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ジュリオ・セザル・ソアレス・エスピンドラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジュリオ・セザル
インテル・ミラノ時代のセザル (2011年)
名前
本名 ジュリオ・セザル・ソアレス・デ・エスピンドラ
Júlio César Soares de Espíndola
ラテン文字 Julio Cesar
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1979-09-03) 1979年9月3日(45歳)
出身地 ドゥケ・デ・カシアス
身長 185cm
体重 80kg
選手情報
ポジション GK
利き足 左足
ユース
1991-1997 ブラジルの旗 フラメンゴ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2005 ブラジルの旗 フラメンゴ 130 (0)
2005-2012 イタリアの旗 インテル・ミラノ 228 (0)
2005 イタリアの旗 キエーヴォ (loan) 0 (0)
2012-2014 イングランドの旗 QPR 24 (0)
2014 カナダの旗 トロント (loan) 7 (0)
2014-2017 ポルトガルの旗 ベンフィカ 55 (0)
2018 ブラジルの旗 フラメンゴ 1 (0)
通算 445 (0)
代表歴
2004-2014 ブラジルの旗 ブラジル 87 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジュリオ・セザル・ソアレス・デ・エスピンドラ(Júlio César Soares de Espíndola, 1979年9月3日 - )は、ブラジルリオデジャネイロ州ドゥケ・デ・カシアス出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。現役時代のポジションはゴールキーパー

ジュリオ・セザールと表記される場合もある。

経歴

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フラメンゴ

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1997年に地元のクラブであるCRフラメンゴでプロ契約。2000年に定位置を奪取すると、2005年までに130試合に出場した。

インテル

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2005年1月14日にイタリアインテルへ移籍した。しかし、EU外選手枠の関係から1月16日にACキエーヴォ・ヴェローナ期限付き移籍する。キエーヴォでは出場機会がなかったが、インテルでは1年目の2005-06シーズンから監督のロベルト・マンチーニの信頼を得てフランチェスコ・トルドのポジションを奪い正GKの座を確保[1]。このシーズンから始まったインテルのリーグ5連覇に貢献した。

2008-09シーズンにジョゼ・モウリーニョが監督に就任してからも守護神の座を譲らず、2009-10シーズンはリーグ戦全38試合にフル出場。UEFAチャンピオンズリーグ、セリエA、コッパ・イタリアの三冠獲得に大きく貢献した。2009年にインテルとの契約を2014年まで延長[2]。2009年と2010年にはセリエA最優秀GK賞を、2010年にはさらにUEFA最優秀GK賞も受賞した。またこの頃の活躍をジャンルイジ・ブッフォンジャンルカ・パリュウカも称えている[3]。なお、2009-10シーズン終了後にトルドが現役を引退したため、翌シーズンより背番号1番を引き継いだ。

2012年、ウディネーゼからサミール・ハンダノヴィッチが移籍してきたことや減俸提示を受け入れなかったこともあり、背番号1番を剥奪されて構想外となり[4]、双方合意の上で契約を解除した[5]

QPR

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2012年8月29日、イングランドクイーンズ・パーク・レンジャーズFCと4年契約を結んだ[6]。背番号は33番。同じく新加入のロバート・グリーンが、8月17日のスウォンジーとの開幕戦で5失点するなど不安定なパフォーマンスを見せていたための緊急補強となった。9月15日のチェルシー戦でデビューを飾るとビッグセーブを連発し、0-0のスコアレスドローに持ち込んだ。

トロントFC

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2014年2月14日、QPR時代のチームメイトであるライアン・ネルセン率いるメジャーリーグサッカートロントFCへレンタル移籍した[7]

ベンフィカ

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2014年8月19日、SLベンフィカがクラブの公式HPで2年契約を結んだと発表した[8]。加入後2シーズンは出場機会に恵まれていたが、2016年頃から怪我に悩まされ始れ[9]、また同胞でもあるエデルソンの台頭などもあって出場機会が減少。2017年11月28日にベンフィカとの契約を双方合意のもとで解除した[10]

フラメンゴ

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ベンフィカ退団から約2カ月後の2018年1月29日、古巣CRフラメンゴへ3カ月間の契約で加入[11]。13年ぶりの復帰となった。4月21日、現役最後となった試合を無失点で抑えた。

代表歴

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ブラジル代表では2003年からジーダの控えとしてブラジル代表に招集されるも、出場機会は得られずにいた。コパ・アメリカ2004では正GKとなり、初戦のチリ戦で代表初出場を記録すると全試合に出場。決勝のアルゼンチン戦ではPK戦で最初のアンドレス・ダレッサンドロのシュートを止め、ブラジルの優勝に貢献した。その後もジーダやマルコスエウレリョ・ゴメスロジェリオ・セニドニらと共に代表に招集され、2006年ドイツW杯に向けて互角の正GK争いをした。結局はジーダに正GKの座を譲ったが、ドイツW杯後にジーダが代表を退いてからは即座に正GKの地位を確保した。南アフリカW杯のメンバーに選ばれ、チームは準々決勝のオランダ戦で敗れたものの、彼自身は決勝トーナメント1回戦まで2失点、オランダ戦での2失点の計4失点の成績を残した。

南アフリカ大会以降は代表から遠ざかっていたが、2012年末に代表監督に就任したルイス・フェリペ・スコラーリからの信頼が厚く、すぐに代表の正GKに復帰した。母国開催となったブラジルW杯にも選出され、決勝トーナメント1回戦のチリ戦ではPK戦で、2本のセーブでブラジルを勝利に導いたが、準決勝ドイツ戦で7失点、三位決定戦のオランダ戦で3失点を喫した。これによりクラウディオ・タファレルが保持していたブラジル代表ワールドカップ最多失点記録を「18」に更新することになってしまった[12]。大会後、ブラジル代表からの引退を表明した[13]

個人成績

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クラブ リーグ戦 カップ戦 欧州カップ戦 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
フラメンゴ 1997 0 0 1 0 0 0 1 0
1998 1 0 0 0 0 0 1 0
1999 0 0 0 0 0 0 0 0
2000 16 0 1 0 0 0 17 0
2001 26 0 6 0 0 0 32 0
2002 16 0 0 0 5 0 21 0
2003 37 0 9 0 0 0 46 0
2004 34 0 11 0 0 0 45 0
合計 130 0 28 0 5 0 163 0
キエーヴォ 2004-05 0 0 0 0 0 0 0 0
合計 0 0 0 0 0 0 0 0
インテル 2005-06 29 0 4 0 7 0 40 0
2006-07 32 0 0 0 6 0 38 0
2007-08 35 0 1 0 8 0 44 0
2008-09 36 0 2 0 7 0 43 0
2009-10 38 0 4 0 13 0 55 0
2010-11 25 0 3 0 10 0 38 0
2011-12 33 0 0 0 6 0 39 0
合計 228 0 14 0 57 0 299 0
通算 358 0 42 0 62 0 462 0

獲得タイトル

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クラブ

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フラメンゴ
インテル・ミラノ
SLベンフィカ

代表

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ブラジル代表

個人

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脚注

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外部リンク

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