市川堅太郎
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市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明治3年8月15日[1]) - 1925年(大正14年)2月4日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]石川県金沢市で知行100石の旧加賀藩士の家に生まれる[1]。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業[1][2]。翌年3月、歩兵少尉任官[2]。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業[1][3][4]。参謀本部勤務となる[4]。
日露戦争に第4軍参謀として出征した[1]。1908年(明治41年)12月、第2師団参謀長に就任し、1909年(明治42年)1月、歩兵大佐に昇進した[3]。1912年(大正元年)11月、歩兵第9連隊長となる[3]。1914年(大正3年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長に着任[1][3]。
1916年(大正5年)4月、歩兵第39旅団長となり、1917年(大正6年)8月、朝鮮駐剳軍参謀長に異動[1][3]。1918年(大正7年)5月、朝鮮駐剳軍が朝鮮軍と改称し引き続き参謀長を務めた[1][3]。1918年(大正7年)11月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に就任[1][3]。1919年(大正8年)11月、第15師団長に親補された[1][3]。1922年(大正11年)8月、待命となり、1923年(大正12年)3月、予備役に編入された[3]。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)2月3日 - 正八位[5]
- 1894年(明治27年)5月30日 - 従七位[6]
- 1909年(明治42年)4月20日 - 従五位[7]
- 1921年(大正10年)1月10日 - 正四位[8]
- 1923年(大正12年)4月20日 - 従三位[9]
- 勲章等
- 1902年(明治35年)11月29日 - 勲五等瑞宝章[10]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲四等旭日小綬章・明治三十七八年従軍記章[11]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[12]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日重光章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[13]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[14]
親族
[編集]- 娘婿 田村義冨(陸軍中将)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』81頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』91-92頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』92頁。
- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、550頁。
- ^ 『官報』第2576叙任及辞令」1892年2月4日。
- ^ 『官報』第3274号「叙任及辞令」1894年5月31日。
- ^ 『官報』第7743号「叙任及辞令」1909年4月21日。
- ^ 『官報』第2530号「叙任及辞令」1921年1月11日。
- ^ 『官報』第3215号「叙任及辞令」1923年4月21日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月10日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。