石橋健蔵
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石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政6年6月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[1]。
人物
[編集]丹波国多紀郡篠山町(現・兵庫県丹波篠山市)に生まれる[2]。陸軍士官学校(旧3期)及び陸軍大学校(1期)を卒業した。以降、大阪鎮台参謀(中尉)、陸軍士官学校教官、第4師団参謀(大尉)、第1師団参謀(少佐)、中部都督部参謀、第5師団参謀長、歩兵第11連隊長(中佐)、第2師団参謀長(大佐)等を歴任し、明治38年(1905年)には、陸軍少将となり歩兵第3旅団長を拝命する。その後、歩兵第7旅団、歩兵第8旅団の各旅団長を経て、明治45年(1912年)2月27日に、陸軍中将に昇進したが同日付で予備役編入となった。
経歴
[編集]- 明治12年(1879年)12月22日 - 陸軍士官学校(旧3期)卒業、任 陸軍歩兵少尉[1]
- 明治17年(1884年)5月31日 - 任 陸軍歩兵中尉[3]
- 明治18年(1885年)12月24日 - 陸軍大学校(1期)卒業[1]
- 明治20年(1887年)
- 明治21年(1888年)7月17日 - 補 陸軍省総務局課員[6]
- 明治24年(1891年)7月27日 - 補 陸軍士官学校教官[7]
- 明治26年(1893年)
- 明治29年(1896年)10月8日 - 補 陸軍省軍務局課員[10]
- 明治31年(1898年)
- 明治33年(1900年)4月25日 - 補 第5師団参謀長[12]
- 明治34年(1901年)
- 明治35年(1902年)5月5日 - 補 第2師団参謀長[1][15]
- 明治38年(1905年)2月5日 - 任 陸軍少将、補 歩兵第3旅団長[1][16]
- 明治42年(1909年)4月1日 - 補 歩兵第7旅団長[1][17]
- 明治43年(1910年)11月30日 - 補 歩兵第8旅団長[1][18]
- 明治45年(1912年)2月27日 - 任 陸軍中将、予備役編入[19]
栄典
[編集]- 位階
- 1889年(明治22年)7月15日 - 正七位[20]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 正六位[21]
- 1902年(明治35年)2月20日 - 従五位[22]
- 1910年(明治43年)4月30日 - 従四位[23]
- 1912年(明治45年)3月11日 - 正四位
- 勲章等
- 1895年(明治28年)5月23日 - 勲六等瑞宝章[24]
- 1901年(明治34年)10月1日 - 勲三等旭日中綬章・功四級金鵄勲章[25]
- 1906年(明治39年)4月1日 – 勲二等旭日重光章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[26]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官総覧』78頁
- ^ 三丹新報社 1916, 15頁.
- ^ 『官報』第286号「叙任及辞令」1884年6月13日。
- ^ 『官報』第1099号「叙任及辞令」1887年3月3日。
- ^ 『官報』第1149号「叙任及辞令」1887年5月2日。
- ^ 『官報』第1518号「叙任及辞令」1888年7月21日。
- ^ 『官報』第2424号「叙任及辞令」1891年7月29日。
- ^ 『官報』第2883号「叙任及辞令」1893年2月10日。
- ^ 『官報』第3112号「叙任及辞令」1893年11月11日。
- ^ 『官報』第3987号「叙任及辞令」1896年10月10日。
- ^ 『官報』第4510号「叙任及辞令」1898年7月13日。
- ^ a b 『官報』第4579号「叙任及辞令」1898年10月3日。
- ^ 『官報』第5326号「叙任及辞令」1901年4月9日。
- ^ 『官報』第5502号「叙任及辞令」1901年11月4日。
- ^ 『官報』第5648号「叙任及辞令」1902年5月6日。
- ^ 『官報』第6479号「叙任及辞令」1905年2月7日。
- ^ 『官報』第7728号「叙任及辞令」1909年4月2日。
- ^ 『官報』第8234号「叙任及辞令」1910年12月1日。
- ^ 『官報』第8605号「叙任及辞令」1912年2月28日。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
- ^ 『官報』第8055号「叙任及辞令」1910年5月2日。
- ^ 『官報』第3578及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。