「東京国際映画祭」の版間の差分
m 閉じ忘れ タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
m cewbot: ウィキ文法修正 104: Unbalanced quotes in ref name |
||
98行目: | 98行目: | ||
渋谷は元々、[[東急グループ]]の[[城下町]]だったが<ref name="yomiuri19850531"/>、[[宇田川町]]周辺に[[セゾングループ]]が進出して街のイメージが大きく変わったこともあり、東急はこの東京国際映画祭を機会に新しい街づくりをと気合を入れた<ref name="yomiuri19850531"/>。[[東京急行電鉄]]は東急の総帥・[[五島昇]]が会頭を務める[[東京商工会議所]]が映画祭を後援し<ref name="nikkei19860303"/>、渋谷が開催地ということも重なり2億円を寄付した<ref name="nikkei19860303"/>。[[東急エージェンシー]]は、[[銀座]]、[[新宿]]に代わる若者の街・渋谷をアピールし、東急グループの本拠地の振興を企図<ref name="ns19841226">{{Cite news |title= 東急エージェンシー、渋谷全体を広告媒体化―街頭装飾・イベント利用。 |newspaper=日経産業新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=1984-12-26 |page=5}}</ref>、「映画祭のある街」という企画を立て、総額2億6000万円の予算を組み<ref name="ns19841226"/>、渋谷、原宿の[[目抜き通り]]の街頭装飾やイベントを丸ごと[[広告媒体]]として使用するというプロジェクトを組んだ<ref name="ns19841226"/>。渋谷のような[[繁華街]]を一企業が買い取る形は前例のない試みで<ref name="ns19841226"/>、スポンサーは期間中に渋谷、原宿の目抜き通りの街頭に吊るされる[[旗]]([[バナー]])約1200本とビルに吊るす[[横断幕|懸垂幕]]に自社の名前を入れられ、様様なイベントで広告活動等が出来た<ref name="ns19841226"/>。また後述する映画祭の企画のうち、協賛プログラム(スポンサー企画)の三つは、スポンサーではなく、東急エージェンシーと電通が[[広告代理店|代理店]]として企画したもので<ref name="ns19841226"/>、「[[東京国際ファンタスティック映画祭|TAKARAファンタスティック映画祭]]」は東急エージェンシーが代理店を請け負い、[[宝酒造]]がスポンサーになった<ref name="ns19841226"/>。また当時の[[百貨店]]は年間44日の休業が義務付けられ<ref name="asahi198506022">{{Cite news |title= 休日戦争 月別の枠にまず風穴(流通変革の時代:8) |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-6-22 |page=8}}</ref>、旧百貨店法時代から営業する店舗は「休業日は月に4日、7月と12月は各2日」と枠がはめられ、この枠を取り払うには、地元との調整や[[労働組合|労組]]との交渉が必要で、これまではどの百貨店も二の足を踏んでいた<ref name="asahi198506022"/>。[[東急百貨店本店]]・[[東急百貨店東横店|東横店]]は映画祭期間中の1985年6月6日の木曜日が定休日に決まっていたが、映画祭期間中は無休にしたいと鈴木育延同社総務部長が一年前から、地元商店街の夜間の美化パトロールや[[冠婚葬祭]]や[[宴会]]などで付き合いを深め、[[街路灯]]や[[歩道]]のタイル舗装などに資金を出し、1984年末、東京商工会議所の商業活動調整協議会に休業日の月別の枠を外すことを申請し認められ、東急百貨店は映画祭期間中は無休で営業し、さらに歳末商戦の12月も無休にする合意を地元商店街と取り付けた<ref name="asahi198506022"/>。寝耳に水の申請に[[西武百貨店]]など渋谷、新宿、銀座の百貨店は、関東百貨店協会の緊急理事会を急遽招集し、業界がそろって枠を外すという結論を出した<ref name="asahi198506022"/>。この動きは全国に波及した<ref name="asahi198506022"/>。 |
渋谷は元々、[[東急グループ]]の[[城下町]]だったが<ref name="yomiuri19850531"/>、[[宇田川町]]周辺に[[セゾングループ]]が進出して街のイメージが大きく変わったこともあり、東急はこの東京国際映画祭を機会に新しい街づくりをと気合を入れた<ref name="yomiuri19850531"/>。[[東京急行電鉄]]は東急の総帥・[[五島昇]]が会頭を務める[[東京商工会議所]]が映画祭を後援し<ref name="nikkei19860303"/>、渋谷が開催地ということも重なり2億円を寄付した<ref name="nikkei19860303"/>。[[東急エージェンシー]]は、[[銀座]]、[[新宿]]に代わる若者の街・渋谷をアピールし、東急グループの本拠地の振興を企図<ref name="ns19841226">{{Cite news |title= 東急エージェンシー、渋谷全体を広告媒体化―街頭装飾・イベント利用。 |newspaper=日経産業新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=1984-12-26 |page=5}}</ref>、「映画祭のある街」という企画を立て、総額2億6000万円の予算を組み<ref name="ns19841226"/>、渋谷、原宿の[[目抜き通り]]の街頭装飾やイベントを丸ごと[[広告媒体]]として使用するというプロジェクトを組んだ<ref name="ns19841226"/>。渋谷のような[[繁華街]]を一企業が買い取る形は前例のない試みで<ref name="ns19841226"/>、スポンサーは期間中に渋谷、原宿の目抜き通りの街頭に吊るされる[[旗]]([[バナー]])約1200本とビルに吊るす[[横断幕|懸垂幕]]に自社の名前を入れられ、様様なイベントで広告活動等が出来た<ref name="ns19841226"/>。また後述する映画祭の企画のうち、協賛プログラム(スポンサー企画)の三つは、スポンサーではなく、東急エージェンシーと電通が[[広告代理店|代理店]]として企画したもので<ref name="ns19841226"/>、「[[東京国際ファンタスティック映画祭|TAKARAファンタスティック映画祭]]」は東急エージェンシーが代理店を請け負い、[[宝酒造]]がスポンサーになった<ref name="ns19841226"/>。また当時の[[百貨店]]は年間44日の休業が義務付けられ<ref name="asahi198506022">{{Cite news |title= 休日戦争 月別の枠にまず風穴(流通変革の時代:8) |newspaper=朝日新聞 |publisher=朝日新聞社 |date=1985-6-22 |page=8}}</ref>、旧百貨店法時代から営業する店舗は「休業日は月に4日、7月と12月は各2日」と枠がはめられ、この枠を取り払うには、地元との調整や[[労働組合|労組]]との交渉が必要で、これまではどの百貨店も二の足を踏んでいた<ref name="asahi198506022"/>。[[東急百貨店本店]]・[[東急百貨店東横店|東横店]]は映画祭期間中の1985年6月6日の木曜日が定休日に決まっていたが、映画祭期間中は無休にしたいと鈴木育延同社総務部長が一年前から、地元商店街の夜間の美化パトロールや[[冠婚葬祭]]や[[宴会]]などで付き合いを深め、[[街路灯]]や[[歩道]]のタイル舗装などに資金を出し、1984年末、東京商工会議所の商業活動調整協議会に休業日の月別の枠を外すことを申請し認められ、東急百貨店は映画祭期間中は無休で営業し、さらに歳末商戦の12月も無休にする合意を地元商店街と取り付けた<ref name="asahi198506022"/>。寝耳に水の申請に[[西武百貨店]]など渋谷、新宿、銀座の百貨店は、関東百貨店協会の緊急理事会を急遽招集し、業界がそろって枠を外すという結論を出した<ref name="asahi198506022"/>。この動きは全国に波及した<ref name="asahi198506022"/>。 |
||
当時は[[東急百貨店本店]]北隣に多目的ホールを計画中(『[[Bunkamura]]』)で、将来的には〈東急文化村〉で〈西武・公園通り〉に対抗する構えでいた<ref name="yomiuri19850531"/>。組織委員会会長の瀬島龍三は[[財界]]活動をして来なかった人だったが<ref name="幾山河">{{Cite book|和書|author=|year=1995|title=幾山河 瀬島龍三回想録|publisher=産経新聞ニュースサービス|isbn=4594018092|pages=351-353}}</ref>、1978年に[[五島昇]]と[[永野重雄]][[日本商工会議所]]会頭に請われ<ref name="参謀の昭和史>{{Cite book|和書|author=[[保阪正康]]|year=1987|title=瀬島龍三 参謀の昭和史|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|isbn=4163421106|pages=207-215}}</ref>、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢され<ref>{{Cite book|和書|author=松井志郎|year=1986|title=五島昇 財界革新を狙う東急グループの総帥|publisher=ぱる出版|isbn=|page=223}}</ref><ref name="ニッポニカ">{{Kotobank|瀬島龍三|2=[[小学館]] 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>、以降、活発に財界活動を行うようになった<ref name="幾山河"/><ref name="ニッポニカ"/>。実行委員長の岡田茂は東急グループの人物で<ref name="経済界19800321"/><ref name= "経済界19830524"/><ref name="創198912">{{Cite journal|和書 |author = |title = 反アパルトヘイト映画めぐる東京国際映画祭の「限界」 |journal = [[創 (雑誌)|創]] |issue = 1989年12月号 |publisher = 創出版 |pages = 30 }}</ref>、東急エージェンシーの当時の社長・前野徹は「岡田茂を囲む会」のメンバーだった<ref>{{Cite book |和書 |author = 岡田茂 |year = 2001 |title = 悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 |publisher = 財界研究所 | id = ISBN 4879320161 |pages = 216-217 }}</ref>。このため東京国際映画祭は、渋谷の再開発を狙う東急グループのイベントという見方もあった<ref name="創198912"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = [[山田和夫]] |title = 主催国の映画状況を映す鏡だった東京国際映画祭を考える |journal = 月刊社会教育 |issue = 1989年11月号 |publisher = [[国土社]] |pages = 60 }}</ref><ref>[https://www.tokyu-rec-recruit.jp/newgraduate/job/05.html 社員紹介5 | 新卒採用:東急レクリエーション]</ref>。 |
当時は[[東急百貨店本店]]北隣に多目的ホールを計画中(『[[Bunkamura]]』)で、将来的には〈東急文化村〉で〈西武・公園通り〉に対抗する構えでいた<ref name="yomiuri19850531"/>。組織委員会会長の瀬島龍三は[[財界]]活動をして来なかった人だったが<ref name="幾山河">{{Cite book|和書|author=|year=1995|title=幾山河 瀬島龍三回想録|publisher=産経新聞ニュースサービス|isbn=4594018092|pages=351-353}}</ref>、1978年に[[五島昇]]と[[永野重雄]][[日本商工会議所]]会頭に請われ<ref name="参謀の昭和史">{{Cite book|和書|author=[[保阪正康]]|year=1987|title=瀬島龍三 参謀の昭和史|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|isbn=4163421106|pages=207-215}}</ref>、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢され<ref>{{Cite book|和書|author=松井志郎|year=1986|title=五島昇 財界革新を狙う東急グループの総帥|publisher=ぱる出版|isbn=|page=223}}</ref><ref name="ニッポニカ">{{Kotobank|瀬島龍三|2=[[小学館]] 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>、以降、活発に財界活動を行うようになった<ref name="幾山河"/><ref name="ニッポニカ"/>。実行委員長の岡田茂は東急グループの人物で<ref name="経済界19800321"/><ref name= "経済界19830524"/><ref name="創198912">{{Cite journal|和書 |author = |title = 反アパルトヘイト映画めぐる東京国際映画祭の「限界」 |journal = [[創 (雑誌)|創]] |issue = 1989年12月号 |publisher = 創出版 |pages = 30 }}</ref>、東急エージェンシーの当時の社長・前野徹は「岡田茂を囲む会」のメンバーだった<ref>{{Cite book |和書 |author = 岡田茂 |year = 2001 |title = 悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 |publisher = 財界研究所 | id = ISBN 4879320161 |pages = 216-217 }}</ref>。このため東京国際映画祭は、渋谷の再開発を狙う東急グループのイベントという見方もあった<ref name="創198912"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = [[山田和夫]] |title = 主催国の映画状況を映す鏡だった東京国際映画祭を考える |journal = 月刊社会教育 |issue = 1989年11月号 |publisher = [[国土社]] |pages = 60 }}</ref><ref>[https://www.tokyu-rec-recruit.jp/newgraduate/job/05.html 社員紹介5 | 新卒採用:東急レクリエーション]</ref>。 |
||
これに対して[[西武グループ]]は[[ぴあ]]と組んで[[ぴあフィルムフェスティバル]]の共催企画「映画渡世・マキノ雅裕」を行ったが<ref name="pff">[https://pff.jp/jp/festival/archives/1985/ ぴあフィルムフェスティバル公式サイト 過去の映画祭 1985年:第8回PFF]</ref>、東急よりも冷ややかだった<ref name="yomiuri19850531"/>。 |
これに対して[[西武グループ]]は[[ぴあ]]と組んで[[ぴあフィルムフェスティバル]]の共催企画「映画渡世・マキノ雅裕」を行ったが<ref name="pff">[https://pff.jp/jp/festival/archives/1985/ ぴあフィルムフェスティバル公式サイト 過去の映画祭 1985年:第8回PFF]</ref>、東急よりも冷ややかだった<ref name="yomiuri19850531"/>。 |
2019年11月11日 (月) 01:10時点における版
東京国際映画祭 Tokyo International Film Festival | |
---|---|
六本木駅に設置された会場への案内看板 | |
イベントの種類 | 映画祭 |
通称・略称 | TIFF |
正式名称 | 東京国際映画祭 |
開催時期 | 毎年10月下旬 |
初回開催 | 1985年 |
会場 |
六本木ヒルズ 東京都内の映画館・劇場・ホール各所 |
主催 | 財団法人日本映像国際振興協会 |
共催 |
経済産業省(マーケット部門) 東京都(コンペティション部門) |
協賛 |
トヨタ自動車(スペシャルパートナー) 日本コカ・コーラ、木下工務店、富士ソフト(オフィシャルパートナー) ほか各社 |
協力 | 読売新聞東京本社/NTTドコモ/NTTコミュニケーションズ/テレビ朝日/帝人/J-WAVE/ジュピターエンタテインメント/ゲッティイメージズジャパン/ジェイ・ストリーム/クララオンライン |
プロデューサー | ディレクター・ジェネラル:椎名保 |
六本木ヒルズへの交通アクセス | |
最寄駅 | 地下鉄六本木駅 |
公式サイト | |
備考: 1991年より毎年開催。ただし1994年のみ「東京国際映画祭・京都大会」。 |
東京国際映画祭(とうきょうこくさいえいがさい、英語: Tokyo International Film Festival, TIFF)は、毎年10月に日本の東京で開催される映画祭である。国際映画製作者連盟 (FIAPF) 公認の国際映画祭であるが、総合映画祭ではなく長編作品のみを対象とする。
概要
財団法人日本映像国際振興協会(ユニジャパン)が主催する、FIAPF公認のコンペティティブ長編映画祭 (Competitive Feature Film Festival) である。2012年(平成24年)度の開催予算は約7億円で、官公庁からの助成金は35%(2億4500万円)(2007年度は総額13億円)。
1985年(昭和60年)のつくば万博開催を受け、通産省(現・経済産業省)からの誘いがあり、日本映画製作者連盟(以下、映連)会長・岡田茂東映社長や、瀬島龍三らの尽力で創設された[1][2]。
1985年のスタート時は隔年開催で渋谷の映画館を中心に開かれていたが、1991年第4回に岡田映連会長の指名で徳間康快がゼネラル・プロデューサー(GP)就任後は[3][4][5]、毎年開催されるようになった[3][5]。1994年は平安遷都1200周年記念として「京都国際映画祭 / 第7回東京国際映画祭 - 京都大会」という名称のもと京都市で開催された[6]。
6名の国際審査委員が最優秀作品賞である“東京グランプリ”を選出する「コンペティション」やエンターテインメント性の高い話題作を集めた「特別招待作品」、アジアの秀作に焦点を当てた「アジアの風」、日本映画をクローズアップする「日本映画・ある視点」などのメイン企画をはじめ30以上の企画が開催される。2004年には世界の映画界に貢献した映画人をたたえる賞として「黒澤明賞」が新設された[7]。黒澤明賞は2008年まで設けられた。2005年には映画祭最高賞の名称が「東京グランプリ」から「東京 サクラ グランプリ」 に変更された [8]が、2014年に「東京グランプリ」に戻された。 2014年、第27回東京国際映画祭ラインナップ発表会の際に、比類なき感性で常に時代を切り開き続けている人の実績をたたえる賞として「サムライ“SAMURAI”賞」が新設された[9][10]。
2015年、上海国際映画祭との協力連携が発表される[11]。
コンペティション部門への応募作品は2018年には109カ国・地域から1829本に上り、「アジア最大級の国際映画祭」へと成長した[12]。
創設経緯
1982年に通産省(現・経済産業省)から、岡田茂映連会長に1985年のつくば万博に合わせて国際映画祭をやれないかという要請があった[13][14][15]。岡田に話を持ち掛けたのは小長啓一通産省政策局長とされる[16]。通産省としては衰退の一途を辿る国内映画産業が復活の兆しが見えないため、国際映画祭という刺激を与えることで喝を入れたいという話で[13]、つくば万博に合わせ、一週間程度の期間で東京で開く案が有力視され、少なくとも二年に一回の開催とし、定期的な国際映画祭に育てていくという基本的なプランを映連で1982年7月末にまとめた[13]。つくば万博の目玉がないため、映画祭の案が出たものと見られたが[15]、日本政府からの援助は1億2000万円[15]。1983年1月から2月にかけて第二回マニラ国際映画祭に岡田を団長とする映連幹部が参加し、同映画祭の運営の詳細を聞いたところ予算が約4億円で[15]、その金額でも参加65ヵ国、約1000人のバイヤーの費用その他は賄えないと同映画祭を個人的な趣味で始めたといわれるイメルダ・マルコスから聞いた[15]。映画祭の記者会見の席上、現地メディアから「日本で国際映画祭はやらないのか」という質問が出たため、岡田は「通産省からその種のものをやってくれないかという要請は来ているが、とても日本ではこういう映画祭は考えられない」と答えた[15]。東洋の国、特に日本は地理的なハンデもあり、国際映画祭を行うと参加国の交通費など欧米と比べて資金が高くつくし、文化的に価値のあるものに金を出さないというお国柄で[15][17]、映画業界にも金はないため、政府援助1億2000万円程度で開催できる筈もなかった[15]。余程強力なスポンサーでも見つけない限り、日本での国際映画祭開催は不可能と見られた[15]。
国際映画祭は1970年の大阪万博のプログラムの一つとして「日本国際映画祭」と銘打ち、行われたことがあり(1970年4月1日~10日、大阪フェスティバルホール)[2][18][19][20]、実務を担当したのは当時の岡田の上司・大川博東映社長だった[18][19][21]。しかし国際映画祭での出品作は未公開作に限るという規定が厳しく[19]、辞退会社が続出[19][22]。当時は日本映画の不況が深刻化した時代で[23]、各社映画祭どころではなく[14]、松竹の城戸四郎は全くやる気なし、大映の永田雅一は会社がおかしくなり、日活の堀久作はこんなものはダメだと言うし、東宝の松岡辰郎は乗り気でなく、どこも協力してくれず[24][25]。上映は海外も合わせて全部で20本に留まった[20][26]。また欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があり[27][28][29]、スウェーデンのハードコア『私は好奇心の強い女』がノーカット無修正で上映されるのかが、マスメディアに盛んに取り上げられ[2][30][31][32]、同作は過激な裸体・性愛描写が各国で検閲議論を巻き起こし、世界中で「ポルノ解禁」をもたらす引き金になった曰く付きの映画であったが[30]、この影響もあって日本映画はさっぱり話題にならず[18][27]、同作の監督と税関の間に挟まり大川は手を焼いた[31][32](結局45ヵ所の修正、11分間カットされて上映された)[30][33]。「大川は勲章が欲しいからやるんだろう」[24]「あれが国際映画祭か?」などと散々に叩かれ[34]、成果なしに終わり[18]、映画界では国際映画祭はタブーなどと言われた。間もなく大川が亡くなり、残務処理を岡田が引き継いで往生した[14]。映画界にとって何の実利もなく、岡田は最初は乗り気でなく[18]、やらない方がいいという先行的な考えを持っていた[14]。
しかし元電通の小谷正一が中心となり[14]、日本ヘラルドの原正人、岡田晃、山本又一朗、鹿内春雄がグループを組み、開催実現に向け、岡田に盛んに働きかけた[14]。岡田は通産省やつくば万博のためのイベントだけでは映画界全体にとってメリットがなく、やる意味がないと突っぱねた。映画界のリーダーである岡田を説得しなければ実現は不可能で、小谷らが岡田に連日連夜押し込みを続け、引き受けざるを得なくなった[14][18]。仕方なく岡田が東宝の松岡功、松竹の奥山融、大映の徳間康快、にっかつの根本悌二らに頭を下げ、協力を要請し、ようやく開催に向け動き出した[14][35]。先の万博での映画祭は規模が小さかったため、東京国際映画祭が日本初の国際映画祭という認識だった[18][30][36][37][38][39][40]。
開催まで
1983年10月25日に最初の会議が開かれ[41]、1983年11月に岡田らとマスコミとの懇談会を開くなど[18]、輪郭を決め、岡田と小谷らで準備委員会を作り、1983年12月に大まかなプランニング発表があった[42]。この後、組織委員会を作る際に岡田と小谷で相談し、日本商工会議所に協力を仰ぐことになり[14]、当時の商工会議所会頭は岡田の後見人を自称していた永野重雄だったが[43]、五島昇に会頭をバトンタッチすることが決まっていて、忙しいときに五島に頼むのは無理だろうと、誰かいい人はいないかとなり、岡田も付き合いのある瀬島龍三を候補に挙げたら[14][44]、運輸省も是非と賛成し、岡田と小谷で瀬島に「組織委員会委員長になってくれ」と頼みに行ったら、瀬島から「いきなり組織委員長と言われても、わたしは映画を全然知らない人間だから困る」と断られた[14]。岡田は必ず政府との問題が色々起こって来ると予想し強引に瀬島を口説き、永野重雄からも瀬島に協力要請があり[45][46]、瀬島が渋々引き受けた[14]。瀬島は当時の首相・中曽根康弘のブレーンの一人だった。
1984年2月24日、東京国際映画祭準備委員会が総会で準備委員会を「組織委員会」に発展改組し[47][48]、実施運営の総括組織として「実行委員会」を発足させ、組織委員会会長に瀬島龍三、実行委員会実行委員長に岡田茂、ゼネラル・プロデューサーに小谷正一が就任[47][48]。組織委員メンバーとして他に、天野房三渋谷区長、井川博日本商工会議所専務理事、大島渚日本映画監督協会理事長、岡道明東急エージェンシー常務取締役、加戸守行文化庁次長、川口幹夫NHK専務理事、小長啓一通産省政策局長、坂倉芳明西武百貨店社長、並木貞人商店会・全振連会長、古川勝巳外国映画輸入配給協会会長、三浦守東急百貨店社長、三宅和助外務省情報文化局長、八住利雄日本シナリオ作家協会理事長を選出した[18][35][47]。構成メンバーの追加は岡田実行委員長を中心に人選すると発表した[47]。メンバーは全員無償のボランティア[26]。
国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定を受け、1984年4月4日、ホテルキャピタル東急で正式に東京国際映画祭開催の決定発表があり[45][46][49]、東京国際映画祭組織委員会、実行委員会が映画祭の概要を発表した[50]。岡田茂実行委員長を補佐する副委員長には松岡功が選出された[49]。当時国際映画製作者連盟から公認された国際映画祭は八つで[41]、東京は九番目であった[41]。
1984年のカンヌ国際映画祭に岡田茂東京国際映画祭実行委員長ら代表団と内田宏駐フランス大使が出席し[35][51]、期間中の1984年5月19日の夜、当地のホテルマルチネで、東京国際映画祭開催の公式発表が行われた[51][52]。カンヌには世界の映画祭関係者が集まるため、極東の遠い都市での映画祭に好奇心がそそられ[52]、36ヵ国から800人のジャーナリストが集まり、記者会見に用意した椅子も足りずに立ち見が出る盛況ぶりで、各国の東京国際映画祭に対する関心の高さが伺えた[53][51]。アジア最大の映画マーケットである日本で、これまで国際映画祭が開かれなかったことが不思議という感想を持たれた[54]。後述の理由で期日を反対された敵地での会見になったが[51]、会見後はジャン・マレーやミレーヌ・ドモンジョなど、俳優、監督、プロデューサーらが「ぜひ東京に行きたい」と岡田実行委員長を祝福した[51]。
1984年7月26日、ホテルニューオータニで、第2回実行委員会が開かれ、総合調整委員会実行委員長・岡田茂、ゼネラルプロデューサー・小谷正一、アソシエ―テッドプロデューサー・原正人、岡田晃、海外渉外委員会委員長・古川勝巳、副実行委員長兼広報委員会委員長・松岡功、上映委員会委員長・奥山融、作品選定委員会委員長・徳間康快などが決まった[55]。各映画会社の社長に責任者になってもらう形をとった[56]。渋谷地区の委員会も結成され、渋谷の街ぐるみの映画祭とすると申し合わせがあった[49]。また部会は「映画企画」「一般企画」「科学万博」「ニューメディア」の4部会があり、「映画企画」の総合プロデュースが山本又一朗で[55]、山本が自身のプロデュース作『Mishima』の上映問題で後に騒ぎを起こした[57]。1984年11月、各企画の上映作品や開催場所、期間など具体的な内容も決定した[58]。1984年12月25日、在京テレビ局各社に対し映画祭の説明会を開き、協力を要請[49]。若者向けの企画も多く組まれ、映画の素晴らしさをファンにPRする絶好の機会となり[59]、「どうしたら映画離れを食い止めることができるか」という長年映画人に課せられた映画再興という問いの答えを示す意地の舞台になった[59][60]。
1985年5月7日、内幸町の日本プレスセンターで、岡田茂実行委員長より、映画祭の全ての企画の全容が発表された[61][62][63]。また徳間康快作品選定委員会委員長が「すべての上映作品は国際映画祭規約に準じて上映される」と、間接的発言ながらヘアも無修正のまま上映されることを正式に認めた[63]。
諸問題
- 公認問題
日本で初めて開かれる大規模な国際映画祭で、諸問題が山積で大揺れ[64][65][66]。変更を余儀なくされていくケースがたくさん出た[18]。国際映画製作者連盟から公認映画祭と認定はされたが[26]、仮免許のようなもので「グランプリ」という名称は使えず[26]。第二回からは「グランプリ」という名称が許されて映画祭の本命である東京グランプリを競う作品のコンペティションが出来るということで[26]、第一回は「グランプリ」を選出するコンクールがないため[67]、いろんな催しが企画され苦心のプログラムが組まれた[67]。プログラムの超目玉が「ヤングシネマ85」(1945年以降に生まれた監督作品のコンペ)であった[2][68][69]。内外の新進監督のコンクールで、最優秀作品に次回作品の製作資金として150万ドル(当時は3億8000万円に相当)[26]を提供するという世界の映画祭でも前例のない高額賞金で、ヨーロッパの各国から「本当か?一桁間違えてないか?」と心配されたが[26]、「さすが経済大国」と改めて感心された[26]。国際映画祭では初めての賞金つきコンクールと書かれたものがある[70]。同プログラムのチーフプロデューサー・佐々木史朗ATG社長がカンヌでいきなり「150万ドル出す」と発表したもので、隣にいた岡田が「大丈夫か、わしはそんな金知らんぞ」と思わず声を上げた[14]。どこの国の若手監督も製作費に悩んでいるため、カンヌでの記者会見では作品の管理はどうするのだ等、若手監督らが代表団を質問責めに遭わせた[51][69]。150万ドルはフジテレビとCSKが出資した[71]。CSKグループには、セガ・エンタープライゼス(現セガゲームス)やぴあが参加しており[72]、ぴあは東京国際映画祭を皮切りに、新しく立ち上げた「ぴあ基金」制度を仲介として、各種文化イベントに資金援助していくと発表した[72]。当時の社会主義国のほとんどを含む世界40ヵ国から519本の応募作品が殺到し[73]、世界中から注目される良い切っ掛けになった[26][69]。当時映画製作の主要国は54ヵ国といわれ[26]、日本で上映されるのは10ヵ国以下で、70%がアメリカ映画、あとの30%が5、6ヵ国といわれた[26]。「ヤングシネマ85」の最優秀作品は、519本の中から予備選で16作品が上映され、大手映画会社から無視され続けお蔵入りしていた[74]相米慎二の『台風クラブ』が選ばれた[75][76][77]。審査の席上で「少しでも多くの監督にチャンスを」などと[78]妙な策略が行われ[2][79]、賞金は150万ドルではなく、75万ドル(1億8000万円)に突如変更され[2][79][80]、二位の『At』と三位の『止った時間』に残りの金額を分配した[78][81]。相米は「次回作は武田泰淳の『富士』をやります」と話したが[71]、賞金を『光る女』の製作に充てた。「ヤングシネマ85」は国内外の映画人から高い評価を受け[67]、審査委員長だったデヴィッド・パットナムも「世界の若手を育てるために賞金を出すという発想に、これぞ時代を感じさせる映画祭だと感心した」と評した[70]。企画は「映画企画」の部会のメンバーの中に映画祭の否定論が多く[41]、やるなら「何かユニークな目玉がないか」となり、メンバーで話しているうち、誰かがこの企画を挙げたという[41]。
- 資金調達
岡田が1980年に渋谷を本拠に置く東急レクリエーション社長にも就任しており、渋谷を文化都市、文化エリアとして大いにイメージアップを図ろうと渋谷を開催地に決めた[14]。NHKホール使用の許可も取り、連動すれば大きなイベントを組めると構想し、町ぐるみで映画祭に参加してもらうことになった[14]。岡田の予想通り、開催に向け動き出すと外務省から「通産省主導型の映画祭はおかしい」とか、文化庁は「映画祭、フェスティバルという名前はわれわれの所管だ」などとクレームを付けてきたが[14]、これらは瀬島でないと解決できない問題であった[14]。カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの世界三大映画祭は、政府から物心両面の手厚い支援を受けていたが[17]、日本政府にそれは期待できないため[17]、独力で民間から資金を集めた[17]。このため大部分は企業の協力に依存せざるを得ず、スポンサーの名が目立つ商業主義などと批判された[17]。映画祭を国際的に宣伝するためには、できるだけ多くの映画人、ジャーナリストを招待することが必要で、財政が充分でないと招待者数を限定せざるを得なくなり「これでは国際映画祭ではなく、国内映画祭だ」と陰口をたたかれるからである[17]。事務局で働く人の大半を映像の関係者にボランティアをお願いした[17]。運営資金は5億円と算段し[18]、資金調達の目途はついたが、寄付金などは税金を取られて実際は2億5000万円ぐらいしか使えないことが分かり、それなら財団でやろうと考え、東京都が財団を持っていることを知り、これを使おうとしたら政治問題化する可能性があると都の副知事から反対された[14]。このため新しく独自の財団を作ったが、許可が降りるまで一年以上かかるとされたが、これも瀬島の力を借りて短期間で許可を降ろさせた[2][14]。この財団を作るのに一億円以上かかった。5億円の資金調達は岡田と瀬島で相談し[14]、岡田が各映画会社、各テレビ局、丸井の青井忠雄ら、渋谷地区の大きな流通関係に協力を仰ぎ、東急グループ1億円、2億円とも[82]、西武グループ7000万円[83]、鈴木俊一東京都知事にも頼みに行き、5000万円の予算措置をつけてもらい、通産省は最初の話より金を出さなかったともいわれ、予算額の5億円は調達した[14]。5億でも足らないことが予想されたため、電通と東急エージェンシーで更に金を集めた[14]。1985年に第一回理事会を開き、各映画会社社長、各テレビ局社長に全員理事で入ってもらった[14]。
- 開催期日の変更
つくば万博との連動が趣旨だったため、最初は1985年4月の開催を予定していた[14][51]。ところが毎年5月に開催するカンヌ国際映画祭当局が「4月は困る、カンヌの直前にやるなら一切協力しない、やるのなら秋に」とクレームを付けて来た[2][18][51]。カンヌ映画祭当局は国際映画製作者連盟にかなりの圧力をかけた[18]。秋にやっていては効果が薄いと岡田が判断し、カンヌ映画祭当局を説得し、1985年6月開催を決めた[14][18]。渋谷のNHKホールを主会場に、渋谷の映画館、ホールを会場に1985年5月31日~6月9日の10日間の開催を決定した[84][85]。また新しい科学技術のお披露目として『乱』をNHKホールと筑波万博の会場と同時に映すという宇宙中継(衛星放送)が計画されていたが[41]、『乱』の完成遅れ等の理由で中止になった[41]。
- ヘア問題
1970年の映画祭でも大きく取り上げられ[85]、これまで幾度となく争われた"芸術か""ワイセツか"問題がここでも起き[69]、"ヘア解禁"がなるのか、大きな注目を浴びた[18][28][86][87]。欧米の多くの国の映画は一般映画でもヌードシーンやベッドシーンで、普通に男女の陰毛を隠さず上映するためで[69][88]、世界に冠たる検閲制度を持つ日本では、明治43年に制定された関税定率法により[66][89]、ヘアも含み輸入すると害があるものは上映してはいけないことになっており[33][66][85][86]、前述のように欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があるため[27][29][69]、国際慣例に従いノーカット無修正で全ての映画を上映するよう働きかけた[66][86][90]。当時は風営法の改正で大揺れの時期で[18]、さらに貿易摩擦が問題になっていた時期でもあり[28]、関税障壁であるとの非難を受ける危険もあった[28]。当初は東京税関も「法は勝手に曲げられません」と態度は固く[69]、悲観的な予想が大半であったが[18]、税関を管理する大蔵省(現・財務省)と折衝を続け[69][85][90][91]、岡田茂と徳間康快の政治力で[66][86]、超法規で映画祭期間中に限りヘア解禁を認めさせ[28][86]、国際的なモノ笑いにならずに済んだ[28][41][54][70]。勇気ある第一歩を踏み出したと称賛された[70]。今回の措置は税関が見て通過させたのではなく[92]、特例としてノーチェックで税関と通過させたというものであるが[93]、税関はOKでも警察が鑑賞して猥褻と判断したら取締りの対象となるため(刑法175条)[88][93]、ハードルは二つあった[88]。警視庁保安一課は管轄の渋谷署と協力し、全てのヘア作品には係官を劇場に派遣して内容をチェックし[92]、全ての作品に「わいせつな感じの表現はなかった」といった内容の報告書を提出し全てセーフになった[93]。映倫もこの特例措置を鑑み、東京映画祭上映に限り、審査の対象外とし、カット又は修正をしないオリジナルの形で上映を認め[28]、その後も特例措置を続けている[28]。東京映画祭の「ヘア解禁」以降、捜査当局がヘア解禁を認め、「ヘアが見える程度では検挙されない。仮に検挙されても身柄の拘束はない」という見方が出版業界に広がり[94]、映画祭以降、写真誌のポルノ度がエスカレートし[94]、『ザ・写真』を出版していた東京三世社の社長らが警視庁保安一課に逮捕された[94]。それまで任意での取り締まりはあったが、社長にまで強制捜査が及んだのは全くの異例であった[94]。
作品の出来よりも日本初のヘア無修正映画として話題を集めた『1984年』は"ヘア解禁"をスポーツ紙や夕刊紙が書き立てたため、上映一週間前に前売り券が売り切れ、その後チケット問い合わせの電話が殺到した[16][95]。「本当にヘアが出るんですか」という問い合わせが多かったという[16]。1985年6月1日、渋谷東急で『1984年』は上映され、劇場は超満員で立ち見も出た[16][93][96]。翌日のスポーツ新聞は「見えた―ヘアに息をのむ」などと歴史的"快挙"を大々的に報じた[16][97]。続いてカナダ映画『ジャックと11月』、イギリス映画『狼の血族』、ブラジル映画『ピショット』、ハンガリー映画『ゲルニカ』などの10作品が[91]、ノーカット無修正で上映され、地味なこれらの映画にも観客が詰めかけた[16][87][98][99]。表現は大人しいものだったが『1984年』のヘアシーンでは報道席にいたカメラマンが、いっせいにシャッターを切る異様な光景が現出した[16]。『1984年』が「ヤングシネマ85」のコンクール対象作品だったため、シャッター音が鑑賞を妨げて公正な審査が出来ないと審査員や同作の監督・マイケル・ラドフォードなどから「審査会場を変えろ」などと抗議の声が上がり[16][97]、二日目からは入場時にカメラがないかボディーチェックを受けるなど厳戒態勢が敷かれた[97]。2019年の今日では映画泥棒などで映画盗撮防止は常識だが、当時は予想外の事態で、渋谷東急前に「お願い 東京国際映画祭にて上映されます映画は国際規約及び国内の法律によって版権が保護されております。従いまして、映画を無断で撮影したり、録音したりした場合は罰せられますので、ご注意下さいますようお願い致します。 東京国際映画祭組織委員会事務局」と手書きで書かれた素朴な立て看板が掲示され[97]、「場内での写真撮影は禁じられています」とアナウンスを流した[97]。
同時期に開催されたアジア太平洋映画祭ではヘア解禁を認めなかったため、税関が人間のヘアを差別したと物議を醸した[75][100]。
- 『MISHIMA』問題
ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』が三島由紀夫の未亡人と製作者側のトラブルがあり[57][101][102]、1984年末の予備選考の段階で出品作品のリストから落とした[57][65]。映画祭で上映する作品は組織委員会が独自の立場で自由に選択出来るということが国際映連の規定で決められており[26][57]、選考理由を言う必要はないという前提条件があり、問題は本来無かったが、『MISHIMA』のアメリカ側のプロデューサー・トム・ラディが映画祭事務局に「試写も見ないで『MISHIMA』を上映させないのはおかしい。これは国際映画祭の精神に反するものでまことに遺憾。上映できるように再考せよ」と公開質問状を送り付けて来た[57][61][65]。『MISHIMA』の日本側のプロデューサーは、映画祭の「映画企画」総合プロデュースの山本又一朗だったが[55]、山本もこれに同調して映画祭のプロデューサーを辞任した[57][60]。ラディの意見に同調する欧米の映画人も多く[41][65]、ラディが1985年4月からアメリカで「東京国際映画祭ボイコット運動」の署名活動を始め[62]、これにロバート・ベントンやシドニー・ポラック、ウォルター・ヒル、ロバート・レッドフォードらが署名[102][103]。当初、審査員として来日する予定だった『MISHIMA』のスタッフ・フランシス・コッポラやジョージ・ルーカスなどのスター監督らが[62][65]、相次いで来日を取りやめる緊急事態に発展し[62][65]、国際的にも注目を浴びた[41][65]。映画祭当局は声明文を発表したり、アメリカの映画専門誌『バラエティ』1985年5月8日号に「同作品の上映要請はなく、東京国際映画祭の批判は同映画祭だけではなく世界の映画祭を著しく傷つけるもの」という公式見解を掲載したりし[61][63]、対応に大わらわになった[57]。1985年5月7日日本プレスセンターで行われた記者会見で[63]、この騒動に答えて岡田茂がやっぱり腹を立て[63]、「トム・ラディと山本又一朗はもっと署名を集めてカンヌ映画祭でも騒ぐらしい。これまで山本又一朗ごときを相手どってまともにケンカする気にもなれなかったが、もう黙っていられない。映画祭は『MISHIMA』の露払いじゃないんだ。彼らは映画祭の場を『MISHIMA』の宣伝に利用しようとした。実にずるいやり方だ。山本氏には映画祭のプロデューサーを辞めてもらった」などと激しい口調で非難した[62][63][103][104][105]。岡田はかつて山本が小池一夫の代理人として活躍していた手腕に関心し[104]、東映内で「山本君に学べ」と号令をかけるなど評価していたといわれ[104]、映画祭の創設メンバーの一人でもあっただけに怒ったものと見られる[14]。山本は岡田から「『MISHIMA』なんかやったら右翼が反対して騒ぎ、第1回目から大混乱になる」と反対されたと話し[106]、山本は「文化的なイベントとしての国際映画祭は右翼に屈服してはいけない。日本は法治国家だから、右翼が来るなら警察を呼んで守ってもらえばいいんです」と反論したと言う[106]。山本は「映画祭側が事実を語っていない」と東京国際映画祭の内部資料を公開[105]。これに対して草壁久四郎事務局顧問は「右翼団体からの圧力があったと言いふらしているのは、宣伝キャンペーンとしか思えない」[103]「右翼の圧力によって落としたという考えは全くの間違いで、三島夫人が映画製作に反対しているのに製作を強行し、仮に上映して何かトラブルがあれば、国際問題になりかねないし、岡田会長も『日本側のプロダクションの代表者に、三島家との問題がクリアされたら、検討します』と伝えており、それをクリアしないで何で上映しないのかというのは言いがかりだ」と反論し騒動が悪化した[26][65][105]。一連の騒動で、欧米映画人の一部と亀裂が深まり、二回目以降の映画祭にマイナス面を残すのではないかとジャーナリストから心配された[103]。
- フィルム・マーケット
映画祭には世界各国から映画人がやってくる絶好の機会のため、岡田は映画界にメリットのあるフィルム・マーケット(マルシェ、見本市)を開催したいという希望を最初から表明していたが[70]、準備期間が充分でなく第一回では出来ず[14]、フィルム・マーケットの開催は第5回からになった。
第一回
主催:(財)東京国際映像文化振興会/東京国際映画祭組織委員会、後援:外務省、文化庁、通商産業省、東京都、渋谷区、東京商工会議所、(社)日本映画製作者連盟、(社)外国映画輸入配給協会、全国興行生活衛生同業組合連合会、協賛:(財)国際科学技術博覧会協会、東急グループ、西武セゾングループ、(株)丸井、ソニー株式会社[107]。
シネマシティー渋谷
シンボルマークをあしらった垂れ幕や旗で渋谷の街を埋め[108]、道玄坂通り、東急本店通り、公園通り、原宿表参道を中心にシネマストリートを設立[108]、渋谷を街ぐるみ、地域ぐるみで映画のお祭りに仕立て上げた[35][49][83][108][109][110]。映画上映を離れた関連イベントは10以上で、お固い映像シンポジウムや特撮の展示会から、秘蔵フランス映画ポスター展、映画関連の展示即売会、チャリティー・テニス大会など、映画の縁日のような充実したイベントを組み、後発の映画祭のため、"開かれた映画祭"を目指した[83]。渋谷駅前の忠犬ハチ公像の隣に高さ3メートル、ステンレス製のシンボル・モニュメントを建て、三角柱の側面に小津安二郎やジョン・フォード、チャールズ・チャップリン、マリリン・モンロー、クラーク・ゲーブル、田中絹代、溝口健二など、亡き世界の代表的映画人36人の横顔を並べた[83][109][111]。36人を選んだのは淀川長治、双葉十三郎、筈見有弘、和田誠[67][111]。イラストは和田誠[111]。また道玄坂109の円柱形のエレベーター・タワー壁面に山高帽にステッキ姿の巨大なチャップリンのシンボルマークを掲示[2][35][83][109][112][113]。国立代々木競技場内にプレスセンターを設置し、外国人報道関係者にIDカードを発行した[114]。主会場の渋谷NHKホールにはカチンコを模した巨大看板を取り付け[35][114]、渋谷駅からNHKホールに至る公園通りには、丸井新館の液晶スクリーンを配置し、映画の名場面を流した[83]。また日本電信電話公社などが商品化した「キャプテンシステム」とは別方式のNAPLPS方式のビデオテックス事業として、三井物産やソニー、野村証券などが設立した「東京テレガイド」、三菱商事、三井物産や凸版印刷が設立した「ビデオテックス・ジャパン・ネットワーク」の三社が日本初の最大NAPLPS型ビデオテックス・ネットワークとして「プレビュー・プラザ・ビデオテックス・ネットワーク」と名付け、東京国際映画祭で初めて渋谷・原宿地区に端末機を計80台を置き、映画祭情報などを流した[115][116][117][118]。NHKホールに期間中入場したお客にはバラの花を配り、6~7000本を用意した[119]。ハチ公前広場、109前、パルコPart1前などに屋外ステージを設置して数々のイベントを催した[108]。
渋谷は元々、東急グループの城下町だったが[83]、宇田川町周辺にセゾングループが進出して街のイメージが大きく変わったこともあり、東急はこの東京国際映画祭を機会に新しい街づくりをと気合を入れた[83]。東京急行電鉄は東急の総帥・五島昇が会頭を務める東京商工会議所が映画祭を後援し[82]、渋谷が開催地ということも重なり2億円を寄付した[82]。東急エージェンシーは、銀座、新宿に代わる若者の街・渋谷をアピールし、東急グループの本拠地の振興を企図[120]、「映画祭のある街」という企画を立て、総額2億6000万円の予算を組み[120]、渋谷、原宿の目抜き通りの街頭装飾やイベントを丸ごと広告媒体として使用するというプロジェクトを組んだ[120]。渋谷のような繁華街を一企業が買い取る形は前例のない試みで[120]、スポンサーは期間中に渋谷、原宿の目抜き通りの街頭に吊るされる旗(バナー)約1200本とビルに吊るす懸垂幕に自社の名前を入れられ、様様なイベントで広告活動等が出来た[120]。また後述する映画祭の企画のうち、協賛プログラム(スポンサー企画)の三つは、スポンサーではなく、東急エージェンシーと電通が代理店として企画したもので[120]、「TAKARAファンタスティック映画祭」は東急エージェンシーが代理店を請け負い、宝酒造がスポンサーになった[120]。また当時の百貨店は年間44日の休業が義務付けられ[121]、旧百貨店法時代から営業する店舗は「休業日は月に4日、7月と12月は各2日」と枠がはめられ、この枠を取り払うには、地元との調整や労組との交渉が必要で、これまではどの百貨店も二の足を踏んでいた[121]。東急百貨店本店・東横店は映画祭期間中の1985年6月6日の木曜日が定休日に決まっていたが、映画祭期間中は無休にしたいと鈴木育延同社総務部長が一年前から、地元商店街の夜間の美化パトロールや冠婚葬祭や宴会などで付き合いを深め、街路灯や歩道のタイル舗装などに資金を出し、1984年末、東京商工会議所の商業活動調整協議会に休業日の月別の枠を外すことを申請し認められ、東急百貨店は映画祭期間中は無休で営業し、さらに歳末商戦の12月も無休にする合意を地元商店街と取り付けた[121]。寝耳に水の申請に西武百貨店など渋谷、新宿、銀座の百貨店は、関東百貨店協会の緊急理事会を急遽招集し、業界がそろって枠を外すという結論を出した[121]。この動きは全国に波及した[121]。
当時は東急百貨店本店北隣に多目的ホールを計画中(『Bunkamura』)で、将来的には〈東急文化村〉で〈西武・公園通り〉に対抗する構えでいた[83]。組織委員会会長の瀬島龍三は財界活動をして来なかった人だったが[122]、1978年に五島昇と永野重雄日本商工会議所会頭に請われ[123]、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢され[124][125]、以降、活発に財界活動を行うようになった[122][125]。実行委員長の岡田茂は東急グループの人物で[43][44][126]、東急エージェンシーの当時の社長・前野徹は「岡田茂を囲む会」のメンバーだった[127]。このため東京国際映画祭は、渋谷の再開発を狙う東急グループのイベントという見方もあった[126][128][129]。
これに対して西武グループはぴあと組んでぴあフィルムフェスティバルの共催企画「映画渡世・マキノ雅裕」を行ったが[130]、東急よりも冷ややかだった[83]。
1983年12月に東京国際映画祭が渋谷で開催されるという正式発表があったとき、池袋の小劇場の代表と忘年会をやっていた新文芸坐の三浦大四郎社長は、これが悔しくて酔った勢いで「我々は演劇祭をやろう」とぶち上げたのが『東京国際演劇祭'88池袋』(フェスティバル/トーキョー)の始まり[131]。東京国際映画祭前の開催を準備していたが、予算や都有地の使用許可が遅れ1988年までずれ込んだ[131]。
プログラム
1985年5月31日午後、渋谷NHKホールに常陸宮ご夫妻をお迎えして開会式が行われ[37][39][132]、村田敬次郎通産大臣、三木武夫元首相、鈴木俊一東京都知事ら政財界代表や[132][133]、国内外の映画関係者、各国駐日大使[119]、三船敏郎、勝新太郎、高峰秀子、栗原小巻らが出席[132][134]。岡田真澄が司会を務めた[133]。瀬島龍三組織委員会会長、鈴木俊一東京都知事などの挨拶後に『乱』がオープニング上映された[37][135]。『乱』は海外招待客100人を含む映画関係者2500人のみで、一般客は入れなかった[136](1985年6月1日から一般公開)。ほとんどの映画人が絶賛したが[133]、『影武者』でトラブルを起こした勝新太郎が「いたずらに長い。見る人のことを考えてない作品。戦闘シーンは見飽きた」などとこき下ろした[133]。同日夜に東京プリンスホテルでウエルカム・パーティが開かれ[39][137]、この模様の一部がフジテレビ『おもしろバラエティ』枠で生放送された[119][138]。司会はタモリと明石家さんま、沢口靖子[38][137][139]。ハリソン・フォード、ブリジット・フォッセー、ジェームズ・ステュアート、ヘルムート・バーガー、ソフィー・マルソーなどの海外スターの他[39]、中曽根康弘首相[37]、三船敏郎、三橋達也、安西郷子、司葉子、仲代達矢、宍戸錠、吉永小百合、石坂浩二、ピーター、島田陽子、松坂慶子、中井貴一、片岡鶴太郎、田原俊彦、近藤真彦、中森明菜、池田満寿夫、佐藤陽子、手塚治虫、石森章太郎、小森和子らと[133][137][138][139]、鹿内春雄フジテレビ副社長と頼近美津子が結婚後初めて公式の場に出席した[137]。出席を予定していた黒澤明は欠席[119]。黒澤は御殿場で静養中で[140]、映画祭期間中も姿を見せず、来日した俳優、監督や『ニューヨーク・タイムズ』や『ガーディアン』の記者30人から面会申し込みがあったが全て断った[140]。
ウエルカム・パーティでは、ハリソン・フォードがグラス片手に会場を回るなど[137]、有り得ないような豪華なパーティであったが[137]、生中継は構成が悪く、タモリと明石家さんまが司会をふざけたり[38][141]、会場には海外からのビッグスターが顔を揃えているのに彼らへのインタビューはなく、当時日本で人気があったマット・ディロンをアメリカに訪ねたVTRが流れる間の悪さで[141]、マッチや中森明菜がステージで映画とは関係ない歌をうたい出したとき、招待客は何が始まったのかとビックリし、まわりをハラハラさせた[141][142]。フジテレビが当時、「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出し『おもしろバラエティ』枠で放送したことで、新聞各社に悪評の投書が殺到し[141]、好評がゼロという珍しい事態になり[141]、「ユーモアとスマートさに欠けたドタバタ司会、日本には機知と弁の冴えでわかす芸人はいないのか」「日本語でくだらない言葉を外国人に言わせるな」「少ない時間で映画と関係ない歌を三曲も歌わせるな」「外国から大スターを集めながら、大切な機会を無にした」「まさに島国映画祭だ」など[141]、「時と場」をわきまえぬ企画などとマスメディアに叩かれた[143][144]。この日の開会式とウエルカム・パーティを合わせた費用は1億5000万円[136]。
特別招待作品を上映するNHKホールをメインとして、渋谷の戦艦級映画館は通常興行を休み、映画祭関連施設として使用した[145]。期間中、渋谷の街を映画解放区にして並行して上映されるシステム[146]。42ヵ国、全137本の上映は、当時のカンヌ、ヴェネツィア映画祭と同規模で[136]、映画館・ホールが集中する渋谷・原宿地区での開催で、会場全体はコンパクトにまとまった[136]。郊外まで3平方キロメートルに展開するカンヌと違い、歩いて会場巡りが出来るのが特徴[136]。当時は渋谷にいっぱい映画館があった[41][109]。NHKホールはキャパ3300と映画を上映するにしては大きいが[70]、満席にした作品が何本も出た[70]。137本のうち[39][70]、「日本映画の昨日と今日」と「アニメ・フェスティバル」以外は、基本的には日本で未公開作か、お蔵入り作品[146][147]。このうち欧米の作品は映画祭後にほとんど一般公開された[148]。入場料金は1作品一律1200円[146](子ども料金なし)[40]。「日本映画の昨日と今日」のみ1日券[146]。当時の映画館はまだ全席自由席で1日中入れ替えなしも多かったが、映画祭では席はほとんど自由席で、各回入れ替え制であった[149]。全て前売り券で、前売り券が残っている場合のみ当日券を発売[146]。前売り券発売はアニメフェスティバルのみ1985年5月11日、他は1985年4月20日[40]。地方への郵送もあり[40]。最も早く売り切れたのは唯一のオールナイト上映だった「TAKARAファンタスティック映画祭」1985年6月1日(土曜)~6月2日(日曜)[56]。前売り状況は開幕直前は50%前後から100%まであったが、平均して約70%[56]。東急文化会館内で行われた「ヤングシネマ85」「TAKARAファンタスティック映画祭」「女性映画週間」は、1985年6月2日が日曜だったこともあり、各回僅かに残っていた当日券も販売開始とともに売り切れ全回完売し、この日一日で1万4000人を動員した[142]。上映作品によってバラツキはあったがかなり立ち見も出た[142]。ネットの無い時代なので、前売り券の購入は、劇場か、渋谷を中心とした西武百貨店内などのプレイガイド16店舗のいずれかに事前に買いに行かなくてはならなかった[146]。
「映画祭の映画祭」(川喜多和子、堀江鈴男プロデュース)[150]、「日本映画の昨日と今日」(黒井和男プロデュース)[150]、「ヤングシネマ85・国際新進監督コンクール(佐々木史朗プロデュース)[150]の三つが自主企画[26]。メイン・イベントの「映画祭の映画祭」(NHKホール/1985年5月31日~6月9日)は主要国際映画祭の1980年から1985年度グランプリか、それに準ずる受賞作、1985年夏以降に公開される話題作、米国メジャー作を中心に17本を上映[151][152]。カンヌに間に合わず、世界初の上映だった『乱』がオープニング[26][39]。映写技師が初日で緊張のあまり手元が狂い、映写機に油を差し過ぎて上映開始後30分間ピンボケが続いた[142]。黒澤が見ていたら大目玉を食らうところだった[142]。
「日本映画の昨日と今日」は日本を代表する監督の作品と話題の22本を上映[152][153]。全作品英語字幕入り[152]。
「ヤングシネマ85」(渋谷東急)で1985年6月4日夜に上映された『蜘蛛女のキス』では、外国人客が通路にぎっしり座り込む盛観で[95]、終映後、ヘクトール・バベンコ監督と観客との一問一答にも熱がこもり、同年配の監督同士が各国語片言交じりで深夜まで熱心な議論があった[95]。
この他、「女性映画週間」「ファンタスティック映画祭」「ベスト30・アラウンド・ザ・ワールド」「アニメ・フェスティバル」と四つ(文献により五つ)の協賛プログラム(スポンサー企画)があった[14][26][58][146][154]。「アニメ・フェスティバル」以外の「女性映画週間」と「TAKARAファンタスティック映画祭」は東急エージェンシーが、「ベスト30・アラウンド・ザ・ワールド」は電通が企画し[120]、それぞれ代理店としてスポンサーを募ったもの[120]。
「女性映画週間」(東急レックス/1985年5月31日~6月7日)は高野悦子の企画で[150]、1985年が「国連婦人の10年」の最終年にあたることから[155]、日本ではまだ少なかった女性プロデューサーや女流監督が製作した作品や女性が中心となった日本未公開8作品を上映するもので[156]、カネボウがスポンサー[26][41]。ジャンヌ・モローは監督二作目の『思春期』の上映と審査員を兼ね[157]、ブリジット・フォッセーらが審査員が務めた[26]。日本では長編劇映画を5本以上撮ったのは当時は田中絹代だけという後進国の現状から、女性の地位向上の証としての企画だったが、"女性週間"というネーミング自体が世界で初めてだったらしく[158]、世界のトップ女優、女流監督が勢ぞろいした記者会見では「21世紀には"女性映画週間"なんてないことを望む。女性週間があること自体にまだまだ男女差別がある」などと怪気炎を上げた[133]。前売りの売れ行きはいまひとつだったが、意外に入りが良かった[16]。
アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭と提携した[159][160]「TAKARAファンタスティック映画祭」(渋谷パンテオン/1985年5月31日~6月7日)は小松沢陽一がプロデュースで[150]、宝酒造がスポンサー[14][26]。SF・ファンタジー・ホラー作品を中心とした企画で17本を上映[70][159]。上映会場の渋谷パンテオンは当時日本で一番大きくてデラックスな劇場といわれたが[66]、女性層、若年層の人気を集め、連日超満員を記録[70][160][161]。オープニングは『フェノミナ』[110][146]。当時の映画関係者を含めたマスメディアは、ホラーやSFが人気があるという認識がなく[16][161]、勿論、これまでも個々に大ヒットした映画はたくさんあったが、分野としてホラーやSFにファンが思いのほか多いという認識をマスメディアで持たれた[16][161]。日本経済新聞は「ファンタスティック映画祭は、SFとスリラーばかりを集めた」と[162]、スポーツニッポンは「日本人は恐怖がお好き!?」という記事を書いた[161]。アボリアッツ・ファンタスティック映画祭などの映画祭プロデューサー・リオネル・シュシャンやクリストファー・リー、デヴィッド・クローネンバーグ、キン・フー、ジェームズ・ディアデンなどがスペシャルゲストとして招かれたとされる[110]。メインゲストとして招かれた『フェノミナ』の監督・ダリオ・アルジェントは「とかく、キワモノとして蔑まれて来た恐怖映画が認知されたのは、ここ10年ぐらいじゃないかな。ブライアン・デ・パルマが『悪魔のシスター』で注目されたのは9年前のことだし、ジョン・カーペンターがデビューしたのも同時期だ。彼らは30代後半か40代前半のほぼ同世代。幼年時代に見たテレビの怪奇番組をスケールアップして映像化したいという希望を同じように持っている。子供の頃の鳥肌が立つような感覚を未だに忘れないとしたら、みんな幼稚なのかも。彼ら新進監督の稚気が、恐怖映画の地位向上の切っ掛けなのでないか。世界には本催しと同様のものが8ヶ所もある」と解説した[160]。期間中若者層を中心に二万人の観客を動員し[163]、これが一つの切っ掛けになり、日本でカルトムービーとも称される映画が相次いで公開され、新たなホラー映画ブームを引き起こした[163]。東京国際映画祭の次の開催は二年後だったが、「ファンタスティック映画祭」のみ、翌1986年秋に同じ渋谷パンテオンで第二回が開催された[163]。
「ベスト30・アラウンド・ザ・ワールド」(渋谷東急名画座/1985年5月31日~6月9日)はこれまで商業ベースに乗らず、日本で紹介されたことのなかったアイスランドやモンゴル、ルーマニア、パプアニューギニア、マリ共和国などから、1国1本という基準で映画を30本集めたもので[148][164][165]、作品選定は元ユナイトの宣伝マンで、当時は日大助教授だった横川真顕[150]。NTTがスポンサー[58][146]。NTTが民営化に伴い、導入したCI戦略の一環で、コンサート事業に次いで打ち出したのが映画事業の進出で[166][167]、文化の香りのする企業イメージ作りを狙った[166][167]。カトリーヌ・ドヌーヴをゲストに予定していたが来日しなかった[49]。前売り段階では30%しかさばけず[162]、6000万円の赤字が出たとされるが[166]、NTTはCI戦略に30億円の投入を予定していたため大した金額ではなかった[167]。また大半がここでの上映が日本では最初で最後の作品といわれたが[148]、このプログラムが大きな切っ掛けになり、洋画配給会社が欧米の作品以外も輸入するようになったとされる[168]。
「テラピナアニメ・フェスティバル」(渋谷東宝/1985年5月31日~6月7日)は[113][150]、主催:日本動画製作者連盟/東京国際映画祭組織委員会、後援:日本商品化権協会、プロデューサー・今田智憲、協賛:味の素株式会社[150][40]。テラピナとは味の素が当時発売していた飲料「TERRA」と「pina」。当時日本のアニメは一応世界的ということになっているということ[169]、興行的にも大きな影響を占めているという評価から開催が決まったもの[41]。海外ではアニメは既に"映像美術"として捉えられていたが、日本ではマンガとの関係が深いことから子供向けのイメージが強く[170]、まだ"商品"としての存在が大きく[170]、作品の評価が高いとまでの認識ではなかった[41]。そんな中で『風の谷のナウシカ』が「パリ国際SF&ファンタジー・フェスティバル 国際映画祭」の特別審査員賞を受けたのは大きな価値があると評された[170]。アニメだけのセクションは当時珍しかったが[41]、フランスのアヌシー映画祭がアニメーション専門の国際映画祭として既にあった[41]。2019年の今日なら様々なジャンルの新作長編アニメ映画で複数、或いは埋め尽くされたかも知れないが[145]、当時の長編アニメはテレビシリーズを2時間強に繋いだものか、作り直したものがほとんどで[145]、劇場オリジナルの新作長編アニメ映画は製作が途絶えていた時代[145][171][172]。当然新作はなく、国際映画祭という折角のお披露目の場だったが特に注目はされなかったという[145]。但し、上映作はそれまでの日本の長編アニメの歴史のようなラインナップ。
初日の1985年5月31日に先立つ夕方から「アニメ・フェスティバル前夜祭」があり、アニメ共通一次問題の解答を『アニメージュ』1985年6月号に付いた応募券と共にニッポン放送前夜祭係に郵送し、合格者が無料招待された[40]。当日会場でさらにアニメのテストがあり優勝者を"アニメ博士"と認定し、トロフィー、賞状、豪華記念品が贈られた[40]。前夜祭ゲストは手塚治虫、松本零士、ちばてつや、りんたろう、古谷徹、神谷明ほか[40]。当時の文献に「各作品上映前に縁の深い作家・監督さんたちの40分間の講演の予定」[40]、「挨拶あり」[173]、「『風の谷のナウシカ』が宮崎駿のティーチ・イン」[145]などと書かれているため、以下、「〇〇と~」と名前の書かれた人物は当日全員登壇し、上映前にティーチイン[174]が行われたと見られる。
スケジュールは、「アニメ・フェスティバル前夜祭」、富野由悠季と『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)編』、松本零士と『銀河鉄道999』(以上、1985年5月31日)、『キャプテン』『ルパン三世 カリオストロの城』、宮崎駿と『風の谷のナウシカ』、手塚治虫と『千夜一夜物語』(以上、1985年6月2日)、安彦良和と『クラッシャージョウ』、小野耕世解説『時の支配者』(フランスのアニメ)、『牧笛(ぼくてき)』『少女と小鹿』((『鹿鈴』)[40]、中国の水墨画短編アニメ)(以上、1985年6月3日)、石森章太郎・りんたろうと『幻魔大戦』、森やすじ解説各国傑作アニメ「『白雪姫』(ディズニー)、『こねこのらくがき』、『雪だるま』(イギリスの短編アニメ)、『EPIC』(以上、1985年6月4日)、押井守と『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『あしたのジョー2』、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(以上、1985年6月5日)、竹宮惠子と『地球へ…』、波多正美と『シリウスの伝説』(以上、1985年6月6日)、河森正治・美樹本晴彦と『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、『話の話』(ソ連の切り絵短編アニメ)、高畑勲と『太陽の王子 ホルスの大冒険』(以上、1985年6月7日)の計25本が上映された[169][40][146][175]。他に『白蛇伝』『西遊記』『長靴をはいた猫』『星のオルフェウス』『ドラえもん のび太の恐竜』を上映したとする文献もある[175]。そんな中、手塚治虫は実験アニメ『ジャンピング』等を出品し、国際映画祭の舞台に相応しい作家性を見せた[145]。この時の講演ではないが、直前に宮崎駿・押井守・河森正治が出席して行われた『アニメージュ』の座談会で、押井は「日本で発達したアニメは映画の範疇に入ると思う。やっぱりドラマというものを軸に淘汰された世界だから、絶えずそこに戻るしかない。アニメーション映画は映画の行く末とたぶん心中するだろうけど、映画というジャンルはそろそろ終わりにさしかかってるんじゃないかという予感がする。映画という表現の領域そのものがね。片山一良くんなんかに『君たちの出番はないかも知れないよ』って言うんですよ。映画の持っている映像の機動性そのものは、他の映像に凌駕されています。映画というのは限られたジャンルで生き延びていくんじゃないでしょうか」などと話し[171]、宮崎は「映像というものは消えないですよ。テレビになろうが、映画になろうが。それは享受する側が楽な方向へ向かう過程なんで、その間、映像の持つ表現力は誰も捨てたことはないです」などと反論した[171]。河森は庵野秀明との対談で「基本原理が発達して定着するのが20年ぐらいと思いますが、テレビの場合は完全に普及し終わって、これからビデオの時代に移りそうですけど、そうするとテレビアニメは20年経ったぐらいだから消えてもおかしくないですね。あと10年少しで世紀も変わるけど、10年先にはアニメの仕事はなくなる可能性もあると思います。いまCGとか出始めてますけど、これでCGとかのコストが下がってくれば、実写特撮の方がアニメより有利になる可能性も十分あると思う。マイコンなんか、いま僕らの次の世代の方が強いし。でも草創期の楽しい時はもうないでしょうね。でもアニメーションは、キャラクターなり、アニメーターなりに魅力を感じている人がいる限り存続すると思う」などと話し[172]、庵野は「押井さんのいう"映画"というのはだんだん減ってきていると思います。結局、映画に対する価値観が低くなってきている。でもアニメーションは消えないと思う」などと話した[172]。
もう一本、開催地・渋谷の還元行事として渋谷公会堂で、1985年6月8日に『イウォーク・アドベンチャー』が、地元の児童、商店街の家族などを無料招待して一回だけ特別上映された[41][152][176]。
ユニークなイベントとして来日スター30数人による「世界映画人チャリティー・テニス・トーナメント」が1985年6月5日、6日に東京体育館で行われた[2][177][178][179][180]。チャリティー・イベントに賛同した映画人が参加したもので[179]、主催者側がハリウッドで三回のPRパーティを開き、200人のスターから出場OKをもらっていた[179]。映画のキャンペーンや審査員、講演以外での来日映画人はこのテニス大会が主目的で来日した[181]。参加したスターはノーギャラながら、旅費、宿泊費、食費はすべて主催者持ち[182]。総費用は2億円[182]。もしまともなギャラを払うと20億円といわれたが、カーク・ダグラスやカトリーヌ・ドヌーヴ、リンゼイ・ワグナーなど[177]、日本で知名度の高いスターの来日中止、不参加があり[179]、運営のフジテレビとしては二日で一万人程度の集客を期待したが[179]、お客の入りが悪く[182]、身体障害者福祉基金へ750万円を寄贈し、経費を引くと1億4000万円の赤字が出た[179]。
その他、映画は総合芸術という観点から、映画館のスクリーンだけではなく、街に飛び出して、観て参加するという新しいスタイルの提案として、一般企画として多岐多様なイベントが組まれた[183]。「黒澤明展」(東急百貨店本店/期間中)は[184]、司会:品田雄吉で『乱』の出演者、根津甚八、原田美枝子、植木等らのティーチ・イン&サイン会などがあった[67][185]。「SFX展」(ラフォーレミュージアム/1985年6月3日~6月9日)は、開催が近づいた頃に『ゴーストバスターズ』『2010年』と特撮映画が立て続けにヒットし[186]、SFX(特殊効果)が中高生の間で流行語になっていたことから開催が決まった[186]。当時はCGも出始めで[172]、VFXという言葉も出始めだった[187]。プロデュースは御影雅良[49]。リチャード・エドランドを始め[186]、『ゴーストバスターズ』のジョン・ブルーノ[186]、『グレムリン』のロッコ・ジョフレらハリウッドの一線級SFX担当者9人を呼んで一般ファンを相手にセミナーを開いた[186][188]。公式プログラムには参加者としてリック・ベイカーやホイト・イートマン[188]、ぴあには細野晴臣、永井豪の記載がある[49]。本国アメリカでも行われたことのない催しで[49]、会場は若いマニアで満員だった[186]。リチャード・エドランドは「若い人たちから非常に知的な質問を浴びせられ驚いた。彼らがいかに特殊映像に興味を持っているのかが分かり心強く思った」と話した[189]。上杉裕世はこの時、ロッコ・ジョフレに自分を売り込んだのがマットペインターになった切っ掛けという[187]。
NHKは教育テレビを中心に多数の映画祭関連番組を放送[190]。東邦生命ホールで行われた「映像文化シンポジウム CINETOPIA'85」[177]の模様などで[190]、テレビ対談「映画的才能とは何か デヴィッド・パットナムと角川春樹が語る映画の可能性」「映画その夢幻の中の真実 クンフー映画の生みの親・キン・フーと独特の作風を持つ大林宣彦」(教育、1985年6月10日放送)、「変身の魔力 クリストファー・リーと唐十郎」(教育、1985年6月12日放送)、テレビシンポジウム「映画は時代のスーパードリーム ヘルマ・サンダース=ブラームス、小栗康平ら」(教育、1985年6月15日放送)など[190]。「映像文化シンポジウム CINETOPIA'85」は、これからの映画の行方など[49]、パネリストが一般参加者を交えてディスカッションを行うもので、映画祭で来日した監督を招き、ミロス・フォアマンは「ヤングシネマ85」の審査員とこれにも参加予定だったが[177]、来日を中止した。パネルディスカッションは川本三郎、中上健次、小栗康平らが参加[177]。他にリチャード・エドランドの講演や[177]、コーディネーター・筑紫哲也でジャンヌ・モローの「私が生きてきた映画の世界」と題した講演などが行われた[119][191]。
「サウンド・シネマ・コンサート」は渋谷公会堂で、大貫妙子のコンサートが1985年6月2、3日に[192]、フランスでテレビ放映された坂本龍一のドキュメンタリー映画『un film sur TOKYO MELODY』が1985年6月9日に上映された[192]。サントリーは映画をテーマにした野外飲食店「ホワイトスピリッツシネマパーク」(『Bunkamura』建設前の駐車場)を開設した[58][67][188][193]。
他に渋谷に本拠を置く企業なども映画関連のイベントを開催した。東急百貨店は「ユニバーサル映画創立70周年記念フェスティバル」を東横劇場で開催し、『グレン・ミラー物語』(ゲスト:ジェームズ・ステュアート)『アメリカン・グラフィティ』などを上映した[41][67][184]。西武百貨店渋谷店B館は「秘蔵フランス映画ポスター展」[194]、丸井渋谷店は映画祭で来日したゲストに日本の最先端技術を見てもらうため最新のハードウェアを展示した「オーディオ・ビジュアル・エレクトロニクス・フェア」を開催[194]。渋谷パルコはシネマカフェを開設[120]。ハリウッドの映画用メーキャップとともに歩むマックスファクターは、渋谷本社のショールームに1920~1930年代の「ハリウッドメーキャップスタジオ」を開設[195]。マレーネ・ディートリヒからエリザベス・テイラー、ダイアン・レインまで、ハリウッド女優が使用した同じ化粧品を揃え、ハリウッド映画に関する資料の展示等を行ったら、初日に壁面に飾ったディートリヒやジョーン・クロフォードのパネルが盗難に遭うなど、予想の三倍の入場者が押し寄せ、公開を延長した[195]。この他、スタンプラリー、六大学対抗映画批評[120]などがあった[58][67]。
同時期にアジア太平洋映画祭も渋谷東映で[35][69]、ぴあフィルムフェスティバルをパルコPart3で[69][130]、協賛企画「映画渡世・マキノ雅裕」(マキノ雅裕監督26作品の上映)[114][130]など、渋谷を映画祭一色に塗り潰した[69]。海外情報がまだ疎い時代。家庭用ビデオテープレコーダ(ビデオデッキ、VTR)が1984年から1985年の一年間で約1千万世帯と爆発的に伸びたが[196]、1985年のVTR普及率は30%(2千6百万世帯)と[196]、まだ映画館での鑑賞が優位で、未公開作品が東京国際映画祭で一挙にお披露目されるという映画ファンにとってはたまらないイベントではあった[40][145][147][197]。
開会式のあった1985年5月31日に様々な交渉事を陣頭指揮した岡田茂実行委員長は[16][134]、「120%の成功と思う。必ず二回目を開催したい」と話した[16][134]。資金集めは困難を極めたとされ[77]、次回、第二回は翌1986年開催の意向だったが[77]、「第二回は1987年の秋が目途。今後も隔年(ビエンナーレ)秋が目標」と話した[77]。合わせて、第二回はカンヌ、ヴェネツィア映画祭と同様に「グランプリ」やマーケットも設け、世界の映画人に注目される権威あるものにしたい」と述べた[60][136]。
招待者
世界各国から多くの映画人を招待[26][69]。『乱』が世界で初上映されたため[69]、黒澤明は御殿場で静養中だったが[185]、皇族を始め、外国人記者も多数つめかけた[75]。
来日したのは海外映画人350人で[80]、記者団を含めると2000人以上の映画関係者が来日した[39]。映画祭で来日したスターは、ハリソン・フォード、シドニー・ローム、ハイン・S・ニョール、シェール、エリック・ストルツ、ジャンヌ・モロー、ブリジット・フォッセー、ヘクトール・バベンコ、ベルナルド・ベルトルッチ、ニール・ジョーダン、ピーター・グレイブス、スーザン・ストラスバーグ、サンディ・デニス、ロブ・ロウ、メリッサ・ギルバート、ヘルムート・バーガー、ジェームズ・ステュアート、ルーカス・ハース、ジェニファー・オニール、セルジオ・レオーネ、ダリオ・アルジェント、テリー・ガー、マリア・シュナイダー、ドナルド・サザーランド、ジャン=マイケル・ヴィンセント、テリー・ムーア、ロッド・スタイガー、コニー・スチーブンス、エルケ・ソマー、ソフィー・マルソー、リチャード・エドランド、ジョージ・チャキリス、ヴィクター・バナルジー、ジュスト・ジャカン、リチャード・アンダーソン、キャシー・リー・クロスビー、ティナ・ルイス、クロード・ルルーシュ、ピエール・バルー、ステイシー・ネルキン、ロバート・キャラダイン、ウェイン・ロジャース、ハート・ボックナー、マイケル・ラドフォード、スザンナ・ハミルトンなど[2][39][198][199][200]。旅費も持つ特別なゲストもいれば滞在費だけで来るスターもいた[41]。ハリソン・フォードは『刑事ジョン・ブック 目撃者』が特別招待作品に選ばれ、そのプロモーションを兼ねての来日だったが[145]、「クロサワの『乱』が観たい」と自ら渋谷宝塚に電話を掛け、副支配人に「英語字幕版の座席を確保して欲しい」と頼んだが、副支配人に「ハリソン・フォード?そんなの知らねえよ!」と電話を切られたという[145]。ハリソン・フォードは1985年6月3日の『笑っていいとも!』に出演した[201]。シェールは成田空港で「ファミリー・ネーム(姓)はどうした?」と一時間止められ「日本では私は知られてないのね」と皮肉った[181]。シドニー・ロームは、大スターのつもりで来日したのに思ったほどの待遇をされず不機嫌だった[198]。マリア・シュナイダーは『ラストタンゴ・イン・パリ』のイメージが強烈過ぎ、痩せていて誰からも気づかれなかった[198]。ウエルカム・パーティにノーブラでオッパイが透けて見えるドレスで登場したソフィー・マルソーは[137][139]、フランスに帰国後 『パリ・マッチ』のインタビューで、日本のファンが自身を追いかけ回す行為等について「ミーハー、東京は田舎の街」などと批判した[200]。「女性映画週間」に『エミリーの未来』を出品して来日したヘルマ・サンダース=ブラームスは日本通で、パネルディスカッションに歌舞伎に能に京都にと精力的に日程をこなしたが、天ぷらを食べ過ぎてダウンし日本医大に担ぎ込まれた[181]。「日本最後の夜は新宿ゴールデン街で日本の若い映画人と議論しようと考えていたのに残念」とションボリしていた[181]。映画祭直前の第57回アカデミー賞で主要部門を独占した『アマデウス』の監督・ミロス・フォアマンは招待客の目玉で[202]、「ヤングシネマ85・国際新進監督コンクール」の審査員を予定していたが[41][83][191]、『MISHIMA』騒動で来日を渋っているという噂が流れたため[62]、関係者がパリに出向いて説得に当たり、出席OKの約束を取り付けたが、これまた直前に審査委員長を務めた第38回カンヌ映画祭の内輪もめで「映画祭の審査は二度とやらない」と映画祭に嫌気が差したとされ、来日を突然中止した[191][202]。審査委員の補充は行われず[202]、当初9人で審査を行う予定が7人の各国審査員で行われた[78][202]。
ミロス・フォアマンの他、『MISHIMA』問題でフランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカスなど欧米の著名俳優、監督が来日を中止した[59][62]。その他、『MISHIMA』問題との関連は不明だが、来日を表明して来なかったのは、フランチェスコ・ロージ[202]、ノーマン・ジュイソン[202]、アリ・マッグローら[202]。来日予定と報道されたが来なかったのは、キャサリン・ヘプバーン[59]、カトリーヌ・ドヌーヴ[49]、クリント・イーストウッド[203]、メリル・ストリープ[203]、メリナ・メルクーリ[59]、スチュアート・ホイットマン[180]、ブレンダ・ヴァッカロ[180]、カミラ・スパーヴ[180]、ホセ・フェラー[177]、リンゼイ・ワグナー[177]、グレン・フォード[177]、ジョン・ブアマン[204]、ジェニファー・コネリーら[204]。他に東急エージェンシーが「TAKARAファンタスティック映画祭」にスティーヴン・スピルバーグを招待する予定だったが実現しなかった[120]。直前に来日を決めたのはデヴィッド・クローネンバーグら[202]。
第一回の評価
諸問題、細かい不備はたくさんあり、多くの課題を残したが、大きなトラブルもなく、岡田茂、瀬島龍三をはじめ、イベントに加わった多くの人、映画人の熱意に好感が持たれ、苦労が実り、期間中渋谷地区に予想以上の10万人以上の人を集め大成功と評された[70][79][142][144][205]。
作品選定にごった煮の感はあったものの、各企画とも専門の独立したプロデューサーが、それぞれの判断で個性的な作品を選び、質的にも粒ぞろいでこれだけの映画をよく集めたと評された[142]。どの会場も熱心な映画ファンで埋まり、多くの映画で上映の前後に監督や俳優と観客の質疑応答があり、各企画ごとの司会が頑張って中身の濃いやりとりもあり、観客も満足していたという[142]。東欧などの比較的地味な映画にも中高年層が集まり、本当に良い映画を見たいという潜在的な映画ファンがまだたくさんいるという認識も持たれ映画関係者も勇気づけられた[142][144]。国際映画祭のお目付け役として来日していたアルフォンス・ブリッソン国際映画製作者連盟事務局長は「映画人たちは前向きだったし、会場は申し分ないし、若い観客は生き生きしていて、ひとつひとつは完璧だった。そこには確かに祭りの雰囲気はあった。しかしホテルが散らばっていて会場から遠いこともあって、祭りの本来の一体感に欠けていたと思う。今後は祝祭空間を集中させることが課題でしょう」などと述べ[29]、ホテルと会場の分散は外国人客に不評だった点[70]、作品数が多すぎ、全ての作品が一回きりでの上映で、映画ファンは困惑した[70][144]。「ヤングシネマ85」と「日本映画の昨日と今日」は全て英語字幕が付いたが、他の作品は日本語字幕だけ[54]、世界の映画を見に意気込んでやって来た招待客は戸惑った[54]、通訳も色々な国から人が来過ぎてとても追いつかなかった[54]などの指摘があった。映画祭の後、遅すぎた感はあるが、文化庁も映画の危機への深い憂慮を示し、「映画芸術の振興に関する懇談会」を発足させた[17]。
第一回開催から一年数ヵ月後に日本映画復興会議が「映画を国民の手にとり戻すために―映画産業の民主姿勢を目指す白書」をまとめており、同書の中に東京国際映画祭について触れている箇所があり、それは「1985年の筑波での『科学万博』は改めて『高度情報社会』における映像情報の圧倒的優位を見せつけた。それは1970年の『大阪万博』のそれをさらに上回る。そして氾濫する映像情報の支配者が既成の映画産業ではなく、日本を支配する大企業、政財界そのものであることを改めて見せつけた。瀬島龍三を組織委員長とする『東京国際映画祭』のありようも同様であった。既成の映画産業は、テレビなどの放送産業とともにニューメディアを軸とする新しい巨大情報産業の下請け的存在に追い込まれつつあるといえる」というものだった[206]。
トップの変遷
組織委員会委員長は第1回(1985年)から第9回(1996年)まで瀬島龍三であるが[207]、瀬島は記者会見にほとんど出席せず[208][209][210]、第一回から陣頭指揮に当たったのは実行委員長の岡田茂であった[16][134][208]。開催発表会見で真ん中に座るのも第一回から第11回(1998年)までずっと岡田で[63][208]、最初の発言者も岡田で[208]、次がゼネラル・プロデューサー(以下、GP)であった[208]。この間、開催発表会見は4人から7人が出席して行われたが[208]、奇数の出席の時は真ん中が岡田で、偶数の時は岡田とGPが真ん中[208]。京都開催だった第7回(1994年)の開催発表会見は7人の出席で[211]、真ん中が岡田で、岡田の両隣りが徳間康快GPと荒巻禎一京都府知事だった[211]。岡田がトップと周りからも認知されていたものと見られる。
瀬島は組織委員会委員長を第9回(1996年)まで務めて勇退[207]。第10回(1997年)と第11回(1998年)の組織委員会委員長は樋口廣太郎が務め[212]、第12回(1999年)に第一回から11回まで実行委員長だった岡田茂が組織委員会委員長に就任し[213]、岡田の後任実行委員長には石田敏彦が就いた[213]。第13回(2000年)開催の直前に徳間康快が急逝したため、第13回は石田敏彦が実行委員長とGPを兼任した[214]。
GPを最初から岡田茂とする文献も見られるが[215]、GPは、第1回(1985年)が小谷正一、第2回(1987年)、第3回(1989年)が石田達郎、第4回(1991年)から第12回(1999年)までが徳間康快[207]。京都で開催された第7回(1994年)は、徳間でなく、京都に縁のある高岩淡と奥山融が二頭GPを務めた[211][216][217]。第13回(2000年)が石田敏彦、第14回(2001年)、第15回(2002年)が川内通康、第16回(2003年)から第20回(2007年)までが角川歴彦。角川が第18回(2005年)で、GPをチェアマンと改称[218]。第21回(2008年)から第25回(2012年)までのチェアマンは依田巽。第26回(2013年)からチェアマンの代わりの役職として新設されたディレクター・ジェネラルに椎名保が就任。2017年3月10日、ディレクター・ジェネラルからフェスティバル・ディレクターに役職名を変えた役職に、元ワーナーブラザース映画副代表であり、松竹で常務取締役などを務めた久松猛朗が就任した。
1991年の第4回から徳間康快がGPに就任した経緯は、それまでGPを務めていた石田達郎が体が悪いのにカネ集めで苦労しており、岡田茂実行委員長から「徳さん何とか協力してやってくれないか」と頼まれていた徳間が「映画祭はよく知らないから」と断っていたが、1990年7月に石田が突然亡くなり、徳間「どうせオレに声をかけるんだからゼニだろう」岡田「実はそうなんだ」徳間「じゃあ、一生懸命やるよ」と引き受けることになった[219]。徳間「で、第3回はいくらでやったんだ?」岡田「6億だ」徳間「発展させるには従来の倍のカネをかければいい。今回はキリのいい10億円でやろう」と、二人の話で「隔年開催では効果が薄いから毎年定期的に開催しよう。西のカンヌ、東の東京と銘打ってやろう。映画人が力を結集して映画界全体でやろう」と決まった[219]。第2回と第3回は石田達郎がGPを務めていた関係から、フジサンケイグループがバックアップをした[210]。このため東映以外の映画会社はあまり協力的でなかったが[219]、徳間の就任でようやく映画界全体で協力をしようとなり[219][210]、松岡功東宝社長が広報委員長に就いた[220]。記者会見の時は「アジアを中心に意義と価値のある重要な映画祭にし、カンヌ、ベネチアと並ぶ三大映画祭にしたい」と発表した[210]。徳間の自宅の四軒隣りが鈴木俊一東京都知事宅で、第3回のときに徳間と岡田で鈴木宅を訪れ1億円出してもらっていたが[219]、徳間はGPに就任すると今度は鈴木に「毎年8億円出してくれ」と頼み、鈴木から「どういうことだ?」と言われたから「"東京"国際映画祭なんだ。カンヌでもベルリンでもベネチアでもみんな市がやっている。だから東京都が前面に立ってやってもらわないと困るんです。でないと"日本"国際映画祭になっちゃうから」「とりあえず今年は4億出してくれ」などと説得[219]。通産省にはそれまでの1億5000万円だった助成金を2億円にアップさせた[219][210]。徳間は中国に強いパイプを持つことで知られるが、台湾にも参加してもらって然るべきと岡田と二人で台湾に行って台湾の参加を正式に決めた[219]。またカンヌのように世界中からバイヤーを集めるようにするには、短期的な方策としてはいいだろうと入賞作品の賞金を増額させた[219][220]。バブル崩壊があり、資金集めが苦しくなったが[221]、第5回から日本で初めてフィルム・マーケットが開かれた[221][222]。GPに就任するとスポンサー集めに奔走しなければならず、岡田が第2回のとき、鹿内春雄に頼んだが断られ[223]、徳間以降のGPはたいたい1回か2回で辞めている[224]。2001年から二年務めた川内通康も「おまえ、石田のオヤジがやってたじゃないか。おまえ、その愛弟子じゃないか」と岡田から痛いところを突かれての就任[225]。2003年も岡田がいろんな人にあたったが全員に断られ、角川歴彦は「この場で受けてもらわないと今年の開催ができない」と岡田から強い説得を受け、渋々承諾し第16回から六代目GPに就任している[224][226]。
部門
現在ある部門・企画
- コンペティション
- 当初は「インターナショナル・コンペティション」と「ヤングシネマ・コンペティション」に分かれていた。
- 特別招待作品
- アジアの未来(2013年 - )
- 国際交流基金アジアセンター presents CROSSCUT ASIA(2014年 - )
- 日本映画・スプラッシュ(2013年 - )
- ワールド・フォーカス(2013年 - )
- 特別上映(2011年- )
過去にあった部門・企画
日本映画部門
- ニッポン・シネマ・ナウ(1989年 - 1993年、1999年 - 2001年)
- NIPPON CINEMA WEEK(1994年)
- ニッポン・シネマ・クラシック(1995年 - 1998年、2000年 - 2008年)
- ニッポン・シネマ・マスターズ(1999年)
- 日本映画・ある視点(2004年 - 2012年)
アジア映画部門
その他
- シネマ・ヴァイブレーション/映画と音楽の共振関係(2006年 - 2008年)
- animecs TIFF(2006年 - 2008年)
- WORLD CINEMA(2007年 - 2012年)
- 2007年のみ「ワールドシネマ」部門
- 映画人の視点(2008年 - 2011年)
- natural TIFF(2008年 - 2012年)
会場
六本木ヒルズ内のTOHOシネマズ六本木ヒルズをメイン会場とし、都内各地の劇場やホールなどで共催・提携企画の上映が行われる。
2003年までは渋谷のみで開催され、Bunkamura(オーチャードホール、シアターコクーン、ル・シネマ1・2)や渋谷の他の映画館やホールが会場となっていた。2004年から2008年までは渋谷のBunkamuraと六本木ヒルズが会場となっていた。2009年以降は渋谷を会場とせず、六本木ヒルズをメイン会場として映画祭が開催されている(2009年と2010年と2013年は六本木のみで開催、2011年は六本木と日比谷、2012年は六本木と日本橋、2014年は六本木・銀座・日本橋・京橋で開催。2015年は六本木・銀座・新宿で開催)。2016年は六本木・銀座で開催された。六本木ではシネマート六本木も会場として使われていた(2008年 - 2014年)。2018年は、六本木は六本木ヒルズとEXシアター六本木を使用し、東京ミッドタウン日比谷 日比谷ステップ広場でも上映などが催された。
開催日程&受賞一覧
トラブル
2010年(平成22年)に開催された第23回において、映画祭に招かれていた中華人民共和国と中華民国からの招待者の間で「台湾」表記をめぐって論争が生じ、一部の監督、俳優が開幕式をボイコットした[231][232]。また、中国、台湾政府も反応し、双方のインターネット上では騒動になった。
脚注
注釈
出典
- ^ “東映会長・岡田茂(ことば)抄”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 2. (1993年12月9日)、『週刊現代』2012年1月5、12日号、p21、「映画・トピック・ジャーナル」、『キネマ旬報』1983年3月上旬号、168-169頁、「映画界の動き」、『キネマ旬報』1984年4月上旬号、170頁、「映画・トピック・ジャーナル」、『キネマ旬報』1984年5月下旬号、170-171頁、DVD映画ポータル 第14回東京国際映画祭 ニッポン・シネマ・クラシック 、「東京国際映画祭」 古川勝巳 年譜(映画人生50年 永遠の青春) - ヘラルド OB会、「外務委員会で質問。」ニッシーブログ、2011.05.11 - 西村やすとし オフィシャルサイト
- ^ a b c d e f g h i j k 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第2回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】
- ^ a b 金澤誠『徳間康快』文化通信社、2010年、148-150頁。
- ^ 室井実「スタジオジブリを創った男 徳間康快伝」『月刊BOSS』、経営塾、2013年3月号、91-92頁。針木康雄「東映会長・岡田茂 メディアミックス時代の名プロデューサー『もののけ姫』の生みの親 徳間康快氏の死を悼む」『月刊経営塾(現・月刊BOSS)』、経営塾、2000年11月号、56-57頁。
- ^ a b 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第3回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-平成時代に入って徳間体制へ(1989年-1992年)
- ^ “TIFF HISTORY | 東京国際映画祭の輝かしき軌跡をたどる > OVERVIEW > 7th 1994”. 東京国際映画祭. 2014年10月28日閲覧。
- ^ “TIFF HISTORY | 東京国際映画祭の輝かしき軌跡をたどる > OVERVIEW > 17th 2004”. 東京国際映画祭. 2014年10月28日閲覧。
- ^ “TIFF HISTORY | 東京国際映画祭の輝かしき軌跡をたどる > OVERVIEW > 18th 2005”. 東京国際映画祭. 2014年10月28日閲覧。
- ^ “「サムライ“SAMURAI”賞」新設!第1回受賞者は北野 武さん、ティム・バートンさん!”. 第27回東京国際映画祭 (2014年9月30日). 2014年10月28日閲覧。
- ^ 東京国際映画祭「SAMURAI賞」を新設!北野武、ティム・バートンが受賞(シネマトゥデイ、2014年9月30日)
- ^ “東京国際映画祭と上海国際映画祭が協力提携 上映作品の連携などで発展目指す”. 映画.com (2015年6月12日). 2015年6月17日閲覧。
- ^ “100以上の国・地域から応募、「アジア最大級」に成長-東京国際映画祭”. nippon.com (2018年11月2日). 2019年3月1日閲覧。
- ^ a b c “これなら摩擦起こるまい、映像文化は世界市場をめざす―通産省が音頭の東京映画祭”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 23. (1982年6月29日)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 「特集1 多彩な企画で全世界の注目を集める 第一回東京国際映画祭の全貌 実行委員長岡田茂氏 (映連会長・東映社長)インタビュー 開幕式には中曽根首相も出席 渋谷の街がシネマタウンになる…」『映画時報』1985年4、5月号、映画時報社、4-7頁。
- ^ a b c d e f g h i 西沢正史・脇田巧彦・川端靖男・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 60年科学博でその開催が要請されている"国際映画祭"だが、果たして実現するのか?」『キネマ旬報』1983年3月上旬号、キネマ旬報社、168-169頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「『ヘア』が圧勝した東京国際映画祭の『官民』凝視」『週刊新潮』1985年6月13日号、新潮社、140–143頁。
- ^ a b c d e f g h “国際映画祭を定着させたい(社説)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 5. (1987年9月14日)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 西沢正史・脇田巧彦・川端靖男・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 全容を明らかにした『東京国際映画祭』、最大のネック、センサーの問題はどうなるのか?」『キネマ旬報』1984年5月下旬号、キネマ旬報社、170-171頁。
- ^ a b c d “万国博で国際映画祭75か国に招待”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 10. (1969年7月3日)
- ^ a b “開幕が近づいた二大行事 日本国際映画祭 アカデミー賞とで興行に齎らす点”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1970年3月21日)
- ^ 「五百万でも苦しいのに一億五千万円とは」『週刊文春』1967年11月6日号、文藝春秋、23頁。
- ^ “69年十大ニュース 日本国際映画祭開催決定”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1969年12月20日)
- ^ 「新しい年の重要ニュースの回顧と'70年への建設的な展望'70年代の超非常事態にいかに処するか」『映画時報』1970年1月号、映画時報社、12-21頁。
- ^ a b 「国際映画祭の不思議なお祭り騒ぎ」『週刊ポスト』1970年4月17日号、小学館、29頁。
- ^ “万国博の国際映画祭日本各社の出品"ゼロ"期日(出品通知)すぎたのに前途多難・頭かかえる関係者”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 10. (1969年7月3日)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「特集2 事務局顧問・草壁久四郎氏(映画評論家) 海外渉外委員・福中修氏(東映取締役国際部長)インタビュー 映画という世界共通の言葉で友好の輪!」『映画時報』1985年4、5月号、映画時報社、8-18頁。
- ^ a b c 「日本初の国際映画祭の非礼」『週刊新潮』1970年4月11日号、新潮社、15頁。
- ^ a b c d e f g h 「映倫50年の歩み」編纂委員会編『映倫50年の歩み』映画倫理管理委員会、2006年、80-81頁。
- ^ a b c “アルフォンス・ブリッソンさん 国際映画祭りのお目付け役 (ひと)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 3. (1985年6月9日)
- ^ a b c d 「映倫50年の歩み」編纂委員会編『映倫50年の歩み』映画倫理管理委員会、2006年、124頁。
- ^ a b 「芸能情報 万博で初封切り "私は好奇心の…"」『週刊サンケイ』1970年4月13日号、産業経済新聞社、19頁。
- ^ a b 「NEWS MAKERS "芸術作品"もバッサリ 税関の"ハサミ"」『週刊ポスト』1970年4月10日号、小学館、26頁。
- ^ a b 「文化チャンネル 税関の『検問』で輸入映画は受難続き」『週刊朝日』1970年6月12日号、朝日新聞社、111頁。
- ^ 「 各社映画を軸に附帯事業に本腰攻めるも守るもニガイ顔の春斗」『映画時報』1970年4月号、映画時報社、31頁。
- ^ a b c d e f g 「東京国際映画祭」 古川勝巳 年譜(映画人生50年 永遠の青春) - ヘラルド OB会
- ^ 公式プログラム 1985, pp. 2、5、7、12-13.
- ^ a b c d “世界の名優勢ぞろい 東京国際映画祭が開幕”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 23. (1985年6月1日)
- ^ a b c “さんま タモリと映画祭司会クビになった理由”. デイリースポーツ (神戸新聞社). (2016年7月31日). オリジナルの2019年10月5日時点におけるアーカイブ。 2019年10月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 「こんなに世界のスターが大集合してまるでハリウッドのパーティーみたい 第一回東京国際映画祭ドキュメント」『SCREEN』1985年8月号、近代映画社、110–112頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「第一回東京国際映画祭アニメ・フェスティバル 〔ワクワク〕プログラム5月11日前売開始」『アニメージュ』1985年6月号、徳間書店、198頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 川喜多和子・河原畑寧・小藤田千栄子「第一回東京国際映画祭 渋谷の街に映画があふれる10日間」『映画情報』1985年7月号、国際情報社、4–19頁。
- ^ “再来年四月東京渋谷で開催の『東京国際映画祭』プラン発表”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 9. (1984年1月1日)
- ^ a b 河合基吉「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1980年3月21日号、経済界、18 - 21頁。
- ^ a b 佐藤正忠「核心レポート 財界の若き首領(ドン) 岡田茂東映社長の魅力」『経済界』1983年3月25日号、経済界、26 - 29頁。
- ^ a b “世界国際映画祭東京開催に会場は渋谷、原宿他も決る”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1984年4月17日)
- ^ a b 「第一回『東京国際映画祭』 '85年5・31~6・9開催」『映画時報』1984年4月号、映画時報社、18頁。
- ^ a b c d 「東京国際映画祭、実行委員長に岡田茂氏 準備委員会は『組織委員会』に発展改組」『映画時報』1984年3月号、映画時報社、18頁。
- ^ a b 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1984年版(映画産業団体連合会協賛)』1984年12月1日発行、時事映画通信社、12頁。
- ^ a b c d e f g h i j k ぴあ 1985, pp. 150–151.
- ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1985年版(映画産業団体連合会協賛)』1984年が12月1日発行、時事映画通信社、13頁。
- ^ a b c d e f g h 「東京国際映画祭カンヌで公式発表」『ロードショー』1984年8月号、集英社、213頁。
- ^ a b “カンヌ映画祭'84 東京国際映画祭へ”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 13. (1984年6月22日)
- ^ 公式プログラム 1985, p. 3.
- ^ a b c d e “〔芸能〕 東京の10日間 国際映画祭ふりかえる(下) 個性打ち出し飛躍を”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 13. (1985年6月12日)
- ^ a b c 「『東京国際映画祭』各専門委決る 作品選定特別委員長に徳間康快氏」『映画時報』1984年8、9月号、映画時報社、35頁。
- ^ a b c “あす開幕『東京国際映画祭』上機嫌ソフィー祭典の華がきた”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 14. (1985年5月30日)
- ^ a b c d e f g 「NEWS COMPO 東京国際映画祭揺るがす『MISHIMA』の問題シーン」『週刊読売』1985年5月19日号、読売新聞社、30頁。
- ^ a b c d e 「第一回『東京国際映画祭』 映画企画、一般企画固る」『映画時報』1984年12月号、映画時報社、18頁。
- ^ a b c d e “再興への好機、東京国際映画祭(文化往来)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 32. (1985年1月7日)
- ^ a b c 松島利行 (1985年5月14日). “娯楽 近づく第一回東京国際映画祭〈上〉”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 5
- ^ a b c 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1986(映画産業団体連合会協賛)』1985年12月1日発行、時事映画通信社、14頁。
- ^ a b c d e f g “『MISHIMA』の宣伝許さん 岡田実行委員長激怒 正式な要請ない 原作権所持者との問題も…”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 17. (1985年5月8日)
- ^ a b c d e f g “ヘア無修正上映 『国際規約通りに…』組織委正式発表 "解禁"へ半歩前進!? 『MISHIMA』を激しく非難”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 15. (1985年5月8日)
- ^ 公式プログラム 1985, p. 6.
- ^ a b c d e f g h “東京国際映画祭ピンチ米作品『MISHIMA』めぐり海外著名監督ら不参加の動き「なぜ上映とりやめ」”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 23. (1985年5月3日)
- ^ a b c d e f “31日から東京国際映画祭 特例解禁!! ヘア見られソ 会場は治外法権!? あくまで自然に… 国際レベルなら当然かも”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 19. (1985年5月20日)
- ^ a b c d e f g h 土屋好生 (1985年5月30日). “PR 第一回東京国際映画祭あす開幕渋谷わき立つ”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): pp. 6–7
- ^ 公式プログラム 1985, p. 16.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 八森稔「予告篇!! 第一回東京国際映画祭」『映画情報』1985年5月号、国際情報社、26–27頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “まずは成功 東京国際映画祭 映画人の熱意に好感 外人客への対応企画になお課題”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 9. (1985年6月11日)
- ^ a b “映画の祭典フィナーレ見た!!25万ファン『ビルマの竪琴』で終幕「ヤングシネマ'85」『台風クラブ』に大賞”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 17. (1985年6月10日)
- ^ a b “ぴあ、基金制度を設立―文化イベント資金援助”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 6. (1985年5月8日)
- ^ 公式プログラム 1985, p. 38.
- ^ 「グランプリ受賞の『台風クラブ』 なぜか熱低に衰退映画」『週刊読売』1985年9月15日号、読売新聞社、31頁。
- ^ a b c 「東京国際映画祭 エンドマークのあとで」『週刊新潮』1985年6月20日号、新潮社、17頁。
- ^ 『台風クラブ』でヤングシネマ大賞を獲得した相米慎二監督 – cinematoday
- ^ a b c d “相米監督にヤングシネマ大賞配給先もなかった『台風クラブ』絶賛”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1985年6月10日)
- ^ a b c “東京国際映画祭フィナーレ 相米監督にヤングシネマ大賞 大喜び相米氏 配給決らず飲んだくれていた 昨年10月完成『台風クラブ』”. 報知新聞 (報知新聞社): pp. 14. (1985年6月10日)
- ^ a b c 「シナリオボックス 第一回東京国際映画祭盛況裡に6月9日閉幕」『シナリオ』1985年8月号、日本シナリオ作家協会、92頁。
- ^ a b 「"ヤングシネマ85"大賞は相米慎二監督『台風クラブ』/海外映画人350人参加...」『映画時報』1985年6月号、映画時報社、27-28頁。
- ^ “ヤングシネマ大賞に相米監督 東京国際映画祭終わる 入場者は10万人超す”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 16. (1985年6月10日)
- ^ a b c “高い?安い?財界活動、カネ、ヒトのズシリ―見返りは人脈・名誉(人事ロジー)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 44. (1986年3月3日)
- ^ a b c d e f g h i j k 土屋好生 (1985年5月31日). “東京発 "巨笑"がにらむ 映画祭が始まった 渋谷はシネマシティーに”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 22
- ^ 八森稔「雑談えいが情報 総決算/不調だった84年の映画界」『映画情報』1985年5月号、国際情報社、72頁。八森稔「雑談えいが情報 東京国際映画祭は、日本の映画界の流れを変えるチャンス!」『映画情報』1985年7月号、国際情報社、72頁。
- ^ a b c d 「NEWS COMPO 構想なった『東京国際映画祭』にヘアの悩み」『週刊読売』1985年10月30日号、読売新聞社、32頁。
- ^ a b c d e 「タウン お待たせしましたいよいよヘア解禁?」『週刊新潮』1985年5月23日号、新潮社、13頁。
- ^ a b 「ホラー戦慄!! or ヘアー一瞬毛!? 第一回東京国際映画祭のおいしい楽しみ方」『週刊プレイボーイ』1985年6月11日号、集英社、68–69頁。
- ^ a b c “見ぇた 歴史的瞬間は売春婦だった ヘアに息をのむ 『1984年』 クールな受け止め 目光らす警視庁 それでも寛大 わいせつ感なし”. 報知新聞 (報知新聞社): pp. 14. (1985年6月2日)
- ^ 西沢正史 (1985年3月5日). “「ヘア」大揺れ映画祭”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 9
- ^ a b “ヘア規制 東京国際映画祭出品の約100本 おかたい税関にも時代の波? 無キズでパス 心配だった10作品含め”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 23. (1985年5月24日)
- ^ a b “ヘアが見えた コンマ5秒、歴史的"解禁" 初試写『狼の血族』他10作品に期待”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1985年5月30日)
- ^ a b “結局ヘア無修正上映へ 解禁の序幕!? トラブル回避!? ノーチェック通関 東京税関 警視庁黙認した形”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 12. (1985年5月28日)
- ^ a b c d “ヘア見えた!無修正作品第一弾『1984年』上映 客席 平然 警視庁係官も『OK』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 15. (1985年6月2日)
- ^ a b c d “ヘア解禁にブレーキ 加熱の写真誌摘発”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 19. (1985年7月5日)
- ^ a b c “人出も好調 東京国際映画祭 幅広いファン層集める 監督同士の熱い議論も”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 13. (1985年6月7日)
- ^ “観客冷静"初のヘア公開"『1984年』 ばっちり"三度"見えたけど… "ワイセツ感"はなし”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 10. (1985年6月2日)
- ^ a b c d e “写真撮影許せぬ 不謹慎きわまる 審査員監督ら怒った ヘア後進国の"珍事" バシャバシャ シャッター音審査の妨げだ”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 17. (1985年6月3日)
- ^ “東京国際映画祭きょう開幕 ジャンヌ・モロー来日”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 12. (1985年5月31日)
- ^ “"目こぼし"ヘアに話題沸騰”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 18. (1985年6月4日)
- ^ “ヘア"差別" 東京国際映画祭では黙認なのに… アジア太平洋映画祭で2本税関ストップ こりゃ問題ですぞ! 保税扱いで審査 実害なかったが…”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 15. (1985年6月8日)
- ^ 「NEWS COMPO 『MISHIMA』の配給をためらう東宝東和のド慎重」『週刊読売』1985年6月2日号、読売新聞社、29頁。
- ^ a b “映画『MISHIMA』で開催揺れる東京国際映画祭 なぜ上映しない! 公開質問状も届く アカデミー賞監督らボイコットも”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 15. (1985年5月5日)
- ^ a b c d “『MISHIMA』問題 映画祭側 製作者側全面対決へ 揺れる東京国際映画祭 正式な上映要請なかった 宣伝行為だ×拒否された証拠はある”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 17. (1985年5月8日)
- ^ a b c 松島利行「角川映画の十年―面白い映画が勝利する―」『シナリオ』1985年7月号、日本シナリオ作家協会、38頁。
- ^ a b c 「シナリオボックス 東京国際映画祭『MISHIMA』問題、食い違う両者の言い分」『シナリオ』1985年7月号、日本シナリオ作家協会、97頁。
- ^ a b 『コウノドリ』好調の綾野剛と小栗旬を結ぶ絆とは? 綾野、小栗を見出した伝説のプロデューサーが語る
- ^ 公式プログラム 1985, p. 1.
- ^ a b c d 公式プログラム 1985, p. 94.
- ^ a b c d 映画祭の歴史 第一回 1985年 – 公式サイト
- ^ a b c “東京国際映画祭あと8日 TAKARAファンタスティック映画祭 怪奇"4本連続" "夏の夜"を先取り 全て未公開の話題作ばかり 一人では見られないゾ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 17. (1985年5月23日)
- ^ a b c 公式プログラム 1985, pp. 92–93.
- ^ フォトギャラリー 渋谷の109にチャップリン! – cinematoday、109の大型広告
- ^ a b 100以上の国・地域から応募、「アジア最大級」に成長-東京国際映画祭
- ^ a b c “お待たせ!!きょう開幕 参加140本”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 19. (1985年5月31日)
- ^ 公式プログラム 1985, p. 91.
- ^ ぴあ 1985, pp. 145.
- ^ “三井物産が新会社、ビデオテックス事業、30社と組み―まず東京都内で5月から。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 18. (1985年1月23日)“渋谷にビデオテックス端末80台、東京国際映画祭情報、3社競う。”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 7. (1985年4月22日)“東京テレガイド、タウンガイドサービス、20日間で200万画面”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 7. (1985年6月24日)
- ^ “東京テレガイド設立、5月から街頭の端末機で情報提供”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 2. (1985年2月8日)“東京テレガイド、21日からタウン情報(情報ファイル)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 2. (1985年5月17日)
- ^ a b c d e “東京国際映画祭きょう開幕総額30億円の祭典”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 17. (1985年5月31日)
- ^ a b c d e f g h i j k l “東急エージェンシー、渋谷全体を広告媒体化―街頭装飾・イベント利用。”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 5. (1984年12月26日)
- ^ a b c d e “休日戦争 月別の枠にまず風穴(流通変革の時代:8)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 8. (1985年6月22日)
- ^ a b 『幾山河 瀬島龍三回想録』産経新聞ニュースサービス、1995年、351-353頁。ISBN 4594018092。
- ^ 保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』文藝春秋〈文春文庫〉、1987年、207-215頁。ISBN 4163421106。
- ^ 松井志郎『五島昇 財界革新を狙う東急グループの総帥』ぱる出版、1986年、223頁。
- ^ a b 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『瀬島龍三』 - コトバンク
- ^ a b 「反アパルトヘイト映画めぐる東京国際映画祭の「限界」」『創』1989年12月号、創出版、30頁。
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、216-217頁。ISBN 4879320161。
- ^ 山田和夫「主催国の映画状況を映す鏡だった東京国際映画祭を考える」『月刊社会教育』1989年11月号、国土社、60頁。
- ^ 社員紹介5 | 新卒採用:東急レクリエーション
- ^ a b c ぴあフィルムフェスティバル公式サイト 過去の映画祭 1985年:第8回PFF
- ^ a b “池袋、演劇の街へ名乗り―国際的祭典を準備、文化不毛イメージを返上。”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 18. (1986年5月5日)
- ^ a b c “海外からスター続々 東京国際映画祭”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 22. (1985年6月1日)
- ^ a b c d e f “華麗に開幕 東京国際映画祭 137本のトップ切り『乱』に拍手堂々のお祭り”. 報知新聞 (報知新聞社): pp. 15. (1985年6月1日)
- ^ a b c d “『東京国際映画祭』盛大に開幕 日本の華『乱』 中曽根さんも来た 英仏語で映画談義”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 15. (1985年6月1日)
- ^ ・ワールド・プレミアとなったオープニング作『乱』の上映会場に駆けつけた仲代達矢 – cinematoday
- ^ a b c d e f “世界のスター集結東京国際映画祭1億5000万円、開幕の宴”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1985年6月1日)
- ^ a b c d e f g 「マッチ&トシ? ブオトコじゃないけど、実物は写真より…」『週刊明星』1985年6月20日号、集英社、24–25頁。
- ^ a b “番組欄”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 20. (1985年5月31日)
- ^ a b c “日本の威信かけた『東京国際映画祭』開幕 ムード一気に 豪華けんらん 迫力!トップ切ってクロサワ『乱』世界のスターや内外著名人一堂に...”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 10. (1985年6月1日)
- ^ a b “『乱』大ヒット… あゝそれなのに 黒沢監督雲隠れ 75歳…大作疲れ 御殿場で骨休め 海外ゲスト"残念" 面会申し込み30件以上も…”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 19. (1985年6月3日)
- ^ a b c d e f “放送塔から悪評だった「東京国際映画祭」生中継不必要な部分が多すぎた”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1985年6月8日)
- ^ a b c d e f g h i “〔芸能〕 東京の10日間 国際映画祭ふりかえる(上) 動員数10万まずは成功”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 11. (1985年6月11日)
- ^ “see saw 東京国際映画祭のパーティー中継 「時と場」をわきまえぬ企画”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 11. (1985年6月13日)
- ^ a b c d 「PIA News Network SCREEN 東京国際映画祭レポート」『ぴあ』1985年7月12日号、ぴあ、30–31頁。
- ^ a b c d e f g h i j 東森真美「困った人たちとの闘い 第一回東京国際映画祭狂想曲」『映画論叢44』2017年3月15日発行、国書刊行会、26–34頁。
- ^ a b c d e f g h i j 稲田隆紀「第1回東京国際映画祭みどころガイド」『ロードショー』1985年7月号、集英社、131–134頁。
- ^ a b “東京国際映画祭あと7日 グランプリ作品一堂に もう一生一度のチャンス! ファン感涙もの ズラリ日本初公開 器もデッカクNHKホール3300席”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 19. (1985年5月24日)
- ^ a b c “アフリカ映画も見られるゾ 日替り30本上映”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 21. (1985年5月27日)
- ^ ぴあ 1985, pp. 178–179.
- ^ a b c d e f g h 公式プログラム 1985, p. 119.
- ^ 公式プログラム 1985, pp. 16、114–117.
- ^ a b c d “初の『東京国際映画祭』 いきなり世界初上映『乱』 でも関係者だけとは31日~6月9日渋谷、原宿で”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 10. (1985年5月4日)
- ^ 公式プログラム 1985, pp. 56、114–117.
- ^ 東京国際ファンタスティック映画祭が一夜限りの復活
- ^ 公式プログラム 1985, p. 87.
- ^ 公式プログラム 1985, pp. 87、114–117.
- ^ “監督モロー29日来日 東京国際映画祭2作目『思春期』ひっさげ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 15. (1985年5月25日)
- ^ “きょう映画祭開幕 大物が来た 女性監督の旗手ジャンヌ・モロー”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 17. (1985年5月31日)
- ^ a b 公式プログラム 1985, pp. 85、114–117.
- ^ a b c “認知から10年恐怖映画全盛 ファンタスティック映画祭会場は連日超満員”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 19. (1985年6月3日)
- ^ a b c d “日本人は恐怖がお好き!? ファンタスティック映画祭、連日超満員”. スポーツニッポン: p. 15. (1985年6月4日)
- ^ a b “42ヵ国の名画勢ぞろい―「東京国際映画祭」開く。”. 日本経済新聞夕刊 (日本経済新聞社): p. 19. (1985年5月31日)
- ^ a b c “ファンタスティックな映画(文化往来)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 32. (1986年10月3日)
- ^ 公式プログラム 1985, pp. 86-87、114–117.
- ^ “第1回東京国際映画祭あす開幕 イベントガイドマップ "映画大使"続々と飛来 花咲く成田空港”. 報知新聞 (報知新聞社): pp. 15–16. (1985年5月30日)
- ^ a b c “NTTが映画に進出(青鉛筆)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 23. (1985年5月2日)
- ^ a b c “新電電は"文化"の味、イベントでイメージ作り”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (1985年3月14日)
- ^ “活躍する日本語字幕のスライド投影方式(文化往来)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 32. (1986年8月18日)
- ^ a b 公式プログラム 1985, p. 88.
- ^ a b c ぴあ 1985, pp. 170–171.
- ^ a b c 「初春座談会 『アニメーション映画に未来はあるか』 宮崎駿・押井守・河森正治、司会:池田憲章」『アニメージュ』1985年2月号、徳間書店、35–39頁。
- ^ a b c d 「対談 河森正治・庵野秀明 『ふたたびアニメーション映画に未来はあるか=新しさをめぐって』」『アニメージュ』1985年3月号、徳間書店、99–102頁。
- ^ ぴあ 1985, pp. 146.
- ^ ティーチインってなに?通常の映画試写会とどう違うの?
- ^ a b 「第一回東京国際映画祭上映作品決る」『映画時報』1985年3月号、映画時報社、12–13頁。
- ^ “東京国際映画祭 《きょう(8日)の上映作品》開幕”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 15. (1985年6月8日)
- ^ a b c d e f g h i 公式プログラム 1985, p. 95.
- ^ 世界映画人チャリティ・テニス・トーナメント(右端が人気テレビドラマシリーズ「スパイ大作戦」主演のピーター・グレイブス) – cinematoday
- ^ a b c d e f “10億円スター善意のラリー 30余人が熱戦 チャリティーテニス大作戦”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1985年6月6日)
- ^ a b c d “世界映画人チャリティー・テニス大会 超豪華世界の顔 東京国際映画祭のビッグイベント”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 15. (1985年5月19日)
- ^ a b c d 松島利行 (1985年6月7日). “華麗なる花たち 東京国際映画祭に見た横顔PR、観光に大忙し”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 3
- ^ a b c “世界映画人チャリティーテニス さすが華麗”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 14. (1985年6月6日)
- ^ 公式プログラム 1985, pp. 15、90–99.
- ^ a b 公式プログラム 1985, p. 97.
- ^ a b “黒沢さん果報は寝て待った ヒットどころか大ホームラン”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 14. (1985年6月2日)
- ^ a b c d e f “一線級9人のSFXセミナーにマニア殺到 ハイテク画面意外ゃ手作り”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1985年6月4日)
- ^ a b マットアーティスト上杉裕世氏と『シン・ゴジラ』樋口監督が対談 — 「eAT2018 in KANAZAWA」Powered by TOHOKUSHINSHAレポート
- ^ a b c 公式プログラム 1985, p. 96.
- ^ “エドランド氏"故郷に錦"”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 19. (1985年6月7日)
- ^ a b c “東京国際映画祭関連番組を放映 NHK教育”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 11. (1985年5月28日)
- ^ a b c 「映画祭に嫌気さした? フォアマン監督突然の来日中止」『週刊読売』1985年6月16日号、読売新聞社、29頁。
- ^ a b 公式プログラム 1985, p. 99.
- ^ “ビア・パーク―酒好きに燃料補給(店先で)”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 19. (1986年5月5日)
- ^ a b 公式プログラム 1985, p. 98.
- ^ a b “お化粧ハリウッド調に―マックスファクター、本社に公開スタジオ”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 16. (1985年6月24日)
- ^ a b 「映連発表の60年度全国映画統計」『映画時報』1986年2、3月号、映画時報社、18頁。
- ^ 発見!キラリ〈特別編〉「第一回 東京国際映画祭 ~1985年、公園通りの魔法~」
- ^ a b c 「東京国際映画祭に集った世界のスター来日ミュージシャン芸能人たちの日本体験ウラ話」『週刊平凡』1985年7月5日号、平凡出版、116–118頁。
- ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1986(映画産業団体連合会協賛)』1985年12月1日発行、時事映画通信社、15頁。フォトギャラリー ハリソン・フォードやシェールなど、第1回東京国際映画祭に参加したスターたち (1/8)
- ^ a b 「フランスに帰ったあのソフィー・マルソーの東京批判」『週刊読売』1985年8月4日号、読売新聞社、33頁。
- ^ “大物映画人ラッシュだハリソン・フォード来日”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1985年5月28日)
- ^ a b c d e f g h “ミロス・フォアマン監督が審査員を辞退第1回東京国際映画祭”. 報知新聞 (報知新聞社): pp. 19. (1985年5月29日)
- ^ a b “国際映画祭渋谷区も歓迎行事 能、狂言に500人無料招待”. 読売新聞都内版 (読売新聞社): p. 18. (1985年1月8日)
- ^ a b 「映画大好き人間集合!日本で初めての国際映画祭が東京で始まるヨ~ 第一回東京国際映画祭」『SCREEN』1985年6月号、近代映画社、78–80頁。
- ^ 西沢正史・脇田巧彦・川端靖男・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 映画祭をはじめ話題の多くあった60年上半期...」『キネマ旬報』1985年8月上旬号、キネマ旬報社、172頁。
- ^ 「映画を国民の手にとり戻すために―映画産業の民主姿勢を目指す白書 日本映画復興会議」『映画時報』1986年10月号、映画時報社、36頁。
- ^ a b c 連載企画第6回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-番外編
- ^ a b c d e f g 「第2回東京国際映画祭の全容」『映画時報』1987年8月号、映画時報社、5–6頁。「第3回東京国際映画祭の全容 1989 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL」『映画時報』1989年7月号、映画時報社、4–5頁。「1991 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第4回東京国際映画祭」『映画時報』1987年8月号、映画時報社、19–20頁。「第6回東京国際映画祭 9・24開幕」『映画時報』1993年9月号、映画時報社、14–15頁。高坂哲也「CINEMA・EXITING 京都国際映画祭に行きたい!」『映画時報』1994年8、9月号、映画時報社、27、30頁。「1995 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第8回東京国際映画祭」『映画時報』1995年7月号、映画時報社、26–27頁。「CINEMA・EXITING 第9回東京国際映画祭 予算6億、前回通りの規模」『映画時報』1996年9月号、映画時報社、33頁。「1997 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第10回東京国際映画祭」『映画時報』1997年910月号、映画時報社、27–28頁。「1997 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第10回東京国際映画祭」『映画時報』1997年9、10月号、映画時報社、26–27頁。「1998 TOKYO INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 第11回東京国際映画祭」『映画時報』1998年9月号、映画時報社、28頁。
- ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 東京国際映画祭会見」『キネマ旬報』1993年10月下旬号、キネマ旬報社、169頁。
- ^ a b c d e 「映画界主導の国際映画祭へと岡田実行委員長 第4回東京国際映画祭、来9月27日から渋谷地区で開催」『AVジャーナル』1990年12月号、文化通信社、126頁。
- ^ a b c 高坂哲也「CINEMA・EXITING 京都国際映画祭に行きたい!」『映画時報』1994年8、9月号、映画時報社、27、30頁。
- ^ 竹入栄二郎「第11回『東京国際映画祭'98』総括...」『映画時報』1998年11、12月号、映画時報社、6頁。
- ^ a b 「第12回東京国際映画祭」『映画時報』1999年10、11月号、映画時報社、28頁。
- ^ 「CINEMA・EXITING 第13回『東京国際映画祭2000』展望」『映画時報』2000年9月号、映画時報社、5–6頁。
- ^ 「CINEMA・EXITING 第9回東京国際映画祭 予算6億、前回通りの規模」『映画時報』1996年9月号、映画時報社、33頁。
- ^ 連載企画第4回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-アジア映画の隆盛と映画祭10周年(1993年-1995年)
- ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1993年12月下旬号、キネマ旬報社、189頁。
- ^ 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第2回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】
- ^ a b c d e f g h i 「インタビュー/徳間康快 『日本映画再興のために"毀誉褒貶"を問わず捨身の行動をとる』」『AVジャーナル』1991年3月号、文化通信社、14-19頁。
- ^ a b 「NEWS FLASH 『第4回東京国際映画祭の詳細が決定した 予算規模10億円、毎年開催の方向というが』」『AVジャーナル』1991年7月号、文化通信社、14頁。
- ^ a b 「"マーケット部門"も成功の第5回東京国際映画祭」『AVジャーナル』1992年10月号、文化通信社、7頁。
- ^ 江戸木純「ハーフタイム 『東京国際映画祭について考える』」『小説club』1992年12月号、桃園書房、146-148頁。
- ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1985年10月上旬号、キネマ旬報社、174頁。
- ^ a b 川端靖男・指田洋・鈴木元・石川昇「トピック・ジャーナル 『第16回東京国際映画祭新GPの船出』」『キネマ旬報』2003年3月下旬号、キネマ旬報社、146–147頁。
- ^ 「トップインタビュー/川内通康・東京国際映画祭GP 映画祭のIT化で映画の存在価値を高める」『AVジャーナル』2001年9月号、文化通信社、24–27頁。
- ^ 「NEW SFLASH」『AVジャーナル』2003年3月号、文化通信社、13頁。
- ^ 劇場公開時の邦題『故郷(ふるさと)の香り』
- ^ DVD化の際の邦題『OSS 117 私を愛したカフェオーレ』
- ^ 劇場公開時の邦題『ソフィアの夜明け』
- ^ a b “第30回TIFF東京グランプリはトルコ映画『グレイン』!”. シネママニエラ (ギャラリーくぼた). (2017年11月3日) 2018年1月2日閲覧。
- ^ “中国と台湾でトラブル、東京国際映画祭開幕式にビビアン・スーらが登場せず!”. MOVIE Collection [ムビコレ] (2010年10月24日). 2011年1月11日閲覧。
- ^ “昨夜のグリーンカーペット欠席にビビアン・スーが大粒の悔し涙”. チケットぴあ (2010年10月25日). 2011年1月11日閲覧。
参考文献
- 東京国際映画祭組織委員会/広報委員会『第一回東京国際映画祭 公式プログラム』東急エージェンシー、1985年。
- 「東京国際映画祭 ぴあフィルムフェスティバル ハンディマップ&スケジュール表」『ぴあ』1985年5月3日号、ぴあ。