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ズビグニェフ・ボニエク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ズビグニェフ・ボニエク
2015年のボニエク
名前
本名 ズビクニェフ・カジミェシュ・ボニエク
Zbigniew Kazimierz Boniek
愛称 ジビ、Bello di notte(美しい夜)
ラテン文字 Zbigniew Boniek
基本情報
国籍 ポーランドの旗 ポーランド
生年月日 (1956-03-03) 1956年3月3日(68歳)
出身地 ブィドゴシュチュ
身長 181cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW / MF (CF, OH)
ユース
1966-1973 ポーランドの旗 ザヴィシャ・ブィドゴシュチュ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1973-1975 ポーランドの旗 ザヴィシャ・ブィドゴシュチュ 41 (14)
1975-1982 ポーランドの旗 ヴィジェフ・ウッチ 172 (50)
1982-1985 イタリアの旗 ユヴェントス 81 (14)
1985-1988 イタリアの旗 ローマ 76 (17)
通算 367 (95)
代表歴
1976-1988 ポーランドの旗 ポーランド 80 (24)
監督歴
1990-1991 イタリアの旗USレッチェ
1991-1992 イタリアの旗ASバーリ
1992-1993 イタリアの旗サン・ベネデッテーゼ
1994-1996 イタリアの旗USアヴェリーノ
2002 ポーランドの旗ポーランド代表
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ズビグニェフ・ボニエクZbigniew Boniek, 本名:ズビクニェフ・カジミェシュ・ボニエク、Zbigniew Kazimierz Boniek1956年3月3日 - )は、ポーランドビドゴシチ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFWMF

スピードに優れ、ディエゴ・マラドーナは世界最高のカウンターアタック選手と評した[1]

経歴

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地元のサッカークラブ、ザヴィシャ・ビドゴシチでサッカーを学び、1975年にヴィジェフ・ウッチと契約して選手キャリアをスタートさせる。当初はDFとしてプレーしていたが、後にFWへ転身した。1976年にポーランド代表デビューを果たすと1978、1982、1986年と3度のワールドカップ出場に導いた。1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会ではメキシコ戦で2ゴールを挙げた[2]。またチームは2次リーグまで進出した。1982年のワールドカップ・スペイン大会ではペルー戦で1ゴール2アシスト[2]ベルギー戦でハットトリックを決めるなど[1][2][3]、チームを準決勝に導いたが、累積警告でイタリア戦には出場出来ず、チームは敗れたが[1]、3位決定戦のフランス戦でも1アシストで勝利に貢献し、チームの3位入賞に貢献、MVP投票で4位に入る活躍で、同年のバロンドール投票では第3位に選ばれた[4]。代表チームでは80試合に出場26ゴールを挙げた[1]

1982年、イタリアのユヴェントスへ移籍すると直ぐにレギュラーの座を掴み、また特にミシェル・プラティニとは良い連携を見せた[3]。1983-1984シーズンのセリエA優勝、チャンピオンズカップでは決勝でハンブルガーSVに破れた[3]。翌1984-1985シーズンのスーパーカップでは2得点を挙げて優勝[5]。また同年のUEFAチャンピオンズカップ決勝のリヴァプールFC戦では相手DFの裏に抜け出し、PKを奪取[1][3]、そのPKをプラティニが決め、ユベントスは初の欧州制覇を成し遂げた[3]。それらの活躍によりユヴェントス会長のジャンニ・アニェッリから「 Bello di notte(美しき夜) 」の愛称を与えられた[1]

その後1985年にASローマへ移籍、1986年にはコッパ・イタリア決勝でサンプドリアを破り優勝[3]、同年のワールドカップ・メキシコ大会ではラウンド16まで進出したが、ブラジルに敗れた。1985-86シーズンは古巣ユベントスに競り負け優勝を逃したがリーグで2位に貢献[1]、1987-88シーズンを最後に現役引退をした。

引退後は指導者の道へ進み、主にイタリアの地方クラブで指揮を執った後に、2002年7月からはポーランド代表監督に就任したが同年12月に退任している。その後はイタリアの放送局 Rai Due の Domenica Sportiva という番組で解説者を務めていたが、2012年ポーランドサッカー協会の代表に就任した[1]。2019年にはイタリアサッカー界の殿堂入りも果たした[1]

個人タイトル

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脚注

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外部リンク

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