アレッサンドロ・デル・ピエロ
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2024年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
名前 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛称 | アレ、アレックス、ピントゥリッキオ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Alessandro Del Piero | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イタリア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1974年11月9日(50歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | コネリアーノ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 173cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 73kg | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポジション |
FW(CF、SS)[1] MF(AM)[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右足 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1982-1988 | サン・ヴェンデミアーノ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1988-1991 | パドヴァ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クラブ1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991-1993 | パドヴァ | 14 | (1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1993-2012 | ユヴェントス | 513 | (208) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012-2014 | シドニー | 48 | (24) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014 | デリー・ディナモス | 10 | (1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
通算 | 585 | (234) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代表歴2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991 | イタリア U-17 | 3 | (1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992-1993 | イタリア U-18 | 14 | (12) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1993-1996 | イタリア U-21 | 12 | (3) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1995-2008[2] | イタリア | 91 | (27) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1. 国内リーグ戦に限る。2016年9月7日現在。 2. 2014年12月9日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero, 1974年11月9日 - )は、イタリア・ヴェネト州トレヴィーゾ県コネリアーノ出身の元サッカー選手、現サッカー解説者、実業家。元イタリア代表。現役時は主にフォワードとしてプレーしたが[1]、トップ下よりも後方のミッドフィールダーのポジションでもプレーすることができた[3][4][5][6]。引退後の2015年以降は、スカイスポーツで解説者を務める[7]。テクニカルで創造的なフォワードであり、フリーキックのスペシャリストでもあった[8][9][10]。デル・ピエロは同世代で最も偉大な選手の1人として評価されており、ファンタジスタと称された[11][12][13][14]。1998年と2008年にセリエAイタリア人年間最優秀選手賞を受賞し、またバロンドールおよびFIFA最優秀選手賞にも複数回ノミネートされている。
イタリアの全大会を通じて史上2番目に多くの得点を挙げた選手であり、シルヴィオ・ピオラの390ゴールに次ぐ346ゴールを記録している。セリエAの歴史では史上9番目に多く得点を挙げた選手でもあり、ジュゼッペ・シニョーリとアルベルト・ジラルディーノに並ぶ188ゴールを記録している。[15][16][17][18][19][20]。1991年にパドヴァ・カルチョでデビュー、1993年にユヴェントスFCに移籍し19シーズン、キャプテンとしては11シーズンプレーし、クラブの最多得点記録(290ゴール)および最多出場記録(705試合)を保持している。ユヴェントスではセリエAを6回、コッパ・イタリアを1回、スーペルコッパ・イタリアーナを4回、その他UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAスーパーカップ、UEFAインタートトカップ、インターコンチネンタルカップをそれぞれ獲得している。2012年にユヴェントスを離れた後は、オーストラリアのシドニーFCで2シーズン、2014年からデリー・ディナモスFC(現オディシャFC)で1シーズン、それぞれプレーした後に引退した。
デル・ピエロは参加したすべての大会において、得点を記録している[21]。2004年にはFIFAの百周年記念行事の一環として、ペレが選んだ125人の偉大な現役サッカー選手のリストであるFIFA 100に選出された[22]。同年に、彼はUEFAゴールデンジュビリーポールにも選出され、過去50年間で最も優れたヨーロッパの選手50人のリストに名を連た[23]。さらにイタリア国内で6つの賞を受賞しており、ゴールデンフット賞も獲得している[24][25]。
代表戦では、デル・ピエロはイタリア代表として3回のFIFAワールドカップと4回のUEFA欧州選手権に出場し、2006 FIFAワールドカップでは優勝、UEFA EURO 2000では準優勝に貢献している。イタリア代表においてはロベルト・バッジョと並ぶ27得点を記録しており、これはシルヴィオ・ピオラ(30得点)、ジュゼッペ・メアッツァ(33得点)、ルイジ・リーヴァ(35得点)に次ぐ記録である。また、1995年から2008年までのイタリア代表での出場数は91試合であり、これは歴代11位の記録である。
イタリアの全大会を通じて史上2番目に多くの得点を挙げた選手であり、346ゴールを記録している。またキャリア全体を通しては、462得点を記録している[26]「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれる左45度付近からファーポストへ決めるシュートを得意とし、稀代のテクニシャンで正確無比なシューターだった[27]。
幼少期
[編集]デル・ピエロはヴェネト州のコネリアーノに生まれた。父ジーノは電気技師、母ブルーナは家政婦であった[28]。家族はサン・ヴェンデミアーノの農村部にある、サッコンという小さな集落に居住していた[29]。デル・ピエロは子供の頃から友達のネルソやピエルパオロと一緒に、頻繁に裏庭でサッカーをして遊んでいたという。3人はサッカー選手になる夢を抱いていたが、実現したのはデル・ピエロだけとなった[30]。兄のステファノは一時期サンプドリアに所属するサッカー選手として活動していたが、怪我によりキャリアを終え、その後は弟アレッサンドロの代理人として活動する事となった[31]。また、デル・ピエロの家庭は海外旅行への遊興費の捻出も難しかったため、幼少期のデル・ピエロは世界中を見て回るために、トラックの運転手になることも考えていたという[32]。
1981年から地元のサン・ヴェンデミアーノのユースチームでサッカーの道に入り、デル・ピエロは少しでも多くのプレー時間を得るために、ゴールキーパーとして出場することがあった[33]。母のブルーナはアレッサンドロがキーパーとしてプレーを続ける方がフィールドプレーヤーよりも良いと考え、汗をかくこともなくケガをする可能性も少ないと考えていた。しかしアレッサンドロの兄のステファノは、若いデル・ピエロのスキルを考慮して、彼はより攻撃的なポジションでプレーする方が向いていると母親に伝えた。そしてデル・ピエロはFWとしての道に転向することとなる[29]。
クラブキャリア
[編集]パドヴァでのデビュー
[編集]デル・ピエロは1988年にスカウトを受けてわずか13歳で地元を離れ、パドヴァ・カルチョのユースチームでプレーすることとなった[34]。1991-1992シーズン、16歳の時にトップチームに昇格し、さらに17歳でマヌエル・サンドレアーニ監督率いるメッシーナ戦でセリエBデビューし、1992年3月15日にロベルト・プテッリとの交代で途中出場を果たした[35]。翌シーズンの1992年11月22日のトゥルナーナ戦では、5-0で勝利し自身のプロ初ゴールを記録した[36]。1993年にはユヴェントス会長のジャンピエロ・ボニペルティの意向により、15億リラの年俸でユヴェントスに移籍した[37]。
ユヴェントスでの活躍
[編集]1993年~1998年:キャリア初期の国内外での成功
[編集]1993-94シーズンにユヴェントスに加入し、以降2012年夏に放出されるまで19シーズンにわたってプレーしている[38]。加入当時の監督ジョヴァンニ・トラパットーニは彼をトップチームとともに練習させることを強く要求したが、最初はプリマヴェーラでプレーし、アントネッロ・クックレドゥの指導の下、1994年のU-20選手権での優勝に貢献した[39]。デル・ピエロは1993年9月12日のフォッジャ戦で、トラパットーニ監督の指示で途中出場しセリエAデビューを果たし[40]、次の試合である9月19日のレッジャーナ戦で再び途中出場した際に初ゴールを記録[40]。1994年3月のパルマ戦では初のハットトリックを達成する[41]。デル・ピエロは少しずつ出場数を増やしていき、初シーズンはチームがセリエAで2位に終わる中で、ユースチーム、リーグ戦、コッパ・イタリア、およびUEFAカップを含む14試合に出場し、5得点を挙げた[42]。
1994-1995シーズン、開幕前にはパルマへの移籍が決まりかけていたが、パルマがディノ・バッジョを獲得したことにより、獲得から引き、残留した[43]。このシーズンからマルチェロ・リッピが監督に就任、デル・ピエロはこのシーズン、ロベルト・バッジョがパドヴァ戦で負傷し離脱したことにより出場回数を増やし、ジャンルカ・ヴィアッリやファブリッツィオ・ラバネッリと共にトップチームに加わり、1994年12月4日のフィオレンティーナでは、アレッサンドロ・オルランドからのクロスをダイレクトのアウトサイドボレーで決めたことによって、デル・ピエロは世界中からも注目を集めるようになった[44]。この年は自身初のスクデット獲得。デル・ピエロはこのシーズンにフィオレンティーナ戦での決勝ゴールなどを含め、シーズン全体でリーグ8得点を挙げた[45]。デル・ピエロはまた、コッパ・イタリアで2得点を挙げ、決勝で当時のライバルであったパルマを破ったが、UEFAカップの決勝では同じカードのパルマに敗れた[46]。 この時期、デル・ピエロは自らの技術と戦術的な特性、そしてバッジョの創造的なプレースタイルとの類似点から「ピントゥリッキオ」というニックネームを得た[47]。このニックネームは、当時の会長ジャンニ・アニェッリが、新進気鋭の選手デル・ピエロをルネサンス期の画家ピントゥリッキオになぞらえたものである[28]。
1995-96シーズン、バッジョのACミラン移籍によって、ミシェル・プラティニやバッジョが背負ってきたユヴェントスの背番号10を引き継ぐことになった。このシーズン、デル・ピエロはセリエAで5試合連続を含む6得点と10アシストを挙げたが、ユヴェントスはミランに次ぐ2位でシーズンを終えた。しかしパルマとのスーペルコッパ・イタリアーナではヴィアッリの得点をアシストし、1-0での勝利に貢献した[46]。また同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは6得点を挙げて得点ランキング2位となり、ユヴェントスの制覇に貢献する[48]など、エースとしての役割を果たした。バロンドールでは57票を集め、4位にノミネートされた[49]。[50]。
翌1996-97シーズンには、トヨタカップのリーベル・プレートとの対戦で決勝点をあげ、MVPに選ばれた[51]。さらに、ブラヴォー賞を受賞し、バロンドールでも2年連続で投票4位に選ばれている[46][52][53]。このシーズンにはスクデットを獲得し、連続2回目となるCL決勝への進出にも貢献した[54]。決勝のボルシア・ドルトムント戦ではヒールキックによるゴールを決めたものの敗れ、準優勝に終わった[55]。この年にはバロンドールとFIFA最優秀選手賞の両アワードでノミネートされ、前者では6位[56] 後者は4位[57]に入賞した。
1997-98シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナを制覇するなど順調なスタートを切り、このシーズンに加入したフィリッポ・インザーギと先シーズンから所属するジネディーヌ・ジダンとともに強力なトライアングルを形成し(特にインザーギとの2トップは「デル・ピッポ」と呼ばれた)セリエAでキャリア最高タイとなる21ゴールを記録、またUEFAチャンピオンズリーグでも準決勝のASモナコ戦でのハットトリックを含む10ゴールを挙げた[58][59]。決勝ではレアル・マドリードに敗れた[60][61]が、国内ではインテルとの激しい優勝争いを制してスクデット連覇を達成し、自身もそのインテルとのイタリアダービーでの決勝ゴールを挙げるなど、重要な役割を果たした[62][63]。デル・ピエロはこの年のセリエA年間最優秀選手賞を受賞し、またバロンドールにも再びノミネートされた[64]。この時期、ファンからは彼は「Il Fenomeno Vero(真の怪物)」という愛称で呼ばれており、これはインテルに所属するブラジル代表のストライカーロナウドが「Il Fenomeno(怪物)」と呼ばれていた事に対抗したものである[65][66]。
1998年~2001年:負傷との戦い
[編集]1998-99シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとのラツィオ戦にてPKから得点したが、試合は1-2で敗北した[67]。しかし1998年11月8日、ウディネーゼとの試合の終盤にて左膝の十字靭帯断裂を負い[68][69]、以降の同シーズン内はわずか2得点に終わり、クラブもリーグ戦で6位という結果に終わった[70]。またチャンピオンズリーグではベスト4まで進出したが、準決勝で同シーズンで優勝を果たすマンチェスター・ユナイテッドに敗れた[69]。
同シーズンの怪我の後、デル・ピエロは筋力強化のためのプログラムを受け、時代の変化に伴うタフネスの必要性にも適応、スピードと敏捷性を失った部分を補うことができた[71]。しかしこの回復プログラムに伴う体重増加と身体の発育の結果、当時セリエAで横行していたドーピングの疑惑を掛けられる事となった[72]が、長期間にわたる調査の結果、2005年には全ての告発に関して無罪が認定された[73][74]。
続く1999-2000シーズンはカルロ・アンチェロッティが監督に就任し、デル・ピエロは主にアシスターとして活躍し、セリエAでは同シーズン最多となる14アシスト、全コンペティションを通しては20アシストを記録した[75]。しかし前シーズンの怪我の影響で得点は9に留まり、そのうち8得点はセットプレーによるもの、残りの1得点もPKを起点としたものであった[75] 。さらにシーズン終盤ではそれまで好調であったインザーギとの連携も乱れるようになり、これはインザーギのスタンドプレーや、両者のピッチ内外での緊張などが影響したと分析された[76][77][78]。同シーズンはユヴェントスは1999 UEFAインタートトカップの優勝を達成したが、セリエAでは惜しくも優勝を逃した。デル・ピエロは2000年、給与、ボーナス、広告収益を含む世界で最高給のサッカー選手だった[79]。
2000–01シーズンは、今度はASローマにタイトルを奪われまたしても優勝を逃した。デル・ピエロは9月30日のSSCナポリ戦で初ゴールを決め勝利を収めたが、その後再び怪我を負い、得点から遠ざかった[80]。しかし、2001年2月18日のアウェーのFCバーリ1908戦で再び得点を果たし、デル・ピエロはこのゴールを、直前に死去していた父に捧げる形で祝福した[81]。シーズン終盤になるとデル・ピエロは再び調子を取り戻したが、首位ローマとの頂上決戦で得点を挙げるなどしたものの、タイトル獲得に導く事はできなかった[82]。
2001年~2004年:新たな成功
[編集]2001-02シーズンにはマルチェロ・リッピがユヴェントスの監督として復帰し、デル・ピエロはユヴェントスのキャプテンに任命され、ピッチではダヴィド・トレゼゲやパヴェル・ネドヴェドと共に強力な攻撃陣を形成、16ゴールと多数のアシストを記録し、シーズン最終節のアウェーでのウディネーゼ戦ではトレゼゲとデル・ピエロの得点によって2-0で勝利を収め、ローマとインテルをそれぞれ1ポイント差で制して逆転優勝を果たし、26回目のセリエAチャンピオンに輝いた[83]。
デル・ピエロは国内カップ戦や大陸大会を含む全大会で21ゴールを挙げ、また2001年8月26日のACヴェネツィア戦にて、ユヴェントスでの100点目と101点目の得点も記録している[84]。またコッパ・イタリアでも決勝まで勝ち進んだが、パルマに敗れ準優勝に終わった[85]。
2002–03シーズンは、デル・ピエロはスーペルコッパ・イタリアーナでパルマを破り2得点を挙げるという、幸先の良いスタートを切った[86]。ユヴェントスはこのシーズンもセリエAのタイトルを防衛して2連覇を達成し[13]、デル・ピエロは2003年4月27日のブレシア戦でセリエA100ゴールを達成した[87]。UEFAチャンピオンズリーグではニューカッスル・ユナイテッドFC、ディナモ・キエフ、フェイエノールトと同じグループEに振り分けられ、デル・ピエロは9月24日のディナモ・キエフ戦で、ネドヴェドとマウロ・カモラネージとの連携からチームの2点目を挙げ、UEFAの大会ではこれが初のゴールとなった[88]。
続くホームのニューカッスル戦では、2得点を挙げ、ユヴェントスの首位キープに貢献、2ndステージに進出した[89]。2ndステージではFCバーゼルとデポルティーボ・ラ・コルーニャを抑え、マンチェスター・ユナイテッドと共に決勝トーナメント進出を果たした[90]。準々決勝ではロスタイムのマルセロ・サラジェタの決勝ゴールで勝利し[91] 、準決勝では再びスペインのチームであるレアル・マドリードと対戦、合計スコア4-3で勝利を収めた[92]。そして決勝ではACミランとの同国対決となり、フルタイム・延長戦ともに無得点のままPK戦に突入、デル・ピエロはPKを成功させたが、ユヴェントスはPK戦3-2で敗北した[93]。
翌2003-04シーズン、ユヴェントスはスーペルコッパ・イタリアーナで勝利を収めるなど順調なスタートを切ったが、セリエAは3位、CLはベスト16は痛いという不本意な結果に終わり、コッパ・イタリアでは決勝まで進出したが、ラツィオに敗れて準優勝に終わった。シーズン終了後、監督のリッピはユヴェントスを離れ、イタリア代表の指揮を執ることとなった[13]。
2004年~2006年:カルチョポリによる降格
[編集]2004-05シーズンより、新たなユヴェントスの監督にはファビオ・カペッロが就任した。カペッロはデル・ピエロのフィジカルの水準に満足しておらず、しばしば新加入の若手のズラタン・イブラヒモビッチを起用し、デル・ピエロをベンチに下げる采配を下した[94]。とはいえ限られたプレー時間ながらもデル・ピエロは14得点を挙げ、アウェーのサン・シーロでのミラン戦ではオーバーヘッドキックでトレゼゲのゴールをアシストするなど活躍、同シーズンのセリエA優勝に貢献した[95]。またチャンピオンズリーグでもベスト8まで進出したが、準々決勝で同シーズン優勝を果たすリヴァプールに敗れ敗退した[96]。
続く2005–06シーズンには、多数の評論家などからもデル・ピエロは過去最高のコンディションに戻ったと評され[97]、セリエAでは12得点、コッパ・イタリアでは得点王となる5得点、全コンペティションでは20得点を記録し、ユヴェントスのセリエA連覇に貢献した。このシーズンも監督のカペッロによりスタメンを外されイブラヒモビッチの控えに甘んじた事で[34]、出場時間の減少からデル・ピエロとカペッロの関係はしばしば緊張を孕んだものとなった[98]。
2006年1月10日に行われたコッパ・イタリアの対フィオレンティーナ戦でハットトリックをマーク。これがユヴェントスでの185得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替えた[99]。またセリエAのシーズン最終戦でも試合終了間際に得点し、ジョゼ・アルタフィーニが保持していたセリエAにおける1シーズンの途中出場からの得点記録である6得点に並んだ[100]。しかし同シーズン終了直後に発覚したカルチョ・スキャンダルにより前2シーズンの優勝は取り消され、さらにまさかのセリエB降格処分という事態に見舞われることとなる[101]。
2006年~2007年:セリエBを制覇、セリエA復帰
[編集]突然のセリエB降格という事態に見舞われたデル・ピエロだったが、ファビオ・カンナバーロ、エメルソン、ジャンルカ・ザンブロッタ、パトリック・ヴィエラ、ズラタン・イブラヒモヴィッチ、リリアン・テュラムなどの主力が一斉に移籍する中、デル・ピエロはイングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドFCからのオファーを断り、真っ先にチームへの残留を表明した[102]。デル・ピエロは「(オーナーの)アニェッリ家は、今後もファンや新たな監督らと共にチームを支えるに値する」とアニェッリ家への擁護を表明した[103]。彼に続くようにネドベドやブッフォンらも残留を決意した。
デル・ピエロは2006 FIFAワールドカップにて優勝を果たし帰国した後、2006年8月23日に行われたコッパ・イタリアのチェゼーナ戦でシーズン初出場を果たした。ユヴェントスは2006-07シーズンはセリエBでプレーする事となったため、UEFAカップの出場権を獲得するためにはコッパ・イタリアの優勝が必須となった。デル・ピエロは74分に交代で途中出場し、9秒後にユヴェントスの勝ち越しゴールを決め勝利に貢献した[106]。続く8月27日のナポリ戦でも61分に途中出場し、デル・ピエロは2得点を挙げたが試合はPK戦もつれこみ、最終的にPK戦5対4で敗北した[107]。ユヴェントスは八百長の処分によるマイナス9ポイントのペナルティを受けた状態でシーズンをスタートしたにもかかわらず、圧倒的な成績でセリエBを制し1部復帰を果たした[108]。デル・ピエロもセリエBで20得点を挙げ、得点王に輝いている[109]。また2006年10月21日に行われたフロジノーネ戦では200ゴールを達成し、1-0での勝利に貢献した[110]。
2007年~2011年:セリエA復帰
[編集]セリエAに復帰した後、デル・ピエロはユヴェントスの新経営陣との新たな契約の交渉が難航し、数か月に及ぶ事となった。新たな契約は2010年6月30日までとなり、交渉の締結の後日、彼は第一子であるトビアスの誕生を発表した[111]。2週間前のセリエAのフィオレンティーナ戦では監督のクラウディオ・ラニエリによりメンバーから外され、ロベルト・ドナドーニ率いるイタリア代表からも選外となっていた[112]ばかりのデル・ピエロにとって、この結果は大きなどんでん返しとなった。
2007年12月15日、デル・ピエロはセリエAのラツィオ戦に2得点を挙げ、2週連続でセリエAの週間ベストイレブンに選出された[113]。2008年2月には同じくセリエAのローマ戦で、フリーキックから勝ち越しゴールを決め1-0の勝利に貢献した[114]。2008年4月6日のパレルモ戦はユヴェントスでの553試合目となり、ガエターノ・シレアの持つクラブ歴代最多出場記録を更新した[115][116]。4月にはセリエAの同月の全試合だけで、アタランタ戦でのハットトリックを含む7得点を記録している[117]。
2007-08シーズンの最終節のサンプドリア戦、デル・ピエロは2得点を挙げ3-3の引き分けに持ち込む事に成功した[118]。この2得点によってシーズン通算21得点をマークする事となり、自身初のセリエA得点王に輝くと同時に[119]、パオロ・ロッシ以来、史上2人目となるセリエB・セリエA連続得点王の快挙を成し遂げる事となった[120]。ユヴェントスは同シーズンのセリアAを3位で終え、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに出場する資格を獲得した。
2008年8月には、デル・ピエロはプロキャリアを40歳まで続ける意思がある事を発表した[121]。3シーズンぶりのUEFAチャンピオンズリーグ出場となった2008-09シーズン、ユヴェントスはグループリーグでレアル・マドリード、ゼニト・サンクトペテルブルク、BATEボリソフと同じグループHに組み分けされた。デル・ピエロはユヴェントスのセリエA復帰後初試合となるホームでのゼニト戦で、フリーキックにより決勝点を挙げ1-0での勝利に貢献した[122]。その後1つ空けて3試合目となる10月21日のホームでのレアル・マドリード戦では、試合開始わずか5分で遠距離のグラウンドシュートから先制点を挙げた[123][124]。続くアウェーのエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの2ndレグでは2得点を記録し、レアル・マドリードの監督であったベルント・シュスターからも称賛を浴びた[125]。後半アディショナルタイムにパオロ・デ・チェリエとの交代でベンチに退く際には、マドリスタからのスタンディングオーベーションを受けた[126]。エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで、アウェーの選手がスタンディングオーベーションを受けたのは、ディエゴ・マラドーナやロナウジーニョなど数少ない[注釈 1][127]。しかしながらユヴェントスは決勝トーナメント2回戦でチェルシー相手に敗れ、デル・ピエロはホームでの2ndレグにてPKを決めたものの、勝利に導く事は叶わなかった[128]。
2008年11月29日、レジーナ戦でユヴェントスでの通算250得点を記録。
2010年3月14日、シエナ戦でキャリア通算300得点を達成。
2010年10月30日、ACミラン戦で決勝ゴールをマーク。これがセリエAでの179得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つセリエAでのクラブ最多得点記録を塗り替えた。
ユヴェントスを退団
[編集]2011-12シーズンをもってユヴェントスを退団。9月5日にAリーグ・シドニーFCへの移籍が発表された[129]。契約は2年間で年俸は約200万オーストラリア・ドルと、Aリーグ史上最高の年俸となる[130]。
2014年4月28日、ブログでシドニーFC退団を発表した[131]。2014年8月28日、自身の公式ツイッターでインドのデリー・ディナモスFCに移籍することを明らかにした[132]。デル・ピエロは、「今日、デリー・ディナモスの一員になり、インド・スーパーリーグの新アンバサダーとなったことを報告できることを嬉しく思う」と発表した。
代表でのキャリア
[編集]イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。イタリア代表通算27得点はバッジョと並んで歴代4位タイ。FIFAワールドカップには1998年大会、2002年大会、2006年大会と3大会連続、ユーロには1996年大会、2000年大会、2004年大会、2008年大会と4大会連続で出場している。
ユーロ1996では、1994年のU-21欧州選手権を制し、アトランタ五輪を控える当時のU-21世代から飛び級のような形で代表に選ばれるも、初戦のロシア戦で怪我を負い、このロシア戦前半のみの出場に終わった。
1998年のフランスワールドカップでは、エースとして大会に臨むも、1997-98チャンピオンズリーグ決勝レアル・マドリード戦で負った怪我の影響から全く見せ場を作れず、主役をバッジョに譲った[133]。
ユーロ2000では、決勝のフランス戦でシュートチャンスを外し、批判を浴びた。また、1998年11月の大怪我から不調に苦しむ間にフランチェスコ・トッティの台頭もあり、2000年代からは背番号10番をトッティに譲った。これについてデルピエロは「僕は『7』の方が合っている」と語っている[134]。
2002年日韓ワールドカップでは、予選で5得点と良い成績を残したが、本大会前になって監督ジョバンニ・トラパットーニはシステムをより守備的なものに変更、スタメンを外される。それでもグループリーグのメキシコ戦で途中出場ながらワールドカップ初ゴールを決めてこの試合を1-1の引き分けに持ち込み、グループリーグ敗退の危機にあったチームを救った。ゴール後のパフォーマンスでは、右手の人差し指で天を指し、開幕前に亡くなった父へと捧げた。
ユーロ2004では、予選こそ不振のチームを救うほどの活躍を見せていたが、本大会では不慣れな左サイドというポジションや直前の左大腿部の怪我から思うような活躍をすることはできなかった。
2006年のドイツW杯ではかつてユヴェントスの監督であった恩師リッピ監督からの信頼が厚く、23人のメンバーに名を連ねる。準決勝のドイツ戦では延長戦から途中出場し、アルベルト・ジラルディーノからのパスを受け、「デル・ピエロ・ゾーン」から2点目となるダメ押しゴールを奪った。決勝のフランス戦では後半途中から出場し、PK戦では4人目のキッカーも務め、同国4度目のFIFAワールドカップ優勝に貢献した。
ユーロ2008本戦への招集は危ぶまれていたが、2007-2008シーズンのセリエA得点王としての活躍が認められ4度目のユーロ出場を果たした。グループリーグ第2戦のルーマニア戦では、ゲームキャプテンを務めるも、ロベルト・ドナドーニ監督は戦術上デル・ピエロを重用することはなかった。
引退後
[編集]アメリカのロサンゼルスに居住しており、サングラスブランドの「AIRDP Style」やロサンゼルスにイタリアンレストラン「N10」を経営している。他にもアメリカ国内に自身のサッカースクールを開講するなど、様々な投資を行う実業家として活動している。また母国イタリアではサッカー解説者としても活動しており、2021年にはイタリアサッカー連盟の監督ライセンス講習を受講したことを明かしている[135]。
エピソード
[編集]- モータースポーツの観戦も趣味の一つ。2003年に亡くなったMoto-GPレーサーの加藤大治郎に生前サインを求めたことがある。2013年1月には、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)に参戦するデンプシー・レーシングの共同オーナーに就任することが発表された[136]。
- 音楽好きであり、彼が選曲した楽曲を集めた「デル・ピエロ・セレクション」というコンピレーション・アルバムを制作している[137]。1曲目には、イギリスのロックバンドオアシスのワンダーウォールを選曲しており、ゴールドディスクの授与式では友人であるノエル・ギャラガー本人が駆けつけている[138]。
日本との関係
[編集]- 自身の日本語ブログを開設するなど親日家としても知られ、以下の様なエピソードがある。なお日本に興味を持つようになったのは小学校の地理の授業で先生から「どこかひとつ海外の国を選んで発表しなさい」という課題にたまたま日本を選んだことに由来するという[139]。
- キャプテン翼の作者である高橋陽一は2000年にヨーロッパを訪れた際にデル・ピエロから「子どもの頃にキャプテン翼を読んでましたよ」と声をかけられており、2011年には自身のブログの中で明石家さんまから贈られた高橋陽一直筆のイラストを公開しているなど、今でも愛着を持っている事がうかがえる[140]。
- キャプテン翼のイラスト入りFC岐阜のユニフォームをFC岐阜から贈られたことから、FC岐阜に試合に来場したこともある[141]。
- 新日本プロレスの熱烈なファン。1970年代後半から1980年代前半にかけてイタリアでもTV放映されていた『ワールドプロレスリング』を子供の頃よく見ていたという。中でも藤波辰爾、アントニオ猪木、木村健吾、タイガーマスク(初代)のファンであり、2005年にテレビ朝日のインタビューで藤波辰爾と対面した際には歓喜して、彼の技のひとつであるドラゴンスリーパーをリクエストしてかけられていた[142]。
- アニメ『ルパン三世』のファン。
- 2011年3月に日本で起きた東北地方太平洋沖地震の惨事を知り、チャリティー用に自らデザインしたTシャツ(イタリアの国旗の上に日の丸を乗せ「友」と言う文字が刻まれている)を販売し、その売り上げは復興の為に寄付する事を発表した。特に被害甚大であった仙台市は2002 FIFAワールドカップのイタリア代表のキャンプ地であり、その惨状を視て深い悲しみに陥ったと言う。そのTシャツを長友佑都も着用している。また慈善事業での収益金として2300万円を寄付した[143]。
- 2012年7月21日、日本のカシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチに自ら参加を申し入れゲストプレーヤーとして参加。『Jリーグ TEAM AS ONE』(被災地のクラブ・出身者の選抜チーム)の一員としてプレーし、後半25分にはミドルシュートで自ら得点を決めた[144]。
- 2023年9月に来日した際には来日イベントが東京で行われることが多いため「東京以外の場所にも行ってみたいんだ」と話している[145]。
個人成績
[編集]経歴 | リーグ | 国内カップ戦* | 欧州カップ戦** |
国際カップ戦*** | 合計 | |||||||
シーズン | クラブ | セリエ | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 | 試合数 | ゴール数 |
1991-92 | パドヴァ | B | 4 | - | - | - | - | - | - | - | 4 | - |
1992-93 | 10 | 1 | - | - | - | - | - | - | 10 | 1 | ||
合計 | 14 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 1 | ||
1993-94 | ユヴェントス | A | 11 | 5 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | - | 14 | 5 |
1994-95 | A | 29 | 8 | 10 | 1 | 11 | 2 | - | - | 50 | 11 | |
1995-96 | A | 29 | 6 | 2 | 1 | 11 | 6 | 1 | 0 | 43 | 13 | |
1996-97 | A | 22 | 8 | 4 | 0 | 6 | 4 | 3 | 3 | 35 | 15 | |
1997-98 | A | 32 | 21 | 4 | 1 | 10 | 10 | 1 | 0 | 47 | 32 | |
1998-99 | A | 8 | 2 | 1 | 0 | 4 | 0 | 1 | 1 | 14 | 3 | |
1999-00 | A | 34 | 9 | 2 | 1 | 9 | 2 | - | - | 45 | 12 | |
2000-01 | A | 25 | 9 | 2 | 0 | 6 | 0 | - | - | 33 | 9 | |
2001-02 | A | 32 | 16 | 4 | 1 | 10 | 4 | - | - | 46 | 21 | |
2002-03 | A | 24 | 16 | 0 | 0 | 13 | 5 | 1 | 2 | 38 | 23 | |
2003-04 | A | 22 | 8 | 4 | 3 | 4 | 3 | 1 | 0 | 31 | 14 | |
2004-05 | A | 30 | 14 | 1 | 0 | 10 | 3 | - | - | 41 | 17 | |
2005-06 | A | 33 | 12 | 4 | 5 | 7 | 3 | 1 | 0 | 45 | 20 | |
2006-07 | B | 35 | 20 | 2 | 3 | - | - | - | - | 37 | 23 | |
2007-08 | A | 37 | 21 | 4 | 3 | - | - | - | - | 41 | 24 | |
2008-09 | A | 31 | 13 | 3 | 2 | 9 | 6 | - | - | 43 | 21 | |
2009-10 | A | 23 | 9 | 1 | 2 | 5 | 0 | - | - | 29 | 11 | |
2010-11 | A | 33 | 8 | 2 | 0 | 10 | 3 | - | - | 45 | 11 | |
2011-12 | A | 23 | 3 | 5 | 2 | - | - | - | - | 28 | 5 | |
合計 | 513 | 208 | 56 | 25 | 127 | 51 | 9 | 6 | 705 | 290 | ||
2012-13 | シドニー | Aリーグ | 24 | 14 | - | - | - | - | - | - | 24 | 14 |
2013-14 | 24 | 10 | - | - | - | - | - | - | 24 | 10 | ||
合計 | 48 | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 48 | 24 | ||
2014 | デリー・ディナモス | スーパーリーグ | 10 | 1 | - | - | - | - | - | - | 10 | 1 |
合計 | 10 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 | ||
総合計 | 585 | 234 | 56 | 25 | 127 | 51 | 9 | 6 | 777 | 316 |
* コッパ・イタリア、イタリア・スーパーカップを指す
** UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAカップ、UEFAインタートトカップ、UEFAスーパーカップを指す
*** インターコンチネンタルカップ、FIFAクラブワールドカップを指す
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 91試合 27得点(1995年-2008年)[146]
イタリア代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1995 | 7 | 1 |
1996 | 4 | 2 |
1997 | 6 | 4 |
1998 | 8 | 3 |
1999 | 2 | 0 |
2000 | 13 | 4 |
2001 | 6 | 3 |
2002 | 11 | 5 |
2003 | 4 | 2 |
2004 | 6 | 1 |
2005 | 4 | 0 |
2006 | 9 | 2 |
2007 | 5 | 0 |
2008 | 6 | 0 |
通算 | 91 | 27 |
得点
[編集]# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1995年11月15日 | レッジョ・エミリア、チッタ・デル・トリコローレ | リトアニア | 1–0 | 4–0 | UEFA EURO '96予選 |
2. | 1996年1月24日 | テルニ、スタディオ・リベロ・リベラティ | ウェールズ | 1–0 | 3–0 | 親善試合 |
3. | 1996年5月29日 | クレモナ、スタディオ・ジョヴァンニ・ツィーニ | ベルギー | 1–2 | 2–2 | |
4. | 1997年1月22日 | パレルモ、スタディオ・レンツォ・バルベラ | 北アイルランド | 2–0 | 2–0 | |
5. | 1997年6月8日 | リヨン、スタッド・ジェルラン | ブラジル | 1–0 | 3–3 | 1997 トゥルヌワ・ドゥ・フランス |
6. | 3–1 | |||||
7. | 1997年6月11日 | パリ、パルク・デ・プランス | フランス | 2–2 | 2–2 | |
8. | 1998年1月28日 | カターニア、スタディオ・アンジェロ・マッシミーノ | スロベニア | 2–0 | 3–0 | 親善試合 |
9. | 1998年10月10日 | ウーディネ、スタディオ・フリウーリ | スイス | 1–0 | 2–0 | UEFA EURO 2000予選 |
10. | 2–0 | |||||
11. | 2000年2月23日 | パレルモ、スタディオ・レンツォ・バルベラ | スウェーデン | 1–0 | 1–0 | 親善試合 |
12. | 2000年6月19日 | アイントホーフェン、フィリップス・スタディオン | スウェーデン | 2–1 | 2–1 | UEFA EURO 2000 |
13. | 2000年10月11日 | アンコーナ、スタディオ・デル・コネーロ | グルジア | 1–0 | 2–0 | 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |
14. | 2–0 | |||||
15. | 2001年3月28日 | トリエステ、スタディオ・ネレオ・ロッコ | リトアニア | 2–0 | 4–0 | |
16. | 4–0 | |||||
17. | 2001年10月6日 | パルマ、スタディオ・エンニオ・タルディーニ | ハンガリー | 1–0 | 1–0 | |
18. | 2002年2月13日 | カターニア、スタディオ・アンジェロ・マッシミーノ | アメリカ合衆国 | 1–0 | 1–0 | 親善試合 |
19. | 2002年6月13日 | 大分市、ビッグアイ | メキシコ | 1–1 | 1–1 | 2002 FIFAワールドカップ |
20. | 2002年9月7日 | バクー、トフィク・バフラモフ・スタジアム | アゼルバイジャン | 0–2 | 0–2 | UEFA EURO 2004予選 |
21. | 2002年10月12日 | ナポリ、スタディオ・サン・パオロ | ユーゴスラビア | 1–1 | 1–1 | |
22. | 2002年10月16日 | カーディフ、ミレニアム・スタジアム | ウェールズ | 1–1 | 2–1 | |
23. | 2003年6月11日 | ヘルシンキ、オリンピックスタジアム | フィンランド | 0–2 | 0–2 | |
24. | 2003年9月6日 | ミラノ、サン・シーロ | ウェールズ | 4–0 | 4–0 | |
25. | 2004年9月8日 | キシナウ、スタディオヌル・ジンブル | モルドバ | 0–1 | 0–1 | 2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |
26. | 2006年3月1日 | フィレンツェ、スタディオ・アルテミオ・フランキ | ドイツ | 4–0 | 4–1 | 親善試合 |
27. | 2006年7月4日 | ドルトムント、FIFA WM-シュタディオン・ドルトムント | ドイツ | 0–2 | 0–2 | 2006 FIFAワールドカップ準決勝 |
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- ユヴェントスFC
- セリエA(1994-95, 1996-97, 1997-98, 2001-02, 2002-03, 2011-12)
- セリエB(2006-07)
- コッパ・イタリア(1994-95)
- スーペルコッパ・イタリアーナ(1995, 1997, 2002, 2003)
- UEFAチャンピオンズリーグ(1995-96)
- UEFAスーパーカップ(1996)
- UEFAインタートトカップ(1999)
- インターコンチネンタルカップ(1996)
代表
[編集]- イタリア代表
- FIFAワールドカップ(2006)
個人
[編集]- UEFAチャンピオンズリーグ得点王(1997-98)
- セリエA得点王(2007-2008)
- セリエB得点王(2006-2007)
- コッパ・イタリア得点王(2005-06)
- トヨタカップ最優秀選手(1996)
- イタリア最優秀選手(1998,2008)
- ブラヴォー賞(1996)
- ゴールデンフット賞(2007)
- UEFAチャンピオンズリーグ10周年ベストアタッカー(2006)
- UEFA Golden Jubilee Poll(2004)
- FIFA 100(2004)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 77位(ワールドサッカー誌選出 1999)
- ESM Team of the Year(1995-96, 1996-97, 1997-98)
- ユヴェントスクラブ歴代最多得点記録
- ユヴェントスクラブ歴代最多出場記録
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ この時点で3例目、その後2016年時点では8例に増えている。
出典
[編集]- ^ a b c “Alessandro Del Piero”. Transfermarkt 2023年10月29日閲覧。
- ^ “Alessandro Del Piero - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ Mike Hytner (12 October 2015). “Alessandro Del Piero and Roberto Carlos touted for A-League coaching roles”. The Guardian 15 October 2015閲覧。
- ^ “Agent: 'Del Piero could retire'”. Football Italia. 4 May 2015閲覧。
- ^ Ben Gladwell. “Juventus shouldn't sell Paul Pogba, says Alessandro Del Piero”. ESPN FC. 4 May 2015閲覧。
- ^ Mark Doyle. “Del Piero: Berlusconi wanted me at AC Milan and now I'm a free agent...”. goal.com. Goal.com. 4 May 2015閲覧。
- ^ David Schiavone (10 October 2015). “Del Piero wants coaching career”. La Gazzetta dello Sport 15 October 2015閲覧。
- ^ “Totti e Del Piero sulla via del Portogallo” (イタリア語). Panorama.it. 4 January 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。4 January 2015閲覧。
- ^ “A-League: Del Piero assist-man, Sydney ai playoff” (イタリア語). Il Sole 24 Ore 4 January 2015閲覧。
- ^ “Del Piero, Totti e Baggio la fantasia al potere” (イタリア語). La Repubblica. (6 October 2001) 4 January 2015閲覧。
- ^ “Hall Of Fame – Sydney FC”. Sydney FC. 26 August 2015閲覧。
- ^ Barney Ronay (31 January 2014). “Alessandro Del Piero walks the line in Sydney but is still sensational”. The Guardian 26 August 2015閲覧。
- ^ a b c “Tutti i trofei vinti da Alessandro Del Piero” (イタリア語). Il Post (9 November 2014). 26 August 2015閲覧。
- ^ “AFS Top-100 Players of All-Time”. RSSSF (14 December 2007). 19 August 2015閲覧。
- ^ “Ciao Alex Del Piero, buona nuova avventura”. Calcionews360.net. 12 October 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。22 July 2016閲覧。
- ^ “Capitani Azzurri: Alessandro Del Piero (2004–2008) – Nazionali – TMW”. Tuttomercatoweb.com (20 April 2012). 2023年7月閲覧。
- ^ “Festa Del Piero "Questa maglia mi rende speciale"” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (26 January 2012)
- ^ “Le 7 vite di Inzaghi I numeri magici di SuperPippo”. La Gazzetta dello Sport. (16 September 2009) 13 October 2010閲覧。
- ^ “Inzaghi, riflessioni sul futuro. Via dal Milan, Italia o Stati Uniti” (イタリア語). Mediaset.it (28 October 2011). 2023年7月閲覧。
- ^ “Del Piero a quota 301 gol in carriera: nel mirino c'è Inzaghi” (イタリア語). Tuttosport. (15 March 2010). オリジナルの6 October 2014時点におけるアーカイブ。
- ^ “Juve, come Del Piero nessuno mai” (イタリア語). Tuttosport. (29 December 2008). オリジナルの2 February 2014時点におけるアーカイブ。 22 October 2012閲覧。
- ^ “Fifa names greatest list”. BBC Sport. (4 March 2004) 12 April 2010閲覧。
- ^ "UEFA Awards". RSSSF.
- ^ “Two awards for Alex”. Juventus (10 May 2006). 14 October 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
- ^ "Comunicato Stampa" (in Italian). Retrieved 26 May 2012.
- ^ Del Piero
- ^ 西部謙司. “デル・ピエーロとインザーギ。短くも強く輝いた“デル・ピッポ”の煌めき”. footballista. 2021年4月29日閲覧。
- ^ a b “Seeking glory in blue shirt”. Sportstar (1 April 2006). 23 December 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。26 May 2012閲覧。
- ^ a b “Del Piero biografie” (イタリア語). ItBiografie.com. 15 July 2006時点のオリジナルよりアーカイブ。26 May 2012閲覧。
- ^ “Le luci di Del Piero” (イタリア語). Raisport.rai.it (28 June 2001). 13 May 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。26 May 2012閲覧。
- ^ “Stefano Del Piero: "Juve scelta di cuore"” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (18 July 2009) 3 June 2015閲覧。
- ^ Giovanni Audiffredi (17 April 2012). “Alessandro Del Piero: 'Se avessi saputo dire: Papà, ti voglio bene'” (イタリア語). Vanity Fair 3 June 2014閲覧。.
- ^ “Del Piero profile”. Kicker.de. 26 May 2012閲覧。
- ^ a b “Del Piero an ace at icing Juventus cake”. The International Herald Tribune. (14 February 2006). オリジナルの14 October 2008時点におけるアーカイブ。 10 December 2015閲覧。
- ^ Gloria Callarelli (9 November 2014). “Auguri Del Piero, dal Padova alla Juve: come si diventa leggenda” [Happy birthday Del Piero, from Padova to Juve: how one becomes a legend] (イタリア語). padovaoggi.it. Padova Oggi. 28 February 2015閲覧。
- ^ “Alessandro Del Piero racconta i primi anni nel calcio che conta a Padova” (イタリア語). Padova 24 Ore 16 March 2010閲覧。
- ^ “Del Piero, tre passi nel futuro Juve” (イタリア語). Il Corriere della Sera. (21 March 1994). オリジナルの16 June 2013時点におけるアーカイブ。 17 August 2009閲覧。
- ^ “Festa per il capitano Del Piero” (イタリア語). La Stampa. (12 September 2010). オリジナルの14 September 2010時点におけるアーカイブ。 13 September 2010閲覧。
- ^ “25 giugno 1994, Primavera tricolore”. Juventus.com. 2 June 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。7 January 2015閲覧。
- ^ a b “On This Day: Del Piero’s first Juventus goal”. footballitalia. 2017年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月3日閲覧。
- ^ “Juventus Corner : What Del Piero Means To Fans”. The Hard Tackle (21 May 2012). 2023年8月26日閲覧。
- ^ “Del Piero, tre passi nel futuro Juve Del Piero, tre passi nel futuro Juve” (イタリア語). Il Corriere della Sera (21 March 1994). 7 January 2015閲覧。
- ^ “Mengenal Baggio Lain Yang Ada Di Italia”. GOAL (2022年3月18日). 2023年8月1日閲覧。
- ^ “Alessandro Del Piero: 10 Wonder Goals from the Juventus and Italy Legend”. BLEACHERREPORT. 2023年6月17日閲覧。
- ^ “Fiorentina-Juventus, 20 anni fa il super gol di Del Piero” (イタリア語). Mediaset.it. 2014年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。5 December 2014閲覧。
- ^ a b c “Euro 2008: Alex Del Piero” (イタリア語). La Repubblica. (23 May 2008) 13 May 2015閲覧。
- ^ “DEL PIERO, FESTA TRADITA” (イタリア語). La Repubblica. (14 March 1994). オリジナルの2014年12月5日時点におけるアーカイブ。 5 December 2014閲覧。
- ^ “Alex Del Piero” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (23 May 2008). 18 February 2015閲覧。
- ^ “European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1995”. RSSSF (26 March 2005). 25 August 2015閲覧。
- ^ ワールドサッカーダイジェスト 1996年3月号 no.17 p.58-59
- ^ “FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 6 June 2020閲覧。
- ^ “European Footballer of the Year ('Ballon d'Or') 1996”. RSSSF (26 March 2005). 25 August 2015閲覧。
- ^ “Toyota Cup – Most Valuable Player of the Match Award”. RSSSF (29 December 2008). 14 April 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。5 May 2009閲覧。
- ^ Roberto Perrone (29 May 1997). “Peccato, ma resta un anno eccezionale” [It's a shame, but it's still been an exceptional year] (イタリア語). corriere.it. Il Corriere della Sera. 2015年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。28 February 2015閲覧。
- ^ “Riedle makes Dortmund's day”. UEFA (28 May 1997). 10 October 2015閲覧。
- ^ “FIFA Awards – World Player of the Year – Top 10”. RSSSF. 12 January 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。31 March 2016閲覧。
- ^ Pierrend, José Luis (26 March 2005). “European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1997”. Rec. Sport. Soccer Statistics Foundation. 14 March 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。5 November 2013閲覧。
- ^ “Alessandro Del Piero's 283 goals for Juventus make him the greatest one-club marksman in Italy”. Goal.com (25 April 2011). 2013年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月閲覧。
- ^ “Calcio Flashback: Juventus 4–1 Monaco (Champions League Semi-final 1998)”. Goal.com (6 January 2009). 19 Jan 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月閲覧。
- ^ “in ansia per Del Piero” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (22 May 1998) 20 October 2014閲覧。
- ^ “1997/98: Seventh heaven for Madrid”. UEFA (20 May 1998). 2023年8月閲覧。
- ^ “Scudetto of 1998 Belongs To Inter, Not Juventus – Gigi Simoni”. Goal.com (20 April 2009). 2013年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月閲覧。
- ^ “Juve, lo scudetto dei veleni e' vicino” (イタリア語). Il Corriere della Sera (27 April 1998). 2012年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。5 December 2014閲覧。
- ^ “La notte degli Oscar” [オスカーの夜] (イタリア語). rai.it. Rai Sport (22 September 1998). 8 December 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。28 February 2015閲覧。
- ^ “Alex Del Piero Fenomeno Vero” (イタリア語). Eurocalcio News. 14 March 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。26 May 2012閲覧。
- ^ “Un Fenomeno di sfortuna Tutti gli infortuni di Ronaldo” (イタリア語). gazzetta.it. La Gazzetta dello Sport (13 February 2008). 28 February 2015閲覧。
- ^ “Lazio, una Supercoppa aspettando Vieri” (イタリア語). Il Corriere della Sera (30 August 1998). 2013年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。26 August 2015閲覧。
- ^ “Campionato gia' finito per Del Piero infortunato” (イタリア語). Il Corriere della Sera (10 November 1998). 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。26 August 2015閲覧。
- ^ a b “Flashback – Juventus 2–3 Man Utd. 1999 CL semi final”. Football Speak (25 March 2012). 25 June 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。11 July 2012閲覧。
- ^ “Italy 1998/99”. RSSSF. 22 July 2016閲覧。
- ^ Andrew Warshaw (13 October 1998). “Football: Drugs in Serie A – Italy sinking deeper into scandal”. independent.co.uk. The Independent. 2011年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。28 February 2015閲覧。
- ^ “Juve doctor convicted of doping”. Union of European Football Associations (UEFA) (26 November 2004). 26 November 2004閲覧。
- ^ Bob Hughes (31 October 2010). “A Reminder of the Beautiful Game”. The New York Times. 28 February 2015閲覧。
- ^ “Juventus team doctor acquitted in doping case”. espnfc.com. ESPN FC (14 December 2005). 24 September 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。28 February 2015閲覧。
- ^ a b “Serie A 1999/2000”. football-lineups.com. 20 October 2014閲覧。
- ^ Simon Kuper (9 April 2000). “The wonderful tale of Mamma Inzaghi and her boys”. The Guardian 27 March 2017閲覧。
- ^ Ivan Palumbo (16 September 2016). “Il blob: Trapattoni-Strunz, era tutto programmato. E Del Piero sfotte...” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport 18 March 2017閲覧。
- ^ Silvano Stella; Paolo Forcolin (5 April 2000). “Del Piero Inzaghi, poco feeling” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport 19 March 2017閲覧。
- ^ Paddy Agnew (24 June 2000). “Del Piero fuels passionate debate”. The Guardian 3 June 2015閲覧。
- ^ “NAPOLI-JUVENTUS. I precedenti e le curiosità” (イタリア語). azzurrissimo.it (29 November 2011). 20 October 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。20 October 2014閲覧。
- ^ “Esulta la Juve, è tornato Del Piero” (イタリア語). Il Corriere della Sera (19 February 2001). 2014年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。20 October 2014閲覧。
- ^ “Del Piero torna leader Resterò alla Juventus” (イタリア語). La Repubblica. (17 March 2001). オリジナルの2012年7月18日時点におけるアーカイブ。 20 October 2014閲覧。
- ^ “The great Serie A title race of 2001–02”. thesefootballtimes.co (16 July 2016). 21 November 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。20 November 2016閲覧。
- ^ “Del Piero bussa alla storia” (イタリア語). gazzetta.it. La Gazzetta dello Sport (16 October 2006). 13 April 2015閲覧。
- ^ “Coppa Italia 2001/2002 » Final”. worldfootball.net. 20 November 2016閲覧。
- ^ “Supercoppa Italiana, la Juve cerca l'aggancio al Milan” (イタリア語). tuttosport.com/. Tuttosport (16 August 2013). 14 April 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。13 April 2015閲覧。
- ^ “La Juve batte il Brescia 2–1 scudetto sempre più vicino” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (27 April 2003). 13 April 2015閲覧。
- ^ “Electric Juventus power past Dynamo”. UEFA.com (24 September 2002). 5 January 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
- ^ “Newcastle stung by Del Piero double”. UEFA.com (1 October 2002). 5 January 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
- ^ “Dramatic win not enough for Basel”. UEFA.com (18 March 2003). 5 January 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
- ^ “Zalayeta sends Juventus through”. UEFA.com (22 April 2003). 5 January 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月26日閲覧。
- ^ “Madrid fall to brilliant Nedved”. UEFA.com. 5 January 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。12 May 2016閲覧。
- ^ “2002/03: Shevchenko spot on for Milan”. UEFA.com (28 May 2003). 2023年8月26日閲覧。
- ^ Luca Curino (22 November 2008). “Quando Del Piero era riserva di Ibrahimovic [When Del Piero was a reserve for Ibrahimovic]” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport 26 August 2015閲覧。
- ^ “A match that needs no introduction.”. AC Milan (22 February 2012). 4 March 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月閲覧。
- ^ “UEFA Champions League 2004/05 – History – Juventus”. uefa.com. 20 November 2016閲覧。
- ^ “Del Piero ringrazia Capello: "Rinato grazie al turn over"” (イタリア語). corriere.it. Il Corriere della Sera (14 February 2006). 2013年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。8 April 2015閲覧。
- ^ “DEL PIERO-CAPELLO: E' ROTTURA” (イタリア語). tuttocalciatori.net (10 May 2006). 8 April 2015閲覧。
- ^ “Del Piero supera Boniperti” [Del Piero overtakes Boniperti] (イタリア語). juventus.com (10 January 2006). 2015年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。8 April 2015閲覧。
- ^ “La Juve festeggia lo scudetto Poker al Cagliari di Zola” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (29 May 2005). 2013年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。13 April 2015閲覧。
- ^ “Punishments cut for Italian clubs”. BBC Sport. (26 July 2006)
- ^ “Real Madrid, accordo con la Juve per Cannavaro ed Emerson” (イタリア語). repubblica.it. La Repubblica (19 July 2006). 2013年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。13 April 2015閲覧。
- ^ “Alex Del Piero: A Look Back at Alex the Great's Time in Turin”. bleacherreport.com (14 May 2012). 27 July 2016閲覧。
- ^ 「貴婦人」はユヴェントスの愛称である。
- ^ “La sfida più difficile di Alex Del Piero” (イタリア語). corriere.it. Il Corriere della Sera (1 September 2005). 2012年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。10 December 2015閲覧。
- ^ "Juventus 2–1 al Cesena" (in Italian) Juventus.com. 23 August 2006
- ^ "Napoli – Juventus, 3–3 a.e.t. (Napoli win 5–4 on penalties)" Juventus.com. 28 August 2006
- ^ “Juventus win Serie B at a canter”. BBC Sport. (19 May 2007)
- ^ “Italy – Serie B Top Scorers”. RSSSF. 18 March 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。22 July 2016閲覧。
- ^ “Adesso Del Piero è mister 200” (イタリア語). gazzetta.it. La Gazzetta dello Sport (21 October 2006). 13 April 2015閲覧。
- ^ Alberto Mauro (16 October 2007). “Del Piero-Juve fino al 2010 Ale: "Giorni entusiasmanti"” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport 13 May 2015閲覧。
- ^ Gaetano De Stefano (7 October 2007). “Nazionale, novità Montolivo A casa Del Piero e Inzaghi” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport 13 May 2015閲覧。
- ^ “Juventus edge Lazio”. Eurosport (15 December 2007). 13 May 2015閲覧。
- ^ “Del Piero è l'anima Juve Roma battuta e avvicinata” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (16 February 2008) 13 May 2015閲覧。
- ^ “Del Piero, 552 senza tempo” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (24 March 2008) 13 May 2015閲覧。
- ^ Pier Luigi Todisco (6 April 2008). “Juve, che doccia fredda nel momento più caldo” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport 13 May 2015閲覧。
- ^ “Del Piero and Kaka score hat tricks”. thestar.com. (20 April 2008)
- ^ “Del Piero at the double”. ESPN (17 May 2008). 2013年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月閲覧。
- ^ “Samp-Juve show Super Del Piero è il re del gol” (イタリア語). La Gazzetta dello Sport. (18 May 2008) 8 January 2009閲覧。
- ^ “Premio Nazionale Carriera Esemplare "Gaetano Scirea": Alba d'Oro” (イタリア語). Comune Cinisello. 21 January 2015閲覧。
- ^ “Del Piero: 'I'll play until I'm 40'”. Football Italia (14 November 2011). 22 July 2016閲覧。
- ^ Del Piero è infinito. Lo Zenit si arrende La Gazzetta dello Sport – Retrieved on 8 January 2008
- ^ Del Piero-Amauri in gol. La Juve risorge, Real k.o. La Gazzetta dello Sport – Retrieved on 8 January 2008
- ^ “Juve enjoy high life at Madrid's expense”. UEFA.com (22 October 2008). 2013年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月閲覧。
- ^ Molinaro, John F. (7 November 2008). “CBC News – A class act”. Cbc.ca. オリジナルの2012年5月26日時点におけるアーカイブ。 13 June 2010閲覧。
- ^ Ale incanta il Bernabeu. La Juve è già qualificata La Gazzetta Dello Sport – Retrieved on 8 January 2008
- ^ “レアル・マドリーのファンが相手選手に拍手をした8つのケース” (2016年3月16日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ Fifield, Dominic (10 March 2009). “Essien and Drogba draw the sting from 10-man Juve”. The Guardian (London)
- ^ Sydney FC signs Italian legend Alessandro Del Piero Sydney FC | A-League Football Club、2012年9月5日
- ^ デル・ピエロがシドニーFCと2年契約で合意 ゲキサカ 2012年9月5日付記事
- ^ チャオ、オーストラリア OFFICIAL BLOG 日本語版、2014年4月28日
- ^ デル・ピエロ自身による2014年8月28日19:44 (UTC+2)の発言
- ^ “イタリア代表、背番号10の系譜。謎の退場!? 韓国戦、誤審連発…最悪の大会で何があった?” (2022年5月3日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ “「10番」なきイタリア代表の現実 カルチョの国からファンタジスタは失われたのか” (2016年3月23日). 2022年6月28日閲覧。
- ^ “デル・ピエロが現場復帰?引退後の紆余曲折を経て監督コース入り” (2021年3月11日). 2022年9月16日閲覧。
- ^ サッカー選手デル・ピエーロがALMSチーム代表就任 - オートスポーツ・2013年1月22日
- ^ マリオ 2012 148頁
- ^ マリオ 2012 151頁
- ^ 【2012Jリーグスペシャルマッチ】試合終了後のアレッサンドロ・デル・ピエロ選手コメント(12.07.21) - JsGoal、2012年7月21日
- ^ “alessandrodelpiero OFFICIAL BLOG 日本語版 - CAPTAIN TSUBASA”. 2013年12月15日閲覧。
- ^ “デル・ピエロが何故か岐阜に” (2018年9月24日). 2023年6月18日閲覧。
- ^ “ワールドプロレスリング実況三銃士の闘魂コラム#44”. 吉野真治. テレビ朝日 アナウンサーズ (2005年6月20日). 2014年1月21日閲覧。
- ^ “デル・ピエロの慈善団体、被災地へ約2300万円を寄付「友よ、あきらめないで」”. newsliverdoor (2005年6月20日). 2021年4月3日閲覧。
- ^ デル・ピエロが強烈ミドル弾…TEAM AS ONEが4ゴールで圧勝/復興支援マッチ SOCCER KING、2012年7月21日
- ^ “親日家デル・ピエロは地方遠征に興味「私が知っている日本は東京だけ…」サカつくイベントでベストイレブン発表”. 2023年9月18日閲覧。
- ^ アレッサンドロ・デル・ピエロ - National-Football-Teams.com
参考文献
[編集]- マリオ 宮川著『スポーツのマネジメント ユベントス・フェラーリ その交渉と契約』東邦出版、2012年。ISBN 978-4809410277。
外部リンク
[編集]- 公式ホームページ
- OFFICIAL BLOG 日本語版
- アレッサンドロ・デル・ピエロ (@delpieroale) - X(旧Twitter)
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - National-Football-Teams.com
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - Soccerway.com
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - FootballDatabase.eu
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - WorldFootball.net
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - Transfermarkt.comによる選手データ
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - FIFA主催大会成績
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - UEFA
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - レキップ
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - playmakerstats.com
- アレッサンドロ・デル・ピエロ - Fussballdaten.de