北条煕時
絵本鎌倉北条九代記 | |
時代 | 鎌倉時代後期 |
生誕 | 弘安2年(1279年)[1] |
死没 | 正和4年7月18日(1315年8月18日)[1] |
改名 | 北条貞泰(初名)[1][注釈 1]→煕時、道常 |
別名 | 熙時、熈時(別表記) |
官位 | 従五位下左近衛将監、従五位上右馬権頭、正五位下武蔵守、相模守 |
幕府 | 鎌倉幕府京下奉行、評定衆、周防・長門守護、引付頭人、長門探題、寄合衆、連署、第12代執権 |
主君 | 久明親王→守邦親王 |
氏族 | 北条氏(政村流) |
父母 | 父:北条為時、母:不詳 |
兄弟 | 煕時、時仲、時助 |
妻 | 正室:北条貞時の娘 |
子 | 茂時、貞煕、胤時、時敏、煕助 |
花押 |
北条 煕時(ほうじょう ひろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府12代執権(在職:正和元年6月2日(1312年7月6日) - 正和4年7月11日(1315年8月11日))である。
父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村の曾孫にあたる。正室は第9代執権の北条貞時の娘。
生涯
[編集]弘安2年(1279年)、北条為時の子として生まれる。初名は貞泰(さだやす)[1][注釈 1][注釈 2]、のち煕時に改名。
引付衆などを務めていたが、嘉元3年(1305年)4月に嘉元の乱が起こり、連署の祖父(政村の子で為時の父)時村が内管領の北条宗方に討たれ、続いて宗方が得宗の北条貞時に滅ぼされた。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われた[1]。なお、この頃までには貞時の娘と結婚していた[1]。同年、時村に代わって長門・周防両国守護(長門探題)となる。
延慶2年(1309年)3月に引付再編が行なわれて1番頭人となる[5]。4月9日には金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ(『金沢文庫古文書』324号)[1][5]、この頃から煕時は貞時や貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の1人になった。8月27日には引付1番頭人を辞任している[6][1]。しかし延慶3年(1310年)2月18日に復職した[1]。
応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第11代執権に就任すると、10月3日に煕時は連署に就任した[1][7]。正和元年(1312年)6月2日に宗宣が出家すると12代執権に就任する[1]。しかし、実権は内管領の長崎円喜に握られていた[1]。また、執権在職期間に連署を置く事は無かった[1]。
正和4年(1315年)7月11日に病のため執権職を辞任して普恩寺基時に譲り、同日に出家して道常と号したが、7月18日に病のために死去した[8][1][注釈 3]。享年37。
歌人でもあり、『玉葉和歌集』『新後撰和歌集』に煕時の詠歌がある[1]。
経歴
[編集]※ 日付=旧暦
- 1293年(永仁元年)7月20日、従五位下左近衛将監に叙任。
- 1295年(永仁3年)10月24日[1]、幕府の引付衆となる。
- 1299年(正安元年)2月28日、従五位上に昇叙。左近衛将監如元。
- 1301年(正安3年)8月22日、評定衆に異動。8月25日、四番引付頭人を兼帯。
- 1302年(乾元元年)11月18日、右馬権頭に転任。9月11日、六番引付頭人に異動。評定衆如元。
- 1304年(嘉元2年)9月25日、五番引付頭人に異動。評定衆如元。12月7日、四番引付頭人に異動。評定衆如元。
- 1305年(嘉元3年)8月1日、三番引付頭人に異動。評定衆如元。8月22日、二番引付頭人に異動。評定衆如元。同年某月某日、京下奉行兼帯。
- 1306年(徳治元年)6月12日、正五位下に昇叙。
- 1307年(徳治2年)1月28日、一番引付頭人に異動。評定衆如元。2月9日、武蔵守に遷任。
- 1309年(延慶2年)4月9日、寄合衆兼帯。
- 1311年(応長元年)10月3日、連署に異動。10月24日、相模守に遷任。
- 1312年(応長2年)6月2日、執権に異動。
- 1315年(正和4年)7月11日、出家。道常を号す。7月18日、卒去。享年37。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 『鎌倉年代記』応長元年条、「北次第」[2]。『入来院家所蔵平氏系図』でも為時の子に貞泰を載せ、「今者(今は)熈時」と注記されている[3]。
- ^ 煕時の元服についての詳細は分かっていないが、生誕年から元服の年次は1288年-1293年またはこの前後と推定される。この期間は北条貞時が得宗の地位にあって、「得宗(貞時)→御家人」という形で偏諱(「貞」の字)が授与される図式が成立しており[4]、「貞泰」の名もその方針に沿って名乗ったものと考えられる。
- ^ 基時以降の執権は、正慶2年/元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時に全員戦死もしくは自害をしているため、煕時が病死した最後の執権ということになる。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 奥富敬之 著「北条煕時」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、552頁。
- ^ 細川 2000, 巻末「鎌倉政権上級職員表」No.47「北条煕時」.
- ^ 山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」『長崎大学教育学部社会科学論叢』第61巻、長崎大学教育学部、2002年6月、11頁、CRID 10505687722155651842、hdl:10069/6249、ISSN 03882780。
- ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、21頁。
- ^ a b 永井 2003, p. 66.
- ^ 永井 2003, p. 67.
- ^ 永井 2003, p. 73.
- ^ 永井 2003, p. 79.
参考文献
[編集]- 書籍
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6。
- 永井晋『金沢貞顕』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4-642-05228-3。
- 史料
- 『鎌倉年代記』(所収:竹内理三編『鎌倉年代記 武家年代記 鎌倉大日記』〈続史料大成 第51巻〉、臨川書店、1979年)
- 北条時政以来後見次第(東京大学史料編纂所所蔵影写、※脚注では「北次第」と略す。)
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