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*[[イギリス]]など[[君主制]]をとる国に対しては、比較的新興国の部類に入る[[パフラヴィー朝|イラン帝国]]なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない[[1956年]](昭和31年)には[[エチオピア帝国|エチオピア]]皇帝[[ハイレ・セラシエ1世|ハイレ・セラシエ]]の来日を迎え、[[満州国]]皇帝・[[溥儀]]以来の大がかりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年(昭和50年)の[[沖縄国際海洋博覧会]]にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった[[1976年]](昭和51年)の[[中央アフリカ帝国]]建国に際しても祝電を送っている。 |
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*「イングランドの最高勲章」および「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典」においての「騎士団勲章」の最高位とその騎士団の一員の証となる「[[ガーター勲章]]」を[[1929年]](昭和4年)に叙勲しているが、[[1941年]](昭和16年)[[12月]]の日英開戦とともに剥奪された。戦後、1962年(昭和37年)の[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃]]訪英、1969年(昭和44年)の[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]訪日などで日英の皇室・王室間の友好交流が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ[[1971年]](昭和46年)[[4月7日]]、[[イギリス王室]]は「剥奪された日本国天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発し、これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位に復帰した。剥奪後に復帰した外国君主は騎士団600年あまりの歴史の中で昭和天皇のみである。[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]の各国は戦後に王制([[君主制]])が廃止([[共和制]]へ移行)されたため復帰されることはなかった。 |
*「イングランドの最高勲章」および「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典」においての「騎士団勲章」の最高位とその騎士団の一員の証となる「[[ガーター勲章]]」を[[1929年]](昭和4年)に叙勲しているが、[[1941年]](昭和16年)[[12月]]の日英開戦とともに剥奪された。戦後、1962年(昭和37年)の[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃]]訪英、1969年(昭和44年)の[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]訪日などで日英の皇室・王室間の友好交流が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ[[1971年]](昭和46年)[[4月7日]]、[[イギリス王室]]は「剥奪された日本国天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発し、これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位に復帰した。剥奪後に復帰した外国君主は騎士団600年あまりの歴史の中で昭和天皇のみである。[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]の各国は戦後に王制([[君主制]])が廃止([[共和制]]へ移行)されたため復帰されることはなかった。 |
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*[[1971年]](昭和46年)[[6月]]、[[佐藤栄作]]首相が[[アーミン・マイヤー]][[駐日アメリカ合衆国大使|米国駐日大使]]と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと[[ |
*[[1971年]](昭和46年)[[6月]]、[[佐藤栄作]]首相が[[アーミン・マイヤー]][[駐日アメリカ合衆国大使|米国駐日大使]]と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと[[蔣介石]]([[台湾]]の[[中華民国]]政府)を支持するよう促された」と伝えられていたことが、秘密情報解除された[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]の外交文書で判明。しかし、[[国際連合|国連]]代表権は同年[[10月]]の[[国際連合総会|国連総会]]で[[採択]]され[[毛沢東]]主席の[[中華人民共和国]]に移行した<ref>2015年7月31日[[中日新聞]]朝刊4面「昭和天皇 蔣介石を支持 米文書で判明 異例の政治的発言」</ref>。 |
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*[[1975年]](昭和50年)に[[タイム (雑誌)|タイム]]誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており<ref name=asahi201812/>、[[1978年]](昭和53年)10月に中国の指導者として初めて訪日した[[鄧小平]]中央軍事委員会主席と会見した際は天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪して鄧小平を感激させ<ref>[[入江相政]]日記241頁</ref>、[[1984年]](昭和59年)4月には「中国へはもし行けたら」と述べて中国政府の訪中要請に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた<ref>城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』8頁、文春新書</ref><ref name=asahi201812>{{cite news |title= 「なぜ官僚の私が…」天皇訪中、大使は保守派を説得した|publisher=[[朝日新聞]] |date=2018-12-22 |url=https://www.asahi.com/articles/ASLCZ6550LCZUTIL04V.html |accessdate=2019-09-12}}</ref>。 |
*[[1975年]](昭和50年)に[[タイム (雑誌)|タイム]]誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており<ref name=asahi201812/>、[[1978年]](昭和53年)10月に中国の指導者として初めて訪日した[[鄧小平]]中央軍事委員会主席と会見した際は天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪して鄧小平を感激させ<ref>[[入江相政]]日記241頁</ref>、[[1984年]](昭和59年)4月には「中国へはもし行けたら」と述べて中国政府の訪中要請に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた<ref>城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』8頁、文春新書</ref><ref name=asahi201812>{{cite news |title= 「なぜ官僚の私が…」天皇訪中、大使は保守派を説得した|publisher=[[朝日新聞]] |date=2018-12-22 |url=https://www.asahi.com/articles/ASLCZ6550LCZUTIL04V.html |accessdate=2019-09-12}}</ref>。 |
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*[[1973年]](昭和48年)[[5月26日]]、認証式のため参内した[[防衛庁長官]](現在の[[防衛大臣]]職に相当)・[[増原惠吉]]が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は昭和天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、([[自衛隊]]は)[[日本軍|旧軍]]の悪いことは真似せず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原防衛庁長官は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった([[増原内奏問題]])。 |
*[[1973年]](昭和48年)[[5月26日]]、認証式のため参内した[[防衛庁長官]](現在の[[防衛大臣]]職に相当)・[[増原惠吉]]が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は昭和天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、([[自衛隊]]は)[[日本軍|旧軍]]の悪いことは真似せず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原防衛庁長官は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった([[増原内奏問題]])。 |
2020年9月15日 (火) 13:24時点における版
昭和天皇 | |
---|---|
1956年(昭和31年)11月撮影 | |
即位礼 |
即位礼紫宸殿の儀 1928年(昭和3年)11月10日 於 京都御所 |
大嘗祭 |
1928年(昭和3年) 11月14日・15日 於 仙洞御所大嘗宮 |
元号 | 昭和: 1926年12月25日 - 1989年1月7日 |
内閣総理大臣 | |
先代 | 大正天皇 |
次代 | 明仁 |
天皇 | 大正天皇 |
内閣総理大臣 | |
誕生 |
1901年(明治34年)4月29日 22時10分 日本 東京府東京市赤坂区 青山御所 |
崩御 |
1989年(昭和64年)1月7日 午前6時33分 (宝算87) 日本 東京都千代田区千代田 吹上御所 |
大喪儀 |
葬場殿の儀 大喪の礼 1989年(平成元年)2月24日 於 新宿御苑葬場殿 |
陵所 |
武蔵野陵 (東京都八王子市長房町) |
追号 |
昭和天皇(しょうわてんのう) 1989年(平成元年) 1月31日[1]追号勅定 |
諱 |
裕仁(ひろひと) 1901年(明治34年)5月5日命名 |
別称 | 昭和帝(しょうわてい) |
称号 | 迪宮(みちのみや) |
印 | 若竹(わかたけ) |
元服 | 1919年(大正8年)5月7日 |
父親 | 大正天皇 |
母親 | 貞明皇后 |
皇后 |
香淳皇后(良子女王) 1924年(大正13年)1月26日 結婚 |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子明仁親王[注釈 1] |
皇居 | 宮城・皇居 |
栄典 | 大勲位 |
学歴 | 学習院初等科卒業 |
副業 | 生物学者 |
親署 |
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 2](在位:1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。
1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。
60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した[2]。
人物
1901年(明治34年)4月29日に大正天皇(当時:皇太子嘉仁親王)の第一皇子(皇男子)として誕生する。母は、貞明皇后。
弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。
1916年(大正5年)に立太子。1921年(大正10年)に日本の皇太子として初めて欧州を歴訪[3](皇太子裕仁親王の欧州訪問)。帰国後に、摂政に就任。
1924年(大正13年)に、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と結婚。
東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王、鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、明仁(継宮明仁親王、第125代天皇・上皇)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、島津貴子(清宮貴子内親王)の2男5女、皇子女7人をもうける。
1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する[3]。
戦前には大日本帝国憲法において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にあった。歴史学者の多くは、「戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には政府が決定した方針を承認するのみだった」と指摘している[3]。一方で、軍事・外交においては、しばしば独自の判断を示すこともあり、二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏において、連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに関与した[4]。また学者の中には、「満州事変から第二次世界大戦までの日本の拡張主義(「十五年戦争」)の国策決定に、昭和天皇が関与した」と主張する者もいる[3]。1945年(昭和20年)8月に、ラジオでいわゆる玉音放送を行って国民に終戦を宣言した[3]。1946年(昭和21年)には人間宣言(新日本建設ニ関スル詔書)を発して神格化を否定[3]。占領期にはダグラス・マッカーサーとの会見などを通じて独自の政治的影響力を発揮した[4]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。1971年(昭和46年)には天皇として初めて欧州を訪問し、1975年(昭和50年)には同じく天皇として初めてアメリカ合衆国を訪問した(いずれの外国訪問に香淳皇后同伴)[3]。
また、昭和天皇は生物学研究者でもあり、『相模湾産後鰓類図譜』などを著した[3]。
1989年(昭和64年)1月7日に崩御。これに伴い、長男の皇太子明仁親王が皇位継承し第125代天皇に即位した[3]。
昭和天皇は、継体天皇以降の歴代天皇の中では在位期間が最も長く(62年及び14日間)、最も長寿(宝算87)であった。
2020年(令和2年)1月1日現在、皇位継承権を有する男性皇族3名(秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王[注釈 3])の最近共通祖先[注釈 4]たる天皇にあたる(詳細は「皇位継承順位」を参照)。
生涯
幼少時代
昭和天皇は1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の第三皇男子で皇太子嘉仁親王(のちに践祚して大正天皇)と皇太子嘉仁親王妃節子(のちに立后して貞明皇后)の第一男子(第1子、のちに第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生した。身長は1尺6寸8分(約51cm)、体重800匁(3000g)であった。
祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせた。
出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。皇族身位は、親王。
他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている[6][注釈 11]。
生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長乃木希典(陸軍大将)に教育された。また、幼少時の養育係の一人には足立たか(のち、鈴木姓。大日本帝国海軍軍人、侍従長、鈴木貫太郎総理大臣夫人)もいた。
皇太子時代
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い皇太子となる。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い正式に皇太子となった。
1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、帝国議会貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。
大正天皇の病状悪化のなかで、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪した。1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世(現:エリザベス2世女王の祖父)から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された[7]。同年11月25日、20歳で摂政に就任し[8]、摂政宮(せっしょうみや)と称した(2020年〈令和2年〉4月1日現在、日本史上最後の摂政である)。
1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。
9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日に虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦長門で樺太を視察、10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子/第1子・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。
即位
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、「昭和(読み:しょうわ)」と改元[注釈 12]。なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王が皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王(後の第125代天皇、退位後の上皇明仁)の誕生まで続いた。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う[注釈 13]。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。
1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女/第2子の久宮祐子内親王が薨去(夭折)。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。11月14 - 15日、仙洞御所内に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行する。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社を参拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。
1931年(昭和6年)1月、宮内省(現宮内庁)・文部省(現文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。
1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇、現:上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝の溥儀(清朝最後の皇帝)を東京駅に迎えた。11月28日には第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。
日中戦争と第二次世界大戦
1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。
1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、大東亜戦争が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月21日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定する。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。この放送における「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の一節は終戦を扱った報道特番などでたびたび紹介され、よく知られている。
昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また、同年には神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。
「象徴天皇」として
戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。行幸に際しては、迎える国民に向かって食事のことなど、生活に密着した数多くの質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の「涼しくなってからでいいのでは」との反対を押し切り、「東北の農業は夏にかかっている」という理由で夏の季節時期を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにしたとされる[9]。
1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、昭和天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男の継宮明仁親王への譲位、当時まだ未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟秩父宮雍仁親王は結核を患い療養下にあったため、次弟高松宮宣仁親王が摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、昭和天皇の祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。
1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。
1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともにイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪し、1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた[10]。
1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として東京都の立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日)から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、昭和天皇は新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され[注釈 14]、継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。
晩年
1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中、嘔吐症状で中座した[注釈 15]。8月以降になると吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明された。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。
しかし1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日の全国戦没者追悼式が天皇として最後の公式行事出席となった。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内を映し出されたのが最後の公の姿となった。
昭和天皇は9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌9月19日の午後10時ごろ、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行った。その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸、尿毒症を併発、マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道し、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した[注釈 16]。死因は、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)と発表された[注釈 17]。神代を除くと、歴代の天皇でもっとも長寿であった。午前7時55分、藤森宮内庁長官と小渕恵三内閣官房長官(のちの内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表。
その直後、竹下登内閣総理大臣(当時:竹下改造内閣)が「大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話」を発表した[注釈 18]。
1989年(平成元年)1月31日、天皇が勅定、在位中の元号から採り「昭和天皇」(しょうわてんのう)と追号した[12]。
同年2月24日、新宿御苑において日本国憲法・現皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる[13]。
年譜
- 1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、父親の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と母親の皇太子妃節子(のちの貞明皇后)との間に第一子・第一皇男子として、青山の東宮御所に誕生する。
- 1908年(明治41年)学習院初等科に入学。学習院院長・陸軍大将乃木希典から教育を受ける。
- 1912年(大正元年)7月30日、祖父・明治天皇崩御、父・大正天皇の践祚に伴い皇太子となる。9月、陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。
- 1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
- 1916年(大正5年)、陸海軍大尉昇任。11月3日、立太子礼。
- 1918年(大正7年)、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王が、皇太子裕仁親王妃に内定する。
- 1919年(大正8年)、成年式。大日本帝国陸海軍少佐に昇任。
- 1921年(大正10年)
- 1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが命中せず命を取り留める(虎ノ門事件)。
- 1924年(大正13年)、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と成婚。
- 1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
- 1925年(大正14年)12月6日、第一子・第一女子の照宮成子内親王誕生。
- 1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、大日本帝国憲法および旧皇室典範の規定に基づき、践祚して第124代天皇となる。貞明皇后は皇太后に、皇太子裕仁親王妃良子女王は皇后となる。「大正」から「昭和」(しょうわ)に改元。陸海軍大将、日本軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の最高指揮官たる大元帥となる。
- 1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件。
- 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行う。12月、御大典記念観兵式。
- 1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。
- 1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件、満州事変。
- 1933年(昭和8年)12月23日、第五子・第一皇男子の継宮明仁親王が誕生する。
- 1935年(昭和10年)天皇機関説事件。
- 1935年(昭和10年)4月、来日した満州国皇帝の愛新覚羅溥儀を東京駅に迎える。
- 1936年(昭和11年)2月26日 - 2月29日、二・二六事件。
- 1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件、日中戦争(支那事変)。
- 1940年(昭和15年)11月10日、宮城外苑(皇居前広場)において挙行された「紀元二千六百年式典」および、翌11月11日、同会場におけて挙行された「紀元二千六百年奉祝会」に香淳皇后同伴で臨席。
- 1941年(昭和16年)12月8日、対英米開戦。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。
- 1945年(昭和20年)8月15日(正午)国民に対して自身が音読し録音された「終戦の詔書」がラジオ放送され、「戦争終結」が告げられた(玉音放送)。
- 1946年(昭和21年)1月1日、「新日本建設に関する詔書」を渙発する。
- 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵、桃山陵、靖国神社をそれぞれ親拝。
- 1958年(昭和33年)「慶應義塾大学創立百年記念式典」にて「おことば」を述べる。
- 1959年(昭和34年)長男の皇太子明仁親王が正田美智子と成婚。
- 1962年(昭和37年)南紀白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)にて、30年前に訪問した神島を眺めつつ、熊楠を偲ぶ御製(天皇が詠む短歌)「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
- 1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后同伴でイギリス、オランダなど欧州諸国を歴訪する。
- 1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、香淳皇后同伴でアメリカ合衆国を訪問する。
- 1981年(昭和56年)皇居新年一般参賀において、参集した国民に対して初めて「お言葉」を述べる。
- 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
- 1988年(昭和63年)8月15日、日本武道館での「全国戦没者追悼式」に出席、これが公の場への最後の親覧となる。
- 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)のため崩御(宝算87歳)。日本国憲法および皇室典範の規定に基づき、、直ちに長男(第5子)の皇太子明仁親王が皇位継承して即位、第125代天皇となる。皇太子明仁親王妃美智子が皇后となると同時に、香淳皇后は皇太后となる。
- 1989年(平成元年)1月31日、追号が「昭和天皇」と定められ(上皇勅定)、皇居で「追号奉告の儀」が行われる。
- 1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において「大喪の礼」が行われ東京都八王子市の武蔵野陵に埋葬される。日本国憲法と(現行の)皇室典範に基づき葬られた、最初の天皇である。
- 2014年(平成26年)8月21日、昭和天皇の言動を公式記録した「昭和天皇実録」を宮内庁が24年かけて完成させ、天皇明仁(当時)及び皇后美智子(当時)に奉呈した。本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同庁が全ての内容を公表したのち、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される[15][16]。
系譜
昭和天皇の系譜 |
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昭和天皇 | 父: 大正天皇 |
祖父: 明治天皇 |
曾祖父: 孝明天皇 |
曾祖母: 中山慶子 | |||
祖母: 柳原愛子 |
曾祖父: 柳原光愛 | ||
曾祖母: 長谷川歌野 | |||
母: 貞明皇后 |
祖父: 九条道孝 |
曾祖父: 九条尚忠 | |
曾祖母: 唐橋姪子 | |||
祖母: 野間幾子 |
曾祖父: 野間頼興[17] | ||
曾祖母: 不詳 |
系図
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇子女
香淳皇后(良子女王)との間に2男5女の7人の子女をもうけた。うち夭折した第二皇女子(第2子)を除き、6人が成人した。
2020年(令和2年)4月1日現在、3女は故人、第四皇女子(第4子)以降の4人の子女(2男2女)は80歳以上で存命中である。
御称号及び 諱・身位 |
読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
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照宮成子内親王 | てるのみや しげこ | 1925年〈大正14年〉 12月6日 |
1961年〈昭和36年〉 7月23日(満35歳没) |
第一皇女子 (第1子) |
盛厚王(東久邇宮家)と結婚後、 盛厚王妃成子内親王となる。 戦後の皇籍離脱後は、 東久邇成子(姓読み:ひがしくに)となる。 子女:3男2女(5人)。 | |
久宮祐子内親王 | ひさのみや さちこ | 1927年〈昭和2年〉 9月10日 |
1928年〈昭和3年〉 3月8日(満0歳没) |
第二皇女子 (第2子) |
久宮祐子内親王、夭折。 子女:無し。 | |
孝宮和子内親王 | たかのみや かずこ | 1929年〈昭和4年〉 9月30日 |
1989年〈平成元年〉 5月26日(満59歳没) |
第三皇女子 (第3子) |
鷹司平通と結婚 皇籍離脱後、鷹司和子(姓読み:たかつかさ)となる。 (皇室典範第12条[18]の規定による) 子女:無し、養子:1男(1人)。 | |
順宮厚子内親王 | よりのみや あつこ | 1931年〈昭和6年〉 3月7日 |
存命中(93歳) | 第四皇女子 (第4子) |
池田隆政と結婚 皇籍離脱後、池田厚子(姓読み:いけだ)となる。 (皇室典範第12条[18]の規定による) 子女:無し。 | |
継宮明仁親王 | つぐのみや あきひと | 1933年〈昭和8年〉 12月23日 |
存命中(90歳) | 第一皇男子 (第5子) |
正田美智子と結婚 (→皇太子妃→皇后→上皇后美智子) 明仁(第125代天皇) 1989年(昭和64年)1月7日: 父である昭和天皇の崩御に伴い、 即位(皇位継承:践祚)。 2019年(平成31年)4月30日に退位(譲位)、 上皇 (天皇退位特例法): 2019年(令和元年)5月1日 - 。 子女:2男1女(3人)。 | |
義宮正仁親王 | よしのみや まさひと | 1935年〈昭和10年〉 11月28日 |
存命中(88歳) | 第二皇男子 (第6子) |
津軽華子(旧姓読み:つがる)と結婚 (→正仁親王妃華子)。 常陸宮正仁親王(常陸宮当主) 皇位継承順位第3位[19]。 子女:無し。 | |
清宮貴子内親王 | すがのみや たかこ | 1939年〈昭和14年〉 3月2日 |
存命中(85歳) | 第五皇女子 (第7子) |
島津久永と結婚 皇籍離脱後、島津貴子(姓読み:しまづ)となる。 (皇室典範第12条[18]の規定による) 子女:1男(1人)。 |
主な出来事
乃木希典による教育
- 乃木の薫陶
1912年(明治45年)7月30日の祖父・明治天皇の崩御後、同年9月13日に陸軍大将・乃木希典が同夫人乃木静子とともに殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め、少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。乃木は直接的な言葉よりも「暗示」や「感化」によって、迪宮に将来の天皇としての自覚を持たせようと試みたとされる[20]。
乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になったあとも記者会見の中で度々紹介している[21][22][23]。このように、複数回個人名を挙げたことは、極めて異例であった[24]。
鈴木孝(足立たか)の回想によれば、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった[25][26]。鈴木孝によれば、側近が「乃木大将の拝謁」を報告した際には「院長閣下と申し上げなきゃいけない」と注意したという[27]。
一方、乃木は皇位継承者である迪宮が常に最上位でなければならないという考えのもと、弟宮たちとは明確に区別した。また乃木の指示で、迪宮ら三親王も出席する学習院の朝礼の際には教育勅語の暗唱に続いて、生徒たちに「最高の望みは何か」と問い、「天皇陛下のために死ぬこと」と唱和させた[28]。また乃木は月に数度、院長室に迪宮を招いて皇孫としての心得や軍人時代の経験などを語り聞かせていた[29]。
- 乃木の殉死
1912年(大正元年)9月11日(9日など他説あり)、参内した乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を与えた[25]。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。
9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子と弟宮たちはその翌朝に養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、その辞世の歌にも接して涙を流した[30][31]。丸尾によると、皇太子はこの時、涙ながらに「乃木院長が死なれた」「ああ、残念である」とつぶやいた[32]。
乃木が与えた『中朝事実』が、のちに三種の神器を重要視する考え方に影響を与えたとの意見もある[33]。
宮中某重大事件
1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月、元老・山縣有朋が良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言した。山縣は、西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、1921年(大正10年)2月10日に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。
事件の責任を取って宮内大臣・中村雄次郎が辞任し、山縣も枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病気により没した。
婚礼の儀の延期と関東大震災
1923年(大正12年)9月1日発生の関東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行啓する予定であったが、当時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。のちに昭和天皇はこのときを振り返り、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている[34]。
地震における東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。
後年、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している[35]。また、同会見では、甚大な被害に加え、皇族にも死者が出た[注釈 19]ことから、9月1日を「慎みの日」としていることを明かしている[36]。
田中義一首相を叱責
満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣の田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかったとき、昭和天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる。(田中首相は、その後間もなく死去した。)
田中内閣時には、若い昭和天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導のもと、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。昭和天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で 昭和天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。
なお『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と昭和天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。
昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄が「牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため」と、原武史も「地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による」と論じている。
「天皇機関説」事件
1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、時の当事者たる昭和天皇自身は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けたころには憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動をめぐって昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。
二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる[37]。
このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して、初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと日本軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
このときの発言について、1945年(昭和20年)第二次世界大戦における日本の降伏による戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あのときはまだ若かったから」とのちに語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に長男継宮明仁親王が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により、任官を取り止めさせている。また、明仁親王の教育係として、大日本帝国陸軍の軍人を就けることを、特に拒否している。
太平洋戦争(第二次世界大戦)
開戦
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。
御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製である
- 「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
- (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)
という短歌を詠み上げた。
また米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告の中の「豈朕カ志ナラムヤ」の一文は天皇本人が書き入れたといわれる。
なお、対米開戦直前の1941年(昭和16年)12月6日、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領より直接、昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」という親電が送られていた[38]。
しかし、この親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前であった。国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も阻止されてしまう。元大日本帝国陸軍参謀本部通信課戸村盛男が「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下(昭和天皇)も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」とのちに証言している。こうして、親電が肝心の昭和天皇の手元に届いたのは真珠湾攻撃のわずか20分前であった。
『昭和天皇独白録』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は「開戦には、消極的であった」といわれている。ただし、『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。
日本共産党中央委員長も務めた田中清玄がのちに転向して「天皇制(皇室)護持」を強く主張する「尊皇家」になった。敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(のちの一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と回答している。
戦争指導
開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、太平洋のアメリカ西海岸沿岸からインド洋のマダガスカルに至るまで、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示などもしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受けて敗北を喫した例がある。
また、昭和天皇はときに軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。そのときの理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。
これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引くうえに、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。
和平に向けて
昭和天皇実録によると、昭和天皇が終戦の意向を最初に示したのは1944年(昭和19年)9月26日で、側近の木戸幸一内大臣に対し、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などと述べている[39]。
日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸軍・梅津美治郎参謀総長および海軍・及川古志郎軍令部総長と閣僚(当時小磯内閣、小磯國昭首相)の召集を勧めている[注釈 20]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[注釈 21]。
その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛元首相の上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[41][42]。
沖縄戦での日本軍による組織的戦闘の終了について報告を受けた2日後の1945年6月22日には、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長を呼んで懇談会を開き、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げるよう求め、初めて軍の最高幹部に戦争終結の意思を表明した[39]。(昭和天皇実録より)
その後、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が1945年7月27日に日本に通達、広島に原爆が投下された2日後の1945年8月8日に、東郷茂徳外相に対し「なるべく速やかに戦争を終結」させたい旨を述べている[43]。(昭和天皇実録より)
その翌日、長崎に原子爆弾が投下される直前の1945年8月9日午前9時37分に、ソ連軍が対日参戦したとの報告を受けると、18分後の午前9時55分に木戸幸一内大臣を呼び、鈴木貫太郎首相と戦争終結に向けて「十分に懇談」するよう指示を出した[44]。これを受け鈴木首相は、同日午前10時30分開催の最高戦争指導会議(御前会議)でポツダム宣言受諾の可否を決めたいと答えた[44]。(昭和天皇実録より)
連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[注釈 22]。昭和天皇は8月10日午前0時3分から始まった最後の御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明し[44][45]、8月15日正午、自身が音読し録音された「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」がラジオを通じて玉音放送として放送され、終戦となった。
のちに昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[46][47][48]。
なお、昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決意した時期は、広島・長崎への原爆投下時、ソ連の対日参戦時など諸説あったが、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[44]。これに対し、歴史学者の土田宏成は「昭和天皇が終戦を決断するに至ったのは、大規模な空襲や沖縄戦、原爆投下などの惨禍に衝撃を受け、国民や国家の存続の危機を感じたことも一因と考えられる」と述べている[49]。
敗因に対する考え
昭和天皇は戦後間もない1945年(昭和20年)9月9日に、栃木県の奥日光に疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現:上皇)へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。
「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)[50]
象徴天皇への転換
マッカーサーとの会見写真
イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることに努めたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よく分かっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。
また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた。天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやってきたと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」というものだった。 さらに、マッカーサーは「私は大きい感動に揺すぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という。(『マッカーサー回想記』)
マッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも厳しく批判されていた。しかし、この時は上ボタンを閉め天皇を車まで見送ったという。
人間宣言
1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(正式名称:新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ、通称:人間宣言)が官報により発布された。「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであること」を明確にするため、詔書の冒頭においてかつて自身の祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」を掲げている[51][52]。
このことを後年振り返り、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、「日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書のおもな目的であった」といった趣旨のようなことを発言している[51][53][54]。
この詔書は、「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない[55]。
天皇イメージの転換
戦前の昭和天皇は一般国民との接触はほとんどなく、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで現人神、大元帥という立場を非常に強調していた。
ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述がなく、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。
さらに、連合国による占領下では礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制(皇室)擁護派に近づくとともに、一人称として「朕」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「私」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上もっとも天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。
スポーツ観戦
相撲
昭和天皇は皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。
特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。昭和天皇はのちに「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った[56]。
武道
1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道、柔道、弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。
野球
1959年(昭和34年)には、天覧試合としてプロ野球の巨人対阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後、昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦を観戦している。
靖国神社親拝
昭和天皇は終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社に親拝していたが1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった[57]。ただし、例大祭(春と秋の年に2回)に際しては勅使の発遣を行っている。
- 1945年(昭和20年)8月20日(昭和天皇行幸)
- 1945年(昭和20年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)
- 1952年(昭和27年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
- 1954年(昭和29年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
- 1957年(昭和32年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
- 1959年(昭和34年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
- 1964年(昭和39年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
- 1965年(昭和40年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)
- 1969年(昭和44年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
- 1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
昭和天皇が靖国神社親拝を行わなくなった理由については左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など、様々に推測されてきたが近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では定説となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えたあとも、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している[58]。
「崩御」前後
記帳
1988年(昭和63年)以降、各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。
設置された各地の記帳所は以下の通り。
- 皇居前記帳所
- 千葉県民記帳所
- 葉山御用邸通用門記帳所
- 名古屋熱田神宮境内記帳所
- 京都御所前記帳所
- 福岡市庁舎内記帳所
- 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
市民の動き
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 「自粛」ムード
- 1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した[59]。具体的な行動としては以下のようなものが行われ、「自粛」は同年の世相語となった[60]。このほか、目立つような物価の上昇(インフレーション)は見られなかった。
- プロ野球優勝イベントの自粛
- 京都国体にて、花火の打ち上げを自粛[64]。
- 明治神宮野球大会中止。
- 自衛隊観閲式・自衛隊音楽祭など自衛隊行事を中止[65][注釈 23]。
- 各国大使館・在日米軍基地にて、イベントの自粛・規模縮小[66]。
- 広告演出の自粛。
- テレビ番組放送・演出の自粛
- 派手なバラエティ番組を、映画や旅行番組に差し替え[67]。
- ギャグ作品であったテレビアニメ「ついでにとんちんかん」の1988年9月24日放送予定だった第42話の放送が中止され、翌週の10月1日放送分をもって打ち切りとなった。
- ロート製薬一社提供番組(クイズダービー、ひらめきパスワード、愛ラブ!爆笑クリニック[68])の冒頭に放送されるオープニングキャッチを当分の間(1988年10月から翌年1月の崩御後までの間)自粛[69]。
- 同年の「第39回NHK紅白歌合戦」についても中止になるかと懸念されていたが開催された。しかし、結果的にこれが昭和最後の「NHK紅白歌合戦」となった。
- 百貨店でのディスプレイを地味なものに変更[59]。
- 神社における祭りを中心とした、伝統行事の中止・規模縮小[59]。
- 地域イベントや商業イベントでの「○○フェスティバル」「○○まつり」の自粛・名称変更[59]。
- 幼稚園や学校の行事自粛[注釈 24]。
- スポーツ大会や、音楽ライブなどの演奏会に加え、祭りなどと言ったイベント自粛。
- 七五三を祝う事や、ハロウィーンやクリスマスを祝う事、クリスマスソングも自粛。
- 忘年会や新年会の自粛。
- 年賀状での「賀」「寿」「おめでとう」など、賀詞の使用自粛[注釈 25]。
- 服喪
- 崩御後、政府の閣議決定により崩御当日を含め自治体には6日間・民間には2日間弔意を示すよう協力が要望された[72]。その結果、各地での弔旗掲揚などの服喪以外に、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行われた。
- 全テレビ局でニュースおよび追悼特番のみの特別放送体制(崩御から2日間、NHK教育テレビ・衛星第1テレビを除く)。
- 崩御後のTVCM放送の大量自粛(崩御から2日間は完全に自粛、その後はテレビ局や番組提供のスポンサーが独自に判断、水戸黄門のようにアイキャッチが出たままCMへ移行せず音楽のみが流れた例がある)。その穴埋めとして公共広告機構(現ACジャパン)のCMが放送された。ちなみに、同様の事例は1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年(平成28年)4月14日に発生した熊本地震でも起きている。
- 大相撲初場所の開催延期(初日を1日延期して1月9日から)。
- 昭和64年度の全国高校ラグビー大会決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝)。
- 昭和64年度の全国高校サッカー選手権が2日間順延。
- 第一回中山競馬および京都競馬の開催順延(1月13日 - 16日に開催)。
- 1989年(平成元年)1月8日のラジオ体操の中止。
- 各地で1月8日の公演(コンサート・演劇・寄席など)を中止・延期、「めでたい」内容の変更[73]。
- 1月7日 - 1月8日のJR各社の払い戻し手数料を無料化。
- 1月15日の成人式にて、装飾を地味にしたり派手なイベントを自粛[74]
- その後も自粛の動き自体は続いた。テレビ番組では歌舞音曲を控えることからベストサウンドが再放送などで差し替えられるなどの影響が出た。
- この後、2月24日の大喪の礼では、ふたたび企業・商店・レジャー施設が臨時休業した。民間での自粛・服喪の動きはこれをもって終息に向かった。
- 「殉死」
- 昭和天皇の崩御後は、確認されているだけで数名の後追い自殺者(殉死)が出た。崩御と同日に和歌山県で87歳の男性が[75]、茨城県でも元海軍少尉の76歳の男性が[76]それぞれ自殺した。1月12日には福岡県で38歳の男性が割腹自殺を遂げ[77]、3月3日にも東京都で元陸軍中尉の66歳の男性が自殺している[78]。
マスメディア報道
昭和天皇が高齢となった1980年代ごろ(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。
1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送した。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が一時中断・繰り下げあるいは途中打ち切り・中止されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言から癌であることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった[注釈 26]。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった[注釈 27]。
1989年1月7日・8日およびそれ以後のマスメディアの動き
NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送[79]。6時36分18秒からの「危篤報道」[注釈 28][80][81]、続いて7時57分6秒から10時までの「崩御報道」[注釈 29][82]および14時34分30秒から14時59分までの「新元号発表」[注釈 30][83]はNHKのテレビ・ラジオ全波[注釈 31]で報道特別番組が放送された。1989年(平成元年)1月8日0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)[注釈 32]が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、「N響アワー」は曲目変更をした上で放送された[84][注釈 33]。
7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」[注釈 34]と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。
1989年(昭和64年)1月7日の危篤報道(6時35分発表)[注釈 35]以降翌1月8日まで、NHK(総合)、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち・生涯、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった。
NHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、テレビ朝日は8日には、ゴールデンアワー時の放送について当初の内容を変更し、田原総一朗の司会による「天皇制はどうあるべきか」という番組に変更した。2日目を過ぎたあともフジテレビが「森田一義アワー 笑っていいとも!」を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編「友達の輪スペシャル」に差し替えて放送するなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。
外遊
外国訪問は生涯に3回であった(※台湾行啓は国内扱い)。
皇太子時代
皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧[注釈 36]であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。
裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦香取が用いられ、横浜を出発し那覇、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ、カイロ、ジブラルタルと航海し、2か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスの首都ロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会談した。この夜をジョージ5世は、「慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いた」と語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館、ロンドン塔、イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ[85]。ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与された[86]。19日から20日にかけては、スコットランドのエディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与された。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない」と感嘆したという[86]。
イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れたりした。
戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和が史上最長の元号になったことにちなみ最も印象深い思い出を聞かれた際、大戦前後を例外にして、「自由を味わうことができた」として、この外遊を挙げた[87]。
天皇時代
一覧
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1971年 (昭和46) |
9月27日 | 10月14日 | ベルギー、 イギリス、 ドイツ( アメリカ合衆国、 デンマーク、 フランス、 オランダ、 スイス立ち寄り) |
皇后 | 国際親善 |
1975年 (昭和50) |
9月30日 | 10月14日 | アメリカ合衆国 | 皇后 | 国際親善 |
欧州訪問
1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7か国を訪問した。なおこの際はお召し艦を使用した前回と違い日本航空のダグラス DC-8の特別機を使用した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地内のアラスカ地区軍司令官邸でワシントンD.C.から訪れたアメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンと会談、実質的にアメリカ合衆国も訪問している。
なお、この昭和天皇とニクソン大統領との会談は当初の予定になく、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、外務大臣・福田赳夫は会談を推進する牛場信彦駐米大使に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、天皇との会談をニクソン大統領の訪中で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないかと福田外相が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである[89][90]。
当初の訪問地であり、王室同士の交流も深いデンマークやベルギーでは国を挙げて温かく歓迎された。休養をかねての非公式訪問となったフランス[91]では、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で50年ぶりに再会して歓談。ウィンザー公と肩を組んでカメラにおさまった姿が公側近により目撃されている[92]。
しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマやシンガポール、インドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、この昭和天皇のことを恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。
こうした抗議や反発について、昭和天皇は帰国後11月12日の記者会見で事前に報告を受けており驚かなかったとした上で、各国からの「歓迎は無視できないと思います」とした[93]。また、3年後に金婚を迎えたことに伴う記者会見で、皇后とともに、50年で一番楽しかった思い出として、この訪欧を挙げた[94]。
アメリカ合衆国訪問
1975年(昭和50年)には、当時の米大統領であるジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間に亘ってアメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である[注釈 37]。このときはアメリカ陸海空軍に加え海兵隊、沿岸警備隊の5軍をもって観閲儀仗を行っている。訪米に前後し、日本国内では反米的な左翼組織東アジア反日武装戦線などによるテロが相次いだ。
昭和天皇はウィリアムズバーグに到着したあと、2週間にわたってアメリカに滞在し訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日のフォードとの公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは昭和天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという。)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成される「パールハーバー生存者協会」が「天皇歓迎決議」を採択している。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。
ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、「戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞」などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾り、同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。帰国当日に二種類の記念切手・切手シートが発行され、この訪米が一大事業であったことを物語っている。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。
なお、訪米に前後して天皇・皇后の公式な記者会見が行われたことも画期的となった。
行幸
戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。1923年(大正12年)には台湾(台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。
戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。このときの巡幸では、常磐炭田[95]や三井三池炭鉱の地下1,000mもの地底深くや満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。 同年9月に襲来したカスリーン台風の被災地には「現地の人々に迷惑をかけてはいけない」として、お忍びで視察を行い、避難所を訪れて激励を行った[96]。
そのほか、行幸先での逸話、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。なお、当時の宮内次官・加藤進の話によれば、昭和天皇が東京大空襲直後に東京・下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、のちの全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないかと推測している[97]。
また、昭和天皇は1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に、敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたとみられている。
昭和天皇は全国46都道府県を巡幸するも、沖縄県の巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後も長らくアメリカ軍の占領下であったうえ、返還後も1975年(昭和50年)の長男・皇太子明仁親王訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができなかった。病臥した1987年(昭和62年)秋にも沖縄海邦国体への出席が予定されていたが、自ら訪沖することが不可能と判明したため皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した明仁親王は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりして詣りました」と手にしたお言葉をおし頂き、真摯にこれを代読した。
その死の床にあっても、「もう、ダメか」と自身の病状よりも沖縄巡幸を行えなかったことを嘆いていた[98]。
逸話
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
幼少・皇太子時代
- 6歳だった1907年(明治40年)12月18日に、両親(当時皇太子だった大正天皇と皇太子妃だった貞明皇后)からクリスマスプレゼントとして靴下に入ったおもちゃを貰っており、皇室が異文化や他宗教に大らかだったことがわかっている[99]。
- 幼少時、養育係の足立たか(のちの鈴木貫太郎総理大臣夫人)を敬慕し多大な影響を受けた[100]。
- 昭和天皇実録の1910年(明治43)1月の記述には、「午前は学習院の授業、午後は御用邸内においてジャーマン・ビリヤード、人取り、玉鬼、相撲、クロックノールなど種々のお遊び」とあり、他には百人一首、木登り、椅子取りなどの遊びをしていた他、1917年(大正6年)には「欧洲戦争将棋」との記述も見える[101]。
- 11歳だった1912年(明治45年)3月16日に、母の貞明皇后などから聞かされていたイソップ物語に触発され、1作目となる「海魚の不平」と題した物語を自作し「裕仁新イソップ」と名付けている[99][102]。盲目のウナギが他の魚の才能を羨むホウボウやタイを窘める話で、「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との教訓を記している[99][102]。
- 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山(たけやま)」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(この提案に学友が従ったかどうかは不明)。
- 皇太子時代にイギリスを訪問したとき、ロンドン地下鉄に初めて乗車した。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は記念品として保存されたという。
- この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで5人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
- 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄、日本領台湾はじめ各地への行啓も行っている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。
天皇時代
戦前
- 父親の大正天皇が先鞭をつけた一夫一妻制を推し進めて、「(一夫多妻制での)側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で自宅通勤」を認めた。
- 晩餐時、御前で東條英機と杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」「アメリカの先住民は瞑想するのに煙草を用いる」などと酒と煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒に関しては、5歳のころ正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、悪酔いして寝正月を過ごす破目になって以降、儀式や宮中晩餐会等のやむを得ない場合に限り、一口だけ口にする程度であった[103]。
- 小説でも「天皇の料理番」秋山徳蔵が晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、自分以外の招待客の皿について「同じミスがなかったか」を訊ね、秋山が「ございませんでした。」と答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
- 学習院在学中に古式泳法の小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
- アドルフ・ヒトラーからダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツ・770(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども贈られたといわれる。
- ナチス・ドイツが第二次世界大戦でフランスに勝利した1940(昭和15年)6月22日に、第一次世界大戦でドイツがフランスに降伏した場所と同じコンピエーニュの森にて、フランス側に降伏文書の調印をさせた。そのことを知った昭和天皇は、「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」と言ってヒトラーの対応を批判したという。(昭和天皇実録1940年7月31日の記述)[104][45]
戦時中
- 対英米開戦後初の敗北を喫したミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、「大戦中期のガダルカナルにおける敗北以降、各地で日本軍が連合国軍に押され気味になると、言動に余裕がなくなった」という。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し、大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという[要出典]。
- 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
- ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官・山本五十六と司令部にも伝わっていた[105]。だが、参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず[106]、結果、待ち伏せていたアメリカ軍との間で第三次ソロモン海戦が発生する。行啓の際にたびたびお召し艦を務めた戦艦比叡を失い、翌日には姉妹艦霧島も沈没、天皇の懸念は的中した。
- 太平洋戦争(大東亜戦争)史上最大の激戦といわれたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も3度も与えている。
- 「原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させた」と伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
- 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。1943年(昭和18年)、第三南遣艦隊司令長官拝命のあいさつのために参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(あきつ丸・神州丸など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?」とさらなる下問があった。 そのときはそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、「返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えた」という。
- 戦争中、昭和天皇は靖国神社や伊勢神宮などへの親拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治思想家の原武史は、「昭和天皇が熱心な祈りを通じて『神力によつて時局をきりぬけやう』[107]とするようになったという。
- 「天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件と終戦の時だけであった」と語っている(後述)。このことを戦後、ジャーナリスト徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。
- 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、対米英開戦時の首相であった東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」「東條は一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、「追い詰められた東條の苦しい言い訳には、顔をしかめることもあった」と伝わる。しかしながら、のちに極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦争犯罪人として有罪が確定し死刑となった東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右や白鳥敏夫、宇垣一成、大島浩などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由としていい感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、フィリピン転出の際には拝謁を果たしており、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものともいわれる)。晩年、「『この間出た猪木正道の近衛文麿について書かれた本が正確だ』、と中曽根に伝えよ」と昭和天皇に命ぜられたと宮内庁長官・富田朝彦が当時の首相・中曽根康弘に言ったという。中曽根は『評伝 吉田茂』で批判的に書かれていた近衛と松岡についてのことだと理解した[108]。
戦後
- 終戦後初の年明けの1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇は自身の詔書としていわゆる「人間宣言(新日本建設に関する詔書)」を発表した。その際、天皇の神聖な地位の拠り所は「日本神話における神の子孫である」ということを否定するつもりもなく、昭和天皇自身は「自分が神の子孫であること」を否定した文章を削除したうえで、自身の祖父である明治天皇が示した「五箇条の御誓文」の文言を詔書の冒頭部分に加筆して、自身の意思により「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであること」を明確にしたとされる。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。その31年後、1977年(昭和52年)8月23日の記者会見にて昭和天皇は、「神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだ」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」と振り返り語った[109]。
- 1946年(昭和21年)初春、日本全国の沖縄県を除く46都道府県の巡幸が開始された。当時のイギリス紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と報じた。これに対して、世界近代史上初めて非君主国(共和制)としての建国由来を持つ王室が存在しないアメリカ人が中心となり組織されたGHQでは「神ではない、ただの猫背の中年男性」「石の1つも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していた者も多かったが、巡幸の様子を見て大いに驚いたとされる。
- 敗戦から1年が経過した1946年(昭和21年)8月、GHQ(SCAP)による占領政策により戦勝国であるアメリカの諸制度が導入されていく中にあって、昭和天皇は敗戦国の国民として打ちひしがれた日本人を励ますため、日本史上において対外戦争の敗北という点で共通した、1282年前に遡る飛鳥時代での白村江の戦い(天智2年8月/663年10月)の例を挙げ、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制(当時の中国王朝)の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし」と語った[110]。ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を取り上げた。
- 天皇のあまりの影響力に、1946年(昭和21年)12月の中国地方巡幸の兵庫県における「民衆の日の丸国旗を振っての出迎えが指令違反である」としてGHQ民政局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年(昭和23年)からの巡幸再開を許可した。
- 初の日本社会党政権を成立させた片山哲首相に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、社会主義イデオロギーに基づく急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は「内奏を望む昭和天皇への違和感」を日記に記している[111]。
- 1947年(昭和22年)9月23日、東京都内の天皇側近からGHQを通してアメリカ合衆国国務省に伝送されたいわゆる「天皇メッセージ」によると、「天皇はアメリカ合衆国が沖縄県をはじめ琉球諸島を軍事占領し続けることを希望していた」とされる。天皇の意見によると、「その占領は、アメリカ合衆国の利益になり、日本を守ることにもなり、沖縄の主権は、日本に残したまま長期租借という形で行われるべきである」と考えられた。これは「日本本土を守るため、沖縄を切り捨てた」とする見方がある一方、「租借という形で日本の主権を確保しておく」といった見方もある[112]。
- 農地改革後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に「農地改革の成果」と「ダグラス・マッカーサーをどう思うか」について質問したとき、マッカーサーのことを「お雇い外国人」と思いこんだ老人から「陛下も本当にいい人を雇ってくださいました」と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある[注釈 38]。
- 1949年(昭和24年)5月22日の佐賀県三養基郡基山町の因通寺への行幸では、ソ連による抑留下で共産主義思想と反天皇制(天皇制廃止論、君主制廃止論の一つ)を教え込まれ洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。
- 巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。昭和天皇はこのときにはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。
- アメリカ政府からの使節が皇居新宮殿について「新しいのですね」と感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年(昭和36年)まで、昭和天皇と香淳皇后は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて仮住居としていた。
- 皇居の畑で芋掘りをしていたとき、日本では滅多に見ることのできない珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見、侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情の分からない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
- 1975年10月31日、日本記者クラブ主催の公式記者会見の席上、天皇裕仁は、広島の原爆被災についてきかれ、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」と他人事のように無神経な発言をして物議を醸す。
- イギリスなど君主制をとる国に対しては、比較的新興国の部類に入るイラン帝国なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない1956年(昭和31年)にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満州国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった1976年(昭和51年)の中央アフリカ帝国建国に際しても祝電を送っている。
- 「イングランドの最高勲章」および「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典」においての「騎士団勲章」の最高位とその騎士団の一員の証となる「ガーター勲章」を1929年(昭和4年)に叙勲しているが、1941年(昭和16年)12月の日英開戦とともに剥奪された。戦後、1962年(昭和37年)の秩父宮妃訪英、1969年(昭和44年)のマーガレット王女訪日などで日英の皇室・王室間の友好交流が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ1971年(昭和46年)4月7日、イギリス王室は「剥奪された日本国天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発し、これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位に復帰した。剥奪後に復帰した外国君主は騎士団600年あまりの歴史の中で昭和天皇のみである。ドイツ、オーストリア、イタリアの各国は戦後に王制(君主制)が廃止(共和制へ移行)されたため復帰されることはなかった。
- 1971年(昭和46年)6月、佐藤栄作首相がアーミン・マイヤー米国駐日大使と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと蔣介石(台湾の中華民国政府)を支持するよう促された」と伝えられていたことが、秘密情報解除されたアメリカ国務省の外交文書で判明。しかし、国連代表権は同年10月の国連総会で採択され毛沢東主席の中華人民共和国に移行した[113]。
- 1975年(昭和50年)にタイム誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており[114]、1978年(昭和53年)10月に中国の指導者として初めて訪日した鄧小平中央軍事委員会主席と会見した際は天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪して鄧小平を感激させ[115]、1984年(昭和59年)4月には「中国へはもし行けたら」と述べて中国政府の訪中要請に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた[116][114]。
- 1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官(現在の防衛大臣職に相当)・増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は昭和天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、(自衛隊は)旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原防衛庁長官は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった(増原内奏問題)。
- 生真面目な性格もあり、戦後政治において政争絡みで日本の政治が停滞することを好まなかったことが窺える。『入江相政日記』には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
- 侍医を務めた伊東貞三も「伊東…きょうは満月だよ、そこを開けてごらん…きれいだよ」と末期がんであった昭和天皇に言葉をかけられたことを、「とても命の危機が迫っているとは思えない人間離れしたお姿だった」と回想している[98]。
公務におけるもの
- 昭和天皇は、戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際に「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。ただしこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。甥の一人である寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元がその「あ、そう」一つとっても、さまざまなバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」とのこと。この「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、国民に広く親しまれた。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。
- 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップ(GHQカメラマンディミトリー・ボリアが撮影、時期は1950年(昭和25年)- 1951年(昭和26年)ごろ)なども写真に残っている。ただし、終戦まで天皇の笑顔を写した写真は、検閲によって一切公開不許可であった[117]。
- 1982年(昭和57年)の園遊会で黒柳徹子と歓談した際、黒柳が当時の自著『窓ぎわのトットちゃん』を「国内で470万部売って、英語で外国でも出ることになりました」と説明すると、昭和天皇は「よく売れて」と答えた。あたかも天皇へ自著を自慢しているように映ってしまい、周囲の大爆笑に黒柳は照れ笑いを浮かべながら「(売上を)福祉のために使うことができました」と説明した。このほか、柔道家の山下泰裕が昭和天皇から「(柔道は)骨が折れるだろうね」と声をかけられた際、文字通りに受け取ってしまい「はい、2年前に骨折しましたが、今はよくなって頑張っております」と朗らかに返答したエピソードがある。
- 1983年(昭和58年)5月、埼玉県行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸。天皇がガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたいてその様子を撮影しようとしたため「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。カメラのフラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。
- 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」という声が上がった。ところが天皇は「むしろ楽しみにしてるんだから、楽しみを奪うような事を言わないでくれ」と訴えたという。
家族・家庭
- 3人の弟宮との関係は良好で、特に性格のほぼ正反対といってよい長弟・秩父宮雍仁親王とは忌憚のない議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。そのため、次弟・高松宮宣仁親王が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。また妃たち同士も仲が良く、これも関係を良好に保つ大きな助けとなった。
- 久邇宮家出身の女王である妻・香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた。一方、妻の香淳皇后は夫である昭和天皇のことを「お上」と呼んでいた。夫婦仲は円満だった。結婚当初から、当時の男女としては珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。
- 1919年(大正8年)、宮内大臣波多野敬直から、婚約を知らされる[118]。翌1920年(大正9年)に久邇宮邸で良子女王と儀礼的に対面したが、言葉を交わすことは無かった[118]。その後、二人の対面も計画されたが実現せず、結局、婚約中に親しく会う機会はなく、印象もない[118]。
- 婚約中の1921年(大正10年)に訪欧したとき、婚約者とその妹たちへの土産に、銀製の手鏡・ブラシセットを購入した[119]。結婚後も、行幸先、植物採集に出かけた先では必ず「良宮のために」と土産を購入、採集した。また1971年(昭和46年)の訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。
- 天皇の手の爪を切るのは、皇后が行っていた。侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した[120]。
- 香淳皇后との間には当初皇女が4人続けて誕生したため、事態を憂慮した宮内省(現宮内庁)は側室制度(一夫多妻制)を復活させることを検討しはじめていた。しかし側近が側室を勧めた際、昭和天皇は「良宮でよい」と返答した。側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。また、香淳皇后に対しては「皇位を継ぐ者は、秩父さんもおられれば、高松さんもおられる」「心配しないように」と励ましたという[121]。
- 5人目の子にして、待望の第一皇子(第一皇男子)・継宮明仁親王を得た際の昭和天皇の喜びようは大変なものだった。しかしそれにも増して、それまで華族たちから「女腹」(女子ばかりでお世継ぎたる男子を出産できない)と陰口を叩かれて肩身の狭い思いをしていた香淳皇后へのねぎらいはひとしおなものだった。男子誕生の知らせを受けた昭和天皇はいても立ってもいられず、まっしぐらに香淳皇后のもとへ赴いて母子を見舞い、万感の思いを込めて「よかったね」と一声かけるとすぐに退出、ところがすぐにまた引き返し、ふたたび同様に声をかけ皇后をねぎらった[122]。
- 香淳皇后の老いの兆候が顕著になったあとも「皇后のペースに合わせる」[123]などと皇后を気遣っており、1987年(昭和62年)9月に行われた昭和天皇の手術後の第一声も「良宮はどうしているかな」[124]だった。
- 皇子女たちは近代以降初めて、両親の手元で皇后の母乳で育てられたが、学齢を迎えるころから内親王たちは呉竹寮で、親王たちは3歳ごろより別々に養育され、家族とはいえ、一家が会えるのは週末のみになってしまった。しかし会える時間が短いとはいえ、天皇が厚子内親王の勉強の質問に丁寧に答えたなどの逸話がある[125]。
- 皇太子の継宮明仁親王には西洋の思想も学ばせるべきであると考え、家庭教師にエリザベス・ヴァイニングを招いた。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与え、昭和天皇自ら対戦して皇太子の知恵を育んだ[126]。
- 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起し、記者会見で「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」と回想している。長弟・秩父宮雍仁親王も同様の発言をしている。
- ひげを蓄えたのは、香淳皇后との成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」とも、その理由を説明している。他方、1986年(昭和61年)以降、孫の一人である文仁親王が口ひげをたくわえ始めたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。なおひげの手入れは「自ら電気カミソリで行っていた」という[127]。
- 成子内親王の長男・東久邇信彦に対し、結婚相手の条件として「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家にガン系統がないこと」などを伝え、「条件に合えば自分の好きな人でいい」とした[120]。
人物像
天皇自身の発言
- 1972年(昭和47年)3月7日・ニューヨークタイムズのインタビュー[128][129]
- [天皇]自身の人生と知的発達にもっとも影響を与えた人物は、ドイツで学んだあとに日本の西洋史の権威となった日本人教授、箕作元八である。
- [天皇]箕作元八の著書は、何年か前に私に西洋史の傾向や西洋の民主主義を理解することの重要性を証明してくれた。そして、私の勅書においても、具体的なアイデアの速やかな採用に貢献した。
生活・趣味
- 趣味として、ゴルフを勧められ、1917年(大正6年)の皇太子時代よりゴルフを行っていた。当時は病弱であり、結核を予防するという意味もあったという。皇太子はゴルフに熱心となり、欧州旅行中も行い、また、来日中の英国王太子(のちのエドワード8世国王、現在のエリザベス2世女王の伯父)と1922年(大正11年)4月19日、プレーしている[131][注釈 39]。妃の良子女王も裕仁親王から教えられゴルフを行っている[132]。赤坂離宮に6ホール、那須御用邸に9ホール、吹上御苑に最初4コース、のち9コースのゴルフコースでプレイした。成績として9コース、58,51,54、良子女王の60という記録がある。満州事変のあとは中止し、吹上御苑コースなども廃止された[133][注釈 40]。
- 生物学研究所の顕微鏡を古くなっても買い替えることはなく、鉛筆は短くなるまで使い、ノートは余白をほとんど残さず、洋服の新調にも消極的であった[134]。
- 不自然なものを好まず、盆栽を好まなかった[135]。
- 晩年の昭和天皇は芋類・麺類(蕎麦)・肉料理・鰻・天ぷら・乳製品・チョコレートの順に好物であったとされる[136]。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わるなど、食に関する逸話は非常に多い。
- 朝食にハムエッグを食することを好んだという。戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト2枚の朝食を晩年まで定番とした。
- 1964年(昭和39年)に下関に行幸した際には、中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。
- 1926年(大正15年)5月、摂政宮として岡山県、広島県及び山口県の3県へ行啓の際、お召艦となった戦艦長門で将兵の巡検後タバコ盆が出された甲板で「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、(「朕」ではなく)はっきり「僕」と言うのを当時主計中尉で長門勤務だった出本鹿之助が聞いている[137]。
- 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。
- スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身につくものはなかった」と発言した。昭和天皇自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。
- デッキゴルフやビリヤードを好み、戦艦の比叡を御召艦にしていた際に侍従を相手に興じている[138]。乗艦時は無表情だった昭和天皇が、このときは屈託もなく笑って楽しんでいたという[139]。
- 映画も大の好みであった。「ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞された」と、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っている[140]。
- 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかということには答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した[10]。
- 現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており[141]、NHK朝の連続テレビ小説と「水戸黄門」が好きだったとされる[135]。
- 「おしん」では「その当時の女性の苦労というものを、察していましたが、当時はあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知っていましたけれども、それは非常に大ざっぱな感想しか、その当時は承知していませんでした。」と感想を述べた[142]。
- テレビ番組に関してはこのほか「自然のアルバム」などもよく視聴した。意外なところでは「プレイガール」も視聴したことがあるという[143]。「刑事コロンボ」も好きで、訪米の際にはピーター・フォークを昼食会に招待しようと希望した[144]という記事もあるが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている[145]。
- テレビの被写体になることに関して、「皇室アルバム」のプロデューサーを務めた古山光一が「秋田国体に行かれたときに、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、古山も天皇と皇族の動静がテレビで報道されることに一定の理解を示していた[146]。
- 好角家として知られる昭和天皇は、当時の日本相撲協会理事長・春日野清隆が「蔵間は大関になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、あるとき「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野理事長は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後、蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。
生物・自然
- 生物学者だった昭和天皇は、1912年4月27日に学習院初等学科5年生の授業でカエルの解剖を習った。帰宅してからもトノサマガエルの解剖を行い、観察後は死骸を箱に入れて庭に埋め、「正一位蛙大明神」の称号を与えたという。[99][102]
- 昭和天皇は海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、すべて食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(のちに「あまりおいしいものではなかった」と述べた)という。採集品については食べることはなかったともいわれ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。
- 南方熊楠のことはのちのちまで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。
- 「テツギョ」というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。のちにDNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明した。
- 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について「サンク(仏語で5つ)」と「3個」をかけて近習をからかったことがある[120][148]。
- 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年(昭和12年)に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」と言ったとされることでも有名[注釈 41]。
- 2018年、生前採取していたテヅルモヅルが新種であったことが判明し、「トゲツルボソテヅルモヅル」と命名された[149]。
短歌
昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。
近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの、戦後は木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。
- 昭和天皇の歌集
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- みやまきりしま:天皇歌集(毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社)
- おほうなばら:昭和天皇御製集(宮内庁侍従職編、1990年10月、読売新聞社)
- 昭和天皇御製集(宮内庁編、1991年7月、講談社)
- 昭和天皇・香淳皇后の歌集
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- あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集(木俣修編、1974年4月、読売新聞社)
生物学研究
昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ。1925年(大正14年)6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年(昭和3年)9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者・南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは日本国天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。
1934年(昭和9年)には、海中生物の採集に使うための天皇陛下植物採集船として「葉山丸」が建造された。これは横須賀海軍工廠で建造された全長15.1メートルの和船型内火艇で、宮内省御用船として管理されていた。第2次世界大戦中には海軍兵学校に下賜され、戦後は英豪軍が接収し瀬戸内海でヨットとして使用していたが、1949年に退役したあとは海上保安庁の管理下に入り、復元工事ののち、ふたたび採集作業に使われるようになった。1956年には、同庁の23メートル型港内艇「むらくも」を改装・改名した「はたぐも」がその役割を引き継いだ。そして1971年には、新造船として「まつなみ」が建造されて、3代目の採集船となった。これらの艇は、普段は通常の巡視艇と同様の警備救難業務にあたっていた。なお「はたぐも」の就役後は「葉山丸」は通常の巡視艇として用いられていたが、1967年に船体を規格12メートル型に改装した(しらぎく型)。この際に主機関は引き継がれたが、旧船体は役目を終えたことから、大山祇神社(愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている[150]。
昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿や黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼び密かに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。昭和天皇の学友で掌典長も務めた永積寅彦は生物学研究の上からも堅い信仰を持っていたのではないかと語っている[151]。また、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘している。
昭和天皇の海洋生物研究の一部は明仁の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。
- 昭和天皇の研究著書
- 昭和天皇と専門の学者の共同研究
- 昭和天皇の採集品を基に専門の学者がまとめたもの
- 相模湾産後鰓類図譜(馬場菊太郎)(1949年9月、岩波書店)
- 相模湾産海鞘類図譜(時岡隆)(1953年6月、岩波書店)
- 相模湾産後鰓類図譜 補遺(馬場菊太郎)(1955年4月、岩波書店)
- 増訂 那須産変形菌類図説(服部廣太郎)(1964年10月、三省堂)
- 相模湾産蟹類(酒井恒)(1965年4月、丸善)
- 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起)(1968年4月、丸善)
- 相模湾産貝類(黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
- 相模湾産海星類(林良二)(1973年12月、保育社)
- 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥)(1978年10月、保育社)
- 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属(柳生亮三)(1980年10月、保育社)
- 相模湾産蛇尾類(入村精一)(1982年3月、丸善)
- 相模湾産海胆類(重井陸夫)(1986年4月、丸善)
- 相模湾産海蜘蛛類(中村光一郎)(1987年3月、丸善)
- 相模湾産尋常海綿類(谷田専治)(1989年11月、丸善)
- 昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
- Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
- C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
- Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
- C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
- Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
- Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
- Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
- Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
- Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
- H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
- Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
- H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
- H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
- Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
- H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
- H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
- Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
- Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
- Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
- Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
- Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
- Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
- Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
- Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
- S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
- S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
- S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
- S. (?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
- S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
- Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
- Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
- Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
- Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ
戦争責任論
概要
大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権の一つとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。
- 統帥権が天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年(昭和6年)の満州事変から日中戦争(支那事変)、さらに太平洋戦争へと続く「十五年戦争」(アジア太平洋戦争)の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を行使できた天皇に戦争責任があったとする主張
- 大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問うことはできないとする主張
との間で、論争がある。
美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。
終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは昭和天皇を「戦争犯罪人」として法廷で裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、GHQ/SCAPによる円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。
昭和天皇の崩御直後の1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて当時(竹下登首相、竹下改造内閣)の内閣法制局長官・味村治が「大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないという二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はない」という解釈を述べている。
マッカーサーに対する発言に関して
『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会したとき、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、昭和天皇は、
- 「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」
と発言したとされる。この会談内容についてはすべての関係者が口を噤み、否定も肯定もしないため、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。
その後、現代史家・秦郁彦が会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの米国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、当時の侍従長・藤田尚徳の著書もこの事実の傍証とされている。
また、当時の宮内省総務課長で随行者の一人であった筧素彦も最初に昭和天皇と対面したときのマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、のちに『マッカーサー回想記』などで発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している[97]。
天皇自身の発言
- 1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー[152]
- [記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか。
- [天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。
- 1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー[153]
- [記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか。
- [天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。
- 1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見[154]
- [記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。
- [天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
- 1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[155][156]
- [問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは陛下が、開戦を含めて戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか。(「昭和天皇の戦争責任論」も参照)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか。(タイムズ記者)
- [天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
- [問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか。(中国放送記者)
- [天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
- 1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見[157]
- [記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
- [天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。
陵・霊廟・記念館
陵(みささぎ)は、宮内庁により東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方[158]。
皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族とともに祀られている。
2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、「財団法人昭和聖徳記念財団」が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間にわたる生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。
財産
- 終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。
- 崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。
- 皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。
- なお皇室の財産も例外でなく一般国民同様に課税対象であり、昭和天皇崩御の時には相続税が支払われている。香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の明仁が相続税を全額を支払った。この時に御物と呼ばれる古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に三の丸尚蔵館が開館した[159]。
- 終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、1944年(昭和19年)に、参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある[160][161]。
軍における階級
日本軍の階級
- 1912年(大正元年) 陸海軍少尉
- 1914年(大正3年) 陸海軍中尉
- 1916年(大正5年) 陸海軍大尉
- 1919年(大正8年) 陸海軍少佐
- 1923年(大正12年) 陸海軍中佐
- 1925年(大正14年) 陸海軍大佐
- 1926年(昭和元年) 陸海軍大元帥
なお、戦後の日本国憲法下で旧日本軍の役割を事実上引き継いだ自衛隊(陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊)においては、「国政に関する権能を有しない」という立場となったこともあり、いかなる階級にも属せず関わることはなかった。
外国軍の階級
- 名誉陸軍大将(General)、1921年5月9日任官[162]
- 正規軍(Regular army)の陸軍元帥(Field marshal)、1930年6月26日任官[163]
栄典
勲章
外国勲章
- ベルギー : レオポルド勲章
- ブルネイ : ブルネイ1等級勲章
- ドイツ : ドイツ連邦共和国功労勲章
- タイ : ラーチャミトラーポーン勲章
- ブラジル : 南十字星勲章
- フィリピン : シカトゥナ勲章[164]
- ポーランド : 白鷲勲章
- フィンランド : 白薔薇勲章
- イタリア : イタリア共和国功労勲章
- ノルウェー : 聖ウーラヴ勲章
- スペイン : 金羊毛勲章[165][166]
- スウェーデン : セラフィム勲章
- デンマーク : 像勲章
- ギリシャ : 救い主勲章
- ギリシャ : 聖ゲオルギオスおよびコンスタンティノス勲章
- イギリス : ロイヤル・ヴィクトリア勲章 (GCVO)
- イギリス : バス勲章 (GCB)
- イギリス : ガーター勲章 (KG)
著書
自身の著書
- 裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年、生物学御研究所)
- 裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年、生物学御研究所)
- 昭和天皇(山田真弓・補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年、生物学御研究所)
その他の著書
- 国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年、国立科学博物館)
- 宮内庁侍従職編『おほうなばら-昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社、ISBN 4643900954)
- 宮内庁編『昭和天皇御製集』(1991年、講談社、ISBN 4062046954)
脚注
注釈
- ^ 1933年(昭和8年)12月23日以降
- ^ 代数は皇統譜による。
- ^ 常陸宮正仁親王は次男(第二皇男子/第6子)、秋篠宮文仁親王は孫、悠仁親王は曾孫にあたる。
- ^ 女系も含めると妻の香淳皇后(1903年〈明治36年〉誕生)の方が、昭和天皇(1901年〈明治34年〉誕生)よりも年少であることから、より最も近い共通祖先にあたる
- ^ 允(まこと)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ
- ^ 迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり
- ^ 益は徳の裕なり
- ^ これ、兄弟の綽綽にして裕あり
- ^ 問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり
- ^ 寛裕であらば仁の作すなり
- ^ このとき万歳の音頭をとったのは明治天皇の皇女である富美宮允子内親王(鳩彦王妃允子内親王)、泰宮聡子内親王(東久邇聡子)の御養育主任であった林友幸であるが、これは「その年の元日の参賀に一番乗りした人物が男性であれば、産まれるのは(将来の天皇となる)親王だろう」と女官らが予想していたところ、林が一番乗りを果たし、その後実際に親王が誕生したことを、彼が祝宴の間、自分の自慢話として話していて、それなら、と宮内大臣に音頭を取るよう促されたためだった。
- ^ (昭和とは)別の元号(「光文」読み:こうぶん)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったので政府が急ぎ慌てて「昭和」に変更したとの説もある(光文事件)。
- ^ 1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。
- ^ 長男である皇太子明仁親王・同妃美智子(いずれも当時)は出席したものの、后である香淳皇后は腰椎骨折による身体不自由状態のため欠席した。
- ^ このとき後藤田正晴内閣官房長官が同席しており、妻に山本悟宮内庁次長へ昭和天皇の異変を伝えさせている[11]。
- ^ 崩御の際、御座所には皇太子明仁親王・同妃美智子夫妻、常陸宮正仁親王・同妃華子夫妻及び竹下登内閣総理大臣が詰めていたとされる。
- ^ なお、NHKの記者であった橋本大二郎(後に高知県知事などを歴任。)も、藤森昭一宮内庁長官(当時)や当時の皇室医務主管(兼侍医長)が発表した経緯から、「多臓器不全の状態だったのではないか」と語っている。また、腫瘍の原発部位が十二指腸なのか膵臓なのかが分からなかったようだとも語っている。
- ^ 大行天皇(たいこうてんのう)とは、皇位継承が起き即位した新天皇と区別するため、追号されるまでの崩御した先代の天皇に対する呼称。
- ^ 関東大震災では山階宮武彦王の妃佐紀子女王、閑院宮家の寛子女王、東久邇宮家の師正王が薨去した。
- ^ 『木戸幸一日記』一月六日(土)下巻 一一六四頁。一月三十日(火)下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣(現在の宮内庁長官職に相当)の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
- ^ 木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、昭和天皇の侍従長を務めた藤田尚徳だけはこれを信じていない[40]。
- ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から鈴木貫太郎内閣において2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では「受諾賛成」が鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)、米内光政(海相)、受諾反対が阿南惟幾(陸相)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼騏一郎(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
- ^ 全国の地方部隊にも、行事の中止・派手なイベントの自粛を通達している。
- ^ 文化祭(学園祭・大学祭)を中止したのは大妻女子大学(校舎が皇居近くにあるため)、防衛医科大学校(防衛庁からの行事自粛通知)[70]。
- ^ 代わりに「謹迎新年」「清嘉新春」が使用された[71]。
- ^ 日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている。→詳細は「インフォームド・コンセント」を参照
- ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。毎日新聞ほか。
- ^ 6時35分からの宮内庁会見で宮尾盤次長による危篤発表を受けて、6時36分18秒に緊急放送チャイムとともに「臨時ニュース」と表示され、全波同時放送に切り替え。
- ^ 7時55分からの宮内庁会見で藤森昭一長官による崩御発表を受けて、7時57分6秒に緊急放送チャイムとともに黒地に白で「天皇陛下 崩御」と表示された。
- ^ 緊急放送チャイムとともに「新元号決まる」と表示され、教育テレビ・ラジオ第2・衛星第2でも放送される。
- ^ 総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2
- ^ 7日5時24分から6時および7日6時36分18秒から8日0時5分40秒。7日6時から6時36分18秒までのFMは通常番組『あさの音楽散歩』を放送。
- ^ 1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ニュース』(6時36分から10時まで)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から13時10分まで)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
- ^ 沖縄タイムス、琉球新報は昭和天皇の死に際して、沖縄県民の反天皇感情から「崩御」の文字を使うことは天皇の神聖視と映るため、反発を招くと判断したため「ご逝去」という表現をした。また、日本新聞協会加盟の新聞社では前述2紙の他に苫小牧民報、日本海新聞、長崎新聞も「ご逝去」として報道した。
- ^ 宮内庁の正式な発表による7時55分の死去を含む。
- ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国の保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
- ^ これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。
- ^ 日本についてのアメリカンジョークとしても同様の内容が伝わる。
- ^ 結果は2人ずつのチームのプレーで英国側が1upであった[131]。
- ^ ただし、事変直後ではない[133]。
- ^ 植物学者として多くの植物の命名を行なった牧野富太郎は「雑草という名の植物は無い」という発言をしており、これとの関連を指摘する意見もある。雑草#関連発言
出典
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- ^ "No. 32317". The London Gazette (Supplement) (英語). 9 May 1921. p. 3737. 2016年7月21日閲覧。
- ^ "No. 33619". The London Gazette (英語). 27 June 1930. p. 4028. 2015年9月27日閲覧。
- ^ [2]
- ^ Boletin Oficial del Estado
- ^ Naval History: Hirohito Showa.
参考文献
史料・回想録
- 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文藝春秋〈文春文庫〉、1988年3月。ISBN 978-4167472016。
- 黒田勝弘、畑好秀 編 編『昭和天皇語録』講談社〈講談社学術文庫〉、2004年1月。ISBN 978-4061596313。
- 藤田尚徳 『侍従長の回想』 (講談社学術文庫、2015年) ISBN 4062922843。初刊・講談社、1961年
- 寺崎英成・マリコ・テラサキ・ミラー 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋、1991年) ISBN 4163450505
- 木戸日記研究会校訂 『木戸幸一日記 (上下)』 (東京大学出版会、1966年、ISBN 9784130300117/ISBN 9784130300124)
- 木戸日記研究会編 『木戸幸一関係文書』 (東京大学出版会、1966年、ISBN 9784130300131)
- 渡辺誠「初公開 昭和天皇日々の献立」(『文藝春秋』2003年2月号)
- 岩見隆夫『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』(文春文庫、2005年)
- 宮内庁編『昭和天皇実録』(東京書籍 全18巻・別巻1(総索引))、2015年3月-2019年3月
側近の日記
研究文献
- レナード・モズレー『天皇ヒロヒト』
- エドウィン・P・ホイト『世界史の中の昭和天皇 -「ヒロヒト」のどこが偉大だったか』
- (樋口清之監訳、クレスト社、1993年、ISBN 487712005X)
- 出雲井晶編 『昭和天皇』(日本教文社、1996年、ISBN 4531062825)
- 多くの資料の勘所を集めたアンソロジー
- 秦郁彦『昭和天皇五つの決断』(文春文庫、1994年、ISBN 4-16-745302-9)
- 旧版『裕仁天皇 五つの決断』(講談社、1984年- ISBN 4062011271)
- 秦郁彦「歪められた昭和天皇像」(『文藝春秋』2003年3月号)
- 加藤恭子『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』(文藝春秋、2003年、ISBN 4163655301 )
- 加藤恭子・秦郁彦・吉田裕・高橋紘 『大論争「昭和天皇 国民への謝罪詔書草稿」四つの謎』(『文藝春秋』2003年8月号)
- 伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊 - 睦仁・嘉仁から裕仁へ』
- (名古屋大学出版会、2005年、ISBN 4815805148)
- ピーター・ウエッツラー『昭和天皇と戦争-皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略』
- (森山尚美訳、原書房、2002年、ISBN 4562035730)
- 古川隆久・森暢平・茶谷誠一編『「昭和天皇実録」講義-生涯と時代を読み解く-』吉川弘文館、2015年
- ベン=アミー・シロニー 著、大谷堅志郎 訳『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来』講談社、2003年。ISBN 4062116758。
- ハーバート・ビックス『昭和天皇 (上・下)』
- 井上清『井上清史論集4 天皇の戦争責任』(岩波現代文庫、2004年 ISBN 9784006001148)
- 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年、ISBN 4004302579)
- 原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年、ISBN 9784004311119)
- ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて--第二次大戦後の日本人(上・下)』
- (三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、2001年・増補版2004年)
- 内野光子『短歌と天皇制』(風媒社、2000年、ISBN 4833120186)
- 田所泉『昭和天皇の短歌』(創樹社、1997年、ISBN 4794305222)
- ジョン・トーランド 著、毎日新聞社 訳『大日本帝国の興亡 5 平和への道』早川書房〈ハヤカワ文庫NF 新装版〉、2015年8月。ISBN 415050105X。
雑誌
- 毎日新聞社 編「崩御昭和天皇 : 激動87年のご生涯のすべて」『毎日グラフ』緊急増刊第2045号、毎日新聞社、1989年1月21日。
その他
- 他の人物の伝記等
- 女性自身編集部 編『昭和の母皇太后さま : 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 : 保存版』光文社、2000年7月。ISBN 4334900925。
- 佐々木英昭『乃木希典』ミネルヴァ書房、2005年8月。ISBN 978-4623044061。
- 軍事関連書籍
- 吉田俊雄『戦艦比叡』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ 51〉、1985年1月。ISBN 4-257-17051-4。
- 吉田俊雄『日本海軍のこころ』文藝春秋、2000年12月。ISBN 4-16-356900-6。
- その他
- 田代靖尚『昭和天皇のゴルフ 昭和史を解く意外な鍵』主婦の友社・インフォス情報社、2012年12月。ISBN 978-4-07-283914-0。
関連項目
昭和天皇を扱った作品
- 映画
-
- 『日本の悲劇』(1946年、日本映画社 - 本人役出演)
- 『日本のいちばん長い日』(1967年、岡本喜八監督 - 演・松本幸四郎(八代目))
- 『激動の昭和史 軍閥』(1970年、堀川弘通監督 - 演・二代目 中村又五郎)
- 『大日本帝国』(1982年、東映、舛田利雄監督 - 演・二代目 市村萬次郎)
- 『スパイ・ゾルゲ』(2003年、東宝、篠田正浩監督 - 演・花柳錦之輔)
- 『太陽』(2005年、スローラーナー、アレクサンドル・ソクーロフ監督 - 演・イッセー尾形)
- 『終戦のエンペラー』(2013年、ピーター・ウェーバー監督 - 演・片岡孝太郎)
- 『日本のいちばん長い日』(2015年、原田眞人監督 - 演・本木雅弘)
- テレビドラマ
外部リンク
- 昭和天皇・香淳皇后 - 宮内庁
- 大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話 1989年(昭和64年)1月7日 - データベース『世界と日本』日本政治・国際関係データベース 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
- 天皇陛下崩御に際しての弔意奉表について 1989年(昭和64年)1月7日 - 文部科学省
- ウィキソースには、新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フの原文があります。
- ウィキソースには、天皇陛下崩御に関する件の原文があります。
- ウィキソースには、大行天皇の陵所が定められた件の原文があります。
- ウィキソースには、大行天皇の追号が定められた件の原文があります。
- ウィキソースには、ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電の原文があります。
- ウィキソースには、米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書の原文があります。
- ウィキソースには、大東亞戰爭終結ノ詔書の原文があります。
- ウィキソースには、昭和天皇による帝国議会開院式の勅語の原文があります。
- ウィキソースには、昭和天皇による国会開会式のおことばの原文があります。
- 昭和天皇と香淳皇后の成婚 | NHK放送史(動画・記事)
- 昭和天皇即位の大礼 | NHK放送史(動画・記事)
- 終戦の詔書(玉音放送) | NHK放送史(動画・記事)
- 食糧難克服のための天皇の放送 | NHK放送史(動画・記事)
- 昭和天皇の還暦とその年の皇室の話題 | NHK放送史(動画・記事)
- 天皇・皇后両陛下 初のご訪米 | NHK放送史(動画・記事)
- 歴代最長 天皇陛下在位50年記念式典 | NHK放送史(動画・記事)
- 昭和天皇 100日を越える闘病 | NHK放送史(動画・記事)
- 昭和天皇崩御 | NHK放送史(動画・記事)
- ウィキメディア・コモンズには、昭和天皇 (カテゴリ)に関するメディアがあります。
- ウィキスピーシーズには、昭和天皇に関する情報があります。
- ウィキクォートには、昭和天皇に関する引用句があります。
昭和天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 大正天皇 (嘉仁) |
皇位 第124代天皇 昭和天皇 1926年12月25日 – 1989年1月7日 大正15年/昭和元年12月25日 – 昭和64年1月7日 |
次代 明仁 |