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葛井諸会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

葛井 諸会(ふじい の もろえ、生没年不詳)は、奈良時代貴族官位従五位下相模守勲等は勲十二等。

経歴

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元明朝和銅4年(711年対策を受験し、この時の策問に対する対策文が『経国集』に採られている。

聖武朝天平7年(735年)諸会は大史を務めていたが、美作守阿倍帯麻呂らが4人を故殺したとして遺族太政官に対して訴え出る。しかし、この訴えを審理せず放置したとして、右大弁大伴道足、右中弁・高橋安麻呂、右少弁・県犬養石次とともに怠慢の罪により罰せられたが、詔があり何れも罪を赦されている[1]

山背介を経て、天平17年(745年従五位下に叙せられる。その後も天平19年(747年相模守と聖武朝末にかけて地方官を歴任した。この間の天平18年(746年)正月の大雪の日に、左大臣橘諸兄中納言藤原豊成ら廷臣が元正上皇の御在所に参入して酒宴を行った際、を受けて諸会が詠んだ和歌作品が『万葉集』に採録されている[2]

孝謙朝末の天平勝宝9歳(757年内位の従五位下に至る。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平7年9月28日条
  2. ^ 『万葉集』巻17-3925
  3. ^ 『大日本古文書(編年文書)』2巻303頁

参考文献

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