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島本正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島本 正一(しまもと まさいち、1887年明治20年)11月16日[1][2] - 1967年昭和42年)4月7日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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高知県土佐郡初月村(現・高知市)出身[1][3][4]。島本宗次郎・志賀の息子として生まれる[1][4]。海南中学校(現高知県立高知小津高等学校)、広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業[1][2][5]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる[1][5]。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した[1][2][3]

1919年(大正8年)7月、参謀本部付勤務となり、同年10月、浦塩派遣軍司令部付に発令されシベリア出兵に出征[1]。同年11月から12月までイルクーツク特務機関に勤務。1921年(大正10年)4月、浦塩派遣軍参謀となり、参謀本部付、参謀本部員を務め、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に進級[1]。1925年(大正14年)5月、東京警備参謀に就任し、歩兵第35連隊大隊長、陸軍自動車学校教官を経て、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に昇進し近衛歩兵第4連隊付(一高配属将校)となる[1]。1931年(昭和6年)8月、独立守備歩兵第2大隊長に転じ、1932年(昭和7年)5月、兵科憲兵科に転じ憲兵中佐に任官し関東憲兵隊付(ハルビン憲兵隊長)となった[1][3]。1932年(昭和7年)8月、憲兵大佐に進む[1][3]。1934年(昭和9年)8月、兵科を歩兵科に戻し歩兵大佐となり歩兵第19連隊長に就任した[1][3]

1936年(昭和11年)3月、第2師団参謀長に転じ、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進み陸軍憲兵学校長に就任[1][2][3]。1938年(昭和13年)11月、中支那派遣軍司令部付となり日中戦争に出征[1][2][3]。中支那派遣憲兵隊司令官を経て、1939年(昭和14年)8月、由良要塞司令官に就任し、同年10月、陸軍中将に進級した[1][2][3]。1940年(昭和15年)3月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、81頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』375頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』261-262頁。
  4. ^ a b 高知新聞社 1999, 386頁.
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259、261-262頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。
  7. ^ 官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  8. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  9. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  10. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  11. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  12. ^ 『官報』第1709号「叙任及辞令」1932年9月8日。
  13. ^ 『官報』第7776号「彙報-陸軍省-生徒卒業」1909年5月29日。
  14. ^ 『官報』第4445号・付録「辞令二」1941年10月31日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854