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師正王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
師正王
東久邇宮家
師正王
続柄

全名 師正(もろまさ)
身位
敬称 殿下
出生 1917年11月3日
大日本帝国の旗 大日本帝国
死去 (1923-09-01) 1923年9月1日(5歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国神奈川県高座郡藤沢町大字鵠沼吉村鉄之助別荘
埋葬 1923年9月13日
豊島岡墓地
父親 東久邇宮稔彦王
母親 稔彦王妃聰子内親王
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師正王(もろまさおう、1917年大正6年〉11月3日 - 1923年〈大正12年〉9月1日) は、日本皇族東久邇宮稔彦王の第2王男子。母は、明治天皇第9皇女子・聰子内親王。兄に陸軍少佐盛厚王、弟に粟田彰常侯爵多羅間俊彦がいる。

生涯

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左から師正王、彰常王盛厚王、後ろは母宮聰子内親王(1922年頃撮影)

1917年大正6年)11月3日[注釈 1]午前2時50分、東久邇宮稔彦王同妃聰子内親王の第2王男子として誕生[1]。御七夜の11月10日に「師正(もろまさ)」と命名される[2]

1923年(大正12年)9月1日関東大震災で被災し薨去[3]。避暑滞在中の神奈川県高座郡藤沢町大字鵠沼吉村鉄之助別荘に滞在しており、まだ満5歳だった。

遺骸は、鵠沼在住の退役海軍大佐・松岡静雄の手配により、駆逐艦夕凪にて8日午後3時に芝浦に到着した[4]。鵠沼海岸には、師正王の関東大震災遭難記念碑がある。同震災では、山階宮武彦王妃の佐紀子女王が鎌倉別邸で、閑院宮家寛子女王が小田原別邸でそれぞれ被災し、計3名の皇族が命を落としている。後年、昭和天皇は、皇族の薨去があったことを理由に9月1日を「慎みの日」としていた[5]

同年9月13日、東久邇宮邸における告別の儀を経て、豊島岡墓地にて埋柩の儀が執り行われた[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 母方の祖父・明治天皇と同じ誕生日である。

出典

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  1. ^ 大正6年宮内省告示第18号(『官報』第1578号、大正6年11月5日)(NDLJP:2953692
  2. ^ 大正6年宮内省告示第20号(『官報』第1583号、大正6年11月10日)(NDLJP:2953697
  3. ^ 大正12年宮内省告示第32号(『官報』号外、大正12年9月4日)(NDLJP:2955453/2
  4. ^ 産經デジタル 関東大震災の被害伝える鵠沼の石碑 5歳の師正王犠牲に 父は後の首相 2019.5.15 2019年6月24日閲覧
  5. ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.322
  6. ^ 『官報』号外「宮廷録事」大正12年9月13日(NDLJP:2955462/4