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[[1910年]](明治43年)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を経ち、同日、師団司令部留守部を設置<ref>『官報』第8043号、明治43年4月18日。</ref>。[[1912年]](明治45年)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着し留守部を閉鎖<ref>『官報』第8654号、明治45年4月27日。</ref>。[[1918年]]8月22日、兵器部が師団司令部内に移転し事務を開始<ref>『官報』第1821号、大正7年8月27日。</ref>。 |
2020年7月22日 (水) 04:48時点における版
第2師団 | |
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創設 | 1888年(明治21年)5月14日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 仙台-満州-北支-ソロモン諸島-マレー半島-ビルマ |
編成地 | 仙台 |
通称号/略称 | 勇 |
補充担任 | 第2師管・仙台師管・仙台師管区 |
最終上級単位 | 第38軍 |
最終位置 | サイゴン |
戦歴 | 日清-日露-満州事変-支那事変-ガダルカナル-ビルマ |
日本陸軍の第2師団(だいにしだん)は、1888年(明治21年)5月14日に仙台鎮台を改編して宮城県仙台区(翌年より仙台市)に設立された師団である。1945年(昭和20年)の陸軍解体まで、日本の主要な戦争に参加した。
編成と師管の変遷
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創設から1896年まで
初代師団長は最後の仙台鎮台司令官佐久間左馬太。仙台の歩兵第4連隊、青森の歩兵第5連隊、新潟県新発田の歩兵第16連隊、仙台の歩兵第17連隊の4個歩兵連隊を基幹とし、野砲兵第2連隊、騎兵第2大隊、工兵第2大隊、輜重兵第2大隊などで構成された。
第2師団の管轄範囲、すなわち第2師管は、東北地方と新潟県、北海道だったが[1]、北海道で徴兵を実施したのは函館・江差・福山に限られた[2]。
1896年から1907年まで
日清戦争直後の1896年(明治29年)に決定をみた軍備増強計画により、北海道に第7師団、弘前に第8師団が置かれることになり、第2師管は福島県、新潟県、宮城県の登米郡・本吉郡・栗原郡を除く中部以南に縮小した[3][1]。
これにともない、青森の歩兵第5連隊は1897年(明治30年)10月に第8師団に所属変更した。歩兵第17連隊は1898年(明治31年)に仙台から秋田に移って第8師団の隷下に入り、連隊営の跡地には新設の歩兵第29連隊が置かれた[4]。また、新潟県新津にも新設の歩兵第30連隊が置かれた。騎兵第2大隊は騎兵第2連隊に拡充した。第4連隊と第29連隊は歩兵第3旅団、第16連隊と第30連隊は歩兵第15旅団に属し、師団はこの2個旅団のほかに騎兵第2連隊、野戦砲兵第2連隊、それに第2工兵大隊、第2輜重兵大隊、佐渡の警備隊で構成された[5]。
1907年から1925年まで
日露戦争の後、1907年に、第13師団が新潟県の高田に置かれることになった。これにともなって歩兵第16連隊と同第30連隊は第13師団に移管した。第2師団には新設の歩兵第65連隊が加わり、第8師団から譲られた歩兵第32連隊が秋田から山形に移った。このうち第29連隊と第65連隊が第3歩兵旅団に、第4連隊と第16連隊が第15歩兵旅団に属した。師団にはこの2個旅団のほかに、騎兵第2連隊、野砲兵第2連隊、山砲兵第1大隊、第2工兵大隊、第2輜重兵大隊が属した[6]。
第2師管は新潟県を第13師管に譲り、かわりに山形県と宮城県北部を第8師管から譲られて、宮城・山形・福島3県となった[7][1]。
1925年から1930年まで
第13師団が1925年の宇垣軍縮で廃止されると、第2師団は、歩兵第16連隊と同30連隊を取り戻し、同32連隊を山形に置いたまま第8師団に返した。歩兵第65連隊は廃止になった。第4連隊と第29連隊は第3歩兵旅団に、第16連隊と第30連隊は第15歩兵旅団に属した。師団はこの2個旅団のほかに、騎兵第2連隊、野砲兵第2連隊、それに工兵第2大隊、輜重兵第2大隊、それに新潟県高田に置かれた独立第1山砲兵連隊を擁した[8]。
第2師管は新潟県をあわせ、山形県を第8師管に返し、宮城・福島・新潟3県となった[9]。
戦歴
日清戦争の威海衛攻略に参加。続いて、講和条約で日本に割譲された台湾で起きた抵抗の鎮圧にあたった。
日露戦争では黒木為楨率いる第1軍隷下で九連城攻撃・遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加した。遼陽会戦では弓張嶺の夜襲と呼ばれる師団規模の夜襲を敢行、(ただし、これは師団長の独断で行われた作戦で、命令違反だった。)以後、「夜襲の仙台師団」の異名を取った。
1910年(明治43年)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を経ち、同日、師団司令部留守部を設置[10]。1912年(明治45年)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着し留守部を閉鎖[11]。1918年8月22日、兵器部が師団司令部内に移転し事務を開始[12]。
1931年(昭和6年)からは満州に駐屯し、以後満州事変・盧溝橋事件に参戦し、支那事変ではチャハル作戦・徐州会戦にあたる。太平洋戦争では南方に投入され、緒戦は蘭印で快勝するがガダルカナルでは7000名を越す損害を出す。その後マレー・シンガポール方面の警備を担当、1944年(昭和19年)からはビルマ戦線に参戦した。
施設
師団司令部は仙台市川内(かわうち)の旧仙台城二の丸(現東北大学川内キャンパス)に、射撃場は仙台市台原(旧警察学校~台原小学校)に設置された。
仙台鎮台時代の司令部は二の丸の殿舎であったが、1882年(明治15年)に花火事故で焼失したため、1884年(明治17年)に木造2階の建物を新築した。瓦葺で漆喰の白い壁、正面玄関に柱を立てたポーチを設け、三角の破風を持つルネサンス風の和洋折衷建築であった。これが師団司令部にも引き継がれたが、1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲で失われた[13]。
創設の半年前にあたる1887年(明治20年)12月15日、日本鉄道第三区線(現JR東北本線)の仙台駅や塩竈駅(後の塩釜線・塩釜港駅)が開業し、仙台区(現仙台市)は外港である塩釜港、あるいは、東京府(現東京都)と鉄道で結ばれ、出兵の際の輸送路が確保された。日清戦争では、仙台駅の南に長町停車場を仮に設け、そこから将兵を送り出した[14]。
歴代師団長
- 佐久間左馬太 中将:1888年(明治21年)5月14日 -
- 乃木希典 中将:1895年(明治28年)4月5日 -
- 西寛二郎 中将:1896年(明治29年)10月14日 -
- 西島助義 中将:1904年(明治37年)9月8日 - 1906年7月6日
- 松永正敏 中将:1906年(明治39年)7月6日 - 1912年2月18日
- 仁田原重行 中将:1912年(明治45年)2月27日 - 1915年2月15日
- 南部辰丙 中将:1915年(大正4年)2月15日 - 1916年8月18日
- 河内礼蔵 中将:1916年(大正5年)8月18日 -
- 中島正武 中将:1919年(大正8年)7月25日 -
- 長坂研介 中将:1922年(大正11年)2月8日 -
- 井上一次 中将:1926年(大正15年)3月2日 -
- 赤井春海 中将:1927年(昭和2年)7月26日 -
- 多門二郎 中将:1930年(昭和5年)12月22日 -
- 東久邇宮稔彦王 中将:1933年(昭和8年)8月1日 -
- 秦真次 中将:1934年(昭和9年)8月1日 - 1935年8月1日
- 梅津美治郎 中将:1935年(昭和10年)8月1日[15] - 1936年3月23日[16]
- 岡村寧次 中将:1936年(昭和11年)3月23日 -
- 安井藤治 中将:1938年(昭和13年)6月23日 -
- 吉本貞一 中将:1939年(昭和14年)11月6日 -
- 丸山政男 中将:1941年(昭和16年)4月10日 -
- 岡崎清三郎 中将:1943年(昭和18年)6月10日 - 1945年2月24日
- 馬奈木敬信 中将:1945年(昭和20年)3月1日 -
歴代参謀長
- 高島信茂 歩兵大佐:1888年(明治21年)5月14日[17] - 1889年8月19日[18]
- 大寺安純 歩兵大佐:1889年(明治22年)9月2日 - 1891年6月13日[19]
- 沖原光孚 歩兵大佐:1891年(明治24年)6月13日 - 1892年11月22日[20]
- 大久保春野 歩兵大佐:1892年(明治25年)11月22日[21] - 1894年11月29日[19]
- 大久保利貞 歩兵大佐:1894年(明治27年)11月29日 - 1898年8月26日[22]
- 岡崎生三 歩兵大佐:1898年(明治31年)8月26日 - 1901年2月18日[23]
- 谷田文衛 歩兵大佐:1901年(明治34年)2月18日 - 1902年5月5日[24]
- 石橋健蔵 歩兵大佐:1902年(明治35年)5月5日 - 1905年2月5日[25]
- 阿部貞次郎 工兵大佐:1905年(明治38年)2月6日[26] - 1908年12月21日[27]
- 市川堅太郎 歩兵中佐:1908年(明治41年)12月21日 - 1912年11月30日[28]
- 野沢悌吾 歩兵大佐:1912年(大正元年)11月30日 - 1916年4月1日[29]
- 菱刈隆 歩兵大佐:1916年(大正5年)4月1日 - 1918年7月24日[30]
- 佐藤信 工兵大佐:1918年(大正7年)7月24日 - 1919年7月25日[31]
- 木下文次 歩兵大佐:1919年(大正8年)7月25日 - 1922年9月26日[31]
- 河田四十一 工兵大佐:1922年(大正11年)9月26日 - 1923年8月6日[32]
- 星埜文一郎 歩兵大佐:1923年(大正12年)8月6日 - 1924年12月15日[33]
- 黒坂静一 歩兵大佐:1924年(大正13年)12月15日 - 1928年8月10日[34]
- 小野幸吉 歩兵大佐:1928年(昭和3年)8月10日 - 1931年8月1日[35]
- 上野良丞 歩兵大佐:1931年(昭和6年)8月1日 - 1934年3月5日[36]
- 常岡寛治 歩兵大佐:1934年(昭和9年)3月5日 - 1935年3月15日[37]
- 中尾忠彦 歩兵大佐:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年3月28日[38]
- 島本正一 歩兵大佐:1936年(昭和11年)3月28日 - 1937年8月2日[39]
- 高橋多賀二 歩兵大佐:1937年(昭和12年)8月2日 - 1938年7月15日[40]
- 原田次郎 歩兵大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年12月2日[41]
- 小川壱郎 大佐:1940年(昭和15年)12月2日[42] - 1941年8月17日死去[43]
- 大木良枝 大佐:1941年(昭和16年)月日不詳[注 1] - 1942年7月18日[44]
- 玉置温和 大佐:1942年(昭和17年)7月18日 - 1943年8月2日[44]
- 木下武夫 大佐:1943年(昭和18年)8月2日 - 終戦[45]
最終司令部構成
- 参謀長:木下武夫大佐(陸士33期)
- 参謀:大江卓馬少佐(陸士44期)
- 参謀:金富与志二中佐(陸士45期)
- 参謀:松田三雄少佐(陸士45期)
- 高級副官:荻原行雄少佐
- 兵器部長:鈴木喜芳大佐(陸士23期)
- 経理部長:三好完六主計大佐
- 軍医部長:井美猛軍医大佐
- 獣医部長:鈴木福三郎獣医中佐
最終所属部隊
- 歩兵第4連隊(仙台):一刈勇策大佐(陸士28期)
- 歩兵第16連隊(新発田):堺吉嗣大佐(陸士29期)
- 歩兵第29連隊(若松):三宅犍三郎大佐(陸士29期)
- 捜索第2連隊(仙台):原好三大佐(陸士30期)
- 野砲兵第2連隊(仙台):石崎益雄大佐(陸士26期)
- 工兵第2連隊(仙台):高瀬克巳大佐(陸士30期)
- 輜重兵第2連隊(仙台):山口英男少佐(陸士44期)
- 第2師団通信隊(仙台):石橋一男大尉(陸士55期)
- 第2師団兵器勤務隊(仙台):細貝作蔵少佐
- 第2師団衛生隊(若松):西山秀雄中佐
- 第2師団第1野戦病院(仙台):細見禎一少佐
- 第2師団第2野戦病院(仙台):武田正大尉
- 第2師団第4野戦病院(仙台):丸茂三千穂少佐
- 第2師団病馬廠(仙台):伊藤辰男大尉
- 第2師団防疫給水部(仙台):沼沢保少佐
脚注
注釈
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』410頁では昭和16年3月1日とあるが、前任の小川壱郎が同年8月の死去まで在任であれば整合しない。
出典
- ^ a b c 山本和重「北の軍隊と地域社会」、『北の軍隊と軍都』5 - 6頁。
- ^ 山本和重「北海道の徴兵制」、『北の軍隊と軍都』133-134頁。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』付表第1その2「陸軍管区表(明治29年12月2日勅令第381号)」。
- ^ 加藤宏「第二師団と仙台」、『北の軍隊と軍都』22頁。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』付表第1その1「陸軍常備団隊配備表(明治29年3月16日制定)」。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』付表第2その1「陸軍常備団隊配備表(明治40年9月18日軍令陸第4号)」。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』付表第2その2「陸軍管区表(明治40年9月17日軍令陸第3号)」。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』付表第3その1「陸軍常備団隊配備表(大正14、3、27 軍令陸第1号)」。
- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』附表第3の2「陸軍管区表(大正14、4、6 軍令陸第2号)」。
- ^ 『官報』第8043号、明治43年4月18日。
- ^ 『官報』第8654号、明治45年4月27日。
- ^ 『官報』第1821号、大正7年8月27日。
- ^ 小倉強『明治の洋風建築 宮城県』34-36頁。
- ^ 加藤宏「第二師団と仙台」、『北の軍隊と軍都』28頁。
- ^ 『官報』第2575号(昭和10年8月2日)の任官記事、左ページ最下段の右寄り。
- ^ 『官報』第2765号、昭和11年3月24日。
- ^ 『帝国陸軍編制総覧』166頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』19頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』23頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』24頁。
- ^ 『官報』第2823号、明治25年11月24日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』31頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』35頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』37頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』59頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』65頁。
- ^ 少将進級。『官報』第7648号、明治41年12月22日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』92頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』99頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』112頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』134頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』142頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』161頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』180頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』200頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』218頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』229頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』257頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』262頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』277頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』371頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』396頁。
- ^ 『日本陸軍将官辞典』177頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』410頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』452頁。
参考文献
- 『官報』。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧。
- 小倉強『明治の洋風建築 宮城県』、宝文堂、1976年。
- 加藤宏「第二師団と仙台」、『北の軍隊と軍都』所収。
- 防衛庁防衛研修所戦史部・編『陸軍軍戦備』(戦史叢書)、朝雲新聞社、1979年。
- 山本和重・編『北の軍隊と軍都』(地域のなかの軍隊1、北海道・東北)、吉川弘文館、2015年。
- 山本和重「北の軍隊と地域社会」、『北の軍隊と軍都』所収。
- ――「北海道の徴兵制」、『北の軍隊と軍都』所収。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。