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「テイエムオペラオー」の版間の差分

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'''テイエムオペラオー'''(欧字名:{{lang|en|T.M. Opera O}}、[[1996年]][[3月13日]]<ref group=注釈>テイエムオペラオーと同じくGIを7勝した[[シンボリルドルフ]]と同日である。</ref> - [[2018年]][[5月17日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web |title=テイエムオペラオー|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/|website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-04}}</ref>。
'''テイエムオペラオー'''(欧字名:{{lang|en|T.M. Opera O}}、[[1996年]][[3月13日]] - [[2018年]][[5月17日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web |title=テイエムオペラオー|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/|website=www.jbis.or.jp |accessdate=2022-02-04}}</ref>。


1998年に[[中央競馬]]でデビュー。1999年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]戦線において[[アドマイヤベガ]]、[[ナリタトップロード]]と共に「三強」を形成し、三冠競走初戦・[[皐月賞]]を制するなどして[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]に選出。2000年には「一強」状態となってシーズンを踏破し、[[天皇賞(春)]]、[[宝塚記念]]、[[天皇賞(秋)]]、[[ジャパンカップ]]、[[有馬記念]]を含む年間8戦全勝、年間記録として史上最多の[[グレード制|GI競走]]5勝という成績を挙げ、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に満票で選出された。2001年には天皇賞(春)を連覇してGI勝利数を当時最多タイ記録の「7」とし、同年末に競走馬を引退。[[和田竜二]]が全戦で騎乗し、通算26戦14勝。総獲得賞金額18億3518万9000円は、2017年まで世界最高記録であった<ref name="doudou">『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々』pp.66-69</ref><ref group="注釈">2017年にアメリカの[[アロゲート]]が更新。</ref>。20世紀末に活躍したことから、漫画『[[北斗の拳]]』の登場人物・[[ラオウ]]になぞらえ「'''世紀末覇王'''」とも称された<ref name="yu2108">『優駿』2021年8月号、pp.28-29</ref>。2004年に[[日本中央競馬会]]の[[JRA顕彰馬|顕彰馬]]に選出。
主な勝ち鞍は[[1999年]]の[[皐月賞]]、[[2000年]]・[[2001年]]の[[天皇賞(春)]]、2000年の[[宝塚記念]]、[[天皇賞(秋)]]、[[ジャパンカップ]]、[[有馬記念]]。


== 経歴 ==
1999年[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]、2000年[[JRA賞|年度代表馬]]および[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|最優秀5歳以上牡馬]](部門名はいずれも当時)。[[シンボリルドルフ]]に続いての[[中央競馬]]GI7勝、2000年の年間無敗記録を達成したことから、「'''世紀末覇王'''」の異名を持つ。長らく獲得賞金の世界記録を保持していたが、2017年のドバイワールドカップで[[アロゲート]]が優勝したことにより、その記録を同馬に譲った。2004年に[[日本中央競馬会]]の[[JRA顕彰馬|顕彰馬]]に選出。
=== 生い立ち ===
1996年、[[北海道]][[浦河郡]][[浦河町]]の杵臼牧場に生まれる<ref name="kimu">木村(2002)pp.38-42</ref>。父・[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]は競走馬時代にヨーロッパ各国と北米で走り、18戦8勝<ref name="yu9905">『優駿』1999年5月号、p.141</ref>。それぞれG1競走の[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、[[エクリプスステークス]]、[[コロネーションカップ]]などを制して1993年には全欧の古馬チャンピオンに選ばれ、1994年に種牡馬として日本に輸入された<ref name="yu9905" />。母ワンスウェドはアメリカ産馬で競走馬時代は不出走<ref name="yu9905" />。1987年に上場された繁殖牝馬セールにおいて、杵臼牧場主の鎌田信一に1万5000ドルで購買され、これも日本に輸入されていた<ref name="yu9908">『優駿』1999年8月号、pp.29-31</ref>。ワンスウェドの父・[[ブラッシンググルーム]]はこのセールから2年後の1989年にイギリス・アイルランドの[[リーディングサイアー]](首位種牡馬)となるが、当時は日本での注目度はまだ低く<ref name="yu9908" />、鎌田はむしろその評価が定まっていないところに興味を抱いていた<ref name="kimu2">木村(2002)pp.30-35</ref>。


ワンスウェドの初年度産駒・チャンネルフォーは中央競馬で4勝を挙げてオープンクラスまで昇り、重賞でも[[CBC賞]](GII)2着、[[阪急杯]](GIII)3着などの実績を残した<ref name="yu9905" />。他にもワンスウェドの各産駒は堅実に勝ち上がったが、チャンネルフォーも含めて短距離傾向が強い特徴があった。鎌田はワンスウェドからより上のクラスで活躍する馬の誕生を期して、「距離の補強」が期待できる種牡馬を探し、選ばれたのが長距離実績のあったオペラハウスであった<ref name="kimu2" />。
== デビュー前 ==
当馬の血統は姉に[[CBC賞]]2着のチャンネルフォーがおり、その他の兄弟の勝ちあがり率も高かったものの父・[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]が当時日本でまだ良績を残していなかった[[サドラーズウェルズ系]]種牡馬ということもあり、それほど良血と呼べる血統ではなかった。また、馬体もバランスは取れていたもののこれといった特徴があるものではなかったために、牧場にいるときの同馬の評価はそれほど高いものではなかった。しかし、後にオーナーとなる竹園は牧場で同馬を見たときに「光り輝いて見えた」というほど惚れ込み、購入する事を決めた。


誕生した本馬を見た鎌田は、丈夫そうで馬体のバランスが良いと感じたものの、強い印象はもたなかった<ref name="kimu" />。出生から10日ほどして、後にそれぞれ馬主、調教師となる[[竹園正繼]]と[[岩元市三]]が牧場を訪れる。引き出された7頭ほどの中から、竹園は本馬をひと目で気に入り、購買を申し出る<ref name="kimu" />。オペラハウス産駒には市場取引義務があり、競り市で落札する必要があることを鎌田が告げると、竹園は「絶対に俺が競り落とすから、この馬を他の人に見せちゃ駄目だよ。これは絶対オープンまで行くよ。重賞も取れるかもしれないよ」と話した<ref name="kimu" />。竹園は後に「馬体を見た瞬間にいっぺんで惚れこみました。腰が大きく、骨がしっかりしていて、繋も柔らかい。自分なりのチェックポイントを全てクリアしていたうえ、なにか垢抜けた雰囲気があった。もちろんその時はこれほどの馬になるとは思わなかったけど、この馬なら故障の心配はないなと思ったことはよく覚えています」と、その印象を振り返っている<ref name="yu0008">『優駿』2000年8月号、pp.15-17</ref>。岩元は「そんなに強烈な印象は受けなかった」としている<ref name="meiba">『名馬物語』pp.148-154</ref>。
当時、[[日本軽種馬協会]]の種牡馬であるオペラハウスの産駒の牡馬はセリ市に出す義務があったので、竹園は1997年の10月に静内で行われたセリ市で同馬を購入した。後にGIレースを7勝して18億円余りの賞金を稼ぐ事になる同馬だが、このセリ市では竹園に競りかけてくるものは誰も出ず、竹園はスタート価格の1000万円で購入することができた。後に最大のライバルとなる[[メイショウドトウ]]の購入価格は500万円で9億円以上の賞金を稼ぎ、両馬は共に購入価格の約184倍ほどもの多額の賞金を稼いだことになる。


{{Double image aside|right|Masatsugu-Takezono20100404.jpg|150|Ichizo-Iwamoto20100424.jpg|150|竹園正繼(2010年)|岩元市三(2010年)}}
竹園は、この馬に冠名である「テイエム」、父から名の一部をとって「オペラ」、そしてサラブレッドの王になれという思いを込めて「オー」という組み合わせで「テイエムオペラオー」と名付けた。
1997年10月、[[静内町|静内]]で開かれた北海道10月市場に上場され、開始と同時に竹園がコールした1000万円で落札された<ref name="kimu3">木村(2002)pp.47-54</ref>のち岩元と提携していた賀張共同育成センターで馴致・育成に入る。同センター代表の槇本一雄は、それまで本馬を見た各人と同様に馬体のバランスの良さを感じたが、当初は「中の上」という程度の評価を下していた<ref name="kimu3" />。若駒がみせるバランスの良さは、それ以上成長の余地がないことと表裏一体という危惧もあったためである<ref name="kimu3" />。しかし育成が進むにつれて、バランスの良さを保ったまま成長を続ける様子を見て評価を改め、岩元との連絡のたびに「この馬はすごく良い」と伝えるようになっていた<ref name="kimu3" />。


1998年5月、競走馬名「テイエムオペラオー」と名付けられ、滋賀県・栗東トレーニングセンターの岩元厩舎に入る<ref name="kimu4">木村(2002)pp.56-62</ref>。馬名は竹園が経営する会社名からとった[[冠名]]「テイエム」、父オペラハウスから「オペラ」、サラブレッドの王に、という願いを込めた「オー」の組み合わせである<ref name="kimu4" />。当初テイエムオペラオーにさほどの印象を持たなかった岩元も調教が進むにつれて動きの良さに期待を高め、特にデビュー戦前に行われた最終調教では、そのタイムの優秀さに「よその厩舎は知らないが、うちの厩舎ではこんな馬は見たことがない」と舌を巻いた<ref name="kimu4" /><ref name="yu9907" />。一方、全戦で騎手を務めることになる当時3年目の[[和田竜二]]は「まあ普通の3歳馬っていう感じでしたね。名前そのまんまって……。まだGI級の馬になんか乗ったことがなかったんで、これがGI馬の乗り味か、なんてわからなかったしね」と振り返っている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999~2000』p.92</ref>。また、厩務員課程を修了し岩元厩舎に入ったばかりだった調教[[厩務員]]の原口政也も「印象は特に覚えていない」といい、同じオペラハウス産駒に前年の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]で5着に入ったミツルリュウホウがいたことから、ベテランの[[調教助手]]から「あんちゃんの馬もミツルリュウホウぐらい走ってくれたらええな」と声を掛けられ、漠然と「そうなってくれればいいな」と思った程度だったという<ref name="otsuka">大塚(2002)pp.210-214</ref>。
== 来歴 ==

=== 1998年・1999年 ===
=== 戦績 ===
==== 1998年・1999年 ====
==== デビューから皐月賞制覇まで ====
==== デビューから皐月賞制覇まで ====
[[ファイル:Ryuji-Wada20110522.jpg|サムネイル|和田竜二(2011年)]]
8月15日、京都競馬場で行われた3歳新馬戦(芝1600m)でデビュー。調教内容の良さもあり単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された<ref name="kimu4" />。しかし、スタートが切られると和田が絶えず手綱を押すなど追走に苦労する様子をみせ、最後の直線では2番人気のクラシックステージに突き離され、同馬から6馬身差の2着となった<ref name="kimu4" />。レース終了後には歩様に乱れがあったことから脚部のレントゲン撮影が行われ、右後肢下腿骨々折の診断が下された<ref name="kimu4" />。症状としては軽く、治療のため賀張共同育成センターに戻され休養に入る<ref name="kimu4" />。12月には帰厩し、翌年1月16日には2走目の4歳未勝利戦 ([[ダート]]1400m)に出走したが、休養明けの調整途上もあり4着となる<ref name="kimu5">木村(2002)pp.66-70</ref>。[[2月6日]]には[[市場取引馬]]・[[抽せん馬]]限定の4歳未勝利戦(ダート1800m)に出走、単勝オッズ1.8倍の1番人となると、最後の直線で和田がほとんど追うこともないまま2着に5馬身差をつけて初勝利を挙げた<ref name="kimu5" />。2月27日に出走したゆきなやなぎ賞から芝コースのレースに戻り、最後の直線ではゴール前が一団となった中から4分の3馬身抜け出して勝利<ref>木村(2002)pp.71-76</ref>。3月28日にはGIII競走の毎日杯で重賞に初出走、低調なメンバー構成とされた中でも3番人気の評価であったが、2着タガノブライアンに4馬身差をつけての重賞初勝利を挙げた<ref>木村(2002)pp.80-87</ref>。当日は良馬場だったものの馬場は荒れており、そのうえで2着を4馬身突き離した脚力を、岩元、和田ともに称賛した<ref name="yu9905-2">『優駿』1999年5月号、p.71</ref>。これはオペラハウス産駒の重賞初勝利ともなった<ref name="yu9905-2" />。


毎日杯の勝利で賞金を加算したテイエムオペラオーは、4歳クラシック三冠初戦・皐月賞への出走が獲得賞金上は可能となったが、ひとつの問題があった。初戦後に判明した骨折による休養から戻ってきた際、「皐月賞には間に合わない」と判断した岩元は、同競走への第2回登録を行っていなかったのである<ref name="kimu6">木村(2002)pp.63-65</ref>。このためテイエムオペラオーは皐月賞への出走権をもたず、二冠目の日本ダービーから出走可能となっていた<ref name="kimu7">木村(2002)pp.82-86</ref>。こうしたケースの救済措置として「追加登録」という制度が設けられていたが、通常の第2回登録費用が3万円であるのに対し、200万円と高額な費用を要した。毎日杯の好内容とテイエムオペラオーの更なる良化に岩元は見込み違いを反省し、竹園に皐月賞出走を掛け合う<ref name="yu9906">『優駿』1999年6月号、pp.13-17</ref>。竹園は当初「[[青葉賞]]からダービーを狙えばいい」と相手にしなかったが、岩元が「登録料の半分を自分が負担してもいいから」と説得すると最終的にはこれを受け入れ、テイエムオペラオーは追加登録料200万円を支払い皐月賞へ出走することになった<ref name="yu9906" />。なお毎日杯から数日後の杵臼牧場に、追加登録制度設置のきっかけになったとされる[[オグリキャップ]]の調教師であった[[瀬戸口勉]]から電話があり、「毎日杯であんなに強い勝ち方をした馬はいないよ。あれは強い。皐月賞でも面白いよ」と話した<ref name="kimu7" />。まだ追加登録が行われていなかった段階で、瀬戸口は「制度を利用すべきだ」という考えを伝えたかったが同業の岩元に言うのは僭越だと感じ、遠回しに牧場へ伝えたものだったという<ref name="kimu7" />。
[[1998年]][[8月15日]]に京都競馬場で行われた3歳新馬戦(芝1600m)でデビュー、1番人気に推されたが6馬身差の2着に敗れ、骨折により休養に入った。休養明けとなる2走目の4歳未勝利戦 ([[ダート]]1400m)は4着に敗れたものの、通算3走目となる[[2月6日]]の[[市場取引馬]]・[[抽せん馬]]限定の4歳未勝利戦(ダート1800m)を5馬身差で圧勝し、未勝利を脱した。


4月18日の皐月賞は、雨中での開催となった<ref name="yu9906-2">『優駿』1999年6月号、pp.9-11</ref>。当日1番人気となった[[アドマイヤベガ]]は調教不順が伝えられていたが、父が当時のリーディングサイアーであった[[サンデーサイレンス]]、母は二冠牝馬[[ベガ (競走馬)|ベガ]]という「超良血馬」として早くから注目され、前年末には[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]]を好内容で勝利、本競走への前哨戦・[[弥生賞ディープインパクト記念|弥生賞]]では2着と敗れたものの、直線では鋭い脚力をみせていた<ref name="yu9906-2" />。弥生賞で同馬を破った重賞連勝中の[[ナリタトップロード]]が2番人気。両馬のオッズは2.7倍対3.3倍と、事実上一騎打ちのようにみられていた<ref name="yu9906-2" />。テイエムオペラオーはトップクラスとの対戦経験がないとみられたこと、過去毎日杯からの出走組に皐月賞での実績が乏しかったことなどもあり、オッズ11倍の5番人気となった<ref name="yu9906-2" />。スタートが切られると、ナリタトップロードが中団、アドマイヤベガが後方、テイエムオペラオーはさらにその後ろに位置した。テイエムオペラオーの位置は戦前の想定より後方になったが、これは2ハロン目(200~400メートル区間)のタイムが10秒4と全体のペースが急激に早くなり、置かれた形となったことも影響していた<ref name="kimu8">木村(2002)pp.95-102</ref>。第3コーナーから各馬は先行勢をとらえに動いたが、テイエムオペラオーは追い出した時点ではまだ後方におり、竹園は「ああ。だめだ。負けた」と声をあげた<ref name="kimu8" />。岩元も「何を考えて乗っているのか」と舌打ちし、勝利を諦めていた<ref name="yu9906" />。しかし最後の直線残り100メートルほどからテイエムオペラオーは一気に差を詰め、先頭のオースミブライトをゴール寸前でクビ差とらえて勝利<ref name="yu9906-2" />。GI初制覇を果たした。3着にナリタトップロードが入り、アドマイヤベガは6着となった<ref name="yu9906-2" />。
その後は芝に戻って500万下条件のゆきやなぎ賞に勝利し、GIIIの[[毎日杯]]では4馬身差の圧勝を演じ、3連勝で初重賞制覇を果たした。その後は[[クラシック (競馬)|クラシック]]への第一次登録がなかったため、追加登録料200万円を支払って[[皐月賞]]に出走登録することとなった。


テイエムオペラオーのみならず、竹園、岩元、和田、杵臼牧場の全員にとって、これが初めてのGI制覇であった<ref name="yu9906-2" /><ref group="注釈">ただし岩元は騎手時代の1981年に騎乗馬[[バンブーアトラス]]で旧[[八大競走]]の日本ダービーを制している。</ref>。また、クラシック追加登録を行った馬の勝利も、制度開始以来のべ30頭目で初めての例となった<ref>『優駿』1999年6月号、p.149</ref>。和田は競走後、「毎日杯でみせた末脚を信じて、じっくり構えて直線勝負に賭けたのが正解でした。道中は外に振られないようにだけ気を付け、徐々に上がっていこうと思っていたので、ほぼ理想通り」などと感想を述べ、また前週の[[桜花賞]]で競馬学校同期の[[福永祐一]]がGI初制覇を遂げていたことにも触れ、「自分たちの世代に流れが来ていることを信じて、発奮したのが良かったかもしれません。ダービーでも乗り役の方が負けないように、自信をもって乗りたい」と語った<ref name="yu9906-3">『優駿』1999年6月号、pp.138-139</ref>。岩元は「ゴール前では届かないようだったのに、本当によく走ってくれた」とテイエムオペラオーを労い<ref name="yu9906-3" />、また「結果として、和田の落ち着いた騎乗が勝利につながった。ダービーで注文を付けることは何もない。テイエムトップダンで乗った経験があるから大丈夫やろう。僕は下手くそなジョッキーやった。それに比べたら、あいつの方がはるかに上手いわ<ref name="yu9906" />」と、和田の騎乗を称えた。
皐月賞では、良血馬[[アドマイヤベガ]]や重賞2連勝中の[[ナリタトップロード]]などが出走、本馬は単勝11.1倍の5番人気であった。レースでは中団後方待機から最後の直線で追い込みを見せ勝利し、初めて追加登録料を支払ってクラシックに出走し勝利を収めた馬となった。また、鞍上の[[和田竜二]]騎手や生産者の杵臼牧場にとっても、初のGI制覇となった。


==== 勝ちきれないレース ====
==== 勝ちきれないレース ====
[[ファイル:Admirevega.jpg|サムネイル|アドマイヤベガ]]
皐月賞馬となったテイエムオペラオーは、2冠を目指して[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]へ出走した。東京優駿ではナリタトップロードとアドマイヤベガに僅差で続く3番人気に推され、3強の一角とされた。当時21歳であった鞍上の和田には史上最年少でのダービー制覇の記録もかかっていた。レースでは早めに抜け出したところをナリタトップロードに競り負け、さらに後方から追い込んできた[[武豊]]騎乗のアドマイヤベガにも差されて3着に敗れた。
皐月賞馬となったテイエムオペラオーは、6月6日、二冠を目指して日本ダービーへ出走した。当日はナリタトップロードが単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持され、皐月賞からの復調が期待されたアドマイヤベガが同じく3.9倍の2番人気、テイエムオペラオーは4.4倍の3番人気となった<ref name="yu9907">『優駿』1999年7月号、PP.10-13</ref>。レースは縦長の隊列で展開し<ref name="yu9907" />、その中でテイエムオペラオーは8番手、ナリタトップロード10番手、アドマイヤベガは後方15番手を進んだ。第3コーナーから和田テイエムオペラオーは両馬に先んじて先団に進出し、最後の直線半ばでいったん先頭に立ったものの、直後にナリタトップロードにかわされ、さらに後方から一気に追い込んだアドマイヤベガがゴール前で同馬もろとも差し切って優勝<ref name="yu9907" />。テイエムオペラオーは3着と敗れた<ref name="yu9907" />。和田は競走後、早めに動いた理由について「前にフラフラしている馬がいて、その馬の後ろには入りたくなかった。ナリタが凄い手応えで来ているのも分かっていたから、早いとは思ったけど、あそこで動かざるを得なかった。負けたのは悔しいけど、きつい競馬をしたのに本当、よく頑張っていますよ」と語った<ref name="yu9907-2">『優駿』1999年7月号、pp.16-21</ref>。一方で「勝てると思った瞬間は一度もなかった」、「早めのスパートをかけなくても3着だったかもしれない」ともした<ref name="yu9907-2" />。アナウンサーの[[杉本清]]によれば、岩元は3着という結果にも満足気であったといい、「ダービーはしょうがない。馬がピークを過ぎてたから」と話したという<ref>杉本(2001)pp.172-173</ref>。その一方で竹園は「結果としてそこ''(注:皐月賞)''を勝ってくれて嬉しかったし、岩元を非難するつもりはないけれど、でもあのとき皐月賞を使わなければダービーを勝てていたかもしれない……そんなふうに考えることもあるんですよ」と、後のインタビューで吐露している<ref name="yu0008" />。


ダービーの後は賀張共同育成センターで休養に入り、9月に帰厩<ref>木村(2002)pp.111-116</ref>。クラシック三冠最終戦・[[菊花賞]]へ向けて調教が進められた。前哨戦としては初めて古馬(5歳以上馬)相手となる[[京都大賞典]](GII)か、その一週間後の[[京都新聞杯]](GII)の両睨みとなったが、テイエムオペラオーは食が細りやすい体質だったことから、菊花賞まで調整に余裕をみることができる京都大賞典が選ばれた<ref name="kimu9">木村(2002)pp.117-120</ref>。この競走では前年の日本ダービーと当年の[[天皇賞(春)]]に優勝している[[スペシャルウィーク]]、前年の天皇賞(春)優勝の[[メジロブライト]]などの有力馬がおり、テイエムオペラオーは両馬に次ぐ3番人気となった。レースでは最後の直線で進路を失う形となり、コース内側に持ち出されてから先頭の[[ツルマルツヨシ]]を追ったが、同馬とメジロブライトにおよばず3着となる<ref name="kimu9" />。和田は道中でスペシャルウィークの直後につけ、同馬が抜け出した跡を通って先頭をうかがう算段であったが、不調のスペシャルウィークが直線で失速したため進路を失ったものであった<ref name="kimu9" />。
秋初戦は[[古馬]]が相手となるGIIの[[京都大賞典]]であったが、後方待機のまま凡走した1番人気の[[スペシャルウィーク]]を警戒しすぎたことが災いして[[ツルマルツヨシ]]の3着に終わった。続く[[菊花賞]]では2番人気に推された。レースは直線で後方から追い込むもナリタトップロードを交わしきれずに2着に敗れた。その後は[[ステイヤーズステークス]]へ駒を進め、単勝1.1倍の圧倒的1番人気に支持されたが、クビ差の2着に敗れた。


[[ファイル:Narita Top Road 19991226R1.jpg|サムネイル|ナリタトップロード]]
この後、疲労のため一旦は回避を表明した[[有馬記念]]にも出走。この年の有馬記念にはグランプリ3連覇を目指す[[グラスワンダー]]とGI2連勝中のスペシャルウィークが出走しており、5番人気という皐月賞以来の低評価を受けた。レースでは最後の直線で一旦は先頭に盛り返し、グラスワンダーとスペシャルウィークのタイム差なしの3着に入線した。
京都大賞典のあと危惧された食細りは起こらず11月3日の菊花賞は絶好調に近い状態で臨んだ<ref name="kimu10">木村(2002)pp.122-128</ref>。当日は京都新聞杯に勝利してきたアドマイヤベガがオッズ2.3倍の1番人気、テイエムオペラオーが3.4倍の2番人気、京都新聞杯2着のナリタトップロードが4.1倍の3番人気で続き、春に引き続き「三強」の下馬評であった<ref name="yu9912">『優駿』1999年12月号、pp.10-15</ref>。レースは明確な逃げ馬不在もあり、1000メートル通過が1分4秒3、2000メートル通過が2分8秒4と、「超スローペース」で推移する<ref name="yu9912" />。そうしたなかナリタトップロードは先団に位置し、アドマイヤベガとテイエムオペラオーはそれぞれ中団後方に並ぶ形で10~11番手を進んだ<ref name="yu9912" />。周回2週目の最終コーナーからナリタトップロードは先頭をうかがって進出、テイエムオペラオーは最後の直線でこれを急追したが、先に抜け出したナリタトップロードにクビ差及ばずの2着と敗れた<ref name="yu9912" />。アドマイヤベガは伸びあぐねての6着であった。


テイエムオペラオーの上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)タイム33秒8は、メンバー中最速のものだった<ref name="kimu10" />。和田は「向こう正面で少し、前との差を詰めておけば良かったのかな。それでも、凌ぐ脚はあると思ったんだけど……力負けではないと思う」と感想を述べた<ref name="yu9912-2">『優駿』1999年12月号、pp.16-17</ref>。最終コーナーまで進出しなかった理由については、「アドマイヤベガを意識した<ref name="kimu10" />」という見方があった一方で、競走後の和田の弁によれば、温存して末脚を引き出したいという意識の方が強かった<ref name="yu9912-2" />。また、戦前にはナリタトップロードの[[渡辺薫彦]]がとったレース運びを思い描いていたともいう<ref name="meiba9900">『競馬名馬&名勝負年鑑 1999~2000』pp.16-17</ref>。
この年のJRA賞最優秀4歳牡馬にはテイエムオペラオーが選出された。
いずれにしても競走後、和田の騎乗に対しては「仕掛けが遅い」という論評が向けられた<ref name="yu9912-2" />。日本ダービーの「早仕掛け」に続く和田の2度目の騎乗ミスとみた竹園は激怒し、岩元に騎手の交代を要求。留保を求める岩元に竹園は強硬な態度を示したが、最後には折れる形となり、和田はテイエムオペラオーの騎手として据え置かれた<ref name="kimu10" />。岩元は和田を降板させる場合はテイエムオペラオーの転厩を求めたともされ<ref>{{Cite web|url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1996100292/story-5.html |title=テイエムオペラオー 王者たるもの王道を問う - 第5話またもや鞍上が…… |publisher=Yahoo!スポーツ競馬 最強ヒストリー |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060427211317/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1996100292/story-5.html |archivedate=2006年4月27日|date=2006年4月27日|accessdate=2022年11月5日}}</ref>、これ以降、竹園が騎手交代を求めることはなくなった<ref name="meiba" />。


竹園は次走を年末のグランプリ有馬記念、または来年まで休養と見積もっていたが、岩元はテイエムオペラオーと和田に「勝ち癖」を付けたいとして、次走にGII・[[ステイヤーズステークス]]を選択した<ref name="kimu10" />。当日の単勝オッズは一時1.0倍、最終オッズでも1.1倍という圧倒的な1番人気に支持されたが<ref name="yu0002">『優駿』2000年2月号、p.62</ref>、クラシック三冠では目立たなかった同期馬[[ペインテドブラック]]に直線で競り負け、2着となった<ref name="kimu11">木村(2000)pp.130-132</ref>。
=== 2000年 ===
==== 春の重賞連勝 ====
翌[[2000年]]は、前年の有馬記念で本格化の兆しを見せていたテイエムオペラオーにとって飛躍の年となる。


この後、岩元は年内休養を考えたが、今度は竹園が有馬記念出走を希望する。菊花賞以来、竹園に自身の要望を通させてきた負い目もあり、岩元はこれを受け入れ、テイエムオペラオーは有馬記念に臨むこととなった<ref name="kimu11" />。当日は、ここまでGI競走3勝の[[グラスワンダー]]が1番人気、京都大賞典から立て直し、秋の天皇賞とジャパンカップを連勝中のスペシャルウィークが2番人気で、この「二強」の対決とされた<ref name="kimu12">木村(2000)pp.133-136</ref>。ナリタトップロードが4番人気(6.8倍)に入り、テイエムオペラオーは同馬から離れた12倍の5番人気であった<ref name="kimu12" />。スタートが切られると、追い込み脚質の[[ゴーイングスズカ]]が先頭を切り、前半1000メートルが65秒2という「超スローペース」で展開、テイエムオペラオーは先団5番手につけ、他の有力馬はみな中団より後方に位置した<ref name="yu0002-2">『優駿』2000年2月号、pp.9-13</ref>。最後の直線でテイエムオペラオーは先頭に立ったが、直後に後方からグラスワンダーとスペシャルウィークが競り合いながら差し込み、両馬にゴール直前でかわされ勝ったグラスワンダーからハナ、アタマ差での3着となった<ref name="yu0002-2" />。
年明け初戦の[[京都記念]]で久々の勝利を得ると、続けて[[阪神大賞典]]と[[天皇賞(春)]]と重賞を連勝した。阪神大賞典ではテイエムオペラオー、[[ラスカルスズカ]]、ナリタトップロード、[[ホットシークレット]]、[[トシザブイ]]らテイエムオペラオーと同期の馬たちが1着から5着を独占し、とくに人気の集中したテイエムオペラオー、ラスカルスズカ、ナリタトップロードの複勝馬券および3頭の組み合わせからなる拡大馬連馬券(ワイド)は全てが1.0倍の元返しとなった。また、天皇賞(春)も阪神大賞典と同様に2着にラスカルスズカ、3着にナリタトップロードが入り、[[杉本清]]からは「やっぱり3頭の争いになった!」と実況された。


皐月賞以降勝利を挙げることはできなかったが、テイエムオペラオーは当年の年度表彰・[[JRA賞]]において[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]に選出され、「クラシックではアドマイヤベガ、ナリタトップロードとともに三強を形成し、中でももっとも安定した成績を残した。暮れの有馬記念でも、グラスワンダー、スペシャルウィークと同タイムの3着とあわやのシーンを作り、その実力を大いにアピールした」との選評を受けた<ref name="yu0002-3">『優駿』2000年2月号、p.33</ref>。また、仮定の[[負担重量|斤量]]数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションにおいても、4歳馬として1位の119[[ポンド (質量)|ポンド]]を与えられている<ref name="yu0002-4">『優駿』2000年2月号、pp.42-43</ref>。なお、当年対戦してきた有力馬のうち、スペシャルウィークは有馬記念を最後に予定通り引退<ref name="yu0002-2" />、アドマイヤベガは菊花賞のあと長期休養に入り、復帰できないまま翌2000年夏に引退となった<ref>『優駿』2000年9月号、p.7</ref>。
天皇賞馬となったテイエムオペラオーは、さらに引き続き[[宝塚記念]]へも駒を進めた。宝塚記念では前年の優勝馬グラスワンダーとの二強対決が注目された。テイエムオペラオーは勝負所で仕掛けが遅れる展開となったが、最内枠発走から大外を捲り切るレースぶりで[[メイショウドトウ]]らを差し切って優勝した。メイショウドトウは当時はまだ[[金鯱賞]]を制したばかりの伏兵であったが、このレースでテイエムオペラオーのクビ差の2着に健闘した。なお二強の片翼とされたグラスワンダーはレース中に左前脚を骨折、競走中止とはならなかったものの6着と惨敗。結局このレースを最後に引退となった。


==== 古馬中長距離GIにすべて勝利 ====
==== 2000年 ====
===== 「現役最強馬」となる =====
秋は京都大賞典から復帰。59kgを背負い、極端なスローペースで最後は上がり勝負のレースになるも、テイエムオペラオーは鞭を打たれることなく3F33.3の末脚を繰り出し勝利、[[天皇賞(秋)]]へ駒を進めた。
2000年1月に行われたJRA賞授賞式において、竹園はテーブルを囲む陣営各人に向けて、「こんな賞をもらったからには、今年はもうひとつも負けたらいかん。負けるようなレースには使わない。今年は全部勝つぞ」と檄を飛ばした<ref name="kimu13">木村(2000)pp.138-142</ref>。その後の厩舎内の様子を、原口は次のように振り返っている<ref name="meiba0001" />。


{{Quotation|''(前略)''岩元先生が、オペラオーの厩の前へ来て、<br />「竹園さんが、今年負けなしでいけっ、て、言うてはったから、しっかりな!」<br />僕に言うなり、スタスタ洗い場の方へと歩いて行った。<br />「エッ!?負けなし!」<br />一瞬たじろいだ。よくよく考えてみても、夢のような話だ。あのスペシャルウィークやシンボリルドルフでさえも、一度や二度は負けている。<br />それくらいの気持ちを持ってやれ、ということだろう。そう考えると、気が楽になって、淡々と仕事ができた。そのうち、今度は和田竜二が珍しくやって来て、<br />「今年は、全勝ッす、全勝」<br />やたらと気合が入っている。<br />両腕をグルグル回しながら、オペラオーの姿をひと目見て去っていった。<br />僕は、オペラオーとそのうしろ姿を見届けながら、<br />「そんなに、うまいこといくかなぁ」<br />とつぶやくと、オペラオーもコクリとうなずいた。}}
迎えた天皇賞(秋)には1988年以降1番人気が12連敗中ということによる「1番人気は勝てない」という[[ジンクス]]があり、「何が起こるかわからないのが秋の天皇賞」という雰囲気が漂っていた<ref>コラム最強ヒストリーより</ref><ref group=注釈>[[メジロマックイーン]]の1位入線・18位降着や、[[サイレンススズカ]]の競走中止・予後不良などが起きており、「魔物が棲む」とまで言われていた。</ref>。さらに当時の和田が東京競馬場での勝利経験が無い上、外枠という不安材料も存在したため、春以降2倍を切っていた単勝オッズは2.4倍となった。しかし、レースではスタート後の1コーナーで内に切れ込み加害馬となりながらも直線で抜け出し勝利を収めた。13年ぶりの秋の天皇賞1番人気馬の勝利であり、同時に史上初の中央の主要4競馬場GI制覇を達成した(中山:皐月賞、東京:天皇賞(秋)、京都:天皇賞(春)、阪神:宝塚記念)。


2000年の初戦には2月20日の[[京都記念]](GII)が選ばれた。ここにはナリタトップロードも出走したが、テイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持されると、最後の直線で同馬との競り合いをクビ差制し、皐月賞以来の勝利を挙げた<ref>木村(2002)pp.140-141</ref>。さらに続く阪神大賞典(GII)では、ナリタトップロードに加え、新たな「三強」の形成が期待された菊花賞3着の[[ラスカルスズカ]]も出走したが、最後の直線ではテイエムオペラオーが両馬を突き放し、ラスカルスズカに2馬身差をつけて勝利<ref name="yu0005-2">『優駿』2000年5月号、p.56</ref>。他の有力馬より前でレースを進めながら、直線では出走中最速の末脚を発揮した<ref name="yu0005" />その内容に、スポーツ紙は「完璧な差」と書き立て<ref name="yu0005-3">『優駿』2000年5月号、pp.80-83</ref>、日本中央競馬会の広報誌『優駿』は、「善戦どまりだった皐月賞以降とは見違えるほど」と評し<ref name="yu0005-2" />、ラスカルスズカ、ナリタトップロード両陣営からも「完敗」という言葉が聞かれた<ref name="yu0005">『優駿』2000年5月号、pp.28-32</ref>。和田は競走後「本当は、去年もああいうレースをしたかったんです」と述べ、さらに和田と原口は口を揃えて「背中に跨った感じが全体的にパワーアップしている」評した<ref name="yu0005" />。
[[ファイル:Fantastic_Light_20001126R1.jpg|thumb|2000年 第20回ジャパンカップ|200px]]
次走[[ジャパンカップ]]では1つ下の世代を代表する4頭(二冠馬[[エアシャカール]]、日本ダービー馬[[アグネスフライト]]、NHKマイルカップ馬[[イーグルカフェ]]、オークス馬[[シルクプリマドンナ]])<ref group=注釈>イーグルカフェのみ前走の天皇賞にて競走している。それ以外の3頭とは初競走。なおこの4頭は同競走で13 - 16着に大敗し、最弱クラシック世代と酷評されたことがある。</ref>との対決も注目されたが、引き続き1番人気に推され、単勝オッズは当時の支持率レコードとなる1.5倍となった。レースはスローペースで進み周囲を塞がれる展開となるも、最後には[[ファンタスティックライト]]を寄せ付けず、メイショウドトウの猛追も退けて勝利した。レース後には、ファンタスティックライト鞍上の[[ランフランコ・デットーリ]]が和田に[[ハイタッチ]]を求めて歩み寄るという珍しいシーンも見られた。同競走におけるテイエムオペラオーのパフォーマンスは国際的にも高く評価され、[[レーシング・ポスト]]・レイティングでは当時の国内最高値<ref group=注釈>海外での競走を含めた日本調教馬への評価としては[[エルコンドルパサー]]に次ぐ第2位。</ref><ref group=注釈>2003年12月28日の有馬記念で[[シンボリクリスエス]]が記録を更新。ジャパンカップでの記録としては[[2006年]]に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が記録を更新。</ref>となる126の評価が与えられた<ref>{{Cite web |url=https://www.racingpost.com/results/315/tokyo/2000-11-26/294328 |title=Full Result 6.20 Tokyo (JPN) |website=Racing Post |date=2000-11-26 |accessdate=2021-05-16}}</ref>。この勝利によりテイエムオペラオーは[[メジロラモーヌ]]、[[オグリキャップ]]、[[タマモクロス]]、[[ヒシアマゾン]]、[[タイキシャトル]]が記録していた、JRAにおける重賞最多連勝記録(6連勝)を更新した<ref group=注釈 name="JRA重賞最多連勝">JRA重賞の最多連勝記録としては2018年4月14日に[[オジュウチョウサン]]が障害競走重賞を9連勝して更新。平地競走におけるJRA重賞の連勝記録については、引き続きテイエムオペラオーの8連勝が最多となっている。</ref>。この競走中にテイエムオペラオーは他馬に蹴られて右後脚を負傷していたが、レントゲン検査の結果、骨には影響がないことが判明し、次走は古馬中長距離GI競走完全制覇を掛けて有馬記念へ出走することとなった。


4月30日には、春の大目標としていた天皇賞に臨む。天皇賞は当年より従来出走資格がなかった[[外国産馬]]にも門戸が開放され、アメリカ産馬であるグラスワンダーの動向が注目されていたが、同陣営は最大目標とする宝塚記念への出走を優先し、ここを回避<ref name="yu0006">『優駿』2000年6月号、pp.40-41</ref>。これを受けて、天皇賞は阪神大賞典に続く「三強」の下馬評となった<ref name="yu0006" />。レースでは中団を進み、その前にナリタトップロード、後ろにラスカルスズカが位置する展開となったが、第3コーナーからナリタトップロードを捉えに進出してそのまま抜け出すと、ゴール前でラスカルスズカの追走を4分の3馬身抑えて勝利した<ref name="yu0006" />。走破タイム3分17秒6は史上4位、最後の200メートルは11秒9と史上最速(いずれも当時)のタイムであり、競馬専門誌『週刊Gallop』は、「厳しい瞬発力勝負に対応したテイエムオペラオーは真の実力を示した」と論評している<ref name="gallo">『臨時増刊号 Gallop2000』pp.54-57</ref>。
有馬記念当日の朝、他馬が暴れているのを見て興奮したテイエムオペラオーは、壁に顔面を強打して鼻血<ref group=注釈>馬は口で呼吸する事ができないため鼻からの出血によって窒息死する危険性がある。</ref>を出す怪我を負った<ref>日本中央競馬会『優駿』2009年7月号、126頁。</ref>。岩元は出走についての判断を迫られたが、顔面が腫れ殆ど片目が塞がった状態での出走が決断された。レースがスタートすると、逃げてレースを引っ張ると予想されていた[[ホットシークレット]]が出遅れてスローペースの密集した展開となり、他馬のマークが集中したテイエムオペラオーは進路を塞がれ,直線に入っても後方11番手に置かれたままであったが、坂を上り終えた辺りで馬群がばらけると、馬群の中団後方からそれを割くように末脚を繰り出し、ゴール前でメイショウドトウをハナ差捉えて勝利を辛くも収めた。なお、この苦戦を間近で観戦していた竹園オーナーは「馬も騎手も、涙が出るくらい可哀想でした」とコメントしている。


[[ファイル:Grass Wonder 19991226.jpg|サムネイル|グラスワンダー]]
これによりテイエムオペラオーは重賞8連勝、GI5連勝を達成し、年間無敗で2000年を終えた。
天皇賞制覇で「三強」の時代を終わらせ「一強」と化した<ref name="gallo" />テイエムオペラオーは国産競走馬の頂点に立ち、残るライバルは外国産のグラスワンダーのみとなった<ref name="yu0006" />。春のグランプリ・宝塚記念(6月25日)への出走馬を決めるファン投票において、テイエムオペラオーは1位に選出される。宝塚記念当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気、グラスワンダーが2.8倍の2番人気となり、この2頭の一騎打ちの下馬評となる<ref name="yu0008-2">『優駿』2000年8月号、pp.42-43</ref>。馬場状態は良馬場だったが、発走1時間前より雨が降り始め、そのまま雨中でのレースとなった<ref name="yu0008-2" />。スタートが切られると、平均的なペースで推移するなかテイエムオペラオーは2番手集団を見る形で進み、グラスワンダーは中団後方に位置する<ref name="yu0008" />。第3コーナーでグラスワンダーがテイエムオペラオーの直後につけ、最終コーナーではグラスワンダーが鞍上の[[蛯名正義]]が手綱を抑えたまま進出していく傍らで、テイエムオペラオーは和田が手綱をしごきながら大外を回った<ref name="yu0008-2" />。しかし最後の直線に入るとグラスワンダーは伸びを欠き、テイエムオペラオーはそのまま先を行く[[メイショウドトウ]]とジョービッグバンを急追、ゴール前でメイショウドトウをクビ差かわし、天皇賞からのGI連勝を果たした<ref name="yu0008-2" />。


競走後、和田は「最後はヒヤヒヤしましたが、力を出してくれました。手応えは前走よりもしんどかったですけど、必ず伸びるのは分かっていました。最後に抜けると気を抜いてしまうところがあるし、気を抜かないようにしただけです。改めて強いと思いました」、岩元は「3コーナーの手応えで今日はやばい、負けるかもと思いましたが、直線で並んだときに何とかなると……。並んだら勝負強い馬ですから」などとそれぞれ感想を述べた<ref>『臨時増刊号 Gallop2000』pp.78--81</ref>。両名とも3コーナーでの反応の悪さに言及したが、原口は、テイエムオペラオーは概してそういった面がある馬だとして「グラスワンダーと手応えこそ違え、一緒に来ていたから心配しなかった」と振り返っている<ref name="meiba0001">『競馬名馬&名勝負年鑑 2000~2001』pp.24-29</ref>。なお、6着に敗れたグラスワンダーは、競走後のコース上で蛯名が下馬して馬運車で運ばれ、のち「左第三中手骨(管骨)骨折」の診断が下され、引退が発表された<ref name="yu0008" />。
天皇賞が同競走優勝馬でも再度出走できる制度に変わって(天皇賞の勝ち抜け制度の廃止)以降、当時の古馬中長距離路線のGI競走5戦(天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)<ref group=注釈>2017年以降はこれに[[大阪杯]]が加わり6戦に増加している。</ref>を完全制覇したのはテイエムオペラオーのみである。また、この年からスタートした秋季GI3競走(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を同一年で完全制覇した馬への特別褒賞金2億円<ref>{{Cite web |title=JRAのあゆみ(JRAの概要) JRA |url=https://jra.jp/company/about/outline/history/ |website=jra.jp |access-date=2022-08-09}}</ref>(内国産馬2億円、外国産馬1億円)も獲得し、JRA賞では[[メイヂヒカリ]]、[[テンポイント]]、[[シンボリルドルフ]]以来4頭目となる満票で年度代表馬及び最優秀4歳以上牡馬に選ばれた。

後年、テイエムオペラオーの伝記を執筆した木村俊太は「このグラスワンダーの故障によって不運にも『力勝負の決着はついていない』という評価をも受ける結果となってしまった」としている<ref name="kimu14">木村(2002)pp.161-164</ref>。いずれにせよこの勝利によって、テイエムオペラオーは「現役最強馬」の地位についた<ref>『優駿』2000年11月号、p.30</ref>。

==== 史上初の古馬中長距離GI完全制覇 ====
宝塚記念の後には、前年夏と同様に賀張共同育成センターへ送られ、現地で運動を行いながらの休養に入った。春の連戦を経ているにも関わらず疲労の度合いは低く、到着翌日には人を乗せての運動が始められるなど、充実を物語るものとなった<ref name="yu0009">『優駿』2000年9月号,p.16</ref>。秋の出走は当初、春秋連覇が懸る天皇賞(秋)へ直接出走する見通しだったが<ref name="yu0009" /><ref name="gallo-2">『臨時増刊号 Gallop2000』p.99</ref>、竹園が様子を視察した際、テイエムオペラオーの状態が非常に良かったことから、「馬が走る気になっているときにリズムを狂わせてもいけない」と<ref name="yu0102-2">『優駿』2001年2月号、pp.86-89</ref>、前哨戦の京都大賞典(GII)への出走が決まった<ref name="gallo-2" />。かねてこの競走へ向けて調教が積まれていたナリタトップロードの調教師・[[沖芳夫]]は「あの馬(テイエムオペラオー)を負かすなら今回しかない」と公言していたが<ref>『優駿』2000年12月号、p.61</ref>、レースでは両馬競り合いになったものの、ナリタトップロードが鞭を連打される傍らで和田は鞭を振るうことなく、テイエムオペラオーがアタマ差で勝利した<ref name="gallo-2" />。

[[ファイル:Meisho Doto 20020113.jpg|サムネイル|メイショウドトウ。翌年の天皇賞(春)までGI競走5戦連続でテイエムオペラオーの2着となった。]]
10月29日、天皇賞(秋)に臨む。この競走は当年まで1番人気馬が12連敗という結果が続いており、巷間「テイエムオペラオーが負けるとすれば今回」と囁かれ、マスメディアもこの「[[ジンクス]]」を盛んに取り上げた<ref name="yu0012">『優駿』2000年12月号、pp.11-13</ref>。また、皐月賞と同じ距離でありながらテイエムオペラオーに2000メートルの距離が短いという見方もあり、当日の単勝オッズは近来では高い値となる2.4倍を示した<ref name="yu0012" /><ref name="kimu15">木村(2002)pp.169-176</ref>。2番人気には別の前哨戦[[オールカマー]]を制してきたメイショウドトウが推され4.4倍、3番人気がナリタトップロードで4.9倍の順となった<ref name="kimu15" />。スタートが切られると、最初のコーナーで和田テイエムオペラオーが内を走る[[イーグルカフェ]]を押圧する形となり、その煽りを受けた[[ステイゴールド]]が不利を受ける形となった<ref name="yu0012" />。コーナー通過後は平均的なペースで推移し、テイエムオペラオーは2番手集団の中でメイショウドトウを直前に見る形で進んだ<ref name="yu0012" />。最後の直線ではまず[[トゥナンテ]](5番人気)が抜け出し、これをメイショウドトウがかわしたが、直後にテイエムオペラオーが両馬を一気に抜き去り、ゴールではメイショウドトウに2馬身半差をつけて勝利した<ref name="yu0012" />。なお、これは和田にとって東京競馬場での初勝利であった。

同一年度における天皇賞の春秋連覇は、[[タマモクロス]](1988年)、スペシャルウィーク(1999年)に続く、史上3頭目の記録となった<ref name="yu0012" />。また、1984年にグレード制が導入されて以降、東京、中山、京都、阪神のJRA四大競馬場全てでGIを制したのは、テイエムオペラオーが初の事例であった<ref name="yu0012-2">『優駿』2000年12月号、pp.138</ref>。和田は「1番人気が勝てないうえ、僕が東京で未勝利だったことで、いろいろ言われましたが、パーフェクトの内容で鬼門を突破することができました」、岩元は「1番人気の連敗が続いているジンクスと、和田が東京で一度も勝っていない、という2つのことが気になっていましたが、終わってみれば本当にえらい馬だという気持ちでいっぱいになりました」などと感想を述べた<ref>『優駿』2000年12月号、p.127</ref>。

[[ファイル:Fantastic_Light_20001126R1.jpg|thumb|2000年 第20回ジャパンカップ。手前にいる青一色の勝負服を着たフランキー・デットーリが駆る馬がファンタスティックライト。|200px]]
次走、11月26日に迎えた国際招待競走・[[ジャパンカップ]]では、当年の[[マンノウォーステークス]]を勝ち、[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]でも2着の実績を持つ[[ファンタスティックライト]]([[アラブ首長国連邦|UAE]])、10歳馬ながら当年アメリカでG1競走2勝を挙げた[[ジョンズコール]](アメリカ)など5頭の外国馬に加え、1歳下のクラシック二冠馬[[エアシャカール]](3番人気)、日本ダービー優勝馬の[[アグネスフライト]](4番人気)らが顔を揃えた<ref name="yu0101-2">『優駿』2001年1月号、pp.11-15</ref>。この競走は「ジンクス」を盛んに報じられた天皇賞を越える1番人気馬の14連敗が続いていたが<ref name="yu0101-3">『優駿』2001年1月号、pp.6-7</ref>、テイエムオペラオーの最終単勝オッズは1.5倍、支持率では1991年の[[メジロマックイーン]](41.4パーセント)を上回り、競走史上最高の50.5パーセントという圧倒的な支持を集めた<ref name="yu0101-2">『優駿』2001年1月号、pp.11-15</ref>。ファンタスティックライトが2番人気となったものの、注目はテイエムオペラオーに挑む新世代のクラシックホース2頭という様相となった<ref name="yu0101-2" />。レースは逃げ馬不在で前半1000メートル通過が63秒3と非常なスローペースとなり、各馬が先へ行きたがる姿がみられた<ref name="yu0101-2" />。テイエムオペラオーは5、6番手を進み、最後の直線では先に抜け出したメイショウドトウと競り合い、さらに後方からファンタスティックライトも追い込んできたが、最後はメイショウドトウをクビ差競り落として勝利を挙げた<ref name="yu0101-2" />。なお、エアシャカールとアグネスフライトはそれぞれ13、14着と大敗した<ref name="yu0101-2" />。

この勝利により、テイエムオペラオーのここまでの獲得賞金は12億円を超え、それまでの獲得賞金記録保持馬であったスペシャルウィークを上回り「世界賞金王」となった<ref name="yu0101-2" />。本競走におけるテイエムオペラオーのパフォーマンスは国際的にも高く評価され、[[レーシング・ポスト]]・レイティングでは当時の国内最高値<ref group=注釈>海外での競走を含めた日本調教馬への評価としては[[エルコンドルパサー]]に次ぐ第2位。</ref><ref group=注釈>2003年12月28日の有馬記念で[[シンボリクリスエス]]が記録を更新。ジャパンカップでの記録としては[[2006年]]に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が記録を更新。</ref>となる126の評価が与えられた<ref>{{Cite web |url=https://www.racingpost.com/results/315/tokyo/2000-11-26/294328 |title=Full Result 6.20 Tokyo (JPN) |website=Racing Post |date=2000-11-26 |accessdate=2021-05-16}}</ref>。ファンタスティックライトの手綱を取った[[ランフランコ・デットーリ]]は、テイエムオペラオーに対して「クレイジー・ストロングだ。世界レベルにある」と評した<ref name="名前なし-1" />。

春秋天皇賞、宝塚記念、ジャパンカップを制したテイエムオペラオーは、かつて達成馬のいない古馬中長距離GIの完全制覇へ向けて、残る目標は年末の有馬記念のみとなった。ジャパンカップ競走中に他馬と接触して右後大腿部に外傷を負い有馬記念に向けた再始動は遅れ<ref name="kimu15" />、中間の動きも好調時との比較では落ちるものとなった<ref name="kimu17">木村(2002)pp.188-192</ref>。さらに有馬記念の競走当日朝、中山競馬場の出張馬房内で、向かいの馬房にいた馬が何らかの事象に驚いて後脚で立ち上がり、その様子に驚いたテイエムオペラオーも同様の態となって、馬房内のいずこかに額を強打した<ref name="kimu16" />。患部は内出血を起こして大きな腫れを生じたが、出走可能という獣医師の判断で、岩元もこれに従って有馬記念へはそのまま出走することとなった<ref name="kimu16" />。

有馬記念の出走馬選定ファン投票では10万9140票を集め、第1位で選出<ref name="yu0101-2" />。当日のオッズでは1.7倍の1番人気に支持された<ref name="yu0102-4" />。竹園は戦前のパドックにおいて、和田に対して「スタートに気を付けて、3、4番手につけて、じっとして、直線で2馬身以上離して勝て」と指示を与えた<ref name="yu0102-2" />。レースでテイエムオペラオーは竹園の希望通り好スタートを切ったが、周回1周目の第3コーナーで他馬に進路を塞がれて位置を12~13番手まで大きく下げ、さらに観客スタンド前を通過する辺りではスローペースの馬群の中に閉じこめられる形となる<ref name="yu0102-4" />。2番人気メイショウドトウは中団、3番人気ナリタトップロードは先団を進んでいた<ref name="yu0102-4" />。最後の直線に入ってもテイエムオペラオーは馬群の中で動けず10番手以下に位置し、観客から大きなどよめきが上がった<ref name="yu0102-4" />。直線半ばで馬群がばらけ始るとテイエムオペラオーは追い込みを始め、逃げ粘りを図るダイワテキサスを一気に捉えると、最後はメイショウドトウとの競り合いをハナ差制して優勝<ref name="yu0102-4" />。史上初となる古馬中長距離路線の完全制覇を達成し、また同時にこの年からスタートした秋季古馬中長距離のGⅠ3競走(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を同一年で優勝した馬への特別報奨金2億円を獲得した。

競走後、和田は「前につけたかったのですが、1コーナーで挟まれてしまって……失敗したと思いました。動くに動けない状況でしたし、かといって外を回りたくなかったので、これなら開いたところを突っ込んでいくしかないと考えました。詰まったらおしまい。直線では1頭分だけ隙間があったんですが、オペラオーは躊躇なく入っていった。メイショウドトウが差し返してきた時もこちらには勢いがありました。厳しいレースでしたが、終わってみれば1頭だけが次元の違う勝ち方をしてくれていました」、また岩元は「心配していた最も厳しい形になってしまいました。負けてもおかしくなかったと思います。ああいう形になったのに、本当によく勝ってくれたと思います。偉い馬としか言いようがありません」と感想を述べた<ref>『優駿』2001年2月号、p.127</ref>。また竹園は他馬からの厳しいマークに「馬も騎手も可哀想でした。なんでこんなにいじめられなくちゃいけないんだろうと思いました。''(略)''本当に涙が出るくらい可哀想でした。''(略)''本当にもう、抜け出すまでは悲しくて泣きそうでしたけど、抜け出してからはもう絶頂でしたね」と語った<ref name="yu0102-2" />。一方、敗れたメイショウドトウ騎乗の[[安田康彦]]は「今はあの馬(テイエムオペラオー)とは一緒に走りたくない」と報道陣に吐露している<ref>『優駿』2001年8月号、pp.57-59</ref>。

2000年のシーズンを8戦8勝、うちGI5勝という成績で終えたテイエムオペラオーには、様々な記録が伴った。まず年間GI5勝は、[[シンボリルドルフ]]、[[ナリタブライアン]]を抜いて歴代最多<ref name="gallo6">『臨時増刊号 Gallop2000』pp.3-5</ref>、重賞8連勝は[[タイキシャトル]]に並び歴代最多タイ<ref name="gallo6" /><ref group=注釈>タイキシャトルは8連勝の間にフランス遠征を挿んでおり、JRA重賞に限るとテイエムオペラオーは単独首位。</ref>、1番人気での8連勝は[[タケシバオー]]、[[マルゼンスキー]]、[[マックスビューティ]]に並ぶタイ記録であったが、全て重賞で達成したのはテイエムオペラオーが初めてであった<ref name="gallo6" />。『優駿』は、年誌にあたる増刊『TURF HERO』においてその戦績を「'''世紀末覇王'''伝」のタイトルで回顧し、『週刊Gallop』もまた年誌巻頭のグラビアに「降臨 '''世紀末覇王'''」のキャプションを用いた<ref name="gallo6" />。なお馬主の竹園も、[[テイエムオーシャン]]で制した[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]と合わせて年間GI勝利数が「6」となり、過去[[シンボリ牧場]]、[[社台レースホース]]、[[山路秀則]]が保持した年間GI4勝の記録を更新している<ref name="0102-7">『優駿』2001年2月号、p.138</ref>。

当年の年度表彰において、テイエムオペラオーは年度代表馬に満票で選出<ref name="yu0102-5">『優駿』2001年2月号、pp.20-26</ref>。満票選出は、[[テンポイント]](1977年)、シンボリルドルフ(1985年)に続く、史上3頭目の事例となった<ref name="yu0102-5" /><ref group=注釈>ほか、記者投票による選出ではなかった「啓衆社賞」時代に[[メイヂヒカリ]]が「満場一致」で年度代表馬となった例がある。</ref>。また、岩元も年間獲得賞金15億837万8000円という記録をもって[[JRA賞最多賞金獲得調教師|最多賞金獲得調教師]]のタイトルを獲得したが、この金額のうち約3分の2がテイエムオペラオーによるものであった<ref name="yu0102-5" />。


=== 2001年 ===
=== 2001年 ===
==== 天皇賞連覇とライバルの雪辱 ====
==== 天皇賞連覇とライバルの雪辱 ====
2001年を迎えたテイエムオペラオーは、連戦疲労が危惧されたことに加え、冬の休養にあたり北海道は寒すぎるという岩元の判断から、通例休養に出される賀張共同育成センターではなく、温浴施設を備え「馬の温泉」の通称がある[[競走馬総合研究所|JRA競走馬総合研究所]]磐城支所([[福島県]][[いわき市]])で休養に入った<ref name="kimu18">木村(2002)pp.200-207</ref>。この休養には原口も帯同した。温泉で疲労を除きつつ、併設の馬場で適度な運動も可能という岩元の見通しであったが、当年のいわきは大雪が続きテイエムオペラオーはほとんど馬房から出ることができず、その一方で日ごろ細かった食欲は増進し、大幅に太った状態で栗東へ帰厩した<ref name="kimu18" />。
通例なら十分種牡馬入りできる好成績だったが、翌[[2001年]]も現役で走ることになった。

[[ファイル:TM Opera O 123rd Tennosho.jpg|thumb|2001年天皇賞(春)|200px]]
当初は3月の阪神大賞典での復帰が見込まれていたが、調整のピッチが上がらないことから、復帰戦は4月1日の[[大阪杯]](GII)にずれ込んだ<ref name="kimu18" />。直前の調教では気を抜くような場面もあり、「本来の動きではない」という評もあった<ref name="kimu18" />。また、競走直前のパドックでは、常なら原口が持つ2本の曳き手を引っ張って歩くところを「1本でも大丈夫なぐらい」大人しい様子であり、和田も返し馬<ref group="注釈">競走前の待機所への移動に兼ねて行われるウォーミングアップ。</ref>で動きの硬さを感じたという<ref name="yu0105">『優駿』2001年5月号、pp.26-28</ref>。レースでは中団8~9番手を進んだが、第3コーナーから最終コーナーにかけて、外から馬体を被せてきた[[アドマイヤボス]]に合わせて早めに先団に進出<ref>『優駿』2001年5月号、pp.6-7</ref>。最後の直線では同馬およびエアシャカールと競りあったが<ref name="yu0105-3">『優駿』2001年5月号、p.121</ref>これに遅れ、さらに後方から3頭ごと差し切った9番人気のトーホウドリームの後方で4着と敗れた<ref name="yu0105-3" />。競走後、和田は「このひと叩きで変わってくるはず。次は絶対に巻き返しますよ」、岩元は「まあ仕方がない。また出直しや」と語った<ref name="yu0105" />。春の天皇賞へ向けた他の前哨戦では、阪神大賞典でナリタトップロードが2着に8馬身差をつけてレコードタイムで勝利、[[日経賞]](GII)ではメイショウドトウが勝利を挙げた<ref name="yu0105" />。
2001年は主戦の和田竜二騎手が1月に落馬して鎖骨を骨折したため、[[大阪杯|産経大阪杯]]からの始動となった。産経大阪杯でのテイエムオペラオーは、調整のために訪れた先が大雪に見舞われて外に出ることができなかったために大幅に調整が遅れており、レース前の追い切りになっても良化の兆しは見られていなかったが、競馬ファンの多くは「それでも勝てる」とテイエムオペラオーを単勝1.3倍の圧倒的1番人気に支持した。しかし結果は、[[後藤浩輝]]騎手騎乗の[[アドマイヤボス]]の執拗なマークに遭い、直線では伸びを欠き[[トーホウドリーム]]の4着に敗れた。

[[ファイル:Symboli rudolf.jpg|サムネイル|シンボリルドルフ。1984年から85年にかけて中央競馬史上最多のGI競走7勝を挙げ、「七冠馬」あるいは「皇帝」とも称された。]]
前年からの連覇が懸かる天皇賞(春)へ向けて、当初テイエムオペラオーの状態は極めて悪かったものの、競走10日ほど前から復調気配が表われはじめ、最終調教でも良好な動きをみせた<ref name="kimu18" />。4月29日の天皇賞当日では、前年秋の天皇賞以来で単勝オッズが1倍台に至らず2.0倍を示した<ref name="yu0106">『優駿』2001年6月号、pp.26-29</ref>。ナリタトップロードが3.4倍、メイショウドトウが6.5倍でこれに続いた<ref name="yu0106" />。レースは最初の1000メートル通過が競走史上最速の58秒3というハイペースになり、そのなかでテイエムオペラオーは中団後方に付け、その周囲を他の有力馬がマークするような隊列となる<ref name="yu0106" />。最後の直線ではいち早くスパートをかけたナリタトップロードがいったん先頭に立ったが、すぐにテイエムオペラオーがこれをかわし、後方から追い込んだメイショウドトウも半馬身抑えて勝利。シンボリルドルフに並ぶ史上最多タイ記録のGI競走7勝目を挙げた<ref name="yu0106" />。また、春秋の天皇賞3連覇および天皇賞3勝という記録は、史上初の事例となった<ref name="yu0106-2">『優駿』2001年6月号、pp.136-137</ref>。竹園は競走後、次走が宝塚記念であること、そしてその結果次第で日本国外への遠征を検討することを表明した<ref name="yu0106" />。

天皇賞に続く連覇、そして史上最多記録のGI競走8勝が懸かる宝塚記念(6月24日)に臨んで、テイエムオペラオーの状態は極めて良好に仕上がり<ref name="kimu19">木村(2002)pp.213-217</ref>、戦前に催された「宝塚記念フェスティバル」に出席した和田は「99パーセント勝てる」と明言した<ref name="yu0108-2">『優駿』2001年8月号、pp.37-39</ref>。当日の単勝オッズは1.5倍を示し、前年の宝塚記念以来、テイエムオペラオー相手に5度2着となっているメイショウドトウが3.4倍で続いた<ref name="yu0108-2" />。レースではテイエムオペラオーはスタートでやや後手を踏んで後方に位置取り、対するメイショウドトウは道中4番手と先行策をとった<ref name="yu0108-2" />。メイショウドトウは最終コーナーで先頭に並びかけた一方で、テイエムオペラオーは馬群に押し込められる形となって抜け出すことができず、さらに各馬の進路が混乱した煽りを受けてテイエムオペラオーは進路をなくし、和田が馬上で体を起こし、手綱を引く格好となった<ref name="kimu19" />。最後の直線で態勢を立て直し後方3番手の位置から追い込んだものの、セーフティリードを取ったメイショウドトウを捉えることはできず、同馬から1馬身4分の1の差で2着と敗れた<ref name="kimu19" />。

競走後、和田は「狭いところに行ってしまって、行くことができなかった。一番嫌な展開になってしまった。具合が良かっただけに残念」とし<ref>『臨時増刊号 Gallop2001』p.76</ref>。岩元は「二、三番手で競馬する手もあったと思うが、乗り方は鞍上が決めることやからな。状態が良かっただけに、残念」と述べた<ref name="kimu19" />。竹園は「あの不利はちょっとひどい。ひどい競馬だった。最後は力のあるところを見せてくれたけど……」と述べ、さらに「負けて海外なんてありえません」として、秋シーズンも国内戦に臨ませることを表明した<ref name="kimu19" />。一方、メイショウドトウ騎乗の安田康彦は「折り合いもついて、あっち(テイエムオペラオー)が後ろにおることが分かったときに、これなら勝てると思うたね。それぐらい馬の出来もよかったし」と語った。また、メイショウドトウ馬主の[[松本好雄]]は後に「私にとってはね、テイエムの2着は非常に大きな2着ですよ。テイエムが2着でなかったら、ちょっと価値が薄れるんですよね。5回負けた馬に勝つということで、凄い値打ちがあるんですよね。''(中略)''よく来てくれたな、という気持ちですよ」と振り返っている<ref>『優駿』2001年8月号、p.68</ref>。

夏は賀張共同育成センターで休養に入る。その間の8月1日、竹園よりテイエムオペラオーが当年を限りに引退することが発表された。

==== 新記録ならず - 引退 ====
秋シーズン初戦は10月7日の京都大賞典で迎えた。当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.4倍の1番人気となり、ナリタトップロードが2.4倍の2番人気、ステイゴールドが10.8倍で3番人気となった<ref name="kimu25" />。レースの道中はテイエムオペラオーとステイゴールドが2番手で並び、直後をナリタトップロードが進む<ref name="yu011-2">『優駿』2001年11月号、p.120</ref>。最後の直線ではナリタトップロードがいち早く先頭に立ち、これを内からステイゴールドがかわし、さらに外からテイエムオペラオーが並びかけた。この直後にステイゴールド騎乗の[[後藤浩輝]]が右鞭を振るうと、ステイゴールドは左側に斜行し、同馬とテイエムオペラオーとの間に挟まれたナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦が落馬<ref name="kimu25" />。ステイゴールドは勢いを失うことなく1位で入線し、テイエムオペラオーは半馬身差の2位入線となる<ref name="kimu25" />。しかし審議の結果ステイゴールドは失格となり、テイエムオペラオーは繰上りでの1着となった<ref name="kimu25" />。競走後の検量室では、危険な騎乗に激怒した竹園が色をなして後藤に詰め寄る一幕もあった<ref name="kimu25" />。繰上り勝利ではあったものの、これでテイエムオペラオーの重賞勝利は12を数え、[[スピードシンボリ]]、[[オグリキャップ]]に並ぶ最多タイ記録となった<ref name="kimu25" />。

[[ファイル:AgnesDigital-2000-11-19.jpg|サムネイル|アグネスデジタル。芝・ダートや馬場状態を問わず活躍し、最終的に国内外でGI競走6勝を挙げた。]]
10月28日、春秋四連覇に挑み天皇賞(秋)に臨んだ。当日は午前から雨となり、前年に続き重馬場で行われることになった<ref name="yu0112">『優駿』2001年12月号、pp.11-15</ref>。単勝オッズではテイエムオペラオーが2.1倍、メイショウドトウが3.4倍、京都大賞典で1位入線のステイゴールドが4.5倍で続いた。レースは、陣営が「行けるだけ行く」と公言していた[[サイレントハンター (競走馬)|サイレントハンター]]がスタートで大きく出遅れ、押し出される形でメイショウドトウが先頭を切る展開となり、テイエムオペラオーは3~4番手を進んだ<ref name="yu0112" />。前半1000メートル通過は1分2秒2と馬場状態を考慮しても遅いペースとなり、馬群は一団の状態で最後の直線に向く<ref name="yu0112" />。ここで伸びかけたステイゴールドが内側に斜行して失速し、テイエムオペラオーは先を行くメイショウドトウと[[ジョウテンブレーヴ]]をかわして先頭に立ったが、大外から追い込んだ[[アグネスデジタル]]にゴール前で捉えられ、同馬から1馬身差の2着と敗れた<ref name="yu0112" />。アグネスデジタルは前年の[[マイルチャンピオンシップ]](GI)などに優勝していたが、本競走には直前になって出走を決めており、当日は4番人気ながらそのオッズは20倍であった<ref name="yu0112" />。

メイショウドトウをかわした直後から和田の視界には大外のアグネスデジタルが入っており、「馬体が合う形になれば、もうひと踏ん張りできる感触はあった」ものの、内外が離れすぎていたため併せにいくことはできなかった<ref name="yu0112-2">『優駿』2001年12月号、pp.16-19</ref>。和田は「今日は相手が強かった」とした一方で、「一番いい頃の状態にはまだ一息と感じた。この先、期待通りに上向いてくれる保証はないけれど、もっともっと良くなる可能性を秘めていることは確かです」と語った<ref name="yu0112-2" />。また岩元は「馬体が合っていてもあれではかわされていたやろ。力があって、オペラオーより重馬場の得意な馬がいたということ」とした。

[[ファイル:Jungle Pocket.jpg|サムネイル|ジャングルポケット。テイエムオペラオーの次走・有馬記念には出走しなかった。]]
引き続き新記録を目指すジャパンカップに向けたテイエムオペラオーの状態は上がらず、競走前の最終追い切りでも動きに精彩を欠き、共同会見で岩元が発した「えらいこっちゃ」という言葉がスポーツ紙でも報じられた<ref name="yu0201">『優駿』2002年1月号、pp.10-13</ref>。しかしこの調教から数日の間にテイエムオペラオーは急速に食欲を回復させ、競走当日にテイエムオペラオーにまたがった和田は「この秋一番の覇気」を感じたという<ref name="yu0201" />。当年のジャパンカップにおける外国招待馬には[[2000ギニーステークス|2000ギニー]]の優勝馬[[ゴーラン]](イギリス)など6頭のG1優勝馬がいたものの、注目馬は不在という下馬評で、単勝オッズの5番人気までを日本馬が占めた<ref name="yu0201-2">『優駿』2002年1月号、pp.22-25</ref>。2.8倍の1番人気にテイエムオペラオー、2番人気は当年の日本ダービー優勝馬[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]が推され4.2倍、以下メイショウドトウ、ステイゴールドと続いた。レースはスローペースで推移し、テイエムオペラオーは道中3~4番手、ステイゴールドが6~7番手、メイショウドトウとジャングルポケットがそれぞれ10~11番手を進んだ<ref name="yu0201-2" />。向正面からペースが上がっていき、最終コーナーから最後の直線に入るとテイエムオペラオーはいち早く先頭に立った<ref name="yu0201" />。テイエムオペラオーは単走状態では気を抜く傾向があり和田もそれは意識していたものの、すぐ後ろにいたステイゴールドが進出してきたことから、早めにリードをとる選択をしたものだった。テイエムオペラオーは独走態勢に入ったものの、やはり気を抜いてふらつき始め<ref name="yu0201" />、ゴール目前で大外から一気に伸びてきたジャングルポケットにクビ差かわされ、またも2着に終わった<ref name="yu0201-2" />。

和田は競走後、「3歳馬に負けたくない気持ちはあったんですが……。やっぱり目標にされるとつらいです。前回もそんな感じでしたから。周りにもうちょっと馬がいてくれたら良かったんですが……」と語り<ref name="ga01-2">『臨時増刊号 Gallop2001』pp.127-129</ref>、岩元は「結局、うちの馬に流れがこなかったということ」と述べた<ref name="yu0201" />。一方で、ジャングルポケットの管理調教師・[[渡辺栄]]は「最近のテイエムオペラオーの競馬を見ていますと、一番良いときに比べて少し力が落ちているように感じていました。あの馬の場合、競って負けたということを見たことがなかった。きょうは競って負かしたことでジャングルポケットの強さを感じました」との感想を述べている<ref name="ga01-2" />。


[[ファイル:Manhattan Cafe 20020428.jpg|サムネイル|マンハッタンカフェ。翌2002年の天皇賞(春)にも優勝した。]]
次走の天皇賞(春)では4コーナーから鞭が入りながらも勝利を収め、[[メジロマックイーン]]以来となる春の天皇賞連覇を達成した。勝ち抜け制度撤廃後、天皇賞を3勝したのはテイエムオペラオーとキタサンブラックのみである<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2017/10/29/kiji/20171029s00004048252000c.html |title=【天皇賞・秋】キタサンブラックが史上5頭目の春秋連覇!G1通算6勝目 |newspaper=Sponichi Annex |date=2017-10-29 |accessdate=2017-10-29}}</ref><ref group=注釈>メジロマックイーンも3競走で1位入線を果たしているが、秋の天皇賞は降着となっている。</ref>。この勝利によってシンボリルドルフ以来となるGI7勝を達成し、次走ではそれを超えるGI8勝にも期待がかかることとなった。
年末のグランプリ・有馬記念へ向けたファン投票では前年より票数を落としたものの、93217票を集めて2年連続の1位選出馬となる<ref>『優駿』2002年1月号、p.19</ref>。そして12月23日、引退レースとして有馬記念に臨んだ。当日は単勝オッズ1.8倍の1番人気の支持を受け<ref name="yu0202">『優駿』2002年2月号、pp.36-38</ref>、これで4(旧5)歳以降出走した全15戦で1番人気となり、1963~64年に走った[[メイズイ]]が保持していた連続1番人気記録を更新した<ref name="doudou" />。2番人気にメイショウドトウ、3番人気には当年の菊花賞優勝馬[[マンハッタンカフェ]]が推された<ref name="yu0202" />。スタートが切られるとレースはスローペースで流れ、テイエムオペラオーは中団から後方を進む。その前方を走っていたメイショウドトウは3番手まで進出したが、和田はこれを追うことなく、そのままテイエムオペラオーを控えさせた<ref name="yu0202" />。そして最終コーナーから最後の直線にかけて先行した[[トゥザヴィクトリー]]、[[アメリカンボス]]、メイショウドトウらを捉えに追い込みを始めたが、これらをかわすことができず、さらに後方から追い込んで勝利したマンハッタンカフェの後方で、生涯最低の5着となった<ref name="yu0202" />。


後方に位置したマンハッタンカフェが勝ったものの、展開としては先行有利であり、中団待機策をとった和田は「向正面でもう少し前につけておけばよかった」、「天皇賞かジャパンカップ、この秋どちらかひとつでも勝てていれば、もっとシャシャッと動けていたかも」と話し、検量室から引き上げる際にも「動いていかなきゃって、頭では分かっていたんやけど……」と何度も繰り返した<ref name="yu0202-2">『優駿』2002年2月号、pp.39-42</ref>。岩元は和田の騎乗に対して「全般的に大事に乗りすぎたんじゃないかな。まあ、終わってから言ってもな。うーん……終わったわ」と語った<ref>『臨時増刊号 Gallop2001』pp.4-5</ref>。
各方面からは、「国内には敵う馬がいなくなったのだから、テイエムオペラオーの海外遠征を見てみたい」という声も多かったので、オーナーである竹園は「宝塚記念の結果次第で海外遠征も視野に入れる」と表明した。


この有馬記念での賞金を加えたテイエムオペラオーの総獲得賞金は、自身が竹園に購買された価格の170倍超、当時2位のスペシャルウィークを7億円超上回る18億3518万9000円に及び<ref name="yu1203" />、この記録は2017年末にキタサンブラックに破られるまで16年間保持された。翌2002年1月13日、京都競馬場でテイエムオペラオーとメイショウドトウが合同での引退式が行われた。インタビューを受けた和田は「テイエムオペラオーからたくさんのものをもらいましたが、僕からは何もお返しできませんでした。これからは一流の男になって、彼に認められるように頑張ります」と、声を詰まらせながら話した<ref name="yu0202-3">『優駿』2002年2月号、p.107</ref>。引退式を終えた両馬は栗東トレーニングセンターへ戻されたのち、17日には共に種牡馬として繋養される北海道浦河町のイーストスタッドへ2頭揃って輸送された<ref name="yu0202-2" />。
GI8勝の新記録が懸かった宝塚記念では、単勝支持率1.5倍と圧倒的な人気を集めた。続く2番人気はメイショウドトウであった。レースでは、今まで僅差で惜敗してきたメイショウドトウが思い切って早めに先頭に立ち押し切る作戦をとる。一方のテイエムオペラオーは4コーナーで馬群に包まれ一瞬立ち上がってしまうという不利があり、直線で外からメイショウドトウを猛追するも2着に敗れた。ついにGI競走でも敗退、GI競走連勝記録は6でストップした。一方のメイショウドトウは悲願であったGI制覇を成し遂げた。このレースの敗北で海外遠征は白紙撤回され、秋シーズンも国内で走ることになった。


==== 秋の不振と引退 ====
=== 種牡馬時代 ===
種牡馬入りに際しては一般化していた[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]の組織は行われず、競走馬時代から引き続き竹園個人が所有した<ref name="kimu25">木村(2002)pp.218-219</ref>。近い年代でシンジケートが組まれなかった種牡馬が大きく成功した例はなく、早期に結果が出なければ生産者から見限られるのが早いというリスクもあった<ref name="yu0208">『優駿』2002年8月号、p.11</ref>。テイエムオペラオーほどの実績を残した馬が個人所有されることは非常に珍しかったが、シンジケート種牡馬は産駒が活躍すれば種付け株が高騰しシンジケート非加入の生産者が交配しにくくなり、その反対に低調に終われば加入者が損を被り、さらには手元に残る種付け株が[[不良債権]]のようになるおそれがあり、生産者たちにそうしたリスクを負わせたくない、というのが竹園の言であった<ref name="kimu25" />。また種牡馬としての繋養先は、テイエムオペラオーの故郷である浦河町のイーストスタッドと、[[日高軽種馬農業協同組合|日高軽種馬農協]]門別種馬場を1年ごとに行き来する形となった。イーストスタッドは中小生産者が集まる日高地方の東側に位置し、門別種馬場は西側に位置することから、地域の生産者に満遍なく便宜を図れるとされた<ref name="kimu25" />。ただし、当初は有力種牡馬が集う[[社台スタリオンステーション]]入りが模索されたが、交渉がうまくいかなかったともされる<ref name="bun">{{Cite web|url=https://bunshun.jp/articles/-/58321?page=2 |title=《産駒の4割が総賞金0円》G1・7勝馬のテイエムオペラオーとディープインパクトの決定的な違い |publisher=[[文春オンライン]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221029210344/https://bunshun.jp/articles/-/58321 |archivedate=2022年10月29日|date=2022年10月30日|accessdate=2022年11月5日}}</ref>。初年度の種付け料は500万円に設定され<ref name="yu0208" />、93頭へ交配された<ref name="meiba" />。
秋シーズン初戦の京都大賞典は3歳時より鎬を削ったナリタトップロードとの対決に観衆は沸いた。レースでは後藤浩輝騎乗の[[ステイゴールド]]が最後の直線走路で内から外に斜行してテイエムオペラオーに馬体をぶつけ、これに挟まれる形となったナリタトップロード鞍上の[[渡辺薫彦]]が落馬・競走中止となった。審議の結果1位入着していたステイゴールドは失格となり、繰り上げでテイエムオペラオーが1着となった。レース後、和田は今までならば完勝していたであろうメンバーに手こずったことについて、「年齢のせいか反応がズブくなっているようだ」と語った。


産駒デビューを待つ間の2004年には中央競馬の顕彰馬に選出され、殿堂入りを果たした。前年に記者投票制となって初めての選定投票が行われていたが、対象馬における引退からの年数制限がなく票が割れたことが影響して落選しており<ref name="sanspo">{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20220611-JH7SCXH4BVL3PIQ6NNS5XWGSJE/ |title=【甘口辛口】アーモンドアイが殿堂入りできなかったのは、新たに選定対象馬になったことを一部記者が見逃した? |author=鈴木学 |publisher=sanspo.com |accessdate=2022年11月5日 |date=2022-6-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220610223532/https://www.sanspo.com/article/20220611-JH7SCXH4BVL3PIQ6NNS5XWGSJE/ |archivedate=2022年6月10日}}</ref>、当年は「(1)1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」、「(2)1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」という2つの投票区分に分けられたうえで(2)の区分において選出された<ref name="ken">{{Cite web |url=http://www.keibado.ne.jp/keibabook/040510/plaza_t.html |title=オペラオー、タケシバオー顕彰馬に |author= |publisher=競馬道online |accessdate=2022年11月5日 |date=2004-5-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040803230426/http://www.keibado.ne.jp/keibabook/040510/plaza_t.html |archivedate=2004年8月3日 }}</ref>。なお、(1)の区分で[[タケシバオー]]も選出されていたが<ref name="ken" />、その後顕彰馬選定投票の対象馬は一律に「引退後20年以内」に改められた<ref name="sanspo" />。サンケイスポーツ記者の鈴木学は「初年度にテイエムオペラオーが落選したことが契機」になったとしている<ref name="sanspo" />。
天皇賞4連覇の偉業に挑んだ天皇賞(秋)では前走の経験を活かして早めにメイショウドトウを捉えたものの、大外から伸びてきた1つ年下の伏兵[[アグネスデジタル]]<ref group=注釈>アグネスデジタルは外国産馬であり、当時2頭に限られた天皇賞の外国産馬出走枠によりこのレースに出走(もう1頭はメイショウドトウ)したことにより、3歳の人気馬[[クロフネ]]が除外となっていたため、不条理な非難の声を浴びながらも出走している。</ref>に直線で差し切られて2着。また本レースにて1年半にも及ぶテイエムオペラオー世代による中距離〜長距離GIの上位独占にも終止符が打たれた。


2005年に初年度産駒がデビューするも、年々競馬のスピード化が進む傾向にそぐわないスタミナタイプの仔が多く、種牡馬生活通算の成績で勝率は5%、1を平均値とするアーニング・インデックスで0.75と、いずれも平均値を下回っている<ref name="bun" />。産駒からは障害重賞で3勝を挙げた[[テイエムトッパズレ]]、中央競馬のオープン馬では6勝を挙げたタカオセンチュリーや、1200メートル戦で5勝を挙げたメイショウトッパ―などが出たが平地重賞を勝つことはできなかった<ref name="bun" />。また、著名な相手牝馬では[[テイエムオーシャン]]と3年連続で交配されたが、テイエムオペラドンが1勝を挙げたのみに終わっている<ref name="bun" />。種牡馬総合ランキングの最高成績は、2008年の37位であった<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/sire/record/ |title=テイエムオペラオー 種牡馬成績 |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年11月5日 |date=}}</ref>。
前走2着に敗れながらも続くジャパンカップでも断然の1番人気に支持された。レースでは、直線入口で逃げ粘る[[ウイズアンティシペイション]]に馬なりのまま並びかけると最後の200mでは早めに抜け出したが、ゴール直前で[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]に差し切られて2着に敗れた。前走同様に早く抜け出し過ぎたために目標にされ交わされるという内容で、上位2頭が叩き合いの末に後続馬を突き放してはいたものの、これまで僅差で勝ち続けてきたテイエムオペラオーの競馬としては例外的な負け方であった。このレースでは常に着順が一つ違いであったメイショウドトウは5着に敗れている。


[[2010年]]いっぱいで門別種馬場が閉鎖されるのにともない、同年6月に[[テイエム牧場]]の日高支場に移動<ref>{{Cite web |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=47320 |title=テイエムオペラオー、ブラックタキシードが移動 |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2022年11月5日 |date=2010-7-7 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210825120241/https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=47320 |archivedate=2021年8月25日}}</ref>、さらに11月には[[レックススタッド]]へ移動した<ref>{{Cite web |url=https://news.sp.netkeiba.com/?pid=news_view&no=50946 |title=テイエムオペラオーがレックススタッドに入厩 |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2022年11月5日 |date=2010-11-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150504080624/http://news.sp.netkeiba.com/?pid=news_view&no=50946 |archivedate=2015年5月4日}}</ref>その後さらに白馬牧場([[新冠町]])に移動したが、竹園の意向によって所在地は非公開とされていた<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2018/05/20/kiji/20180520s00004000188000c.html |title=世紀末覇王・テイエムオペラオー死す 和田竜二悲痛「天国から見守って」 |newspaper=Sponichi Annex |date=2018-05-20 |accessdate=2018-05-20}}</ref>。
引退レースとなった有馬記念でも1番人気に支持されたが、レースでは過去最低着順となる5着に惨敗し、4着に終わったメイショウドトウにも及ばなかった。このレースを最後に競走生活を終えた。シーズン開始当初、すでにGI8勝に王手をかけておりシンボリルドルフ超えも確実視されていた同馬だったが、その快挙が成し遂げられることはなかった。


晩年まで種牡馬としての活動を続けていたが、2018年5月17日の放牧中に心臓まひで倒れ、同日に死亡した<ref name="goku">{{Cite web |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |title=テイエムオペラオー突然死、22歳 放牧中倒れる |author= |publisher=極ウマ(日刊スポーツ) |accessdate=2022年11月5日 |date=2018-5-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221105014640/https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |archivedate=2022年11月5日}}</ref>。22歳没。当年も5頭の繁殖牝馬に種付け予定で、そのうち2頭への種付けを終えた矢先の出来事であった<ref>{{Cite web |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |title=テイエムオペラオー突然死、22歳 放牧中倒れる |author= |publisher=極ウマ(日刊スポーツ) |accessdate=2022年11月5日 |date=2018-5-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221105014640/https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |archivedate=2022年11月5日}}</ref>。その死を受けて東京、中山、京都、阪神および小倉の各競馬場には来場者を対象に記帳台が設けられ、11000筆以上が寄せられた<ref name="irei">{{Cite web |url=https://uma-furusato.com/news/93896.html |title=白馬牧場でテイエムオペラオー、ゴスホークケンの合同慰霊祭 |author= |publisher=競走馬のふるさと案内所 |accessdate=2022年11月5日 |date=2018-6-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221105014640/https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201805210000163&year=2018&month=05&day=21 |archivedate=2021年7月2日}}</ref>。また、5月26日実施の東西メイン競走には「テイエムオペラオー追悼レース」の副称が冠された<ref>{{Cite web |url=https://sarabure.jp/articles/40866 |title=テイエムオペラオー追悼行事をJRAが開催 |author= |publisher=サラブレモバイル |accessdate=2022年11月5日 |date=2018-5-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221105022702/https://sarabure.jp/articles/40866 |archivedate=2022年11月5日}}</ref>。6月15日には、同じく5月に白馬牧場で死亡した[[ゴスホークケン]]と合同での慰霊祭が挙行され、関係者やファンら約50人が参列した<ref name="irei" />。
[[2002年]][[1月13日]]に、[[京都競馬場]]でライバル・メイショウドトウと合同の引退式が行なわれ、[[種牡馬]]となる。その後、[[2004年]][[4月26日]]、JRA[[顕彰馬]]に選出され、殿堂入りが決まり、また、同年6月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「テイエムオペラオーメモリアル」が宝塚記念施行日の阪神競馬場の準メイン競走として施行された。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
175行目: 231行目:
|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|ゆきやなぎ賞
|ゆきやなぎ賞
|
|{{small|500万下}}
|14
|14
|8
|8
540行目: 596行目:
|}
|}


== 記録(引退時) ==
=== レーティング ===
{| class="wikitable"
*歴代最高賞金獲得: 18億3518万9000円(当時の世界最高収得賞金額)<ref group=注釈>2017年3月25日に[[アロゲート]]が世界最高収得賞金額を更新。国内では2017年12月24日に[[キタサンブラック]]が日本記録を更新。</ref>
!年度!!馬齢!!馬場!!距離区分([[メートル|m]])!!値!!対象!!出典
*歴代最高年間賞金獲得: 10億3600万4000円
|-
*GI最多勝利: 7勝(タイ)<ref group=注釈 name="GI最多勝利">2020年11月1日に[[アーモンドアイ]]が記録を更新。</ref>
|1999年||4(3)歳||rowspan="6"|芝||L(2200-2799)||119||rowspan="6"|JPNクラシフィケーション||<ref name="yu0002-4" />
|-
|rowspan="3"|2000年||rowspan="3"|5(4)歳||I(1900-2199)||'''121'''||rowspan="3"|<ref name="yu0102" />
|-
||L(2200-2799)||'''122'''
|-
||E(2200-2799)||'''117'''
|-
|rowspan="2"|2001年||rowspan="2"|5歳||L(2200-2799)||122||rowspan="2"|<ref name="yu0202-4">『優駿』2002年2月号、pp.70-73</ref>
|-
||E(2200-2799)||'''117'''
|}
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。'''強調'''は区分における年度の最高値。

=== 記録(引退時) ===
'''獲得賞金'''
*歴代最高賞金獲得: 18億3518万9000円<ref name="yu1203">『優駿』2012年3月号、pp.12-13</ref>
*歴代最高年間賞金獲得: 10億3600万4000円<ref name="yu1203" />

'''勝利数・連勝記録'''
*GI通算最多勝利: 7勝(タイ)<ref name="yu0106" /><ref group=注釈 name="GI最多勝利">2020年11月1日に[[アーモンドアイ]]が記録を更新。</ref>
*GI年間最多勝利: 5勝<ref name="gallo6" />
*GI最多連勝: 6連勝<ref>『優駿』2001年6月号、p.147</ref><ref group=注釈>交流重賞を含めると、2012年1月25日の川崎記念で[[スマートファルコン]]が史上2頭目の達成。</ref>
*GI最多連対: 11連対<ref group=注釈>2011年11月27日のジャパンカップで[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]が記録を更新。</ref>
*GI最多連対: 11連対<ref group=注釈>2011年11月27日のジャパンカップで[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]が記録を更新。</ref>
*GI最多連続連対: 9連続連対<ref name="doudou" />
*GI最多連勝: 6連勝<ref group=注釈>交流重賞を含めると、2012年1月25日の川崎記念で[[スマートファルコン]]が史上2頭目の達成。</ref>
*重賞最多勝利: 12勝(タイ記録)<ref>『臨時増刊号 Gallop2000』p.161</ref><ref group=注釈>交流重賞を含めると、2010年12月29日の東京大賞典競走でスマートファルコンが記録を更新。</ref>
*GI最多連続連対: 9連続連対
*GI年間最多勝: 5
*重賞最多勝: 8連(タイ記録)<ref name="gallo6" />
*重賞最多勝利: 12勝(タイ記録)<ref group=注釈>交流重賞を含めると、2010年12月29日の東京大賞典競走でスマートファルコンが記録を更新。</ref>
*重賞最多連勝: 8連勝(タイ記録)<ref group=注釈 name="JRA重賞最多連勝"/>
*重賞年間最多勝利: 8勝
*重賞年間最多勝利: 8勝
*天皇賞最多勝: 3勝
*天皇賞最多勝: 3勝<ref name="yu0106-2" />
*主要4場([[東京競馬場|東京]]・[[中山競馬場|中山]]・[[京都競馬場|京都]]・[[阪神競馬場|阪神]])全てでGI勝利(グレード制導入後初)<ref group=注釈>達成馬は他に[[オルフェーヴル]]、[[ジェンティルドンナ]]、[[キタサンブラック]]の3頭。</ref>
*主要4場([[東京競馬場|東京]]・[[中山競馬場|中山]]・[[京都競馬場|京都]]・[[阪神競馬場|阪神]])でGI勝利(グレード制導入後初)<ref name="yu0012-2" /><ref group=注釈>達成馬は他に[[オルフェーヴル]]、[[ジェンティルドンナ]]、[[キタサンブラック]]の3頭。</ref>

'''人気'''
*連続1番人気: 15戦<ref name="doudou" />

== 重賞勝利産駒 ==
'''中央競馬重賞勝利馬'''
*[[テイエムトッパズレ]](2003年産 2008年[[京都ジャンプステークス]] 2009年[[京都ハイジャンプ]]、[[東京ハイジャンプ]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000758405/ |title=テイエムトッパズレ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*[[テイエムエース]](2003年産 2008年東京ハイジャンプ)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000761188/ |title=テイエムエース |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>

'''中央競馬オープン競走勝利馬'''
*ダイナミックグロウ(2004年産 2008年阿蘇ステークス、ほか地方競馬重賞2勝)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000806848/ |title=ダイナミックグロウ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムキュウコー(2011年産 2013年[[ひまわり賞_(小倉競馬)|ひまわり賞]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001139852/ |title=テイエムキュウコー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムヒッタマゲ(2014年産 2017年昇竜ステークス、ほか地方競馬重賞1勝)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001188622/ |title=テイエムヒッタマゲ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>

'''地方競馬重賞勝利馬'''
*カゼノコウテイ(2003年産 2010年[[瑞穂賞]]・[[門別競馬場|門別]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000751346/ |title=カゼノコウテイ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムハエドー(2003年産 2006年[[肥後の国グランプリ]]・[[荒尾競馬場|荒尾]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760169/ |title=テイエムハエドー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*タカオセンチュリー(2003年産 2011年[[アフター5スター賞]]・[[大井競馬場|大井]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000755066/ |title=タカオセンチュリー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムジカッド (2004年産 2007年[[たんぽぽ賞]]・荒尾 2008年[[霧島賞]]・荒尾) <ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000799046/ |title=テイエムジカッド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*バグパイプウィンド(2004年産 2009年[[金盃]]・大井)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000807170/ |title=バグパイプウィンド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムヨカドー(2004年産 2010年霧島賞・荒尾 2011年[[東京シンデレラマイル]]・大井)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20100826/233/09/ |title=テイエムヨカドー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムヒッカテ(2006年産 2009年[[門松賞]]・荒尾)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000996322/ |title=テイエムヒッカテ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムハエンカゼ(2009年産 2011年霧島賞・荒尾 2011年たんぽぽ賞・荒尾)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001104772/ |title=テイエムハエンカゼ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムゲッタドン(2011年産 2014年霧島賞・荒尾)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001104772/ |title=テイエムハエンカゼ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムマケンゲナ(2013年産 2017年すみれ賞・[[佐賀競馬場|佐賀]])<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001171130/ |title=テイエムマケンゲナ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>
*テイエムサツマオー(2018年産 2011年[[飛燕賞]]・佐賀)<ref>{{Cite web |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001263092/ |title=テイエムサツマオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2022年10月24日 |date=}}</ref>


== 評価・特徴 ==
== 特徴・評価 ==
=== 身体面に関する特徴・評価 ===
=== 身体面に関する特徴・評価 ===
==== 心臓の強さ ====
[[日本中央競馬会|JRA]]の研究施設である[[競走馬総合研究所]]ではテイエムオペラオーを対象とした研究結果が発表された<ref>{{Cite web |url=http://www.equinst.go.jp/JP/topics/eto.html |title=テイエムオペラオーの強さの秘密 |website=JRA 競走馬総合研究所 |date=2002-07-01 |accessdate=2002-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061206003706/http://www.equinst.go.jp/JP/topics/eto.html |archivedate=2006-12-06 |deadlinkdate=2021-05-16}}</ref>。この研究で、テイエムオペラオーを平均的なサラブレッドや3歳GIホースと比較した結果、非常に心拍数が低く、大きく強い心臓を持っていたことが判明した。研究所ではこのデータを基に「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持った競走馬であることが科学的に証明された」とコメントしている。
2001年春、それぞれ日本中央競馬会(JRA)の傘下にある競走馬総合研究所、日高育成牧場研究室、そして美浦・栗東両トレーニングセンターの診療所が合同し、競走馬の運動強度に伴う負荷の掛かり方を明らかにする「運動負荷試験システムの確立と応用試験」というプロジェクトが発足した。従来JRAは実験馬や馬主に配布される前の[[抽せん馬]]を対象にデータを収集していたが、当プロジェクトは現役競走馬を対象にデータを取ることになり、対象馬の1頭にテイエムオペラオーが選ばれた<ref name="yu0203">『優駿』2002年3月号、pp.99-104</ref>。


これ以前から、テイエムオペラオーを診察していた栗東トレーニングセンターの獣医師は、その心拍数がおおよそ26~28回/毎分と、一般例(約36回/毎分)に比較して非常に少なく、同時に時折「拍動を1回飛ばしたのではないか」と誤認するほど、鼓動と鼓動の間に長い沈黙が現れる例があることを観察していた<ref name="yu0203" />。拍動数が少ないということは、拍動1回あたりの体内への血液拍出量が多いということで、血液拍出量が多いということは体内に送れる酸素量が多く、身体負荷の掛かりにくい[[有酸素運動]]をより長く続けることができると推測された<ref name="yu0203" />。拍動数に関しては、この獣医師の経験上で近い数字の持ち主は、1997年の菊花賞優勝馬[[マチカネフクキタル]]で毎分28回、また伝聞ではシンボリルドルフが毎分30回程度だったとされる<ref name="yu0203" />。また岩元は経験的に、運動後のテイエムオペラオーの息遣いが平常に戻るのが非常に早いという印象を抱いていた<ref name="yu0203" />。
=== レーススタイルに関する特徴・評価 ===
豊富なスタミナと長く使える脚、パワーによって実現される競り合った時の勝負強さ・道悪に対する強さを身上としていたが、一流馬としての高い瞬発力やスピードも兼ね備えていた。また、[[脚質#先行|先行]]、[[脚質#差し|差し]]の戦法を用いるなど比較的幅の広い位置取りを選択してレースをしていた為、テイエムオペラオーの脚質を[[脚質#自在|自在]]と判断する者も多く、器用な馬でもあった。


2001年宝塚記念前の追い切りで4歳500万下<ref group="注釈">2019年以降のクラス呼称は「1勝クラス」。</ref>のトップジョリーと共に採取されたデータでは、まず運動強度の低いタイム計測4分前の段階では、トップジョリーの心拍数130に対してテイエムオペラオーは同80<ref name="yu0203" />、そして運動強度が上がるとテイエムオペラオーの心拍数はトップジョリーよりも素早く上昇しながらも最大心拍数は同馬より少なく(トップジョリー234回/毎分、オペラオー219回/毎分<ref name="souken">{{Cite web|url=http://www.equinst.go.jp/JP/topics/eto.html|title=テイエムオペラオーの強さの秘密|publisher=競走馬総合研究所|writer=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061206003706/http://www.equinst.go.jp/JP/topics/eto.html|archivedate=2006年12月31日|date=2002年7月1日|accessdate=2022年10月22日}}</ref>)、ゴール地点を過ぎて心拍数が100回/毎分まで戻る時間も、同1230秒に対して490秒とテイエムオペラオーの方が早かった<ref name="souken" />。調教全体のタイムは全体の6ハロン(1200メートル)でトップジョリーが84秒3に対しテイエムオペラオーが80秒9、最後の1ハロンで前者が13秒6、後者が12秒3というもので、テイエムオペラオーの方が遥かに速かったが、ゴールから4分後に計測された血中[[乳酸]]濃度(体内の酸素を使い果たした後に増加する)は前者が19.22、後者が15.35とテイエムオペラオーの方が少なく酸素摂取効率が非常に優れており<ref name="yu0203" />、競走馬総合研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持った競走馬であることが証明されました」とした<ref name="souken" />。また、2歳8月の実験馬との心臓自体の比較では、心臓の強靭さの目安となる心室厚が実験馬の約1.5倍、1回の血液拍出量は同1.8倍という驚異的な数値であった<ref name="yu0203" />。
[[野平祐二]]は、テイエムオペラオーの特徴は[[故障]]を心配するほどに「いつも真面目に走っている」点にあるとし、「あれだけレースに行ってしっかり走るという馬はほとんど出てこない」、「[[リボー]]や[[ミルリーフ]]と比較しても負けない」と評した<ref>『臨時増刊号 Gallop2000』(産業経済新聞社)p10-17</ref>。


また、宝塚記念後に計測された安静時心拍数は、担当獣医師が以前から観察していた回数を裏付ける25回/毎分であり、また独特の心音の「飛び」も心電図上に記録されていた。心電図から算出された、[[交感神経系|交感神経]]・[[副交感神経系|副交感神経]]のバランスを示すHF(高周波帯域)パワー、LF(低周波帯域)パワーは、同じく実験に協力していた[[アグネスタキオン]]などと比較しても格段に良好な数値であった<ref name="yu0203" />。この部分に関して、実験を担当した獣医師は岩元への報告書で「今後何かの機会に別の馬で(より)高い数値が記録される機会があるかもしれませんが、おそらくサラブレッド競走馬のMaxの数値に近いのではないでしょうか」と記している<ref name="yu0203" />。
=== 成績面の特徴 ===
* 古馬の芝中長距離路線(天皇賞春・宝塚記念・天皇賞秋・ジャパンカップ・有馬記念)を年間無敗で完全制覇した。敗戦の有無や年度を跨いでの制覇に関わらず、芝中長距離路線で古馬の混合G1競走すべてに勝利しているのはテイエムオペラオーのみである。
* 中央競馬のG1競走を7勝しており、これはシンボリルドルフ、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]、[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]らと並ぶ最多勝利記録である<ref group=注釈 name="GI最多勝利"/>。また、G1競走7勝馬のうちではテイエムオペラオーが最も多く古馬の混合G1競走を勝利している<ref group=注釈>2017年度の有馬記念にて[[キタサンブラック]]が同数勝利(大阪杯、天皇賞春連覇、天皇賞秋、ジャパンカップ、有馬記念)を達成。</ref>。
* 史上初めて中央競馬主場4場([[東京競馬場]]・[[中山競馬場]]・[[京都競馬場]]・[[阪神競馬場]])の全てでG1競走を勝利した<ref group=注釈>後に[[2012年]]に[[オルフェーヴル]]が、2014年に[[ジェンティルドンナ]]が、[[2017年]]に[[キタサンブラック]]が達成。[[グレード制]]施行以前の宝塚記念をG1競走と考える場合は[[シンザン]]も含まれる。ディープインパクトは[[2006年]]の宝塚記念に優勝しているが、阪神競馬場の改装により京都競馬場での代替開催であった。</ref>。
* 掲示板を外したことが一度もなく、G1競走で複勝圏を外したのは2001年の[[有馬記念]]のみであり、古馬になってから(2000年、2001年)のG1競走で連対を外したのも2001年の有馬記念のみで、長期間に渡り安定した成績を収めた。
* 2回先着を許したのは、同期のライバルであるナリタトップロードとメイショウドトウのみである。なお、3回以上先着した馬は存在しない。
* ジャパンカップで2年連続連対した初めての牡馬<ref group=注釈>牝馬では[[エアグルーヴ]]が1998年に達成。</ref>であり、2022年時点では昨年度にコントレイルが達成するまで唯一の牡馬<ref group=注釈>牝馬ではエアグルーヴ、[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]、[[ジェンティルドンナ]]が達成。</ref>であった。


=== 人気 ===
==== 食の細さ ====
テイエムオペラオーは、岩元が「こんな馬、男馬では初めて」と嘆くほど「飼い食いが悪い(食が細い)」馬であった<ref name="yu0005-3" /><ref group="注釈">競馬用語で、食が細い、細りやすい様子を言う。「飼い」は飼い葉=飼料のこと。</ref>。イーストスタッド場長の前田秀二によれば、栗東から北海道への輸送中、テイエムオペラオーは飼い葉を全く口にせず、丸ごとの人参も食べず、細かく刻んだ人参を床に叩きつけて柔らかくしたものを桶に入れてようやく口にしたという<ref name="kimu24">木村(2002)pp.248-255</ref>。この食の細さは、後述する国外への遠征をしなかった理由のひとつとしても挙げられた<ref name="名前なし-1" />。競走前にはしばしば、飼い食いの悪さに岩元の「泣き」が入ることが恒例となっていたが、一方でこれは「人気の重圧を少しでも和らげようと思って、少しオーバーに言っていただけ。口ほど深刻にはとらえていなかった」とも振り返っており<ref name="meiba" />、また「飼い食いが悪い」わけではなく「食べるのが遅い」馬だったのだともしている<ref>杉本(2001)p.176</ref>。
[[河村清明]]はテイエムオペラオーが2000年に8戦8勝の成績を挙げた際、『本来であれば、『どこまで勝ち続けるのか』といった期待がファンに醸成されるはずなのに、そういった気配は感じられ(なかった)」「テイエムオペラオーには人気がなかった」と評している<ref>河村清明『JRAディープ・インサイド』(イースト・プレス) p.326-327</ref>。[[吉田均]]も、テイエムオペラオーが勝ったレースの2着馬が「つねにメイショウドトウ、ほかでもナリタトップロードとラスカルスズカ」とバリエーションに乏しいことで、テイエムオペラオーが地味なスター性のない馬になってしまっていると述べている<ref name="名前なし-1">『臨時増刊号 Gallop2000』(産業経済新聞社)p12</ref>。野平祐二はテイエムオペラオーがスターホースの割に地味で派手さがないのは毛色のせいだと述べている<ref name="名前なし-1"/>。


=== 競走能力・レーススタイルに関する特徴・評価 ===
== 種牡馬成績 ==
騎手を務めた和田は、「『勝った』と思ったらすぐに気を抜く。そんな賢さを持った馬でした。圧勝したレースがほとんどないのはそのため。あれだけ長い間好調を維持できたのは必要以上の力を使わなかったから、という面もあると思うんですよ。後続をぶっちぎって勝つような、瞬間的な強さが高い評価を受けるのは分かりますが、あの馬みたいな長期間にわたる強さにも、すごく価値があると思う。馬の評価は見る人にもよって分かれるんだろうけど、もちろん僕の中ではテイエムオペラオーこそが理想の名馬です」としている<ref name="meiba">『名馬物語』pp.148-154</ref>。
種牡馬となる際に、[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]を組んで[[社台スタリオンステーション]]入りする交渉が行われたが、不調に終わり「生産者に公平に血を提供したい」という竹園の希望により竹園が個人所有する形で種牡馬入りした。[[2002年]]は[[メイショウドトウ]]と同じく[[イーストスタッド]]に繋養され、翌年からは[[日高軽種馬農業協同組合]]の門別種馬場に繋養される。[[2010年]]いっぱいで門別種馬場が閉鎖されるのにともない、同年6月に[[テイエム牧場]]の日高支場に移動。同年11月に[[レックススタッド]]へ移動した。2012年にはさらに白馬牧場([[新冠町]])に移動し、オーナーの意向によって所在地を非公開<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2018/05/20/kiji/20180520s00004000188000c.html |title=世紀末覇王・テイエムオペラオー死す 和田竜二悲痛「天国から見守って」 |newspaper=Sponichi Annex |date=2018-05-20 |accessdate=2018-05-20}}</ref>とした上で種牡馬としての活動を行っていたが、2018年5月17日に心臓麻痺のため急死した。22歳没。当年も5頭の繁殖牝馬に種付け予定で、そのうち2頭への種付けを終えた矢先の出来事であった。


[[安藤勝己]]は「ここ10年ぐらいでは抜けて強い馬だと思う。突き放して勝つとか大差で勝つとか、そういう馬は負けるときコロッとやられるけど、テイエムみたいな馬はそういう風にならないもの。引退すりゃ分かるよ。あの馬がどれだけ強かったか」と評した<ref name="takara0001">『競馬名馬&名勝負年鑑2000-2001』pp.57-58</ref>。また[[後藤浩輝]]は「相手のことを分析するとき、この馬はどういうタイプの馬なのか、その弱点をつかむのが攻略するポイントになるけど、テイエムオペラオーに関しては、それが見えてこない。故障がないというのも凄いことなんだけど、レースにおいていつもこういうレースをやっているとか、こうしたらこうなるということが全然、テイエムオペラオーには見えてこない。それがあの馬の強さの秘密なんじゃないか」と述べている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑2000-2001』p.18</ref>。[[武豊]]は「強いんじゃないですか。本当に強いと思いますよ。いつも離して勝つわけじゃないから負ける方にしてみればどうにかすれば勝てるんじゃないかと思うんですが勝てませんものね<ref name="yu0107">『優駿』2001年7月号、p.52</ref>」と述べている。
愛馬を種牡馬として成功させようという竹園の熱い情熱で、[[テイエムオーシャン]]の交配相手を[[2008年]]まですべて当馬としていたなど、竹園が所有する繁殖牝馬には積極的に交配されていた。しかし、日本では成功例が少ないサドラーズウェルズ系の種牡馬ということもあり、竹園所有の繁殖牝馬以外の交配相手となると質・頭数共にあまり恵まれなかった。


[[野平祐二]]は、テイエムオペラオーの特徴は[[故障]]を心配するほどに「いつも真面目に走っている」点にあるとし、「あれだけレースに行ってしっかり走るという馬はほとんど出てこない」、「[[リボー]]や[[ミルリーフ]]と比較しても負けない」と評した<ref>『臨時増刊号 Gallop2000』pp.10-17</ref>。また野平はテイエムオペラオーの真骨頂は「馬群を割って伸びる闘争心」にあるとしている<ref name="yu0101">『優駿』2001年1月号、pp.16-17</ref>。ライターの[[栗山求]]は「まあとにかく『ミスター写真判定』って名付けたいぐらいゴール前の競り合いには強い」と評している<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑2000-2001』pp.112-113</ref>。
産駒は[[2005年]]からデビューしたが、デビュー直後からしばらくは勝率や勝ち上がり率が非常に悪く、フレッシュマンサイアーランキング(日本総合)では14位と苦戦を強いられた。古馬になる産駒が増えてからは成績が上向き、[[2007年]]にメイショウトッパー(半兄に[[メイショウボーラー]])が準オープンの北九州短距離ステークスを制して初の中央競馬古馬オープン馬となった。一方で、父の[[オペラハウス (競走馬)|オペラハウス]]と同様に障害戦で活躍馬を出しており、竹園の自家生産馬である[[テイエムトッパズレ]]が[[京都ジャンプステークス]]を制して中央競馬での初重賞制覇を達成、[[テイエムエース]]も[[東京ハイジャンプ]]を勝った。平地では2013年2月現在中央競馬の重賞を制した馬はいないものの、オープンクラスのレースは2008年にダイナミックグロウが阿蘇ステークスで初勝利を挙げた。地方競馬でも、バグパイプウィンドが[[金盃]]を制するなど、活躍をみせている。なお、これまでのリーディングサイアーランキング(日本総合)では、2008年の37位が最高である(2012年終了現在)。


アナウンサーの[[杉本清]]は「相当、強い馬には違いないのですが、走っても走っても、勝っても勝っても強いという印象を与えない、不思議な馬」であるとし、その理由として「"相手をねじ伏せる"というような競馬をするタイプではない」、「馬体から迫力を感じる馬ではない」という2点を挙げている。その上で「結果が示しているように、この馬はたしかに強いのです。レースぶりを見て感じるのは、"本当の芯の強さ"がある馬だということです。ねじ伏せる強さはないけれど、どんな展開にも対応できるし、気が付けば勝っているという、見たイメージとは裏腹の、そんな強さを持った馬だと思います」と評している<ref>杉本(2001)p.168</ref>。
産駒の特徴としては仕上がりに時間がかかり、4歳以降に本格化する傾向が挙げられる。また、テイエムオペラオー自身は芝の中長距離で活躍した馬であるが、産駒は、短距離、ダート、障害といった父とは違う条件を得意とする馬も多い。特に障害戦では[[テイエムエース]]や[[テイエムトッパズレ]]など本馬の父オペラハウス同様活躍馬を送り出している。


着差をつけずに渋太く勝つというスタイルは、往年の五冠馬[[シンザン]]に擬せられ、有馬記念の優勝時には「平成の[[シンザン]]」という声もあった<ref name="yu0102-4">『優駿』2001年2月号、pp.10-13</ref>。ステイゴールドの管理調教師・[[池江泰郎]]はテイエムオペラオーを評して「勝負を知っている馬ですね。ゴールがどこにあるかわかっている感じがします。それを示すように接戦のレースが多い。ゴール前ちょっとでも、頭でもクビでもスッと抜け出すのが一番強い馬なんですよ。シンザンもそうでしたから」と述べ<ref name="yu0111">『優駿』2001年11月号、pp.10-11</ref>、またライターの[[江面弘也]]は「テイエムオペラオーのレースは地味だった。レコードも大差勝ちもいらない、ハナ差でも勝ちは勝ち、という『シンザンタイプ』の馬だった」としている<ref>『ニッポンの名馬 - プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』p.43</ref>。2000年のシーズンは傑出した成績を残しながら、同じ顔触れの2着馬との着差がなかったことでレーティング面では高い数値にならなかったが、選考の席上では「シンザンもおそらく高いレーティングがつく馬ではなかっただろう」と話題に上ったという<ref name="yu0102">『優駿』2001年2月号、pp.27-34</ref>。
なお、オーナーである竹園が[[鹿児島県]][[垂水市]]で牧場([[テイエム牧場]])を経営していることから産駒には[[九州産馬]]も多く(種付けは北海道で行っている)、初めて中央競馬の重賞を制したテイエムトッパズレも九州産馬であった。また、テイエムトッパズレが勝利した九州産馬限定新馬戦では、2着と3着にもテイエムオペラオー産駒が入線し、話題となった。


=== レーティングによる評価 ===
=== 主な産駒 ===
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px"
*2003年産
! colspan="6" |2001年から過去5年間の年度最高レート(芝)
**[[テイエムトッパズレ]]([[東京ハイジャンプ]]-JGII、[[京都ハイジャンプ]]-JGII、[[京都ジャンプステークス]]-JGIII)
|-
**[[テイエムエース]](東京ハイジャンプ-JGII)
!年
**カゼノコウテイ([[瑞穂賞]])
!馬名
**テイエムハエドー([[肥後の国グランプリ]])
!区分(m)
**タカオセンチュリー([[アフター5スター賞]])
!値([[ポンド (質量)|pds]])
*2004年産
!出典
**テイエムジカッド ([[たんぽぽ賞]]、[[霧島賞]]) 
|-
**ダイナミックグロウ([[姫山菊花賞]]、[[摂津盃]]、阿蘇ステークス)
|1997
**バグパイプウィンド([[金盃]])
|[[バブルガムフェロー]]
**テイエムヨカドー([[東京シンデレラマイル]]、霧島賞、[[クイーン賞]]-JpnIII 2着)
|L(2200-2799)
|121
|rowspan="5"|<ref name="yu0202-4" />
|-
|1998
|[[サイレンススズカ]]<br />[[タイキシャトル]]
|M(1400-1899)
|122
|-
|1999
|[[エルコンドルパサー]]
|L(2200-2799)
|134
|-
|2000
|'''テイエムオペラオー'''
|L(2200-2799)
|122
|-
|2001
|[[エイシンプレストン]]<br />[[ジャングルポケット]]
|M(1400-1899)<br />L(2200-2799)
|123
|}
テイエムオペラオーのレーティングによる最高数値は、2000年と2001年のジャパンカップで記録したL(Long)コラム122となった。2000年においては年度の日本調教馬全体の最高数値となったが、過去の数値と比較した場合、フランス遠征のなかで日本調教馬として歴代最高数値を得た[[エルコンドルパサー]]の134、日本国内においても前年スペシャルウィークの123を下回っており、決して低くはないものの突出して高いものでもなかった。『優駿』は「GI5勝今季無敗のテイエムだけに、全体に評価が低いのではないか、と感じる方は少なくないように思う」とし、その選考過程を詳説した<ref name="yu0102" />。


まずジャパンカップにおけるレート決定にあたり、「基準馬」とされたのは安定性の高い能力をもつファンタスティックライトであった。日本のハンデキャッパーは当初、同馬がキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの2着で得ていた「124」の数値を基準として、その馬に勝利したこと、さらに「テイエムオペラオーが今季に残した着差以上のパフォーマンスをプラスαとして加味したい」という考えから、「125」のレートを提案していた。しかし他の各国ハンデキャッパーから「スローペースからの上がり勝負となったジャパンカップの展開で、後方から差し切ることができなかったファンタスティックライトがトップパフォーマンスを示したとは考えられない」と異論が上がり、マンノウォーステークスで得ていた120ポンドが基準値とされ、着差を2ポンド分として加えた122ポンドがテイエムオペラオーの数値とされた<ref name="yu0102" />。『優駿』は「テイエムオペラオーが残した実績は、空前にしておそらく絶後ともなり得るものである。多くの称賛をもって讃えられるべき歴史的名馬であるといえる。だがまた、競走能力を指数化したレーティングは積み重ねた記録とは別物であるということだ」と、この解説を結んだ<ref name="yu0102" />。
*2006年産
**テイエムヒッカテ([[門松賞]])
*2009年産
**テイエムハエンカゼ(霧島賞、たんぽぽ賞)
*2011年産
**テイエムゲッタドン(霧島賞)
**テイエムキュウコー([[ひまわり賞_(小倉競馬)|ひまわり賞]])
*2013年産
**テイエムマケンゲナ(すみれ賞)
*2014年産
**テイエムヒッタマゲ(昇竜ステークス)
*2018年産
**テイエムサツマオー([[飛燕賞]])


JRA審判部首席ハンデキャップ役の甲佐勇と古橋明は、当時まだ新しい指標であった国際的な「クラシフィケーション(レーティング)」と、かつて日本で評価指標となっていた「フリーハンデ」の違いを問われ、「クラシフィケーションは1レースごとの評価なんです。各国のハンデキャッパーがレースを見て、こっちは何[[ポンド (質量)|ポンド]]、あっちは何ポンドと決めていきます。<small>''(中略)''</small>一方、フリーハンデはタイトル数や通年の活躍ぶりを評価して付けていた部分がありました。シンザンやシンボリルドルフのように、連勝してGIを数多く勝つと高くなるわけです。テイエムオペラオーもフリーハンデならもっと高くなったはずです。でも1レースごとの評価だと、そうはいかない。クラシフィケーションでは、他の馬との着差がポンド差に反映されるんです。だから、いつも僅差で勝つテイエムオペラオーはなかなか高くならないんですよ」と解説し、また同時に「ファンタスティックライトを負かしたテイエムオペラオーの強さというのは、海外へ行っていなくても認識されていますし。ただアウェーに行って活躍してもらわないと、なかなかクラシフィケーションには反映されないのは事実ですね」とレート決定の内実を語っている<ref>『優駿』2001年11月号、pp.80-81</ref>。
== エピソード ==
; 主戦騎手の和田竜二について
:一流馬にはリーディング上位の騎手を騎乗させる傾向の強い現代競馬だが、テイエムオペラオーは最初に騎乗した[[和田竜二]]が引退までの全レースの手綱を取り続けた。和田はテイエムオペラオーでGI初勝利を挙げ、当時和田が所属していた岩元厩舎にとっても初のGI制覇であった。
:一度、[[菊花賞]]の敗北に激怒した[[竹園正繼]]オーナーが岩元調教師に鞍上変更を迫ったことがあったが、岩元は和田を主戦騎手から降ろすことには一貫して反対の立場を取っていた。両者の話し合いの場で、岩元は竹園に対して「どうしても(乗り代わりを要求する)と言うなら、転厩して頂くしかありません」と説得した結果、竹園は鞍上変更の要求を取り下げ、岩元は和田の騎乗を続行させることに成功した<ref group=注釈>類似の事例が1985年に[[シリウスシンボリ]]の当時の主戦騎手における騎乗方法に不信感を覚えたオーナーの[[和田共弘]]と同馬の管理をしていた調教師の[[二本柳俊夫]]との間でも発生したが、こちらは話し合いに失敗し、さらにオーナー側が調教師側の方針と態度に対して激怒した結果、わずか1週間ながらも別の厩舎に転厩する事態となり、その転厩中にも厩務員組合や調教師会を巻き込んでの騒動となった(同馬はこの騒動が原因で1週間後に元の厩舎に戻ることとなったが、元の厩舎に復帰後は騒動は鎮静化したものの、この影響で同馬は予定していた皐月賞への出走ができなくなるなど、出走スケジュールが大きく狂った)。</ref>。
:[[野平祐二]]は、「テイエムオペラオーは三冠を獲れる器で、古馬になってからももっと楽に勝てたはず」と和田の騎乗技術を批判していた。
:テイエムオペラオーの引退式で和田は「オペラオーにはたくさんの物を貰ったが、あの馬には何も返せなかった。これからは一流の騎手になって、オペラオーに認められるようになりたい」と話している。
:その後、和田は関西の中堅騎手として幾多の重賞を制覇するもGⅠ競走では一歩及ばず勝利を挙げられない日々が続いたが、オペラオーの死から約1カ月半後の[[2018年]][[6月24日]]に行われた第59回[[宝塚記念]]を[[ミッキーロケット]]で制し、2001年の第123回天皇賞(春)以来、17年ぶりに中央GⅠ競走での勝利を挙げた。レース後の勝利騎手インタビューでは「オペラオーが背中を押してくれた」と感極まった様子で語った<ref>{{Cite news |url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20180624/ope18062415500006-n1.html |title=【宝塚記念】ミッキーロケットがV!和田騎手はオペラオー以来17年ぶりのJRA・G1制覇 |newspaper=サンスポ |date=2018-06-24 |accessdate=2018-06-24}}</ref>。
; ジンクス
:ジンクスに強い馬であった。[[2000年]][[天皇賞(秋)]]での勝利によって、[[1988年]]の[[オグリキャップ]]以来続いていた同レースでの1番人気の連敗記録を12で止め、また、[[2000年]][[ジャパンカップ]]での勝利によって、[[1986年]]の[[サクラユタカオー]]以来続いていた同レースでの1番人気の連敗記録を14で止めた。[[岡部幸雄]]は「本当に強い馬にはジンクスなんて関係ない」とレース後に語っている。
; メイショウドトウ
:2000年の天皇賞(春)から2001年の宝塚記念までの芝中長距離路線で、GIレースの1着2着がテイエムオペラオー世代の馬によって独占(うち3レースでは3着まで独占)される状態が続いた。そのうちの2000年の宝塚記念から2001年の宝塚記念までの6レースにおいて、テイエムオペラオーと[[メイショウドトウ]]が1着2着に並んで入線している。2001年の天皇賞(秋)と有馬記念においてもテイエムオペラオーとメイショウドトウは隣同士の着順となっている。2001年の宝塚記念と有馬記念はメイショウドトウが先着している。この2頭は引退レースとなった2001年の有馬記念で初めて同枠に入った。


=== 大衆的人気の低さ ===
== 血統 ==
{{Quotation|テイエムオペラオーは、勝っても勝っても人気が出なかった。成績でははるかに下のナリタトップロードなどの方がファンの声援を集めることも少なくなかった。デビューから引退までテイエムオペラオーの手綱を取りつづけた和田竜二は、この不条理にがまんがならず、あるトークショーの席で『どうしてぼくの馬には人気がないんですか』とファンに問いかけたこともあった。|阿部珠樹『優駿』2004年3月号「記憶に残る名馬たち - 年代別代表馬BEST10」<ref name="yu0403">『優駿』2004年3月号、pp.30-31</ref>}}
=== 血統背景 ===
競走馬時代のテイエムオペラオーは、しばしば「人気がなかった」とされる。和田自身、テイエムオペラオーの人気(大衆的人気)の低さについては「日本人の[[判官贔屓|判官びいき]]っていうのを感じさせられましたね。きっと外国だったら、勝てば勝つほど人気が上がり、すごいアイドルホースになっていたでしょう。でも日本じゃ、勝つだけでは強い印象を与えられないんですね」との感想を述べている<ref name="doudou"/>。
近年の高速馬場化やレース体系の短距離化の進む日本競馬界においてはあまり例のない欧州型の血統である。


[[河村清明]]は2000年のテイエムオペラオーの戦績を取り上げて「まさに非の打ち所のない活躍を見せた。1年を通じて、同馬の好調をキープした陣営の手腕は見事だったし、また接戦を必ずものにした勝負強さは稀有なものだったと評価できる」としながらも、「巷間言われるように、テイエムオペラオーには人気がなかった。本来であれば、『どこまで勝ち続けるのか』といった期待がファンに醸成されるはずなのに、そういった気配は感じられず」と続け、その理由として、テイエムオペラオーが連勝中の各競走がどれも似通った展開だったこと、代表的なライバルだったナリタトップロード、メイショウドトウの騎乗に「何の工夫もなく、歯がゆく映って仕方なかった」こと、さらに両馬とテイエムオペラオーの力関係が「展開ひとつで着順の変わる力関係であったのはおよそ間違いなく、''(中略)''テイエムオペラオーを含めた上位の馬たちは、本当に強いのかと、ファンは信じることができなかったのだ」と論じた<ref name="kawa">河村(2003)pp.326-327</ref>。河村はまた、2001年のテイエムオペラオーが新世代の馬たちに敗れ続けた事実をもって、「むろん加齢による能力の衰えは考えられる」としつつも、「オペラオーが絶対的存在でなかったのは間違いなく、ファンはそれを00年の時点で見抜いていたのだ。あの馬の人気のなさは、ファンの眼力の向上を如実に証明していたと私は信じている」と結んでいる<ref name="kawa" />。また[[吉田均]]も、テイエムオペラオーが勝ったレースの2着馬が「つねにメイショウドトウ、ほかでもナリタトップロードとラスカルスズカ」とバリエーションに乏しいことを取り上げ、「グラスワンダーとスペシャルウィークがいて2000年を勝ち続けていたら凄いと思うし、スター性もあったと思う。本当にスター性がないよね」と評した<ref name="名前なし-1">『臨時増刊号 Gallop2000』pp.11-17</ref>。
父オペラハウスは[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ]]の勝ち馬、母父は[[ブラッシンググルーム]](自身は短距離馬であるものの、[[凱旋門賞]]を繰り上がり勝ちする[[レインボウクエスト]]などクラシックディスタンスに対応する産駒も輩出)と、一見欧州のクラシックディスタンスに向いた血統に見える。


競馬評論家の[[井崎脩五郎]]はテイエムオペラオーの競走生活を総括し「ぼくが一番強いと思っているスペシャルウィーク世代にはオペラオーはかなわなかったと思うな。あの世代が根こそぎいなくなったし、海外の方が日本より景気がよくなって一流馬が日本に来なくなった時期とも重なるんだもの。ひとつ上は強いけど、ひとつ下はすごく弱いんだもの」と述べ、一年下の世代ではテイエムオペラオーを破ったアグネスデジタルだけが強かったとし、「テイエムオペラオーはいちばんいいとこで勝っている」とした<ref name="gallo01">『臨時増刊号 Gallop2001』p.11</ref>。それを受けて、キャスターの[[鈴木淑子]]が「シンボリルドルフを超える馬かというと『?マーク』がつくのは、めぐり合わせがよくて勝てていると思われているからですか」と問うと「みんなが納得しないのは、それがあるからだろうね」と述べ、同時にファンからの人気が乏しい理由もそこに関係するのではないかとした<ref name="gallo01" />。
しかし、母方の近親には[[コジーン]](BCマイル勝ち)及び[[ドバイミレニアム]](ダービーは距離が長く敗れている)がいる上、[[ナスルーラ]]のインブリードを持つ母ワンスウェドの産駒には距離適性の幅が狭い短距離型が多く、姉のチャンネルフォー([[1992年]][[CBC賞]]2着他)は4勝全てを1400m以下で挙げている。


[[柴田政人]]は人気に乏しい要因を「毛色にもよるんじゃないか」と推測し、これを受けた[[野平祐二]]は「テイエムオペラオーは栗毛でもちょっと色の濃い、栃かかった(栃栗毛に近い)色なんです。グッドルッキングホースというのは結構いるんですよ。それはそれなりに走るんですが、グッドホースになると違うんです。見た目は称賛されなくても競馬にいくと強い馬をそういうんです。テイエムオペラオーは、まさにグッドホースですよね」と称えつつも、「色(の影響)はある」とした<ref name="名前なし-1" />。
そのような背景を持つワンスウェドにオペラハウスを交配する事により、スタミナ補強を図った血統である。

江面弘也は「勝ち方が地味だとか、名前が悪いとか、あるいは負かした相手が弱すぎるだとか、アンチオペラオーの言い分はさまざまだが、若いファンやマスコミが飛びつく血統や話題性がないのが最大の理由だと私は思っている。たとえば武豊が乗る有力厩舎のサンデーサイレンス産駒だったならば、ずいぶんと状況が違ったはずだ」としている<ref name="turf00-2">『優駿増刊号 TURF HERO 2000』pp.132</ref>。[[須田鷹雄]]は、テイエムオペラオーを支持するファンが「競馬場にはいるのかもしれないけれど、競馬マスコミとか、それを読むファンは支持していないのかもしれませんね。競馬メディアが増えてきて、ひねった見方を提示しなければいけないという考えが固定化し、浸透しすぎてしまった感じもありますから」との見解を示し、これを受けた[[柏木集保]]は「それはある意味真理でしょうね」と応じている<ref name="turf00">『優駿増刊号 TURF HERO 2000』pp.137-140</ref>。阿部珠樹は「血統はサンデーサイレンスとは無縁だった。自厩舎の若い騎手が最後まで手綱を取りつづけた。春も秋も、2000メートル以上のGIにはすべて出走した。しかも2シーズンつづけて。そして国内最強を謳われながら、海外遠征のそぶりも見せなかった。時代の傾向とことごとく反する中で、名馬としての地位を固めていった。それがテイエムオペラオーである」と評し、「アイドル的人気のなさ、反時代的孤立は、むしろ、この馬の勲章といえるのではないか」、「この馬の評価は、10年、20年経って高まるのではないか」とした<ref name="yu0403" />。

=== なぜ国外遠征をしなかったのか ===
[[ファイル:El Condor Pasa 19991128I1.jpg|サムネイル|エルコンドルパサー。スペシャルウィーク、グラスワンダーの同期馬であり、フランスでサンクルー大賞に勝利したほか、凱旋門賞2着などの成績を残した。]]
伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』の著者・木村浚太は、同書あとがきの冒頭で「私は常々、テイエムオペラオーに対する世間の評価の低さが不思議でなりませんでした」と書き出し、その「評価の低さ」を生んだ最大の理由を「"ひとり[[横綱]]"だったことと、海外遠征を断念(あるいは拒否)したことによる」とし、これがため「最後の最後まで『テイエムオペラオーは強い相手に勝っていない』と言われ続けてしまった」と論じている<ref name="kimu ato">木村(2002)pp.256-259</ref>。

1999年にフランスで活躍した[[エルコンドルパサー]]など、当時は日本調教馬が従来敗退を続けてきたヨーロッパで勝利を挙げる例が相次いでおり、テイエムオペラオーに対してもファンやマスメディアは遠征を希望する声をあげていた<ref name="kimu14" />。著名な競馬関係者にあっても、たとえば[[社台ファーム]]代表の[[吉田照哉]]は「テイエムオペラオーの実力は世界最高峰のレベルにある」と評価したうえで、「あの馬なら[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ]]なんて最適の馬場ですから、まず勝てると思うのですが。テイエムオペラオーの種牡馬としての価値を考えても、これ以上日本のレースを勝っても変わりませんが、キングジョージを勝てば世界的な評価が変わってくるはずです。日本の競馬を盛り上げるために国内で走らせるということですが、まずは内国産馬が海外でGIレースを勝って、日本の競馬レベルが本当に欧米と肩を並べたいうことをファンに示すことも、競馬を盛り上げるのに必要なことだと思うのですが」と遠征をしないことへの疑問を呈し<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑2000-2001』p.63</ref>、また野平祐二は「できることなら、"キングジョージ"、[[凱旋門賞]]、[[ブリーダーズカップ・ターフ]]のなかの、どれか一つでもいいから、ぜひ走らせてみてほしいと思います。それは、テイエムオペラオーなら当然勝負になるという考えがあるのはもちろん、海外へ遠征することによって、関係者がこれから国内で戦う限り感じざるを得ない大きなプレッシャーから解放されるのではないかという思いもあってのことなのです」と述べた<ref name="yu0101" />。

中には、「日本の競馬ファンのひとりとして、テイエムオペラオーの1勝をファンに貸していただきたいと、オーナーの竹園正繼氏に失礼を承知でお願いしたい」(江面弘也<ref name="turf00-2" />)、「人気の馬を持ったら公人になって、自分の馬ではなく日本の馬、ファンの馬というようなお考えで、ファンの期待に応えていただきたいとも思います」(鈴木淑子<ref name="名前なし-1" />)などと、はっきりと竹園に向けて遠征を促すメッセージを送る者もあったが、テイエムオペラオーが遠征に出なかったことは、竹園よりも調教師である岩元の意向が大きかった<ref name="kimu14" />。岩元には巷間にあった欧米の競馬を無条件に日本競馬よりも上位とする見方への反感があり、欧米の強豪と戦いたいならばジャパンカップがあり、そもそも同競走はそのために創設されたはずだという意識もあった<ref name="kimu14" />。また、2000年には欧州で[[口蹄疫]]が流行し、[[検疫]]が厳しくなっていた状況もあり、そうしたなかで岩元厩舎に遠征のノウハウもない以上、テイエムオペラオーほどの馬を最初のケースにするのはリスクが大きすぎるという判断があった<ref name="kimu16">木村(2002)pp.178-187</ref>。かつて岩元が心酔していたシンボリルドルフが、アメリカ遠征で怪我を負い引退に追い込まれたという出来事も頭にあったという<ref name="kimu16" />。竹園も基本的には岩元の考えに同意していたが、遠征を望む声が大きく高まれば行っても良いという程度の考えはあり<ref name="kimu14" />、実際に2001年の天皇賞(春)を勝った後には「宝塚記念を勝てば遠征も視野に」という見解を示していたが、敗れたことで幻に終わった。一方この天皇賞後のインタビューでも、岩元は「海外遠征ですが、私はあまり興味がありません」と話していた<ref name="yu0106-2" />。

なお、2000年から2001年にかけて欧米で継続的に騎乗していた[[武豊]]によれば、2001年春にステイゴールドがアラブ首長国連邦の[[ドバイシーマクラシック]](G2。当時)を制したあと、「ステイゴールドを何度も負かしている『ティーエムオペラ』という馬は強いのか」と、外国でもしばしば話題に上っていたという<ref name="yu0107" />。

=== 雨とテイエムオペラオー ===
テイエムオペラオーが出走する競走当日は、天気が崩れる例が目立った。テイエムオペラオーは重馬場巧者であり、原口政也は2000年の天皇賞(秋)における心境を語るなかで「オペラオーが走るときは、なぜか雨が降る。オペラオーにとって雨は喜ばしい。芝が重くなって時計がかかっても大丈夫だし、一発が怖い『切れる』馬は、脚が鈍る。天候さえもオペラオーの味方についてくれて、心強い」と述べている<ref name="meiba0001" />。一方、石田敏徳は「この馬が走るときは不思議に崩れることの多い天候を指して『最強馬ではなく最強運馬だ』などと憎まれ口を叩く者もいる」と紹介したうえで、「中距離の高速戦に対する適性を証明する舞台に、テイエムオペラオーが恵まれてこなかったことは、彼ら''<small>(注:テイエムオペラオー陣営)</small>''にとってこそ実は"不運"だったかもしれないとは書いておきたい」と取材記で述べている<ref name="yu0112-2" />。

=== 投票企画などの結果 ===
{| class="wikitable"
!年度!!企画者!!企画!!順位||出典
|-
|rowspan="2"|2000年||日本中央競馬会||20世紀の名馬大投票||第27位||<ref>『優駿』2000年10月号、p.29</ref>
|-
||優駿(日本中央競馬会)||プロの目で厳選した20世紀のベストホース100||選出||<ref>『優駿』2000年11月号、p.30</ref>
|-
||2004年||rowspan="2"|優駿(日本中央競馬会)||年代別代表馬BEST10(2000年代)||第1位||<ref name="yu0403" />
|-
|rowspan="2"|2010年||未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち||第10位||<ref>『優駿』2010年8月号、p.30</ref>
|-
||[[AERA]]([[朝日新聞社]])||競馬のプロが選ぶニッポンの名馬ベスト10||第20位||<ref>『ニッポンの名馬 - プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』p.19 </ref>
|-
||2015年||rowspan="2"|優駿(日本中央競馬会)||未来に語り継ぎたい名馬BEST100||第11位||<ref>『優駿』2015年3月号、p.38</ref>
|-
||2021年||新世紀の名馬ベスト100||第8位||<ref name="yu2108" />
|}

上記のうち、識者投票の形であった「年代別代表馬BEST10」の企画では、5人の選者全員がテイエムオペラオーに1位票を投じた。その中で須田鷹雄は「2000年のレースぶりは『単に強いというだけでも、ここまで強ければそれだけで十分価値になる』とでもいうべきものだった。ただ、こういうタイプが何十年後にも強い印象を残しているかどうかは微妙<ref name="yu0403" />」と述べたが、2021年に行われ、テイエムオペラオーの全盛期からは外れる2001年以降に活躍した馬を対象とした「新世紀の名馬BEST100」の投票で8位にランクインし、三好達彦は「『世紀末覇王』の呼び名さえ聞こえてきたのは20世紀最後の年、2000年のことだった。それにもかかわらず、今回のランキングでベスト10に食い込んだところに、テイエムオペラオーが残した蹄跡の深さをあらためて感じ入った」と評した<ref name="yu2108" />。この企画の講評会では須田と若年ファン代表の[[津田麻莉奈]]が対談し、テイエムオペラオーの順位に触れて津田が「2000年のインパクトが相当だったということですね」と述べ、須田が「8戦8勝でGI5勝だもの」と応じている<ref>『優駿』2021年8月号、p.76</ref>。

== 各関係者について ==
テイエムオペラオー陣営は、馬主・竹園正繼と調教師・岩元市三の間の関係性、そして岩元の師である[[布施正]]を介した、当時すでに旧来的といわれた人間関係による結びつきを特徴とした。野平祐二は、牧場からの馬の購入ひとつをとっても「いまは古いつながりを持っていてもお構いなしに外国に行って高くていい馬を買ってきちゃう時代」、騎手起用については「乗り替わりのほうが日常茶飯事」、馬主と調教師の関係性では「高い馬を買ってくれるオーナーがいれば、どこへでもついて行って自分のところにいい馬を入れるような時代」と指摘し、そうした時代の傾向からことごとく反した関係性の中から生まれたテイエムオペラオーを「神の思し召し以外のなにものでもない」、「よくぞやった。よくぞ出てきたもんだ」と称賛した<ref name="名前なし-1" />。また石田敏徳は「人馬の巡り合わせとは本当に不思議なもので、もし岩元と竹園の邂逅がなければ、テイエムオペラオーは全く異なる馬生を歩んでいたに違いない。もっと完璧な王道を歩んでいただろうか。あるいは海外へ雄飛していただろうか。だがどんな想像を働かせてみても、岩元の"チーム"に所属するよりさらに魅力的なテイエムオペラオーを、私にはどうしてもイメージすることができないのだ」と述べた<ref name="meiba" />。

;竹園正繼と岩元市三
馬主の竹園正繼と調教師の岩元市三はいずれも[[鹿児島県]][[肝属郡]][[垂水町]](後の[[垂水市]])出身で、幼馴染であった<ref name="kimu20">木村(2002)pp.8-16</ref>。年齢では1つ、学年では2つ竹園の方が上で<ref name="yu0102-2" />、竹園は子供たちのグループのボス的存在で岩元は「配下」のような立ち位置にあったが<ref name="meiba" />、ともに母子家庭で互いの母親同士の仲も良く、竹園は仲間内でも岩元に対して特に親身で、「体の鍛錬」として相撲を取ったり海岸線をランニングしていたりしたという<ref name="kimu20" />。

岩元は中学校卒業後に垂水を離れて大阪の花屋に就職し、地元の仲間とは縁遠くなった<ref name="kimu20" />。のち店主に誘われて訪れた競馬場で騎手の姿に憧れ、鹿児島県出身騎手の山下一男が所属する[[布施正]]厩舎に入門。1974年に26歳という騎手としては遅い年齢でデビューした<ref name="kimu20" />。一方の竹園は高校卒業後に上京し、建築会社に就職<ref name="kimu20" />。上京後に趣味として競馬にのめりこみ、毎週のように競馬場へ通うようになったが、やがて事業者として独立を目指すため競馬を断ち、1976年に建築資材を扱う会社「テイエム技研」を設立した<ref name="kimu21">木村(2002)pp.17-22</ref>。1982年、岩元は騎乗馬[[バンブーアトラス]]で日本ダービーに優勝する。会社のテレビで見るともなくこの競走を観戦していた竹園は、勝利騎手インタビューで画面に大写しになった岩元の姿に非常に驚き、同時に「馬主として岩元に再会したい」と思い立つ<ref name="kimu21" />。そして1987年に馬主資格を取得すると、直後に赴いた[[小倉競馬場]]の検量室で両者は20数年ぶりに再会した。このとき岩元は竹園に「大きくなったなあ」と声を掛けたという<ref name="kimu21" />。その後、竹園は岩元を自身の所有馬の騎手として起用をはじめる。岩元の騎手として引退レースの騎乗馬も竹園の所有馬であった<ref name="kimu22">木村(2002)pp.23-25</ref>。そして岩元が騎手を引退し、調教師に転身してからは2人で馬産地を回るようになり、そこで見出されたのが後のテイエムオペラオーであった。

なお、竹園は自らテイエムオペラオーを選んだように相馬眼の確かさを謳われるようになるが、竹園に馬の見方を教えたのは布施であった<ref name="kimu22" />。テイエムオペラオーの競走馬時代には、同馬のほかにGI競走3勝の[[テイエムオーシャン]]がおり、2000年には11月26日のジャパンカップをオペラオー、12月3日の阪神3歳牝馬ステークスをオーシャンで連勝し、史上2例、個人馬主では初となる同一馬主による2週連続GI制覇を達成<ref name="0102-7" />。また、11月11日には[[京都ハイジャンプ]](J・GII)をテイエムダイオー、[[京王杯2歳ステークス|京王杯3歳ステークス]](GII)をテイエムサウスポーが制し、これも史上2例目の同一馬主による1日2重賞勝利を達成した<ref>『優駿』2001年1月号、p.144</ref>。同年の高額賞金獲得馬ランキングでは、全馬総合でテイエムオペラオー、3(2)歳部門でテイエムサウスポーが1位となった<ref>『優駿』2001年2月号、p.139</ref>。この時期の竹園所有馬の勢いは「テイエム旋風<ref name="yu0102-2" />」とも評された。

;和田竜二
全戦で手綱をとった[[和田竜二]]は1999年時点でデビュー3年目の若手騎手であった。同期生に[[福永祐一]]らがおり、和田も含めて[[競馬学校花の12期生]]ともいわれたが、馬の能力に対して和田は技量不足を指摘されることもあった。テイエムオペラオー引退の翌年に行われたインタビューでは、「あのクラスの馬に乗る騎手としては、経験も力量も自分には不足していたのかな、と思うことがあります。うわべは平静を装っていても、実際はついていくのに一杯一杯でしたからね」とその心境を吐露している<ref name="meiba" />。竹園は和田に対して「何回もビッシリと説教した」といい、また岩元について「物凄く真面目で努力家でもある岩元は、安心して物事を任せられる人物ですが、人柄がよすぎて、あまりキツいことを言えないところもあるんです。だからそのかわりに僕が言うことにした」と述べている<ref name="yu0008" />。なお、菊花賞後に竹園が和田の降板を求めた際に岩元は頑としてこれを容れなかったが、この出来事は岩元自身が騎手だった時代、敗戦後に馬主が「次のレースでは別の騎手を」と布施に迫ったとき、布施が「それでは、どうぞあの馬、今すぐ別の厩舎に持っていってください」と岩元を庇っていた<ref name="kimu20" />、その恩義を守らなければならないという意識も念頭にあった<ref name="kimu10" />。

テイエムオペラオーで勝ち続けていた最中の勝利騎手インタビューでは、「シャーッ」という雄叫びや<ref name="doudou" />、[[プロレスラー]]・[[アントニオ猪木]]を模した「1、2、3、ダー!」というパフォーマンスを行っていたことでも知られた<ref>{{Cite web|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/831166|title=オペラオー以来、17年ぶりのGI勝利。宝塚記念は和田竜二を大きくする。|publisher=Number Web|writer=島田明宏|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201027190216/https://number.bunshun.jp/articles/-/831166|archivedate=2020年10月27日|date=2018年6月25日|accessdate=2022年10月22日}}</ref>。ライターの[[山河拓也]]は投票企画でテイエムオペラオーに1位票を投じた際に「鞍上は『しゃあー』とか『ダー』とか叫んでいたが」と書いているが<ref name="yu0403" />、和田のこうした行動の背景には、「もっとテイエムオペラオーを評価して、人気を高めてほしい」という考えもあったという<ref name="doudou" />。

その後、和田は北海道で騎乗する機会に合わせてテイエムオペラオーと一度だけ牧場で対面したが、自身の中で「ラストランの有馬記念を勝利で締め括れなかった」という悔いも強くあり、「もう一度GIに勝って一人前の騎手になり、胸を張って会いに行きたい」との考えから、それ以降はテイエムオペラオーのもとを訪れることはなくなった<ref name="yu1808">『優駿』2018年8月号、pp.74-79</ref>。しかし以降の和田は勝利数やGII以下の重賞では一定の成績を残したものの、GI勝利に手が届かず、再び対面することは叶わないまま2018年5月にテイエムオペラオーは心臓まひで急死する。この時は和田の妻も「(GI勝ちの報告が)間に合わなかったね」と話したという<ref name="yu1808" />。翌週に和田は牧場を訪れ、テイエムオペラオーの祭壇に花を手向けると共に、「どうにか春のうちに大きいところを勝ちたい」と決意、そして春のグランプリ・宝塚記念をミッキーロケットで制し、2001年の天皇賞(春)以来、17年ぶりのGI勝利を果たした<ref name="yu1808" />。競走後に和田は目を潤ませながら「テイエムオペラオーが後押ししてくれた」と語った<ref>『優駿』2018年8月号、p.66</ref>。

;原口政也
調教厩務員を務めた原口政也は、1999年4月に厩務員課程を修了し岩元厩舎に配属されたばかりで、引き継ぎで牝馬を担当していたものの、5月に入厩してきたテイエムオペラオーがデビュー前から担当する初めての馬であった<ref name="otsuka" />。高校卒業後は一時大学進学を目指したが何事も続かず、一念発起して厩務員を志し、育成牧場で4年の勤務を経て厩務員となっていた。大塚美奈による取材記では「トレセンに入れるだけでよかった」と何度も口にしたという<ref name="otsuka2" />。父親と弟も厩務員を務め、父は定年の65歳まで勤めあげたが、重賞勝利馬には縁がなかった<ref name="otsuka2">大塚(2002)pp.215-223</ref>。原口は「テイエムオペラオーは"ごほうび"の気がする。僕なりに闇が多かったから、光を当ててくれた気がする」と語っている<ref name="otsuka2" />。なお、後に原口は[[東京大賞典]]四連覇などの成績を挙げた[[オメガパフューム]]([[安田隆行]]厩舎を経て[[安田翔伍]]厩舎)も担当している<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/keiba/photonews/photonews_nsInc_202204170000608-4.html|title=現役続行初戦オメガパフュームが貫禄勝ち 別定59キロをものともせず/アンタレスS|publisher=日刊スポーツ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221022054947/https://www.nikkansports.com/keiba/photonews/photonews_nsInc_202204170000608-4.html|archivedate=2022年10月22日|date=2022年4月27日|accessdate=2022年10月22日}}</ref>。

;杵臼牧場
生産者の杵臼牧場は、テイエムオペラオーが皐月賞に優勝した時点で繋養牝馬数18頭<ref name="yu9908" />という中小規模の生産牧場であった。公には1959年創業だが、[[アラブ種|アラブ馬]]を飼養していた畑作農家からの転業で、正確にいつ頃から競走馬生産を始めたかはっきりしないという<ref name="yu9908" />。布施と1962年から付き合いがあり、中央競馬へ行く馬についてはほとんどが布施と繋がりのある厩舎に入っていた。牧場生産の重賞初勝利馬でテイエムオペラオー以前の代表馬であった[[キングラナーク]]<ref name="yu9908" />は布施厩舎に所属し、岩元の騎手としての重賞初勝利馬でもあった<ref name="kimu20" />。場主の鎌田信一が「雲の上の存在<ref name="yu9908" />」と話したGI競走を、テイエムオペラオーで一挙に7つ獲得することとなった。

なお、同場所在の[[浦河町|浦河]]地区は近隣牧場の結束が強く、2000年のジャパンカップ出走時には牧場仲間が杵臼牧場を訪れて「夫妻そろって観戦に行くべきだ」と進言、そうしたいと考えながらも小牧場ゆえに2人も欠ければ手が足りなくなると渋る鎌田に、仲間らは「(不在のあいだ)自分たちが牧場を手伝うから」と申し出て、夫妻を東京競馬場へ送り出したという。鎌田の妻にとっては初めての競馬場におけるレース観戦であり、また当日は独立して札幌や大阪で働いていた子供たちも呼び寄せ、家族揃っての応援であった<ref name="kimu16" />。

== 血統 ==
=== 血統背景 ===
祖父[[サドラーズウェルズ]]から連なる「[[サドラーズウェルズ系]]」は、スタミナ色が濃く「日本競馬に不向き」な血統との評もあるが、父オペラハウスはテイエムオペラオー以外にもGI競走4勝を挙げた[[メイショウサムソン]]など数々の活躍馬を輩出した。また、血統評論家の[[吉沢譲治]]は特に母の父[[ブラッシンググルーム]]と長距離血統の相性の良さに着目し、「すなわちブラッシンググルームの血は、自身のスピード、鋭い決め手を伝える一方で、配合相手から父系、母系に関わらずスタミナを引き出した」と論じ、テイエムオペラオーの鋭い脚はブラッシンググルームからもたらされたものだとしている<ref name="meiba" />(両親配合の経緯については[[テイエムオペラオー#生い立ち|#生い立ち]]を参照のこと)。


=== 血統表 ===
=== 血統表 ===
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
'''書籍'''
*『テイエムオペラオー―孤高の王者』(廣済堂出版)
*杉本清『これが夢にみた栄光のゴールだ - 名実況でつづる永遠の名馬たち』(日本文芸社、2001年)ISBN 978-4537250503
*週刊Gallopコーナー「名馬は一日にして成らず(1) -テイエムオペラオー列伝-」
*木村俊太『テイエムオペラオー - 孤高の王者』(廣済堂出版、2002年)ISBN 978-4331508893
*大塚美奈『馬と人、真実の物語』(アールズ出版、2002年)ISBN 978-4901226424
*河村清明『JRA ディープ・インサイド - 知られざる「競馬主催者」の素顔』(イースト・プレス、2003年)ISBN 978-4872573565
*『競馬名馬&名勝負年鑑 1999-2000』(宝島社、2000年)ISBN 978-4796694926
*『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』(宝島社、2001年)ISBN 978-4796621076
*『Gallop 2000 (週刊 Gallop 臨時増刊号) 』(産業経済新聞社、2000年)ASIN B00A15DAUQ
*『週刊Gallop臨時増刊号 JRA重賞年鑑2001』(産業経済新聞社、2000年)ASIN B00MEBBPIO
*『TURF HERO 2000(優駿2月号増刊)』(日本中央競馬会、2001年)
*『名馬物語 - The best selection (2) 』(エンターブレイン、2003年)ISBN 978-4757714977
*『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 978-4022744272
*『Number競馬ノンフィクション傑作選 名馬堂々。』(文藝春秋、2021年)ISBN 978-4160082571
*『優駿』(日本中央競馬会)各号


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2022年11月29日 (火) 00:00時点における版

テイエムオペラオー
1999年10月10日 京都競馬場
欧字表記 T.M. Opera O[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1]
生誕 1996年3月13日[1]
死没 2018年5月17日(22歳没)[1]
登録日 1998年6月11日
抹消日 2002年1月17日
オペラハウス[1]
ワンスウエド[1]
母の父 Blushing Groom[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 杵臼牧場[1]
馬主 竹園正繼[1]
調教師 岩元市三栗東[1]
厩務員 原口政也
競走成績
タイトル JRA賞年度代表馬(2000年)
最優秀4歳牡馬(1999年)
最優秀5歳以上牡馬(2000年)
顕彰馬(2004年選出)
生涯成績 26戦14勝[1]
獲得賞金 18億3518万9000円[1]
※日本調教馬歴代3位(2020年現在)
IC L122 / 2000年[2]
L122 / 2001年[3]
勝ち鞍
GI 皐月賞 1999年
GI 天皇賞(春) 2000年・2001年
GI 宝塚記念 2000年
GI 天皇賞(秋) 2000年
GI ジャパンC 2000年
GI 有馬記念 2000年
GII 京都記念 2000年
GII 阪神大賞典 2000年
GII 京都大賞典 2000年・2001年
GIII 毎日杯 1999年
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テイエムオペラオー(欧字名:T.M. Opera O1996年3月13日 - 2018年5月17日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1998年に中央競馬でデビュー。1999年のクラシック三冠戦線においてアドマイヤベガナリタトップロードと共に「三強」を形成し、三冠競走初戦・皐月賞を制するなどしてJRA賞最優秀4歳牡馬に選出。2000年には「一強」状態となってシーズンを踏破し、天皇賞(春)宝塚記念天皇賞(秋)ジャパンカップ有馬記念を含む年間8戦全勝、年間記録として史上最多のGI競走5勝という成績を挙げ、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に満票で選出された。2001年には天皇賞(春)を連覇してGI勝利数を当時最多タイ記録の「7」とし、同年末に競走馬を引退。和田竜二が全戦で騎乗し、通算26戦14勝。総獲得賞金額18億3518万9000円は、2017年まで世界最高記録であった[4][注釈 1]。20世紀末に活躍したことから、漫画『北斗の拳』の登場人物・ラオウになぞらえ「世紀末覇王」とも称された[5]。2004年に日本中央競馬会顕彰馬に選出。

経歴

生い立ち

1996年、北海道浦河郡浦河町の杵臼牧場に生まれる[6]。父・オペラハウスは競走馬時代にヨーロッパ各国と北米で走り、18戦8勝[7]。それぞれG1競走のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスエクリプスステークスコロネーションカップなどを制して1993年には全欧の古馬チャンピオンに選ばれ、1994年に種牡馬として日本に輸入された[7]。母ワンスウェドはアメリカ産馬で競走馬時代は不出走[7]。1987年に上場された繁殖牝馬セールにおいて、杵臼牧場主の鎌田信一に1万5000ドルで購買され、これも日本に輸入されていた[8]。ワンスウェドの父・ブラッシンググルームはこのセールから2年後の1989年にイギリス・アイルランドのリーディングサイアー(首位種牡馬)となるが、当時は日本での注目度はまだ低く[8]、鎌田はむしろその評価が定まっていないところに興味を抱いていた[9]

ワンスウェドの初年度産駒・チャンネルフォーは中央競馬で4勝を挙げてオープンクラスまで昇り、重賞でもCBC賞(GII)2着、阪急杯(GIII)3着などの実績を残した[7]。他にもワンスウェドの各産駒は堅実に勝ち上がったが、チャンネルフォーも含めて短距離傾向が強い特徴があった。鎌田はワンスウェドからより上のクラスで活躍する馬の誕生を期して、「距離の補強」が期待できる種牡馬を探し、選ばれたのが長距離実績のあったオペラハウスであった[9]

誕生した本馬を見た鎌田は、丈夫そうで馬体のバランスが良いと感じたものの、強い印象はもたなかった[6]。出生から10日ほどして、後にそれぞれ馬主、調教師となる竹園正繼岩元市三が牧場を訪れる。引き出された7頭ほどの中から、竹園は本馬をひと目で気に入り、購買を申し出る[6]。オペラハウス産駒には市場取引義務があり、競り市で落札する必要があることを鎌田が告げると、竹園は「絶対に俺が競り落とすから、この馬を他の人に見せちゃ駄目だよ。これは絶対オープンまで行くよ。重賞も取れるかもしれないよ」と話した[6]。竹園は後に「馬体を見た瞬間にいっぺんで惚れこみました。腰が大きく、骨がしっかりしていて、繋も柔らかい。自分なりのチェックポイントを全てクリアしていたうえ、なにか垢抜けた雰囲気があった。もちろんその時はこれほどの馬になるとは思わなかったけど、この馬なら故障の心配はないなと思ったことはよく覚えています」と、その印象を振り返っている[10]。岩元は「そんなに強烈な印象は受けなかった」としている[11]

竹園正繼(2010年) 岩元市三(2010年)
竹園正繼(2010年)
岩元市三(2010年)

1997年10月、静内で開かれた北海道10月市場に上場され、開始と同時に竹園がコールした1000万円で落札された[12]のち岩元と提携していた賀張共同育成センターで馴致・育成に入る。同センター代表の槇本一雄は、それまで本馬を見た各人と同様に馬体のバランスの良さを感じたが、当初は「中の上」という程度の評価を下していた[12]。若駒がみせるバランスの良さは、それ以上成長の余地がないことと表裏一体という危惧もあったためである[12]。しかし育成が進むにつれて、バランスの良さを保ったまま成長を続ける様子を見て評価を改め、岩元との連絡のたびに「この馬はすごく良い」と伝えるようになっていた[12]

1998年5月、競走馬名「テイエムオペラオー」と名付けられ、滋賀県・栗東トレーニングセンターの岩元厩舎に入る[13]。馬名は竹園が経営する会社名からとった冠名「テイエム」、父オペラハウスから「オペラ」、サラブレッドの王に、という願いを込めた「オー」の組み合わせである[13]。当初テイエムオペラオーにさほどの印象を持たなかった岩元も調教が進むにつれて動きの良さに期待を高め、特にデビュー戦前に行われた最終調教では、そのタイムの優秀さに「よその厩舎は知らないが、うちの厩舎ではこんな馬は見たことがない」と舌を巻いた[13][14]。一方、全戦で騎手を務めることになる当時3年目の和田竜二は「まあ普通の3歳馬っていう感じでしたね。名前そのまんまって……。まだGI級の馬になんか乗ったことがなかったんで、これがGI馬の乗り味か、なんてわからなかったしね」と振り返っている[15]。また、厩務員課程を修了し岩元厩舎に入ったばかりだった調教厩務員の原口政也も「印象は特に覚えていない」といい、同じオペラハウス産駒に前年の東京優駿(日本ダービー)で5着に入ったミツルリュウホウがいたことから、ベテランの調教助手から「あんちゃんの馬もミツルリュウホウぐらい走ってくれたらええな」と声を掛けられ、漠然と「そうなってくれればいいな」と思った程度だったという[16]

戦績

1998年・1999年

デビューから皐月賞制覇まで

和田竜二(2011年)

8月15日、京都競馬場で行われた3歳新馬戦(芝1600m)でデビュー。調教内容の良さもあり単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された[13]。しかし、スタートが切られると和田が絶えず手綱を押すなど追走に苦労する様子をみせ、最後の直線では2番人気のクラシックステージに突き離され、同馬から6馬身差の2着となった[13]。レース終了後には歩様に乱れがあったことから脚部のレントゲン撮影が行われ、右後肢下腿骨々折の診断が下された[13]。症状としては軽く、治療のため賀張共同育成センターに戻され休養に入る[13]。12月には帰厩し、翌年1月16日には2走目の4歳未勝利戦 (ダート1400m)に出走したが、休養明けの調整途上もあり4着となる[17]2月6日には市場取引馬抽せん馬限定の4歳未勝利戦(ダート1800m)に出走、単勝オッズ1.8倍の1番人となると、最後の直線で和田がほとんど追うこともないまま2着に5馬身差をつけて初勝利を挙げた[17]。2月27日に出走したゆきなやなぎ賞から芝コースのレースに戻り、最後の直線ではゴール前が一団となった中から4分の3馬身抜け出して勝利[18]。3月28日にはGIII競走の毎日杯で重賞に初出走、低調なメンバー構成とされた中でも3番人気の評価であったが、2着タガノブライアンに4馬身差をつけての重賞初勝利を挙げた[19]。当日は良馬場だったものの馬場は荒れており、そのうえで2着を4馬身突き離した脚力を、岩元、和田ともに称賛した[20]。これはオペラハウス産駒の重賞初勝利ともなった[20]

毎日杯の勝利で賞金を加算したテイエムオペラオーは、4歳クラシック三冠初戦・皐月賞への出走が獲得賞金上は可能となったが、ひとつの問題があった。初戦後に判明した骨折による休養から戻ってきた際、「皐月賞には間に合わない」と判断した岩元は、同競走への第2回登録を行っていなかったのである[21]。このためテイエムオペラオーは皐月賞への出走権をもたず、二冠目の日本ダービーから出走可能となっていた[22]。こうしたケースの救済措置として「追加登録」という制度が設けられていたが、通常の第2回登録費用が3万円であるのに対し、200万円と高額な費用を要した。毎日杯の好内容とテイエムオペラオーの更なる良化に岩元は見込み違いを反省し、竹園に皐月賞出走を掛け合う[23]。竹園は当初「青葉賞からダービーを狙えばいい」と相手にしなかったが、岩元が「登録料の半分を自分が負担してもいいから」と説得すると最終的にはこれを受け入れ、テイエムオペラオーは追加登録料200万円を支払い皐月賞へ出走することになった[23]。なお毎日杯から数日後の杵臼牧場に、追加登録制度設置のきっかけになったとされるオグリキャップの調教師であった瀬戸口勉から電話があり、「毎日杯であんなに強い勝ち方をした馬はいないよ。あれは強い。皐月賞でも面白いよ」と話した[22]。まだ追加登録が行われていなかった段階で、瀬戸口は「制度を利用すべきだ」という考えを伝えたかったが同業の岩元に言うのは僭越だと感じ、遠回しに牧場へ伝えたものだったという[22]

4月18日の皐月賞は、雨中での開催となった[24]。当日1番人気となったアドマイヤベガは調教不順が伝えられていたが、父が当時のリーディングサイアーであったサンデーサイレンス、母は二冠牝馬ベガという「超良血馬」として早くから注目され、前年末にはラジオたんぱ杯3歳ステークスを好内容で勝利、本競走への前哨戦・弥生賞では2着と敗れたものの、直線では鋭い脚力をみせていた[24]。弥生賞で同馬を破った重賞連勝中のナリタトップロードが2番人気。両馬のオッズは2.7倍対3.3倍と、事実上一騎打ちのようにみられていた[24]。テイエムオペラオーはトップクラスとの対戦経験がないとみられたこと、過去毎日杯からの出走組に皐月賞での実績が乏しかったことなどもあり、オッズ11倍の5番人気となった[24]。スタートが切られると、ナリタトップロードが中団、アドマイヤベガが後方、テイエムオペラオーはさらにその後ろに位置した。テイエムオペラオーの位置は戦前の想定より後方になったが、これは2ハロン目(200~400メートル区間)のタイムが10秒4と全体のペースが急激に早くなり、置かれた形となったことも影響していた[25]。第3コーナーから各馬は先行勢をとらえに動いたが、テイエムオペラオーは追い出した時点ではまだ後方におり、竹園は「ああ。だめだ。負けた」と声をあげた[25]。岩元も「何を考えて乗っているのか」と舌打ちし、勝利を諦めていた[23]。しかし最後の直線残り100メートルほどからテイエムオペラオーは一気に差を詰め、先頭のオースミブライトをゴール寸前でクビ差とらえて勝利[24]。GI初制覇を果たした。3着にナリタトップロードが入り、アドマイヤベガは6着となった[24]

テイエムオペラオーのみならず、竹園、岩元、和田、杵臼牧場の全員にとって、これが初めてのGI制覇であった[24][注釈 2]。また、クラシック追加登録を行った馬の勝利も、制度開始以来のべ30頭目で初めての例となった[26]。和田は競走後、「毎日杯でみせた末脚を信じて、じっくり構えて直線勝負に賭けたのが正解でした。道中は外に振られないようにだけ気を付け、徐々に上がっていこうと思っていたので、ほぼ理想通り」などと感想を述べ、また前週の桜花賞で競馬学校同期の福永祐一がGI初制覇を遂げていたことにも触れ、「自分たちの世代に流れが来ていることを信じて、発奮したのが良かったかもしれません。ダービーでも乗り役の方が負けないように、自信をもって乗りたい」と語った[27]。岩元は「ゴール前では届かないようだったのに、本当によく走ってくれた」とテイエムオペラオーを労い[27]、また「結果として、和田の落ち着いた騎乗が勝利につながった。ダービーで注文を付けることは何もない。テイエムトップダンで乗った経験があるから大丈夫やろう。僕は下手くそなジョッキーやった。それに比べたら、あいつの方がはるかに上手いわ[23]」と、和田の騎乗を称えた。

勝ちきれないレース

アドマイヤベガ

皐月賞馬となったテイエムオペラオーは、6月6日、二冠を目指して日本ダービーへ出走した。当日はナリタトップロードが単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持され、皐月賞からの復調が期待されたアドマイヤベガが同じく3.9倍の2番人気、テイエムオペラオーは4.4倍の3番人気となった[14]。レースは縦長の隊列で展開し[14]、その中でテイエムオペラオーは8番手、ナリタトップロード10番手、アドマイヤベガは後方15番手を進んだ。第3コーナーから和田テイエムオペラオーは両馬に先んじて先団に進出し、最後の直線半ばでいったん先頭に立ったものの、直後にナリタトップロードにかわされ、さらに後方から一気に追い込んだアドマイヤベガがゴール前で同馬もろとも差し切って優勝[14]。テイエムオペラオーは3着と敗れた[14]。和田は競走後、早めに動いた理由について「前にフラフラしている馬がいて、その馬の後ろには入りたくなかった。ナリタが凄い手応えで来ているのも分かっていたから、早いとは思ったけど、あそこで動かざるを得なかった。負けたのは悔しいけど、きつい競馬をしたのに本当、よく頑張っていますよ」と語った[28]。一方で「勝てると思った瞬間は一度もなかった」、「早めのスパートをかけなくても3着だったかもしれない」ともした[28]。アナウンサーの杉本清によれば、岩元は3着という結果にも満足気であったといい、「ダービーはしょうがない。馬がピークを過ぎてたから」と話したという[29]。その一方で竹園は「結果としてそこ(注:皐月賞)を勝ってくれて嬉しかったし、岩元を非難するつもりはないけれど、でもあのとき皐月賞を使わなければダービーを勝てていたかもしれない……そんなふうに考えることもあるんですよ」と、後のインタビューで吐露している[10]

ダービーの後は賀張共同育成センターで休養に入り、9月に帰厩[30]。クラシック三冠最終戦・菊花賞へ向けて調教が進められた。前哨戦としては初めて古馬(5歳以上馬)相手となる京都大賞典(GII)か、その一週間後の京都新聞杯(GII)の両睨みとなったが、テイエムオペラオーは食が細りやすい体質だったことから、菊花賞まで調整に余裕をみることができる京都大賞典が選ばれた[31]。この競走では前年の日本ダービーと当年の天皇賞(春)に優勝しているスペシャルウィーク、前年の天皇賞(春)優勝のメジロブライトなどの有力馬がおり、テイエムオペラオーは両馬に次ぐ3番人気となった。レースでは最後の直線で進路を失う形となり、コース内側に持ち出されてから先頭のツルマルツヨシを追ったが、同馬とメジロブライトにおよばず3着となる[31]。和田は道中でスペシャルウィークの直後につけ、同馬が抜け出した跡を通って先頭をうかがう算段であったが、不調のスペシャルウィークが直線で失速したため進路を失ったものであった[31]

ナリタトップロード

京都大賞典のあと危惧された食細りは起こらず11月3日の菊花賞は絶好調に近い状態で臨んだ[32]。当日は京都新聞杯に勝利してきたアドマイヤベガがオッズ2.3倍の1番人気、テイエムオペラオーが3.4倍の2番人気、京都新聞杯2着のナリタトップロードが4.1倍の3番人気で続き、春に引き続き「三強」の下馬評であった[33]。レースは明確な逃げ馬不在もあり、1000メートル通過が1分4秒3、2000メートル通過が2分8秒4と、「超スローペース」で推移する[33]。そうしたなかナリタトップロードは先団に位置し、アドマイヤベガとテイエムオペラオーはそれぞれ中団後方に並ぶ形で10~11番手を進んだ[33]。周回2週目の最終コーナーからナリタトップロードは先頭をうかがって進出、テイエムオペラオーは最後の直線でこれを急追したが、先に抜け出したナリタトップロードにクビ差及ばずの2着と敗れた[33]。アドマイヤベガは伸びあぐねての6着であった。

テイエムオペラオーの上がり3ハロン(ゴールまでの600メートル)タイム33秒8は、メンバー中最速のものだった[32]。和田は「向こう正面で少し、前との差を詰めておけば良かったのかな。それでも、凌ぐ脚はあると思ったんだけど……力負けではないと思う」と感想を述べた[34]。最終コーナーまで進出しなかった理由については、「アドマイヤベガを意識した[32]」という見方があった一方で、競走後の和田の弁によれば、温存して末脚を引き出したいという意識の方が強かった[34]。また、戦前にはナリタトップロードの渡辺薫彦がとったレース運びを思い描いていたともいう[35]。 いずれにしても競走後、和田の騎乗に対しては「仕掛けが遅い」という論評が向けられた[34]。日本ダービーの「早仕掛け」に続く和田の2度目の騎乗ミスとみた竹園は激怒し、岩元に騎手の交代を要求。留保を求める岩元に竹園は強硬な態度を示したが、最後には折れる形となり、和田はテイエムオペラオーの騎手として据え置かれた[32]。岩元は和田を降板させる場合はテイエムオペラオーの転厩を求めたともされ[36]、これ以降、竹園が騎手交代を求めることはなくなった[11]

竹園は次走を年末のグランプリ有馬記念、または来年まで休養と見積もっていたが、岩元はテイエムオペラオーと和田に「勝ち癖」を付けたいとして、次走にGII・ステイヤーズステークスを選択した[32]。当日の単勝オッズは一時1.0倍、最終オッズでも1.1倍という圧倒的な1番人気に支持されたが[37]、クラシック三冠では目立たなかった同期馬ペインテドブラックに直線で競り負け、2着となった[38]

この後、岩元は年内休養を考えたが、今度は竹園が有馬記念出走を希望する。菊花賞以来、竹園に自身の要望を通させてきた負い目もあり、岩元はこれを受け入れ、テイエムオペラオーは有馬記念に臨むこととなった[38]。当日は、ここまでGI競走3勝のグラスワンダーが1番人気、京都大賞典から立て直し、秋の天皇賞とジャパンカップを連勝中のスペシャルウィークが2番人気で、この「二強」の対決とされた[39]。ナリタトップロードが4番人気(6.8倍)に入り、テイエムオペラオーは同馬から離れた12倍の5番人気であった[39]。スタートが切られると、追い込み脚質のゴーイングスズカが先頭を切り、前半1000メートルが65秒2という「超スローペース」で展開、テイエムオペラオーは先団5番手につけ、他の有力馬はみな中団より後方に位置した[40]。最後の直線でテイエムオペラオーは先頭に立ったが、直後に後方からグラスワンダーとスペシャルウィークが競り合いながら差し込み、両馬にゴール直前でかわされ勝ったグラスワンダーからハナ、アタマ差での3着となった[40]

皐月賞以降勝利を挙げることはできなかったが、テイエムオペラオーは当年の年度表彰・JRA賞において最優秀4歳牡馬に選出され、「クラシックではアドマイヤベガ、ナリタトップロードとともに三強を形成し、中でももっとも安定した成績を残した。暮れの有馬記念でも、グラスワンダー、スペシャルウィークと同タイムの3着とあわやのシーンを作り、その実力を大いにアピールした」との選評を受けた[41]。また、仮定の斤量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションにおいても、4歳馬として1位の119ポンドを与えられている[42]。なお、当年対戦してきた有力馬のうち、スペシャルウィークは有馬記念を最後に予定通り引退[40]、アドマイヤベガは菊花賞のあと長期休養に入り、復帰できないまま翌2000年夏に引退となった[43]

2000年

「現役最強馬」となる

2000年1月に行われたJRA賞授賞式において、竹園はテーブルを囲む陣営各人に向けて、「こんな賞をもらったからには、今年はもうひとつも負けたらいかん。負けるようなレースには使わない。今年は全部勝つぞ」と檄を飛ばした[44]。その後の厩舎内の様子を、原口は次のように振り返っている[45]

(前略)岩元先生が、オペラオーの厩の前へ来て、
「竹園さんが、今年負けなしでいけっ、て、言うてはったから、しっかりな!」
僕に言うなり、スタスタ洗い場の方へと歩いて行った。
「エッ!?負けなし!」
一瞬たじろいだ。よくよく考えてみても、夢のような話だ。あのスペシャルウィークやシンボリルドルフでさえも、一度や二度は負けている。
それくらいの気持ちを持ってやれ、ということだろう。そう考えると、気が楽になって、淡々と仕事ができた。そのうち、今度は和田竜二が珍しくやって来て、
「今年は、全勝ッす、全勝」
やたらと気合が入っている。
両腕をグルグル回しながら、オペラオーの姿をひと目見て去っていった。
僕は、オペラオーとそのうしろ姿を見届けながら、
「そんなに、うまいこといくかなぁ」
とつぶやくと、オペラオーもコクリとうなずいた。

2000年の初戦には2月20日の京都記念(GII)が選ばれた。ここにはナリタトップロードも出走したが、テイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持されると、最後の直線で同馬との競り合いをクビ差制し、皐月賞以来の勝利を挙げた[46]。さらに続く阪神大賞典(GII)では、ナリタトップロードに加え、新たな「三強」の形成が期待された菊花賞3着のラスカルスズカも出走したが、最後の直線ではテイエムオペラオーが両馬を突き放し、ラスカルスズカに2馬身差をつけて勝利[47]。他の有力馬より前でレースを進めながら、直線では出走中最速の末脚を発揮した[48]その内容に、スポーツ紙は「完璧な差」と書き立て[49]、日本中央競馬会の広報誌『優駿』は、「善戦どまりだった皐月賞以降とは見違えるほど」と評し[47]、ラスカルスズカ、ナリタトップロード両陣営からも「完敗」という言葉が聞かれた[48]。和田は競走後「本当は、去年もああいうレースをしたかったんです」と述べ、さらに和田と原口は口を揃えて「背中に跨った感じが全体的にパワーアップしている」評した[48]

4月30日には、春の大目標としていた天皇賞に臨む。天皇賞は当年より従来出走資格がなかった外国産馬にも門戸が開放され、アメリカ産馬であるグラスワンダーの動向が注目されていたが、同陣営は最大目標とする宝塚記念への出走を優先し、ここを回避[50]。これを受けて、天皇賞は阪神大賞典に続く「三強」の下馬評となった[50]。レースでは中団を進み、その前にナリタトップロード、後ろにラスカルスズカが位置する展開となったが、第3コーナーからナリタトップロードを捉えに進出してそのまま抜け出すと、ゴール前でラスカルスズカの追走を4分の3馬身抑えて勝利した[50]。走破タイム3分17秒6は史上4位、最後の200メートルは11秒9と史上最速(いずれも当時)のタイムであり、競馬専門誌『週刊Gallop』は、「厳しい瞬発力勝負に対応したテイエムオペラオーは真の実力を示した」と論評している[51]

グラスワンダー

天皇賞制覇で「三強」の時代を終わらせ「一強」と化した[51]テイエムオペラオーは国産競走馬の頂点に立ち、残るライバルは外国産のグラスワンダーのみとなった[50]。春のグランプリ・宝塚記念(6月25日)への出走馬を決めるファン投票において、テイエムオペラオーは1位に選出される。宝塚記念当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.9倍の1番人気、グラスワンダーが2.8倍の2番人気となり、この2頭の一騎打ちの下馬評となる[52]。馬場状態は良馬場だったが、発走1時間前より雨が降り始め、そのまま雨中でのレースとなった[52]。スタートが切られると、平均的なペースで推移するなかテイエムオペラオーは2番手集団を見る形で進み、グラスワンダーは中団後方に位置する[10]。第3コーナーでグラスワンダーがテイエムオペラオーの直後につけ、最終コーナーではグラスワンダーが鞍上の蛯名正義が手綱を抑えたまま進出していく傍らで、テイエムオペラオーは和田が手綱をしごきながら大外を回った[52]。しかし最後の直線に入るとグラスワンダーは伸びを欠き、テイエムオペラオーはそのまま先を行くメイショウドトウとジョービッグバンを急追、ゴール前でメイショウドトウをクビ差かわし、天皇賞からのGI連勝を果たした[52]

競走後、和田は「最後はヒヤヒヤしましたが、力を出してくれました。手応えは前走よりもしんどかったですけど、必ず伸びるのは分かっていました。最後に抜けると気を抜いてしまうところがあるし、気を抜かないようにしただけです。改めて強いと思いました」、岩元は「3コーナーの手応えで今日はやばい、負けるかもと思いましたが、直線で並んだときに何とかなると……。並んだら勝負強い馬ですから」などとそれぞれ感想を述べた[53]。両名とも3コーナーでの反応の悪さに言及したが、原口は、テイエムオペラオーは概してそういった面がある馬だとして「グラスワンダーと手応えこそ違え、一緒に来ていたから心配しなかった」と振り返っている[45]。なお、6着に敗れたグラスワンダーは、競走後のコース上で蛯名が下馬して馬運車で運ばれ、のち「左第三中手骨(管骨)骨折」の診断が下され、引退が発表された[10]

後年、テイエムオペラオーの伝記を執筆した木村俊太は「このグラスワンダーの故障によって不運にも『力勝負の決着はついていない』という評価をも受ける結果となってしまった」としている[54]。いずれにせよこの勝利によって、テイエムオペラオーは「現役最強馬」の地位についた[55]

史上初の古馬中長距離GI完全制覇

宝塚記念の後には、前年夏と同様に賀張共同育成センターへ送られ、現地で運動を行いながらの休養に入った。春の連戦を経ているにも関わらず疲労の度合いは低く、到着翌日には人を乗せての運動が始められるなど、充実を物語るものとなった[56]。秋の出走は当初、春秋連覇が懸る天皇賞(秋)へ直接出走する見通しだったが[56][57]、竹園が様子を視察した際、テイエムオペラオーの状態が非常に良かったことから、「馬が走る気になっているときにリズムを狂わせてもいけない」と[58]、前哨戦の京都大賞典(GII)への出走が決まった[57]。かねてこの競走へ向けて調教が積まれていたナリタトップロードの調教師・沖芳夫は「あの馬(テイエムオペラオー)を負かすなら今回しかない」と公言していたが[59]、レースでは両馬競り合いになったものの、ナリタトップロードが鞭を連打される傍らで和田は鞭を振るうことなく、テイエムオペラオーがアタマ差で勝利した[57]

メイショウドトウ。翌年の天皇賞(春)までGI競走5戦連続でテイエムオペラオーの2着となった。

10月29日、天皇賞(秋)に臨む。この競走は当年まで1番人気馬が12連敗という結果が続いており、巷間「テイエムオペラオーが負けるとすれば今回」と囁かれ、マスメディアもこの「ジンクス」を盛んに取り上げた[60]。また、皐月賞と同じ距離でありながらテイエムオペラオーに2000メートルの距離が短いという見方もあり、当日の単勝オッズは近来では高い値となる2.4倍を示した[60][61]。2番人気には別の前哨戦オールカマーを制してきたメイショウドトウが推され4.4倍、3番人気がナリタトップロードで4.9倍の順となった[61]。スタートが切られると、最初のコーナーで和田テイエムオペラオーが内を走るイーグルカフェを押圧する形となり、その煽りを受けたステイゴールドが不利を受ける形となった[60]。コーナー通過後は平均的なペースで推移し、テイエムオペラオーは2番手集団の中でメイショウドトウを直前に見る形で進んだ[60]。最後の直線ではまずトゥナンテ(5番人気)が抜け出し、これをメイショウドトウがかわしたが、直後にテイエムオペラオーが両馬を一気に抜き去り、ゴールではメイショウドトウに2馬身半差をつけて勝利した[60]。なお、これは和田にとって東京競馬場での初勝利であった。

同一年度における天皇賞の春秋連覇は、タマモクロス(1988年)、スペシャルウィーク(1999年)に続く、史上3頭目の記録となった[60]。また、1984年にグレード制が導入されて以降、東京、中山、京都、阪神のJRA四大競馬場全てでGIを制したのは、テイエムオペラオーが初の事例であった[62]。和田は「1番人気が勝てないうえ、僕が東京で未勝利だったことで、いろいろ言われましたが、パーフェクトの内容で鬼門を突破することができました」、岩元は「1番人気の連敗が続いているジンクスと、和田が東京で一度も勝っていない、という2つのことが気になっていましたが、終わってみれば本当にえらい馬だという気持ちでいっぱいになりました」などと感想を述べた[63]

2000年 第20回ジャパンカップ。手前にいる青一色の勝負服を着たフランキー・デットーリが駆る馬がファンタスティックライト。

次走、11月26日に迎えた国際招待競走・ジャパンカップでは、当年のマンノウォーステークスを勝ち、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでも2着の実績を持つファンタスティックライトUAE)、10歳馬ながら当年アメリカでG1競走2勝を挙げたジョンズコール(アメリカ)など5頭の外国馬に加え、1歳下のクラシック二冠馬エアシャカール(3番人気)、日本ダービー優勝馬のアグネスフライト(4番人気)らが顔を揃えた[64]。この競走は「ジンクス」を盛んに報じられた天皇賞を越える1番人気馬の14連敗が続いていたが[65]、テイエムオペラオーの最終単勝オッズは1.5倍、支持率では1991年のメジロマックイーン(41.4パーセント)を上回り、競走史上最高の50.5パーセントという圧倒的な支持を集めた[64]。ファンタスティックライトが2番人気となったものの、注目はテイエムオペラオーに挑む新世代のクラシックホース2頭という様相となった[64]。レースは逃げ馬不在で前半1000メートル通過が63秒3と非常なスローペースとなり、各馬が先へ行きたがる姿がみられた[64]。テイエムオペラオーは5、6番手を進み、最後の直線では先に抜け出したメイショウドトウと競り合い、さらに後方からファンタスティックライトも追い込んできたが、最後はメイショウドトウをクビ差競り落として勝利を挙げた[64]。なお、エアシャカールとアグネスフライトはそれぞれ13、14着と大敗した[64]

この勝利により、テイエムオペラオーのここまでの獲得賞金は12億円を超え、それまでの獲得賞金記録保持馬であったスペシャルウィークを上回り「世界賞金王」となった[64]。本競走におけるテイエムオペラオーのパフォーマンスは国際的にも高く評価され、レーシング・ポスト・レイティングでは当時の国内最高値[注釈 3][注釈 4]となる126の評価が与えられた[66]。ファンタスティックライトの手綱を取ったランフランコ・デットーリは、テイエムオペラオーに対して「クレイジー・ストロングだ。世界レベルにある」と評した[67]

春秋天皇賞、宝塚記念、ジャパンカップを制したテイエムオペラオーは、かつて達成馬のいない古馬中長距離GIの完全制覇へ向けて、残る目標は年末の有馬記念のみとなった。ジャパンカップ競走中に他馬と接触して右後大腿部に外傷を負い有馬記念に向けた再始動は遅れ[61]、中間の動きも好調時との比較では落ちるものとなった[68]。さらに有馬記念の競走当日朝、中山競馬場の出張馬房内で、向かいの馬房にいた馬が何らかの事象に驚いて後脚で立ち上がり、その様子に驚いたテイエムオペラオーも同様の態となって、馬房内のいずこかに額を強打した[69]。患部は内出血を起こして大きな腫れを生じたが、出走可能という獣医師の判断で、岩元もこれに従って有馬記念へはそのまま出走することとなった[69]

有馬記念の出走馬選定ファン投票では10万9140票を集め、第1位で選出[64]。当日のオッズでは1.7倍の1番人気に支持された[70]。竹園は戦前のパドックにおいて、和田に対して「スタートに気を付けて、3、4番手につけて、じっとして、直線で2馬身以上離して勝て」と指示を与えた[58]。レースでテイエムオペラオーは竹園の希望通り好スタートを切ったが、周回1周目の第3コーナーで他馬に進路を塞がれて位置を12~13番手まで大きく下げ、さらに観客スタンド前を通過する辺りではスローペースの馬群の中に閉じこめられる形となる[70]。2番人気メイショウドトウは中団、3番人気ナリタトップロードは先団を進んでいた[70]。最後の直線に入ってもテイエムオペラオーは馬群の中で動けず10番手以下に位置し、観客から大きなどよめきが上がった[70]。直線半ばで馬群がばらけ始るとテイエムオペラオーは追い込みを始め、逃げ粘りを図るダイワテキサスを一気に捉えると、最後はメイショウドトウとの競り合いをハナ差制して優勝[70]。史上初となる古馬中長距離路線の完全制覇を達成し、また同時にこの年からスタートした秋季古馬中長距離のGⅠ3競走(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を同一年で優勝した馬への特別報奨金2億円を獲得した。

競走後、和田は「前につけたかったのですが、1コーナーで挟まれてしまって……失敗したと思いました。動くに動けない状況でしたし、かといって外を回りたくなかったので、これなら開いたところを突っ込んでいくしかないと考えました。詰まったらおしまい。直線では1頭分だけ隙間があったんですが、オペラオーは躊躇なく入っていった。メイショウドトウが差し返してきた時もこちらには勢いがありました。厳しいレースでしたが、終わってみれば1頭だけが次元の違う勝ち方をしてくれていました」、また岩元は「心配していた最も厳しい形になってしまいました。負けてもおかしくなかったと思います。ああいう形になったのに、本当によく勝ってくれたと思います。偉い馬としか言いようがありません」と感想を述べた[71]。また竹園は他馬からの厳しいマークに「馬も騎手も可哀想でした。なんでこんなにいじめられなくちゃいけないんだろうと思いました。(略)本当に涙が出るくらい可哀想でした。(略)本当にもう、抜け出すまでは悲しくて泣きそうでしたけど、抜け出してからはもう絶頂でしたね」と語った[58]。一方、敗れたメイショウドトウ騎乗の安田康彦は「今はあの馬(テイエムオペラオー)とは一緒に走りたくない」と報道陣に吐露している[72]

2000年のシーズンを8戦8勝、うちGI5勝という成績で終えたテイエムオペラオーには、様々な記録が伴った。まず年間GI5勝は、シンボリルドルフナリタブライアンを抜いて歴代最多[73]、重賞8連勝はタイキシャトルに並び歴代最多タイ[73][注釈 5]、1番人気での8連勝はタケシバオーマルゼンスキーマックスビューティに並ぶタイ記録であったが、全て重賞で達成したのはテイエムオペラオーが初めてであった[73]。『優駿』は、年誌にあたる増刊『TURF HERO』においてその戦績を「世紀末覇王伝」のタイトルで回顧し、『週刊Gallop』もまた年誌巻頭のグラビアに「降臨 世紀末覇王」のキャプションを用いた[73]。なお馬主の竹園も、テイエムオーシャンで制した阪神3歳牝馬ステークスと合わせて年間GI勝利数が「6」となり、過去シンボリ牧場社台レースホース山路秀則が保持した年間GI4勝の記録を更新している[74]

当年の年度表彰において、テイエムオペラオーは年度代表馬に満票で選出[75]。満票選出は、テンポイント(1977年)、シンボリルドルフ(1985年)に続く、史上3頭目の事例となった[75][注釈 6]。また、岩元も年間獲得賞金15億837万8000円という記録をもって最多賞金獲得調教師のタイトルを獲得したが、この金額のうち約3分の2がテイエムオペラオーによるものであった[75]

2001年

天皇賞連覇とライバルの雪辱

2001年を迎えたテイエムオペラオーは、連戦疲労が危惧されたことに加え、冬の休養にあたり北海道は寒すぎるという岩元の判断から、通例休養に出される賀張共同育成センターではなく、温浴施設を備え「馬の温泉」の通称があるJRA競走馬総合研究所磐城支所(福島県いわき市)で休養に入った[76]。この休養には原口も帯同した。温泉で疲労を除きつつ、併設の馬場で適度な運動も可能という岩元の見通しであったが、当年のいわきは大雪が続きテイエムオペラオーはほとんど馬房から出ることができず、その一方で日ごろ細かった食欲は増進し、大幅に太った状態で栗東へ帰厩した[76]

当初は3月の阪神大賞典での復帰が見込まれていたが、調整のピッチが上がらないことから、復帰戦は4月1日の大阪杯(GII)にずれ込んだ[76]。直前の調教では気を抜くような場面もあり、「本来の動きではない」という評もあった[76]。また、競走直前のパドックでは、常なら原口が持つ2本の曳き手を引っ張って歩くところを「1本でも大丈夫なぐらい」大人しい様子であり、和田も返し馬[注釈 7]で動きの硬さを感じたという[77]。レースでは中団8~9番手を進んだが、第3コーナーから最終コーナーにかけて、外から馬体を被せてきたアドマイヤボスに合わせて早めに先団に進出[78]。最後の直線では同馬およびエアシャカールと競りあったが[79]これに遅れ、さらに後方から3頭ごと差し切った9番人気のトーホウドリームの後方で4着と敗れた[79]。競走後、和田は「このひと叩きで変わってくるはず。次は絶対に巻き返しますよ」、岩元は「まあ仕方がない。また出直しや」と語った[77]。春の天皇賞へ向けた他の前哨戦では、阪神大賞典でナリタトップロードが2着に8馬身差をつけてレコードタイムで勝利、日経賞(GII)ではメイショウドトウが勝利を挙げた[77]

シンボリルドルフ。1984年から85年にかけて中央競馬史上最多のGI競走7勝を挙げ、「七冠馬」あるいは「皇帝」とも称された。

前年からの連覇が懸かる天皇賞(春)へ向けて、当初テイエムオペラオーの状態は極めて悪かったものの、競走10日ほど前から復調気配が表われはじめ、最終調教でも良好な動きをみせた[76]。4月29日の天皇賞当日では、前年秋の天皇賞以来で単勝オッズが1倍台に至らず2.0倍を示した[80]。ナリタトップロードが3.4倍、メイショウドトウが6.5倍でこれに続いた[80]。レースは最初の1000メートル通過が競走史上最速の58秒3というハイペースになり、そのなかでテイエムオペラオーは中団後方に付け、その周囲を他の有力馬がマークするような隊列となる[80]。最後の直線ではいち早くスパートをかけたナリタトップロードがいったん先頭に立ったが、すぐにテイエムオペラオーがこれをかわし、後方から追い込んだメイショウドトウも半馬身抑えて勝利。シンボリルドルフに並ぶ史上最多タイ記録のGI競走7勝目を挙げた[80]。また、春秋の天皇賞3連覇および天皇賞3勝という記録は、史上初の事例となった[81]。竹園は競走後、次走が宝塚記念であること、そしてその結果次第で日本国外への遠征を検討することを表明した[80]

天皇賞に続く連覇、そして史上最多記録のGI競走8勝が懸かる宝塚記念(6月24日)に臨んで、テイエムオペラオーの状態は極めて良好に仕上がり[82]、戦前に催された「宝塚記念フェスティバル」に出席した和田は「99パーセント勝てる」と明言した[83]。当日の単勝オッズは1.5倍を示し、前年の宝塚記念以来、テイエムオペラオー相手に5度2着となっているメイショウドトウが3.4倍で続いた[83]。レースではテイエムオペラオーはスタートでやや後手を踏んで後方に位置取り、対するメイショウドトウは道中4番手と先行策をとった[83]。メイショウドトウは最終コーナーで先頭に並びかけた一方で、テイエムオペラオーは馬群に押し込められる形となって抜け出すことができず、さらに各馬の進路が混乱した煽りを受けてテイエムオペラオーは進路をなくし、和田が馬上で体を起こし、手綱を引く格好となった[82]。最後の直線で態勢を立て直し後方3番手の位置から追い込んだものの、セーフティリードを取ったメイショウドトウを捉えることはできず、同馬から1馬身4分の1の差で2着と敗れた[82]

競走後、和田は「狭いところに行ってしまって、行くことができなかった。一番嫌な展開になってしまった。具合が良かっただけに残念」とし[84]。岩元は「二、三番手で競馬する手もあったと思うが、乗り方は鞍上が決めることやからな。状態が良かっただけに、残念」と述べた[82]。竹園は「あの不利はちょっとひどい。ひどい競馬だった。最後は力のあるところを見せてくれたけど……」と述べ、さらに「負けて海外なんてありえません」として、秋シーズンも国内戦に臨ませることを表明した[82]。一方、メイショウドトウ騎乗の安田康彦は「折り合いもついて、あっち(テイエムオペラオー)が後ろにおることが分かったときに、これなら勝てると思うたね。それぐらい馬の出来もよかったし」と語った。また、メイショウドトウ馬主の松本好雄は後に「私にとってはね、テイエムの2着は非常に大きな2着ですよ。テイエムが2着でなかったら、ちょっと価値が薄れるんですよね。5回負けた馬に勝つということで、凄い値打ちがあるんですよね。(中略)よく来てくれたな、という気持ちですよ」と振り返っている[85]

夏は賀張共同育成センターで休養に入る。その間の8月1日、竹園よりテイエムオペラオーが当年を限りに引退することが発表された。

新記録ならず - 引退

秋シーズン初戦は10月7日の京都大賞典で迎えた。当日はテイエムオペラオーが単勝オッズ1.4倍の1番人気となり、ナリタトップロードが2.4倍の2番人気、ステイゴールドが10.8倍で3番人気となった[86]。レースの道中はテイエムオペラオーとステイゴールドが2番手で並び、直後をナリタトップロードが進む[87]。最後の直線ではナリタトップロードがいち早く先頭に立ち、これを内からステイゴールドがかわし、さらに外からテイエムオペラオーが並びかけた。この直後にステイゴールド騎乗の後藤浩輝が右鞭を振るうと、ステイゴールドは左側に斜行し、同馬とテイエムオペラオーとの間に挟まれたナリタトップロード鞍上の渡辺薫彦が落馬[86]。ステイゴールドは勢いを失うことなく1位で入線し、テイエムオペラオーは半馬身差の2位入線となる[86]。しかし審議の結果ステイゴールドは失格となり、テイエムオペラオーは繰上りでの1着となった[86]。競走後の検量室では、危険な騎乗に激怒した竹園が色をなして後藤に詰め寄る一幕もあった[86]。繰上り勝利ではあったものの、これでテイエムオペラオーの重賞勝利は12を数え、スピードシンボリオグリキャップに並ぶ最多タイ記録となった[86]

アグネスデジタル。芝・ダートや馬場状態を問わず活躍し、最終的に国内外でGI競走6勝を挙げた。

10月28日、春秋四連覇に挑み天皇賞(秋)に臨んだ。当日は午前から雨となり、前年に続き重馬場で行われることになった[88]。単勝オッズではテイエムオペラオーが2.1倍、メイショウドトウが3.4倍、京都大賞典で1位入線のステイゴールドが4.5倍で続いた。レースは、陣営が「行けるだけ行く」と公言していたサイレントハンターがスタートで大きく出遅れ、押し出される形でメイショウドトウが先頭を切る展開となり、テイエムオペラオーは3~4番手を進んだ[88]。前半1000メートル通過は1分2秒2と馬場状態を考慮しても遅いペースとなり、馬群は一団の状態で最後の直線に向く[88]。ここで伸びかけたステイゴールドが内側に斜行して失速し、テイエムオペラオーは先を行くメイショウドトウとジョウテンブレーヴをかわして先頭に立ったが、大外から追い込んだアグネスデジタルにゴール前で捉えられ、同馬から1馬身差の2着と敗れた[88]。アグネスデジタルは前年のマイルチャンピオンシップ(GI)などに優勝していたが、本競走には直前になって出走を決めており、当日は4番人気ながらそのオッズは20倍であった[88]

メイショウドトウをかわした直後から和田の視界には大外のアグネスデジタルが入っており、「馬体が合う形になれば、もうひと踏ん張りできる感触はあった」ものの、内外が離れすぎていたため併せにいくことはできなかった[89]。和田は「今日は相手が強かった」とした一方で、「一番いい頃の状態にはまだ一息と感じた。この先、期待通りに上向いてくれる保証はないけれど、もっともっと良くなる可能性を秘めていることは確かです」と語った[89]。また岩元は「馬体が合っていてもあれではかわされていたやろ。力があって、オペラオーより重馬場の得意な馬がいたということ」とした。

ジャングルポケット。テイエムオペラオーの次走・有馬記念には出走しなかった。

引き続き新記録を目指すジャパンカップに向けたテイエムオペラオーの状態は上がらず、競走前の最終追い切りでも動きに精彩を欠き、共同会見で岩元が発した「えらいこっちゃ」という言葉がスポーツ紙でも報じられた[90]。しかしこの調教から数日の間にテイエムオペラオーは急速に食欲を回復させ、競走当日にテイエムオペラオーにまたがった和田は「この秋一番の覇気」を感じたという[90]。当年のジャパンカップにおける外国招待馬には2000ギニーの優勝馬ゴーラン(イギリス)など6頭のG1優勝馬がいたものの、注目馬は不在という下馬評で、単勝オッズの5番人気までを日本馬が占めた[91]。2.8倍の1番人気にテイエムオペラオー、2番人気は当年の日本ダービー優勝馬ジャングルポケットが推され4.2倍、以下メイショウドトウ、ステイゴールドと続いた。レースはスローペースで推移し、テイエムオペラオーは道中3~4番手、ステイゴールドが6~7番手、メイショウドトウとジャングルポケットがそれぞれ10~11番手を進んだ[91]。向正面からペースが上がっていき、最終コーナーから最後の直線に入るとテイエムオペラオーはいち早く先頭に立った[90]。テイエムオペラオーは単走状態では気を抜く傾向があり和田もそれは意識していたものの、すぐ後ろにいたステイゴールドが進出してきたことから、早めにリードをとる選択をしたものだった。テイエムオペラオーは独走態勢に入ったものの、やはり気を抜いてふらつき始め[90]、ゴール目前で大外から一気に伸びてきたジャングルポケットにクビ差かわされ、またも2着に終わった[91]

和田は競走後、「3歳馬に負けたくない気持ちはあったんですが……。やっぱり目標にされるとつらいです。前回もそんな感じでしたから。周りにもうちょっと馬がいてくれたら良かったんですが……」と語り[92]、岩元は「結局、うちの馬に流れがこなかったということ」と述べた[90]。一方で、ジャングルポケットの管理調教師・渡辺栄は「最近のテイエムオペラオーの競馬を見ていますと、一番良いときに比べて少し力が落ちているように感じていました。あの馬の場合、競って負けたということを見たことがなかった。きょうは競って負かしたことでジャングルポケットの強さを感じました」との感想を述べている[92]

マンハッタンカフェ。翌2002年の天皇賞(春)にも優勝した。

年末のグランプリ・有馬記念へ向けたファン投票では前年より票数を落としたものの、93217票を集めて2年連続の1位選出馬となる[93]。そして12月23日、引退レースとして有馬記念に臨んだ。当日は単勝オッズ1.8倍の1番人気の支持を受け[94]、これで4(旧5)歳以降出走した全15戦で1番人気となり、1963~64年に走ったメイズイが保持していた連続1番人気記録を更新した[4]。2番人気にメイショウドトウ、3番人気には当年の菊花賞優勝馬マンハッタンカフェが推された[94]。スタートが切られるとレースはスローペースで流れ、テイエムオペラオーは中団から後方を進む。その前方を走っていたメイショウドトウは3番手まで進出したが、和田はこれを追うことなく、そのままテイエムオペラオーを控えさせた[94]。そして最終コーナーから最後の直線にかけて先行したトゥザヴィクトリーアメリカンボス、メイショウドトウらを捉えに追い込みを始めたが、これらをかわすことができず、さらに後方から追い込んで勝利したマンハッタンカフェの後方で、生涯最低の5着となった[94]

後方に位置したマンハッタンカフェが勝ったものの、展開としては先行有利であり、中団待機策をとった和田は「向正面でもう少し前につけておけばよかった」、「天皇賞かジャパンカップ、この秋どちらかひとつでも勝てていれば、もっとシャシャッと動けていたかも」と話し、検量室から引き上げる際にも「動いていかなきゃって、頭では分かっていたんやけど……」と何度も繰り返した[95]。岩元は和田の騎乗に対して「全般的に大事に乗りすぎたんじゃないかな。まあ、終わってから言ってもな。うーん……終わったわ」と語った[96]

この有馬記念での賞金を加えたテイエムオペラオーの総獲得賞金は、自身が竹園に購買された価格の170倍超、当時2位のスペシャルウィークを7億円超上回る18億3518万9000円に及び[97]、この記録は2017年末にキタサンブラックに破られるまで16年間保持された。翌2002年1月13日、京都競馬場でテイエムオペラオーとメイショウドトウが合同での引退式が行われた。インタビューを受けた和田は「テイエムオペラオーからたくさんのものをもらいましたが、僕からは何もお返しできませんでした。これからは一流の男になって、彼に認められるように頑張ります」と、声を詰まらせながら話した[98]。引退式を終えた両馬は栗東トレーニングセンターへ戻されたのち、17日には共に種牡馬として繋養される北海道浦河町のイーストスタッドへ2頭揃って輸送された[95]

種牡馬時代

種牡馬入りに際しては一般化していたシンジケートの組織は行われず、競走馬時代から引き続き竹園個人が所有した[86]。近い年代でシンジケートが組まれなかった種牡馬が大きく成功した例はなく、早期に結果が出なければ生産者から見限られるのが早いというリスクもあった[99]。テイエムオペラオーほどの実績を残した馬が個人所有されることは非常に珍しかったが、シンジケート種牡馬は産駒が活躍すれば種付け株が高騰しシンジケート非加入の生産者が交配しにくくなり、その反対に低調に終われば加入者が損を被り、さらには手元に残る種付け株が不良債権のようになるおそれがあり、生産者たちにそうしたリスクを負わせたくない、というのが竹園の言であった[86]。また種牡馬としての繋養先は、テイエムオペラオーの故郷である浦河町のイーストスタッドと、日高軽種馬農協門別種馬場を1年ごとに行き来する形となった。イーストスタッドは中小生産者が集まる日高地方の東側に位置し、門別種馬場は西側に位置することから、地域の生産者に満遍なく便宜を図れるとされた[86]。ただし、当初は有力種牡馬が集う社台スタリオンステーション入りが模索されたが、交渉がうまくいかなかったともされる[100]。初年度の種付け料は500万円に設定され[99]、93頭へ交配された[11]

産駒デビューを待つ間の2004年には中央競馬の顕彰馬に選出され、殿堂入りを果たした。前年に記者投票制となって初めての選定投票が行われていたが、対象馬における引退からの年数制限がなく票が割れたことが影響して落選しており[101]、当年は「(1)1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」、「(2)1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」という2つの投票区分に分けられたうえで(2)の区分において選出された[102]。なお、(1)の区分でタケシバオーも選出されていたが[102]、その後顕彰馬選定投票の対象馬は一律に「引退後20年以内」に改められた[101]。サンケイスポーツ記者の鈴木学は「初年度にテイエムオペラオーが落選したことが契機」になったとしている[101]

2005年に初年度産駒がデビューするも、年々競馬のスピード化が進む傾向にそぐわないスタミナタイプの仔が多く、種牡馬生活通算の成績で勝率は5%、1を平均値とするアーニング・インデックスで0.75と、いずれも平均値を下回っている[100]。産駒からは障害重賞で3勝を挙げたテイエムトッパズレ、中央競馬のオープン馬では6勝を挙げたタカオセンチュリーや、1200メートル戦で5勝を挙げたメイショウトッパ―などが出たが平地重賞を勝つことはできなかった[100]。また、著名な相手牝馬ではテイエムオーシャンと3年連続で交配されたが、テイエムオペラドンが1勝を挙げたのみに終わっている[100]。種牡馬総合ランキングの最高成績は、2008年の37位であった[103]

2010年いっぱいで門別種馬場が閉鎖されるのにともない、同年6月にテイエム牧場の日高支場に移動[104]、さらに11月にはレックススタッドへ移動した[105]その後さらに白馬牧場(新冠町)に移動したが、竹園の意向によって所在地は非公開とされていた[106]

晩年まで種牡馬としての活動を続けていたが、2018年5月17日の放牧中に心臓まひで倒れ、同日に死亡した[107]。22歳没。当年も5頭の繁殖牝馬に種付け予定で、そのうち2頭への種付けを終えた矢先の出来事であった[108]。その死を受けて東京、中山、京都、阪神および小倉の各競馬場には来場者を対象に記帳台が設けられ、11000筆以上が寄せられた[109]。また、5月26日実施の東西メイン競走には「テイエムオペラオー追悼レース」の副称が冠された[110]。6月15日には、同じく5月に白馬牧場で死亡したゴスホークケンと合同での慰霊祭が挙行され、関係者やファンら約50人が参列した[109]

競走成績

以下の内容は、JBISサーチ[111]およびnetkeiba.com[112]に基づく。

年月日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 距離(馬場) タイム
上り3F
騎手 1着(2着)馬
1998. 8. 15 京都 3歳新馬 12 6 8 1.5(1人) 2着 芝1600m(良) 1:36.7 (36.9) 和田竜二 クラシックステージ
1999. 1. 16 京都 4歳未勝利 16 6 12 3.9(2人) 4着 ダ1400m(良) 1:28.0 (37.2) 和田竜二 ゼンノホーインボー
2. 6 京都 4歳未勝利 10 2 2 1.8(1人) 1着 ダ1800m(良) 1:55.6 (38.3) 和田竜二 (ヒミノコマンダー)
2. 27 阪神 ゆきやなぎ賞 14 8 13 4.8(2人) 1着 芝2000m(稍) 2:05.3 (36.6) 和田竜二 (アンクルスルー)
3. 28 阪神 毎日杯 GIII 14 1 1 7.3(3人) 1着 芝2000m(良) 2:04.1 (36.7) 和田竜二 (タガノブライアン)
4. 18 中山 皐月賞 GI 17 6 12 11.1(5人) 1着 芝2000m(良) 2:00.7 (35.2) 和田竜二 オースミブライト
6. 6 東京 東京優駿 GI 18 7 14 4.2(3人) 3着 芝2400m(良) 2:25.6 (35.3) 和田竜二 アドマイヤベガ
10. 10 京都 京都大賞典 GII 10 8 10 5.5(3人) 3着 芝2400m(良) 2:24.4 (34.3) 和田竜二 ツルマルツヨシ
11. 7 京都 菊花賞 GI 15 3 4 3.5(2人) 2着 芝3000m(良) 3:07.7 (33.8) 和田竜二 ナリタトップロード
12. 4 中山 ステイヤーズS GII 14 6 10 1.1(1人) 2着 芝3600m(良) 3:46.2 (35.8) 和田竜二 ペインテドブラック
12. 26 中山 有馬記念 GI 14 6 11 12.0(5人) 3着 芝2500m(良) 2:37.2 (34.9) 和田竜二 グラスワンダー
2000. 2. 20 京都 京都記念 GII 11 7 8 1.9(1人) 1着 芝2200m(良) 2:13.8 (34.4) 和田竜二 (ナリタトップロード)
3. 19 阪神 阪神大賞典 GII 9 1 1 2.0(1人) 1着 芝3000m(稍) 3:09.4 (35.3) 和田竜二 ラスカルスズカ
4. 30 京都 天皇賞(春) GI 12 5 5 1.7(1人) 1着 芝3200m(良) 3:17.6 (34.4) 和田竜二 (ラスカルスズカ)
6. 25 阪神 宝塚記念 GI 11 1 1 1.9(1人) 1着 芝2200m(良) 2:13.8 (35.7) 和田竜二 メイショウドトウ
10. 8 京都 京都大賞典 GII 12 1 1 1.8(1人) 1着 芝2400m(良) 2:26.0 (33.3) 和田竜二 (ナリタトップロード)
10. 29 東京 天皇賞(秋) GI 16 7 13 2.4(1人) 1着 芝2000m(重) 1:59.9 (35.3) 和田竜二 (メイショウドトウ)
11. 26 東京 ジャパンC GI 16 4 8 1.5(1人) 1着 芝2400m(良) 2:26.1 (35.2) 和田竜二 (メイショウドトウ)
12. 24 中山 有馬記念 GI 16 4 7 1.7(1人) 1着 芝2500m(良) 2:34.1 (36.4) 和田竜二 (メイショウドトウ)
2001. 4. 1 阪神 産経大阪杯 GII 14 8 14 1.3(1人) 4着 芝2000m(良) 1:58.7 (35.6) 和田竜二 トーホウドリーム
4. 29 京都 天皇賞(春) GI 12 1 1 2.0(1人) 1着 芝3200m(良) 3:16.2 (35.5) 和田竜二 (メイショウドトウ)
6. 24 阪神 宝塚記念 GI 12 4 4 1.5(1人) 2着 芝2200m(良) 2:11.9 (35.0) 和田竜二 メイショウドトウ
10. 7 京都 京都大賞典 GII 7 5 5 1.4(1人) 1着 芝2400m(良) 2:25.0 (34.1) 和田竜二 スエヒロコマンダー
10. 28 東京 天皇賞(秋) GI 13 5 6 2.1(1人) 2着 芝2000m(重) 2:02.2 (35.8) 和田竜二 アグネスデジタル
11. 25 東京 ジャパンC GI 13 5 6 2.8(1人) 2着 芝2400m(良) 2:23.8 (35.1) 和田竜二 ジャングルポケット
12. 23 中山 有馬記念 GI 13 8 12 1.8(1人) 5着 芝2500m(良) 2:33.3 (34.3) 和田竜二 マンハッタンカフェ

レーティング

年度 馬齢 馬場 距離区分(m 対象 出典
1999年 4(3)歳 L(2200-2799) 119 JPNクラシフィケーション [42]
2000年 5(4)歳 I(1900-2199) 121 [2]
L(2200-2799) 122
E(2200-2799) 117
2001年 5歳 L(2200-2799) 122 [3]
E(2200-2799) 117

※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。強調は区分における年度の最高値。

記録(引退時)

獲得賞金

  • 歴代最高賞金獲得: 18億3518万9000円[97]
  • 歴代最高年間賞金獲得: 10億3600万4000円[97]

勝利数・連勝記録

人気

  • 連続1番人気: 15戦[4]

重賞勝利産駒

中央競馬重賞勝利馬

中央競馬オープン競走勝利馬

  • ダイナミックグロウ(2004年産 2008年阿蘇ステークス、ほか地方競馬重賞2勝)[117]
  • テイエムキュウコー(2011年産 2013年ひまわり賞[118]
  • テイエムヒッタマゲ(2014年産 2017年昇竜ステークス、ほか地方競馬重賞1勝)[119]

地方競馬重賞勝利馬

特徴・評価

身体面に関する特徴・評価

心臓の強さ

2001年春、それぞれ日本中央競馬会(JRA)の傘下にある競走馬総合研究所、日高育成牧場研究室、そして美浦・栗東両トレーニングセンターの診療所が合同し、競走馬の運動強度に伴う負荷の掛かり方を明らかにする「運動負荷試験システムの確立と応用試験」というプロジェクトが発足した。従来JRAは実験馬や馬主に配布される前の抽せん馬を対象にデータを収集していたが、当プロジェクトは現役競走馬を対象にデータを取ることになり、対象馬の1頭にテイエムオペラオーが選ばれた[131]

これ以前から、テイエムオペラオーを診察していた栗東トレーニングセンターの獣医師は、その心拍数がおおよそ26~28回/毎分と、一般例(約36回/毎分)に比較して非常に少なく、同時に時折「拍動を1回飛ばしたのではないか」と誤認するほど、鼓動と鼓動の間に長い沈黙が現れる例があることを観察していた[131]。拍動数が少ないということは、拍動1回あたりの体内への血液拍出量が多いということで、血液拍出量が多いということは体内に送れる酸素量が多く、身体負荷の掛かりにくい有酸素運動をより長く続けることができると推測された[131]。拍動数に関しては、この獣医師の経験上で近い数字の持ち主は、1997年の菊花賞優勝馬マチカネフクキタルで毎分28回、また伝聞ではシンボリルドルフが毎分30回程度だったとされる[131]。また岩元は経験的に、運動後のテイエムオペラオーの息遣いが平常に戻るのが非常に早いという印象を抱いていた[131]

2001年宝塚記念前の追い切りで4歳500万下[注釈 13]のトップジョリーと共に採取されたデータでは、まず運動強度の低いタイム計測4分前の段階では、トップジョリーの心拍数130に対してテイエムオペラオーは同80[131]、そして運動強度が上がるとテイエムオペラオーの心拍数はトップジョリーよりも素早く上昇しながらも最大心拍数は同馬より少なく(トップジョリー234回/毎分、オペラオー219回/毎分[132])、ゴール地点を過ぎて心拍数が100回/毎分まで戻る時間も、同1230秒に対して490秒とテイエムオペラオーの方が早かった[132]。調教全体のタイムは全体の6ハロン(1200メートル)でトップジョリーが84秒3に対しテイエムオペラオーが80秒9、最後の1ハロンで前者が13秒6、後者が12秒3というもので、テイエムオペラオーの方が遥かに速かったが、ゴールから4分後に計測された血中乳酸濃度(体内の酸素を使い果たした後に増加する)は前者が19.22、後者が15.35とテイエムオペラオーの方が少なく酸素摂取効率が非常に優れており[131]、競走馬総合研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持った競走馬であることが証明されました」とした[132]。また、2歳8月の実験馬との心臓自体の比較では、心臓の強靭さの目安となる心室厚が実験馬の約1.5倍、1回の血液拍出量は同1.8倍という驚異的な数値であった[131]

また、宝塚記念後に計測された安静時心拍数は、担当獣医師が以前から観察していた回数を裏付ける25回/毎分であり、また独特の心音の「飛び」も心電図上に記録されていた。心電図から算出された、交感神経副交感神経のバランスを示すHF(高周波帯域)パワー、LF(低周波帯域)パワーは、同じく実験に協力していたアグネスタキオンなどと比較しても格段に良好な数値であった[131]。この部分に関して、実験を担当した獣医師は岩元への報告書で「今後何かの機会に別の馬で(より)高い数値が記録される機会があるかもしれませんが、おそらくサラブレッド競走馬のMaxの数値に近いのではないでしょうか」と記している[131]

食の細さ

テイエムオペラオーは、岩元が「こんな馬、男馬では初めて」と嘆くほど「飼い食いが悪い(食が細い)」馬であった[49][注釈 14]。イーストスタッド場長の前田秀二によれば、栗東から北海道への輸送中、テイエムオペラオーは飼い葉を全く口にせず、丸ごとの人参も食べず、細かく刻んだ人参を床に叩きつけて柔らかくしたものを桶に入れてようやく口にしたという[133]。この食の細さは、後述する国外への遠征をしなかった理由のひとつとしても挙げられた[67]。競走前にはしばしば、飼い食いの悪さに岩元の「泣き」が入ることが恒例となっていたが、一方でこれは「人気の重圧を少しでも和らげようと思って、少しオーバーに言っていただけ。口ほど深刻にはとらえていなかった」とも振り返っており[11]、また「飼い食いが悪い」わけではなく「食べるのが遅い」馬だったのだともしている[134]

競走能力・レーススタイルに関する特徴・評価

騎手を務めた和田は、「『勝った』と思ったらすぐに気を抜く。そんな賢さを持った馬でした。圧勝したレースがほとんどないのはそのため。あれだけ長い間好調を維持できたのは必要以上の力を使わなかったから、という面もあると思うんですよ。後続をぶっちぎって勝つような、瞬間的な強さが高い評価を受けるのは分かりますが、あの馬みたいな長期間にわたる強さにも、すごく価値があると思う。馬の評価は見る人にもよって分かれるんだろうけど、もちろん僕の中ではテイエムオペラオーこそが理想の名馬です」としている[11]

安藤勝己は「ここ10年ぐらいでは抜けて強い馬だと思う。突き放して勝つとか大差で勝つとか、そういう馬は負けるときコロッとやられるけど、テイエムみたいな馬はそういう風にならないもの。引退すりゃ分かるよ。あの馬がどれだけ強かったか」と評した[135]。また後藤浩輝は「相手のことを分析するとき、この馬はどういうタイプの馬なのか、その弱点をつかむのが攻略するポイントになるけど、テイエムオペラオーに関しては、それが見えてこない。故障がないというのも凄いことなんだけど、レースにおいていつもこういうレースをやっているとか、こうしたらこうなるということが全然、テイエムオペラオーには見えてこない。それがあの馬の強さの秘密なんじゃないか」と述べている[136]武豊は「強いんじゃないですか。本当に強いと思いますよ。いつも離して勝つわけじゃないから負ける方にしてみればどうにかすれば勝てるんじゃないかと思うんですが勝てませんものね[137]」と述べている。

野平祐二は、テイエムオペラオーの特徴は故障を心配するほどに「いつも真面目に走っている」点にあるとし、「あれだけレースに行ってしっかり走るという馬はほとんど出てこない」、「リボーミルリーフと比較しても負けない」と評した[138]。また野平はテイエムオペラオーの真骨頂は「馬群を割って伸びる闘争心」にあるとしている[139]。ライターの栗山求は「まあとにかく『ミスター写真判定』って名付けたいぐらいゴール前の競り合いには強い」と評している[140]

アナウンサーの杉本清は「相当、強い馬には違いないのですが、走っても走っても、勝っても勝っても強いという印象を与えない、不思議な馬」であるとし、その理由として「"相手をねじ伏せる"というような競馬をするタイプではない」、「馬体から迫力を感じる馬ではない」という2点を挙げている。その上で「結果が示しているように、この馬はたしかに強いのです。レースぶりを見て感じるのは、"本当の芯の強さ"がある馬だということです。ねじ伏せる強さはないけれど、どんな展開にも対応できるし、気が付けば勝っているという、見たイメージとは裏腹の、そんな強さを持った馬だと思います」と評している[141]

着差をつけずに渋太く勝つというスタイルは、往年の五冠馬シンザンに擬せられ、有馬記念の優勝時には「平成のシンザン」という声もあった[70]。ステイゴールドの管理調教師・池江泰郎はテイエムオペラオーを評して「勝負を知っている馬ですね。ゴールがどこにあるかわかっている感じがします。それを示すように接戦のレースが多い。ゴール前ちょっとでも、頭でもクビでもスッと抜け出すのが一番強い馬なんですよ。シンザンもそうでしたから」と述べ[142]、またライターの江面弘也は「テイエムオペラオーのレースは地味だった。レコードも大差勝ちもいらない、ハナ差でも勝ちは勝ち、という『シンザンタイプ』の馬だった」としている[143]。2000年のシーズンは傑出した成績を残しながら、同じ顔触れの2着馬との着差がなかったことでレーティング面では高い数値にならなかったが、選考の席上では「シンザンもおそらく高いレーティングがつく馬ではなかっただろう」と話題に上ったという[2]

レーティングによる評価

2001年から過去5年間の年度最高レート(芝)
馬名 区分(m) 値(pds 出典
1997 バブルガムフェロー L(2200-2799) 121 [3]
1998 サイレンススズカ
タイキシャトル
M(1400-1899) 122
1999 エルコンドルパサー L(2200-2799) 134
2000 テイエムオペラオー L(2200-2799) 122
2001 エイシンプレストン
ジャングルポケット
M(1400-1899)
L(2200-2799)
123

テイエムオペラオーのレーティングによる最高数値は、2000年と2001年のジャパンカップで記録したL(Long)コラム122となった。2000年においては年度の日本調教馬全体の最高数値となったが、過去の数値と比較した場合、フランス遠征のなかで日本調教馬として歴代最高数値を得たエルコンドルパサーの134、日本国内においても前年スペシャルウィークの123を下回っており、決して低くはないものの突出して高いものでもなかった。『優駿』は「GI5勝今季無敗のテイエムだけに、全体に評価が低いのではないか、と感じる方は少なくないように思う」とし、その選考過程を詳説した[2]

まずジャパンカップにおけるレート決定にあたり、「基準馬」とされたのは安定性の高い能力をもつファンタスティックライトであった。日本のハンデキャッパーは当初、同馬がキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの2着で得ていた「124」の数値を基準として、その馬に勝利したこと、さらに「テイエムオペラオーが今季に残した着差以上のパフォーマンスをプラスαとして加味したい」という考えから、「125」のレートを提案していた。しかし他の各国ハンデキャッパーから「スローペースからの上がり勝負となったジャパンカップの展開で、後方から差し切ることができなかったファンタスティックライトがトップパフォーマンスを示したとは考えられない」と異論が上がり、マンノウォーステークスで得ていた120ポンドが基準値とされ、着差を2ポンド分として加えた122ポンドがテイエムオペラオーの数値とされた[2]。『優駿』は「テイエムオペラオーが残した実績は、空前にしておそらく絶後ともなり得るものである。多くの称賛をもって讃えられるべき歴史的名馬であるといえる。だがまた、競走能力を指数化したレーティングは積み重ねた記録とは別物であるということだ」と、この解説を結んだ[2]

JRA審判部首席ハンデキャップ役の甲佐勇と古橋明は、当時まだ新しい指標であった国際的な「クラシフィケーション(レーティング)」と、かつて日本で評価指標となっていた「フリーハンデ」の違いを問われ、「クラシフィケーションは1レースごとの評価なんです。各国のハンデキャッパーがレースを見て、こっちは何ポンド、あっちは何ポンドと決めていきます。(中略)一方、フリーハンデはタイトル数や通年の活躍ぶりを評価して付けていた部分がありました。シンザンやシンボリルドルフのように、連勝してGIを数多く勝つと高くなるわけです。テイエムオペラオーもフリーハンデならもっと高くなったはずです。でも1レースごとの評価だと、そうはいかない。クラシフィケーションでは、他の馬との着差がポンド差に反映されるんです。だから、いつも僅差で勝つテイエムオペラオーはなかなか高くならないんですよ」と解説し、また同時に「ファンタスティックライトを負かしたテイエムオペラオーの強さというのは、海外へ行っていなくても認識されていますし。ただアウェーに行って活躍してもらわないと、なかなかクラシフィケーションには反映されないのは事実ですね」とレート決定の内実を語っている[144]

大衆的人気の低さ

テイエムオペラオーは、勝っても勝っても人気が出なかった。成績でははるかに下のナリタトップロードなどの方がファンの声援を集めることも少なくなかった。デビューから引退までテイエムオペラオーの手綱を取りつづけた和田竜二は、この不条理にがまんがならず、あるトークショーの席で『どうしてぼくの馬には人気がないんですか』とファンに問いかけたこともあった。 — 阿部珠樹『優駿』2004年3月号「記憶に残る名馬たち - 年代別代表馬BEST10」[145]

競走馬時代のテイエムオペラオーは、しばしば「人気がなかった」とされる。和田自身、テイエムオペラオーの人気(大衆的人気)の低さについては「日本人の判官びいきっていうのを感じさせられましたね。きっと外国だったら、勝てば勝つほど人気が上がり、すごいアイドルホースになっていたでしょう。でも日本じゃ、勝つだけでは強い印象を与えられないんですね」との感想を述べている[4]

河村清明は2000年のテイエムオペラオーの戦績を取り上げて「まさに非の打ち所のない活躍を見せた。1年を通じて、同馬の好調をキープした陣営の手腕は見事だったし、また接戦を必ずものにした勝負強さは稀有なものだったと評価できる」としながらも、「巷間言われるように、テイエムオペラオーには人気がなかった。本来であれば、『どこまで勝ち続けるのか』といった期待がファンに醸成されるはずなのに、そういった気配は感じられず」と続け、その理由として、テイエムオペラオーが連勝中の各競走がどれも似通った展開だったこと、代表的なライバルだったナリタトップロード、メイショウドトウの騎乗に「何の工夫もなく、歯がゆく映って仕方なかった」こと、さらに両馬とテイエムオペラオーの力関係が「展開ひとつで着順の変わる力関係であったのはおよそ間違いなく、(中略)テイエムオペラオーを含めた上位の馬たちは、本当に強いのかと、ファンは信じることができなかったのだ」と論じた[146]。河村はまた、2001年のテイエムオペラオーが新世代の馬たちに敗れ続けた事実をもって、「むろん加齢による能力の衰えは考えられる」としつつも、「オペラオーが絶対的存在でなかったのは間違いなく、ファンはそれを00年の時点で見抜いていたのだ。あの馬の人気のなさは、ファンの眼力の向上を如実に証明していたと私は信じている」と結んでいる[146]。また吉田均も、テイエムオペラオーが勝ったレースの2着馬が「つねにメイショウドトウ、ほかでもナリタトップロードとラスカルスズカ」とバリエーションに乏しいことを取り上げ、「グラスワンダーとスペシャルウィークがいて2000年を勝ち続けていたら凄いと思うし、スター性もあったと思う。本当にスター性がないよね」と評した[67]

競馬評論家の井崎脩五郎はテイエムオペラオーの競走生活を総括し「ぼくが一番強いと思っているスペシャルウィーク世代にはオペラオーはかなわなかったと思うな。あの世代が根こそぎいなくなったし、海外の方が日本より景気がよくなって一流馬が日本に来なくなった時期とも重なるんだもの。ひとつ上は強いけど、ひとつ下はすごく弱いんだもの」と述べ、一年下の世代ではテイエムオペラオーを破ったアグネスデジタルだけが強かったとし、「テイエムオペラオーはいちばんいいとこで勝っている」とした[147]。それを受けて、キャスターの鈴木淑子が「シンボリルドルフを超える馬かというと『?マーク』がつくのは、めぐり合わせがよくて勝てていると思われているからですか」と問うと「みんなが納得しないのは、それがあるからだろうね」と述べ、同時にファンからの人気が乏しい理由もそこに関係するのではないかとした[147]

柴田政人は人気に乏しい要因を「毛色にもよるんじゃないか」と推測し、これを受けた野平祐二は「テイエムオペラオーは栗毛でもちょっと色の濃い、栃かかった(栃栗毛に近い)色なんです。グッドルッキングホースというのは結構いるんですよ。それはそれなりに走るんですが、グッドホースになると違うんです。見た目は称賛されなくても競馬にいくと強い馬をそういうんです。テイエムオペラオーは、まさにグッドホースですよね」と称えつつも、「色(の影響)はある」とした[67]

江面弘也は「勝ち方が地味だとか、名前が悪いとか、あるいは負かした相手が弱すぎるだとか、アンチオペラオーの言い分はさまざまだが、若いファンやマスコミが飛びつく血統や話題性がないのが最大の理由だと私は思っている。たとえば武豊が乗る有力厩舎のサンデーサイレンス産駒だったならば、ずいぶんと状況が違ったはずだ」としている[148]須田鷹雄は、テイエムオペラオーを支持するファンが「競馬場にはいるのかもしれないけれど、競馬マスコミとか、それを読むファンは支持していないのかもしれませんね。競馬メディアが増えてきて、ひねった見方を提示しなければいけないという考えが固定化し、浸透しすぎてしまった感じもありますから」との見解を示し、これを受けた柏木集保は「それはある意味真理でしょうね」と応じている[149]。阿部珠樹は「血統はサンデーサイレンスとは無縁だった。自厩舎の若い騎手が最後まで手綱を取りつづけた。春も秋も、2000メートル以上のGIにはすべて出走した。しかも2シーズンつづけて。そして国内最強を謳われながら、海外遠征のそぶりも見せなかった。時代の傾向とことごとく反する中で、名馬としての地位を固めていった。それがテイエムオペラオーである」と評し、「アイドル的人気のなさ、反時代的孤立は、むしろ、この馬の勲章といえるのではないか」、「この馬の評価は、10年、20年経って高まるのではないか」とした[145]

なぜ国外遠征をしなかったのか

エルコンドルパサー。スペシャルウィーク、グラスワンダーの同期馬であり、フランスでサンクルー大賞に勝利したほか、凱旋門賞2着などの成績を残した。

伝記『テイエムオペラオー 孤高の王者』の著者・木村浚太は、同書あとがきの冒頭で「私は常々、テイエムオペラオーに対する世間の評価の低さが不思議でなりませんでした」と書き出し、その「評価の低さ」を生んだ最大の理由を「"ひとり横綱"だったことと、海外遠征を断念(あるいは拒否)したことによる」とし、これがため「最後の最後まで『テイエムオペラオーは強い相手に勝っていない』と言われ続けてしまった」と論じている[150]

1999年にフランスで活躍したエルコンドルパサーなど、当時は日本調教馬が従来敗退を続けてきたヨーロッパで勝利を挙げる例が相次いでおり、テイエムオペラオーに対してもファンやマスメディアは遠征を希望する声をあげていた[54]。著名な競馬関係者にあっても、たとえば社台ファーム代表の吉田照哉は「テイエムオペラオーの実力は世界最高峰のレベルにある」と評価したうえで、「あの馬ならキングジョージなんて最適の馬場ですから、まず勝てると思うのですが。テイエムオペラオーの種牡馬としての価値を考えても、これ以上日本のレースを勝っても変わりませんが、キングジョージを勝てば世界的な評価が変わってくるはずです。日本の競馬を盛り上げるために国内で走らせるということですが、まずは内国産馬が海外でGIレースを勝って、日本の競馬レベルが本当に欧米と肩を並べたいうことをファンに示すことも、競馬を盛り上げるのに必要なことだと思うのですが」と遠征をしないことへの疑問を呈し[151]、また野平祐二は「できることなら、"キングジョージ"、凱旋門賞ブリーダーズカップ・ターフのなかの、どれか一つでもいいから、ぜひ走らせてみてほしいと思います。それは、テイエムオペラオーなら当然勝負になるという考えがあるのはもちろん、海外へ遠征することによって、関係者がこれから国内で戦う限り感じざるを得ない大きなプレッシャーから解放されるのではないかという思いもあってのことなのです」と述べた[139]

中には、「日本の競馬ファンのひとりとして、テイエムオペラオーの1勝をファンに貸していただきたいと、オーナーの竹園正繼氏に失礼を承知でお願いしたい」(江面弘也[148])、「人気の馬を持ったら公人になって、自分の馬ではなく日本の馬、ファンの馬というようなお考えで、ファンの期待に応えていただきたいとも思います」(鈴木淑子[67])などと、はっきりと竹園に向けて遠征を促すメッセージを送る者もあったが、テイエムオペラオーが遠征に出なかったことは、竹園よりも調教師である岩元の意向が大きかった[54]。岩元には巷間にあった欧米の競馬を無条件に日本競馬よりも上位とする見方への反感があり、欧米の強豪と戦いたいならばジャパンカップがあり、そもそも同競走はそのために創設されたはずだという意識もあった[54]。また、2000年には欧州で口蹄疫が流行し、検疫が厳しくなっていた状況もあり、そうしたなかで岩元厩舎に遠征のノウハウもない以上、テイエムオペラオーほどの馬を最初のケースにするのはリスクが大きすぎるという判断があった[69]。かつて岩元が心酔していたシンボリルドルフが、アメリカ遠征で怪我を負い引退に追い込まれたという出来事も頭にあったという[69]。竹園も基本的には岩元の考えに同意していたが、遠征を望む声が大きく高まれば行っても良いという程度の考えはあり[54]、実際に2001年の天皇賞(春)を勝った後には「宝塚記念を勝てば遠征も視野に」という見解を示していたが、敗れたことで幻に終わった。一方この天皇賞後のインタビューでも、岩元は「海外遠征ですが、私はあまり興味がありません」と話していた[81]

なお、2000年から2001年にかけて欧米で継続的に騎乗していた武豊によれば、2001年春にステイゴールドがアラブ首長国連邦のドバイシーマクラシック(G2。当時)を制したあと、「ステイゴールドを何度も負かしている『ティーエムオペラ』という馬は強いのか」と、外国でもしばしば話題に上っていたという[137]

雨とテイエムオペラオー

テイエムオペラオーが出走する競走当日は、天気が崩れる例が目立った。テイエムオペラオーは重馬場巧者であり、原口政也は2000年の天皇賞(秋)における心境を語るなかで「オペラオーが走るときは、なぜか雨が降る。オペラオーにとって雨は喜ばしい。芝が重くなって時計がかかっても大丈夫だし、一発が怖い『切れる』馬は、脚が鈍る。天候さえもオペラオーの味方についてくれて、心強い」と述べている[45]。一方、石田敏徳は「この馬が走るときは不思議に崩れることの多い天候を指して『最強馬ではなく最強運馬だ』などと憎まれ口を叩く者もいる」と紹介したうえで、「中距離の高速戦に対する適性を証明する舞台に、テイエムオペラオーが恵まれてこなかったことは、彼ら(注:テイエムオペラオー陣営)にとってこそ実は"不運"だったかもしれないとは書いておきたい」と取材記で述べている[89]

投票企画などの結果

年度 企画者 企画 順位 出典
2000年 日本中央競馬会 20世紀の名馬大投票 第27位 [152]
優駿(日本中央競馬会) プロの目で厳選した20世紀のベストホース100 選出 [153]
2004年 優駿(日本中央競馬会) 年代別代表馬BEST10(2000年代) 第1位 [145]
2010年 未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち 第10位 [154]
AERA朝日新聞社 競馬のプロが選ぶニッポンの名馬ベスト10 第20位 [155]
2015年 優駿(日本中央競馬会) 未来に語り継ぎたい名馬BEST100 第11位 [156]
2021年 新世紀の名馬ベスト100 第8位 [5]

上記のうち、識者投票の形であった「年代別代表馬BEST10」の企画では、5人の選者全員がテイエムオペラオーに1位票を投じた。その中で須田鷹雄は「2000年のレースぶりは『単に強いというだけでも、ここまで強ければそれだけで十分価値になる』とでもいうべきものだった。ただ、こういうタイプが何十年後にも強い印象を残しているかどうかは微妙[145]」と述べたが、2021年に行われ、テイエムオペラオーの全盛期からは外れる2001年以降に活躍した馬を対象とした「新世紀の名馬BEST100」の投票で8位にランクインし、三好達彦は「『世紀末覇王』の呼び名さえ聞こえてきたのは20世紀最後の年、2000年のことだった。それにもかかわらず、今回のランキングでベスト10に食い込んだところに、テイエムオペラオーが残した蹄跡の深さをあらためて感じ入った」と評した[5]。この企画の講評会では須田と若年ファン代表の津田麻莉奈が対談し、テイエムオペラオーの順位に触れて津田が「2000年のインパクトが相当だったということですね」と述べ、須田が「8戦8勝でGI5勝だもの」と応じている[157]

各関係者について

テイエムオペラオー陣営は、馬主・竹園正繼と調教師・岩元市三の間の関係性、そして岩元の師である布施正を介した、当時すでに旧来的といわれた人間関係による結びつきを特徴とした。野平祐二は、牧場からの馬の購入ひとつをとっても「いまは古いつながりを持っていてもお構いなしに外国に行って高くていい馬を買ってきちゃう時代」、騎手起用については「乗り替わりのほうが日常茶飯事」、馬主と調教師の関係性では「高い馬を買ってくれるオーナーがいれば、どこへでもついて行って自分のところにいい馬を入れるような時代」と指摘し、そうした時代の傾向からことごとく反した関係性の中から生まれたテイエムオペラオーを「神の思し召し以外のなにものでもない」、「よくぞやった。よくぞ出てきたもんだ」と称賛した[67]。また石田敏徳は「人馬の巡り合わせとは本当に不思議なもので、もし岩元と竹園の邂逅がなければ、テイエムオペラオーは全く異なる馬生を歩んでいたに違いない。もっと完璧な王道を歩んでいただろうか。あるいは海外へ雄飛していただろうか。だがどんな想像を働かせてみても、岩元の"チーム"に所属するよりさらに魅力的なテイエムオペラオーを、私にはどうしてもイメージすることができないのだ」と述べた[11]

竹園正繼と岩元市三

馬主の竹園正繼と調教師の岩元市三はいずれも鹿児島県肝属郡垂水町(後の垂水市)出身で、幼馴染であった[158]。年齢では1つ、学年では2つ竹園の方が上で[58]、竹園は子供たちのグループのボス的存在で岩元は「配下」のような立ち位置にあったが[11]、ともに母子家庭で互いの母親同士の仲も良く、竹園は仲間内でも岩元に対して特に親身で、「体の鍛錬」として相撲を取ったり海岸線をランニングしていたりしたという[158]

岩元は中学校卒業後に垂水を離れて大阪の花屋に就職し、地元の仲間とは縁遠くなった[158]。のち店主に誘われて訪れた競馬場で騎手の姿に憧れ、鹿児島県出身騎手の山下一男が所属する布施正厩舎に入門。1974年に26歳という騎手としては遅い年齢でデビューした[158]。一方の竹園は高校卒業後に上京し、建築会社に就職[158]。上京後に趣味として競馬にのめりこみ、毎週のように競馬場へ通うようになったが、やがて事業者として独立を目指すため競馬を断ち、1976年に建築資材を扱う会社「テイエム技研」を設立した[159]。1982年、岩元は騎乗馬バンブーアトラスで日本ダービーに優勝する。会社のテレビで見るともなくこの競走を観戦していた竹園は、勝利騎手インタビューで画面に大写しになった岩元の姿に非常に驚き、同時に「馬主として岩元に再会したい」と思い立つ[159]。そして1987年に馬主資格を取得すると、直後に赴いた小倉競馬場の検量室で両者は20数年ぶりに再会した。このとき岩元は竹園に「大きくなったなあ」と声を掛けたという[159]。その後、竹園は岩元を自身の所有馬の騎手として起用をはじめる。岩元の騎手として引退レースの騎乗馬も竹園の所有馬であった[160]。そして岩元が騎手を引退し、調教師に転身してからは2人で馬産地を回るようになり、そこで見出されたのが後のテイエムオペラオーであった。

なお、竹園は自らテイエムオペラオーを選んだように相馬眼の確かさを謳われるようになるが、竹園に馬の見方を教えたのは布施であった[160]。テイエムオペラオーの競走馬時代には、同馬のほかにGI競走3勝のテイエムオーシャンがおり、2000年には11月26日のジャパンカップをオペラオー、12月3日の阪神3歳牝馬ステークスをオーシャンで連勝し、史上2例、個人馬主では初となる同一馬主による2週連続GI制覇を達成[74]。また、11月11日には京都ハイジャンプ(J・GII)をテイエムダイオー、京王杯3歳ステークス(GII)をテイエムサウスポーが制し、これも史上2例目の同一馬主による1日2重賞勝利を達成した[161]。同年の高額賞金獲得馬ランキングでは、全馬総合でテイエムオペラオー、3(2)歳部門でテイエムサウスポーが1位となった[162]。この時期の竹園所有馬の勢いは「テイエム旋風[58]」とも評された。

和田竜二

全戦で手綱をとった和田竜二は1999年時点でデビュー3年目の若手騎手であった。同期生に福永祐一らがおり、和田も含めて競馬学校花の12期生ともいわれたが、馬の能力に対して和田は技量不足を指摘されることもあった。テイエムオペラオー引退の翌年に行われたインタビューでは、「あのクラスの馬に乗る騎手としては、経験も力量も自分には不足していたのかな、と思うことがあります。うわべは平静を装っていても、実際はついていくのに一杯一杯でしたからね」とその心境を吐露している[11]。竹園は和田に対して「何回もビッシリと説教した」といい、また岩元について「物凄く真面目で努力家でもある岩元は、安心して物事を任せられる人物ですが、人柄がよすぎて、あまりキツいことを言えないところもあるんです。だからそのかわりに僕が言うことにした」と述べている[10]。なお、菊花賞後に竹園が和田の降板を求めた際に岩元は頑としてこれを容れなかったが、この出来事は岩元自身が騎手だった時代、敗戦後に馬主が「次のレースでは別の騎手を」と布施に迫ったとき、布施が「それでは、どうぞあの馬、今すぐ別の厩舎に持っていってください」と岩元を庇っていた[158]、その恩義を守らなければならないという意識も念頭にあった[32]

テイエムオペラオーで勝ち続けていた最中の勝利騎手インタビューでは、「シャーッ」という雄叫びや[4]プロレスラーアントニオ猪木を模した「1、2、3、ダー!」というパフォーマンスを行っていたことでも知られた[163]。ライターの山河拓也は投票企画でテイエムオペラオーに1位票を投じた際に「鞍上は『しゃあー』とか『ダー』とか叫んでいたが」と書いているが[145]、和田のこうした行動の背景には、「もっとテイエムオペラオーを評価して、人気を高めてほしい」という考えもあったという[4]

その後、和田は北海道で騎乗する機会に合わせてテイエムオペラオーと一度だけ牧場で対面したが、自身の中で「ラストランの有馬記念を勝利で締め括れなかった」という悔いも強くあり、「もう一度GIに勝って一人前の騎手になり、胸を張って会いに行きたい」との考えから、それ以降はテイエムオペラオーのもとを訪れることはなくなった[164]。しかし以降の和田は勝利数やGII以下の重賞では一定の成績を残したものの、GI勝利に手が届かず、再び対面することは叶わないまま2018年5月にテイエムオペラオーは心臓まひで急死する。この時は和田の妻も「(GI勝ちの報告が)間に合わなかったね」と話したという[164]。翌週に和田は牧場を訪れ、テイエムオペラオーの祭壇に花を手向けると共に、「どうにか春のうちに大きいところを勝ちたい」と決意、そして春のグランプリ・宝塚記念をミッキーロケットで制し、2001年の天皇賞(春)以来、17年ぶりのGI勝利を果たした[164]。競走後に和田は目を潤ませながら「テイエムオペラオーが後押ししてくれた」と語った[165]

原口政也

調教厩務員を務めた原口政也は、1999年4月に厩務員課程を修了し岩元厩舎に配属されたばかりで、引き継ぎで牝馬を担当していたものの、5月に入厩してきたテイエムオペラオーがデビュー前から担当する初めての馬であった[16]。高校卒業後は一時大学進学を目指したが何事も続かず、一念発起して厩務員を志し、育成牧場で4年の勤務を経て厩務員となっていた。大塚美奈による取材記では「トレセンに入れるだけでよかった」と何度も口にしたという[166]。父親と弟も厩務員を務め、父は定年の65歳まで勤めあげたが、重賞勝利馬には縁がなかった[166]。原口は「テイエムオペラオーは"ごほうび"の気がする。僕なりに闇が多かったから、光を当ててくれた気がする」と語っている[166]。なお、後に原口は東京大賞典四連覇などの成績を挙げたオメガパフューム安田隆行厩舎を経て安田翔伍厩舎)も担当している[167]

杵臼牧場

生産者の杵臼牧場は、テイエムオペラオーが皐月賞に優勝した時点で繋養牝馬数18頭[8]という中小規模の生産牧場であった。公には1959年創業だが、アラブ馬を飼養していた畑作農家からの転業で、正確にいつ頃から競走馬生産を始めたかはっきりしないという[8]。布施と1962年から付き合いがあり、中央競馬へ行く馬についてはほとんどが布施と繋がりのある厩舎に入っていた。牧場生産の重賞初勝利馬でテイエムオペラオー以前の代表馬であったキングラナーク[8]は布施厩舎に所属し、岩元の騎手としての重賞初勝利馬でもあった[158]。場主の鎌田信一が「雲の上の存在[8]」と話したGI競走を、テイエムオペラオーで一挙に7つ獲得することとなった。

なお、同場所在の浦河地区は近隣牧場の結束が強く、2000年のジャパンカップ出走時には牧場仲間が杵臼牧場を訪れて「夫妻そろって観戦に行くべきだ」と進言、そうしたいと考えながらも小牧場ゆえに2人も欠ければ手が足りなくなると渋る鎌田に、仲間らは「(不在のあいだ)自分たちが牧場を手伝うから」と申し出て、夫妻を東京競馬場へ送り出したという。鎌田の妻にとっては初めての競馬場におけるレース観戦であり、また当日は独立して札幌や大阪で働いていた子供たちも呼び寄せ、家族揃っての応援であった[69]

血統

血統背景

祖父サドラーズウェルズから連なる「サドラーズウェルズ系」は、スタミナ色が濃く「日本競馬に不向き」な血統との評もあるが、父オペラハウスはテイエムオペラオー以外にもGI競走4勝を挙げたメイショウサムソンなど数々の活躍馬を輩出した。また、血統評論家の吉沢譲治は特に母の父ブラッシンググルームと長距離血統の相性の良さに着目し、「すなわちブラッシンググルームの血は、自身のスピード、鋭い決め手を伝える一方で、配合相手から父系、母系に関わらずスタミナを引き出した」と論じ、テイエムオペラオーの鋭い脚はブラッシンググルームからもたらされたものだとしている[11](両親配合の経緯については#生い立ちを参照のこと)。

血統表

テイエムオペラオー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 サドラーズウェルズ系
[§ 2]

*オペラハウス
Opera House
1988 鹿毛
イギリス
父の父
Sadler's Wells
1981 鹿毛
アメリカ
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Fairy Bridge Bold Reason
Special
父の母
Colorspin
1983 鹿毛
イギリス
High Top Derring-Do
Camenae
Reprocolor Jimmy Reppin
Blue Queen

*ワンスウエド
Once Wed
1984 栗毛
アメリカ
Blushing Groom
1974 栗毛
フランス
Red God Nasrullah
Spring Run
Runaway Bride Wild Risk
Aimee
母の母
Noura
1978 黒鹿毛
Key to the Kingdom Bold Ruler
Key Bridge
River Guide Drone
Blue Canoe
母系(F-No.) 4号族(FN:4-m) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco5×5=6.25%、Nasrullah4・5=9.38%(母内) [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ テイエムオペラオー 5代血統表2017年8月26日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com テイエムオペラオー 5代血統表2017年8月26日閲覧。
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  4. ^ netkeiba.com テイエムオペラオー 5代血統表2017年9月4日閲覧。


主な近親

脚注

注釈

  1. ^ 2017年にアメリカのアロゲートが更新。
  2. ^ ただし岩元は騎手時代の1981年に騎乗馬バンブーアトラスで旧八大競走の日本ダービーを制している。
  3. ^ 海外での競走を含めた日本調教馬への評価としてはエルコンドルパサーに次ぐ第2位。
  4. ^ 2003年12月28日の有馬記念でシンボリクリスエスが記録を更新。ジャパンカップでの記録としては2006年ディープインパクトが記録を更新。
  5. ^ タイキシャトルは8連勝の間にフランス遠征を挿んでおり、JRA重賞に限るとテイエムオペラオーは単独首位。
  6. ^ ほか、記者投票による選出ではなかった「啓衆社賞」時代にメイヂヒカリが「満場一致」で年度代表馬となった例がある。
  7. ^ 競走前の待機所への移動に兼ねて行われるウォーミングアップ。
  8. ^ 2020年11月1日にアーモンドアイが記録を更新。
  9. ^ 交流重賞を含めると、2012年1月25日の川崎記念でスマートファルコンが史上2頭目の達成。
  10. ^ 2011年11月27日のジャパンカップでブエナビスタが記録を更新。
  11. ^ 交流重賞を含めると、2010年12月29日の東京大賞典競走でスマートファルコンが記録を更新。
  12. ^ 達成馬は他にオルフェーヴルジェンティルドンナキタサンブラックの3頭。
  13. ^ 2019年以降のクラス呼称は「1勝クラス」。
  14. ^ 競馬用語で、食が細い、細りやすい様子を言う。「飼い」は飼い葉=飼料のこと。

出典

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参考文献

書籍

  • 杉本清『これが夢にみた栄光のゴールだ - 名実況でつづる永遠の名馬たち』(日本文芸社、2001年)ISBN 978-4537250503
  • 木村俊太『テイエムオペラオー - 孤高の王者』(廣済堂出版、2002年)ISBN 978-4331508893
  • 大塚美奈『馬と人、真実の物語』(アールズ出版、2002年)ISBN 978-4901226424
  • 河村清明『JRA ディープ・インサイド - 知られざる「競馬主催者」の素顔』(イースト・プレス、2003年)ISBN 978-4872573565
  • 『競馬名馬&名勝負年鑑 1999-2000』(宝島社、2000年)ISBN 978-4796694926
  • 『競馬名馬&名勝負年鑑 2000-2001』(宝島社、2001年)ISBN 978-4796621076
  • 『Gallop 2000 (週刊 Gallop 臨時増刊号) 』(産業経済新聞社、2000年)ASIN B00A15DAUQ
  • 『週刊Gallop臨時増刊号 JRA重賞年鑑2001』(産業経済新聞社、2000年)ASIN B00MEBBPIO
  • 『TURF HERO 2000(優駿2月号増刊)』(日本中央競馬会、2001年)
  • 『名馬物語 - The best selection (2) 』(エンターブレイン、2003年)ISBN 978-4757714977
  • 『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 978-4022744272
  • 『Number競馬ノンフィクション傑作選 名馬堂々。』(文藝春秋、2021年)ISBN 978-4160082571
  • 『優駿』(日本中央競馬会)各号

外部リンク