大伴道足
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時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天平13年(741年)? |
官位 | 正四位下参議 |
主君 | 文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 大伴氏 |
父母 | 父:大伴馬来田 |
兄弟 | 道足 |
子 | 伯麻呂、藤原鳥養室 |
大伴 道足(おおとも の みちたり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。贈内大紫位・大伴馬来田の子。官位は正四位下・参議。
経歴
[編集]大宝4年(704年)従六位下から四階の昇叙により従五位下に叙爵。以降元明朝から元正朝にかけて、讃岐守・弾正尹・民部大輔などを歴任。この間、和銅5年(712年)正五位下、養老4年(720年)正五位上、養老7年(723年)従四位下と昇進した。讃岐守在任時の和銅6年(713年)には、同国寒川郡の物部乱ら26人が庚午年籍以来良人であったところ、持統天皇4年(690年)の戸籍改定の際に誤って飼丁の籍とされたとして、良人に編入すべき旨を言上し許可されている[1]。
神亀6年(729年)2月に発生した長屋王の変に際して、大宰大弐・多治比縣守、左大弁・石川石足と共に臨時で参議に任ぜられ、同年正四位下・右大弁に叙任された。天平2年(730年)勅を受けて擢駿馬使として大宰府に下向するが、その際に大宰帥・大伴旅人の邸宅で催された歓迎の宴で葛井広成が詠んだ和歌が『万葉集』に採録されている[2]。天平3年(731年)7月に薨去していた大伴旅人に代わって、同年8月に諸司の主典以上の官人の推挙を受けて、大伴氏の代表として参議に任ぜられ公卿に列した。同年南海道鎮撫使。議政官として右大弁を兼任したが、天平7年(735年)阿倍帯麻呂らによる殺人事件について、遺族の訴えを審理せず放置したとして左中弁・高橋安麻呂らと共に断罪されるも、聖武天皇の詔により赦されている[3]。
没年不詳だが、一説では天平13年(741年)没とする[4]。最終官位は参議正四位下[5]。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:従六位上
- 大宝4年(704年) 正月7日:従五位下
- 時期不詳:従五位上
- 和銅元年(708年) 3月13日:讃岐守
- 和銅5年(712年) 正月19日:正五位下
- 和銅6年(713年) 8月26日:弾正尹
- 養老4年(720年) 正月11日:正五位上。10月9日:民部大輔
- 養老7年(723年) 正月10日:従四位下
- 神亀6年(729年) 2月11日:権為参議。3月4日:正四位下。9月28日:右大弁
- 天平2年(730年) :擢駿馬使
- 天平3年(731年) 8月11日:参議。11月22日:南海道鎮撫使
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社学術文庫、1992年