菱刈隆
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菱刈隆 | |
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生誕 |
1871年12月27日 鹿児島県 |
死没 | 1952年7月31日(80歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1894年 - 1935年 |
兵科 | 歩兵科 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
歩兵第4連隊長 由良要塞司令官 第8師団長 第4師団長 台湾軍司令官 満洲国大使 |
勲章 |
勲一等旭日大綬章 勲一等瑞宝章 龍光大綬章 |
出身校 |
陸軍士官学校 陸軍大学校 |
配偶者 | 銓 |
子女 | 隆教(三男)隆文(四男)寅之助(五男)隆永(六男) |
菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日〈明治4年旧暦11月16日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月31日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功五級。幼名、幸吉。鹿児島県出身。
経歴
[編集]薩摩藩士、菱刈八郎太の三男として生れる。成城学校を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、陸軍少尉に任官し、日清戦争では歩兵第3連隊付として出征した。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。歩兵第26連隊中隊長、陸軍戸山学校教官、台湾総督府参謀を歴任。日露戦争では、第1軍参謀として出征した。
戸山学校教官、教育総監部課員、欧州出張、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、歩兵第4連隊長、第2師団参謀長などを歴任。1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級し、歩兵第23旅団長、戸山学校長などを経て、1923年(大正12年)8月、陸軍中将に進級。由良要塞司令官、第8師団長、第4師団長、台湾軍司令官などを歴任。1929年(昭和4年)8月、陸軍大将に進み、関東軍司令官、軍事参議官、満洲国大使などを歴任。1935年(昭和10年)8月、予備役に編入され、1941年(昭和16年)4月に退役した。
1939年(昭和14年)に発足した大日本忠霊顕彰会会長(忠霊塔を参照)[1]、大日本剣道会会長も勤めた。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
演じた人物
[編集]脚注
[編集]- ^ 大日本忠霊顕彰会が発会、戦跡にも建設『東京朝日新聞』(昭和14年7月8日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p481 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「公職追放に関する覚書該当者名簿加除追録 一般名簿追加」5頁。
- ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日。
- ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
- ^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」1926年1月27日。
- ^ 『官報』第807号「叙任及辞令」1929年09月05日。
- ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1936年4月7日。