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藤原富士麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 富士麻呂
藤原富士麻呂/菊池容斎画『前賢故実』より
時代 平安時代初期
生誕 延暦23年(804年
死没 嘉祥3年2月16日850年4月2日
官位 従四位下陸奧出羽按察使
主君 淳和天皇仁明天皇
氏族 藤原南家巨勢麻呂流
父母 父:藤原村田、母:県犬養以綱の娘
兄弟 富士麻呂、達良麻呂、興世
紀名虎の娘
敏行
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藤原 富士麻呂(ふじわら の ふじまろ)は、平安時代初期の貴族藤原南家巨勢麻呂流、讃岐守藤原村田の次男。官位従四位下陸奧出羽按察使

経歴

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淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける[1]天長10年(833年春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位仁明天皇)に伴い、従五位下・右近衛少将に叙任された。承和4年(837年阿波介を兼ねる。

承和9年(842年)正月に従五位上に昇叙される。同年9月には伴健岑橘逸勢謀反を起こすが、右馬助佐伯宮成と共に近衛兵を率いて、謀反人を包囲して捕縛に成功(承和の変)。この功労により、富士麻呂は正五位下・右近衛中将に昇進する。承和12年(845年従四位下

承和13年(846年)に陸奧出羽按察使として東北地方に下向するが、赴任にあたり清涼殿に招かれ仁明天皇から鄭重な恩詔を受け、被衣と綵帛を賜与された[1]嘉祥2年(849年)冬に平安京に帰還するが、翌嘉祥3年(850年)春に背中に悪瘡を患い、2月16日に卒去享年47。最終官位は陸奧出羽按察使従四位下。

人物

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若い頃から大学で学び、広く史漢に通じた一方、弓馬にも秀でた。性格は温雅であった。長く近衛府の武官を務めたが、よく士卒の歓心を得ることができ、仁明天皇から将軍としての才があると評された。死去の際、人々はみな悲しみ惜しんだという[1]

官歴

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続日本後紀』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ a b c 『続日本後紀』嘉祥3年2月16日条
  2. ^ a b c 『近衛府補任』

出典

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