール7アシスト、チャンピオンズリーグでは6試合3ゴール1アシストと中心選手としてチームを牽引したが、一方で他の2人は負傷を抱え10数試合に出場するに留まり、フリットはチーム内でのトラブルの末にシーズン終了後に退団[49]。ファン・バステンはチャンピオンズリーグ決勝のオリンピック・マルセイユ戦を最後に実戦から遠ざかった[50](1995年に引退[50])。ライカールトはシーズン終了後に契約延長のオファーを受けたが[51]、この申し出を辞退し退団することが決まった[51]

1993年5月30日に行われたセリエA第33節・ブレシア・カルチョ戦がミランでの最後の試合となった[52]。この試合でライカールトは81分にアルベルティーニの先制点をアシスト[53]。試合は引き分けに終わったものの、優勝という形で最後を締めくくった[52]

アヤックスへの復帰と引退

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1993-94シーズンからは古巣のアヤックスに復帰する事が決まった。当時のチームにはエドガー・ダービッツクラレンス・セードルフらといった若手選手が数多く在籍しており、ルイ・ファン・ハール監督から「彼らの手本となり経験を伝えて欲しい」と依頼されたことも復帰する上での動機となった[54]。平均年齢23歳と若いチームの中でライカールトはベテランのダニー・ブリントと共にチームを牽引し1993-94シーズンにはリーグ戦30試合出場10得点を記録しリーグ優勝に貢献した[55]

翌1994-95シーズンもリーグ戦26試合出場2得点を記録し連覇を達成[55]。10月26日のヘーレンフェーン戦で決めたゴールが現役ラストゴールとなった。UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95ではグループリーグで古巣のACミランを相手にホームと敵地で共に2-0と勝利し、決勝トーナメント進出を果たし、準々決勝でクロアチアハイデュク・スプリト、準決勝でドイツのバイエルン・ミュンヘンを下し決勝進出を果たす。この時のファン・ハール指揮下のチームはサッキの指揮したACミランやクライフの指揮したFCバルセロナと並び高い評価を得た[56]。決勝では1995年5月24日にオーストリアウィーンで行われ、古巣のACミランとの対戦となったが、この試合で守備的ミッドフィールダーとして起用されたライカールトは0-0で迎えた85分にパトリック・クライファートの決勝点をアシストし1-0の勝利に貢献した[57]

ヨーロッパチャンピオンとなった3日後、同年5月28日にホームのデ・メール・スタディオン英語版で行われたFCトゥウェンテ戦を最後に現役引退を発表した[58]

代表経歴

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1980年にオランダユース代表に選ばれ同年4月にフランスカンヌで開催された国際大会でデビュー[59]。5月からはドイツ民主共和国で開催されたUEFAユーストーナメントに出場し、1981年にオーストラリアで開催される1981 FIFAワールドユース選手権の出場権獲得に貢献したが、オランダサッカー協会は出場を辞退した[60][61]

1981年、ケース・ライフェルス英語版監督の下でフリットやキーフトらと共にオランダ代表に初招集され9月1日に敵地のチューリヒで行われたスイス戦で代表デビューを飾った[2][14]。1983年12月17日に行われたUEFA欧州選手権1984予選マルタ戦ではエルウィン・クーマンとの交代で後半から出場し代表初得点を記録した。この試合でのライカールトの2得点の活躍もあってオランダはマルタ戦終了時点で全日程を消化し2位のスペインに対し得失点差11をつけて優位に立っていたものの[62]、スペインが12月21日に行われたマルタ戦で12-1と大勝し最終的に得失点差を覆したため本大会出場を逃した[62]

1984年から始まった1986 FIFAワールドカップ・予選では代表チームのレギュラーに定着し、同予選のH組でオランダはハンガリーに次いで2位となりベルギーとのプレーオフに進出した。プレーオフでは1勝1敗2得点2失点の成績で並んだものの、アウェイゴール2倍のルールが適用されて1984年の欧州選手権に続いて本大会出場を逃した[63]

UEFA欧州選手権1988

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1986年から始まったUEFA欧州選手権1988予選ではリヌス・ミケルス監督の下で引き続き代表チームのレギュラーを務め同予選の5試合に出場したが、1987年9月のアヤックスからの退団騒動もあり代表チームからは遠ざかった[64]。オランダ代表はライカールトを欠いたものの本大会出場権を獲得したが、ミケルス監督はライカールトを必要な人材と考えサラゴサへの移籍後も視察に訪れており[65]、最終的に1988年6月に西ドイツで開催される本大会のメンバーとして招集することを決めた[66]

この大会でライカールトはロナルド・クーマンと共にセンターバックを務めたが彼とはユース代表時代からの旧知の間柄であり[67]、守備や最終ラインからのパス供給で試合をコントロールするだけでなく[67]、一方が攻撃参加を行う際にはもう一方が攻撃参加によって生じたスペースのカバーリングを行うなど最終ラインのコンビネーションは円滑に行われた[67]。オランダ代表はグループリーグ初戦でソビエト連邦に敗れたものの尻上がりに調子を上げ、イングランドアイルランドを退けグループリーグ2位の成績で決勝トーナメント進出。準決勝で地元の西ドイツを破り決勝進出。決勝ではグループリーグで敗れたソビエト連邦との再戦となったが、ライカールトはキーパーのハンス・ファン・ブロイケレンとともにソ連のオレグ・プロタソフイーゴリ・ベラノフのツートップを抑えると[39][68]、フリットとファンバステンの得点により2-0のスコアで下し初優勝を成し遂げた[68]

この大会での活躍によりライカールトはファンバステン、フリット、クーマンと共に国際的なスター選手としての評価を得た[67][69]

1990 FIFAワールドカップ

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欧州選手権終了後にミケルス監督が退任し、後任としてテイス・リブレフツ英語版が監督に就任。1988年9月から始まった1990 FIFAワールドカップ・予選では西ドイツ、ウェールズフィンランドと同じグループとなったが無敗で予選突破を決めた。しかし、リブレフツ監督が「フリットやライカールトらの黒人選手は白人選手よりも問題がある」との人種差別発言がサッカー専門誌に掲載されると波紋を呼び[70]、代表選手がリブレフツの解任を求める事態となった[70]。その際、選手達は後任監督についてFCバルセロナで監督を務めるクライフの就任を要望したが[70]、代表監督退任後にオランダ協会のテクニカル・ディレクターを務めていたミケルスは大会の1か月前にクライフではなく、ベーンハッカーを監督に指名した[70]。この決定についてクライフの監督就任を望んでいた選手達は不満を抱くことになった[70]

決勝トーナメント1回戦の西ドイツ戦ではルディ・フェラーとトラブルとなり双方とも退場処分を受けた。ライカールトが行動に至った背景にはフェラーによる侮辱的発言があったといわれ物議を醸したが、後に当事者双方が否定した。

1990年6月にイタリアで開催された本大会では2年前の欧州選手権とほぼ同じ代表メンバーを揃えながらもグループリーグ初戦で各下と見做されていた[71]エジプトと1-1で引分け。続くイングランド戦とアイルランド戦も引分けに終わりイングランドとアイルランドとで勝ち点、得失点差で並んだ為、国際サッカー連盟 (FIFA) による抽選によりグループ3位で決勝トーナメント進出を決めた[71]

ミラノで行われた決勝トーナメント1回戦は西ドイツとの対戦となったが、この試合においてオランダ陣内で西ドイツのFWルディ・フェラーとの間でトラブルが発生した。20分にオランダ陣内のタッチライン際でドリブルを仕掛けるフェラーにライカールトがスライディングを仕掛けて転倒させたため主審から警告を受け[72]、フェラーもライカールトに駆け寄り口論となったため主審から警告を受けた[72]。その直後のフリーキックの場面でフェラーはアンドレアス・ブレーメから供給されたボールを追ってペナルティエリア内でGKハンス・ファン・ブロイケレンと接触し転倒[72]。その際に再びライカールトと口論になったため、主審は両者に退場を命じた[72][73]。退場となりピッチから退く際に、ライカールトはフェラーを追いかけて唾を吐きかけた[74]。この事件は物議を醸し、オランダとドイツの国境では暴動が発生する事態となった[74]

この事件の経緯について、交錯した際にフェラーがライカールトに対し侮辱する内容の発言をした[72][75][76]と言われているが、フェラー自身は「なぜ反則をしたんだ」と問いただしただけだと主張し[76]、ライカールトも「ドイツ人を憎んでいない。振り返ると些細な話だ」と述べるなど、両者は互いに険悪な関係や人種差別的意図はなかったとしている[76]。なお、試合中に黒人選手がボールを持つたびに観客から非難を意味する口笛が吹かれており負の感情が連鎖した、との証言もある[77]

試合は両チームの主力選手を欠き10人対10人の試合となり1-2でオランダが敗れたが、白熱した展開となったことから[75]専門家のブライアン・グランヴィル英語版は「凡戦となったこの大会の決勝戦よりも遥かに決勝に相応しい。ワールドカップ史上に残る試合[75]」「両者の退場も試合内容を損なわなかった[75]」と評している。また二人が退場したことによる影響について賀川浩は「点取り屋のフェラーを失った西ドイツよりも攻守の舵取り役のライカールトを失ったオランダの方が影響は大きかった」と評している[72]。一方、オランダ代表の内部では大会前からの内紛の影響もあって大会を通じて秩序や団結心を喪失しており[73]、ライカールトは大会終了後に代表チームからの引退を表明した[78]

UEFA EURO '92

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代表チームからの引退を表明し復帰を拒否していたライカールトだが、1990年のワールドカップ終了後に監督に就任したミケルスの説得もあり[79]、1991年9月11日にアイントホーフェンで行われたポーランドとの親善試合で代表復帰を果たし、UEFA EURO '92予選の2試合に出場。1992年6月からスウェーデンで開催された本大会ではファン・バステン、フリット、クーマンらの前回優勝メンバーにデニス・ベルカンプブライアン・ロイらの若手が加わり、グループリーグではスコットランドや西ドイツを下して決勝トーナメント進出を果たすと優勝候補の最右翼と目された[80]。ライカールトは守備ラインに留まらず、前方のスペースに積極的に飛び出し攻撃に絡む動きを見せ[80]、グループリーグ初戦のスコットランド戦ではベルカンプの決勝点をアシスト、第3戦の西ドイツ戦と準決勝のデンマーク戦で1得点ずつを挙げる活躍を見せたが、準決勝でダークホースのデンマークにPK戦の末に敗れ大会連覇を逃した[81][82]

1994 FIFAワールドカップ

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EURO92での敗退後に監督に就任したディック・アドフォカートの下でもレギュラーを務め、1994 FIFAワールドカップ・予選ではノルウェーやイングランドを退けて2大会連続でワールドカップ出場を果たした[83]。一方、ファン・バステンが足首の怪我[84]。により辞退、フリットがアドフォカートとの対立が原因となり大会の出場辞退を表明するなど[83]、新旧交代の時期に差しかかり、ライカールト自身もこの大会を最後のワールドカップとして捉えていた[85]

1994年6月にアメリカ合衆国で開催された本大会ではグループリーグで第2戦のベルギー戦で敗れたものの2勝1敗の成績で決勝トーナメント進出を果たし、決勝トーナメント1回戦ではアイルランドを下し準々決勝進出を果たした。準々決勝のブラジル戦は「この大会で最高の試合」と評されたものの2-3のスコアでオランダが敗れた[86]。ライカールトは、この試合を最後に32歳で代表チームから引退した[86]。通算成績は国際Aマッチ73試合出場10得点[86]。そのうち71試合に先発出場し[86]2試合で主将を務めた[83]

指導者経歴

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引退後はサッカー界から退くと直ちにアパレル業界に進出し、自らのデザイナーブランドを立ち上げ、男性用の下着類を取り扱っていた[87]。2年後の1997年に業界から退き、サッカー界への復帰を決意するとオランダサッカー協会の主催する6か月間の特別講習を受講し監督ライセンスを取得した[87]。1998年6月にフランスで行われた1998 FIFAワールドカップの際にはフース・ヒディンク監督から勧誘を受けて、代表チームのアシスタントコーチを務めた[88]

オランダ代表

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ワールドカップ終了後にヒディンクが監督を辞任したことを受けて、オランダサッカー協会は2000年に隣国のベルギーとの間で共同開催されるUEFA EURO 2000に向けた新監督の選定に取り掛かり、ミケルスやクライフ、ヒディンク前監督らの推薦を受けてライカールトが代表の監督に選ばれた[89]。ライカールトはこれまでクラブや代表チームを率いた経験が一度もなかったものの、ヒディンクの下でアシスタントコーチを経験し、チームの内情を熟知し尚且つ尊敬を受けていた点が決め手となった[89]。一方で、コー・アドリアーンセの様に、この決定に対して異議を唱える者も多かった[90]

ロナルド・クーマンやヨハン・ニースケンスをアシスタントコーチとして迎え、1998年10月10日に行われたペルーとの親善試合を皮切りに本大会までに17試合を消化し、2000年6月の本大会を迎えた。ライカールトはEURO優勝の目標を掲げ[91]、グループリーグではチェコデンマークに勝利し、第3戦でフランスに敗れたもののグループ首位で決勝トーナメント進出を果たした。準々決勝ではユーゴスラビアに6-1と大勝し準決勝進出を決めたが、準決勝のイタリア戦では相手が退場者を出し数的優位に立ちながらも守備を崩しきれず0-0のスコアのまま延長戦でも決着がつかずPK戦の末に敗れた。試合終了後の記者会見の場でライカールトは「私は失敗した。我々は前半に試合を支配しながらも得点を決めることが出来ず、得点できないことで弱気に取り付かれてしまった。それに対してイタリアは賢く組織的で、素晴らしい守備をした」と発言し辞意を表明した[92]

スパルタ・ロッテルダム

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2000-01シーズンからはスパルタ・ロッテルダムの監督に就任した。なお、スパルタは伝統あるクラブだが組織や資金面に乏しい点から、クライフをはじめ周囲からは監督就任を辞退する様にアドバイスを受けていた[93]。シーズン中盤まではリーグ戦で中位につけていたものの主力選手の負傷や選手の来季の契約問題などからチーム内の士気が低下[93]。クラブ史上初の2部リーグ降格という結果をもたらすと[93]、2002年5月に辞任した[94]

バルセロナ

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バルセロナ監督時代のライカールト。左からシャビ・エルナンデス、ライカールト、ロナウジーニョカルレス・プジョル

2003年6月、ライカールトはオランダ領アンティル代表チーム監督就任のオファーを受け準備を進めていたが[95]、時を同じくしてスペインのFCバルセロナから年俸100万ユーロ(約1億2000万円)2年契約(成績に応じて契約期間を更に2年間延長できるオプション付き)のオファーを掲示され契約に合意[96]。6月23日に就任記者会見を行った[97]

この監督就任の背景にはバルセロナの首脳陣に対するヨハン・クライフによる推薦があった。会長のジョアン・ラポルタは同年6月の会長選挙で当選後、幹部のサンドロ・ロセイアイトール・ベギリスタインらと共に新監督の選定に着手し、候補としてフース・ヒディンクやロナルド・クーマンの名が挙げられていた[98]。彼らから相談を受けた際にクライフは両者がオファーを受け入れる可能性が低いことを指摘し[98]、自身が保障の出来る人物としてファン・バステンとライカールトの名前を挙げた[99]。ファン・バステンについては監督ライセンスを所持しておらず監督経験がなかったことからクライフ自ら却下し[99]、ライカールトを「選手としても監督としても素晴らしい哲学の持ち主であり、内容のあるサッカーを好む人物」として推薦するに至った[99]。クライフの推薦があったとはいえ、バルセロナの首脳陣はヒディンクやクーマンとの交渉を優先しライカールトは3番手の候補と見做していた[100]

UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06 決勝アーセナル戦のメンバー[101]

バルセロナでの初采配となった2003-04シーズンではブラジルロナウジーニョが加わるも、リーグ戦序盤は成績が伸び悩み前期を終了した時点で首位のレアル・マドリードに対し勝ち点差15をつけられていたが、後期に入ると15試合連続無敗を維持するなど最終的に2位でシーズンを終え、UEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得した[102]

2004-05シーズンではポルトガルデコカメルーンサミュエル・エトーが新たに加わり、リーグ戦では第6節で首位に立つとその座を維持し続け、最終節を待たずして2005年5月14日のレバンテUD戦で5シーズンぶりの優勝を決めた[103]。同年7月には契約期間を更に2年延長し2009年6月までとすることに合意した[104]

2005-06シーズンではロナウジーニョ、エトー、シャビ・エルナンデスといった主力選手のコンビネーションも強化され、リーグ戦では14連勝を記録[105]するなど18試合連続で無敗を続け2連覇を達成。UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06ではグループリーグを勝ち抜いた後、チェルシーFCSLベンフィカACミランを下して決勝に進出。決勝ではイングランドアーセナルFCを2-1で下し、1991-92シーズン以来となる2度目の優勝を成し遂げた[106]。なお、ライカールトは選手としても監督としてもヨーロッパチャンピオンを経験したが、ライカールト以外にはミゲル・ムニョスジョヴァンニ・トラパットーニヨハン・クライフカルロ・アンチェロッティジョゼップ・グアルディオラジネディーヌ・ジダンがいる[106]

バルセロナを指揮した実績により2005年から2006年にかけてUEFAクラブ・フットボール・アワード最優秀監督賞、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 世界最優秀監督、オンズドール年間最優秀監督賞をそれぞれ1回、ドン・バロン・アワード年間最優秀監督賞を2回受賞するなどの評価を得た。

一方、2006-07シーズンを前にライカールトの参謀役を務めていたヘンク・テン・カテがチームを退団[107]。シーズンが始まると主力選手の負傷離脱やパフォーマンス低下もあり[108]無冠に終わるとライカールトの手腕を疑問視する声が現れ始めた[108]

2007-08シーズンではロナウジーニョの退団騒動が持ち上がる[109]など内紛が続き、2008年5月7日に行われたレアル・マドリードとの一戦(エル・クラシコ)で1-4と大敗[110]を喫するなど2季連続でタイトルを逃すことが確定すると、翌5月8日にラポルタ会長からライカールトの2007-08シーズン限りでの解任が発表された[110]。5月17日のリーグ戦第38節、レアル・ムルシア戦がバルセロナでの最後の指揮となり、ジョバニ・ドス・サントスの3得点などで5-3と勝利した[111]

ガラタサライ

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2009年6月5日、トルコガラタサライSKの監督に就任した[112]。2009-10シーズンのリーグ戦では優勝を逃し3位となり[113]、2010-11シーズンのリーグ戦では8試合を終了した時点で首位との勝ち点差8の9位と成績が低迷し[113]、また、UEFAヨーロッパリーグ 2010-11予選ではプレーオフに進出するもウクライナFCカルパティ・リヴィウに敗れ本大会出場を逃した[113]。2010年10月19日に双方合意の下、契約を解除した[113][114]

サウジアラビア代表

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2011年6月28日、サウジアラビア代表の監督に就任した[115]。契約期間は3年[115]2014 FIFAワールドカップ・アジア2次予選では香港に大勝し3次予選進出を決めたが、同年9月から2012年2月にかけて行われた3次予選ではオーストラリアオマーンに競り負け、1勝3分2敗の成績で予選敗退となった[116]

2013年1月にバーレーンで開催されたガルフカップ2013ではイエメンに勝利したもののイラククウェートに敗れ1勝2敗の成績でグループリーグ敗退という結果に終わると同年1月16日に監督を解任された[117]

人物

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選手時代にはセンターバックボランチ攻撃的ミッドフィールダーを務める多才さで攻守にわたりチームに貢献し、オランダ代表ACミランでチームメイトだったマルコ・ファン・バステンルート・フリットと比べて最も安定度のある選手とも評される[118]。ACミランでは攻守を支える柱となり、フリットの欠場時には背番号10番をつけてプレーしたこともあった[119]

足元の正確な技術に加え戦術的な洞察力、激しい守備に対応する屈強な身体能力を持ち合わせており[120]、そのプレースタイルから「ハリケーン」とも評された[120]。一方でファン・バステンやフリットに比べ低評価を受けていたともいわれるが[118][121]、ファン・バステンは1992年のバロンドール授賞式の際にライカールトについて次のように評した。

ライカールトがバロンドールの投票で10位という結果に終わったのは理解しがたい。彼は優れた選手であるにも関わらず評価が低いのは残念だ。彼は技術、知性、戦術眼を備えており、あらゆるプレーを体現、あらゆる局面に対応する。彼がいなければ私はバロンドールを一度も受賞することは出来なかっただろう[121]

一方で普段は冷静な性格であるにも関わらず、選手時代には1987年のヨハン・クライフとの衝突や、1990年のルディ・フェラーへの唾吐き事件など思わぬ局面で感情を爆発させることがあった[122]。クライフは衝突の経緯についてライカールトの控えめな性格を挙げており、「1番になりたいのなら、相手の出方を待つのではなく、積極的にボールを奪え」と諭したことが対立の原因となったと語っている[123]

監督としては、相手チームの詳細な分析を行ったりチーム全体に戦術を浸透させるタイプではなく、選手のイマジネーションといった感覚的な要素を重視し、個々の選手の相性やポジション配置によって生み出されるコンビネーションを高めることに時間を費やした[124]バルセロナで2005-06シーズンに国内リーグとUEFAチャンピオンズリーグの2冠を達成した際には「ドリームチームの再来」と評価を得たが、次第に選手個々のコンディショニングや意欲の面で差異が生じるようになるなど、チーム状態が下降した際の対応策を持ち合わせてはいなかった[124]

1989年6月にスリナム系オランダ人によるオランダ代表(通称:カラフル・イレブン)がスリナムに遠征した際にスリナム航空764便墜落事故に遭遇し、選手18名中15名が死亡した(3名の生存者の内競技に復帰できた者は1名のみ)。このカラフル・イレブンにライカールトも選出されていたが、所属クラブの意向で辞退した為に命拾いしている。尚、フリットも同様の理由で命拾いしている。

個人成績

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クラブでの成績

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1994-95シーズン終了時の成績[125][126]

クラブ シーズン リーグ カップ 欧州カップ その他 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
アヤックス 1980-81 24 4 6 0 1 1 0 0 31 5
1981-82 27 4 1 0 0 0 0 0 28 4
1982-83 25 3 6 1 0 0 0 0 31 4
1983-84 23 9 2 0 1 0 0 0 26 9
1984-85 34 7 4 1 4 1 0 0 42 9
1985-86 31 9 6 4 2 0 0 0 39 13
1986-87 34 7 7 0 9 2 0 0 50 9
1987-88 8 3 0 0 1 1 0 0 9 4
小計 206 46 32 6 18 5 0 0 256 57
スポルティングCP 1987-88 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
小計 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
レアル・サラゴサ 1987-88 11 0 0 0 0 0 0 0 0 0
小計 11 0 0 0 0 0 0 0 0 0
ACミラン 1988-89 31 4 6 0 9 1 1[注釈 1] 1[注釈 1] 47 6
1989-90 29 2 6 0 11 2 1 [注釈 2] 0[注釈 2] 47 4
1990-91 30 3 2 0 6 1 1[注釈 3] 2[注釈 3] 39 6
1991-92 30 5 5 0 0 0 0 0 35 5
1992-93 22 2 5 0 6 3 0 0 33 5
小計 142 16 24 0 32 7 3 3 201 26
アヤックス 1993-94 30 10 4 0 6 1 1[注釈 4] 0[注釈 4] 41 11
1994-95 26 2 2 0 10 0 1[注釈 5] 0[注釈 5] 39 2
小計 56 12 6 0 16 1 2 0 80 13
通算 415 74 62 6 66 13 5 3 548 96

代表での成績

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オランダ代表として最後の試合となった1994年7月9日のブラジル戦までの出場数[2]

オランダ代表
国際大会 親善試合 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1981 0 0 1 0 1 0
1982 1 0 4 0 5 0
1983 1 2 2 0 3 2
1984 1 0 1 0 2 0
1985 4 0 1 0 5 0
1986 3 0 1 0 4 0
1987 2 0 2 0 4 0
1988 7 0 3 0 10 0
1989 4 0 1 0 5 0
1990 4 0 3 1 7 1
1991 2 0 1 0 3 0
1992 7 2 4 1 11 3
1993 4 0 0 0 4 0
1994 4 0 5 4 9 4
通算 44 4 29 6 73 10

オランダ代表として最後の試合となった1994年7月9日のブラジル戦までの得点数[2]

監督成績

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2013年12月21日現在[127][128]
チーム 就任 退任 記録
試合 勝利 引分 敗戦 勝率
オランダ 1998年6月 2000年7月 22 8 12 2 036.36
スパルタ・ロッテルダム 2001年6月 2002年5月 38 6 12 20 015.79
FCバルセロナ 2003年7月 2008年5月 273 160 63 50 058.61
ガラタサライSK 2009年6月 2010年10月 67 37 15 15 055.22
サウジアラビア 2011年6月 2013年1月 27 7 9 11 025.93
合計 427 218 111 98 051.05

獲得タイトル

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脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b 1988年スーペルコッパ・イタリアーナ
  2. ^ a b 1989年トヨタカップ
  3. ^ a b 1990年トヨタカップ
  4. ^ a b 1993年オランダ・スーパーカップ
  5. ^ a b 1994年オランダ・スーパーカップ

出典

[編集]
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参考文献

[編集]
  • 国吉好弘『サッカーマルチ大事典 改訂版』週刊サッカーマガジン責任編集、ベースボール・マガジン社、2006年。ISBN 4-583-03880-1 
  • ジョナサン・ウィルソン 著、野間けい子 訳『サッカー戦術の歴史』筑摩書房、2010年。ISBN 978-4-480-87822-9 
  • サイモン・クーパー 著、柳下穀一郎 訳『サッカーの敵』後藤健生解説、白水社、2001年。ISBN 4-560-04960-2 
  • サイモン・クーパー 著、田邊雅之 訳「グランデ・ミランの神話を巡る オランダトリオ美しき衝撃 フリット、ファンバステン、ライカールト」『Sports Graphic Number』 767号、文藝春秋、2010年。 
  • ブライアン・グランヴィル 著、田村修一、土屋晃、田邊雅之 訳『決定版ワールドカップ全史』賀川浩監修、草思社、1998年。ISBN 4-7942-0818-9 
  • 地球の歩き方編集室 編『地球の歩き方プラスワン405 欧州サッカー観戦ガイド』ダイヤモンド社、2005年。ISBN 4-478-03774-4 
  • トニー・フリエロス 著、山名洋子 訳『フランク・ライカールト--狂気を秘めた人格者』サッカー・プラネット監修、東邦出版、2008年。ISBN 978-4-8094-0728-4 
  • 村松尚登『スペイン人はなぜ小さいのにサッカーが強いのか』ソフトバンククリエイティブ、2010年。ISBN 978-4-7973-5237-5 

外部リンク

[編集]