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レオヴェジウド・リンス・ダ・ガマ・ジュニオール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジュニオール
名前
本名 レオヴェジウド・リンス・ダ・ガマ・ジュニオール
Leovegildo Lins da Gama júnior
ラテン文字 Júnior
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1954-06-29) 1954年6月29日(70歳)
出身地 ジョアンペソア
身長 174cm
体重 85kg
選手情報
ポジション DF / MF
利き足 右足
代表歴
1976-1992 ブラジルの旗 ブラジル 74 (6)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジュニオール(Júnior)ことレオヴェジウド・リンス・ダ・ガマ・ジュニオール(Leovegildo Lins da Gama Júnior、1954年6月29日 - )は、ブラジルジョアンペソア出身の元サッカー選手、指導者。元ブラジル代表。ポジションはDF (左サイドバック) 、1980年代中盤頃からはMF

クラブ経歴

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子供の頃からフラメンゴのファンで、ユースチームに入団した[1]。1974年からトップチームに参加、右サイドバックとしてキャリアをスタートさせたが、このことにより、それまで学んでいた経済学を諦めることとなった[1]。フラメンゴでは、ジーコらと共に数々のタイトルを獲得、コパ・リベルタドーレス1981では決勝でブレロア破り優勝[2]、同年トヨタカップでも先発出場しリヴァプールを3-0と破り優勝を果たした[3]。元々は中盤の選手であったがフラメンゴ、代表チームではジーコが居たことから左サイドバックとしてプレーしていた[4]。1984年頃には、当時30歳であったが、ヨーロッパの多くのチームからオファーを受ける存在となっていた[1]

1984-85シーズンからにトリノ に移籍、当時のGMであったモッジに、サイドバックではなく、MFとしてのプレーすることを約束させ、トリノへの移籍を承諾した[1]。洗練されたプレーを披露し、プレーメーカーとして、多くのチャンスを生み出した[1]。コッパ・イタリアのチェゼーナ戦でデビュー、デビュー2試合目、同大会のクレモネーゼ戦では、1ゴール2アシストを決めた[1]。リーグ6節のラツィオ戦でセリエA初ゴールを挙げると[5]、26試合で7ゴールを挙げ[5]、同シーズンは優勝を逃したものの、エラス・ヴェローナFCに続く第2位の好成績に貢献、ファンやメディアからも賞賛されるプレーで、同シーズンのセリエA最優秀選手賞を受賞した[1][6]。1985-86シーズンはリーグ第3位に入った。1987-88シーズン、ペスカーラへ移籍、1988-89シーズン、個人としてはプレスからリーグの最優秀外国人選手を選ぶ投票で2位に入るなど、プレーを高く評価されたが、奮闘むなしく、チームはセリエAに残留出来なかった[1]

イタリアでは計5シーズンを過ごし、その後35歳の時に古巣フラメンゴに復帰[6]、1991年には短期の契約でトリノの選手としてプレーし、ミトローパ・カップでは、決勝点をアシストして優勝した[1]。1992年にはリーグ優勝を果たし、1993年に現役を引退した。フラメンゴの選手としてはクラブ最多出場記録となる857試合に出場[7]、77得点を挙げた[7]

代表経歴

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黄金のカルテット」を擁した1982年ワールドカップ・スペイン大会ブラジル代表で左サイドバックとして出場した[8]。サイドバックながら多くの時間を中盤より前のエリアでプレイし、2次リーグのアルゼンチン戦で1ゴールを決めるなど[9]、好守にブラジル代表のサイド攻撃を支えた[4]

1986年ワールドカップ・メキシコ大会ではジーコが怪我で控えに回ったことから中盤でプレー、カレカミューレルらにチャンスメークをした[4]。ワールドカップ以降は代表を遠ざかっていたが、1992年4月15日のフィンランド戦で約6年振りに代表に復帰[9]、最後にブラジル代表としてプレーした1992年12月16日のドイツ戦時は38歳であった。

現役引退後

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2006年には、チッタとともにスカウティング担当として、ジーコ監督率いるワールドカップドイツ大会日本代表スタッフに加わった。

人物

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  • ボールタッチが柔らかく、ヴィジョンにも優れ、味方に優れたクロスボールを供給した[1]。また、FKのスペシャリストとしても知られた[10]
  • ペレは「総合的な能力で見ればジーコよりも優れている。」と高く評価していた[11]
  • ミュージシャンとして数枚のレコードを発売していて、特に1982年のワールドカップ時に発売された『ボア・カナリーニョ』は72万枚を超える売り上げを記録するヒット曲となった[12]
  • 1990年には日本でサンバ歌手としてライブを行い[4]、その模様はJúnior Live in Japanとのタイトルで翌年にCD化され発売されている(現在は廃盤)。

指導者歴

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タイトル

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  • ワールドカップオールスターチーム : 1982
  • セリエA最優秀選手賞 : 1985
  • ボーラ・ジ・オーロ : 1992
  • ボーラ・ジ・オーロオールスターチーム : 1980, 1983, 1984, 1991, 1992
  • 南米チームオブザイヤー : 1992

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j Leo Junior: il campione umile che in Italia ha incantato con Torino e Pescara”. GOAL (2022年3月31日). 2023年8月10日閲覧。
  2. ^ Final da Libertadores da América de 1981”. www.melhoresdabase.com. 21 April 2020閲覧。
  3. ^ トヨタカップ 1992年 大会公式パンフレット p.77
  4. ^ a b c d ワールドカップマスターズサッカー1989 大会公式パンフレット p.16-65 スーパースターたちの足跡
  5. ^ a b “Junior Torino 1984/85”. www.transfermarkt. https://www.transfermarkt.com/junior/leistungsdatendetails/spieler/117623/plus/0?saison=1984&verein=&liga=&wettbewerb=&pos=&trainer_id= 2020年6月1日閲覧。 
  6. ^ a b Junior, from the pitch to the box” (英語). FIFA.com. 1 October 2020閲覧。
  7. ^ a b Junior completa 58 anos de idade e recebe o carinho do Flamengo” (ポルトガル語). フラメンゴ (2012年6月29日). 2022年3月5日閲覧。
  8. ^ 82W杯、ブラジル最高傑作のチームはなぜ敗れたのか”. www.soccerdigestweb.com. 21 April 2020閲覧。
  9. ^ a b “Junior National team”. www.transfermarkt. https://www.transfermarkt.co.uk/junior/nationalmannschaft/spieler/117623 2020年6月1日閲覧。 
  10. ^ トヨタカップ 1981年 大会公式パンフレット p.18-19
  11. ^ イレブン 1983.4月号 p.112-113
  12. ^ 伝説のセレソン”ジュニオールに聞く、スポーツとミュージックの幸福な関係”. 文芸春秋 (2017年7月1日). 2022年1月25日閲覧。

外部リンク

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