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相模国

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相模の国から転送)
相模国

-相模国
-東海道
別称 相州 (そうしゅう)
所属 東海道
相当領域 神奈川県の大部分(北東部を除く)
諸元
国力 上国
距離 遠国
8郡57郷
国内主要施設
相模国府 1.(推定)神奈川県海老名市または小田原市
2.(推定)神奈川県平塚市
3.(推定)神奈川県中郡大磯町
相模国分寺 神奈川県海老名市(相模国分寺跡
相模国分尼寺 神奈川県海老名市(相模国分尼寺跡
一宮 寒川神社(神奈川県高座郡寒川町
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市
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相模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の神奈川県にあたる。

「相模」の国名

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「相模」のという文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「相摹さがみ」が使用されており、手へんの「摸」による相摸とするのが本来の表記である。

現在の行政区分での領域

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明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち川崎市横浜市を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧武蔵国を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の鎌倉郡にあたる[1][2][3]

武相国境

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境川上流部は武相国境(武蔵国との境)だった(現在は神奈川県と東京都との都県境)。

町田市鶴間・大和市下鶴間・横浜市瀬谷区五貫目町の境界点からは国境は境川から離れ、町田市鶴間・横浜市瀬谷区卸本町・横浜市緑区長津田町の境界点で東京湾相模湾分水嶺へ移った。なおその尾根道(武相国境道)は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから(旭区瀬谷区の境)金沢区鎌倉市の境まで続いた[3][注 5]

横浜・横須賀・逗子境界標識点からは分岐し、侍従川(横浜市金沢区六浦)と鷹取川(横須賀市湘南鷹取・追浜本町)との間の尾根を通り、横浜創学館高等学校を通り東京湾に達した。

沿革

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相模国は古墳時代成務朝に成立した相武国造(さがむ-)[注 6][6]の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。

なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国群馬県栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない[7]

国名の語源は不明。前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている[7]

12世紀末に源頼朝鎌倉を本拠地とし、以来相模国は鎌倉幕府の本拠地となった。頼朝が知行国主であった時代には、政所国役の賦課などを行っていた[8]。守護に関しては宝治合戦までは三浦氏が守護であったとする説(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)があるが、三浦氏は元々在庁官人として相模国内の雑事を行っていたことから、相模国は守護不設置で政所とその指示を受けた三浦氏を代表とする御家人化した在庁官人がその職務を行っていたとする説もある[8]北条氏による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、執権が相模守となり、副執権である連署が任官された武蔵守と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた[9]

1333年鎌倉幕府は滅亡したが、その後も建武の新政の時期には鎌倉将軍府が、室町時代には鎌倉府が置かれ関東の政治の中心であった。1428年永享の乱によって鎌倉府は下総国古河へ移り、関東の政治の中心の座から外れたが、戦国時代になると小田原城を本拠地とした後北条氏が関東地方に勢力を広げ、1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となった。

江戸時代には小田原藩を初めとする譜代の諸藩や幕府領旗本領となった。

明治以後の沿革

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国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府

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推定相模国庁跡(平塚市四之宮)
湘南新道関連遺跡。歩道上に大型建物跡(推定国庁西脇殿)の遺構標示。

相模国府の所在地は、史料では『和名類聚抄』(931年938年編纂)と『拾芥抄』では「大住郡」(平塚市)、『伊呂波字類抄』(平安時代末~鎌倉時代初期成立)では「餘綾郡」(中郡大磯町)にあったと見えることから、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた[10]。いずれも国分寺の所在地である高座郡海老名市)と異なるため、江戸末~明治時代に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱された[11][12]。また大正昭和初期には「大住郡(平塚または伊勢原市)→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した[11]。さらに1950年代以降、小田原市足下郡)で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡[13]」を初期の相模国分寺と見て、その付近に初期国府もあったとし、「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」(足柄国府説)が提唱された[12][11]

高座郡国府説
相模国分寺の地に初期国府の所在を求める説[14][12]。推定地は現在の海老名市付近。江戸時代の『新編相模国風土記稿』に高座郡国分村と見える一帯に推定される[12]
大住郡国府説
平安時代中期成立の『和名類聚抄』の記載に基づく説。別地から移ったと見る説では、元慶2年(878年)の関東大地震を契機として新たに建てられたと推測する[12]。平塚市四之宮において関連遺跡が発掘されている[注 7][12]。ただし比定地については、平塚市四宮説以外にも伊勢原市比々多説・秦野市御門説がある[12]
餘綾郡国府説
平安時代末期成立の『伊呂波字類抄』の記載に基づく説。推定地は相模国総社の六所神社が鎮座する大磯町国府本郷付近。

現代の考古学発掘調査成果では、1989年(平成元年)に平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土したことや[15]、2004年(平成16年)の湘南新道建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる8世紀前葉の大型掘立柱建物が検出されたことで[16]、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている[10][11]

国分寺・国分尼寺

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海老名中央公園の国分寺七重塔模型(3分の1スケールでの復元)

なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される[18]。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている[18]

神社

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延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社1座1社・小社12座12社の計13座13社が記載されている(詳細は「相模国の式内社一覧」を参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[19]

寒川神社は古くから現代に至るまで一宮とされている。一方で鶴岡八幡宮鎌倉市雪ノ下)も全国一の宮会に加盟しており、一宮として扱われることがある。同宮は鎌倉時代の創建で、式内社ではないにもかかわらず一宮と同格の扱いを受けた。これは、当時の将軍である源氏氏神を京都の石清水八幡宮から勧請した宮であり、鎌倉幕府が特別扱いしたためと考えられる。

また、一宮から四宮までの4社と共に国司巡拝の神社で「一国一社の八幡宮」として平塚八幡宮(平塚市浅間町)があるが、同宮は四宮以上の4社と違って式内社ではない。平塚八幡宮を「五宮」と呼ぶことはなく神社側も五宮とは名乗っていないが、5月5日の国府祭(こうのまち)では一宮から四宮と平塚八幡宮の五社が神揃山(かみそろいやま)に集まる神事があることから、五宮格と考えられている。一方、室町時代の兵火に合うまで権勢を誇った有鹿神社は五宮とされることもある(諸説あり)が、国府祭には参加していない。

安国寺利生塔

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  • 安国寺 - 鎌倉市山之内に存在したといわれるが廃寺。
  • 利生塔 - 未詳。

地域

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中世、後北条氏は、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)とし、近世初頭まで用いられたようである。

人物

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国司

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相模守

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※日付=旧暦※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。


相模介

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相模掾

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守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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国人

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足柄上郡
  • 松田氏 - 松田郷。波多野氏族。本宗が頼朝に敵対して衰退したため惣領化していた。後北条氏の進出に協力して重臣となっている。
  • 大友氏 - 大友郷。本姓近藤氏。能直の母の生家波多野氏が大友荘を所有していたことから大友氏を名乗る。豊後・筑後守護職を得、孫の頼康が西遷して基盤を移し、以後目立った活動は見られない。
足柄下郡
餘綾郡
大住郡
  • 波多野氏 - 波多野荘。本姓佐伯氏。秦野盆地一体に根を張り、松田氏などが派生している。京武者として官位を得、源頼朝の父義朝とも縁戚関係になるなど大きな勢力を誇ったが、頼朝に敵対して没落した。御家人としては残っている。
愛甲郡
高座郡
鎌倉郡
  • 鎌倉氏 - 大庭氏、梶原氏、長尾氏などが派生し鎌倉党を為したが、源平の戦いの中で二分され解消していった。
御浦郡
  • 三浦氏 - 三浦荘。古くから三浦半島に盤踞した。岡崎城主。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏は北条氏に滅ぼされ、再興した三浦氏は後に北条氏を称する伊勢氏に滅ぼされた。

戦国大名

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  • 後北条氏 - 室町幕府政所執事を世襲する伊勢氏の氏族で備中を領する家に生まれた伊勢盛時が伊豆、相模を切り取り、子氏綱が北条氏を称した。

織豊大名

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  • 徳川家康 - 豊臣秀吉による後北条氏の討滅後、徳川家を本拠地三河や獲得していた信濃などから旧北條領へ移封した。

武家官位としての相模守

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1980年(昭和55年)に起立した卸本町の町域は大部分が瀬谷区瀬谷町であったが、一部に旧武蔵国都筑郡田奈村であった緑区長津田町と、同じく都筑郡都岡町であった旭区上川井町が含まれている。
  2. ^ 鎌倉郡永野村のうち港南区相当部分。範囲は現在の次の町丁にあたる。
  3. ^ 鎌倉郡鎌倉町1894年までは東鎌倉村であったが、1897年(明治30年)に当該地区の大字峠が武蔵国久良岐郡六浦荘村に編入されているので、通常は旧武蔵国に含まれる。
  4. ^ 1878年(明治11年)に千歳川を県境と定め、神奈川県足柄下郡宮上村(後の湯河原町)のうち1700年元禄13年)以来、国境論争が続いていた伊豆山権現領(字泉・稲村。年貢は小田原藩に上納)が分立して静岡県賀茂郡泉村となったため。
  5. ^ 現在でも相鉄本線三ツ境駅方面より続いている同病院前の道路は「野境道路」(のざかいどうろ)と呼ばれている[5]
  6. ^ 相武は、山のない荒野の意。
  7. ^ 国庁の建物と思われる多数の掘立柱建物の跡、国庁の部局の「政所」(まんどころ)・「曹司」(そうじ)・「国厨」(くにのくりや)と墨書された土器などが出土した。
  8. ^ 上杉禅秀の乱に乗じた三浦高明の相模守護更迭とその後の上杉定頼・一色持家の守護就任は鎌倉公方足利持氏が最終任命権を持つ室町幕府を無視して任命したもので、事実上の鎌倉府の御料国化であった(風間洋「足利持氏専制の周辺」『国史学』第163号(1997年))。

出典

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  1. ^ 南横浜のグレートディバイディング・旧武相国境の全容
  2. ^ 武相国境の位置や当時の生活感はどうだった?はまれぽ.com 2012年1月25日)
  3. ^ a b いずみいまむかし―泉区小史 > 第3章「道と川」 > 境の道「武相国境道」(横浜市泉区公式ウェブサイト)
  4. ^ 港南区は昔、東と西で違う「国」だった! 武相国境 (PDF)広報よこはま港南区版「こうなん」 No.114 / 2007年4月号バックナンバー:索引
  5. ^ 武相国境・緑の森コース > 武相国境 (野境道路)アーカイブ〉(横浜市瀬谷区公式ウェブサイト)
  6. ^ 武光誠『県民性の日本地図』文藝春秋〈文春新書〉、2001年、86-87頁。ISBN 4-16-660166-0 
  7. ^ a b 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』神奈川県、1981年3月25日、147頁。doi:10.11501/9522771 
  8. ^ a b 大澤泉「相模国の知行体制と地域秩序の形成」『三浦一族研究』19号(2015年)/真鍋淳哉 編『旧国中世重要論文集成 相模国』(戎光祥出版、2020年)、2020年、P52-55.
  9. ^ 日本史史料研究会編『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』(吉川弘文館、2018年)P133
  10. ^ a b 平塚市博物館 2005, pp. 42–43.
  11. ^ a b c d 神奈川考古学会 2015, p. 44.
  12. ^ a b c d e f g 『あなたの知らない神奈川県の歴史』(洋泉社、2012年)Q.2。
  13. ^ 小田原市文化部文化財課. “千代寺院跡(千代廃寺)”. 小田原市. 2022年5月21日閲覧。
  14. ^ 小島庸和 「相模国府の所在について」 表現学部紀要9 (2008)
  15. ^ 平塚市社会教育課. “「国厨」墨書土器他 稲荷前A遺跡第1地点 1号竪穴住居址出土資料一括”. 平塚市. 2022年5月21日閲覧。
  16. ^ かながわ考古学財団 2010, pp. 66–67.
  17. ^ a b 海老名市教育委員会作成「史跡相模国分寺跡・相模国分尼寺跡」(2013年)。
  18. ^ a b 千代寺院跡(小田原市ホームページ)。
  19. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 181-185。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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