アベディ・ペレ
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名前 | ||||||
本名 | Abédi Ayew | |||||
愛称 | アフリカのマラドーナ | |||||
カタカナ | アベディ・アイェウ | |||||
ラテン文字 | ABEDI PELÉ | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ガーナ | |||||
生年月日 | 1964年11月5日(60歳) | |||||
出身地 | ドメ | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 64kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW/MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
197?-1978 | グレート・ファルコンズ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1980-1982 | レアル・タマレ・ユナイテッド | 46 | (21) | |||
1982-1983 | アル・サッド | 8 | (7) | |||
1983-1984 | チューリッヒ | 18 | (9) | |||
1984 | ドラゴンズ・ウエム | 8 | (11) | |||
1985 | レアル・タマレ・ユナイテッド | 19 | (7) | |||
1986-1987 | シャモア・ニオール | 34 | (12) | |||
1987 | ミュルーズ | 16 | (5) | |||
1987-1988 | マルセイユ | 9 | (0) | |||
1988-1990 | リール | 61 | (16) | |||
1990-1993 | マルセイユ | 103 | (23) | |||
1993-1994 | リヨン | 19 | (3) | |||
1994-1996 | トリノ | 49 | (11) | |||
1996-1998 | 1860ミュンヘン | 50 | (2) | |||
1998-2000 | アル・アイン | 31 | (28) | |||
代表歴2 | ||||||
1982-1998 | ガーナ | 67 | (33) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月2日現在。 2. 2014年12月2日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アベディ・ペレ(Abédi Pelé、1964年11月5日[1] - )は、ガーナの元サッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元ガーナ代表。
経歴
[編集]1964年11月5日にキビで誕生、ドメで育ったとされるが、あくまでもプロファイル上の経歴で、実際の年齢も子供の頃の詳細も不明である[2]。12歳の時、グレイト・ファルコンズというクラブで本格的にサッカーを始め、16歳の時、 レアル・タマレ・ユナイテッドでプロ入りを果たす[2]。ここでの2シーズン、セカンドストライカーやプレーメーカーのポジションで46試合で21ゴールを決めるなど、評価を高めた[2]。国外にも活躍が知られるようになり、アル・サッド、チューリッヒでプレーしたが、その後は母国に帰還した[2]。
1986-87シーズン、当時フランス2部の二オールのトライアルを受け、入団すると、レベルの高いプレーを披露し、34試合で12得点をあげた[2]。 1987年、当時同じく2部のミュルーズが獲得、ここでも活躍を見せると、11月に大富豪ベルナール・タピがオーナーを務めるオリンピック・マルセイユが獲得した[2]。選手層の厚さのため、2シーズンの間、リールレンタル移籍に出された[2]。リールでは、2シーズンで61試合で16得点をあげるなど、1部リーグで十分通用することを証明した[2]。1990-91シーズン途中にベルギー人のレイモン・ゲタルスが監督に就任すると、レギュラーに定着、重宝され[3]、ジャン=ピエール・パパン、クリス・ワドルとで魅惑のトライアングルを形成[3]、UEFAチャンピオンズカップにおいて準々決勝で当時最強と言われたACミランに競り勝ち、準決勝のFCスパルタク・モスクワ戦では1stレグ、2ndレグで共に1ゴールを挙げて[4]、チームを決勝に導いた[3]。
1992-93シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ決勝でコーナーキックからバジール・ボリの決勝ゴールをアシスト[2][5][4]、ACミランを1-0で破り、優勝を果した[3]。これらの活躍で1991年から3年連続でアフリカ年間最優秀選手を受賞した。1991年のFIFA最優秀選手賞投票では10位、1992年のFIFA最優秀選手賞投票でヨーロッパ人以外で最高の9位タイを記録した。1994-95シーズンからはトリノでプレー、同シーズンは、32試合で10ゴールを決めるなど、ファンの人気を獲得した[2][6]。1995-96シーズン、アフリカネーションズカップ出場の為に欠場したことも影響し、チームは来期のセリエB降格が決定した[2]。
その後、1860ミュンヘンで2シーズン、アル・アインで2シーズンプレーして現役を引退した[2]。
またガーナ代表では1982年に17歳で初選出された[2]。以来1998年に代表から引退するまで73試合に出場し33得点の記録を挙げた。しかしFIFAワールドカップ本大会出場は遂に成し遂げる事は出来なかった。
引退後、母国にナニアFCというクラブを創設した[2]。2004年にFIFA100(ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人)に選出[2]。
その他
[編集]- 息子のイブラヒム・アイェウ、アンドレ・アイェウ、ジョルダン・アイェウはそれぞれガーナ代表のワールドカップメンバーに選出された経験を持つプロサッカー選手である。
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- UEFAチャンピオンズリーグ 1回(1992-93)
- リーグ・アン 5回(1988-89, 1989-90, 1990-91, 1991-92, 1992-93)
- フランスカップ 1回(1988-89)
- カタールカップ 1回(1983)
代表
[編集]- アフリカネイションズカップ 1回(1982)
- 西アフリカネイションズカップ 3回(1982, 1983, 1984)
個人
[編集]- アフリカ年間最優秀選手 3回(1991, 1992, 1993)
脚注
[編集]- ^ "Tournois FIFA Joueurs & Entraîneurs - ABEDI PELÉ (Abedi Pelé Ayew)"
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “Abedi Pelé, la leggenda ghanese che incantò in Europa con Marsiglia e Torino”. GOAL (2022年11月6日). 2023年8月18日閲覧。
- ^ a b c d “サッカー世界遺産「トリデンテの魔法を使ったマルセイユ」【連載第13回】”. soccermagazine 20 November 2020閲覧。
- ^ a b “Abedi Pele Marseille”. transfermarket 20 November 2020閲覧。
- ^ “Les notes de Marseille-Milan 1993, avec un Boli époustouflant” (フランス語). フランスフットボール. 2022年4月7日閲覧。
- ^ “Abedi Pele Torino”. transfermarket 20 November 2020閲覧。