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「国鉄103系電車」の版間の差分

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{{雑多な内容の箇条書き|date=2009年6月}}

{{鉄道車両
{{鉄道車両
|車両名=国鉄103系電車
| 車両名 = 国鉄103系電車
|色=#000000
| 背景 = #000000
| 文字色 = #ffffff
|画像=JR West Osaka loop line 103-248.jpg
| 画像 = JRWest 103Series 2017.jpg
|画像説明=量産冷房車・延命N40改造車<br />(2005年1月10日 大阪環状線 大正駅)
| 画像幅 = 300px
|起動加速度= 2.0<sup>*1</sup> -3.3<sup>*2</sup>
| 画像説明 = JR西日本所属の103系電車<br>(左から[[朱色1号|オレンジ]]・[[青22号|スカイブルー]]・[[黄緑6号|ウグイス]](低運転台))<br>(2017年10月28日 [[吹田総合車両所]])
|営業最高速度= 100
| 運用者 = [[日本国有鉄道]]<br>[[東日本旅客鉄道]]<br>[[東海旅客鉄道]]<br>[[西日本旅客鉄道]]<br>[[九州旅客鉄道]]
|設計最高速度= 100
| 製造所 = [[汽車製造]]、[[東急車輛製造]]、[[近畿車輛]]、[[川崎車両|川崎車輛/川崎重工業]]、[[日本車輌製造]]、[[帝國車輛工業]]、[[日立製作所笠戸事業所|日立製作所]]、[[東芝]]
|減速度(通常)= 3.5
| 製造年 = 1963年(試作車)<br>1964年 - 1984年(量産車)
|減速度(非常)= 5.0
| 製造数 = 3,447両
|編成定員= 48(席)+88(立)=136名 <sup>*3</sup><br />54(席)+90(立)=144名 <sup>*4</sup><br/>
| 種車 =[[国鉄72系電車|国鉄72系970番台]](3000番台)<br/>[[国鉄101系電車|国鉄101系]](クハ103形2000・2050番台、サハ103形750番台)
|最大寸法= 20,000 ×2,832 ×3,935 mm
| 改造数 = 56両(3000番台、クハ103形2000・2050番台とサハ103形750番台の合計)
|編成質量=
|軌間 = 1,067
| 軌間 = 1,067 mm
|電気方式 = 直流1,500V
| 電気方式 = 直流1,500 V
| 最高運転速度 = 100 km/h<ref name="rp201801_p12-13">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、12-13頁。</ref>
|駆動装置 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]]
| 設計最高速度 =
|台車 = ウイングばね式コイルばね台車<br />DT33・TR201
| 起動加速度 = 2.0<ref group="*">4M4T編成</ref> - 3.3 km/h/s<ref group="*">8M2T編成(1000番台)</ref>
|主電動機 = [[直流整流子電動機|直流直巻電動機]]<br /> MT55形 110kW×4基 / 両
| 常用減速度 = 3.5 km/h/s
|制御装置 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁]]<br />[[バーニア制御]](地下鉄対応型)
| 非常減速度 = 5.0 km/h/s
|ブレーキ方式=[[発電ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]]<br/>(応荷重装置付)<br />[[手ブレーキ]]
| 車両定員 = 48(席)+88(立)=136名<ref group="*">先頭車</ref><br/>54(席)+90(立)=144名<ref group="*">中間車</ref>
|保安装置=
| 自重 =
|備考=<nowiki>*1 : </nowiki>4M4T編成<br/><nowiki>*2 : </nowiki>8M2T編成(1000番台)<br /><nowiki>*3 : </nowiki>先頭車<br /><nowiki>*4 : </nowiki>中間車
| 全長 = 20,000 mm<ref name="rp201801_p12-13" />
| 全幅 = 2,870 mm<ref name="rp201801_p12-13" />
| 全高 = 3,935 mm
| 車体材質 = [[炭素鋼|普通鋼]]
| 台車 = ウイングばね式コイルばね台車<br />DT33(電動車)<br />TR201(付随車)
| 車輪径 = 910 mm (電動車)<br />860 mm (付随車)
| 固定軸距 = 2,300 mm (電動車)<br />2,100 mm (付随車)
| 主電動機 = [[直流整流子電動機|直流直巻電動機]]<br/>MT55形
| 主電動機出力 = 110 kW×4基 / 両
| 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]]
| 歯車比 = 6.07<ref name="rp201801_p12-13" />(860 mm車輪で5.73に相当)
| 制御方式 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁]]<br>[[バーニア制御]](地下鉄対応型)
| 制御装置 = 国鉄制式CS20形
| 制動装置 = [[発電ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]]<br/>(応荷重装置付)<br>[[手ブレーキ]]
| 保安装置 = [[自動列車停止装置|ATS-B/S/Sn/ST/SW/SK/P]],[[自動列車制御装置|ATC]](運用路線によって異なる)
| 備考 =
| 備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
}}
'''国鉄103系電車'''(こくてつ103けいでんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が設計・製造した[[直流電化|直流]][[通勤形電車]]。
'''国鉄103系電車'''(こくてつ103けいでんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が設計・製造した[[直流電化|直流]][[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。[[1963年]]([[昭和]]38年)3月から[[1984年]](昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された


本項では、[[インドネシア]]の鉄道会社(PT. Kereta Api)に譲渡された車両についても記述する。
国鉄の通勤形電車としては前作に当たる[[国鉄101系電車|101系]]を基に、当時の国鉄の財政・設備・[[メンテナンス|保守]]などの各事情を考慮のうえで、経済性を最重視して再設計され、[[1963年]]([[昭和]]38年)[[3月]]から[[1984年]](昭和59年)[[1月]]までの21年間に3,447両が製造された。


また、本項では[[インドネシア]]の鉄道会社 (PT. Kereta Api) に譲渡された車両についても記述する。
<div class="toclimit-3">__TOC__</div>
== 概要 ==
== 概要 ==
国鉄初の[[新性能電車|新性能通勤電車]]として[[1957年]]に登場した[[国鉄101系電車|101系]]を基本に、駅間距離の短い線区の運転や[[MT比]]1:1の編成を組成可能な経済性を重視し、当時の国鉄の財政・設備・[[メンテナンス|保守]]などの各事情を考慮の上で設計され、3,447両が製造された<ref name="rp201801_p10">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、10頁。</ref>。新造車3,447両のほか、20両が[[国鉄72系電車|72系]]から、36両が101系から編入され、総数は3,503両であるが、後述する[[国鉄105系電車|105系]]への改造や老朽化、事故廃車などにより、全車が同時に存在した時期はない。
基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車である101系をおおむね踏襲している。すなわち切妻形車体に3枚窓の運転台のシンプルなデザイン、1300mmの両開き4扉、車内は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシート、コイルばね台車でウイングばね[[鉄道車両の台車#軸箱支持装置|軸箱支持]]、[[直巻整流子電動機]]を用いて抵抗制御、[[電動車#MM'ユニット方式|MM'ユニット方式]]という形である。


基本的な構成は、前級に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・幅1,300 [[ミリメートル|mm]]の両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね[[鉄道車両の台車#軸箱支持装置|軸箱支持]]・[[主電動機]]に[[直巻整流子電動機]]を用いた[[抵抗制御]]・[[電動車#MM'ユニット方式|MM'ユニット方式]]である。
比較的駅間が短く、速度の低い線区での使用を目的として設計されているため、継続して高速運転を行う線区には不向きとされる。また高速運転時を配慮して弱界磁を35%として設計したが、実効値は40%程度で、100km/hまでの加速所要時間は2分程度かかっていた。京阪神緩行線など一部の線区では、設計どおりの35%になるように小改造を行い、高速性能を改善した車両もある。


本系列の設計は[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ東西線|東西線]]乗入用の[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミニウム合金製車両]]である[[国鉄301系電車|301系]]の基本<ref>岡田直昭(国鉄車両設計事務所) 「301系軽合金電車詳説 (1)」『電気車の科学』1966年9月号、電気車研究会、pp.19 - 22。</ref>となったほか、地方電化路線用の105系にも応用<ref>石津一正(国鉄車両設計事務所電気車) 「105系通勤形直流電車の概要」『電気車の科学』1981年3月号、電気車研究会、pp.35 - 40。</ref>された。
新造車3,447両の他、20両が[[国鉄72系電車|72系]]から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両となっている。ただし、[[奈良線]]・[[和歌山線]]の電化開業および[[可部線]][[新性能電車|新性能化]]用として0・1000番台から61両(JR化後、事故廃車補充用としてさらに1両)が、[[仙石線]]在籍車両のうちの4両が短編成化による増発を目的にそれぞれ105系に改造され、また[[鉄道事故|事故]]で早期に[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった車両も数両<ref>廃車第1号は1971年のモハ102-169・クハ103-548。</ref>あるため、3,503両が同時に存在したことはない。


[[JR]]グループ発足時に、事故[[廃車 (鉄道)|廃車]]2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)と[[四国旅客鉄道]](JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれた。その後老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、[[東海旅客鉄道]](JR東海)が所有していた該当車両は[[2001年]](平成13年)、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が所有していた該当車両は[[2009年]](平成21年)に形式消滅となっており、2023年2月1日現在残存するのは[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が関西圏で運用する40両と[[九州旅客鉄道]](JR九州)が[[筑肥線]]で運用する15両の合計55両である<ref>ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2019夏』交通新聞社、2019年。410頁。</ref>。
本形式の設計は[[帝都高速度交通営団]](現在の[[東京地下鉄]])[[東京地下鉄東西線|東西線]]乗入用の[[アルミニウム合金|アルミ]]製車両である[[国鉄301系電車|301系]]の基本となったほか、地方私鉄買収電化路線用の[[国鉄105系電車|105系]]、[[飯田線]]用の[[国鉄119系電車|119系]]や[[JR]]発足直前に行われた四国電化開業用の[[国鉄121系電車|121系]]にも応用された。


{| class="wikitable" style="margin: 0em; float: left; clear: both; text-align: center;"
JR発足時に、事故廃車の2両を除いた前述の改造車を含む3501両が[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)と[[四国旅客鉄道]](JR四国)を除くJR旅客各社に引き継がれたが、同時期に製造された他系列の車両同様、老朽による新型車両への取り換えによって廃車が進んでいる。すでに[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)と[[東海旅客鉄道]](JR東海)では全廃され、2010年時点では[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)に430両と[[九州旅客鉄道]](JR九州)に54両の合計484両が残存している。
|+分割民営化時([[1987年]])から[[2022年]]までの在籍両数<ref>新車年鑑/鉄道車両年鑑([[鉄道ピクトリアル]]増刊)各年度版</ref>
!年
!style="width:5em;" |JR東日本
!style="width:5em;" |JR東海
!style="width:5em;" |JR西日本
!style="width:5em;" |JR九州
!style="width:5em;" |総計
|-
|1987年(昭和62年)||2,418両||70両||894両||54両||3,436両
|-
|1988年(昭和63年)||2,418両||70両||894両||54両||3,436両
|-
|1989年(平成元年)<!-- 出典元雑誌に記載なし? -->||-||-||-||54両||-
|-
|1990年(平成{{0}}2年)||2,359両||64両||893両||54両||3,370両
|-
|1991年(平成{{0}}3年)||2,208両||64両||888両||54両||3,214両
|-
|1992年(平成{{0}}4年)||-||64両||850両||54両||-
|-
|1993年(平成{{0}}5年)||2,055両||51両||821両||54両||2,981両
|-
|1994年(平成{{0}}6年)||1,979両||51両||817両||54両||2,901両
|-
|1995年(平成{{0}}7年)||1,845両||50両||809両||54両||2,758両
|-
|1996年(平成{{0}}8年)||1,734両||50両||804両||54両||2,642両
|-
|1997年(平成{{0}}9年)||1,640両||50両||795両||54両||2,539両
|-
|1998年(平成10年)||1,489両||50両||777両||54両||2,370両
|-
|1999年(平成11年)||1,350両||50両||777両||54両||2,231両
|-
|2000年(平成12年)||1,284両||17両||775両||54両||2,130両
|-
|2001年(平成13年)||1,052両||10両||775両||54両||1,887両
|-
|2002年(平成14年)||939両||0両||771両||54両||1,764両
|-
|2003年(平成15年)||605両||-||770両||54両||1,429両
|-
|2004年(平成16年)||331両||-||734両||54両||1,119両
|-
|2005年(平成17年)||146両||-||718両||54両||918両
|-
|2006年(平成18年)||31両||-||656両||54両||741両
|-
|2007年(平成19年)||4両||-||587両||54両||645両
|-
|2008年(平成20年)||4両||-||524両||54両||582両
|-
|2009年(平成21年)||4両||-||458両||54両||506両
|-
|2010年(平成22年)||0両||-||430両||54両||484両
|-
|2011年(平成23年)||-||-||358両||54両||412両
|-
|2012年(平成24年)||-||-||296両||54両||350両
|-
|2013年(平成25年)||-||-||288両||54両||342両
|-
|2014年(平成26年)||-||-||278両||54両||332両
|-
|2015年(平成27年)||-||-||269両||48両||317両
|-
|2016年(平成28年)||-||-||268両||21両||289両
|-
|2017年(平成29年)||-||-||198両||21両||219両
|-
|2018年(平成30年)||-||-||98両||18両||116両
|-
|2019年(令和元年)||-||-||48両||15両||63両
|-
|2020年(令和{{0}}2年)||-||-||48両||15両||63両
|-
|2022年(令和{{0}}4年)||-||-||40両||15両||55両
|-
|2023年(令和{{0}}5年)
| -
| -
|40両
|15両
|55両
|}

{{-}}


== 歴史 ==
=== 開発の経緯 ===
=== 開発 ===
==== 101系における全電動車化計画とその中止 ====
[[1958年]]から[[中央本線|中央線]]を皮切りに量産車の導入が開始された101系は、[[特急形車両|特急形]]や[[急行形車両|急行形]]などと共通設計の[[電動機|モーター]]の歯数比を変更して使用し、これによる全[[動力車|電動車]]方式で高加速性能を実現することを前提に設計され、当時の典型的な高性能通勤電車の一つであった。だが、その設計理念は、[[変電所]]容量の増大や[[架線]]設備の強化をも要求するものであり、[[通勤五方面作戦]]など緊急性の高い[[ラッシュ時|ラッシュ]]対策に追われていた当時の国鉄の財政状況やスケジュールに適合するものではなかった<ref>設計途中での設備部門との打ち合わせでは容量不足の懸念はなぜか見落とされていた。(『車両研究』P.27 - P.28)</ref>。中央線でも結局、変電所容量の不足および電動車の製作費の高さから全電動車方式での運用を断念し、電動機を装備しない付随車の挿入が実施されることとなった。


==== 101系全電動車化計画の頓挫 ====
しかし、本来は全電動車で運用することが前提で設計された101系においては、電動車 (M) と付随車 (T) の比率([[MT比]])を変更し付随車を挿入することは、性能の大幅な低下を招いた。また、経済的観点からはMT比1:1での運用をしたいという要求が強かったが、定格出力100kWのMT46A形を主電動機とする101系では、その出力曲線と減速歯車の歯数比の関係で事実上これは不可能<ref>試験の結果、4M4T編成では力行時における主電動機の[[電機子]]および[[界磁]]の温度上昇が著しく、4M3Tが上限と判断され、実用上は4M2Tが望ましいとされた。</ref>だった。このためMT比1:1を実現してより低コストに、そして大量に量産しうる新型通勤電車が必要となった。(詳細は[[国鉄101系電車#計画の頓挫]]参照)。
[[1957年]](昭和32年)に国鉄初の新性能電車として登場したモハ90形(後の101系通勤形電車)は当時の民鉄の高性能車に匹敵する加速度・減速度などを備え、国鉄の通勤輸送力の要として期待された<ref>西山信夫(国鉄工作局修車課) 「国鉄の誇るモハ90形の誕生」『電車』1957年7月号、交友社、pp.19-24。</ref>。しかし、試運転を重ねるうちに所定の加速度設定では電流が、き電設備に負荷をかけることがわかり、営業運転開始時から101系は[[過剰性能|本来の性能を出せず]]<ref>「国電モハ90形電車が営業運転開始」『電車』1958年2月号、交友社、p.50。</ref>、オール電動車編成を持て余すことになる。初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も[[変電所]]容量や[[架線]]設備が適合するかのチェックを見落としていた<ref name="kubota"/>。既に1957年(昭和32年)度にモハ90形が150両分予算計上されており、[[1958年]](昭和33年)春から夏にかけて落成したが、量産車も本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる<ref>「2ヵ年計画で中央線の新性能電車化 付随車を入れ新編成に切換えて」『電車』1958年6月号、交友社、p.79。</ref>。モーター数を減らした編成で運転した方が車両新製費用が安いことから、1958年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。


==== 新形通勤電車の要件 ====
==== 101系電車の使用方法の検討 ====
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
|+ 第2次5ヵ年計画での昭和40年度編成両数想定<ref>渡辺千代治(国鉄東京鉄道管理局総務部文書課長)ほか68名「電車輸送の将来」『東鉄10年のあゆみ』国鉄東京鉄道管理局、1960年10月、pp.105 - 107。</ref>
|+ '''新形通勤電車の投入候補線区'''<ref name="kubota">『車両研究』p.27-30</ref>
|-
|-
! ||colspan="2"|混雑時||colspan="2"|閑散時||備考
!候補線区!!検討<br />対象!!平均駅間<br />距離 (km) !!平均速度<br /> (km/h)
|-
| ||編成||時隔||編成||時隔||
|-
|京浜東北||8||2'00"||8||5'00"|| -
|-
|山手||8||2'00"||8||4'00"|| -
|-
|赤羽||8||5'30"||4||5'30"|| -
|-
|中央急行||10||2'00"||8||5'00"|| -
|-
|中央緩行||8||2'30"||8||5'00"|| -
|-
|南武||6||3'00"||4||6'00"|| -
|-
|横浜||8||10'00"||2 - 4||15'00"|| -
|-
|常磐||9||3'00"||6||6'00"||混雑時の時隔は中距離電車等との平均
|}
[[1959年]](昭和34年)に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成の8両編成で運転されていた。[[1950年代]]後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6 %以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法にも、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が可能かどうかの検討が始められる。

これらの観点から、1959年(昭和34年)11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T + 付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた{{Sfn|大熊孝夫|2006|pp=92-92}}。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年(昭和34年)秋頃から実用化<ref>藤田義人(国鉄本社運転局客貨車課総括補佐)ほか「R.M.S電流による主電動機の温度上昇計算法」『電車運転工学 理論編』1964年12月号、日本鉄道図書、pp.215 - 219。</ref>され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、モーターを冷やす時間が少ないことから、101系は不利になった。

==== 新形通勤電車の構想 ====
101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を[[1960年]](昭和35年)2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた{{Sfn|大熊孝夫|2006|p=95}}。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用[[抑速ブレーキ]]として国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、[[京阪電気鉄道]]が1959年(昭和34年)2月以降[[京阪1650型電車|1650型]]の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており<ref>川合茂太郎(京阪電鉄車両部長)「京阪電鉄回生ブレーキ付き試験車について」『電気車の科学』1959年6月号、電気車研究会、pp.6 - 11。</ref>、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き[[京阪2000系電車|2000型]]の営業運転を開始した<ref>川合茂太郎(京阪電鉄車両部長)「京阪スーパーカー回生ブレーキ付2000形」『電気車の科学』1959年10月号、電気車研究会、pp.21 - 27。</ref>。また、[[小田急電鉄]]では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした[[小田急2400形電車|2400形]]がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)度中に落成している。

==== 架線温度上昇問題 ====
中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84 %に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上した<ref>真家昇(国鉄東京鉄道管理局電力課) 「新型電車と架線容量」『鉄道電気』1960年6月号、鉄道現業社、pp.26 - 27。</ref><ref>真家昇(国鉄東京鉄道管理局電力課) 「中央線電車線路整備工事について」『電気鉄道』1960年10月号、鉄道電化協会、pp.14 - 16。</ref>。この問題は、架線を平行に並べる[[架空電車線方式#ツインシンプルカテナリー式|ツインシンプルカテナリー方式]]を用いることで改善できることもあり、中央線と中央・総武緩行線の工事を行った。

==== 101系のパワーアップを検討 ====
101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年(昭和35年)3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、初期費用が高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120 kWのMB3039A形{{Sfn|大熊孝夫|2006|p=97}}電動機を101系2両に搭載し、1961年(昭和36年)1月に中央線や山手線で試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、編成単位での長期試験を行うことも検討された<ref>「36年度技術課題」『電車』1961年8月号、交友社、pp.25 - 29。</ref>。

==== 限界性能の6M4T化 ====
1960年(昭和35年)初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足{{Sfn|大熊孝夫|2006|pp=87-88}}にあったことから、101系を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入した<ref>西谷畷(国鉄東京鉄道管理局運転部電車課長)「国電の時刻改正と、中央線急行100系電車の"6M.4T"編成について」『電車』1960年11月号、交友社、pp.9 - 14。</ref>。これを実現させるには編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた<ref>猪口信(元国鉄首都圏本部列車課長)「大都市圏通勤輸送の立役者 101系電車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2002年11月号、電気車研究会、pp.42 - 51。</ref>。

=== 標準形通勤電車の設計へ ===
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
|+ 新形通勤電車の投入候補線区<ref name="kubota">{{Harvnb|久保田博|福原俊一|2003|pp=27-30}}</ref>
|-
!候補線区!!検討<br/>対象!!平均駅間<br/>距離 (km) !!平均速度<br/> (km/h)
|-
|-
|中央緩行||○||1.27||39.6
|中央緩行||○||1.27||39.6
66行目: 204行目:
|京阪神緩行||-||3.29||56.7
|京阪神緩行||-||3.29||56.7
|}
|}
一方、首都圏の通勤事情は悪化し、1961年(昭和36年)1月には中央線朝[[ラッシュ時]]に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる<ref>中西寛(国鉄東京鉄道管理局運転部電車課長) 「国電区間の冬期輸送対策」『電車』1961年12月号、交友社、pp.18 - 24。</ref><ref>「鉄道メモリアル32 酷電ラッシュ」『鉄道の旅』2003年9月18日号 No.32、講談社、pp.32 - 33。</ref>。この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系を4M3Tで投入を開始した。101系の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える必要があり、旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系は両開きドアであることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系の設計がまとまるまでの間、中央線用に設計された<ref>久保田博(国鉄本社工作局車両課) 「36年度の国鉄車両計画について」『鉄道ピクトリアル』1961年5月号、電気車研究会、pp.19 - 21。</ref>101系を性能的に適さない山手線や総武線などに増備されたのはラッシュ輸送改善のためであり、101系を入れても新性能電車投入のスピードアップなどの効果が薄いため、これらの通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低費用で大量量産する新形通勤電車が必要となった(詳細は[[国鉄101系電車#計画の頓挫]]参照)。
101系が設備面で能力低下を強いられたことから国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を[[1960年]](昭和35年)[[2月]]にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた。[[カルダン駆動方式|カルダン駆動]]による新性能車では初期の全M車を前提とする101系に代表されるグループを'''高性能車'''、MT比1:1を目指して経済性を追求する103系に代表されるグループを'''高経済車'''と呼ぶことがある。私鉄各社でも高性能車から高経済車への移行が見られ、日本の鉄道史での大きな流れの一つであった。そしてこのように電動車比率を下げるためには、主電動機の設計を変更し1個当たりの定格出力を増強することで、編成全体の出力を確保するとともに、特に低速域での牽引力を向上することが必要となった。


また101系では当初全M車編成で3.2km/h/sという高い加速度が目標<ref>国鉄臨時車両設計事務所 『モハ90形電車詳説』1958年11月、1958年、P.4</ref>とされたが、6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になっていた。しかし新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討したところ、高加速度のメリットはあまりないことが明らかになってきた。すなわち、輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だったわけだが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明してき。このため、2.0km/h/s程度の加速度にとどめ、むしろ3.5km/h/sという減速度を目指すことになった<ref>RP156 P.35 - P.37</ref>。
101系では当初全M車編成で3.2 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]という加速度が目標<ref>国鉄臨時車両設計事務所 『モハ90形電車詳説』1958年11月、p.4</ref>とされたが、6M4T化により2.0 km/h/sの加速度と3.0 km/h/sの減速度になった。新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0 km/h/sの加速度にめ、3.5 km/h/sという減速度を目指すことになった<ref>久保田博(元国鉄本社工作局) 「国鉄通勤形電車最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、電気車研究会、pp.35 - 37</ref>。


==== 電動機設計 ====
==== 運転時隔と車両性能検討 ====
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
そのような状況下、1960年(昭和35年)[[1月]]には101系の電動機出力を120kWに増強した試験車による試運転を実施し、高出力・高回転型の電動機を検討した他、1960年3月には回生ブレーキ付の101系910番台を試作製造している。これらの試験結果と、上記投入予定線区の特性を考慮した結果、高回転型であるMT46A形の出力増強型では目標とする性能が得られないことから、新形通勤電車用には低回転型110kWのMT55形が開発されることになった。
|+ 場内信号機建植に特例がある区間(昭和40年)<ref>運転保安設備基準規程第46条別表</ref>
|-
!線名||区間
|-
|東北本線||東京 - 大宮間(電車線)
|-
|東海道本線||東京 - 横浜間(電車線)
|-
|根岸線||横浜 - 磯子間<ref group="注">昭和40年当時、磯子 - 大船間は未開業。</ref>
|-
|山手線||電車線
|-
|中央本線||東京 - 高尾間
|-
|総武本線||御茶ノ水 - 千葉間
|-
|常磐線||日暮里 - 松戸間
|-
|大阪環状線||全線
|}
国鉄では列車同士の追突を防止するために列車の進路を[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]という区画で区切り信号機により追突を防止する[[信号保安]]というシステムを用いた。列車と列車の運転時隔を縮めるためには前を走る列車が駅に停車中に、後続の列車が[[日本の鉄道信号#信号現示の種類と現示方式|進行信号]]で走行する必要があるが、ラッシュ時は客扱いに30秒以上停車する駅もあり、運転時隔を2分以下とするには駅から先行列車が迅速に発車し、後続列車が進行信号で駅に進入するシステムが必要となる。[[京浜東北線]]と山手線が同一線上を走っていた1952年10月よりラッシュ時に各々3分40秒間隔、双方合わせると1分50秒間隔運転を開始した際には、後続列車に進行信号を現示し停車時間を確保するために一部の駅のホーム中間に信号機を増設した<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/2369602|chapterurl={{NDLDC|2369602/4}}|title=信号保安|volume=8|issue=3|publisher=信号保安協会|date=1953-03|chapter=通勤時の混乱緩和対策 …1分50秒間隔運転…が生んだ ホーム中間の信号機|author=中西寛(国鉄東京鉄道管理局運転部列車課)|pages=3-5}}</ref>。モハ90形通勤電車においては、高加速度にて駅から早く発車し運転時隔を縮めようとしたが、電力設備が追いつかず、旧形国電とさほど変わらぬ加速度に落ち着いたが、運転時分を短縮するにはホーム中間に信号機を設ける方法は効果的なことから、京浜東北線と山手線が分離運転を始めた1956年11月19日以降も大部分の駅にホーム中間信号機を設置したが、それ以外にも信号機をこれまでの赤・黄・緑の3灯現示以外に25 km/h以下での進行を指示する警戒信号(黄 + 黄)や65 km/h以下で進む減速信号(黄 + 緑)などの多灯信号機を導入し駅手前に短い閉塞区間を設けるなどの措置を講じた<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/2369651|chapterurl={{NDLDC|2369651/12}}|title=信号保安|volume=12|issue=1|publisher=信号保安協会|date=1957-01|chapter=東京縦貫電車線の運転設備概況」|author=山口進治(国鉄東京鉄道管理局運転部列車課)|pages=10-16}}</ref>。


ホーム中間信号機が設置してある線区での運転時隔は、列車最後部がホーム中間の信号機を通過するまでの走行時間が重要となり、その場合は4.0 km/h/sの高加速度でも2.0 km/h/sの加速度でも運転時隔に差がないことが判明した。ホーム中間に信号機がある場合、後続列車への影響は駅を出た列車の最後尾がホームを出た先にある出発信号機を通過する時間ではなく、ホーム中間の信号機を通過するまでの時間が重要となり、ホーム中間の信号機は列車停止位置の最後尾から100 [[メートル|m]]以下であるため、列車の起動加速度を究極まで高めても効果が低いためだ。運転時分の算定にはブレーキ初速度やホーム中間の信号機の位置、列車の長さなど、いくつかのパラメータを与えれば求まる計算式があり、それらを様々な条件を当てはめてシミュレートした結果、起動加速度2.0 km/h/s・減速度2.5 km/h/s程度、ブレーキ初速度60 km/h程度、ホーム中間の信号機を設けていることが適していることがわかった<ref>藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 理論編』日本鉄道図書、1964年12月25日、pp.495 - 499。</ref>。これらのことから、新形通勤電車の設計にあたっては、起動時の電流量が多くなり電力設備に負荷をかける加速度を高めるのではなく、加速度は低く2.0 km/h/s程度に抑え、ブレーキ減速度を3.5 km/h/sと高めにとることにした<ref>久保田博(国鉄工作局車両課補佐)「103系通勤形電車誕生のいきさつ」『電車』1963年1月号、交友社、pp.27 - 34。</ref>。
MT55形電動機は、
* 主として8両の運転を想定し、MT比1:1程度
* 駅間距離が短く平均速度が比較的低い路線
において制約無く運転できるような設計となっている。


なお、場内信号機の建植位置は、運転保安設備基準規程<ref group="注">第46条第1項第3号</ref>により駅の列車停止位置より150 m以上外方と決められているが、表の路線は特例としてホーム中央などに場内信号機を設置した。1961年(昭和36年)当時の山手線品川 - 新宿 - 田端間でホーム中間に信号機が設置されていたのは一部の駅だけであった<ref>「昭和36年 山手線品川 - 田端路線図」『鉄道ピクトリアル鉄道青春時代-国電 (I)』2011年2月別冊、電気車研究会、巻末資料。</ref>が、1974年までに全駅でホーム中間に信号機の整備が完了<ref>東京南鉄道管理局『山手線線路図』日本国有鉄道、1974年2月。</ref>している。
また、投入予定線区で8両運転をすることを前提にして当時の主電動機を用いて[[シミュレーション]]を行った結果、MT55形は新形通勤電車用として最大の目標だった低消費電力を達成できただけでなく、駆動時の発熱に余裕があるため将来のスピードアップにも耐えうること、1[[集電装置|パンタグラフ]]あたりの集電電流が小さいので[[架線]]の温度上昇も防げること、などの利点が認められ、以後の通勤電車の主電動機として大いに採用されることになった。


==== 主電動機の設計 ====
なお回生ブレーキの採用は、製造時のコストがのちのランニングコストの低減をはるかに上回る試算になったため見送られている<ref name="kubota" />。
101系が中央線など駅間距離が長い路線でないと使えない電車になってしまったのは、オール電動車で設計されていたものをモーターの付いていない車両を編成中に増やしたことによるモーターの過負荷が原因である。特に通勤線区は駅間距離が短い路線が多いため、101系電車で運転しようとすると、モーター車の比率を高めるか限流値を下げて運転速度を落とすしかなかった。これは、101系に用いられているMT46Aという主電動機の熱容量が小さかったからである。熱容量にはモーターの絶縁材が大きく関わっており、MT46Aの温度上昇限度は電機子が特別B種の120度まで、界磁がH種で150度までの制約があり、電流を流した時に発生する熱は電流の二乗に比例するため、大きな電流を流して加速度を高めると電動機の大きな過熱を招いて絶縁材の寿命が短くなる。温度が8度上がるだけで絶縁材の寿命が半減するという「8度半減則」という法則<ref>川添雄司(国鉄車両設計事務所)「3・2 定格と温度上昇」『交流電気車両要論』1971年12月1日、電気車研究会、pp.62 - 87。</ref>もあり、許容温度以上の負荷使用は、特別な場合を除き避けなければならなかった。


[[二乗平均平方根|RMS]]電流は求める線区の運転曲線から列車の電流量を計算により求める手法<ref>河合肇(国鉄運転局客貨車課)「新しい電車運転理論 運転線図の描き方とR.M.S.電流の計算について (1)」『電車』1960年10月号、交友社、pp.34 - 41。</ref>である。その列車が実際に運転を行った後は、主電動機の温度が上昇するが、これを最初から一定の電流を流して同様な温度上昇になる数値を計算により求めることともいえる。よって、その列車が運転曲線通りに運転できるかどうかは、RMS電流を計算して主電動機の連続定格電流以下か、一時間定格電流の80 [[パーセント|%]]以下の電流値であることが求められる。ちなみに、基準運転時分作成のための速度定数業務では速度定数査定基準規程(昭和39年12月10日)によって様々な条件が課せられるが、主電動機の温度制限に関する第33条の内容は下記の通り。
===== 電動機に関する101系との比較 =====
8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年10月の山手線10両編成化の際には6M4TとなるためMT比が3:2となった。これについてはただ単純に編成出力だけを見れば101系2,400kWに対し103系2,640kWと大きく、{{要出典範囲|同条件下での101系10両編成 (6M4T) に比して変電所負担が過大になるという見方もあり|date=2010年4月}}、「10両ならば103系は不要で101系でいい」<ref>「鉄道ファン訪問 -みたり きいたり はなしたり- 斎藤雅男氏」、『鉄道ファン Vol.9 No.96 1969年6月号』、交友社、1969年、P.34</ref>という意見も存在した。


* 第33条 主電動機の温度は、次の各号に揚げる場合、その温度上昇の許容限度内にあるとみなす。
ただし、実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、加速度が低い101系は103系の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならない問題がある。同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線における101系と103系6M4T同士の試算では、運転時分を同等とするには103系で限流値415Aに対し101系では480Aとなる<ref>101系は限流値を480Aとして63分、103系は限流値を415Aとして62分50秒の基準運転時分である。鉄道ファン2006年4月号。</ref>。同試算によると101系に比べ103系の方が変電所設備や年間電力消費量を低減できるとされており、上記の意見は必ずしも正確ではない。
*# 運転線図における加速区間の平均加速電流及びその他区間の電流が1時間定格以内の場合
*# 運転全区間のR.M.S電流(平均二乗平方根電流)が1時間定格の80 %以内の場合
*# 運転線図に基づいて温度上昇を計算した結果が許容限度内にある場合


限流値を一時間定格電流以下に設定して運転する旧形国電と違い、MT46以降の電車用主電動機は電流の過負荷に対する耐性が一時間定格電流の160 %までで設計されており、起動電流を大きく取って加速度を高めると、モーターが過負荷運転になる場合もあった。そこで[[1959年]](昭和34年)の秋頃から、主電動機の温度上昇限度をオーバーせずに運転線図を作成し運転計画を立てることが当然となり、RMS電流計算により推定する<ref>河合肇(国鉄運転局客貨車課)「新しい電車運転理論 運転線図の描き方とR.M.S.電流の計算について (5)」『電車』1961年3月号、交友社、pp.48 - 52。</ref>ことが基本となった。
また101系電車のみならずMT46Aを用いた形式は主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)が概ね不足しており、山手線の如く加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足らない<ref>大城康世・川添雄司:「こんごの通勤電車」JREA1961年6月号、P.14 - P.17</ref>との試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系はオール電動車でも問題点があるとされている<ref>もっとも熱容量不足は電動機の通電時間を短くすれば改善できることから、山手線に101系が4M3T編成で入線した際は電気ブレーキをカットする・限流値を低く取る・力行時間を短くするなどの対応で熱容量不足を補ったが、これらの方法は加速が落ちたりして運転時分が伸びる原因となり、当時同線で運用されていた旧形国電以上の遅れが生じた。</ref>。<!-- 6M4Tとすることは、山手線に101系が4M3Tで入った当時のような方法を取らなければ熱容量的には不足する。(表現はっきりしない)-->


前述のように、101系をモデルチェンジした新型車両では回生ブレーキの採用や出力の増強が見送られ、運転時隔や架線への影響、消費電力量などの経済性なども含めて通勤用途に適した主電動機を新たに設計することになった。消費電力量や起動電流の面からは定格速度を低く取る方が良いが、低く取りすぎると力行率が増して回復運転余力がなくなるほか、高速運転のために極端に界磁を弱める必要が出たり、電気ブレーキ使用時に過電圧になる問題があった<ref>岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所)「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、交友社、pp.35 - 44。</ref>。これらを勘案し、標準形通勤電車用としてMT55形主電動機を開発した。回生ブレーキの採用は定期的に発生する維持費用の低減をはるかに上回る試算になったため見送られた<ref name="kubota"/>。
さらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300%にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える103系は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことが出来るメリットがある。


103系通勤電車用としては、端子電圧375 [[ボルト (単位)|V]]のMT55が設計された。想定される速度域や消費電力量などを考慮し、全界磁定格回転数は1,250 [[rpm (単位)|rpm]]で103系に搭載した場合の定格速度は33.5 [[キロメートル毎時|km/h]]という中速形の電動機となった。
そもそもMT比1:1で設計したものをMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年京浜東北線に103系10両編成で投入する際に、運転局で長短所について検討しているが省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認<ref>小林喜幹:「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」電車1965年6月号、P.13 - P.19</ref>している。また、同じ6M4Tでも101系より103系の方が加速度が高いことも長所である。


==== 切迫した電力供給事情 ====
==== 本系列の投入先 ====
新型通勤電車の概要がまとまると、どの線区に投入するかが焦点となった。[[1962年]](昭和37年)6月頃には本系列を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされた。
中央線の101系は全電動車方式で投入されたが変電所などの能力が追いつかず、[[限流値]]を480[[アンペア]] (A) から350Aに下げて運転した。6M4T運転になり、限流値を420Aまで戻すことができたが、M車比率が高い場合は電力事情以外にも架線の温度上昇などの問題も発生しており、架線容量の増強も併せて行う必要があった。


1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300 Aでの運転を想定しており、限流値を350 A → 480 Aにするための変電所増強計画が提案・検討された。変電所増強時点で、本系列4M4Tで限流値415 Aの場合、101系6M2Tの限流値480 Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことが可能と判断されたため、本系列の山手線投入を早急に決定しなければ、不要な変電所増強を行うことになる。このため1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新型通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて本系列は山手線に投入し、101系を総武緩行線に転用することが決定された。
そのような苦労もあり、[[1961年]](昭和36年)[[春]]に[[首都圏]]での次の101系投入先は、変電所能力が他線に比べて大きかった山手線に決定される。その山手線ですら電力事情から限流値を300Aに設定しなければならない他、主電動機の温度上昇を抑えるため、電気ブレーキも未使用にしなければならず、山手線一周は旧性能車よりも時間を要する結果となった。
101系による新性能化を進めるためには、変電・送電設備などの増強をセットにする必要があり多大な費用がかかること、線区ごとに限流値などの細かな設定が必要になるため、'''経済的で運転に関して制約のない通勤車'''への要望が高まってゆく。


1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われた。電動車比率が上がったことから限流値は300 Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたが、変電所増強が完了するまで、新性能化がされながらも旧性能車並に制約を受けざるを得なかったのが、当時の首都圏電力事情である。
==== 103系の投入先 ====
新形通勤電車の概要がまとまってくると、103系をどの線区に投入するかが焦点となった。[[1962年]](昭和37年)[[6月]]ごろには103系を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされている。1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、さらに限流値を350A, 480Aにできるような変電所増強が計画されていた。


=== 量産 ===
しかし1962年秋の変電所増強時点で、103系4M4Tで限流値415Aの場合、101系6M2Tの限流値480Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことができた。そのため、103系山手線投入を早急に決めなければ、不要な変電所増強を行うことになるため、1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて103系電車は山手線に、山手線で使用中の101系は総武緩行線に転用することが決定された。
[[1963年]](昭和38年)3月25日先行[[プロトタイプ#鉄道車両|試作車]]1編成が落成し、9か月に渡る[[試運転]]を繰り返した後、[[12月28日]]より営業運転に入った。試運転では問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。[[1964年]](昭和39年)5月より量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度で202両が製造された。捻出された101系(カナリアイエロー)は中央・総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で運用された。


103系は1964年以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、1970 - 1980年代([[昭和40年代|昭和40]] - [[昭和50年代|50年代]])の[[首都圏 (日本)|首都圏]]や[[近畿地方|近畿圏]]など[[日本]]の[[都市圏]]通勤輸送を支えた。JR化後は3500両近い103系がJRに承継されたが運用線区の変更や置き換えなどが行われた。
1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われたが、電動車比率が上がったことから限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。このように、変電所の増強が完了するまで、新性能化がなされていながらも旧性能車なみの運転速度に甘んじなければならなかったのが当時の首都圏の電力事情であった。


==== 試運転 ====
=== 製造名目 ===
103系は大量に生産されたが、何の目的で製造されたかという製造名目がある。年度計については早期債務や1次債務での発注は年度初めに投入される部分であるが、1960年代前年度末までに入っていたことがあり、それに従い、年度末までに投入された予算は年度をまたいでも前年度で計上しているものもある。
[[1963年]](昭和38年)[[3月25日]]先行[[プロトタイプ#鉄道車両|試作車]]1編成が落成し、9か月にわたる[[試運転]]を繰り返した後、12月28日より営業運転に入った。試運転ではいくつかの問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。


{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:left; font-size:80%; margin:0em 0em 1em 2em; width:80em;"
=== 量産 ===
|-
[[1964年]](昭和39年)以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより、日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、[[昭和40年代|昭和40]] - [[昭和50年代|50年代]]([[1970年代|1970]] - [[1980年代]])の[[東京都|東京]]や[[大阪府|大阪]]など[[日本]]の[[都市圏|大都市圏]]の通勤輸送を支えた。
!colspan="7"|年度ごと製造両数と製造名目<ref>大熊孝夫(元国鉄)「究極の標準形通勤電車103系」『鉄道ファン』2006年5月号、交友社、pp.66 - 82。</ref>
|-
!style="width:7em;"|年度||年度計||累計||製造予算||製造数||製造名目||投入先
|-
|[[1962年]]<br/>(昭和37年)||style="text-align:right"|8両||style="text-align:right"|8両||昭和37年度本予算||style="text-align:right"|8両||103系試作車新製||山手線
|-
| rowspan="5" | [[1964年]]<br/>(昭和39年)||rowspan="5" style="text-align:right"|202両||rowspan="5" style="text-align:right"|210両||昭和38年度第3次債務||style="text-align:right"|16両||総武線新性能化用||山手線
|-
|昭和38年度第4次債務|| style="text-align:right"| 40両||総武線新性能化用||山手線
|-
|昭和39年度民有||style="text-align:right"|16両||総武線新性能化用||山手線
|-
|昭和39年度第2次民有||style="text-align:right"|112両||総武線新性能化用||山手線
|-
|昭和39年度早期債務||style="text-align:right"|18両||総武線新性能化用||山手線
|-
| rowspan="3" | [[1965年]]<br/>(昭和40年)||rowspan="3" style="text-align:right"|350両||rowspan="3" style="text-align:right"|560両||昭和39年度第3次債務||style="text-align:right"|90両||総武線新性能化用||山手線
|-
|昭和40年度民有||style="text-align:right"|136両||京浜東北線新性能化用||京浜東北線
|-
|昭和40年度第2次民有||style="text-align:right"|124両||京浜東北線新性能化用||京浜東北線
|-
| rowspan="4" | [[1966年]]<br/>(昭和41年)||rowspan="4" style="text-align:right"|445両||rowspan="4" style="text-align:right"|1005両||昭和40年度早期債務||style="text-align:right"|42両||京浜東北線新性能化用||京浜東北線
|-
|昭和40年度第2次債務||style="text-align:right"|108両||京浜東北線新性能化および10両化用・<br/>総武線新性能化用||京浜東北、山手線
|-
|昭和41年度本予算||style="text-align:right"|100両||京浜東北線新性能化および10両化用||京浜東北線
|-
|昭和41年度第1次債務||style="text-align:right"|195両||京浜東北線新性能化用・<br/>赤羽線新性能化用・<br/>長野原線電化用||京浜東北、山手線
|-
| rowspan="2" | [[1967年]]<br/>(昭和42年)||rowspan="2" style="text-align:right"|158両||rowspan="2" style="text-align:right"|1163両||昭和42年度本予算||style="text-align:right"|48両||総武線新性能化用||山手線
|-
|昭和42年度本予算追加||style="text-align:right"|110両||常磐線新性能化用(御殿場線・内房線木更津電化用)||常磐線
|-
| rowspan="2" | [[1968年]]<br/>(昭和43年)||rowspan="2" style="text-align:right"|158両||rowspan="2" style="text-align:right"|1321両||昭和42年度第3次債務||style="text-align:right"|64両||山手線10両化用・<br/>阪和線新性能化用||山手、阪和線
|-
|昭和43年度第1次債務||style="text-align:right"|94両||総武線新性能化用||山手線
|-
| rowspan="2" | [[1969年]]<br/>(昭和44年)||rowspan="2" style="text-align:right"|117両||rowspan="2" style="text-align:right"|1438両||昭和43年度第5次債務||style="text-align:right"|49両||東海道山陽線新性能化用||東海道山陽線
|-
|昭和44年度本予算追加||style="text-align:right"|68両||大阪環状線増発用・<br/>東海道山陽線新性能化用||大阪環状、東海道山陽線
|-
| rowspan="4" | [[1970年]]<br/>(昭和45年)||rowspan="4" style="text-align:right"|179両||rowspan="4" style="text-align:right"|1617両||昭和44年度第2次債務||style="text-align:right"|22両||山手線10両化用||山手線
|-
|昭和44年度第3次債務||style="text-align:right"|10両||根岸線洋光台延長用||京浜東北線
|-
|昭和44年度第4次債務||style="text-align:right"|87両||呉線電化用・<br/>吾妻線大前、地下鉄東西線西船橋、常磐緩行線開業用||常磐、山手、総武、常磐線
|-
|昭和45年度民有||style="text-align:right"|60両||常磐緩行線開業用||常磐線
|-
| rowspan="2" | [[1971年]]<br/>(昭和46年)||rowspan="2" style="text-align:right"|85両||rowspan="2" style="text-align:right"|1702両||昭和45年度第1次債務||style="text-align:right"|60両||常磐緩行線開業用||常磐線
|-
|昭和46年度本予算||style="text-align:right"|25両||東海道山陽線新性能化用||東海道山陽線
|-
| rowspan="3" | [[1972年]]<br/>(昭和47年)||rowspan="3" style="text-align:right"|293両||rowspan="3" style="text-align:right"|1995両||昭和46年度第1次債務||style="text-align:right"|93両||常磐緩行線開業用||常磐線
|-
|昭和46年度第3次債務||style="text-align:right"|44両||東西線津田沼乗入用・<br/>常磐線10両化用||総武、常磐線
|-
|昭和47年度民有||style="text-align:right"|156両||武蔵野線、根岸線大船開業用・<br/>京浜東北線増結増発用・<br/>山手線増発用||中央、山手線
|-
| rowspan="3" | [[1973年]]<br/>(昭和48年)||rowspan="3" style="text-align:right"|257両||rowspan="3" style="text-align:right"|2252両||昭和48年度民有||style="text-align:right"|92両||関西線電化用・<br/>大阪環状線輸送力増強用||大阪環状線
|-
|昭和47年度第3次債務||style="text-align:right"|10両||我孫子線電化用||山手線
|-
|昭和48年度第3次民有||style="text-align:right"|155両||東海道山陽線、横浜線、阪和線新性能化||山手、中央線
|-
|[[1974年]]<br/>(昭和49年)||style="text-align:right"|60両||style="text-align:right"|2312両||昭和48年度第2次債務||style="text-align:right"|60両||横浜線新性能化用||京浜東北線
|-
| rowspan="3" | [[1975年]]<br/>(昭和50年)||rowspan="3" style="text-align:right"|175両||rowspan="3" style="text-align:right"|2487両||昭和49年度第1次債務||style="text-align:right"|80両||東海道山陽線新性能化用||東海道山陽、山手線
|-
|昭和49年度第3次債務||style="text-align:right"|40両||南武線新性能化用・<br/>大阪環状線輸送力増強用||京浜東北、大阪環状線
|-
|昭和50年度本予算||style="text-align:right"|55両||片町線、阪和線新性能化用・<br/>武蔵野線延長用||京浜東北、大阪環状線
|-
| rowspan="3" | [[1976年]]<br/>(昭和51年)||rowspan="3" style="text-align:right"|233両||rowspan="3" style="text-align:right"|2720両||昭和50年度第1次債務||style="text-align:right"|45両||片町線新性能化用||京浜東北、大阪環状線
|-
|昭和50年度第3次債務||style="text-align:right"|112両||阪和線、青梅五日市線新性能化・武蔵野線延長用||京浜東北、大阪環状線
|-
|昭和51年度本予算||style="text-align:right"|76両||阪和線、中央西線新性能化・武蔵野線延長用||京浜東北線
|-
| rowspan="2" | [[1977年]]<br/>(昭和52年)||rowspan="2" style="text-align:right"|191両||rowspan="2" style="text-align:right"|2911両||昭和51年度第1次債務||style="text-align:right"|181両||南武線、青梅五日市線新性能化||京浜東北、山手線
|-
|昭和52年度本予算||style="text-align:right"|10両||成田線増発用||京浜東北、山手線
|-
| rowspan="3" | [[1978年]]<br/>(昭和53年)||rowspan="3" style="text-align:right"|155両||rowspan="3" style="text-align:right"|3066両||昭和52年度第1次債務||style="text-align:right"|38両||紀勢線電化用・<br/>東西線増発用||京浜東北、総武線
|-
|昭和52年度第2次債務||style="text-align:right"|21両||東海道山陽線、中央西線輸送力増強||京浜東北、山手、東海道山陽線
|-
|昭和53年度本予算||style="text-align:right"|96両||101系取替用・<br/>仙石線新性能化用||山手、中央、総武線
|-
| rowspan="3" | [[1979年]]<br/>(昭和54年)||rowspan="3" style="text-align:right"|183両||rowspan="3" style="text-align:right"|3249両||昭和53年度第1次債務||style="text-align:right"|52両||101系取替用・<br/>仙石線新性能化用||京浜東北、山手、総武線
|-
|昭和53年度第2次債務||style="text-align:right"|91両||横浜線新性能化用・<br/>片町線輸送力増強用||京浜東北、山手、総武、片町、大阪環状線
|-
|昭和53年度第3次債務||style="text-align:right"|40両||鶴見線新性能化用||総武線
|-
| rowspan="3" | [[1980年]]<br/>(昭和55年)||rowspan="3" style="text-align:right"|130両||rowspan="3" style="text-align:right"|3379両||昭和54年度第2次債務||style="text-align:right"|94両||101系取替用・<br/>阪和線、横浜線、武蔵野線輸送力増強用||中央、阪和、京浜東北、片町、大阪環状線
|-
|昭和54年度第3次債務||style="text-align:right"|18両||福知山線電化用||福知山線
|-
|昭和55年度本予算||style="text-align:right"|18両||福知山線電化用||福知山線
|-
| rowspan="2" | [[1982年]]<br/>(昭和57年)||rowspan="2" style="text-align:right"|54両||rowspan="2" style="text-align:right"|3433両||昭和56年度第1次債務||style="text-align:right"|12両||筑肥線電化用||筑肥線
|-
|昭和56年度第3次債務||style="text-align:right"|42両||筑肥線電化用||筑肥線
|-
| rowspan="2" | [[1983年]]<br/>(昭和58年)||rowspan="2" style="text-align:right"|14両||rowspan="2" style="text-align:right"|3447両||昭和57年度第3次債務||style="text-align:right"|10両||赤羽線10両化用||赤羽線
|-
|昭和57年度第4次債務||style="text-align:right"|4両||山手線増発用||山手線
|-
|}


==== 最初の投入先 ====
== 構造 ==
特記のない場合、0番台の量産車についての解説としている。
1964年(昭和39年)5月より103系の量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度だけで202両が製造された。山手線に使われていた101系(カナリア色)は当初の予定どおり総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で使用された。


=== 車体 ===
==== 駅間距離の長い線区への進出 ====
車体は101系をベースに片側両開き4扉、普通鋼が採用されたが変更点がある。製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車で相違が大きい。屋根コンタは肩部から順に250R・1,000R・2,500R・5,000R(1500番台を除く){{sfn|鉄道ピクトリアル国鉄形車両ライブラリー105系電車|2018|p=7}}。
増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも103系が使われ始めることになる。1962年の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い[[常磐線]](平均速度52.8Km/h)と[[京阪神緩行線]](同56.7Km/h)も含まれていたが、103系の仕様決定に関しては、上述のとおりこれらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離 (1.34km) や平均速度が参考にされている。常磐線や東海道山陽線など比較的駅間距離が長い路線向けには主電動機の界磁をMT46Aの40%からさらに弱めた35%にするなどの措置が必要としており、MT55が35%まで界磁を弱めているのは、これら駅間距離の長い路線に対応するためでもある。


車内の床は101系では[[リノリウム]]([[コルク]]材を使用)が貼られていたが、リノリウムを塗り固めた構造では修繕作業に手間がかかることから、103系では床面痛み対策として床鋼板の上に床仕上げ剤を装着した簡易な構造に変更された<ref name="rp200404_p11" /><ref group="注">101系は後年、関西地区の水害で床材の芯に入っている[[コルク]]が吸水膨張し修理不能となり大量廃車を出したが、103系の構造ではこうした不具合は生じない。</ref>。遮音性・遮熱性は損なわれた一方で、101系とは異なりA基準を満たした構造となった。床の厚みが薄いことから台枠底面の高さが上昇したが、床面高さは101系と同じに揃えられたため、後年に登場した101系改造編入車などとの連結時は、車体裾の高さが不揃いとなった<ref name="rp201801_p11" />。
もとより当時の多くの路線の最高速度は95km/hであり、80km/hを超える高速域では101系より加速力が高いため特に大きな問題にはなっていない。しかし、快速電車から逃げ切るために高加速高速の通勤電車を求めていた大阪鉄道管理局に対しては1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、関西支社として103系で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。この詳細は[[京阪神緩行線#新形通勤電車構想]]のとおりであるが、[[大阪鉄道管理局|大鉄局]]では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく、既存形式(101系や103系を指す)でも使えるとの認識を示している。


運転台窓は101系と同じく非貫通の3枚分割窓であるが、101系より幅が広くなり、高さが上下に小さくなっている<ref name="rp201801_p11">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、11頁。</ref>。これは運転中の乗務員に対する[[軌道 (鉄道)|軌道]]の流れによる圧迫感を防ぐための配慮である。夏季の通気性向上のため、運転台下部正面中央にも[[ベンチレーター|外気導入口]]が追加された。正面[[方向幕|行先表示器]]の寸法も横方向に拡大された<ref name="rp201801_p14" />。
また、いくら35%まで界磁を弱めて高速特性を高めたとは言え、定格速度は30km/h台でもあることから、平均駅間距離が2km台の京浜東北線<ref>検討時の平均駅間距離は、赤羽-蒲田間の値で、京浜東北線全体では2km台となる</ref>に[[1965年]](昭和40年)に投入する際、[[ノッチオフ]]の速度が上がったことから、103系の歯車比を1:5.6にすることや、[[国鉄MT54形主電動機|MT54形]]により中速以上の特性を高めた通勤電車の可能性を模索した。しかし、いずれも現状の103系に比べ、特に電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間においても現状どおり103系電車の方が経済性が高く、無理に高速タイプにする必要は無いとの結論を得た。


主電動機および[[電動発電機]]の[[エアインテーク|冷却風取入口]]は電動車の車体外側幕板部に設置し、[[戸袋]]を利用して車体下部へ導く新方式が採用された<ref name="毛呂2012_p47" />。モーター付き車両の側面には主電動機などの回転機の冷却風の取込用として風取り入れ口を設けた<ref name="densya196301-okada">岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所)「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、交友社、pp.35 - 44。</ref>。
これらの調査結果を受け、[[1967年]](昭和42年)末から常磐線に103系が投入される際にも、特に大きな設計変更は考えられなかったが、このころ、メンテナンスフリーの[[ディスクブレーキ]]付き[[国鉄DT21形台車|TR212形台車]]が開発されていたので、ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、常磐線投入車から、このディスクブレーキ付き台車を用いることになった<ref>ブレーキ初速度が高い常磐線向けにこの台車を作ったのではなく、メンテナンスフリー・経済性の高い台車として、たまたまこの時期に開発が終わっただけで、そのデビューが常磐線への投入と重なっただけである。</ref>。


側面の客用扉は、101系と同様の幅1,300 mmの両開き扉が片側に4箇所配置された<ref name="rp201801_p14">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、14頁。</ref>。両開き式客用扉の[[自動ドア|ドアエンジン]]機構が変更され、[[西武建設]](→[[西武所沢車両工場]])が[[西武451系電車|西武鉄道451系]]電車向けに開発した両開き扉の連動開閉機構「ST式戸閉装置」が導入された<ref name="毛呂2012_p46" />。1基のドアエンジン(TK4形)とドア上鴨居に仕込まれた連動ベルトで構成され、低費用で簡略ながら作動の確実性も高い開閉機構となっている。
==== 運転速度向上による問題点 ====
駅間距離の長い区間や快速運用([[阪和線|阪和線快速]]や[[中央線快速|中央線特快運用]]など)での運転が増えると、様々な問題点が発生することになる。京阪神緩行線に投入された3年後の[[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、[[電気ブレーキ]]がオフになり、故障と紛らわしいため運転士から苦情が多く、さらに保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えるなどの問題が出ることがわかった。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧[[継電器]]を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため、一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が講じられた<ref>交友社「電車」[[1973年]](昭和48年)[[7月]]号に[[明石電車区|明石区]]と[[吹田工場]]の担当者の記事があり。</ref>。


後期に増備された先頭車では、視認性向上のため従来の低運転台から高運転台に変更された。地下鉄直通用の1000番台・1200番台では、前面に非常用の貫通扉が設置された。1500番台では従来の103系と異なる車体となり、基本形態は[[国鉄201系電車|201系]]に、前面スタイルは[[国鉄105系電車|105系]]に準じたものとなった。
== 構造 ==
=== 車体 ===
車体構造は[[国鉄101系電車#車体|101系に準じて]]おり、普通鋼が採用された。そのため、外観は前面以外において101系とほとんど差が無いが、床下機器が大きく変わっている。また、製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車ではかなりの相違となっている。


=== 走行装置 ===
=== 乗務員室 ===
[[ファイル:JNR Tc103-235cab.jpg|thumb|200px|クハ103-235 運転台]]
{{vertical images list
[[操縦席|運転台]]の機器配置は、[[人間工学]]を取り入れたユニット式となった<ref name="毛呂2012_p46" />。メーター類は視認性を重視した配置となり、[[マスターコントローラー|マスコン]]・ブレーキハンドル・[[運転士]]座席は操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられた。扱いやすさの観点から、多用するスイッチ類は制御卓に集約された。
|1=JNR 103 series EMU 008 W.JPG
|2=DT33形台車(JR西日本車)
|3=JNR 103 series EMU 007 W.JPG
|4=TR212形台車(JR西日本車)
}}


=== 主要装置 ===
MT比(電動車と[[付随車]]の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、[[電動機|主電動機]]を、低[[回転速度|回転数]]域の[[トルク]]特性を重視して[[定格]]回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計の[[国鉄MT55形主電動機|MT55形]](1時間定格出力110kW, 375V, 330A, 1350rpm(85%界磁))とし、85%界磁での定格速度を36.5km/hに設定して電力消費量を抑えた経済車である。加速度は4M4Tで2.0(6M4Tでは2.3)km/h/sとなるように設定されていた<ref>1000・1200・1500番台を除く</ref>。また101系と同様中空軸[[平行カルダン駆動]]方式である。
==== 主電動機 ====
主電動機は、1時間定格出力110 kWのMT55形である<ref name="rp201801_p15">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、15頁。</ref>。MT比(電動車と[[付随車]]の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、主電動機を低[[回転速度|回転数]]域[[トルク]]特性を重視して[[定格]]回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計とした。原設計は日立製作所が担当<ref>「電車モーターを設計していたころ (PDF)」 、『わだち』第130号、鉄道友の会福井支部、2010年5月。</ref>。MT55は直径が大きいため、電動台車の車輪径は旧型電車並みの910 mmと大きくなっている<ref name="rp200404_p12" />。


高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で最大限弱めることとし、弱め界磁率を35 [[パーセント|%]]と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時におけるRMS電流を1時間定格の80 %、回復余力を10 %と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、主電動機出力は110 kWとした<ref name="dendoki-1968">『新性能電車用主電動機』1968年10月、国鉄車両設計事務所</ref>。定格速度は36.5 km/hとなり、定格回転数は1,350 rpmとなった。これは定格速度が低く、実際では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85 %界磁上においてバランスをとっている<ref>井上等(国鉄臨時車両設計事務所)「今後の電車用新形主電動機」『電車』1962年7月号、交友社、pp.36 - 43。</ref>。また最大許容端子電圧をMT54などの750 Vではなく900 Vまでにしたことで、電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。
103系試作車用としては、[[国鉄DT21形台車|DT21形]]の派生形式で、[[国鉄791系電車|クモヤ791形]]用のDT26の[[枕ばね]]をコイルばねに戻したDT26Cが試作された。このDT26Cの量産形式が[[国鉄DT21形台車#派生形式|DT33]]で、主電動機のMT55がMT46系と比して磁気容量確保や低定格回転数化のため大直径化したのに合わせ、電動車の[[輪軸 (鉄道車両)|車輪]]径は通常の860mmより大きい910mm、電動車の台車の[[ホイールベース|軸間距離]]は通常の2100mmより長い2300mmとされた。[[歯車比]]は15:91=1:6.07とされたが、これは860mmの車輪径に換算すると1:5.73に相当する。また、[[制輪子|ブレーキシュー]]は片押し式となった。TR201はTR62をベースに片押し式ブレーキシューとしたTR62Xを量産化したもので、軸距と車輪径はTR62と変わりがない。 TR212はこれを再度[[ディスクブレーキ]]化したものである。


製造年度により初期型のMT55、中期型で[[ISO]]ネジ採用のMT55A、冷却ファン構造が強化された後期型MT55Aの計3種類が存在しており、いずれも同一機能で完全互換性がある。後期型MT55AはMT55、前期型MT55Aと走行時の音が異なる。
=== 101系からの変更点 ===

[[ファイル:Tc103-235cab.JPG|thumb|240px|103系の運転台(JR東日本車)]]
* '''MT55形の主要諸元'''
* 車内床の[[コルク]]材の使用をやめ、床の厚みが薄くなり、台枠底面の高さがやや上昇した。
** 1時間定格出力 = 110 kW / 375 V / 330 A / 1350 rpm(85 %界磁)<ref group="注">回転数は全界磁時1250 rpm、35 %界磁時2370 rpm。最高回転数4400 rpm。</ref>
* パンタグラフは、高圧引通線の短縮化などを目的に、M'車ではなく、M車(クモハ103形、モハ103形)に設置した。
** 85 %界磁定格速度 = 36.5 km/h<ref group="注">全界磁時33.5 km/h、35 %界磁時64.0 km/h。</ref>
* 運転中の乗務員に対する[[軌道 (鉄道)|軌道]]の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小した。
** 加速度 = 4M4T時2.0(6M4T時2.3)km/h/s<ref group="注">1000・1200・1500番台を除く。</ref>
* [[操縦席|運転台]]機器は、視認性を重視したメーター類の配置、操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられた[[マスターコントローラー|マスコン]]とブレーキハンドル、扱いやすさの点から制御卓にまとめられたスイッチ類、疲労軽減を図った[[運転士]]座席など[[人間工学]]を駆使したものに改められた。

* 運転台下部正面中央にも[[ベンチレーター|外気導入口]]を追加した。
==== 台車・駆動装置 ====
* 主[[電動機]]および[[電動発電機]][[インテーク|冷却風取入口]]は、電動車の車体外側幕板部に設置し、[[戸袋]]を利用して車体下部へ導く新方式を採用した。
台車はコスト低減のため、枕ばねにコイルばねが採用された<ref name="rp200404_p11">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、11頁。</ref>。電動台車は主電動機のMT55形が大直径化したのに合わせ、[[輪軸 (鉄道車両)|車輪]]径は通常の860 mmより大きい910 mm、[[ホイールベース]]は通常の2100 mmより長い2300 mmとなった<ref name="毛呂2012_p47" />。
* 正面[[行先表示器]]を拡大した。

* 電動[[圧縮機|空気圧縮機]]を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約した。電動発電機は主[[抵抗器]]冷却[[送風機]]兼用形とはせずに独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'(モハ102形)に搭載した。
試作車では電動台車はDT26C形が、付随台車はTR62X形が搭載された<ref name="rp201801_p15" />。電動台車DT26C形は[[国鉄791系電車|クモヤ791形]]用のDT26形の[[枕ばね]]をコイルばねに変更したもので<ref name="毛呂2012_p47" />、[[国鉄DT21形台車|DT21形]]の派生形式である。付随台車のTR62X形は、クハ111形等で用いられるTR62形の[[制輪子|ブレーキシュー]]を片押し式踏面ブレーキに変更したものである<ref name="毛呂2012_p47" />。
* [[自動ドア|ドアエンジン]]を変更し、1台のドアエンジン(TK4形)と連動ベルトで構成される、[[西武建設]]<!--西武鉄道 ← 所沢車両工場が西武鉄道の所有になるのは1973年からで、この当時は西武建設の所有である-->所沢工場が[[西武451系電車]]用として開発したST式戸閉装置を採用した。

量産車では電動台車にDT33形が、付随台車にTR201形が搭載された<ref name="rp201801_p17">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、17頁。</ref>。DT33形はDT26C形の、TR201形はTR62X形の量産化形式である。付随台車は量産の途中でTR201形のブレーキを再度ディスクブレーキ化したTR212形に変更された。

駆動方式は101系と同様の[[中空軸平行カルダン駆動方式]]である<ref name="rp200404_p12">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、12頁。</ref>。[[歯車比]]は低速性能に重点を置くため、101系の15:84=5.60に対して103系では15:91=1:6.07とされた<ref name="rp200404_p12" />。860 mmの車輪径で換算すると、1:5.73に相当する。

<gallery widths="200px" heights="65px">
ファイル:JNR 103 series EMU 008 W.JPG|DT33形台車(JR西日本車)
ファイル:JNR 103 series EMU 007 W.JPG|TR212形台車(JR西日本車)
</gallery>

==== ブレーキ ====
ブレーキ装置は101系と同様、[[発電ブレーキ]]を併用する[[電磁直通ブレーキ]]のSELDが採用された<ref name="rp201801_p16">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、16頁。</ref>。電動[[圧縮機|空気圧縮機]]は、従来の国鉄新性能電車の標準型だったMH80-C1000に代わり容量を拡大したMH113-C2000Mが採用され<ref name="rp201801_p15" />、搭載車両はM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約された。

山手線の103系が40 km/hから50 km/hの間で電気ブレーキを掛けた場合に前後衝動が激しく、乗客にけが人が出ることもあった。そこで運転士が2段ブレーキを用いて対策を講じたが、ブレーキ距離などの問題があった。原因究明の結果、103系のMT55は電気ブレーキの立ち上がり時に急激に電流が流れることで大きなブレーキが発生していたことがわかった。対策後、ブレーキ時の衝動は少なくなった<ref>石塚健次郎(東京鉄道管理局池袋電車区検査掛)ほか4名「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、電気車研究会、pp.13 - 17。</ref>。

==== その他機器 ====
電動発電機は101系の主[[抵抗器]]冷却[[送風機]]兼用形から独立させ、車体側面の給気口から冷却風を散り入れる構造に変更された<ref name="毛呂2012_p47" />。地下形を除く初期非冷房車は、[[国鉄115系電車|115系]]や[[国鉄165系電車|165系]]でも用いられた容量20 [[キロボルトアンペア|kVA]]のMH97-DM61がM'車(モハ102形)に搭載された<ref name="rp201801_p15" />。

パンタグラフは、高圧引通線の短縮化などを目的にM車(クモハ103形・モハ103形)に搭載された。形式は101系後期車と同じPS16形である<ref name="rp201801_p15" />。

=== 性能 ===
103系は国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、主に比較的駅間が短く運転速度の低い線区で使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の[[界磁]]を35 [[パーセント|%]]まで弱めて高速特性を近郊形電車の[[国鉄113系電車|111系]]並に設定<ref>『電車・気動車加速力曲線』1966年、国鉄運転局</ref>している。設計当時多くの路線で最高速度が95 [[キロメートル毎時|km/h]]であったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などにも投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造<ref>田川憲司ほか(JR西日本宮原電車区) 「103系電車の力行性能改善」『電気車の科学』1990年8月号、電気車研究会、pp.49 - 58。</ref>を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策<ref name="denkisya197306">手槌康博ほか(国鉄明石電車区車両検査掛) 「103系電車ブレーキ時における過電圧防止対策」『電気車の科学』1973年6月号、電気車研究会、pp.41 - 44。</ref>などを施した車両も存在した。

なお、最初の投入先が[[山手線]]であったことから'''駅間距離が短い山手線専用形式'''と言われたこと<ref>曽根悟(東京大学教授) 「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、電気車研究会、pp.20 - 23他多数。</ref>もあったが、当時の関係者によって完全に否定{{Sfn|久保田博|福原俊一|2003}}されている。最高速度は100 [[キロメートル毎時|km/h]]となっているが、MT比1:1では90 km/hを超えると加速余力は少なく95 km/h程度である<ref>佐藤芳彦(元国鉄車両設計事務所補佐)「全国に広まった通勤電車-103系」『通勤電車テクノロジー』山海堂、2005年、pp.67 - 75。</ref>。


== 形式 ==
== 形式 ==
本系列は電動車に[[電動車#MM'ユニット方式|MM'ユニット方式]]を採用しており、モハまたはクモハ103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は慣例に準じて記述する。車両の方向は[[東海道本線]]基準で[[奇数向き]]は東京寄り、[[偶数向き]]は神戸寄りを表す。
写真は[[#車両塗装]]の節も参照。
本系列は電動車に[[電動車#MM'ユニット方式|MM'ユニット方式]]を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。なお、車両の方向は[[東海道本線]]基準で[[奇数向き]]は東京より、[[偶数向き]]は神戸よりを表す。


'''クモハ103形 (Mc) '''
; クモハ103形 (Mc)
: モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む[[制御車|制御]][[動力車|電動車]]で、パンタグラフや主制御器など主回路を構成する機器群を中心に搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期に限られた。103系は編成の半数以上が電動車でなければならないことから、3両または5両を組成する場合にはこの形式が必要となる(製造初年度:1965年)。
: モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む[[制御車|制御]][[動力車|電動車]]で、パンタグラフや主制御器など主回路を構成する機器群を搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期の1965年(昭和40年)から1968年(昭和43年)の3年間に限られた。3両5両を組成する場合にはこの形式が必要となる<ref group="注">ただし、1987年昭和62年)からの[[常磐快速線]]での15両編成運転開始から2000年頃までは、増結用付属5両編成の一部に2M3T(下り寄りからTcMM'TTc)の編成があり、[[成田線]]で単独運行されたこともある。</ref>
; クモハ102形 (Mc')
: モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機(MG)MH97-DM61や空気圧縮機(CP)MH113-C2000Mなどの機器を搭載する。偶数向き専用。国鉄は車種が増えることを避けたために[[1970年]]から製造された1200番台5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形から改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となった。
; モハ103形 (M)
: クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様にパンタグラフと主制御器を搭載する。
; モハ102形 (M')
: クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に電動発電機(MG)MH97-DM61と空気圧縮機(CP)MH113-C2000Mを搭載する。
; クハ103形 (Tc)
: 制御車。75 - 91および線区の事情で方向転換した車両を除く0・900・1000・1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。クモハ103形と同時に製造された500番台は偶数向き専用で、101系ではクハ100形に相当する。
; サハ103形 (T)
: 運転台のない付随車で量産化開始の1964年から製造された。


== 新造車 ==
'''クモハ102形 (Mc') '''
103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番により仕様の判別が可能である。
: モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機など、補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。国鉄は車種が増えることを嫌ったため、1200番台の5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性から、JR化後に一部のモハ102形がこれに改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となっている(製造初年度:[[1970年]](昭和45年))。


=== 試作車 ===
'''モハ103形 (M) '''
1963年3月に[[プロトタイプ#鉄道車両|先行試作車]]として新造された車両で、山手線用に4両編成2本の8両が製造された<ref name="毛呂2012_p46">毛呂信昭『103系物語』46頁。</ref>。新製配置は[[池袋電車区]]である<ref name="rp200404_p10">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、10頁。</ref>。量産車との相違点を以下に示す。
: クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様に、パンタグラフと主制御器を搭載する(製造初年度:1962年)。


[[鉄道車両の台車|台車]]はコイルばね台車で、電動車がDT26C形、付随車がTR62X形を装着した<ref name="rp201801_p15" />。DT26C形は[[国鉄791系電車|クモヤ791形]]のDT26形が、TR62X形は近郊型[[国鉄113系電車|111系]]・修学旅行用[[国鉄155系電車|155系]]用のTR62形がベースとなっている<ref name="毛呂2012_p47">毛呂信昭『103系物語』47頁。</ref>。
'''モハ102形 (M') '''
: クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に、電動発電機と空気圧縮機を搭載する(製造初年度:1962年)。


ブレーキは、高速域は電動車の発電ブレーキのみで、低速域は付随車の空気ブレーキも付加する方式が採用された。空気圧縮機は101系のC1000形を大容量化したC2000形が試用されることとなり、モハ102-1には歯車直結式のMH113-C2000M、モハ102-2には電動機直結式のMH114-C2000Nがそれぞれ搭載された<ref name="rp201801_p15" />。ジャンパ連結器はKE58形2基(19芯×2)となった<ref name="rp201801_p16" />。
'''クハ103形 (Tc) '''
: 103系の制御車。75 - 91、および線区の事情で方向転換した車両を除く0番台、900番台、1000番台、1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される(製造初年度:1962年)。


車体塗装はウグイス色([[黄緑6号]])<ref name="毛呂2012_p45" />となり、車両番号はウグイス色の地に白文字とされた。
'''サハ103形 (T) '''
: 運転台のない付随車である(製造初年度:1964年)


103系試作車は1963年3月25日に落成後、[[東北本線]]で公式試運転が行われた<ref name="毛呂2012_p45">毛呂信昭『103系物語』45頁。</ref>。続いて[[東海道本線]]や山手線でも試運転が行われ、1963年12月より営業運転に投入された<ref name="rp200404_p13" />。
== 車種分類 ==

103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。
改良を加えた量産車が1964年に登場するのを前に、先行試作車は1からの番号を量産車に転用することとなり、1964年3月31日付で900番台に改番された<ref name="rp200404_p13">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、13頁。</ref>。1967年には量産化改造が行われている<ref name="毛呂2012_p47" />。


=== 0番台 ===
=== 0番台 ===
{{鉄道車両
{{鉄道車両
|車両名= 0番台
| 車両名 = 0番台
|色 = #000000
| 背景 = #000000
| 文字色 = #ffffff
|画像 = JNR EC Mc103-131.jpg
| 画像 = JNR EC Mc103-131.jpg
|pxl = 240px
|画像説明= 鶴見線で運用されていた初期車<br />(2004年8月28日 大川駅
| 画像説明 = クモハ103-131<br/>2004年8月28日 大川駅
| 運用者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[東日本旅客鉄道]]<br />[[東海旅客鉄道]]<br />[[西日本旅客鉄道]]
|unit = auto
|起動加速度= 2.0
| 起動加速度 = 2.0 km/h/s
| 常用減速度 =
|重量 = min - 25.8t(サハ103 1964年度車)<br/>max - 40.2t(モハ102 1974年度車)
| 非常減速度 =
|保安装置= [[自動列車停止装置|ATS-SW.P.Ps]]<br/>[[自動列車制御装置|ATC-6]](1974年以降製造の一部、すでに消滅)
| 自重 = 最小 - 25.8 t(サハ103 1964年度車)<br/>最大 - 40.2 t(モハ102 1974年度車)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-SW|ATS-SW]]<br>[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]<br>[[自動列車停止装置#ATS-Ps|ATS-Ps]]<br/>[[自動列車制御装置#ATC-6|ATC-6]](1974年以降製造の一部、すでに消滅)
| 備考 =
}}
}}
試作車での試験結果を経て、ブレーキの改良や台車等の設計変更を行った量産車として、0番台が1964年5月に登場した<ref name="rp201801_p16" />。
[[ファイル:JNR EC Tc103-6.jpg|thumb|200px|1964年 - 1967年製造車にあたる、クハ103-6]]
[[ファイル:JNR EC T103-279.jpg|thumb|200px|1967年 - 1970年製造車にあたる、サハ103-279]]
[[ファイル:L25_Tc103-178_680.jpg|thumb|200px|床下にMGがある試作冷房車のクハ103-178]]
[[ファイル:JNR EC Tc103-184.jpg|thumb|200px|1971年 - 1972年製造車にあたる、クハ103-184]]


1964年から1984年まで製造された、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。
1984年までに3184両が製造された、103系の基本形式である。長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年による区分である。


==== 1964年 - 1967年製造車 ====
==== 初期車 ====
最初の量産車グループである。山手線向を皮切に、順次首都圏各線区へ導入されたクモハ103-1 - 133, モハ103-1 - 159, モハ102-1 - 292, クハ103-1 - 114・501 - 616, サハ103-1 - 225がこれに該当し、試作編成に存在しなかった'''クモハ103形'''と'''サハ103形'''が追加されている。山手線に先行投入されてい試作車は、のちにこのグループに合わせた仕様に改造されている
1964年から1967年にかて製造されたクモハ103-1 - 133モハ103-1 - 159モハ102-1 - 292クハ103-1 - 114・501 - 616サハ103-1 - 225の計1039両が該当る。山手線向けを皮切り、首都圏各線区へ導入された。
1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」では、客用ドアが[[ステンレス鋼|ステンレス]]製になり、それ以前に製造された鋼製ドアの車両も一部を除いてステンレス製のものに交換されている。また、改造工場・時期によって窓の支持に[[Hゴム]]を使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用された車両も存在した。


山手線に先行投入されていた試作車では4両編成2本の8両編成を組んでいたが、量産車では8両貫通編成とされたため、新形式の'''サハ103形'''が追加された。京浜東北線向けは[[下十条電車区]]の検修線が8両分しか確保できないため、7両 + 3両の10両編成を組むこととなり、1965年に103系初の制御電動車として'''クモハ103形'''が投入された<ref name="rp201801_p17">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、17頁。</ref>。クモハ103形は奇数向き専用であり、編成で対となるクハは偶数向きに固定されていたため、1966年より偶数向き専用としてクハ103形500番台が登場している<ref name="rp201801_p20" />。
==== 1967年 - 1970年製造車 ====
上記に続いて製造された量産車グループである。[[1967年]](昭和42年)に「昭和42年度本予算追加車」として常磐線に、そして続く「昭和42年度第3次債務車」として阪和線に、と高速運転中心の路線への投入が開始され、103系の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループで、クモハ103-134 - 155, モハ103-160 - 278, モハ102-293 - 433, クハ103-115 - 177・617 - 638, サハ103-226 - 305がこれに該当する。クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、このグループで製造が打切られた。
高速運転対策として、クハとサハの[[鉄道車両の台車|付随台車]]がそれまでの踏面ブレーキ装備のTR201形から、ディスクブレーキ装備のTR212形に変更された。地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く[[1970年]](昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車、クモハ103-1 - 155)の[[前照灯]]は、101系と同じく250Wの[[白熱電球|白熱灯]]1灯装備で製造されたが、[[1975年]]に[[東京総合車両センター|大井工場]]で事故復旧工事を施工されたクハ103-544、同じく[[1977年]]に大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-4を始め、[[1979年]]からは本格的に[[シールドビーム]]2灯に改造されるようになった。[[2000年]](平成12年)[[11月6日]]に廃車された、京葉電車区のクハ103-562が、未改造のまま白熱灯で残された最後の車両であった。


車体は試作車とほぼ同様であるが、ウグイス色の地色に対する文字の表記が白から黒に変更された<ref name="rp201801_p17" />。引き通し線は試作車が101系と同じKE58形2本であったものを、量産車ではKE70形1本に変更された<ref name="rp201801_p17" />。
==== 試作冷房車(1970年製造) ====
[[1959年]](昭和34年)の[[名鉄5500系電車]]を皮切りに、[[私鉄]]において[[冷房]]を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、私鉄とのサービス格差の改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入されたグループである。冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作[[エア・コンディショナー|冷房装置]]が取付けられ、冷房電源用のMGは別途、編成両端のクハ103形に210kVAのものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電とした。


台車は試作車の実績を踏まえた改良が行われ、電動台車がDT33に、付随台車がTR201にそれぞれ変更された<ref name="rp201801_p17" />。ブレーキは試作車では発電ブレーキ優先の構造であったが、ブレーキ距離が長くなり空転も頻発したため、101系と同じく発電ブレーキ・空気ブレーキを併用する方式に変更された<ref name="毛呂2012_p50">毛呂信昭『103系物語』50頁。</ref>。空気圧縮機は試作車で試用された2種類のうち、歯車直結式のMH113-C2000Mに統一された<ref name="rp201801_p17" />。
編成は、クハ103-179-モハ103-279-モハ102-434(以上[[三菱電機]]製「AU75X形」搭載)-サハ103-306-モハ103-280-モハ102-435-サハ103-307(以上[[日立製作所]]製「AU74X形」搭載)-モハ103-281-モハ102-436-クハ103-178(以上[[東芝]]製「AU73X形」搭載)となった<ref>番号は従来車の続番である。</ref>。


[[前照灯]]は、101系と同じく250 [[ワット|W]]の[[白熱電球|白熱灯]]1灯が装備された。白熱灯は[[1970年]](昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車・クモハ103-1 - 155)に採用されている。
これらは同じ冷房装置を搭載する車両でも各車で送風ダクトの本数、室内通風口の位置といった風道構造や[[扇風機]]の有無などの差が付けられていた。なお、冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」 (eXperimental) を意味するサフィクスである。


1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」から、客用ドアが[[ステンレス鋼|ステンレス]]製に変更されており、それ以前に製造された鋼製ドア車もステンレス製のものに交換されたが、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用車両も存在している。
AU73X形とAU74X形は1つの冷房装置の内部に3つの小型ユニットクーラーを集約し、AU75X形は1つの冷房装置の内部に2つの大型ユニットクーラーを集約するという構造の相違があり、1ユニット故障時の[[冷凍能力|冷却能力]]低下が少ないという点では前2者の方が有利であったが、製造・保守コストの点ではAU75X形の方が有利であった。のちに東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を製作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定され、AU75X形を基本に冷房装置と扇風機を併用した[[AU75]]系として翌年以降これら3社の手で量産が開始された。このグループは冷房搭載の他、客室窓が製造工数低減と気密性向上のため、外ハメ式のユニット窓に変更され、運転席下の[[ベンチレーター|通風口]]が省略されていた点も特徴である。また、103系としては最後の白熱灯式前照灯を採用したグループでもある。本グループは試験の終了後、[[1978年]](昭和53年)に量産冷房車と同じ仕様に改造された。


<gallery>
本グループから客室座席が人間工学に配慮した新型になり、背もたれの角度が増大するとともに、座面も低く奥行きのあるものに変更された。あわせて座席下にある客室[[暖房|ヒーター]]とその設置方法も改良され、従来7人掛け中央に1基のみ設置されていたものが、U字型の取り付け幅の広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置する形に変更され、暖房放射面積の増大と暖房能力の強化が行われた。
ファイル:1986-kumoha103-127.JPG|クモハ103-127
ファイル:1986-moha103-82.JPG|モハ103-82
ファイル:1986-moha102-273.JPG|モハ102-273
ファイル:JNR Tc103-6.jpg|クハ103-6
ファイル:1986-saha103-25.JPG|サハ103-25
</gallery>


==== ディスクブレーキ採用車 ====
当初は上記の編成として[[池袋運転区|池袋電車区]]に配置されていたが、山手線の[[自動列車制御装置|ATC]]化に伴う転配により、[[1979年]](昭和54年)以降は各車がばらばらに転属を繰返すようになった。[[2000年]](平成12年)[[4月3日]]に、当時[[習志野運輸区|習志野電車区]]に配置されていた4両より廃車が始まり、[[2005年]](平成17年)[[11月22日]]に当時[[京葉車両センター|京葉電車区]]に配置されていたサハ103-307をもって全車廃車となった。
上記に続いて1967年から1970年にかけて製造された量産車グループで、クモハ103-134 - 155・モハ103-160 - 278・モハ102-293 - 433・クハ103-115 - 177・617 - 638・サハ103-226 - 305の計447両が該当する。


[[1967年]](昭和42年)の「昭和42年度本予算追加車」では高速運転を行う常磐線に初投入されており、高速域からのブレーキ対策として付随車の[[鉄道車両の台車|台車]]が[[ディスクブレーキ]]装備のTR212形に変更されている<ref name="rp201801_p19">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、19頁。</ref>。続く「昭和42年度第3次債務車」は阪和線に投入され、関西初の103系となった。
==== 1971年 - 1972年製造車 ====

発注の時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループで、モハ103-282 - 330, モハ102-437 - 486, クハ103-180 - 212, サハ103-308 - 323がこれに該当する。客室窓がユニットサッシに、先頭車の前照灯が新造時から1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯にそれぞれ変更されており、また主制御器がCS20A形からCS20D形に改良されるなど、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が見られることから、俗に「1次改良車<ref>これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。</ref>」とも言われる。冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口は復活した。
1967年11月にはバーニヤ制御の試作車として電動車ユニット3組6両が投入され、910番台に区分された<ref name="rp201801_p20">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、20頁。</ref>。
冷房化に際してはグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されてはおらず、軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する<ref>JR西日本に継承された車両のうち、JR化後にWAU102形で冷房改造された車両については、側面の電動方向幕の取り付けが行われていない。</ref>。冷房改造時に通風口は埋込まれており、現存車両はすべて後述の[[1973年]](昭和48年)製造車と同一の前面形状となっている。

京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が[[明石電車区]]に新製配置されており、特に先頭車はクハ103-188が[[松戸車両センター|松戸電車区]]に新製配置された以外はすべて関西に配属・JR西日本に承継されたのも特徴である。
クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、本グループで製造が打切られた。

<gallery>
ファイル:1986-kuha103-149.JPG|クハ103-149
ファイル:JNR EC T103-279.jpg|サハ103-279
</gallery>
{{-}}
{{-}}


==== 1973年製造車 ====
==== 試作冷房車 ====
[[ファイル:L25_Tc103-178_680.jpg|thumb|200px|クハ103-178<br/>試作冷房車<br/>床下にMGを搭載]]
[[1968年]](昭和43年)に京王帝都電鉄(現在の[[京王電鉄]])が[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系・5100系電車]]増備車に[[エア・コンディショナー|冷房]]を装備したのを皮切りに、[[私鉄]]において冷房を取付けたロングシート車両が登場した<ref group="注">通勤型電車というカテゴリーでは、それ以前の[[1959年]](昭和34年)に[[名古屋鉄道]][[名鉄5500系電車|5500系電車]]が冷房を装備して登場しているが、クロスシート車両であり登場当初優等列車に優先的に使用されていたことには注意する必要がある。</ref>のに呼応し、私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して10両編成1本が山手線に試験投入された<ref name="JRMA1970-5">交通労働研究所『鉄道工場』1970年5月号「通勤車両の冷房」pp.8 - 11。</ref><ref name="rp200404_p18">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、18頁。</ref>。

[[国鉄113系電車|113系]]では既存の非冷房車に試作の冷房装置が改造搭載されたが、103系の試作冷房車は113系と異なり新製車の投入となった<ref name="rp201801_p21">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、21頁。</ref>。

{| class="wikitable" summary="山手線編成表" style="text-align:center; font-size:90%;"
|+ 試作車冷房編成<ref group="注">番号は従来車の続番。</ref>
| style="background:#ccc;" |&nbsp;
| colspan="10" |{{TrainDirection|渋谷・新宿・池袋|上野・東京・品川|(大崎駅基準)}}
|- style="border-top:solid 5px #7bab4f;"
!style="width:8em;"|車両番号
|style="width:4em;"|クハ103-179
|style="width:4em;"|モハ103-279
|style="width:4em;"|モハ102-434
|style="width:4em;"|サハ103-306
|style="width:4em;"|モハ103-280
|style="width:4em;"|モハ102-435
|style="width:4em;"|サハ103-307
|style="width:4em;"|モハ103-281
|style="width:4em;"|モハ102-436
|style="width:4em;"|クハ103-178
|-
!冷房装置<br/>製造会社
|colspan="3"|AU75X形<br/>[[三菱電機]]
|colspan="4"|AU74X形<br/>[[日立製作所]]
|colspan="3"|AU73X形<br/>[[東芝|東京芝浦電気]]
|-
!扇風機
|あり
|なし
|colspan="2"| あり
|なし
|colspan="2"| あり
|なし
|colspan="2"| あり
|-
!風道構造
|2本
|colspan="2"| 1本
|2本
|colspan="2"| 1本
|2本
|colspan="2"| 1本
|2本
|}
冷房方式の比較・検討のために以下の仕様となった。

* 異なるメーカーの試作した3種の試作[[エア・コンディショナー|冷房装置]]([[集中式冷房装置|集中式]])を屋根上に搭載。AU73X<ref name="TOSHIBA1971-3">東京芝浦電気『東芝レビュー』1971年3月号特集「昭和45年の技術成果」pp.341 - 342。</ref>、AU74X<ref name="HITACHI1971-1">日立製作所『日立評論』1971年1月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1971/01/1971_01_05.pdf 昭和45年度における日立技術の成果]}}」p.60。</ref>、AU75X<ref name="MITSUBISHI-EL1971-1">三菱電機『三菱電機技報』1971年1月号「技術の進歩特集」 p.103。</ref>の3種類で、いずれも[[冷凍能力|容量]]は48.84 kW(42,000 [[冷凍能力|kcal/h]])である<ref name="rp201801_p21" />。
** 冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental) を意味するサフィクス(接尾辞、[[拡張子]])。
* 同じ冷房装置を搭載する車両でも、各車で送風ダクト本数(1本方式または2本方式)や室内通風口の位置といった風道構造、[[扇風機]]の有無などの差を付けた<ref name="JRMA1970-5"/>。
* 冷房電源用のMG は、通常のモハ102形搭載とは別途に編成両端のクハ103形に出力210 [[キロボルトアンペア|kVA]]のMH129-DM88(出力電圧:[[三相交流]]440V,60Hz)が1基ずつ搭載され、それぞれ5両給電とした<ref name="毛呂2012_p54" /><ref name="rp201801_p22" />。

冷房装置の本体構造には次の大きな相違点がある。
* AU73X形:AU74X形…冷房装置の内部に3基の凝縮器と圧縮機を内蔵<ref name="JRMA1970-5"/>
* AU75X形…冷房装置の内部に2基の大型凝縮器と圧縮機を内蔵<ref name="JRMA1970-5"/>
** 1ユニット故障時の[[冷凍能力|冷却能力]]低下が少ないという点では前2が有利であったが、製造・保守費用の点ではAU75X形の方が有利。

後に東京芝浦電気(東芝)と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を試作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定された<ref name="JRMA1971-6">交通労働研究所『鉄道工場』1971年6月号「通勤電車冷房装置の試験結果について」pp.30 - 31。</ref><ref name="MITSUBISHI-EL1972-1">三菱電機『三菱電機技報』1972年1月号「技術の進歩特集」 p.98。</ref>。試験の結果、天井ダクト本数は大きく関係しないことから1本ダクト方式を採用、また扇風機を併用することが効果的であると結論づけられた<ref name="JRMA1971-6"/>。翌1971年以降、冷房装置と扇風機を併用したAU75系としてこれら3社の手で量産が開始された。

このグループはクハ103形最後の白熱灯式前照灯採用車であるが、冷房搭載のほかに以下の設計変更が行われた。
* 客室窓を製造工数低減と気密性向上の観点から外ハメ式のユニット窓に変更<ref name="rp201801_p21" />、運転席下の[[ベンチレーター|通風口]]を省略。
* 客室座席を人間工学に配慮した新型に変更
** 座面低下・奥行きの延長・背もたれの角度も増大を実施
* 座席下の客室[[暖房|ヒーター]]とその設置方法を改良
** 暖房放射面積の増大と暖房能力の強化の観点から、従来7人掛け中央に1基設置→U字型の取付幅が広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置へ変更

当初は池袋電車区(現在の[[池袋運輸区]])に配置されていたが、[[1978年]](昭和53年)の冷房試験終了後に量産冷房車と同仕様に改造。その際に側面車端部への電動行先表示器の取り付けと前面の行先表示器の電動化も同時に施工された。[[1979年]](昭和54年)以降は山手線の[[自動列車制御装置|ATC]]化に伴う転配により、各車が転属を繰り返すようになった。

[[2000年]](平成12年)4月3日に習志野電車区(現在の[[習志野運輸区]])配置の4両より廃車が始まり、[[2005年]](平成17年)11月22日に[[京葉車両センター]]配置のサハ103-307をもって廃車となった。

==== 1次改良車 ====
[[ファイル:JNR Tc103-184.jpg|thumb|200px|クハ103-184<br/>1次改良車グループ]]
保守の省力化を図る改良が加えられたグループで、1972年2月に登場した<ref name="rp201801_p25" />。モハ103-282 - 330・モハ102-437 - 486・クハ103-180 - 212・サハ103-308 - 323の計148両が該当する。モハ102形がモハ103形より1両多いのは、1971年5月の[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#根岸線脱線事故|根岸線洋光台事故]]で廃車となったモハ102-169の補填としてモハ102-445が製造されたためである<ref name="毛呂2012_p57">毛呂信昭『103系物語』57頁。</ref>。

側窓は試作冷房車と同じユニット窓となり、前照灯は1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯となった<ref name="rp201801_p25">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、25頁。</ref>。主制御器は限流継電器の無接点化など保守の省力化を図ったCS20D形に変更された。冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口が復活している。

発注時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたが、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから「1次改良車」とも呼ばれる。なお、これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。

冷房化はグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されず、分割民営化後に軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する<ref group="注">JR西日本に継承された車両のうち、JR化後にWAU102形で冷房改造された車両については、側面の電動方向幕の取り付けが行われていない。</ref>。冷房改造時にクハ103形の前面通風口は埋込まれており、現存車両はすべて後述の[[1973年]](昭和48年)製造車と同一形状となった。

昭和46年度第3次債務車(モハ103-316以降、モハ102-472以降)では、103系1200番台の増備車とともに主電動機が[[国際標準化機構|ISO]]ネジ採用のMT55A形に変更された<ref name="rp201801_p26" />。

京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が[[明石電車区]](現・[[網干総合車両所]]明石支所)に新製配置されており、クハ103形は188が松戸電車区(現・[[松戸車両センター]])に新製配置された以外はすべて明石電車区の配置となった<ref name="rp201801_p28" />。{{-}}

==== 量産冷房車 ====
[[ファイル:JNR EC Tc103-239.jpg|thumb|200px|クハ103-239]]
[[ファイル:JNR EC Tc103-239.jpg|thumb|200px|クハ103-239]]
*前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載<ref>京浜東北線に配置されたモハ103-373 - 382・モハ102-529 - 538は、既存の非冷房車編成に組み込まれることから例外的に非冷房車として製造された。</ref>しされたグループで、モハ103-331 - 413・モハ102-487 - 569、クハ103-213 - 268、サハ103-324 - 359がこれに該当する
前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載して製造されたグループで、1973年に製造されたモハ103-331 - 413・モハ102-487 - 569・クハ103-213 - 268・サハ103-324 - 359の計258両が該当する。ただし、京浜東北線に配置されたモハ103-373 - 382・モハ102-529 - 538は、非冷房車編成に組み込まれることから非冷房車として製造された(後にAU75系冷房装置に冷房改
上述のとおり冷房装置としてはAU75系が採用されたが、これに電力を供給する電動発電機はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な大容量品 (160kVA) を搭載して、一括給電するように変更された。これは本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定されたものである。これに併せて、車体2・4位側<ref>東海道本線基準で山側</ref>にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。室内も座面拡張、[[蛍光灯]]の増設が行われ、居住性の改善が図られている。先頭車前面窓下の通風口は再び廃止された。主電動機も[[国際標準化機構|ISO]]ネジを採用したMT55A形に変更されている。
後位側面に電動[[行先表示器]]を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更した。また、これに併せて前面の行先表示器を電動化し、位置も若干変更している。この行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓が埋められている。客室内3位側妻窓上部には配電盤が設置され、その下の妻窓上段が固定化された。終着駅での折返しによる長時間停車を考慮し、冷暖房効果を損なわないよう、半閉回路<ref>各車両の両端2ヵ所の側引戸を閉、中央2ヵ所を開とする</ref>を新設した。
当初、山手線・[[中央線快速]]および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して、関東配属の先頭車の多くは1年足らずの間に[[1974年]](昭和49年)新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は[[高槻電車区]])に転属している。よって、「低運転台+新造時からシールドビーム」の形態の車両は関東地区では極めて少数派となった。中央線快速に残った先頭車は、のちに[[中央・総武緩行線]]に転用されて津田沼(→習志野)電車区に転属し、さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→[[宮城野電車区]])に転属した。
{{-}}


冷房装置はモハ103-410、モハ102-566、クハ103-266、サハ103-357まではAU75A形、以降はロールフィルター内蔵のAU75B形が採用された。
==== 1974年 - 1981年製造車 ====

[[ファイル:JNR EC Tc103-347.jpg|thumb|200px|クハ103-347]]
冷房用の電動発電機 (MG) は、試作冷房車と異なり制御・補助回路との兼用とした出力160 kVAのMH135-DM92がモハ102形に搭載され、自車を含め4両までの給電に対応した<ref name="rp201801_p26">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、26頁。</ref>。これは本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮したものである。これにあわせて、車体2・4位側<ref group="注">東海道本線基準で山側。</ref>にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。
[[ファイル:L25 Tc103-831 750.jpg|thumb|200px|乗務員室後部に戸袋窓がある非ATC高運転台のクハ103形(クハ103-831)]]

踏切事故対策や視認性向上のために先頭車が高運転台構造に変更され、窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯が設けられるなど、前面デザインが大きく変化したグループである。モハ103-414 - 786, モハ102-570 - 899・2001 - 2043, クハ103-269 - 499・701 - 844・846・848・850<ref>クハ103形とモハ102形の車番がそれぞれ701 - , 2001 - と途中から飛番号になっている。これは、それまでに製造されていた500・900・1000番台などとの干渉を防ぐための措置であり、飛番に伴う仕様変更はない。</ref>、サハ103-360 - 503がこれに該当する。このうち、クハ103-797・799 - 808・810 - 815・817 - 844・846・848・850がATC非装備で製造された。クハ・サハの製造はこの製造分をもって終了した。
居住性の改善目的で、座席の奥行きが550 mmに拡大された<ref name="rp201801_p27" />。また、[[蛍光灯]]の出入口部への増設が実施された<ref name="rp201801_p28" />。
山手線と京浜東北線のATC化のため、運転台後部にATC装置(ATC-6形)の設置スペースが設けられ、同部分の[[戸袋]]窓が廃止された。機構的には、運転台のブレーキ弁がME40A形からATC対応として非常抜き取り化されたME48形に変更されたのが特徴である。のちに中央線快速や[[福知山線]]などのATC非設置線区にも投入され、該当車両のうちクハ103形についてはATCの省略と戸袋窓の復活、旧式のME40形ブレーキ弁装備という5次車以前との折衷仕様で製造<ref>クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設置工事を施工、池袋電車区へ転属している。</ref>されている。

このグループ以降、[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#北陸線北陸トンネル列車火災事故|北陸トンネル列車火災事故]]の教訓を受けて火災対策が強化され、後述の1000番台などの地下鉄乗入車と同じ[[地下鉄等旅客車|A-A基準]]に準拠しているのも特徴である。これに伴い、妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。ただし、地下線の走行は考慮しないため、前面に[[貫通扉]]は設置されていない。1973年製造車で設置が開始された半閉回路は、有効に使われないまま本グループの途中(クハ103-317他以降)から廃止されている。
後位側面に電動[[方向幕|行先表示器]]が設置され、前面の行先表示器も電動式となった<ref name="rp201801_p27">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、27頁。</ref>。前面幕は位置若干変更が実施され、側面幕下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更された。クハ103形の前面通風口は冷房化により再び廃止された。

行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓は廃止された<ref name="rp201801_p26" />。客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、その下の妻窓上段が固定化された<ref name="rp201801_p26" />。

[[中央快速線]]の[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]など、終着駅での折返しによる長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設し、各車両の両端2か所の側引戸を閉、中央2か所を開とする事が可能となった<ref name="rp201801_p26" />。しかし、営業運転での実際の使用例はなかったとされる<ref name="rp201801_p26" />。

京浜東北線に投入された非冷房車は、MGも従来の20 kVAのものであり、側面の行先表示器も省略された<ref name="rp201801_p28" />。

当初、山手線・[[中央線快速]](主に[[特別快速]]で運用された)および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して関東配属の先頭車の多くは[[1974年]](昭和49年)に新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は[[高槻電車区]])に転属した。「低運転台 + 新造時からシールドビーム」形態のクハ103形は関東地区では極めて少数派となった。中央線快速残存車は、後に[[中央・総武緩行線]]に転用されて津田沼電車区に転属。さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→[[宮城野電車区]])に転属した。{{-}}

==== 高運転台ATC・非ATC車 ====
1974年から1981年にかけて増備されたモハ103-414 - 786・モハ102-570 - 899及び2001 - 2043・クハ103-269 - 499及び701 - 844・846・848・850・サハ103-360 - 503の計1268両が該当する。クハ103形は将来の山手線・京浜東北線のATC化に対応するとともに、運転環境向上のため高運転台が採用された。

増備の過程でクハ103形は車両番号が499に達したため、以降の増備車は500番台との重複を避けて701以降の飛び番が付与された<ref name="rp200404_p20">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、20頁。</ref>。モハ102形も同様に車両番号が899に達したため、以降は1000番台・1200番台との重複を避けて2001以降の飛び番が付与された<ref name="rp200404_p20" />。飛び番に伴う番台区分はない。

踏切事故対策や視認性向上のため、運転台部分は300 mm高い高運転台構造に変更され、正面窓の位置も高くなった<ref name="rp201801_p28">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、28頁。</ref>。正面窓下にはステンレスの飾り帯が設置され、デザイン上のアクセントとなった<ref name="毛呂2012_p60">毛呂信昭『103系物語』60頁。</ref>。窓下の面が間延びしないようにとの配慮も込められている。

ATC化のための準備として、運転台後部にATC装置(ATC-6)を搭載する機器室が設置され、乗務員室が客室側に600 mm食い込む形となった。この機器室の設置に伴い、同部分の[[戸袋]]窓は廃止された<ref name="rp201801_p29">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、29頁。</ref>。ブレーキ弁はME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更された。昭和52年度本予算車より、ATC装置を本格搭載して落成した<ref name="rp201801_p29" />。

クハ103形は奇数向き車と偶数向き車で別仕様とされており、ATC運転時は奇数・偶数の向きを固定して使用された<ref name="rp201801_p29" />。これはATCの信号波が上下線で異なるためである<ref name="毛呂2012_p60" />。

[[北陸トンネル火災事故]]の教訓を受けて火災対策が強化され、[[地下鉄等旅客車|A-A基準]]に準拠した。妻扉のガラスが網入りになり、[[消火器]]が増設された(1両につき2箇所に)。1977年後期製造車からは座席下の蹴込み板がステンレス製になるなど、車内の完全無塗装化が行われた。

1973年製造車で設置が開始された半閉回路は、使用時間帯の選定が困難とされたため、クハ103-317以降から廃止された<ref name="rp201801_p29" />。

後に中央快速線や[[福知山線]]などのATC非設置線区にも投入されることになり、対応するクハ103-797・799 - 808・810 - 815・817 - 844・846・848・850はATC関連非装備で製造され<ref group="注">クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設搭載工事を施工し、池袋電車区へ転属。</ref>、ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME40A形ブレーキ弁装備で落成した。

本グループの途中から主電動機MT55Aの自己冷却ファンの形状が変更されている。なおMT55とMT55Aのファンの相違による2種の計3種類とも完全互換性があり、全般検査の機会に台車の交換が行われた事から、製造年が古い車輌にMT55A後期型、新しい車輌にMT55が搭載されるなど多様な形態が見られた。なお自己冷却ファンは外扇型である。

なお、サハ103形は本グループをもって製造終了となった。
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ファイル:1992-4-29-moha103-520.jpg|モハ103-520
ファイル:1992-4-29-moha102-676.jpg|モハ102-676
ファイル:JNR EC Tc103-347.jpg|クハ103-347<br/>ATC準備車<br/>乗務員室直後戸袋窓なし
ファイル:L25 Tc103-831 750.jpg|クハ103-831<br/>非ATC準備車<br/>乗務員室直後戸袋窓あり
</gallery>
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==== 1983年 - 1984年製造車 ====
==== 最終増備車 ====
[[ファイル:JNR EC M102-2050.jpg|thumb|200px|モハ102-2050]]
[[ファイル:JNR M102-2050.jpg|thumb|200px|モハ102-2050]]
103系の最終増備車であり、モハ103-787 - 793・モハ102-2044 - 2050の計14両が該当する。103系の後継車として[[国鉄201系電車|201系]]の増備が開始されていたが、1984年の[[赤羽線]]の10両編成化と山手線の増発用として1983年 - 1984年に中間電動車ユニットのみが増備された<ref name="rp200404_p21">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、21頁。</ref>。
[[赤羽線]]の10連化および山手線輸送改善の件名で新製され、モハ103-787 - 793, モハ102-2044 - 2050の計14両がこれに該当する。これらの車両は、5ユニット(モハ103-787 - 791とモハ102-2044 - 2048)がカナリヤ色で[[埼京線]]開業前の赤羽線用として、2ユニットが(モハ103-792・793とモハ102-2049・2050)ウグイス色で[[国鉄205系電車|205系]]投入直前の山手線用として、それぞれ池袋電車区に配属された。

[[国鉄201系電車|201系]]の製造が開始されてからのリピートオーダーであったため、これに準じて以下の変更が実施された。
屋根はゴム布張り屋根から塗屋根へ変更され<ref name="rp200404_p21" />、クーラー・パンタグラフの横の[[ランボード]]は201系と同一形状に変更された。各窓支持Hゴムは、材質変更により白から黒に変更された<ref name="rp200404_p20" />。側扉開口部周囲は完全[[溶接]]化されている。冷房装置は部品にメーカー間の共通性を持たせた改良形のAU75E形に変更され<ref name="rp200404_p21" />、キセはステンレスとなった。
# 屋根のゴム布張りから塗屋根への変更

# クーラーとパンタグラフの横の[[ランボード]]の形状を201系と同一に
赤羽線の10連化および山手線輸送改善の件名で新製され、池袋電車区に配属された。
# 各窓支持ゴムを白[[Hゴム]]から黒Hゴムに
* モハ103-787 - 791 + モハ102-2044 - 2048の5ユニットがカナリア色で赤羽線用。
# 側扉開口部周囲を完全[[溶接]]化
* モハ103-792・793 + モハ102-2049・2050の2ユニットがウグイス色で山手線用。
その後カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、[[1985年]](昭和60年)[[9月]]末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため[[川越車両センター|川越電車区]]に転属し、そのまま埼京線で運用された。

JR化後205系の増備に伴い、[[1988年]](昭和63年)度に山手線用だった2ユニットが、[[1989年]]にモハ103-791・モハ102-2048を除く4ユニットがそれぞれ[[浦和電車区]]へ、[[1990年]](平成2年)にモハ103-791・モハ102-2048が[[豊田車両センター|豊田電車区]]へ転属した。[[1996年]](平成8年)[[3月]]の八高線の電化に伴い、浦和電車区に所属していたモハ103-790・モハ102-2047は[[1995年]](平成7年)[[12月]]に3500番台に改造され、古巣の川越電車区に戻った。1996年8月 - 9月に、3500番台に改造されたユニットを除く10両が豊田電車区へ転属となり、ここでそれを除く12両が揃ったが[[2002年]](平成14年)にモハ103-792・793とモハ102-2049・2050が廃車となった。この4両の稼働期間は、廃車前の休車期を除くと実質17年半であった。さらに[[2004年]](平成16年)に残った8両が京葉車両センターへと各区所への転配属を繰り返し、最後にJR東日本の103系全廃計画により[[2005年]](平成17年)、新造から21年で全車廃車された。
その後、カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、[[1985年]](昭和60年)9月末の[[埼京線]]開業による受持区所の変更のため川越電車区(現在の[[川越車両センター]])に転属し、そのまま埼京線で運用された。分割民営化時には全車JR東日本に承継されたが、2002年から2005年にかけて全車廃車され、特に1984年製造車は経年18年での廃車になった。


=== クハ103形500番台 ===
=== クハ103形500番台 ===
[[ファイル:JNR EC Tc103-580-2.jpg|thumb|200px|クハ103-580]]
[[ファイル:JNR EC Tc103-580-2.jpg|thumb|200px|クハ103-580]]
1965年に京浜東北線に103投入されることになったが、京浜東北線では当初基本編成と付属編成けて運転ていたことと、当時の[[両基地]]の構内有効長などの関係で3両+7両2両+6両分割編成とる必要があ。そこで新たに奇数向き制御電動車のクモハ103形が設計され、その反対側両渡り式の制御車クハ103形0番台が連結された。<ref>最初の17編成は500番台ではなく、0番台のクハ103が製造された</ref>しかし、クモハ103と対になるクハ103形は基本的に偶数向きに固定され方向転換す必要がないことから、クハ103形0番台を片渡りとし偶数向用とした500番台新製さた。なおクモハ103形と対をなすことから、製造ハ103形と同じく1968年までしか行わていない。0番台クハとの外見上の違いは、面[[ジャンパ]]納めの有無である。617以降では、台車がディスクブレーキのTR212に変更されている。
[[1965年]](昭和40年)に京浜東北線への本投入が開始されたが、当初基本編成と付属編成運転慮されていたことと、下十条電区と蒲田電車区は検修線が10両分無かったことから3両7両に編成を分割して使うこととなった。投入時は京浜東北線の10両設備が未完成であったことから2両 + 6両の8両編成で使用された。2両6両に分ける必要があ奇数向きの先頭車としてクモハ103形が設計され、反対側はクハ103形0番台が連結された。しかし、クモハ103と対になるクハ103形は向きが偶数向きに固定されることから、両渡り式のクハ103形0番台では、ジャンパ栓納めや床下の配線が一部省略できること、両栓のジャンパ連結器を片栓の物にでることで費を下げることがことから、[[1966年]](昭和41年)4月以降の10両編成対応の製造分から、偶数向きの片渡り式にしたクハ103形500番台に設計変更さクハ103形0番台との外見上の違いは、右下にあった[[ジャンパ連結器]]納めがない点である。クハ103-617以降台車がディスクブレーキのTR212に変更されている。また、陸前原ノ町区の車両の一部はジャンパ栓を片栓から両栓に改造している。{{-}}
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=== 試作 ===
=== 試作番台 ===
==== モハ103形・モハ102形・クハ103形900番台 ====
==== 900番台 ====
[[ファイル:JNR EC M103-902.jpg|thumb|200px|モハ103-902]]
[[ファイル:JNR M103-902.jpg|thumb|200px|モハ103-902]]
1963年に登場した先行試作車は当初は-1を称していたが、量産車登場前の1964年(昭和39年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された<ref name="rp200404_p21" />。車両番号の文字色も量産車と同じ黒文字となった。
1963年に[[プロトタイプ#鉄道車両|先行試作車]]として新造された車両で、山手線用に4両編成2本が製造された。当初は1 - を称していたが、量産車とは台車の構造が異なる(電動[[鉄道車両の台車|台車]] DT26C形 付随台車 TR62X形を採用)、引き通し線もジャンパ栓(19芯のKE58形×2本)も異なるため混結ができない、などの理由から、[[1964年]](昭和39年)[[3月31日]]付けで番号を900番台に変更して区別された。製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(以降の車両は黒文字)で書かれていた。引き通しや台車など量産車と異なる仕様については、[[1967年]](昭和42年)[[2月]]に量産車に合わせる改造が施された。晩年はクハが[[青梅線|青梅]]・[[五日市線]]、モハが埼京線に転じ、他の量産車と混用されていたが、老朽化により、最後まで冷房化されることなく[[1992年]](平成4年)までに全車廃車された。
* モハ103/モハ102-1・2→モハ103/モハ102-901・902
車番の対応は以下のとおり。
: ハ103/モハ102-1, 2→モハ103/モハ102-901, 902
* ハ103-1 - 4→クハ103-901 - 904
: クハ103-1 - 4→クハ103-901 - 904
** 上記改番のため、クハ103-1 - 4・モハ103/モハ102-1 - 2は「2代目」車両。

* 上記の改番のため、クハ103-1 - 4, モハ103/モハ102-1 - 2は「2代目」の車両である。
[[1967年]](昭和42年)2月に量産車化改造が施工された後は量産車と混用されたが、最終配置はクハ103形が豊田電車区で[[青梅線|青梅]]・[[五日市線]]、電動車ユニットが川越電車区で埼京線で、それぞれ老朽化により最後まで冷房化されることなく[[1992年]](平成4年)までに全車廃車となった。


==== モハ103形・モハ102形910番台 ====
==== モハ103形・モハ102形910番台 ====
[[空転]]防止観点から、1967年に制御段数を力行55段、ブレーキ51段と大幅に増やした[[バーニア制御#バーニア抵抗制御|超多段バーニア式制御]]器試作車として製造され車両である試作されたCS30形制御器搭載するモハ103-911 - 913と、これらとユニットを組むために引通線一部変更したモハ102-911 - 913の中間電動車のみ合計3ユニット6両が製造された。これらは品川電車区に配置され、山手線で試験に供されたが、その結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の[[#地下鉄対応車両|地下鉄乗り入れ用]][[#1000番台|1000番台]]に採用されたが、精密なバーニア機構は製造コストが高く、保守にも手間がかかることから、結局1000番台・[[#1200番台|1200番台]]に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された
加減速時に発生する[[空転]]防止する観点から、[[バーニア制御#バーニア抵抗制御|超多段バーニア式制御]]器を搭載した試作車として、1967年に910番台が登場し<ref name="rp200404_p21" />。制御器搭載モハ103-911 - 913とユニット間の引通線一部変更したモハ102-911 - 913の合計3ユニット6両が製造された<ref name="rp200404_p21" />


主制御器はCS30形で、制御段数は力行55段・ブレーキ51段と大幅に増加している(従来のCS20Cでは力行29段)<ref name="rp200404_p21" />。品川電車区に配置され、山手線で試験が行われた結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用された<ref name="rp200404_p22" />。精密なバーニア機構は製造費用が高く保守にも手間がかかることから、地下鉄直通用の1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。
山手線が10両運転を開始した後、910番台は1つの編成に集約されて使用されていたが、同線の[[国鉄205系電車|205系]]化により他線区に転出させる際、特殊な制御器を淘汰するため、転用改造が行われた。冷房改造され冷房用MGを搭載していたモハ102-911, 913以外の4両については電装解除のうえ、後述の[[#910番台転用関連|サハ103形800番台]]に改造された。また、このとき相方を失ったモハ102-911は[[浦和電車区]]に、モハ102-913が[[豊田車両センター|豊田電車区]]に転属となり、ほぼ同時期に保全工事を施工されていた両区のモハ103非冷房車(モハ103-107, モハ103-62)とユニットを組み直し、捻出されたモハ102-172, 62はサハ103形800番台に改造された。[[1994年]]にモハ102-913が、[[1995年]]にモハ102-911が廃車となり、区分番台消滅した。

山手線で910番台は1編成に集約の上で運用されていたが、同線の[[国鉄205系電車|205系]]化により他線区に転出させる際、特殊な制御器淘汰を名目に以下の転用改造が施工された。
* 冷房改造され160 [[キロボルトアンペア|kVA]]のMGを搭載していたモハ102-911・913以外の4両については電装解除のうえ、後述のサハ103形800番台に改造。
* モハ102-911は浦和電車区に転属、モハ103-107とユニットを組成。
* モハ102-913は豊田電車区に転属、モハ103-62とユニットを組成。
** 新ユニット組成車は、ほぼ同時期に保全工事を施工された非冷房車(後にAU712形で冷房化)。
** ユニットを組替で捻出されたモハ102-172・62はサハ103形800番台に改造。
[[1994年]]にモハ102-913が、[[1995年]]にモハ102-911が廃車となり区分番台消滅した。


=== 地下鉄対応車両 ===
=== 地下鉄対応車両 ===
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==== 1000番台 ====
==== 1000番台 ====
{{鉄道車両
{{鉄道車両
|車両名= 1000番台
| 車両名 = 1000番台
|色 = #000000
| 背景 = #000000
| 文字色 = #ffffff
|画像 = L25_103-1000_380.jpg
| 画像 = L25_103-1000_380.jpg
|pxl = 240px
|画像説明= 1000番台登場時の塗色(1985
| 画像説明 = 1000番台 登場時の塗色<br/>1985
| 運用者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[東日本旅客鉄道]]
|unit = auto
| 製造年 = 1970年 - 1971年
|起動加速度= 3.3
| 製造数 = 160両
|重量 = 29.1t(クハ103) - 37.2t(クモハ102)
| 引退 = 2004年
|保安装置= [[自動列車停止装置|ATS-B.P]]<br/>[[自動列車制御装置|ATC-4]](1000番台)
| 運用範囲 = [[常磐緩行線]]ほか
}}
| 起動加速度 = 3.3 km/h/s
[[ファイル:Jnr 103-1000.jpg|thumb|240px|right|常磐快速線転用後の1000番台。塗装はエメラルドグリーン単色塗りとなっている。(2003年4月7日)]]
| 自重 =
[[常磐緩行線]]・[[東京地下鉄千代田線|営団地下鉄千代田線]][[直通運転]]用として、[[1970年]](昭和45年)から10両編成16本160両が製造され、[[松戸車両センター|松戸電車区(現・松戸車両センター)]]に配置された。[[地下鉄等旅客車|A-A基準]]に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材が使用されているほか、主回路[[ヒューズ]]箱は屋上へ移され、先頭車前面に貫通扉が設けられているのが特徴である。千代田線用ATC機器を乗務員室直後の床上に搭載したため、その部分の戸袋窓は設けられていない。
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-B|ATS-B]]<br>[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]<br/>[[自動列車制御装置#ATC-4|ATC-4(CS-ATC)]]<br>[[自動列車制御装置#ATC-3|ATC-3(WS-ATC)]](三鷹電車区転属車のみ)
| 備考 =
|編成=16編成|軌間=1067mm|運用開始=1970年|減速度=3.2km/h/s}}
[[ファイル:Jnr 103-1000.jpg|thumb|200px|1000番台常磐快速線転用後<br/>2003年4月7日]]
常磐線の複々線化に伴い、[[常磐緩行線]]と[[帝都高速度交通営団]](営団、現・[[東京地下鉄]])[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の[[直通運転]]が[[1971年]]に開始されることとなった<ref name="rp201801_p22">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、22頁。</ref>。営団側では[[電機子チョッパ制御]]車の[[営団6000系電車|6000系]]が投入されたが、国鉄では地下線乗り入れ用に設計変更された103系が投入されることとなり、千代田線直通用として[[1970年]](昭和45年)に登場したのが103系1000番台である<ref name="rp201801_p23">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、23頁。</ref>。


10両編成16本160両が製造され、松戸電車区(現在の[[松戸車両センター]])に配置された。
営団から要求された加速性能を実現するため、編成中両先頭車以外の全車を電動車 (8M2T) としたうえでモーターの限流値を上げ、制御器は910番台の項で記述した改良型のバーニヤ制御器CS40を搭載している。乗入協定に従い、前照灯はシールドビーム2灯化され、前面窓下へは警戒の意味で太帯が配された<ref>帝都高速度交通営団『東京地下鉄道千代田線建設史』([[1983年]](昭和58年)刊)より<!--『営団地下鉄千代田線建設史』--></ref>。


[[地下鉄等旅客車|A-A基準]]に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材が使用された<ref name="rp200404_p21" />。クハ103形前面に非常用の貫通扉が設置され、前面窓ガラスは301系と同様の傾斜が付いたものとなった<ref name="rp201801_p25" />。乗入協定に従い、前照灯はシールドビーム2灯となった。千代田線用ATC-6機器を乗務員室直後の床上搭載としたため、乗務員扉後部の戸袋窓は廃止された<ref name="毛呂2012_p54">毛呂信昭『103系物語』54頁。</ref>。
塗装については[[灰色8号]]地に窓の上下に[[青緑1号]]の帯が入れられた。前面の運行番号表示窓上方と側面幕板部には[[青21号]]の国鉄マーク(JNRマーク)が掲げられた。登場から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。


塗装は[[灰色8号]]地に窓の上下に[[青緑1号]]の帯<ref name="rp201801_p23" />となり、前面窓下へは警戒の意味で太帯が配置された<ref>帝都高速度交通営団『東京地下鉄道千代田線建設史』([[1983年]](昭和58年)刊)より<!--『営団地下鉄千代田線建設史』--></ref>。前面運行番号表示窓上方と側面幕板部には、青21号の国鉄マーク(JNRマーク)が掲出された。
トンネル内での騒音防止の観点から、主抵抗器冷却には送風機を使用しない自然通風式が採用された。しかし、営団が新造した[[回生ブレーキ]]も使用可能な[[チョッパ制御]]の[[営団6000系電車|6000系]]より電力消費量が格段に多い<ref>そのため、両者の車両使用料に格差が生じた。</ref>ことや、抵抗器からの排熱によってトンネル内温度が上昇する(無論、[[プラットホーム|ホーム]]や車内の乗客にも熱風が浴びせられる)という問題が起こったことから、[[1984年]]<!--203系の第1編成は1982年製造であるが、これは増発用。-->から[[国鉄203系電車|203系]]への置換えが開始され、これは[[1986年]](昭和61年)[[3月]]までに完了した。詳細は[[常磐緩行線#複々線化の沿革と問題]]を参照。


主制御器は、910番台で試用されたCS30をベースとした改良型のバーニヤCS40形制御器が搭載された<ref name="rp201801_p24">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、24頁。</ref>。トンネル内での騒音防止の観点から、主抵抗器冷却には送風機を使用しない自然通風式が採用された<ref name="rp201801_p24" />。主回路[[ヒューズ]]箱は屋上へ移設された<ref name="毛呂2012_p54" />。
これにより捻出された車両のうち、56両は[[国鉄105系電車#改造車グループ|105系]]に改造され、[[奈良線]]・[[桜井線]]・[[和歌山線]]の電化開業用として[[奈良電車区]]、[[可部線]]の旧形電車置換用として[[広島運転所]]へ転属した。残った車両は地上線(常磐快速線・[[成田線]])に転用され、のちにATC機器を撤去し、青緑1号一色に塗色変更された。当初は、当グループのみで編成を組んでいたが、のちに地上形とも混結されるようになり、冷房装置も搭載された。1987年の国鉄分割民営化に際しては、残存全車(104両)がJR東日本に継承された。


地下鉄線内の33パーミルの急勾配で故障した際に別編成で救援可能な性能を確保するため、編成中両先頭車以外の全車を電動車化した8M2Tの編成となった<ref name="毛呂2012_p55">毛呂信昭『103系物語』55頁。</ref>。電動発電機は301系と同じく容量10 kVAのMH124-DM77が搭載された<ref name="rp201801_p24" />。
さらに、[[1990年]](平成2年)には10両編成1本が営団東西線用のATC-3形(色灯式信号用ATC)および[[デッドマン装置]]付マスコンハンドルを取付け、塗色変更を実施したうえで東西線乗入用([[三鷹車両センター|三鷹電車区]])に転用された。


落成から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。千代田線開通以後は長らく千代田線直通専用に充てられたが、営団が新造した[[回生ブレーキ]]が使用可能な電機子チョッパ制御車6000系より電力消費量が格段に多く、両者の車両使用料に格差が生じたことや、抵抗器からの排熱によってトンネル内温度が上昇する・[[オーバーヒート]]により車内の床が焦げ、[[プラットホーム|ホーム]]や車内の乗客にも熱風が浴びせられるという問題が発生した。これは、千代田線の駅間距離が比較的長く地下区間で高速走行を行い、特に単線シールドトンネル内での空気流動が少なく抵抗器の冷却が充分にできなかったのが理由である<ref group="注">後述する1200番台は東西線にシールドトンネルが少なく地上区間も多いことから、抵抗器の冷却についても問題なく、冷房取り付け改造も受けて2003年(平成15年)まで活躍している。</ref>。
廃車は[[2002年]](平成14年)からで、松戸区の車両は常磐快速線への[[JR東日本E231系電車|E231系0番台]]の投入によって[[2004年]](平成16年)[[3月]]までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台の投入によって[[2003年]](平成15年)[[5月30日]]に、それぞれ運行を終了し、全車廃車となった。

{{-}}
[[1984年]]から[[1986年]](昭和61年)3月までに[[国鉄203系電車|203系]]へ置き換えられ(詳細は[[常磐緩行線#複々線化の沿革と問題]]を参照)、捻出された本区分番台は以下の経過をたどった。

; 近畿・広島地区用105系への改造・転用
: 56両は[[国鉄105系電車|105系]]に改造され、[[奈良線]]・[[桜井線]]・[[和歌山線]]・[[紀勢本線]]和歌山 - 和歌山市間の電化開業用および[[可部線]]の旧形電車置換用として、[[奈良電車区]]および[[広島運転所]]へ転属。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時にはJR西日本に継承。
; 地上線(常磐快速線・[[成田線]])への転用
: 松戸区残存の104両は地上線(常磐快速線と成田線の我孫子 - 成田間)に転用され、ATC機器を撤去。青緑1号一色に塗色変更された。
: 後に地上用0番台とも混結されるようになり、冷房装置も搭載された<ref group="注">当初AU75系→AU712。</ref>。

[[1989年]](平成元年)には10両編成1本が営団[[東京メトロ東西線|東西線]]乗入用として三鷹電車区(現在の[[三鷹車両センター]])に転属し、営団東西線用ATC-3(色灯式信号用ATC)・[[デッドマン装置]]付マスコンハンドル化・塗色変更を施工した{{Refnest|group="注"|東西線乗り入れで運用された車両で唯一、AU75で冷房化改造が行われていた編成であった。}}<ref>転用時は黄色だったが、ほどなくして青色に変更された。</ref>。

廃車は[[2002年]](平成14年)からで、松戸区の車両は常磐快速線・成田線への[[JR東日本E231系電車|E231系0番台]]の投入によって[[2004年]](平成16年)3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台の投入によって[[2003年]](平成15年)5月30日に運用を終了し全車廃車となった。{{-}}


==== 1200番台 ====
==== 1200番台 ====
{{鉄道車両
{{鉄道車両
|車両名= 1200番台
| 車両名 = 1200番台
|色 = #000000
| 背景 = #000000
| 文字色 = #ffffff
|画像 = Jnr 103-1200.jpg
| 画像 = Jnr 103-1200.jpg
|pxl = 240px
|画像説明= 1200番台<br />(2003年5月25日 拝島駅構内)
| 画像説明 = 1200番台<br/>2003年5月25日
| 運用者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[東日本旅客鉄道]]
|unit = auto
| 製造年 = 1970年 - 1978年
|起動加速度= 3.3
| 製造数 = 35両
|重量 = 29.1t(クハ103) - 37.2t(クモハ102)
| 引退 = 2003年
|保安装置= [[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-B形]]・[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P形]]・[[自動列車制御装置#ATC-3型|ATC-3]]
| 運用範囲 = [[中央・総武緩行線]]ほか
| 起動加速度 = 3.3 km/h/s
| 常用減速度 =
| 非常減速度 =
| 自重 = 29.1 t(クハ103) - 37.2 t(クモハ102)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-B|ATS-B]]<br>[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]<br>[[自動列車制御装置#ATC-3|ATC-3(WS-ATC)]]
| 備考 =
}}
}}
[[ファイル:L25_Tc103-1201_680.jpg|thumb|240px|right|常磐快速線転のクハ103-1201(1993年2月1日 我孫子駅)]]
[[ファイル:L25_Tc103-1201_680.jpg|thumb|200px|クハ103-1201<br/>常磐快速線転<br/>1993年2月1日 我孫子]]
[[中央・総武緩行線]]・[[東京地下鉄東西線|営団地下鉄東西線]]直通運転用のグループで、[[国鉄301系電車|301系]]の増備車にあたる。国鉄の財政難により、地下鉄乗り入れ車の製造コスト低減のために登場した103系の区分番台である。301系と同じく、7両 (6M1T)成を基本としたため、地上形にはないモハ102形 (M'c) が起こされている。1970年に1本(7両)、[[1972年]](昭和47年)[[1978年]](昭和53年)にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。
[[中央・総武緩行線]]・営団東西線直通運転用のグループで、[[国鉄301系電車|301系]]の増備車にあたる。301系は製造費用が高く保守内容も異なるため、103系をベース東西線直通用の増備車とて製造されのが103系1200番台である<ref name="rp200404_p22">鉄道ピクトリアル集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピトリアル』2004年4月号、22頁。</ref><ref name="rp201801_p23" />。1970年(昭和45年)に1本(7両)、[[1972年]](昭和47年)[[1978年]](昭和53年)にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。


台車・車体・主要機器等は103系1000番台と同様であるが、1200番台の[[自動列車制御装置|ATC]]機器は東西線のWS-ATC(国鉄名称:ATC-3型)対応機器が搭載された。地上信号バックアップ形で大型の機器室を必要としないため、乗務員室直後の戸袋窓が復活している<ref name="毛呂2012_p56">毛呂信昭『103系物語』56頁。</ref>。
外観は、[[東京地下鉄千代田線|千代田線]]乗り入れ用の1000番台とほぼ同一であるが、[[自動列車制御装置|ATC]]機器は東西線のWS-ATCに対応する小型のものであるため、1000番台とは異なり、乗務員室直後に[[戸袋]]窓がある。機器配置も301系に合わせたため、[[二次電池|蓄電池]]の搭載車などが異なっている。塗装は301系にイメージを合わせるため、ライトグレー([[灰色8号]])に黄帯([[黄5号]])という塗装が施された。ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったこともあり、「銀色の電車」という案内が行われていた。雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の103系と共通のものとされ、[[鉄道車両の台車|台車]]の枕バネも同様にコイルばねである。また、地上型のマイナーチェンジに合わせ、第2編成以降はユニット窓を採用し、座席寸法も301系と同一に変更している。


301系と同じ7両 (6M1T) 編成を基本としたため、301系でクモハ300形に相当するクモハ102形 (Mc') が設定された<ref name="毛呂2012_p56" />。機器配置を301系に合わせたため、[[二次電池|蓄電池]]の搭載車などが他番台と異なる。雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の103系と共通とした。
1987年の国鉄分割民営化に際しては、35両全車がJR東日本に継承された。以降の状況については、[[#1200番台塗色変更・10両編成化関連]]を参照されたい。全車について、集約分散型のAU712により冷房改造が行われている。また、一部は、常磐快速線に転用されている。


塗装は1000番台を基調にライトグレー([[灰色8号]])に黄帯([[黄5号]])の塗装となった<ref name="rp201801_p23" />。ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったことから「銀色の電車」という案内が行われていた。黄帯は後に青帯に変更されている<ref name="rp200404_p22" />。
最後の1200番台となったK9編成については、[[拝島駅|拝島]]留置のまま2003年[[7月31日]]をもって大宮工場へ廃車回送された。これをもって103系1200番台は番台区分消滅した。

{{-}}
地上型のマイナーチェンジに合わせ、1972年増備の第2編成以降は側窓にユニット窓が採用された<ref name="rp201801_p25" />。座席寸法も301系と同一に変更した。主電動機も第2編成以降はISOネジ採用のMT55Aを搭載した<ref name="rp201801_p25" />。また、1978年増備の第4・第5編成は、当時営団地下鉄線内での冷房使用が認められていなかったため、既に冷房装置の設置が標準装備となっていた時期にもかかわらず、非冷房車として製造された。

1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、35両全車がJR東日本に継承され、全車がAU712形[[集約分散式冷房装置]]により冷房改造を施工し、一部は常磐快速線に転用された。最後の1200番台となったK9編成が、2003年7月31日に大宮工場(現在の[[大宮総合車両センター]])へ廃車回送された。これをもって本区分番台は消滅した。{{-}}


==== 1500番台 ====
==== 1500番台 ====
{{鉄道車両
{{鉄道車両
|車両名= 1500番台
| 車両名 = 1500番台
|色 = #000000
| 背景 = #000001
| 文字色 = #ffffff
|画像 = JNR EC Tc103-1513.jpg
| 画像 = 103-1500 Nishinomiya 19830224.jpg
|pxl = 240px
|画像説明= クハ103-1513(製造当初)<br />(1983年2月24日 西宮駅)
| 画像説明 = クハ103-1513(製造当初)<br/>1983年2月24日 西ノ宮駅(現・[[西宮駅 (JR西日本)|西宮駅]]
| 運用者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[九州旅客鉄道]]
|unit = auto
| 製造年 = 1982年
|起動加速度= 2.5
| 製造数 = 54両
|重量 = 34.1t(クハ103) - 42.2t(クモハ102)
| 運用範囲 = [[筑肥線]]
|保安装置= [[自動列車停止装置|ATS-SK]]<br/>[[自動列車制御装置|ATC-9]]
| 起動加速度 = 2.5 km/h/s
| 常用減速度 =
| 非常減速度 =
| 自重 = 34.1 t(クハ103) - 42.2 t(クモハ102)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-SK|ATS-SK]]<br/>[[自動列車制御装置#ATC-9|ATC-9]]
| 備考 =
}}
}}
[[ファイル:Kuha103-1514 kyushu interior 1.jpg|thumb|200px|right|クハ103-1514 車内]]
[[ファイル:Kuha103-1514 interior.jpg|thumb|200px|クハ103-1514 車内]]
[[ファイル:2023年8月20日 362C 普通筑前前原行き西唐津〜唐津間 E12編成 クモハ103-1512.ogg|サムネイル|国鉄103系電車 クモハ103-1512 走行音 (唐津線西唐津-唐津間、2023年8月20日)|280x280ピクセル]]
[[唐津線]]・[[筑肥線]]・[[福岡市地下鉄空港線|福岡市地下鉄1号線]]直通運転用として、[[1982年]]に6両編成 (4M2T) 9本54両が製造された。ただし、編成番号は3両ずつに分かれており、[[九州旅客鉄道小倉工場|小倉工場]]に回送する際も3両ずつに分割される。製造当時、すでに常磐緩行線・千代田線直通用としてチョッパ制御の203系が製作されていたが、筑肥線は[[筑前前原駅|筑前前原]]以西の駅間距離が長く、列車密度も低いため、ブレーキ頻度や回生負荷の面でチョッパ制御車を導入しても省エネ効果や回生制動力が期待できないことから、経済性の高い103系が、一部設計変更のうえ導入され<ref name="rf198211">
[[唐津線]]・[[筑肥線]]・福岡市地下鉄1号線(現在の[[福岡市地下鉄空港線|空港線]])直通運転用として、[[1982年]]に6両編成 (4M2T) 9本54両が製造された。唐津電車区(現在の[[唐津鉄道事業部|唐津車両センター]])に配置され、編成番号は3両ずつに分かれている。
{{Cite book|和書

|year=1982
製造当時、既に常磐緩行線・千代田線直通用として[[電機子チョッパ制御]]の[[国鉄203系電車|203系電車]]が製造されたが、筑肥線は[[筑前前原駅|筑前前原]]以西の駅間距離が長く[[輸送密度|列車密度]]も低いため、ブレーキ頻度や[[回生ブレーキ|回生]][[負荷]]の面で電機子チョッパ制御車を導入しても[[省エネルギー|省エネ]]効果や回生制動力が期待できないことから、費用の安い103系が一部設計変更のうえ導入された<ref name="rf198211">{{Cite book|和書|year=1982|month=11|title=鉄道ファン|publisher=交友社}}</ref>。
|month=11

|title=鉄道ファン
1500番台のみ、[[日立製作所]]でも製造された(川崎重工業と分担)。
|publisher=交友社

車体構造や内装は本番台と同時期に製造されていた[[国鉄201系電車|201系]]を基本としている。[[地下鉄等旅客車#A-A基準|A-A基準]]準拠のため、先頭車両は[[国鉄105系電車|105系]]に近似した[[貫通扉]]を有する前面デザインが採用された<ref name="dk198211">{{Cite book|和書|year=1982|month=11|title=電気車の科学|publisher=電気車研究会}}</ref>。窓周りの額縁部は105系では黒色ジンカートであったが、103系1500番台では[[繊維強化プラスチック|FRP]]となった<ref name="rp201801_p31">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、31頁。</ref>。側窓は上段下降・下段上昇のユニット窓となり、[[戸袋]]窓は103系で唯一新造時より省略されている<ref name="rp200404_p22" />。

冷房装置はAU75Gが搭載された<ref name="MITSUBISHI1982-11">三菱電機『三菱電機技報』1982年11月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/1982/8211.pdf 最近の車両用空調装置と省エネルギー」]}}」pp.54 - 55。</ref>。内装[[天井]]部の冷風吹出口はラインフロー式であるが、横流ファンや首振[[扇風機]]のような補助[[送風機]]は併設されていない。

車体塗装は、[[玄界灘]]をイメージしたスカイブルー([[青22号]])にクリーム色([[クリーム1号]])の帯が採用された<ref name="rp201801_p31" />。窓まわりの配色はクリーム色となっている。クハ103形の正面には国鉄車を示すJNRマークが掲出された<ref name="rp201801_p31" />。

機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、[[主制御器]]は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に[[抵抗器#自然通風式|自然通風式主抵抗器]]を使用するために手直ししたCS20D-G3形が搭載された。電動発電機は、費用削減のため[[国鉄153系電車|153系]]の[[廃車 (鉄道)|廃車]]発生品を流用した出力110 kVAのMH128D-DM85Dが搭載された<ref name="毛呂2012_p64">毛呂信昭『103系物語』64頁。</ref><ref name="rp201801_p32">平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、32頁。</ref>。

折返時などの長時間停車での車内保温のため、4ドアのうち3ドアを締切る[[ドアカット]]機能が搭載された<ref name="dk198211"/>。

1987年(昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]で全車が[[九州旅客鉄道|JR九州]]に継承されたが、同社に継承された本系列は本グループのみである。分割民営化後、4本が先頭車化改造により3両編成化されたため、[[2010年]](平成22年)時点で13本54両となった。3両編成は限定運用、6両編成は[[JR九州303系電車|303系]]代走運用も担当した。なお、クハ103-1504は[[1998年]](平成10年)3月に[[今宿駅]]付近で強風により[[脱線]]したが、復旧している。

乗り入れ先の地下鉄線は[[自動列車運転装置|ATO]]路線であり、市営地下鉄の車両ではこの機能を利用した[[ワンマン運転]]を行っているが、当グループにはATO装置が搭載されておらず、地下鉄線内は[[自動列車制御装置|ATC]]を利用して運転を行っていた。また同線内の[[ホームドア]]との連動もできないため、地下鉄線内では[[車掌]]が乗務し、ドア開閉は[[車掌スイッチ]]とともにホームドア開閉スイッチを操作していた。

[[2014年]](平成26年)7月31日、JR九州より後継となる[[JR九州305系電車|305系]]の投入が[[発表]]された。6両編成6本が製造され、[[2015年]](平成27年)2月5日より営業運転を開始している。これに伴い順次地下鉄乗り入れ運用から離脱し、6両編成5本と3両編成2本が廃車となり、JR九州小倉総合車両センターにて解体された。現在では残った3両編成が[[筑前前原駅|筑前前原]]と[[西唐津駅|西唐津]]の間でワンマン列車として運行されている。{{-}}

===大韓民国(韓国)仕様派生形式===
{{Main|韓国鉄道1000系電車|ソウル特別市地下鉄公社1000系電車 (初代) }}

;共通点
* 103系がベース
* 1974年から製造
* 地下区間の直流1,500Vと地上区間の交流20 kV・60 Hzに対応した[[交直流電車]]
* [[国鉄103系電車#地下鉄対応車両|1000、1200番台]]や[[国鉄301系電車|301系]]、[[営団5000系電車|営団5000系]]を折衷したような前面
* 登場時は6両編成で、のちに韓国製の中間車が組み込まれて8連化(1984年)、10連化(1989年)
* 日本製は既に全廃し、現在走っているのは全て韓国製

== 改造車 ==
103系は長期間にわたり使用されているため、国鉄時代から様々な改造工事が行われている。車両自体の用途を変更するための改造工事では、他系列から103系化されたもの、103系から他系列に改造したもの、中間車の先頭車改造、中間車の電装解除などが行われている。

; 他形式から103系化されたもの
:* 101系サハ101形のサハ103形750番台化(国鉄)
:* 101系クハ101形のクハ103形2050番台化(国鉄)
:* 101系クハ100形のクハ103形2000番台化(国鉄)
:* 72系の103系3000番台化(国鉄)
:
; 中間車の先頭車改造
:* モハ103形1500番台のクモハ103形1500番台化(JR九州)
:* モハ102形1500番台のクモハ102形1500番台化(JR九州)
:* モハ103形のクハ103形2550番台化(JR西日本)
:* モハ102形のクハ103形2500番台化(JR西日本)
:* モハ103形のクモハ103形5000番台化(JR西日本)
:* モハ102形のクモハ102形3500番台化(JR西日本)
:* モハ103形のクモハ103形3550番台化(JR西日本)
:* モハ102形のクモハ102形3550番台化(JR西日本)
:
; 中間車の電装解除など
:* モハ103形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本)
:* モハ102形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本)
:* モハ103形のサハ103形2500番台化(JR西日本)
:* モハ102形0番台・2000番台のモハ102形5000番台化(JR西日本)
:* サハ103形のサハ102形5000番台化(JR西日本)
:* モハ103形のモハ103形3500番台化(JR東日本)
:* モハ102形2000番台のモハ102形3500番台化(JR東日本)
:
; 先頭車の改造
:* クモハ103形0番台のクモハ103形5000番台化(JR西日本)
:* クモハ103形5000番台のクモハ103形2500番台化(JR西日本)
:* クモハ103形5000番台のクモハ103形3500番台化(JR西日本)
:* クハ103形0番台のクハ103形3500番台化(JR東日本)

=== 他形式からの編入車 ===
103系と車体構造の違いが少ない101系のうち、103系が量産を開始した後も総武線10両化用として製造された101系付随車や制御車は、経年が浅いため103系に編入された。また、仙石線用の72系アコモ車は旧形車の下回りに車体を103系ベースで製造して組み合わせたもので、車体自体の経年が浅かったことから下回りを103系に合わせて改造編入した。

==== サハ103形750番台 ====
[[ファイル:1987-8-saha103-778a.JPG|thumb|200px|サハ103-778<br/>1987年8月 放出駅]]
[[1964年]](昭和39年)度から赤字経営となった国鉄では、合理化と経費の削減が求められた。新製費用の抑制等のため、[[国鉄101系電車|101系]]付随車のサハ101形を103系に編入する改造が行われ、サハ103形750番台が登場した<ref name="rp201304_p56">芳田・前納・永尾「103系に編入された101系電車」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号、56頁。</ref>。1973年から1986年にかけて、751 - 780の30両が改造された<ref name="rp201801_p53" />。

共通の改造内容として、ジャンパ連結器のKE-57からKE-70への交換、貫通幌の交換が行われている<ref name="rp201801_p53" />。サハ100形も同様工事を施工して700番台とする計画も存在したが実施されなかった。サハ101形の裾高さがサハ103形よりやや低く、台車もDT21T形もしくはTR64形という若干の差異がある。

下記の30両が国鉄時代に改造されているが経年の浅い101系の車両を選んでいる。改造時期・種車形態・改造内容により以下の5種に細分できる。
# サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751 - 767
#* 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置を施工。
# サハ101-123・124・126→サハ103-768 - 770
#* 改造時にAU75形で冷房化されていたサハ101形が種車のグループ。側面行先表示器は未設置。
# サハ101-282・299→サハ103-771・772
#* 2.と同形態だが、種車がサハ101形200番台のグループ。200番台はMG・CPを搭載車であったが、改造時に撤去。側面行先表示器は未設置。101系試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に搭載。
# サハ101-115・116・127・128→サハ103-773 - 776
#* 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房・側面行先表示器ともに未設置。JR東日本継承車の775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車された。JR東日本継承車の774は豊田→中原→松戸と転属し、松戸区では101系の系列で唯一の[[青緑1号|エメラルドグリーン]]に塗装された<ref name="rp201304_p64">芳田・前納・永尾「103系に編入された101系電車」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号、64頁。</ref>。
# サハ101-119・120・121・122→サハ103-777 - 780
#* 改造時にAU75形で冷房化改造済のサハ101形が種車のグループ。改造時に側面行先表示器を設置。779以外の3両はJR西日本継承後の[[1993年]]に台車をTR212形に交換。

分割民営化時にはJR東日本とJR西日本に継承された。一部は延命工事が施工されたが、早期に廃車対象となり、JR西日本のサハ103-765が2002年10月25日付で廃車となったのを最後に全廃となった<ref name="rp201304_p65" />。

==== クハ103形2000・2050番台 ====
[[File:1987-8-kuha103-2001.JPG|thumb|200px|クハ103-2001]]
[[1986年]](昭和61年)の[[関西本線]]([[大和路線]])と阪和線の編成短縮・編成数増加政策<ref group="注">国鉄では[[1980年代]]より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策(フリークエント・サービス、広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期には全国的に先頭車が不足する傾向にあった。[[1984年2月1日国鉄ダイヤ改正]]・[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]]も参照。</ref>に伴い先頭車が不足したため、余剰となった101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の番台区分とされた。

; クハ103形2000番台
:* 非冷房のクハ100形から改造された車両。[[奈良電車区]]に配属され、主に関西本線で運用。
:** クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001 - 2004
; クハ103形2050番台
:* 非冷房のクハ101形から改造された車両。[[日根野電車区]]に配属され、主に阪和線で運用。
:** クハ101-78・83→クハ103-2051・2052

前述のサハ103形750番台同様、車体には手が加えられていないが、101系と本系列では前面の窓形状が異なっているため、差異が目立っている。冷房装置・側面行先表示器の搭載は未施工のままであった。分割民営化時には2000番台・2050番台の全車がJR西日本に継承された<ref name="rp201304_p65">芳田・前納・永尾「103系に編入された101系電車」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号、65頁。</ref>。

[[1989年]][[8月27日]]、阪和線で6両編成の和歌山発天王寺行き快速列車での運用中にクハ103-2051のブレーキが効かなくなり、[[天王寺駅]]の[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#阪和線天王寺駅列車衝突事故|車止めに衝突した]]<ref name="rp201304_p65" />。2051は日根野電車区で修復されたものの、営業運転に復帰することなく1991年9月30日付で廃車となった<ref name="rp201304_p65" />。2052は[[1991年]](平成3年)に阪和線のATS-P形化に際し対応工事を施工されないまま[[京阪神緩行線]]に転用され、その後[[明石電車区]]の訓練車となったが、1992年11月30日付けで廃車となった<ref name="rp201304_p65" />。

関西線の2000番台も運用期間は短く、1991年度中に営業運転から撤退した<ref name="rp201304_p65" />。[[1992年]](平成4年)までに全車廃車され、101系から改造のクハ103形は区分消滅した。

==== 3000番台 ====
[[ファイル:103-3003 Matoba - Kasahata 20040605.JPG|thumb|200px|川越線の3000番台(2004年6月5日)]]
[[ファイル:JNR EC T103-3004.jpg|thumb|200px|青梅・五日市線時代のサハ103-3004]]
1985年に[[川越線]]の[[鉄道の電化|電化]]が完成し、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - [[川越駅|川越]] - [[高麗川駅|高麗川]]間の区間運転用[[電車]]が必要となった。これに対応するための改造車として登場したのが3000番台である<ref name="rp200404_p23">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、23頁。</ref>。

種車は[[1974年]](昭和49年)に仙石線用72系4両編成5本計20両の車体を同時期製造の103系と同等の車体に更新<ref group="注">ただし、冷房装置や側面行先表示器は未搭載。</ref>したアコモデーション改良車の[[国鉄72系電車#モハ72形970番台・クハ79形600番台|モハ72形970番台・クハ79形600番台]]で、[[1985年]] - [[1986年]]に[[東京総合車両センター|大井工場]]・[[東日本旅客鉄道大船工場|大船工場]]・[[大宮総合車両センター|大宮工場]]・[[総合車両製作所新津事業所|新津車両所]]にて103系への編入改造を施工した。

モハ72形970番台・クハ79形600番台は、[[1980年]]までに103系投入による仙石線の未更新旧形車両が置換え後も運用されていたが、1985年の103系への統一により運用を離脱した<ref name="rp201801_p86" />。しかし、車体更新からの経年が浅く状態も良かったため、旧性能電車の[[新性能電車|新性能化]]<ref group="注">理由として、車体は新形であるが老朽化を含め下回りは旧性能電車のため検査周期が短く対費用効果の観点からも不利であったこと。埼京線開通の際に投入予定であった本系列が同じ路線を走行する場合に性能的に[[ダイヤグラム|ダイヤ]]編成上の障害となる恐れがあったためとされる。</ref>により103系への改造が行われ、国鉄としては稀な改造工事となった。

編成は72系時代の4両編成5本から3両編成5本へ組み替えられ、クモハ102形 + モハ103形 + クハ103形の3両編成となった。モハ72形5両は休車となったが、1985年 - 1986年にかけてサハ103形に改造され、青梅・五日市線3両編成の4両編成化に使用された<ref name="毛呂2012_p71">毛呂信昭『103系物語』71頁。</ref>。

なお、形式ごとの種車には以下の関連がある<ref name="rp201801_p86" />。

* クハ79600番台(偶数)→クモハ102形3000番台
* クハ79600番台(奇数)→クハ103形3000番台
* モハ72970番台(偶数)→モハ103形3000番台
* モハ72970番台(奇数)→サハ103形3000番台

車体は種車とほぼ同様であるが、仙石線時代は[[タブレット閉塞]]が使用されていたため運転室扉直後の戸袋窓がなく、タブレット衝突保護板が設置されていた<ref name="毛呂2012_p74" />。一部は保護板を撤去し埋め込まれた。仙石線時代の検査担当であった[[郡山総合車両センター|郡山工場]]へ機関車牽引で配給回送される際に用いられた外吊式の標識灯掛けフックは、後に一部車両からは撤去された。冷房化改造・側面行先表示器の搭載は、経費の都合で見送られた。

種車の台枠は72系オリジナル車からの流用であり、若干裾が長くなっている。このため、先頭車は若干面長な顔つきとなっている。

川越線も仙石線同様に冬期寒冷となるため、72系時代からのTK8形半自動扉<ref group="注">停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬期の車内保温の目的で装備される。</ref>が継続使用された。半自動用の取手には小型埋込式、大型外付式の2種類の形状が存在し、両方を装備する車両も存在した<ref name="毛呂2012_p74">毛呂信昭『103系物語』74頁。</ref>。

台車は1985年の集中台検<ref group="注">予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換などとしてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。</ref>の廃止、および工場の予備品見直しにより捻出したDT33形台車を電動車に搭載し、クハ103形には101系廃車発生品のDT21T形が搭載された<ref name="rp200404_p24">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、24頁。</ref>。

モハ103形のパンタグラフは種車と搭載位置は変わらず、ユニット外側(クハ側)に搭載された<ref name="rp201801_p86" />。床下機器類の配置も0番台と逆位置となる。制御器をはじめとする機器は新品としたが、機器・部品の有効活用が行われた。

主電動機は103系標準品のMT55(1編成のみMT55A)である。電動発電機 (MG) は、モハ72形のMH97A-DM61Aをクモハ102形に流用した<ref name="毛呂2012_p74" />。冷却風は主電動機・MGともフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用されたため、モハ72形時代からの車体側面の風道・取入口はモハ103形への改造時に1両を除いて埋め込まれた。

編成は以下の通り。

{|style="margin:1em 1em 1em 3em; border:1px solid gray; text-align:center; font-size:90%;"
|+72系アコモ改良車仙石線編成
|{{TrainDirection|[[石巻駅|石巻]]|[[仙台駅|仙台]]|}}
|-
|
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|-
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クハ<br/>79600
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|モハ<br/>72970
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|モハ<br/>72970
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クハ<br/>79600
|}
|}

{|style="margin:1em 1em 1em 3em; border:1px solid gray; text-align:center; font-size:90%;"
|+103系3000番台川越線区間運転車編成
|{{TrainDirection|高麗川|大宮}}
|-
|
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|-
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クモハ102<br/>3001 - 3005
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|モハ103<br/>3001 - 3005
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クハ103<br/>3001 - 3005
|}
|}

1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正で青梅・五日市線の増結用3両編成が4両編成化されることになり、休車となっていたモハ72形がサハ103形3000番台に改造された<ref name="rp201801_p86" />。側面の空気取入口は埋め込まれている。電動車であったことから、屋根上にパンタグラフ台が残るなどの特徴のほか、機器類も流用品である。オレンジバーミリオン([[朱色1号]])に塗装され豊田電車区配置となり、3両編成に組み込まれて4両編成化された。

{|style="margin:1em 1em 1em 3em; border:1px solid gray; text-align:center; font-size:90%;"
|+ 103系3000番台青梅・武蔵五日市線組込編成
|{{TrainDirection|[[立川駅|立川]]|[[武蔵五日市駅|武蔵五日市]]・[[奥多摩駅|奥多摩]]}}
|-
|
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|-
|style="width:8em;"|クモハ103<br/>0番台
|style="width:8em;"|モハ102<br/>0番台
|style="width:8em; background-color:orange;"|サハ103<br/>3000番台
|style="width:8em;"|クハ103<br/>500・900番台
|}
|}

分割民営化では全車がJR東日本に継承され、その後AU712形冷房装置とSC24形インバータを搭載して冷房化、同時に側面行先表示器(先頭車のみ)も搭載する改造が施工された。

[[1996年]](平成8年)には、[[八高線]][[八王子駅|八王子]] - 高麗川間の電化完成に伴い同線でも運用開始されるとともに、輸送力増強と新たに投入された本系列3500番台改造車、[[JR東日本209系電車|209系]]3000番台と編成を合わせることから、サハ103形3000番台を川越線用3000番台編成に組み込み4両編成となった。これにより3000番台は川越電車区配置となり、以下の編成が組成された。

{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|+ 103系3000番台川越電車区編成
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|colspan="4"|{{TrainDirection|八王子・高麗川|川越・大宮|}}
|style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|style="width:8em;"|編成番号
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クモハ102<br/>3000番台
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|モハ103<br/>3000番台
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|サハ103<br/>3000番台
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クハ103<br/>3000番台
|style="width:8em;"|廃車
|-
|style="width:8em;"|ハエ51
|style="width:8em;"|3001<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3001<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3001<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3001<br/>(大井)
|style="width:8em;"|2004年10月
|-
|style="width:8em;"|ハエ52
|style="width:8em;"|3002<br/>(大宮)
|style="width:8em;"|3002<br/>(大宮)
|style="width:8em;"|3002<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3002<br/>(大宮)
|style="width:8em;"|2005年5月
|-
|style="width:8em;"|ハエ53
|style="width:8em;"|3003<br/>(大宮)
|style="width:8em;"|3003<br/>(大宮)
|style="width:8em;"|3003<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3003<br/>(大宮)
|style="width:8em;"|2005年11月
|-
|style="width:8em;"|ハエ54
|style="width:8em;"|3004<br/>(大船)
|style="width:8em;"|3004<br/>(大船)
|style="width:8em;"|3004<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3004<br/>(大船)
|style="width:8em;"|2003年11月
|-
|style="width:8em;"|ハエ55
|style="width:8em;"|3005<br/>(新津)
|style="width:8em;"|3005<br/>(新津)
|style="width:8em;"|3005<br/>(大井)
|style="width:8em;"|3005<br/>(新津)
|style="width:8em;"|2004年11月
|}
* ( )内は本系列化改造施工工場。
* 旧番号との対照は72系の該当項目を参照。

老朽化により[[国鉄205系電車|205系]]3000番台・209系3100番台への置換えで廃車が進行し、[[2005年]](平成17年)10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運用を終了。その後もハエ53編成が予備車扱いで残存したが<ref group="注">予備車期間中に205系3000番台の車両故障で代走運用に投入され、これが本当の最終運用となった。</ref>、11月中旬までに全車廃車・解体され区分消滅した。車端部装着の製造銘版には昭和28年([[1953年]])や昭和29年([[1954年]])など改造種車の製造年が記載され、通算で製造から50年以上も現役で活躍した。

=== JR東日本の系列内改造車 ===
==== サハ103形800番台 ====
CS30形超多段バーニア式制御器搭載試作車の910番台ユニットは一般車とは混結運用ができないことから、山手線から転用する際には以下の2グループに分かれた。

# 別ユニットのモハ103形とユニットを組成
#* モハ102-911 + (モハ103-62)
#* モハ102-913 + (モハ103-107)
#** ユニット組成時にモハ102形2両はAU75形冷房改造車、モハ103形は非冷房車。後にモハ103形はAU712形で冷房化。
# サハ103形化改造
#* CS30形制御器搭載のモハ103-911 - 913・モハ102-912・上述のユニット解除されたモハ102形2両の計6両は以下の改造を施工されサハ103形800番台となり、松戸電車区配置で[[常磐快速線]]に投入された。
#** 電装関係機器の撤去
#** モハ103形はパンタグラフの撤去とベンチレータの設置
#** 台車をTR201形へ交換
#*** モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→サハ103-801 - 806
#** 全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載(後者は側面方向幕設置未施工)。国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が[[1993年]](平成5年)に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が[[2003年]](平成15年)に廃車。
<gallery widths="230px" heights="100px">
ファイル:L25_T103-803_680.jpg|サハ103-803<br/>(元・モハ103-913)
ファイル:L25_M103-107_M102-911_700.jpg|モハ103-107(非冷房) + モハ102-911(冷房車)
</gallery>

==== モヤ102形(訓練車) ====
{{節スタブ}}
[[ファイル:L25_Mz102-3_680.jpg|thumb|200px|モヤ102-3]]
1991年に同社では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の教育訓練のため保留車を整備することになった。一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなったことも一因である。

本系列の訓練車は非冷房車3両3編成が整備され、豊田電車区・浦和電車区・松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。浦和・豊田配置のモハ102形は、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため事業用車両に変更となり、新形式の'''モヤ102形'''となった(モハ102-138・140→モヤ102-1・2)。

{|class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+ 1991年整備訓練車編成
!豊田電車区
|クモハ103-44||モヤ102-1||クハ103-522
|-
!浦和電車区
|クモハ103-45||モヤ102-2||クハ103-540
|-
!松戸電車区
|クモハ103-64||モハ102-168||クハ103-54
|}
その後、改造種車が非冷房だったこと、[[自動列車制御装置|ATC]]・[[自動列車停止装置#ATS-S|ATS-S]]・[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]が未搭載で本線運転に制約があったことから、1995年に冷房車の4両3編成と交代となった。豊田・浦和配置編成は、モヤ102形に改造された(モハ102-508・519→モヤ102-3・4)。

{|class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+ 1995年整備訓練車編成
!豊田電車区
|クハ103-341||モハ103-363||モヤ102-4||クハ103-342
|-
!浦和電車区
|クハ103-399||モハ103-352||モヤ102-3||クハ103-400
|-
!松戸電車区
|クハ103-335||モハ103-274||モハ102-429||クハ103-336
|}
* 浦和配置車は、同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、2000年に廃車。
* 豊田配置車は、201系四季彩編成が訓練車を兼ねることから、2001年に廃車。
* 松戸配置車は、MM'ユニットが同区我孫子派出の車輪転削装置改修に伴う予備車確保のために白帯や「訓練車」の文字を消して営業車に復帰した経歴を持つ。2006年に廃車。
これにより本系列の訓練車編成は消滅した。

==== 3500番台 ====
[[ファイル:103-3501 Nishi-Kawagoe - Matoba 20040605.JPG|thumb|200px|八高線・川越線用の3500番台(2004年6月5日)]]
1996年(平成8年)3月の[[八高線]]八王子 - 高麗川間の[[鉄道の電化|電化]]では、川越線用3000番台が同線でも運用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が不足した。そのため、209系3000番台4本が新製されたほか、本系列の0番台4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置の改造を施工され川越電車区に投入された。

本改造施工車は新たに'''3500番台'''に区分された。半自動扉は3000番台の手動開閉方式に対し、押ボタン開閉方式とされた<ref name="rp201801_p96" />。なお、3500番台はJR西日本に[[国鉄103系電車#3500番台 2|播但線用区分車]]が存在するが、関連ならびに重複車番はない。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|+ 103系3500番台川越電車区編成
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|colspan="4"|{{TrainDirection|八王子・高麗川|川越・大宮|}}
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|style="width:8em;"|ハエ56
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クハ103<br/>-3501
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|モハ102<br/>-3501
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|モハ103<br/>-3501
|style="width:8em; background-color:#cf9;"|クハ103<br/>-3502
|-
|style="width:8em;"|旧番号
|style="width:8em;"|(725)
|style="width:8em;"|(2047)
|style="width:8em;"|(790)
|style="width:8em;"|(738)
|}

3000番台と共通運用されたが、[[2005年]](平成17年)4月に廃車・解体された。

=== JR西日本の系列内改造車 ===
==== クハ103形2500・2550番台 ====
[[ファイル:Tc103-2551.jpg|thumb|クハ103-2551]]
[[ファイル:1991-12-kuha103-2503.JPG|thumb|クハ103-2503(冷房改造後)]]
1988年3月13日のダイヤ改正で、JR西日本の関西本線電化区間に「[[大和路線]]」の愛称が付与された<ref name="rp201801_p107" />。このダイヤ改正に伴って6両編成1本を4両編成2本として編成数が増加される際、不足した先頭車を中間電動車の電装解除・先頭車化改造で補うこととなった<ref name="rp201801_p107" />。

モハ102形を種車とするクハ103形2500番台は4両が改造され、方向転換を行い偶数向き専用となった<ref name="rp201801_p107" />。モハ103形が種車のクハ103形2550番台は3両が改造され、奇数向き専用となっている<ref name="rp201801_p107" />。2500番台が1両多いのは、[[羽衣線]]に転用されたクハ103-194の補充のためである<ref name="rp201801_p107" />。

新設された運転台は高運転台型ではなく、1次改良型と同様の低運転台・[[シールドビーム]]タイプとなった<ref name="rp201801_p107" />。改造時は非冷房であったが、窓下の吸気口は設けられていない<ref name="rp200404_p24" />。台車は種車のDT33形から主電動機や駆動装置を撤去し、WDT33T形としたものを使用している<ref name="rp201801_p49" />。

2550番台ではパンタグラフの撤去が行われたが、パンタグラフ台が存置された<ref name="rp201801_p107" />。一部車両では側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置されている<ref name="rp201801_p49" />。2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設された。

改造車の新旧番号対照は以下の通り<ref name="rp201801_p49">平石大貴「103系電車形式集」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号(通巻941号)、電気車研究会。49頁。</ref>。

; クハ103形2500番台
:* モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501 - 2504
; クハ103形2550番台
:* モハ103-233・242・243→クハ103-2551 - 2553

1990年度にWAU102形による冷房化と延命N工事が施工された<ref name="rp201801_p49" />。しかし種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は播但線用3500番台へ運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は状態のよい余剰車に置換えられて[[2006年]]3月1日に全廃された。

==== 5000番台・サハ102形 ====
[[ファイル:JR EC Mc103-5003.jpg|thumb|クモハ103-5003<br/>密着連結器下に電気連結器を装備]]
[[ファイル:JNR EC T102-2.jpg|thumb|サハ102-2<br/>電気連結器撤去後]]
[[1989年]](平成元年)3月11日に[[片町線]](学研都市線)の長尾 - 木津間が電化されたのに際し、電化時に開設された[[松井山手駅]]で[[京橋駅 (大阪府)|京橋]]寄りの4両を切り離し、以東の各駅には輸送需要の関係から[[木津駅 (京都府)|木津]]寄りの3両が入線する分割併合運用が実施されることとなった<ref name="rp201801_p107">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、107頁。</ref>。分割併合対象の編成は Tc-M-M'-T' + Mc-M'-Tc の組成となり、T'車とMc車に分割併合用の[[連結器#電気連結器|電気連結器]]を設ける改造が行われ、5000番台が登場した<ref name="rp200404_p24" />。

その後、松井山手以東が3両編成では輸送力不足となり、翌1990年には Tc-M-M' + Mc-M'-T'-Tc として4両編成が木津に乗り入れるよう組成変更が行われた<ref name="rp201801_p108">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、108頁。</ref>。

{|style="margin:1em 1em 1em 3em; border:1px solid gray; text-align:center; font-size:90%;"
|{{TrainDirection|京橋|木津}}
|-
|
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|+ 1989年3月11日 - 1990年
|-
|クハ103
|モハ103
|モハ102
|サハ102(5000番台)
|(連結)
|クモハ103(5000番台)
|モハ102
|クハ103
|-
|colspan="4"|松井山手分離編成
|style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|colspan="3"|木津直通編成
|}
|-
|
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|+ 1990年 -
|クハ103
|モハ103
|モハ102(5000番台)
|(連結)
|クモハ103(5000番台)
|モハ102
|サハ103または102
|クハ103
|-
|colspan="3"|松井山手分離編成
|style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|colspan="4"|木津直通編成
|}
|}

分割併合部分にあたるモハ103形は、電気連結器と電気空気開閉器を搭載したクモハ103形5000番台に改造された。木津への乗り入れ編成は増結編成より3編成多く必要となり、羽衣支線のクモハ103-48を含む3両編成と大阪環状線の6両が転入し、改造時に冷房化(WAU102形)と側面方向幕設置が施工された<ref name="rp201801_p107" />。

クモハ103形5000番台の運転台は、クハ103形2500・2550番台と同様に1次改良型タイプだが、クモハ103形から改造の5001を含めて奥行きが広くなり、改造時に運転台直後の戸袋窓が閉鎖されている<ref name="rp201801_p108" />。

松井山手駅に残される4両編成側の連結部の先頭車化改造は行わず、サハに電気連結器を設置する等の改造が行われた<ref name="rp201801_p107" />。サハ103形に電気連結器などを装備すると、既存の床下機器(低圧ツナギ箱)と干渉するため、方向転換を行っての電気連結器の設置によりサハ102形5000番台に改造された<ref name="rp201801_p107" />。分割併合側の幌には蓋が設けられ、妻面には標識灯掛が設置された<ref name="rp201801_p107" />。

; クモハ103形5000番台
: 5001はクモハ103形が種車、他はモハ103形に運転台が設置された<ref name="rp201801_p34" />。新番号は5004を除いて古い順に振り直された。
:* クモハ103-48・モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001 - 5016
; サハ102形5000番台
: クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から13両が改造された<ref name="rp201801_p55">平石大貴「103系電車形式集」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号(通巻941号)、電気車研究会。55頁。</ref>。5001を除いて新番号は古い順に振り直されている。
:* サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001 - 5013

1990年3月の編成構成の変更により、サハ102形5000番台は1年足らずで自動解結装置が撤去され、サハ102形0番台となった<ref name="rp201801_p108" />。サハ102形は再びの方向転換は行われず、側面方向幕の設置位置が逆側になるなど、サハ103形との外観差異はその後も残った。電気連結器はモハ102形に移設され、改造車はモハ102形5000番台となった<ref name="rp201801_p108" />。

; モハ102形5000番台
: 編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手としてモハ102形0番台から改造された。改造内容はサハ102形5000番台に準じているが、方向転換はされていない。
:* モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041 → モハ102-5001 - 5013
; サハ102形0番台
: 編成組成の変更に伴い、サハ102形5000番台から改造された付随車<ref name="rp201801_p55" />。自動解結装置の撤去後も方向の再転換は行われず、引き続きサハ102形に区分された。
:* サハ102-5001 - 5013 → サハ102-1 - 13

当初4両編成に組成されていたサハ102形を木津直通編成に転用されたが、車両不足が生じた<ref name="rp201801_p108" />。2両は一般のサハ103形が転用されたが、残りの1両はユニット相手のモハ102-387がクハ103形2500番台に改造され余剰となったモハ103-232を種車として、サハ103-2501に改造された<ref name="rp201801_p53">平石大貴「103系電車形式集」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号(通巻941号)、電気車研究会。53頁。</ref>。同時にWAU102形による冷房改造および延命N工事が施工された<ref name="rp201801_p108" />。

; サハ103形2500番台
: 編成組成の変更に伴いモハ103形0番台から改造された付随車で、クハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態である。
:* モハ103-232 → サハ103-2501

1990年の207系投入で103系の分割併合運用は終了し、5001は原番復帰、5002以降は車番を-2501の2500番台に区分された<ref name="rp201801_p109" />。なお、48(←5001)は新製時からクモハ103である車両で最後の現存車両であり、広島運転所が最終配置となった。

サハ102形は1・9 - 13に延命N40が施工されたが、2008年に9が廃車されて形式消滅した。モハ102形は廃車となった車両がある一方で体質改善工事施工車もあるが、標識灯掛が残存しているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なる。サハ103-2501は廃車となった。

==== クモハ103形2500番台 ====
[[ファイル:JR EC Mc103-2507.jpg|thumb|200px|クモハ103-2507 (2011年3月廃車)]]
1992年より片町線に[[JR西日本207系電車|207系]]の量産車が投入され、同線の103系は大和路線など他線区に転用された<ref name="rp201801_p108" />。転用先では分割併合を行わないため、分割併合装置を撤去した5000番台は改番が行われた<ref name="rp201801_p108" />。

クモハ103-5001とモハ102形5000番台は原番号に復帰し、クモハ103形の5002以降は2500番台となり、番号順に1ずれて改番された<ref name="rp201801_p109" />。他線転用時などに電気連結器を撤去した車両もあったが、電気空気開閉器を撤去した段階で番号が変更されている<ref name="rp201801_p109" />。

* クモハ103-5002 - 5016→クモハ103-2501 - 2515

クモハ103形2500番台は1997年 - 1998年にかけて9両が播但線用3500番台に改造され、2011年には[[日根野電車区]]に在籍していた元5008(→2507)が廃車、2015年には[[広島運転所]]に在籍していた元5001~5003(→48・2501・2502)が廃車となり、平成末期時点では[[日根野電車区]]に2503・2504・2505が残存していた。このうち2503・2504は羽衣線用ワンマン運転対応、2504は編成全車が体質改善40N工事を施工、2503は全車が非ユニットサッシ車である。両者とも2018年3月の羽衣線4両化まで運行され、年度内に廃車されている。2505は羽衣線ワンマン運転非対応で、2016年の[[JR西日本225系電車|225系5100番台]]導入時まで運行され2018年に廃車となった。

==== 3500番台 ====
{{鉄道車両
| 車両名 = 3500番台(JR西日本)
| 背景色 = #000000
| 文字色 = #ffffff
| 画像 = JR EC Mc103-3508.jpg
| 画像説明 = クモハ103-3508
| 運用者 = [[西日本旅客鉄道]]
| 種車 = 103系0番台
| 改造年 = 1997年 - 1998年
| 改造数 = 18両
| 運用範囲 = [[播但線]]
| 起動加速度 = 2.5 km/h/s
| 常用減速度 =
| 非常減速度 =
| 自重 = 42.0 t(クモハ103) - 42.6 t(クモハ102)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-SW|ATS-SW]]<br>[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]
| 備考 =
}}
}}
[[1998年]]3月14日の[[播但線]][[姫路駅|姫路]] - [[寺前駅|寺前]]間の電化完成に伴い、同区間で[[#top|本系列]]が投入されることになった。需要と[[ワンマン運転]]の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のためにクモハ103形2500(元・5000)番台ユニットから9本が[[1997年]]から1998年にかけて3500番台に区分改造され、[[網干総合車両所|網干電車区]](現・網干総合車両所)に配置された。
</ref>、唐津電車区(現在の[[唐津鉄道事業部#唐津運輸センター|唐津鉄道事業部唐津運輸センター]])に配置された。


モハ102形の先頭車化改造が行われ、体質改善工事とワンマン化改造も施工された<ref name="rp201801_p75">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。75頁。</ref>。改造種車には状態の良い車両が選定されたため、製造の新しいユニットが中心である。設計は吹田工場が担当し<ref name="R&M0603_21">[[#R&M0603|『Rolling stock & Machinery』第6巻第3号、p.21]]</ref>、改造は吹田工場と鷹取工場で施工されている<ref name="R&M0603_22">[[#R&M0603|『Rolling stock & Machinery』第6巻第3号、p.22]]</ref>。クモハ103形とクモハ102形は同番号同士でユニットを組み、車両番号の下一桁と編成番号の数字は一致している。編成記号は'''BH'''である。
機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、主制御器は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に、自然通風式主抵抗器を使用するために手直ししたCS20D-G3形を搭載。電動発電機についても、コスト削減のため急行形の発生品を採用している。車体や内装は実質的に本番台と同世代車両に当たる201系を基本としており、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない。A-A基準準拠のため、先頭車両は[[国鉄105系電車|105系]]に類似した貫通扉を有する前面デザインを採用<ref name="dk198211">

{{Cite book|和書
塗装はワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレー ([[DICカラーガイド|DIC N-958]]) のアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には '''JR WEST JAPAN BANTAN103''' の文字が書かれている。
|year=1982

|month=11
JR東日本にも同じ[[国鉄103系電車#3500番台|3500番台]]の区分が存在したが、関連性や設定形式が異なるために車番重複はない<ref name="rp201801_p109" />。
|title=電気車の科学

|publisher=電気車研究会
; クモハ103形3500番台
: 寺前側の制御電動車。クモハ103形2500番台が種車。3503・3509は運転台上部に[[集電装置|パンタグラフ]]を追加設置するためのパンタ台を設置<ref name="RM183">永尾信幸 「残された103系の現在」『レイルマガジン』1998年12月号、ネコパブリッシング、pp.18 - 49。</ref>。
:* クモハ103-2506・2508 - 2515→クモハ103-3501 - 3509

[[ファイル:JRW EC MC102-3508.jpg|thumb|200px|クモハ102-3508]]
; クモハ102形3500番台
: 姫路側の制御電動車。改造種車になっていたクモハ103形2500番台とユニットを組むモハ102形0番台に運転台の設置改造を施工。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせた1971 - 73年製造の「1次改良型」とし、新造された運転台妻鋼体を取り付け、乗務員扉や運転台機器は同時期に廃車となったクハ103形を流用している<ref name="R&M0603_22" />。
:* モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501 - 3509

同時に体質改善40N工事を施行。一部に延命N40工事施工車が存在するが、重複施工となった。

クモハ103-3501・クモハ102-3501編成は、体質改善40N施工車で乗降ドアのガラスの支持方が205系と同様であり、ガラス周りに金属フチがない異端車<ref name="RM183"/>。これは種車のクモハ103-5007時代の延命N40工事時に交換されたものである<ref name="rp201801_p109" />。

また本区分ではワンマン運転時対応のため以下の特化した装備を持つ。
* 運転席からの視認性向上のために運転台仕切りの設置と妻面[[貫通扉]]の窓を拡大し、明るい室内を実現<ref name="R&M0603_21" />。
* 車内で運賃収受が行われることから、運転台仕切りに[[バス (交通機関)|バス]]タイプの[[運賃表示器]]と[[運賃箱]]<ref group="注">ラッシュ対応として、可能な限り客室に出っ張りを作らないように配慮。</ref>を設置<ref name="R&M0603_23">[[#R&M0603|『Rolling stock & Machinery』第6巻第3号、p.23]]</ref>。
* ワンマン運転時に一部扉が閉め切られることから車外客用扉付近に出入口を明示するLED表示器を設置。

また、直通予備ブレーキの追加のほか、自動解結装置、耐雪ブレーキも装備されている<ref name="R&M0603_24">[[#R&M0603|『Rolling stock & Machinery』第6巻第3号、p.24]]</ref>。

ワンマン対応工事と同時に[[緊急列車停止装置|EB装置]]が設置された。[[2005年]]から[[2007年]]にかけて、クモハ102形に[[列車便所|トイレ]]が設置された<ref name="rp201801_p76" />。2009年以降、ATS-Pや[[緊急列車防護装置|TE装置]]の取付が行われている<ref>{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 2010夏|year=2010|publisher=交通新聞社|page=169|id= ISBN 9784330143101}}</ref>。2014年度にはクモハ103-3503および3509のパンタグラフが2基搭載化された<ref name="rp201801_p76">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。76頁。</ref>。
{{-}}

==== 3550番台 ====
{{鉄道車両
| 車両名 = 3550番台
| 背景色 = #000000
| 文字色 = #ffffff
| 画像 = JR EC Mc102-3554.jpg
| 画像説明 = クモハ102-3554<br/>後部の窓がない部分がトイレ
| 運用者 = [[西日本旅客鉄道]]
| 種車 = 103系0番台
| 改造年 =
| 改造数 = 16両
| 運用範囲 = [[加古川線]]
| 起動加速度 = 2.5 km/h/s
| 常用減速度 =
| 非常減速度 =
| 自重 = 42.0 t(クモハ103)・42.3 t(クモハ103 2パンタ車)・42.6 t(クモハ102)
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-SW|ATS-SW]]
| 備考 =
}}
}}
</ref>。塗装もスカイブルー([[青22号]])にクリーム色([[クリーム1号]])の帯というオリジナルのものが用意された。国鉄車を示すJNRマークが正面に入っていた。折返時などの長時間停車での車内保温のため、4ドアのうち3ドアを締切る[[ドアカット]]機能を装備している<ref name="dk198211"/>。乗入先の地下鉄空港線内での[[ワンマン運転]]には対応しておらず、同線内の[[ホームドア]]との連動もできない。このため、地下鉄線内では車掌が乗務し、ドア扱いの際は車掌スイッチ操作とともにホームドア開閉ボタンを操作している。


[[2004年]](平成16年)12月19日の[[加古川線]]全線電化に伴い、同線に[[ワンマン運転]]対応の2両編成8本が投入された<ref name="rp201801_p109" />。網干総合車両所加古川派出所に配置されている。編成はクモハ103形・クモハ102形の2両編成で、それぞれモハ103形・モハ102形からの先頭車化改造車となっている<ref name="rf200408_p94">「CAR INFO JR西日本103系3550番台」『鉄道ファン』2004年8月号(通巻520号)、交友社。94頁。</ref>。車両番号は播但線用の[[#3500番台_2|3500番台]]に続いて3550番台へ区分された<ref name="rf200408_p97">「CAR INFO JR西日本103系3550番台」『鉄道ファン』2004年8月号(通巻520号)、交友社。97頁。</ref>。
1987年の国鉄分割民営化に際しては、全車がJR九州に継承された(同社に継承された103系は本グループのみ)。その後の状況については、[[#JR九州]]も参照されたい。


改造施工は吹田工場と[[下関総合車両所|下関車両センター]]で行われ、前面は播但線用の3500番台と異なり、地上用の[[#top|103系]]で初の貫通型となった<ref name="rf200408_p95">「CAR INFO JR西日本103系3550番台」『鉄道ファン』2004年8月号(通巻520号)、交友社。95頁。</ref>。種車は森ノ宮電車区・奈良電車区に所属していた体質改善40N工事施工済のMM'ユニットであり、先頭車化改造とワンマン化改造が行われた<ref name="rf200408_p95" />。電気連結器などは未装備である。落成が電化より早く、登場からしばらくは[[網干駅]]や、網干総合車両所などに留置された。
その後、4本が先頭車化改造により2分割されて3両編成化された([[#編成分割]]参照)ので、2010年時点は13本54両となっている。3両編成は限定運用され、6両編成は[[JR九州303系電車|303系]]の代走としての運用も持つ。クハ103-1504は[[1998年]]3月に[[今宿駅]]付近で強風により脱線し破損したが、復旧された。

この時期の体質改善は簡略化した30N工事に移行していた上にクモハ103形ユニットは車齢の高いものが多く<ref group="注">3500番台となった車両と同世代のクモハ103形ユニットは2011年3月廃車となった。</ref>、前面形状を変更<ref group="注">粟生駅([[三木鉄道]]廃止前は厄神駅も)で他社線乗り換え時には、2編成併結時でも無人駅と同様に1番前の車両の[[運賃箱]]でJR線の運賃を精算する必要があるため、貫通形にする必要がある。</ref>することから既存の運転台が使えないという事情があった。

運転台形状は大幅に変更され、[[前照灯]]を窓下に配置し、2編成併結時に乗客の通行ができるよう[[貫通扉]]を設置し、[[国鉄105系電車|105系]]に近いスタイルとなった。この措置には同時期に改造された[[国鉄115系電車|115系]]の岡山地区での改造車クモハ115形1600番台との共通点が見られる。

塗装はエメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には '''JR WEST JAPAN KAKOGAWA103''' の文字が書かれている。前面窓周りは黒色で塗装された。

; クモハ103形3550番台
: モハ103形0番台に運転台設置改造を施工した[[谷川駅|谷川]]方制御電動車。3555・3556・3558は運転台側屋根上に冬期架線[[集電装置#霜取りパンタ|霜取用パンタグラフ]]を増設している<ref name="rp201801_p34">平石大貴「103系電車形式集」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号(通巻941号)、電気車研究会。34頁。</ref>。
:* モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551 - 3558
:
; クモハ102形3550番台
: モハ102形0番台に運転台設置改造を施工した[[加古川駅|加古川]]方制御電動車。同社の本系列で初めて洋式[[車椅子]]非対応[[列車便所|トイレ]]を設置した。
:* モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551 - 3558
<gallery widths="180">
ファイル:JRWest1033550.JPG|クモハ103形3550番台<br/>霜取パンタ装備車
File:Series103 Kakogawa-line Cockpit.jpg|クモハ102系3550番台の運転台
</gallery>
{{-}}
{{-}}


== 国鉄時代の改造 ==
=== JR九州系列内改造 ===
==== クモハ103・102形1500番台 ====
国鉄は[[1970年代]]になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、一度投入した車両を改造して別の用途に振り向けた。
[[筑肥線]]は[[筑前前原駅|筑前前原]]を境に輸送量が大きく異なることから、以西運用の短編成化を行うことになり、1989年(平成元年)にJR九州小倉工場で6両編成9本のうち4本に対して3両編成8本に分割する改造が施工された。


{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
=== 101系サハ101形編入(750番台) ===
|-
1970年、大阪環状線103系の8両編成化にあたり、不足した付随車の補充として[[森ノ宮電車区]]の101系サハ100形サハ100-55・58、サハ101形サハ101-55・58の計4両が、両形式で形状が異なっていたジャンパ連結器(KE57形からKE70形へ)や[[幌#貫通幌|貫通幌]]などが103系と同一のものに交換されて組み込まれた。
|+ 1500番台編成
|-
|style="width:4em;"|タイプ
|colspan="6"|{{TrainDirection|[[西唐津駅|西唐津]]|[[福岡空港駅|福岡空港]]|}}
|style="width:6em;"|編成番号
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|style="width:4em;"|6両
|クハ103
|モハ103
|モハ102
|モハ103
|モハ102
|クハ103
|E01 + E02, E03 + E04<br/>E05 + E06, E07 + E08<br/>E09 + E10
|-
|style="width:4em;"|3両A
|クハ103
|モハ103
|クモハ102<ref group="*" name="JRK_1500">6両→3両編成で運転台設置改造施工車</ref>
|colspan="3" style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|E11, E13, E15, E17
|-
|style="width:4em;"|3両B
|colspan="3" style="background-color:#ccc;"|&nbsp;
|クモハ103<ref group="*" name="JRK_1500"/>
|モハ102
|クハ103
|E12, E14, E16, E18
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 編成番号 +1500で各形式の車両番号となる(6両編成車は3両一単位で編成番号が付けられている)


改造内容の概略は、6両編成組成時の3両目となるモハ102形と4両目となるモハ103形にクハ103形1500番台相等の運転台を取付、それぞれ'''クモハ102形'''・'''クモハ103形'''としたものである。そのため改造該当編成は2種類のパターンとなった。以下で改造の詳細・特徴について解説をする。
この4両は[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]の独自工事で、番号不変のまま[[1979年]](昭和54年)まで使用された後、全車通常形態に復元のうえで片町線の101系編成の5 → 6連化用に転用された。
* 形式変更のみで車両番号はモハ時代のものを踏襲。
* クハ103形の前面貫通路が地下鉄区間での非常脱出用であるのに対し、クモハ2形式の貫通路は併結時に通路となるため幌枠・貫通幌(貫通幌はクモハ103のみ)を装備する。
* 分割併結時の省力化ならびに時間短縮化の観点から電気連結器を装備する。
* [[福岡市地下鉄空港線]]用ATCは未搭載。(当初から当番台にATOを搭載する車両は存在しない)


地下鉄に乗り入れる際はATC未搭載であること、クハに貫通幌がないことからクモハを先頭車とせずにATCを搭載したクハを先頭車とし、クモハ同士を中間に向かい合わせで連結して6両編成を組んだ。このため、6両編成を組む場合、6両編成と同様に偶数番号編成と奇数番号編成の組み合わせのみ編成可能である。また、6両編成の片割れの偶数番号編成と3両編成の奇数番号編成、あるいは逆に6両編成の片割れの奇数番号編成と3両編成の偶数番号編成を連結して6両編成で走行することが可能である。3両編成で運行される区間は筑前前原 - 西唐津間に限定される。
1972年より、国鉄全体の工事としてサハ101形の編入工事が実施された。こちらは改造後、正式に103系の'''サハ103形750番台'''として区分された。種車には1962年度製造以降の車両が選ばれた。なお、サハ100形も同様に改造して「700番台」とする計画も存在したが、こちらは実現しなかった。


<gallery widths="250px" heights="125px">
車体そのものにはほとんど手を加えられていないものの、元々103系が101系の構造を基本に設計されている関係で、連結時の外観上の違和感は少ない。ただし、細部では101系の車高は103系よりやや低く、台車形式も異なる([[国鉄DT21形台車|DT21T形またはTR64形]])という若干の差異が見られた。
ファイル:JR kyushu 103-1500 E17 1.jpg|2代目九州色<br/>3 + 3の6両編成
ファイル:JRK103kuha.jpg|クハ103-1512(左)とクモハ102-1517(右)
</gallery>


=== 他系列への改造車 ===
新番号は連番で付されているが、改造時期、種車の形態、改造の内容によって以下の5種に細分できる。
==== 105系への改造 ====
*タイプI:サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751 - 767
[[ファイル:JNR105-500-wakayama color.jpg|thumb|200px|クモハ105形500番台]]
:非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による[[#冷房化改造|冷房化改造]]と側面行先表示器の設置がなされた。
[[ファイル:JNR EC Tc105-105.jpg|thumb|200px|仙石線のクハ105-105]]
[[ファイル:JR EC Tc104-551.jpg|thumb|200px|クハ104-551]]
{{main|国鉄105系電車}}
[[1984年]][[10月]]の[[奈良線]]・[[和歌山線]]([[五条駅 (奈良県)|五条駅]] - [[和歌山駅]]間)の電化開業と、[[可部線]]の旧型電車[[国鉄72系電車|72系]]の置き換えのため、[[常磐緩行線]]への[[国鉄203系電車|203系]]投入で捻出された103系1000番台を中心に、0番台を含む61両が1M方式の[[国鉄105系電車|105系]]に改造された<ref name="rp200404_p30">鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、30頁。</ref><ref name="rp201204_p28-30">「105系・119系電車形式集」『鉄道ピクトリアル』2012年4月号(通巻861号)、電気車研究会。28-30頁。</ref>。


中間車からの先頭化改造車では105系新造車と同形態の運転台ブロックを接合し、従来からの先頭車は種車の運転台が活用された<ref name="rf198408_p48">野元浩「4扉の105系登場」『鉄道ファン』1984年8月号(通巻280号)、交友社。48頁。</ref>。クハのうち制御引き通し線が車体の1&ndash;3位側を通る車両はクハ104形に、2&ndash;4位側を通る車両はクハ105形に区分された<ref name="rp201801_p85">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、85頁。</ref>。
*タイプII:サハ101-123・124・126→サハ103-768 - 770
:改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形から改造されたグループ。側面行先表示器は設置されなかった。


改造による形式の変更と両数は以下の通り<ref name="rp201801_p86">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、86頁。</ref>。分割民営化後はJR西日本に継承された。
*タイプIII:サハ101-282・299→サハ103-771・772
:改造の時点でAU75形で冷房化改造されていた[[国鉄101系電車#200番台|サハ101形200番台]]から改造されたグループ。200番台はMG・CPを搭載する車両であったが、改造時に撤去されている。側面行先表示器は設置されなかった。また、この2両は[[国鉄101系電車#冷房改造|試作冷房改造車]]で、冷房装置が車体中心からずれた位置に設置されている。


* モハ103形1000番台 → クモハ105形500番台(21両)
*タイプIV:サハ101-115・116・127・128→サハ103-773 - 776
* モハ102形1000番台 → クモハ105形500番台(11両)、クハ104形500番台(10両)
:非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房、側面行先表示器ともに設置されなかった。後年、JR東日本に継承された-775が[[#AU712形による冷房化|AU712形で冷房改造]]された以外は非冷房のまま廃車されている。
* クハ103形1000番台 → クハ105形0番台(14両)
:また、同じくJR東日本に継承された-774は[[豊田車両センター|豊田]]→[[中原電車区|中原]]→[[松戸車両センター|松戸電車区]](すべて当時の名称)と転用され、松戸電車区では[[青緑1号|エメラルドグリーン]]に塗装された(→[[#車両塗装]])。オリジナルの101系も含め、エメラルドグリーンの101車体はこれが唯一の例である。
* クハ103形0番台 → クハ105形100番台(4両)
* サハ103形0番台 → クハ104形600番台(1両)


1986年度末には、[[仙石線]]の冷房改造車4両編成1本が105系の2両編成2本に改造された<ref name="rp201801_p86" />。先頭化改造では103系0番台と同形態の非貫通の運転台が設置された<ref name="rp201204_p28-30" />。
*タイプV:サハ101-119・120・121・122→サハ103-777 - 780
:改造の時点でAU75形で冷房化改造されていたサハ101形から改造されたグループ。改造時に側面行先表示器が設置された。また、779以外の3両はJR西日本継承後の[[1993年]]に台車が103系と同一のTR212形に交換された。


改造による形式の変更は以下の通り<ref name="rp201801_p86" />。分割民営化後はJR東日本に継承された。
JR化後はJR東日本とJR西日本に継承された。一部は延命工事が実施された車両も存在したが、車齢の高い車両が多かったことから早期に廃車対象となり、2002年にJR西日本でサハ103-765が廃車となったのを最後に全廃となった。


* クモハ103形0番台 → クモハ105形100番台
=== 仙石線投入 ===
* クハ103形0番台 → クハ105形100番台
[[ファイル:JNR EC Mc103-9.jpg|thumb|240px|クモハ103-9 ドアを手で開けるための取っ手が追加された]]
* モハ103形0番台 → クモハ105形600番台
[[1979年]]より、仙石線の旧形車(おもに72系)の置き換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車([[#1974年 - 1981年製造車|1974年 - 1981年製造]])の投入で余剰となった、0番台初期車が投入された。この関係から、山手線、京浜東北線、[[横浜線]]、青梅・[[五日市線]]と様々な出自の車両が集まったが、塗装はスカイブルーに統一(→[[#車両塗装]])されていた。
* サハ103形0番台 → クハ105形600番台


JR化後の[[1989年]]11月に発生した桜井線の踏切事故により、[[ダンプカー]]との衝突で側面後部が大破したクハ105-7が廃車となった<ref name="rp201801_p109">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、109頁。</ref>。代替として[[明石電車区]]で保留車となっていた非冷房車のモハ102-385が105系に改造され、クハ104-551となった<ref name="rp201801_p109" />。廃車となったクハ105-7の運転台が接合され、電装解除とWAU102形冷房装置による冷房化を行い、冷房電源用に70 kVAのMGが設置された<ref name="rp201801_p109" />。
首都圏とは異なる仙石線の事情から、出入り口の半自動ドア化・客室ヒーターの増設など寒地向け改造が実施されていた。詳細は[[仙台車両センター宮城野派出所#103系電車|仙台車両センター宮城野派出所#103系前期車]]参照。全車JR東日本に継承された。

{{-}}
* モハ102形0番台 → クハ104形550番台<ref name="rp200404_p30" />

モハ102-385とユニットを組んでいたモハ103-230は、この改造に際して余剰廃車となっている<ref name="rp201801_p109" />。

== 延命工事 ==
車両の寿命は各社の規程などにより決められているが、置き換え時期を延命工事により伸ばし、その間の車両投資を抑制することで調達・製造~使用~廃棄の段階で必要となる費用を低減する効果や、陳腐化したアコモデーションの改善効果がある。

* 特別保全工事(国鉄・JR東日本・JR東海・JR西日本)
* リフレッシュ工事(国鉄・JR東海)
* 延命N工事(JR西日本)
* 延命NA工事(JR西日本)
* 延命NB工事(JR西日本)
* 車両更新工事(JR東日本)
* 延命N40工事(JR西日本)
* 体質改善40N工事(JR西日本)
* 体質改善30N工事(JR西日本)

=== 国鉄時代の延命工事 ===
==== 特別保全工事 ====
1980年代に入ると103系は製造後20年が経過することになったが、当時の国鉄は財政難で新車への早期置き換えが困難であったため、全般検査1回分程度の延命を図る特別保全工事が施工された<ref name="rp201801_p86" />。この工事は[[1981年]](昭和56年)度に国鉄小倉工場が423系に対して施行したのが最初であるが、103系では1981年度にクハ103-1で初めて施工され<ref name="rp201801_p87">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、p.87。</ref>、翌[[1982年]](昭和57年)度から本格的な工事が行われるようになった。工事はJR化後にも施工されている<ref name="rp201801_p86" />。

主な改造内容は車体腐食部分の貼り替え、配管や配線の引き直しなどである<ref name="rp201801_p86" />。関東地区では車内化粧板の暖色化、座席モケットの茶色化などのアコモデーション改良も行われた<ref name="rp201801_p87" />ほか、関西地区では同時に屋根の塗り屋根化、側引戸やドアレールのステンレス化なども同時に施工された例がある<ref name="rp201801_p87" />。

==== リフレッシュ工事(国鉄) ====
関西地区の103系は国鉄分割民営化直前時点で製造後18年以上の車両が1000両以上在籍しており、JR西日本に継承後も10年から15年ほどの継続使用が必要なため、民営化後に行う更新工事の試作として特別保全工事を一歩進めたリフレッシュ工事が施工された<ref name="rp201801_p88">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、p.88。</ref>。この工事内容の一部は民営化後の延命N工事にも継承されている<ref name="rp201801_p88" />。

改造内容は特別保全工事の内容に加え、関西向けの特別保全工事で行われなかったアコモデーション改良を行い、各所のステンレス・アルミ材化も行われた<ref name="rp201801_p88" />。座席と床・壁が接する[[巾木]]部分に[[繊維強化プラスチック|FRP]]材の面取りが設置されたほか、貫通扉は103系一般車で初のステンレス製となった<ref name="rp201801_p88" />。

=== JR東日本の延命工事 ===
==== 車両更新工事 ====
国鉄時代から特別保全工事が施工されていたが、同社では、[[1988年]](昭和63年)から一層徹底した延命工事に切り替えられた。施工対象は、主に1967年 - 1972年製造車で、一部は冷房化も施工された。

* 工事内容
** 屋根鋼板補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
** 雨樋取替
** 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺)
** 側窓枠取替
** 外板塗装更新
** 空気配管取替および除湿装置取付
** 主回路配線引替
** ジャンパ連結器の取替および片栓車の両栓化
** 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
** 室内化粧板とカーテン取替
** シートモケット取替(フットライン入り)
** 握り棒・荷物棚の[[ステンレス鋼|ステンレス]]化
** [[つり革|吊手]]の取替
** 側扉を除いた各ゴム類の黒ゴム化(戸先・戸当り・Hゴム・押えゴム)
** 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式。一部車両はドア自体をゴムの無い金属押え方式のものに交換したほか、更新前に金属押さえ方式に交換された車両はそのままとした。)

本工事は複数の工場が担当しており、車内でも化粧板の柄や腰掛モケットが異なるなど、仕様に差異が見られる。*大井工場施工車の一部は袖仕切設置が施工され、長野工場施行車はドアコック蓋が原型のままである、など。

[[1992年]](平成4年)に低費用で量産可能な209系が登場するとJR東日本は更新工事を中止し、老朽車の置換えに移行した。そのため、後期車の大半は未更新車であり、後期車の多い中央・総武線では更新車の比率が他の路線に比べて低かった。

==== 仙石線向けアコモデーション改善工事 ====
[[ファイル:JNR EC Mc103-155.jpg|thumb|right|200px|末期の103系更新車(RM-155編成)]]
{{試聴|filename=Jre103doorbuzzer northdoorclose.ogg|title=103系ドアブザー(北側)|filename2=Jnr103doorbuzzer southdooropen.ogg|title2=103系ドアブザー(南側)}}
[[ファイル:T103-234-yane.jpg|右|サムネイル|200x200ピクセル|ベンチレーター撤去後の屋根の状況(サハ103-234)]]
国鉄時代より在籍していた仙石線の103系は非冷房の初期車が多かったことから、JR化後の[[1989年]]より首都圏への205系投入で余剰となった車齢の浅い103系冷房車が転入し、初期車が置き換えられた<ref name="rp201801_p105">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、105頁。</ref>。

仙石線への転用に際しては、首都圏における車両更新工事の内容に加えて、仙石線の事情を考慮したアコモデーション改善工事が施工された<ref name="rp201801_p104">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、104頁。</ref>。改造に伴う区分変更・改番は行われていない。一部は冷房化率100 %を早期に達成するため、未更新のまま入線した車両もある(その後、改めて改造を施工して再入線している)。

前面は窓が2枚窓となり、運行番号表示器は列車愛称・種別表示器に交換された。郡山工場への入場回送用の標識灯掛けも前面下部に設置されている。塗装は上からアイボリー・青(太線)・スカイブルー(側扉はアイボリー単色)に変更された。AU712形による冷房改造車では、側面方向幕が未設置の車両にも更新時に方向幕が設置された。偶数側クハに関しては、AU712で側面幕が搭載された唯一の例となっている。

窓は上段下降・下段固定のユニット窓に交換され、ドア窓の大型化などが行われた<ref name="rp201801_p104" />。扉はボタン式の半自動ドアとなり<ref name="rp201801_p104" />、ドアブザーの設置が行われた。座席はバケットシート化され、袖仕切が設置された<ref name="rp201801_p104" />。内壁も張替が行われ、先頭車にはゴミ箱も設置された(のちに撤去)。

最終投入車で[[1994年]]投入のRM-155編成は、首都圏で更新済みであったことなどから工事が簡略化され、ユニット窓化と客用引戸の交換が省略された<ref name="rp201801_p105" />。

[[1998年]]には、105系の置き換えのため、車両更新工事施工済みの4両編成2本(RT-299・371編成)が京浜東北線より追加転入した<ref name="rp201801_p105" />。先頭車は高運転台のATC車、中間車は非ユニット窓車であり、この編成も窓とドアの交換が省略された<ref name="rp201801_p105" />。先頭車はATC機器の撤去と戸袋窓の設置、前面のステンレス飾帯の撤去が行われている<ref name="rp201801_p105" />。塗装もこの高運転台車編成で白にコバルトブルーを配した「'''SENSEKI LINE'''色」に変更され、のちに従来車も変更されている。


のちにRT-105・107・131・235編成ではモハ103形に霜取り用の[[集電装置|パンタグラフ]]が増設され2基搭載となり、[[2000年]]には扇風機やベンチレーターの撤去も施工された<ref name="rp201801_p104" />。
=== 中央本線名古屋地区投入 ===
[[ファイル:JNR EC Mc103-36.jpg|thumb|240px|クモハ103-36]]
1977年、ATC対応車の投入で余剰となった0番台初期車が中央本線(中央西線名古屋地区)に投入され、[[神領車両区|神領電車区]]に配置された。こちらは初期投入分が京浜東北線と横浜線、後期投入分が青梅・五日市線からの転用と、比較的統一されていた。塗装は仙石線同様にスカイブルーに統一された。


2002年より205系3100番台への置換えが開始され、103系は2004年7月までに運用を終了し、RT-235編成を除く17編成が廃車・解体された。RT-235編成は2007年に仙石線での運用を再開し、2009年まで運用された。
転入に当たって運転席前面ガラスの霜取り用にデフロスターを取り付けた他、助士席側へのワイパーの増設、先頭車側面へのサボ(行先方向板)受けの設置などが行われている。サボを使う関係で冷房車でも方向幕の使用は行っていなかった。また、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などの固定表示(ステッカー貼付)としていた。


=== JR東海の延命工事 ===
ラッシュ時には10両編成で運転されていたが、投入当初は首都圏でよく見られた3+7両編成ではなく6+4両編成 (McM'TMM'Tc'+McM'TTc') であった。これは置き換え前の[[国鉄72系電車|72系]]が5+5両編成であり、それに近い両数としたためである。[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]]からは日中の輸送力適正化のため、日中運転用の付属編成を3両とするため、7+3両編成 (McM'TTMM'Tc'+McM'Tc') となった。
==== リフレッシュ工事(JR東海) ====
[[ファイル:JNR EC M102-97.jpg|thumb|200px|モハ102-97<br/>C-AU711A形冷房改造・リフレッシュ工事施工]]
103系はJR化後も引き続き特別保全工事が行われたが、[[国鉄211系電車|211系5000番台]]が増備されると室内のアコモ関係の格差が目立つようになった。このため、特別保全工事の内容に加えて接客設備の水準を新造車並みにグレードアップするリフレッシュ工事が[[1989年]]より開始され、1990年度までに50両に施工された<ref name="rp201801_p106" />。


側窓・妻窓は上段下降・下段固定のユニット窓となり、側扉・妻扉はステンレス製に交換された<ref name="rp201801_p106" />。内装は白色の化粧板となり、妻扉の車内側に化粧板が貼付けられた<ref name="rp201801_p106" />。座席は袖仕切り付きのバケットシートとなり、握り棒・荷物棚が独立したタイプとなっている<ref name="rp201801_p106" />。一部の車両では、客用扉の窓の大型化と車内側への化粧板貼付けも行われている<ref name="rp201801_p106" />。
=== クハ103形0番台の1000番台併結対応化改造 ===
[[ファイル:JNR EC Tc103-188.jpg|thumb|240px|クハ103-188 番号下に白線が見える]]
[[1983年]]に常磐線で車両需給上、[[#0番台|クハ103形0番台]]2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じ、該当編成に組まれるクハ103形0番台4両(クハ103-93・188・627・636)に対して1000番台併結対応改造が施工された。


車体塗装は従来のスカイブルー(青22号)からクリーム地にオレンジ・緑帯の[[湘南色]]を配するJR東海カラーに変更された<ref name="rp201801_p106" />。床下機器もグレー一色に塗装された。塗色変更当初は前面にJRマークがなく、帯に切れ目がなかった。
内容は乗務員室に非常用ブザーの取付、非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付で、-188のみ車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)が併せて行われている。この工事の施工車は、一般車との識別のために外部の車両番号下部に白線が追加された。
{{-}}
{{-}}
=== JR西日本の延命工事 ===
==== 延命N・NA工事 ====
国鉄時代の「特別保全工事」と国鉄末期の「リフレッシュ工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。


; 延命N
=== 3000番台(川越線電化など) ===
: 製造から30年の使用を目指し外板整備・機器の一部更新・配管の交換および化粧板の張替・客室扉のステンレス化・妻窓の固定化など。1972年までの製造車大半が該当。白熱灯1灯装備の制御車は2灯シールドビーム化、非冷房車には同時に冷房改造を受けたものが大半であったが、一部例外もあった。
[[ファイル:JRE-EC103-3000.jpg|thumb|240px|3000番台(2005年2月6日 拝島駅)]]
; 延命NA
国鉄は[[1974年]](昭和49年)以降、仙石線に72系4両編成5本計20両、車体を<!--[[台枠]]を残して←[[国鉄72系電車#アコモデーション改良車]]によると、台枠は72系仕様の物を新規に制作したとあるが、真偽のほどは?-->当時製造されていた[[#1974年 - 1981年製造車|103系0番台]]と同一のものに載替える改造を行った車両を投入した(→ [[国鉄72系電車#モハ72形970番台・クハ79形600番台]])。
: 国鉄時代の特別保全工事施工車を対象とし、内壁の張替など前述の延命N工事に準じた工事を施工。一部車両には、客用扉がHゴムを廃した金属押さえのものに交換されたものが存在し、内側に化粧板を張り付けた形態も見られた。
<gallery>
ファイル:JRwest103 HK610.jpg|延命N車
ファイル:JRwest103 N.jpg|延命NA車
ファイル:JR103N室内2.jpg|延命NA車車内<br/>扉にまで化粧板が張られている
</gallery>


==== 延命NB・N40工事 ====
この72系20両は、車体だけは103系とほぼ同一であったことから、103系の投入([[#仙石線投入]])によって[[1980年]](昭和55年)までに同線の未更新の旧形車両が置換えられた後も使用されていたが、[[1985年]](昭和60年)に同線の車両を103系に統一するために追加投入された103系により置換えられ、運用を失った。
; 延命NB
: 1970年(昭和45年)以前製造の初期車が対象で延命N工事と同時にWAU102形搭載冷房改造・側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換を施工。施工車両は11両に留まり、2006年(平成18年)4月までに全車廃車となった。
; 延命N40
: 製造から40年の使用を目指し、従来の延命N・NA工事内容に加え、塗装総剥離塗り替え・雨樋の[[繊維強化プラスチック|FRP]]化・窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など。主に1973年 - 1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも施工。この工事で採用された黒色サッシは取付部枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少。なお、延命NA工事で行われた客用扉の交換は見送られている。


<gallery>
一方[[首都圏]]では、この時期[[川越線]]の[[鉄道の電化|電化]]を行っており、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[川越駅]] - [[高麗川駅]]間の区間運転のために[[電車]]が必要となった。モハ72形970番台・クハ79形600番台の車体は経年が浅かったため、これらの転用によって必要分をまかなうことになり、1985年に集中台検<ref>予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換などとしてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。</ref>の廃止および工場の予備品見直しにより捻出した103系のMT55形主電動機とDT33形動力台車、101系の廃車で発生したDT21T形付随台車をこれらの車体と組み合わせて[[新性能電車|新性能化]]<ref>機器改造の理由として、足回りの老朽化が進んでいたこと、車体は新形であるが下回りは旧性能電車と同じで検査周期が短く費用がかさむことの他に、当時[[埼京線]]が開通する際に投入予定であった元山手線の103系が同じ路線を走行する際に、機器が旧性能のままでは[[ダイヤグラム|ダイヤ]]編成上の障害となる恐れがあったためとされる。</ref>したうえで川越電車区(→ [[川越車両センター]])に投入した。
ファイル:JR West103orange01.jpg|延命N40車
ファイル:JR103 N.jpg|延命NA車(左)<br/>延命N40車(右)
ファイル:L25_Tc103-516_680.jpg|延命NB車
ファイル:JR103N室内.jpg|延命N40車車内
</gallery>


==== 体質改善工事(40N) ====
これにより、これらの車両は103系に編入されることになったが、以下の理由により一般の103系とは様々な差異が生じており、'''3000番台'''と区分された。なお、車端部につけられた製造銘版には改造種車の製造年である[[1952年|昭和27年]]あるいは[[1954年|昭和29年]]製造と記載されており、オリジナル103系よりも10年も早くから存在していたことになっている。
[[1996年]](平成8年)以降、後継の[[JR西日本207系電車|207系]]との落差改善ならびに延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした体質改善工事が施工された。工事施工車の車番標記は、国鉄時代の丸ゴシック体→JR西日本独特の書体([[モリサワ]]・[[新ゴ]])に変更された。40N体質改善工事は1995年度から2001年度にかけて129両に、30N体質改善工事は2002年度から2004年度にかけて48両に施工された。


40N車では老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため以下の工事を施工した。
仙石線時代の編成は'''クハ-モハ-モハ-クハ'''であったのに対し、当時3両編成で使用する計画であったために、'''クハ-モハ-クモハ'''の編成に変更された。一般的な103系の3両編成は制御電動車がパンタグラフ・制御器を搭載する'''クモハ103形'''、中間電動車が補器類を搭載する'''モハ102形'''となるが、中間車にパンタグラフが取付けられていた種車の車体構造を極力活かす目的で、制御電動車が補器類を搭載する'''クモハ102形'''、中間電動車がパンタグラフ・主制御器を搭載する'''モハ103形'''に改造された。この車種の違いと車両の向きにより、通常ユニット相手の電動車側に設置されるモハ103形のパンタグラフが、反対側のユニットの外側に設置された。
{{col|
クハ103形の台車は101系発生品のDT21T形が装着されたが、これは[[#101系サハ101形編入(750番台)]]の項でも触れたとおり、103系のTR212形とは異なる形状であった。さらに費用の問題から冷房化は見送られ、クモハの存在とともに通常の103系0番台[[1974年]](昭和49年)度以降製造車には見られない、大きな特徴となった。
* 張り上げ屋根化
103系やモハ72形970番台は主電動機の冷却風を車体側面に設置された風道から採風していたが、元々主電動機を持たなかったクハ79形600番台はその設備を持たず、新たに車体に風道を設置するのでは工事が大掛りとなるので実施されなかった。そこで、モハ72形970番台から改造されるモハ103形とともに、主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用され、モハ72形970番台の風道と取入口は1両を除いて改造時に埋め込まれている。また、クモハ102形に搭載のMGについても同様の方式とされた。なお、このMGはモハ72形970番台が装備していたものが流用されている。
* 屋根上通風器の撤去
川越線も仙石線同様に冬季寒冷となるため、72系時代からの半自動扉機能<ref>停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬季の車内保温の目的で装備される。3000番台の場合はドアに取手が付いており、手動で開閉するものを装備。なお、取手には2種類の形状が存在し、ともに装備する車両も存在した。</ref>が残された。このため、戸閉装置は72系時代からの半自動扱の容易なTK8形が引き継がれ、103系とは異なったものとなった。
* 一部外板のステンレス化
仙石線時代、[[閉塞 (鉄道)#通票|タブレット]]が使用されていたため、タブレットがぶつかることを考慮して運転台直後の戸袋部には窓は設けられず、その場所には保護板が設置されていた。一部の車両は改造時に保護板が撤去され、同時期のATC車然とした外観となった。
* 側面ルーバーの形状変更
;編成構成は以下のとおり。
* 方向幕の形状変更
:↑[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]
* 運転台の整備
*クハ103形3000番台
* 運転台・ドア窓支持の変更
*モハ103形3000番台
* 運行番号表示器・行先表示器・前灯部分の内支持化
*クモハ102形3000番台
* ドア間窓を下段固定・上段上昇の3分割[[バス (交通機関)|バス]]風逆T字サッシに交換
[[ファイル:JNR EC T103-3004.jpg|thumb|240px|サハ103-3004]]
|
上記の改造に漏れたモハ72形5両は電装解除されてサハ103形3000番台となった。機器類は他3車種と同様、流用品である。これらは[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|1986年11月のダイヤ改正]]で青梅線の3両編成を4両化するのに使用された。かつて電動車であった関係から、屋根上にパンタグラフ設置跡が残るなどの特徴がある。
* 車端部窓を固定1枚窓サッシに交換
;編成構成は以下のとおり。
* 内壁・床の取り替え
:↑[[立川駅|立川]]
* 座席クッションの更新
*☆クモハ103形0番台
* [[網棚|荷棚]]を金網式からパイプ式化
*☆モハ102形0番台
* 照明へのカバー取付
*サハ103形3000番台
* 扇風機→ラインデリアへの交換
*☆クハ103形500番台・900番台
* 冷房風道のラインフロー化
:☆印は組み込み先の編成。
* 車内スピーカーの更新・増設
|}}
本工事の施工1号となった8両編成1本(試作改造車)<ref group="注">クハ103-245 + モハ103-387 + モハ102-543 + サハ103-409 + サハ103-404 + モハ103-408 + モハ102-564 + クハ103-264</ref>は、以下の相違点がある<ref name="jtoa2004-8">日本鉄道運転協会『運転協会誌』2004年8月号「西日本旅客鉄道体質改善工事の概要」pp.13 - 16。</ref>。量産改造車では、費用対効果の面から採用は見送られたものである<ref name="jtoa2004-8"/>。


* ドアエンジンがTK4形(座席下内蔵型)からドア上部設置の直動式に交換<ref name="jtoa2004-8"/>
JR化後は路線の関係で全車がJR東日本に継承され、[[#AU712形による冷房化|AU712形]]冷房装置を搭載して冷房化がなされた。[[1996年]](平成8年)には[[八高線]]の電化に伴い同線でも使用されるようになるとともに、輸送力増強でサハ103形3000番台が川越線の他の3000番台編成に組込まれ、仙石線時代と同じ4両編成となった。また、0番台を改造した3500番台の4両編成1本が増備された(→ [[#八高線 八王子 - 高麗川間電化関連(3500番台)]])。
* 座席全交換(207系と同一の下部が空洞の片持ち式)<ref name="jtoa2004-8"/>。暖房器をつり下げ式に取り替え<ref name="jtoa2004-8"/>
* 前灯は原形維持
* 補助電源装置を電動発電機(MG)から[[静止形インバータ]](SIV)に取り替え<ref name="jtoa2004-8"/>([[東洋電機製造]]製・[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]3レベル方式・160 kVA)<ref name="ToyoDenkiTechnology98">東洋電機製造『東洋電機技報』第98号(1997年4月)「西日本旅客鉄道向け103系体質改善モデル車両用補助電源装置」p.4。</ref>。
* 妻窓残存(のちの検査で埋込まれた)
* 下枠交差式パンタグラフの取り付け(のちの検査で菱形に戻った)


後にこの編成はサハを除き日根野電車区へ転属したが、2013年(平成25年)3月に廃車となった。その後もサハは、日根野から転属して来た体質改善40N (LA1) 編成の中間に組み込まれて運用されていたが、[[JR西日本323系電車|323系]]投入に伴い、[[2017年]](平成29年)[[1月]]に、廃車前提で吹田工場に回送された。
しかし、老朽化により[[国鉄205系電車#八高・川越線向け|205系]]などと交代で廃車が進められ、[[2005年]](平成17年)[[10月2日]]の「川越線電化20周年記念号」をもって運行を終了した。その後もハエ53編成(クハ103-3003以下4両)が予備車扱いで残存し、実際に205系の車両故障で運行に入ったこともあった(これが本当の最終運用となった)が、同年11月中旬までに全車が廃車・解体されて消滅した。


陳腐化対策の場合、資本的追加とみなされ[[減価償却]]の対象とされることもあり、将来の新車投入計画に合わせて工事内容は順次縮小された<ref name="rp201801_p115">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、115頁。</ref>。工事内容も次第に冷房風道のラインフロー化→従来風道の再用やラインデリア(1998年度 - )→扇風機などの簡略化が進み、2002年度からは後述の30N工事に移行した<ref name="jtoa2004-8"/>。
※旧番号との対照は、72系の該当項目を参照。


40N体質改善工事は以下の車両に施工された('''太字'''は3550番台に再改造)。
=== 関西方面編成数増加関連(2000・2050番台) ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 1em 1em 3em;"
[[1986年]](昭和61年)の[[関西本線]](大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策<ref>国鉄では[[1980年代]]より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策([[フリークエント・サービス]]、広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期、全国的に先頭車が不足する傾向にあった。[[1984年2月1日国鉄ダイヤ改正]]・[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]]も参照。</ref>に伴い先頭車が不足したため、余剰となっていた101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の2形式が設定された。
|-
| colspan="11" |{{TrainDirection|奈良・和歌山|大阪}}
|- style="border-top:solid 5px #0072bc;"
! style="width:6em;" |クハ103
! style="width:6em;" |モハ103
! style="width:6em;" |モハ102
! style="width:6em;" |サハ103
!サハ103
!モハ103
!モハ102
!クハ103
! style="width:6em;" |竣工
! style="width:6em;" |初期配置
! style="width:6em;" |備考
|-
|245
|387
|543
|404
|409
|408
|564
|264
|1996.3.30
|森ノ宮
|体質改善工事試作車
|-
|
|481
|637
|
|
|
|
|
|1996.12.6
|奈良
|
|-
|
|510
|666
|415
|
|
|
|
|1997.1.11
|森ノ宮
|
|-
|
|496
|652
|
|
|
|
|
|1997.2.27
|奈良
|
|-
|255
|398
|554
|
|
|
|
|
|1997.3.28
|森ノ宮
|パワー・オブ・ハリウッド号ラッピング
|-
|
|482
|638
|
|
|
|
|
|1997.4.18
|奈良
|
|-
|
|
|
|384
|
|
|
|
|1997.4.18
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|
|371
|
|
|256
|1997.6.11
|森ノ宮
|パワーオブハリウッド号ラッピング(クハ)
|-
|
|
|
|
|
|399
|555
|
|1997.7.5
|森ノ宮
|パワー・オブ・ハリウッド号ラッピング
|-
|
|
|
|
|
|
|
|182
|1997.7.22
|奈良
|
|-
|
|
|
|
|
|
|
|240
|1997.7.28
|森ノ宮
|アメリカの街並風景→スパイダーマン号ラッピング
|-
|239
|
|
|
|
|
|
|
|1997.9.2
|奈良
|
|-
|
|
|
|
|483
|
|
|
|1997.9.2
|森ノ宮
|
|-
|
|396
|552
|
|
|
|
|
|1997.9.30
|森ノ宮
|アメリカの街並風景号ラッピング
|-
|
|
|
|
|399
|528
|684
|
|1997.12.26
|森ノ宮
|
|-
|
|529
|685
|400
|
|
|
|
|1998.4.22
|森ノ宮
|
|-
|
|488
|644
|
|
|
|
|
|1998.6.12
|奈良
|OSAKA POWER LOOP
|-
|
|504
|660
|482
|
|
|
|
|1998.7.10
|森ノ宮
|アメリカの街並風景→スパイダーマン号ラッピング
|-
|
|509
|665
|370
|
|
|
|
|1998.8.31
|森ノ宮
|OSAKA POWER LOOP(サハ)
|-
|
|521
|677
|425
|
|
|
|
|1998.9.29
|森ノ宮
|
|-
|
|490
|646
|401
|
|
|
|
|1999.1.22
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|
|402
|491
|647
|
|1999.2.9
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|
|424
|520
|676
|
|1999.2.26
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|410
|
|
|
|
|1999.3.12
|森ノ宮
|
|-
|
|'''659'''
|'''815'''
|
|
|'''660'''
|'''816'''
|
|2000.7.11
|日根野
|
|-
|
|'''726'''
|'''882'''
|
|
|'''728'''
|'''884'''
|
|2000.8.12
|奈良
|
|-
|799
|
|
|
|
|
|
|
|2000.9.26
|奈良
|アメリカの街並風景→スパイダーマン号
|-
|833
|775
|2032
|
|
|782
|2039
|840
|2000.9.26
|宮原
|ウッドペッカー号ラッピング
|-
|
|'''730'''
|'''886'''
|484
|
|
|
|
|2000.10.30
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|
|
|'''731'''
|'''887'''
|806
|2000.11.30
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|
|
|
|
|836
|2000.12.18
|奈良
|
|-
|
|'''714'''
|'''870'''
|
|
|
|
|
|2001.2.20
|森ノ宮
|
|-
|823
|763
|2020
|
|
|764
|2021
|830
|2001.2.27
|森ノ宮
|ユニバーサルグローブ→セサミストリート号ラッピング
|-
|841
|
|
|
|
|
|
|848
|2001.3.12
|奈良
|OSAKA POWER LOOP
|-
|
|
|
|475
|
|
|
|
|2001.3.15
|森ノ宮
|OSAKA POWER LOOP
|-
|
|
|
|
|
|'''715'''
|'''871'''
|800
|2001.3.31
|森ノ宮
|
|-
|827
|767
|2024
|
|
|768
|2025
|834
|2001.10.18
|日根野
|
|-
|
|
|
|
|486
|
|
|
|2001.11.6
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|
|
|
|
|804
|2001.11.21
|奈良
|
|-
|837
|781
|2038
|
|
|786
|2043
|846
|2002.1.12
|宮原
|スパイダーマン号ラッピング(モハ103-781・モハ102-2038)
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|-
| colspan="6" |{{TrainDirection|奈良・和歌山|大阪}}
|- style="border-top:solid 5px #0072bc;"
! style="width:6em;" |クモハ103
! style="width:6em;" |モハ102
! style="width:6em;" |クハ103
! style="width:6em;" |竣工
! style="width:6em;" |初期配置
! style="width:12em;" |備考
|-
|2504
|451
|192
|1997.11.12
|日根野
|羽衣線ワンマン対応
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|-
| colspan="5" |{{TrainDirection|寺前|姫路}}
|- style="border-top:solid 5px #0072bc;"
! style="width:6em;" |クモハ103
! style="width:6em;" |クモハ102
! style="width:6em;" |竣工
! style="width:6em;" |初期配置
! style="width:6em;" |備考
|-
|3501
|3501
|1998.3.5
| rowspan="9" |網干
| rowspan="9" |播但線ワンマン対応
|-
|3502
|3502
|1997.12.20
|-
|3503
|3503
|1998.3.6
|-
|3504
|3504
|1997.10.8
|-
|3505
|3505
|1998.2.3
|-
|3506
|3506
|1997.12.15
|-
|3507
|3507
|1998.2.26
|-
|3508
|3508
|1997.9.24
|-
|3509
|3509
|1998.2.26
|}
<gallery>
ファイル:JRW-103-EMU-KansaiLine.jpg|体質改善40N車(低運転台)
ファイル:Osaka-Loopline_series103.jpg|体質改善40N車(高運転台)
ファイル:JNR EC Tc103-245.jpg|体質改善40N試作車<br/>クハ103-245 ※2013年3月廃車
ファイル:JNR 103-JR West R.jpg|方向幕部分支持方法の相違<br/>内支持(左)金属枠支持(右)
ファイル:JR103R室内.jpg|体質改善40N車車内<br/>冷房風道ラインフロー化<br/>ラインデリア改造車
ファイル:JR103R室内2.jpg|体質改善40N車車内<br/>風道改造・妻面窓閉塞車
ファイル:JNR 103-JR West 40N interior.jpg|体質改善40N試作車車内<br/>下部空洞化片持ち式座席
ファイル:JNR 103 Fan1-JR West.jpg|カバー取付扇風機<br/>ラインデリア化省略車
ファイル:JNR 103 Fan2-JR West.jpg|(参考)通常の扇風機
</gallery>


==== 体質改善工事(30N) ====
*クハ103形2000番台:クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001 - 2004
2002年度以降、新車投入ペースが速まり本系列の車齢も高まったことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小された<ref name="jtoa2004-8"/>。直接保守面・接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡略化され、体質改善40Nに比べて側扉・側窓・屋根雨樋などが原形のままとされた<ref name="jtoa2004-8"/><ref name="rp201801_p115" />。主な修繕内容は、車体腐食部の修繕、化粧板の交換、つり革の増設、荷棚の交換に留めている<ref name="jtoa2004-8"/>。この形態にはサハ103形、クモハ103形は存在しない。
:非冷房のクハ100形から改造された車両。[[奈良電車区]]に投入され、おもに関西本線で使用された。
*クハ103形2050番台:クハ101-78・83→クハ103-2051・2052
:非冷房のクハ101形から改造された車両。[[日根野電車区]]に投入され、おもに阪和線で使用された。


2002年9月13日付けで竣工した奈良電車区所属のクハ103-797 + モハ103-494 + モハ102-650の3両が初の30N体質改善車となった。その後も、1973年以降に製造された車両のうち、延命工事を含む上述5種類の更新未施工のクハ103形とMM'ユニットが施工対象とされた。[[2005年]]3月までに2両(モハ103-405 + モハ102-561)<ref group="注">2011年3月30日をもって廃車。</ref>を除く全車両に施工された。
同様の存在である[[#101系サハ101形編入(750番台)|サハ103形750番台]]同様、車体にはほとんど手が加えられていない。101系と103系では前面の窓形状が異なっているため、サハ103形750番台より差異が目立つ車両となった。また、全車とも冷房や側面行先表示器の設置はなされなかった。


{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 1em 1em 3em;"
JR化後は、両線とともに全車がJR西日本に継承された。やはり、経年や事故で早期に廃車対象となり、[[1991年]](平成3年)にクハ103-2052が阪和線のATS-P形化に際し、対応工事をなされないまま京阪神緩行線に転用される動き([[京阪神緩行線#分割民営化前後]]([[1983年]](昭和58年) - [[1994年]](平成6年))参照)があったものの、[[1992年]](平成4年)までに全車廃車・解体されて消滅した。
|-
| colspan="9" |{{TrainDirection|奈良・和歌山|大阪}}
|- style="border-top:solid 5px #0072bc;"
! style="width:6em;" |クハ103
! style="width:6em;" |モハ103
! style="width:6em;" |モハ102
!モハ103
!モハ102
!クハ103
! style="width:6em;" |竣工
! style="width:6em;" |初期配置
! style="width:12em;" |備考
|-
|797
|494
|650
|
|
|
|2002.9.13
|奈良
|OSAKA POWER LOOP(モハ)
|-
|
|784
|2041
|
|
|
|2002.10.11
|宮原
|
|-
|
|533
|689
|
|
|
|2002.11.15
|森ノ宮
|
|-
|
|771
|2028
|
|
|
|2003.3.26
|宮原
|
|-
|
|525
|681
|
|
|
|2003.3.28
|森ノ宮
|
|-
|
|425
|581
|
|
|
|2003.6.27
|森ノ宮
|
|-
|
|
|
|424
|580
|
|2003.7.28
|森ノ宮
|
|-
|831
|773
|2030
|774
|2031
|838
|2003.8.28
|奈良
|
|-
|843
|
|
|
|
|850
|2004.1.20
|奈良
|
|-
|
|
|
|386
|542
|244
|2004.2.14
|森ノ宮
|
|-
|829
|
|
|
|
|
|2004.3.26
|奈良
|
|-
|
|769
|2026
|
|
|
|2004.7.9
|日根野
|
|-
|
|
|
|
|
|802
|2004.7.16
|奈良
|
|-
|
|785
|2042
|
|
|
|2004.7.23
|森ノ宮
|
|-
|825
|765
|2022
|766
|2023
|832
|2004.10.14
|日根野
|
|-
|
|
|
|779
|2036
|844
|2004.12.15
|日根野
|
|-
|835
|777
|2034
|
|
|842
|2005.1.28
|日根野
|
|-
|
|783
|2040
|
|
|
|2005.2.21
|日根野
|
|-
|261
|
|
|
|
|
|2005.3.19
|森ノ宮
|
|}
<gallery>
ファイル:JR West103orange02.jpg|体質改善30N車(低運転台)
ファイル:JR103R室内3.jpg|体質改善30N車車内<br/>原型窓・照明カバー省略以外は40N車に準ずる
</gallery>


=== 冷房化改造 ===
== 改造 ==
改造工事は、形式間改造と呼ばれるもの、耐用年数を延長するための延命工事の他に、線区の特性に合わせた付加設備を追加するもの、車両の性能や旅客設備の向上を図るものなどがある。
103系では[[#1973年製造車|0番台1973年製造車]]以降、一部を除き冷房装置が標準搭載されるようになり、在来車についても、[[1975年]](昭和50年)以降冷房化改造が実施された。


103系は様々な線区に使用されたこともあり、線区固有の設備を車両に追加設置する工事などもあった。また、機能的な面や腐食対策などでも改善が加えられるケースも含めて、下記のような項目にて改造された。ここでは国鉄時代とJR化後に大きく分けて説明する。国鉄時代からJR化後も継続して工事を続けたものは国鉄時代に始めた改造の方で取り上げる。
主な改造施工内容は、構体を補強のうえで冷房装置および側面行先表示器取付、モハ102形の電動発電機を制御電源用の20kVAから制御・冷房電源兼用の160kVAに交換など、新製冷房車に準じたものになっている。


* 前照灯シールドビーム化改造
一方、1975年夏に関西地区で両端のみ非冷房の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように各区で施工している。
* 屋根の塗り屋根化改造
* 冷房取付改造
* 前面排障器取付改造
* ドアの半自動改造
* パンタグラフの2台化改造
* ワンマン運転対応改造
* トイレ設備取付改造
* 自動分割解結装置取付改造
* 電気連結器取付改造
* 列車無線取付改造
* ATC機器取付改造
* ATS-P機器取付改造
* 戸袋窓埋込改造
* 妻窓埋込改造
* ドアレール座ステンレス化改造
* ガラス抑え方式変更改造


=== 国鉄時代の改造工事 ===
その後関東地区にも同様の事例が発生したが、より本格的に両端の乗務員室内に冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を工場施工で取付けた。また、[[1981年]](昭和56年)度からは中京地区でも冷房改造が始まり、非冷房先頭車全車に冷房制御スイッチの取付が施工された。
国鉄は[[1970年代]]になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、別の用途に振り向けた。


=== 105改造 ===
==== 101系の103系連結対応工事 ====
[[1970年]](昭和45年)12月10日より大阪環状線の一部を8両編成化した。大阪環状線は101系または103系の6両編成が25本配置されており、ラッシュ時2分40秒間隔運転を行っていたが、8両編成化にあたりラッシュ時の時隔を3分に戻し、捻出される6両編成4本24両を既存の6両編成に組み入れる編成替えを行い、6両編成12本を8両編成12本に組成し直した<ref>大阪鉄道管理局電車課『関西国電略年史』1982年9月、鉄道史資料保存会、pp.109 - 110。</ref>。
103系の中には改造によって105系となったものがある。それについては[[国鉄105系電車#改造編入車グループ]]を参照のこと。


大阪環状線の101系は4M2Tの6両編成から6M2Tの8両編成への組成変更が行われた結果、サハ4両が余剰となった。これを活用するため、103系6両編成2本が101系のサハに併結改造を行って組み込んだ8両編成となった<ref name="rp201304_p57">芳田・前納・永尾「103系に編入された101系電車」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号、57頁。</ref>。[[森ノ宮電車区]]のサハ100-55・58・サハ101-55・58の計4両が対象で、ジャンパ連結器のKE57形2基からKE70形1基への交換と[[幌#貫通幌|貫通幌]]の交換が[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]で施工された。この改造は後のサハ103形750番台への布石になったといわれている<ref name="rp200404_p51" /><ref name="rp201304_p57" />。
== JR分社後の状況と各社ごとの改造 ==
103系は元々[[通勤形電車]]という大量輸送に特化した形態や国鉄の「標準型」とされていたため、性能・設備面では陳腐化が目立ったが、[[1983年]](昭和58年)[[3月]]に201系に置換えた中央線快速、[[1986年]](昭和61年)[[4月]]に203系に置換えた常磐緩行線以外、置換えが進まなかった。


改造に伴う車両番号の変更は行われず、[[1979年]](昭和54年)度にジャンパ栓が復元され、片町線の101系による新性能化用として淀川電車区に転属した<ref name="rp201304_p24-25">平石大貴「101系電車のプロフィール」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号(通巻874号)、電気車研究会。24-25頁。</ref>。
しかし、JR化後は各社で新車の投入が進み、急速に廃車が進行していった。特に、JR東海では103系の定期運用が完全に消滅している。その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造が加えられた例も多く、様々な新区分番台も発生している。


=== JR東日本 ===
==== 冷房化改造 ====
103系は[[1973年]](昭和48年)以降の製造車は基本的に冷房車となったが、それまでの非冷房車も[[1975年]](昭和50年)度以降冷房改造工事を行った。冷房装置は新製冷房車と同じAU75形の集中冷房装置で、搭載にあたり車体の補強や側面行き先表示器の追加を行なった。冷房用電源もモハ102形に160 [[キロボルトアンペア|kVA]]のMGを搭載することになり、既存の20 kVAのMGと交換した。これらは新製冷房車に準じたものである。また、これらとは別に1975年夏に関西地区で先頭車のみ非冷房車の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように施工された。その後関東地区にも同様の事例が発生したが、こちらでは両端の乗務員室内に新たに冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を取付けた。[[1981年]](昭和56年)度からは中京地区でも冷房改造が始まり、冷房制御スイッチ取付が施工された。
[[ファイル:JR103-musashino.jpg|thumb|240px|right|初期型(左)と後期型(右)の並び。初期型の前面運行番号表示窓が埋込まれている。(2003年8月11日 [[南浦和駅]])]]
[[ファイル:L25 RT235 takasago N4045.jpg|thumb|240px|right|運行最終日の仙石線RT-235編成(2009年10月21日)]]
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)管内では、民営化当初2,418両という一大勢力を誇っており、ATSのATS-P形化に際しては、ME40形搭載車の大半についてブレーキ弁のME48形への交換工事が実施されるなど、アップデートが図られてきた。また、南武線、鶴見線用全車両および京浜東北線、常磐快速線用車両の一部は外幌取付に伴う妻窓閉鎖が行われた。また、京葉線用車両は先頭車にスカートが取付けられた。常磐快速線用車両は運行番号表示器がLED式に変更された。


==== 前照灯シールドビーム化改造 ====
しかし、[[1990年代]]からは205系・[[JR東日本209系電車|209系]]・[[JR東日本E231系電車|E231系]]などの量産とこれらへの置換えが進んだことにより急速に廃車が進んだ。[[2006年]](平成18年)[[3月18日]]のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱し、同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転と、その翌日の車両展示会を最後に、JR東日本の首都圏における103系の営業運転が完全に終了した。また[[仙石線]]では、最後まで残っていた1編成(RT-235編成)が[[2009年]](平成21年)[[10月21日]]をもって運転を終了し、同車は同月26日に[[郡山総合車両センター]]へ廃車回送された。これによりJR東日本から103系が消滅した<ref>『鉄道ファン』2010年1月号</ref>。
初期製造の先頭車は前照灯に白熱灯を装備していたが、1971年登場の1000番台は営団地下鉄との協定により[[シールドビーム]]2灯となり、0番台も1972年製造のクハ103-180以降で1000番台同様のシールドビーム2灯となった<ref name="rp201801_p89" />。


1972年の[[日暮里駅]]での追突事故で被災したクハ103-544の復旧工事の際、[[1975年]]に大井工場(現在の[[東京総合車両センター]])で試験的にシールドビーム2灯が改造で設置された<ref name="rp201801_p89" />。別の事故で被災したクハ103-4も、[[1977年]]の復旧の際にシールドビーム化が施工された<ref name="毛呂2012_p80">毛呂信昭『103系物語』80頁。</ref>。
==== AU712形による冷房化 ====
数多くの非冷房車は、当初は新造車と同じAU75系冷房装置によっての冷房改造であったが、非冷房車は冷房搭載を前提とした設計ではなかったため搭載には構体の補強および電源用三相交流引き通し増設の工事が伴い、多額の費用と時間を要した。


[[1979年]]7月に全般検査を施工したクモハ103-69より、本格的なシールドビーム化が開始された<ref name="rp201801_p89">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、89頁。</ref>。未改造のまま白熱灯で残存した車両も存在し、京葉電車区(現在の[[京葉車両センター]])所属のクハ103-562が最後まで白熱灯で残っていたが、[[2000年]](平成12年)11月6日付で廃車となり、103系の白熱灯車は消滅した<ref name="rp201801_p89" />。
そこで[[1987年]]から屋根上に複数の冷房装置を搭載し、重量を分散することで補強を不要とする集約分散式冷房装置を使用しての冷房改造に移行した。最初に先行改造されたサハ103-128は後述するJR東海のC-AU711系冷房装置に類似したもの(メーカー形式[[日立製作所|日立]]FTUR-300-102形)が設置されたが、その他の車両は独自開発のAU712形での改造となった。


==== 中央本線名古屋地区転用改造 ====
冷房電源は当初はモハ102形のMG交換による容量増強で対応していたが、[[1988年]](昭和63年)後期からは工期・費用をさらに削減するために屋上別取付のSC24形補助電源装置 (SIV) も同時に取付けたタイプも登場した。しかし、これらの車両は元々車齢が高いうえにAU712形の冷却能力が低く、またAU75系の車両と混結した場合に冷房電源の関係から冷房が使用できないケースも発生する<ref>SC24形補助電源装置は自車の冷房装置に供給するだけの容量しか持っていないため、混結したAU75系の他車両に冷房電源を供給することが出来ない</ref>など編成組成上の制約があり、2005年のモハ103-185・モハ102-340(武蔵野線)の廃車により、営業運転を行う車両では消滅した。
[[ファイル:L25_Tc103-574_640.jpg|thumb|240px|自動分併装置を取り付けたクハ103-574]]
[[ファイル:JNR EC Mc103-36.jpg|thumb|200px|クハ103-36<br/>中央本線名古屋地区対応改造車]]
1977年3月より中央本線(中央西線名古屋地区)の旧型国電置換え用として103系が投入され<ref name="rp201801_p94" />、転用に伴う改造工事が[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]で施工された<ref name="毛呂2012_p108" />。


行先表示には方向幕は使用せず、先頭車側面に行先表示用のサボ受けが設けられた<ref name="rp201801_p94">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、94頁。</ref>。前面の運転台窓にはデフロスタが設けられ、助士席側にワイパーが増設された<ref name="rp201801_p94" />。後にデフロスタは熱線入りガラスに交換された際に撤去されている<ref name="rp201801_p94" />。
==== クハ103形への自動分併装置(電気連結器)の取付 ====
[[1989年]]から分割併合運用の多い京葉電車区(→[[京葉車両センター]])の基本編成の蘇我方Tc車と付属編成の東京方Tc車、豊田電車区の青梅・五日市線用4両編成Tc車、松戸電車区(→[[松戸車両センター]])の基本編成の取手方Tc車と付属編成の上野方Tc車に自動分併装置取付工事を施工している。このうち松戸車では、従来の編成では基本編成の取手方先頭車の一部にMc車が入っていたが、Mc車に同工事を施工すると工事が煩雑となってしまうので、他区からの転用車を組合せて基本編成からMc車を外してTc、Tc'車だけの工事とした。


==== 車両更新工事 ====
==== 仙石線転用改造 ====
[[ファイル:JNR EC Mc103-9.jpg|thumb|200px|クモハ103-9<br/>仙石線対応改造車]]
旧国鉄から多くの103系を継承したJR東日本は、山手線に205系を投入し老朽車を置き換えながらも国鉄時代から施工されていた特別保全工事を行っていた。
[[1979年]]より[[仙石線]]の旧形車(主に72系)の置換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車投入で捻出された山手線・京浜東北線・[[横浜線]]・青梅・[[五日市線]]で運用されていた0番台初期車が転用された。仙石線の事情に合わせた転用改造が行われ、全車スカイブルー塗装で入線している。
この特別保全工事より一層徹底した施工内容による延命工事で、[[1988年]](昭和63年)から行われた。


寒冷地対策のため、側出入口の半自動ドア化・取手取り付け、客室ヒーターの増設が行われた<ref name="rp201801_p94" />。前面窓ガラスにデフロスタが設置され(後に熱線入ガラスと交換されたため撤去)、ワイパーが増設された<ref name="rp201801_p94" />。[[閉塞 (鉄道)#通票|タブレット]]使用区間が存在したため、乗務員室扉直後の戸袋窓をタブレット衝突による破損防止の観点から埋込まれた<ref name="rp201801_p94" />。保安装置はATS-B形に代わりATS-S形車上装置が搭載された<ref name="rp201801_p94" />。
対象は、施工当初は[[1967年]](昭和42年) - [[1972年]](昭和47年)製の車両とされていたが、のちに1972年以降に製造された車両に対しても施工されている他、一部の車両は上述のAU712形による冷房化も同時に施工された。


1983年度の常磐緩行線の203系投入に伴う1000番台の快速線転用などにより、0番台4両編成4本が捻出されて仙石線に投入された<ref name="rp201801_p94" />。これにより72系のアコモデーション改良車が置き換えられ、後の新性能化で103系3000番台に編入されている。自動信号化後でタブレットが廃止されたため、運転台後部の戸袋窓閉鎖は未施工である<ref name="rp201801_p94" /><ref group="注">クモハ103-1・2・144・149・クハ103-74・81・92・503の8両。</ref>。クモハ103-144 + モハ102-308は冷房化改造も行われた<ref name="rp201801_p94" />。
主な施工項目は
* 屋根鋼板の補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
* 雨樋取替
* 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺など)
* 側窓枠取替
* 外板塗装更新
* 空気配管取替と除湿装置取付
* 主回路配線引替
* ジャンパ連結器の引替と片栓車の両栓化
* 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
* 室内化粧板とカーテン取替
* 腰掛脚台、け込板とモケット取替(フットライン入り)
* 握り棒、荷物棚の[[ステンレス鋼|ステンレス化]]と[[つり革|吊手]]の取替
* 各ゴム類の黒ゴム化(戸先、戸当り、Hゴム、押えゴム)
* 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式:一部車両はドア自体を金属押え方式のものに交換)


国鉄末期の[[1986年]]にクハ103-10・42・74の3両に対し、車内に清涼飲料水の自動販売機とゴミ箱が設置された(いずれも後に撤去)。
これらの工事は多くの工場が担当しており、化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、いくつか仕様に差異が見られる。また、大井工場施工車の一部には袖仕切の設置が施工されている。


2本を除き全編成が非冷房編成であり、冷房編成のうち1本は[[1987年]](昭和62年)に[[国鉄105系電車|105系]]の2両編成2本に改造されている<ref name="rp201801_p94" />。
[[1992年]](平成4年)に低コストで量産可能な901系(のちの209系)が登場すると、JR東日本は方向を転換。以後、車両更新工事を中止し、新造車によって老朽車の置き換えを行った。
{{節stub}}<!--その後についての解説を請う-->


全車JR東日本に継承されたが、更新車の導入により1993年までに全車廃車となった。{{-}}
==== 訓練車 ====
[[ファイル:L25_Mz102-3_680.jpg|thumb|240px|モヤ102-3(浦和区所属)]]
* 予備車の削減で一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなっていることなどから、JR東日本は余剰車両を[[職用車|現車訓練専用車両(訓練車)]]に改造して各地に配属した。103系においては、1990年度末に非冷房車の3連3編成を用意し、豊田電車区、浦和電車区、松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。
* 浦和電車区と豊田電車区のモハ102形については、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため営業用車両から事業用車両に変更となり、新形式のモヤ102形となった。
** 豊田電車区 クモハ103-44+モヤ102-1(←モハ102-138)+クハ103-522
** 浦和電車区 クモハ103-45+モヤ102-2(←モハ102-140)+クハ103-540
** 松戸電車区 クモハ103-64+モハ102-168+クハ103-54
* その後、改造種車が非冷房だったことや、ATCやATS-S形およびP形が未搭載で本線運転に制約があったことから、1994年度末に冷房車の4連3編成と交代となった。豊田電車区と浦和電車区への配置編成は、同様にモハ102形をモヤ102形に改造した。
** 豊田電車区 クハ103-341+モハ103-363+モヤ102-4(←モハ102-519)+クハ103-342
** 浦和電車区 クハ103-399+モハ103-352+モヤ102-3(←モハ102-508)+クハ103-400
** 松戸電車区 クハ103-335+モハ103-274+モハ102-429+クハ103-336
* 浦和電車区の車両は同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、旧仕様の103系では訓練に対して実用性が低くなることもあり、2000年に廃車となった。また、豊田電車区の車両については、[[国鉄201系電車#展望型電車「四季彩」|201系四季彩編成]]が訓練車を兼ねる存在になることから、やはり2001年に廃車となった。松戸電車区のモハは、同区我孫子派出の車輪転削装置の改修に伴う予備車確保のため、晩年、白帯や「訓練車」の文字を消して営業に復帰した時期もあったが、首都圏に最後まで残った同区の103系が営業から離脱するのに合わせて2006年に廃車となり、103系の訓練車編成は消滅した。


==== 910番台転用関連 ====
==== 0番台と1000番台の併結対応改造 ====
[[ファイル:L25_T103-803_680.jpg|thumb|240px|ハ103-803]]
[[ファイル:JNR EC Tc103-188.jpg|thumb|200px|ハ103-188]]
0番台は乗務員間連絡ブザーに非分離式を採用していたが、1000番台は営団地下鉄との協定により分離式を採用していた<ref name="rp201801_p90">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、90頁。</ref>。非常用ブザーと乗務員連絡電話用の回路が異なったため、1000番台と0番台の併結運転は不可能であった<ref name="rp200404_p51" />。
[[ファイル:L25_M103-107_M102-911_700.jpg|thumb|240px|一時期見られた非冷房のモハ103-107と冷房車のモハ102-911のユニット]]

山手線の同一編成内に連結されていた910番台が、他線に転属するのにともない電装解除されたグループである。910番台の全6両のうちモハ102-911・913以外の4両と、それら2両と交換でユニット解除された0番台モハ102形2両が改造を受けた。改造点は電装関係機器の撤去、旧モハ103形のパンタグラフの撤去とベンチレータの設置、および台車のTR201形への交換などで、床下機器配置などに一般のサハ103形と異なる部分があった。全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載する。
[[1984年]](昭和59年)の203系の投入で1000番台が常磐緩行線から常磐快速線に転用される際、2編成でクハ103形0番台2両 + 1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じた<ref name="rp201801_p90" />。このため、該当編成に組まれるクハ103形0番台の乗務員室に非常用ブザーの取付、非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付が行われ、識別のため車体側面の車両番号下部に白線が追加された<ref name="rp200404_p51" />。
改造後は全車が[[常磐快速線]]に投入された。廃車は2段階に分けて行われ、国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が[[1993年]](平成5年)に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が[[2003年]](平成15年)に廃車され消滅した。車番の対応は以下のとおり。

* モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→順にサハ103-801 - 806
対象はクハ103-93・188・627・636の4両であった<ref name="rp200404_p51" />。188は車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)が併せて実施された。

その後、1000番台の方が地上線の方式に改造されることとなり、識別は解消された<ref name="rp200404_p51" />。
{{-}}
{{-}}


==== 1200番台塗色変更・10両編成化関連 ====
==== 1500番台へのスカート設置 ====
1500番台では踏切事故対策として国鉄時代から先頭車にスカートを取付を施工開始し、JR九州移行後に全車完了した。
[[ファイル:Jr301+1031200.jpg|thumb|240px|301系(左)と103系1200番台(右)の併結<br />(2002年8月28日 西船橋駅)]]
1989年に中央・総武緩行線の地上用として205系がステンレス地に黄帯<ref>本系列の塗装変更が完了するまでは、「総武・中央線各駅停車」の透明[[シール|ステッカー]]を205系編成の黄色帯の上部分に貼付して対応した。</ref>で登場し、これを東西線への直通電車と間違える乗客に誤乗防止の観点から全車帯色を東西線のラインカラーであるスカイブルー([[青22号]])に変更<ref>帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。</ref>された。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更されている。


=== JR東日本の改造工事 ===
なお[[1987年]][[4月1日]]の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし<ref>灰色で塗りつぶしていた時期もある。</ref>、代わりに白色の巨大なJRマークを両先頭車の側面窓下に貼付するという小変化はあったが、廃車時まで大きな変化はなかった。
本系列は、大量輸送に特化した国鉄の標準型[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]という形態から、20年以上に渡り製造が継続された。そのため性能・設備面では陳腐化が目立ったが、[[1983年]](昭和58年)3月の中央線快速が201系への、[[1986年]](昭和61年)4月の常磐緩行線が203系への置換え完了を除き進行しておらず、分割民営化時には現役車両は全て承継された。しかし、その後はJR各社で新型車の開発・投入による置換えにより廃車が進行した。その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造施工例も多く、様々な新区分番台も発生した。


また、運用路線ごとに特化した仕様への改造も施工された。
なお、前述のラインカラー変更と冷房装置搭載はほぼ同時期ながらも冷房装置搭載改造が若干早期に行われたため、7両編成全体が冷房改造された黄帯車編成も存在した。
* 南武線・鶴見線用(全車)京浜東北線・常磐快速線用(一部)…外幌取付とそれに伴う妻窓閉鎖。
* 京葉線用…先頭車にスカート([[排障器]])を取付。
* 常磐快速線用…運行番号表示器をLED式に変更。


しかし、[[1990年代]]からは205系・[[JR東日本209系電車|209系]]・[[JR東日本E231系電車|E231系]]などの置換えにより廃車が進行した。首都圏では[[2006年]](平成18年)3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱。同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転、その翌日の車両展示会を最後に営業運転が終了し、仙石線では最後まで残っていたRT-235編成が[[2009年]](平成21年)10月21日に営業運転を終了した。
同時に103系1200番台はクモハ102形を除く全形式の側面に行先表示器が設置され、前面方向幕も電動式に交換<ref>この改造により「快速 中野」などの種別表示も追加。</ref>された。


これにより、同社の本系列は消滅。なお、以下で同社が施工した大規模改造工事について解説を行う。
1991年12月1日ダイヤ改正では東西線完全10両化により、7両編成で残存していた103系5本(35両)と301系2本(14両)はすべて10両編成に組み替えられることとなった。


==== AU712形による冷房化 ====
運用に対して余裕が生じていたために12両が常磐快速・[[成田線]](松戸電車区)に転出<ref>松戸への転出車は、1200番台と川越電車区配置の3000番台にのみ計10両が存在する特異なクモハ102形が含まれ、しかも冷房用電源を持った車両が1組しかなかったために単純な編成を組めず、各車バラバラに編入された。旧第1編成は冷房電源なしのモハ103・102-1201を10両基本編成の中間に入れ、残りとモハ103・102-1044で5両の付属編成を組成。旧第2編成は、モハ103-1204・モハ102-1203を別の編成に入れ、残りの5両で1200番台のみの5両編成を組成した。しかし、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があったことから、[[1993年]] - 1994年にかけてすべて廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの103系1000番台は[[2002年]]以降の廃車である。</ref>した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(のちのK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。
[[ファイル:T103-128.jpg|thumb|FTUR-300-102形搭載車]]
[[ファイル:JNR EC T103-245.jpg|thumb|冷房電源MG供給形AU712搭載車]]
国鉄時代から非冷房車に対して冷房改造工事を行ったが、従来からのAU75系冷房装置(重量約750 kg)での改造は構体の補強なども踏まえ、1両あたり2,000万円から3,000万円の費用と1ヶ月半から2ヶ月半程度の改造期間を要した<ref name="Fan2004-4">交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2004年4月号「AU712形搭載車の現況」pp.99 - 105。</ref>。そこで、JR九州が1987年(昭和62年)度から[[冷凍能力|冷房能力]]20.93 kW(18,000 kcal/h)×2の床置形のAU2Xを開発し<ref name="HITACHI1988-7">日立製作所『日立評論』1988年7月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1988/07/1988_07_10.pdf 鉄道車両用の軽量・薄形・高効率空調装置」]}}」。</ref>、費用・工期ともに三分の一で改造できるようになり、冷房化率100 %を達成した。しかし、乗客の多い通勤形電車の場合の必要な冷房能力を計算したところ、240 %乗車時に30 %の人が快適と感じるには48.84 kW(42,000 kcal/h)の能力が必要である<ref>前澤勝喜(JR東日本運輸車両部検修課)「電車の冷房化について」『電車』1987年8月号、交友社、pp.16 - 22。</ref>。これらを考慮して、JR東日本では同年9月に[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]で[[日立製作所|日立]]FTUR-300-102形が試作され、サハ103-128の屋根上に2基が設置された<ref name="rp201801_p96">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、96頁。</ref>。

[[1988年]](昭和63年)度からは、同様な屋根上配置のAU712形冷房装置([[冷凍能力|冷房能力]]24.42 kW ≒ 21,000 kcal/hを各車2基)を開発して冷房改造を進めた。AU712形冷房機の原設計と製造は[[三菱電機]]が担当しており、AU712形の重量は約335 kg/1基、SC24形インバータの重量は350 kg(実測値)である<ref name="Cyber27th">日本鉄道サイバネティクス協議会『鉄道サイバネ・シンポジウム論文集』第27回(1990年11月)「車両用DC1500Vインバータ空調システム」論文番号451。</ref><ref name="Mitsumishi_198901">{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/1989/8901.pdf 「車両用1,500V DA空調システム」]}}三菱電機技報 1989年1月号([[1989年]])p.92、三菱電機。</ref><ref name="MITSUBISHI1991-6">三菱電機『三菱電機技報』1991年6月号特集論文「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1991(vol65)/Vol65_06.pdf 車両空調制御システムのエレクトロニクス化」]}}」pp.49 - 52。DC1,500V単車用空調インバータはSC24形インバータによる空調システム。</ref><ref name="Fan2004-4"/>。従来のAU75系列での改造に代わって正式に採用され、1990年までに331両が改造された<ref name="rp201801_p96" />。改造内容が大幅に簡略されたことから、車両工場ではなく電車区でも改造工事が可能となり、冷房化率を大きく向上させた<ref name="Fan2004-4"/>。

当初の冷房用電源はモハ102形に搭載されるMGによったが、同年下期からは自車給電用として屋根上にSC24形冷房電源用インバータ(28 kVA・VVVF制御<ref group="注">SC24形インバータは容量可変制御(VVVF)であり、定電圧定周波数制御(CVCF ≒ SIV)ではない。</ref>)が設置された<ref name="Cyber27th"/><ref name="Mitsumishi_198901"/><ref name="MITSUBISHI1991-6"/><ref name="rp201801_p97">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、97頁。</ref>。電源が電動発電機(三相交流440V,60Hz)の場合は稼働率制御方式(ON/OFF制御)となり、SC24形インバータの場合は容量可変制御(インバータ制御)となる<ref name="Fan2004-4"/>。

自車給電SC24形インバータ搭載車では他車供給用の引き通し線は持たず、Mc-M'-T-Tcの編成でT車以外の各車がAU75系搭載車、T車がAU712形搭載のSC24形インバータ電源車の場合、T車に引き通し線がないためTc車で冷房が使用できなかった<ref name="rp201801_p97" />。サハ103形3000番台は、AU712での冷房改造の際にSC24形インバータと引き通し線が併設されている<ref name="rp201801_p97" />。

MG給電車は[[2005年]](平成17年)にモハ103-185 + モハ102-340の廃車により営業車両から退き、SC24形インバータ搭載車は0番台は[[2004年]]にクハ103-125の廃車で消滅し、3000番台も2005年に全廃された。側面の行先表示器の設置も行われたが、その対象は一部に留まっている。クハ103の偶数向き車は原則設置されず、仙石線更新工事施行車に後付けされた例があるのみで、SC24形インバータ搭載型に至ってはクモハ103と3000番台の両先頭車だけであった。{{-}}

==== ATS-P設置改造 ====
[[ファイル:103 set E34 Musashino Line Nishi-Kokubunji 20010808.jpg|thumb|200px|クモハ103形ATS-P搭載車を先頭とした編成]]

[[京葉線]]では[[1988年]][[12月1日]]の[[新木場駅]]までの開業の際に[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]が設置されることとなり、京葉線用と[[武蔵野線]]用の103系にATS-Pの設置工事が開始された<ref name="rp201801_p98" />。このうちクモハ103形は機器搭載スペースの不足のため、運行番号窓の部分に機器を設置して運行番号表示窓を埋め、運行表示器は前面窓部に設置した<ref name="rp201801_p98">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、98頁。</ref>。なお、1989年以降の設置車では運行番号幕部への設置はされず、運行番号幕窓も維持されている<ref name="rp201801_p98" />。

1988年[[12月5日]]に発生した[[東中野駅列車追突事故]]以降、JR東日本ではATS-P化を促進させた。単に機器搭載のみならず、ME40形ブレーキ弁搭載車の大半はME48形への交換が行われた。

==== 電気連結器設置改造 ====
[[ファイル:L25_Tc103-574_640.jpg|thumb|200px|クハ103-574<br/>自動分併装置取付車]]
[[1989年]]から分割併合運用の多い以下のクハ103形に自動分併装置取付工事取付が施工された。
* 京葉電車区…基本編成蘇我方・付属編成東京方
* 豊田電車区…青梅・五日市線用4両編成
* 松戸電車区…基本編成取手方・付属編成上野方
** 松戸区基本編成の一部には、取手方先頭車にクモハ103形が組込まれていたが、他車両基地からの転入車も活用しクハ103形に統一した上で施工。

==== 1200番台塗色変更・10両編成化関連 ====
[[ファイル:JNR 301 and 103-1200.jpg|thumb|200px|301系(左)と103系1200番台(右)の併結<br/>2002年8月28日 西船橋]]
1989年(平成元年)に中央・総武緩行線に205系が黄帯<ref group="注">本系列の塗装変更が完了するまでは、「総武・中央線各駅停車」の透明[[シール|ステッカー]]を205系編成の黄色帯の上部分に貼付して対応した。</ref>で登場し、誤乗防止の観点から帯色をスカイブルー([[青22号]])に変更<ref group="注">帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。</ref>した。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更された。1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし<ref group="注">灰色で塗りつぶしていた時期もある。</ref>、白色の巨大なJRマークを先頭車の側面窓下に貼付するという小変化があった。

ラインカラー変更とほぼ同時期に冷房改造が若干早期に行われたため、冷房改造された黄帯編成も存在した。同時にクモハ102形を除く全形式に側面行先表示器を搭載し、前面方向幕も連電動化された<ref group="注">この改造により「快速 中野」などの種別表示も追加。</ref>。

1991年(平成3年)12月1日ダイヤ改正では東西線完全10両化により、7両編成で残存していた本系列5本(35両)と301系2本(14両)は全て10両編成に組み替えられた。余裕が生じていたため12両が常磐快速・[[成田線]]用として松戸電車区に転出<ref group="注">松戸転出車は、クモハ102形には電気連結器取り付けが見送られたほか、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があったことから1993年 - 1994年にかけてすべて廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの1000番台は[[2002年]]以降の廃車である。</ref>した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(のちのK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。

残存車は、7両編成時代の旧K12・K13編成を中心に以下の車両を組み合わせ10両の新K6・K7編成を組成した。
* モハ103・102-1202<ref group="注">三鷹区では冷房用電源を装備していたMM'ユニット6組のみで、10両編成では2組の組成が必要なことから、第3 - 5編成が残存した。転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにもかかわらず、モハ103・102-1202(三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車)が残されたのは冷房電源のためであり、この2両は松戸転出車廃車後も2003年5月まで運用され続けた。</ref> : 松戸転出の旧K9編成から捻出
* モハ103-1207 + モハ102-1205 : 残存の旧K11編成から捻出
* サハ103-429・430<ref group="注">元々A-A基準、AU75形[[集中式冷房装置]]装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入。</ref> : 浦和電車区から転入

モハ103-1207 + モハ102-1205を抜き取った旧K11編成は、5両編成で新K9編成となり<ref group="注">この編成には両方の先頭車に幌が取り付けられた。</ref>、同じく10両編成化で5両編成で残った301系と組成した。*のちに301系5両編成が廃車されたため、予備編成となった。


残りの車両のうち、松戸転出編成から外されたモハ103・102-1202<ref>三鷹区では冷房用電源を装備していた車両は全部で6組と数が限られており、10両編成では2組必要であったため、第3 - 5編成が残り、常磐転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにもかかわらず、非ユニットサッシ車で製造年も古い冷房電源装備のモハ103・102-1202が残された。これが三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車で、この2両は常磐快速・成田線転出車の廃車の後も運用を続け、2003年5月まで残存した。</ref>と7両編成1本から抜き取られたモハ103-1207+モハ102-1205、さらに京浜東北・[[根岸線]]用に[[浦和電車区]]に配置されていたサハ103-429・430<ref>この2両は元々A-A基準、AU75形[[集中式冷房装置]]装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入。</ref>を転入させ7両編成2本に別々に増結して10両貫通編成2本を組成し、残る1本は5両編成とし<ref>この編成には両方の先頭車に幌が取り付けられた。</ref>、同じく10両編成化で5両編成で残った301系と組成したが、のちに301系5両編成が廃車されたため、予備編成となった。
;編成表(10両統一後)
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+ 編成表(10両統一後)
|-
|colspan="2" style="background-color:#ccc; width:7em;"|&nbsp;
|colspan="2" style="background-color:#ccc; width:7em;"|&nbsp;
|colspan="10"|{{TrainDirection| [[津田沼駅|津田沼]]・[[西船橋駅|西船橋]] | [[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]] }}
|colspan="10"|{{TrainDirection| [[津田沼駅|津田沼]]・[[西船橋駅|西船橋]] | [[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]] }}
580行目: 2,491行目:
!rowspan="3"|編成番号
!rowspan="3"|編成番号
!K6
!K6
| Tc103-1204 || M103-1211 || M'102-1208 || M103-1210 || M'102-1207 || T103-430 || M103-1214 || M'102-1210 || M103-1212 || M'c102-1204
|クハ103<br/>-1204||モハ103<br/>-1211||モハ102<br/>-1208||モハ103<br/>-1210||モハ102<br/>-1207||サハ<br/>103-430||モハ103<br/>-1214||モハ102<br/>-1210||モハ103<br/>-1212||クモハ102<br/>-1204
|-
|-
!K7
!K7
| Tc103-1205 || M103-1202 || M'102-1202 || M103-1207 || M'102-1205 || T103-429 || M103-1213 || M'102-1209 || M103-1215 || M'c102-1205
|クハ103<br/>-1205||モハ103<br/>-1202||モハ102<br/>-1202||モハ103<br/>-1207||モハ102<br/>-1205 ||サハ103<br/>-429||モハ103<br/>-1213||モハ102<br/>-1209||モハ103<br/>-1215||クモハ102<br/>-1205
|-
|-
!K9
!K9
| Tc103-1203 || M103-1208 || M'102-1206 || M103-1209 || M'c102-1203
|クハ103<br/>-1203||モハ103<br/>-1208||モハ102<br/>-1206||モハ103<br/>-1209||クモハ102<br/>-1203
|colspan="5" style="background-color:#ddd;"|&nbsp;
|colspan="5" style="background-color:#ddd;"|&nbsp;
|}
|}


==== 前面強化工事 ====
==== 前面強化工事 ====
[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#成田線大菅踏切事故|成田線踏切事故]]で[[運転士]]が[[殉職]]したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事1995年3月末までに行った。[[国鉄113系電車|113系]]などで施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、系列では主に検査入場の際に工場にて鋼板を取り付ける工事を行った。なお、1974年以降に製造された高運転台の先頭車は製造当初から前面が強化されているため改造対象にはなていないまた、1993年12月までに[[大宮総合車両センター|大宮工場]](当時)にて施工された車両は標識灯上部の足掛けが外側にズレて設置されているが、インドネシアに渡た初期先頭車は全車がこの形態となっている
[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#成田線大菅踏切事故|成田線大菅踏切事故]]で[[運転士]]が[[殉職]]したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事1995年3月末までに施工された。[[国鉄113系電車|113系]]などは[[両基地]]で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、系列では検査入場の際に工場にて鋼板を取り付ける工事を施工した。1974年以降に製造された高運転台車は製造当初から前面が強化されているため改造対象外であ。1993年12月まで大宮工場にて施工された車両(全車が豊田車両センター所属車)灯上部の足掛けが外側に設置されているインドネシアにされた初期先頭車はこの形態。


==== 八高 一部電化関連(3500番台) ====
==== 仙石RT-235編成復活時の改造 ====
仙石線での本系列運用は2004年7月に一旦終了したが、2006年以降に予定された[[多賀城駅]]付近の立体交差化工事の際に車両不足が想定<ref group="注">構内配線の変更から折返し駅が多賀城から東塩釜まで延長されたため、運用増加による予備編成が確保された。</ref>されることから、本編成のみ[[郡山総合車両センター]]で留置された。2006年11月に同センターで復帰のための整備が施工され、2007年3月19日より営業運転に復帰した<ref name="rp201801_p105" />。
[[1996年]](平成8年)[[3月]]の八高線[[八王子駅]] - [[高麗川駅]]間の[[鉄道の電化|電化]]に伴い[[#3000番台(川越線電化など)|川越線用の103系]]が同線でも使用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が賄えなかった。


クハ103-235に車椅子対応の大型トイレが設置され<ref group="注">当初は準備工事で営業運転開始時に設置完了。</ref>、モハ103-343のパンタグラフはシングルアーム式2基に換装された<ref name="rp201801_p105" />(本系列初かつ唯一)。台車はグレー塗装化、座席モケットは205系と同タイプに変更されている。保安装置は[[自動列車停止装置#ATS-SN|ATS-S<small>N</small>]]から[[自動列車停止装置#ATS-Ps|ATS-Ps]]に変更された。
そこで、[[#0番台]]4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置のうえで川越電車区に投入された。両先頭車は元[[京葉線]](京葉電車区)の車両で、1974年以降の「高運転台」系状の前面の車両。中間モハユニットは元京浜東北線(浦和電車区)の車両で、1983年度製造の最末期製造車だった。


復帰後は平日朝のラッシュ時に区間運転2往復限定で運用された。しかし、老朽化と首都圏配置車の需給調整の結果、[[南武線]]209系2200番台投入により205系が捻出できることになり、2009年10月21日を最後に営業運転を終了<ref>『鉄道ピクトリアル』2010年1月号、電気車研究会、p.109。</ref>、同月26日に郡山総合車両センターへ廃車回送され、JR東日本管内の103系は全廃となった<ref>[http://railf.jp/news/2009/10/27/174300.html 103系RT-235編成が郡山へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2009年10月27日</ref>。4両とも2009年10月28日付で廃車となり<ref name="rp201801_p105" />、2010年1月に解体された<ref>[http://railf.jp/news/2010/01/14/190000.html 103系RT-235編成、解体へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2010年1月14日</ref>。
これらは改造により、新たに'''3500番台'''と区分された。既存の3000番台の半自動扉は手動で開閉する方式であったのに対し、こちらは押ボタンで開閉する方式とされた。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
;編成構成は以下のとおり。
|+ 仙台車両センター宮城野派出所RT-235編成
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
*クハ103形3500番台:クハ103-725→クハ103-3501
|colspan="4"|{{TrainDirection|石巻|[[あおば通駅|あおば通]]|}}
*モハ103形3500番台:モハ103-790→モハ103-3501
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
*モハ102形3500番台:モハ102-2047→モハ102-3501
|style="width:10em;"|クハ103-235
*クハ103形3500番台:クハ103-738→クハ103-3502
|style="width:10em;"|モハ103-343
|style="width:10em;"|モハ102-499
|style="width:10em;"|クハ103-236
|}
* 4両とも中央線快速→中央総武緩行線→仙石線と転属してきた車両である。
<gallery>
ファイル:JRE 103 SensekiLine.JPG|RT-235編成
ファイル:L25_senseki-1_1200.jpg|クハ103-235 トイレと[[車椅子スペース]](左)<br/>モハ103-343 交換された座席(右)
</gallery>


==== 入換車への転用 ====
3000番台同様に使用され、[[2005年]](平成17年)[[3月]]に運行終了。のちに解体されて消滅した。なお、JR西日本には[[播但線]]用に「3500番台」に区分された車両が存在する(→[[#播但線投入(3500番台)]])が関連性は全く無く、設定形式も重複していない。
クモハ103-11とクモハ102-1201の2両は、1993年の廃車後に[[東日本旅客鉄道大船工場|大船工場]]の入換車に転用され、従来の101系2両による入換車が置き換えられた<ref name="rp200404_p56" />。クモハ103-11は1990年7月1日付で、クモハ102-1201は同年4月2日付で廃車となったものである<ref name="rp200404_p56" />。


クモハ103-11のパンタグラフは運転台側へ移設され、クモハ102-1201には貫通扉に作業用の小窓が設置された<ref name="rp200404_p56" />。両車とも先頭部への前照灯の増設が行われている<ref name="rp200404_p56" />。
==== 仙石線への車両更新車の投入 ====
1989年以降、在来形の103系置換え用として仙石線に入線した車両には、車両更新工事が施工されたが、通常の更新車と異なり、窓を上段下降・下段固定のユニット窓に交換、ドアを窓が大きいものに交換、前面窓を2枚窓化、運行番号表示器を列車愛称表示器化などの工事が施工された。ただし、車両更新を終えてから転入した3編成は窓とドアの交換が省略されている。のちに扇風機やベンチレーターの撤去も実施された。詳細は[[仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両]]を参照。


==== 各線から撤退 ====
=== JR東海改造工事 ===
国鉄からの継承車70両は1965年(昭和40年)から翌1966年(昭和41年)にかけて製造された初期車両であったことから、一部の冷房車を含む20両は廃車し、残った50両にリフレッシュ工事などの改良工事を施工した。
201系・205系・209系・E231系などの投入・転用により下記のとおり撤退した。時期は運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。
* 山手線 1988年6月
* 横浜線 1989年2月
* 埼京線・[[川越線]](大宮 - [[川越駅|川越]]間) 1990年12月
* 京浜東北線・[[根岸線]] 1998年3月
* 中央・総武緩行線 2001年3月
* 青梅線・五日市線 2002年4月
* 中央緩行線・営団東西線 2003年6月
* 仙石線 2004年7月(2009年10月まで1編成が残存。詳細は後述)
* 南武線 2004年12月
* [[八高線]]・川越線([[八王子駅|八王子]] - 川越間) 2005年10月
* 京葉線 2005年11月
* [[武蔵野線]] 2005年12月
* [[鶴見線]] 2005年12月
* [[常磐快速線]]・[[成田線]]([[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]] - [[成田駅|成田]]間) 2006年3月
* [[仙石線]] 2009年10月


==== 現存車・保存車 ====
==== C-AU711A形による冷房化 ====
JR東日本のAU712形と同様に(厳密にはJR東海の方が先行)工期短縮と改造費用低減の観点から、C-AU711A形集約分散式搭載による改造工事が施工された<ref name="Denkisha1988-4">電気車研究会『電気車の科学』1988年7月号「JR東海の冷房改造 - インバータクーラーの採用 - 」pp.17 - 22。</ref><ref name="rp201801_p106">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、106頁。</ref>。1988年度から翌年度にかけて12両に施工され、非冷房で残った16両はAU75改造車の4両とともに廃車となっている<ref name="rp201801_p106" />。側面方向幕の設置は施工されなかった<ref name="rp201801_p106" />。
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 240px
|枠幅=
|1=JRE 103 SensekiLine.JPG
|2=仙石線103系(2009年8月3日 小鶴新田駅)
|3=Kuha103-525 Toshiba-test-car.jpg
|4=[[東芝]]府中工場のクハ103-525(2010年3月14日)
|5=JRE-103_Higashiōmiya-Training_car.jpg
|6=東大宮センターの訓練車(2008年3月4日)
|7=Kumoha102-1201.JPG
|8=クモハ102-1201(2004年9月18日 [[鎌倉車両センター]])
}}
現在、東日本には以下の車両が存在する(一部は解体済み)。
* 仙石線用の4両編成1本は2004年7月の運用終了後も廃車されず東北本線郡山駅構内に留置されていたが、2006年11月にトイレ設置・床下機器のグレー塗装化や103系で初となる[[集電装置|シングルアームパンタグラフ]]設置といった追加改造が施工された。これは同線[[多賀城駅]]付近の[[連続立体交差|立体交差化]]事業により、本来多賀城まで運転されていた列車を東塩釜まで延長運転することになったため、編成不足を予測しての予備編成確保のためである。この103系は2007年3月以降、平日の朝ラッシュ時の2往復で限定運用されていたが、老朽化が進行していることから南武線への209系2200番台の導入に伴って捻出される205系1200番台によって置き換えられることになり<ref>「鉄道ファン」2009年11月号参照</ref>、2009年10月21日限りで運用から撤退した<ref>{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/doc/20091009144557.pdf 「ありがとう!103系」ヘッドマーク取り付けと運行終了について]}}</ref>。前述のとおり、同車は同月26日に郡山総合車両センターへ廃車回送され、これによりJR東日本から103系が全廃となった。


C-AU711A形集約分散式冷房機の重量は約280 kg/基で、能力20.93 kW ≒ 18,000 kcal/hの装置を屋根上に2基搭載するものである<ref name="Denkisha1988-4"/>。モハ102-76・81・96・97の4両は、冷房電源確保のためMGが撤去され、4両分の給電能力を有するC-SC24形[[静止形インバータ]](SIV・定格容量120 kVA)に取り替えられた<ref name="Denkisha1988-4"/><ref name="rp201801_p106" />。
* [[埼玉県]][[さいたま市]][[見沼区]]の某幼稚園の運動場には、1990年5月まで京浜東北線で使用されていたクハ103-560が保存されていた。ただし、盗難や落書などの被害にあったり、戸袋部の外板の腐食が進むなど、状態はかなり悪くなっていて、2007年の夏ごろに姿を消した<!--解体されたものと思われる-->。なお、この運動場は私有地につき関係者以外立入禁止である。


==== ドア点検蓋の設置 ====
* [[東芝]]の府中工場内には、同社がJR東日本から譲受したクモハ103-58+クハ103-525が機器をインバータ制御対応のものに改造された状態で留置されている。車体は前面窓以外に田園風景が描かれ、クーラーはAU720形に交換されている。また、クハ103形には走行のためにモハ102形相当の機器が増設されていると見られる。
JR東海の103系には、側引戸のドア点検蓋の設置も行われた<ref name="rp201801_p106" />。特別保全工事・リフレッシュ工事とは別工事となったが、50両全車に施工されている<ref name="rp201801_p106" />。


==== 電動方向幕の使用 ====
* 常磐線で使用されていたクモハ103-147は廃車とともに個人に売却された。
国鉄時代は前面の方向幕部分に「中央線」と表示し、行先案内には先頭車側面の行先表示板(サボ)を使用していたが、JR化後の1987年度より方向幕付車両で電動方向幕の使用が開始された<ref name="rp201801_p106" />。前面幕にも側面用の幕が流用されたため、前面幕窓の上下に余白が入る形となった<ref name="rp201801_p106" />。


=== JR西日本の改造工事 ===
* [[鉄道博物館]]内には元京葉線のクハ103-713の乗務員室側約9メートルが置かれ、館内のラーニングゾーン1Fの「駅構内ラボ」にて駅構内の業務を体験するために使用されている<ref>駅名は「てっぱく」。駅構内には[[自動改札機]]や[[プラットホーム]]などが設置されている。自動改札機は、旧式のJR型のものが置かれている</ref>。館内搬入前は[[大宮総合車両センター]]でしばらく保管されていた。なお、残りの優先席側約11メートルは[[2007年]][[2月]]中旬に同車両センター内にて解体された。そして、解体されなかった乗務員室側は同年[[5月]]に鉄道博物館内に運び込まれて開館を待っていた。
承継車両の多くが初期から中期型車であったことから、延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。


==== 羽衣線向けワンマン化改造 ====
* 東大宮操車場([[大宮総合車両センター#東大宮センター|大宮総合車両センター東大宮センター]])内にあるJR東日本の乗務員訓練所には、元豊田電車区のクモハ103-100+モハ102-224に元浦和電車区のクハ103-332の先頭部を接合した2両編成が配置されていた。無車籍の訓練車で、クハ103-332が装備していたATC機器も模擬ATCとして稼動していた。外観では山手線時代の205系をイメージしたオリジナルの塗装の他、閉鎖されたクモハ103形の運行番号表示窓、改造クモハ102形の、新造車には存在しない非ユニット窓+高運転台の組合せ、AU712形冷房装置が特徴であった。なお、2008年に209系を改造した訓練車が導入され、この2両は2009年3月に構内で解体された。
[[ファイル:Tc103-194.jpg|thumb|ワンマン改造車]]
[[ファイル:JRW series103-Hagoromo.jpg|thumb|200px|羽衣線用2500番台<br/>画像の編成は唯一体質改善車が含まれる]]
[[阪和線]]の支線である[[羽衣線]]には1987年(昭和62年)に[[国鉄143系電車#クモニ143形|クモニ143形]][[荷物車|荷物電車]]改造の[[国鉄123系電車|クモハ123-5・6]]が[[日根野電車区]]に投入されたが、同時にラッシュ時に3両編成で運転する際、123系の増結車としてクハ103-194が用意された。1989年(平成元年)秋からは[[ワンマン運転]]を行うことになり、車外に外部スピーカー等が設置されるなどのワンマン化改造が施工された<ref name="rp201801_p111" />。


改造の対象はクハ103-194・クモハ123形2両で、および予備車としてクモハ103-77 + モハ102-186 + クハ103-545の3両でも施工されている。なお、クハ103-194および予備車3両は1990 - 91年にWAU102形による冷房化改造と延命N工事が施工された。車内で運賃収受を行わないタイプのワンマン運転であり、同様のワンマン運転はJR九州の筑肥線、JR西日本の103系では呉線でも行われた。車内に運賃箱を設置した車内収受タイプは播但線や加古川線でも行われている。
* 松戸電車区に転属して1993年に廃車されたクモハ102-1201が[[中原電車区]]の[[南武線]]編成に組成されていたクモハ103-11<ref>入換作業の関係でパンタグラフが前部に移設され、前照灯が増設されていた。末期は整備されていなかったようで退色、水垢の付着が激しく、工場公開時も特に整備されずに展示されていた。</ref>と組んで鎌倉総合車両センター<ref>元・大船工場、現・[[鎌倉車両センター]]。</ref>で車籍なしの構内入換機械扱いとして[[2005年]]まで使用されていたが、翌[[2006年]]の工場部分の閉鎖時に解体された。この車両は、前面は前照灯増設によって301系のようになり、貫通扉下部には小窓が追加され、黄に赤と緑のストライプというオリジナルの塗装が施されて異彩を放っていた。


[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]の後、クハ103-194はJR神戸線の応援編成として貸し出され、代替として[[大阪環状線]]で使用されたサハ103-758に朱色のままワンマン化改造を施工し、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運用された<ref name="rp201801_p112">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、112頁。</ref>。応援運用を終えたクハ103-194は、事故廃車となったクハ103-839の補充として[[福知山線]]に転出し、塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示器が手動であるなど異端な存在であったことから、[[1997年]]9月1日に、播但線用3500番台への運転台部品供出のために廃車された。
* かつて、[[横須賀線]][[久里浜駅]]構内と武蔵野線[[新秋津駅]]構内にある訓練所にも、103系から105系を経て訓練車となった無車籍の車両が存在した。これについては[[国鉄105系電車]]および[[仙台車両センター宮城野派出所]]を参照のこと。


1995年(平成7年)、クモハ123形2両は[[国鉄72系電車#クモハ84形|クモハ84形]]置き換えのため[[岡山電車区]]に転出し、交代でワンマン化改造を施工した103系3両編成(クモハ103-23 + モハ102-105 + クハ103-26)が投入された。2007年(平成19年)には2編成(クモハ103-2503 + モハ102-396 + クハ103-162・クモハ103-2504 + モハ102-451 + クハ103-192)にワンマン化改造が施工され、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。
=== JR東海 ===
JR東海は国鉄時代から配置されていた70両を承継したが、[[1965年]](昭和40年)から翌年にかけて製造された初期車両のみであったことから、一部の冷房車を含む20両を更新工事など一切行わずに廃車し、残った50両には以下の改良工事を実施した。なお、JR東海にはクハ103形の高運転台車は存在しなかった。


==== 塗色変更 ====
==== WAU102形による冷房化 ====
[[ファイル:JR West 103 series skyblue.jpg|thumb|200px|WAU102形搭載車]]
JR東海が引継いだ車両はすべてスカイブルー一色であったが、後述のリフレッシュ工事が施工された車両は、同社のイメージカラーであるクリームにオレンジと緑の帯に塗替えられた。[[#車両塗装]]の項も参照。
JR西日本の冷房改造は、当初は国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、[[1988年]](昭和63年)より改造に必要な費用の削減と早期の改造進展のため、WAU102形分散式を1両あたり3基搭載する方法に改められた。


冷房電源は1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用[[静止形インバータ]] (SIV) 搭載で対応している。WAU102形は製造会社による形状の違いも認められており、[[東芝]]製と[[三菱電機]]製では外部ルーバー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。
==== C-AU711A形による冷房化 ====
[[ファイル:JNR EC M102-97.jpg|thumb|240px|C-AU711Aによる冷改車(モハ102-97)。写真の車両は床下にSIVを搭載している。また、リフレッシュ工事のため側窓などに変化が見られる。(1999年5月22日 大曽根駅)]]
国鉄時代はAU75形冷房装置にて改造されたが、民営化後は冷房装置を2個にして冷房改造時の車体補強などの関連工事を簡略化した集約分散式のC-AU711A形を用いて改造された。また冷房用の電源としてモハ102に補助電源装置 (SIV) が取り付けられた。


WAU102形搭載車は同社エリアに広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、優先的に廃車が進められた。2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣線予備編成の廃車をもって近畿圏からは消滅し227系投入により最後まで残った広島圏の車両も廃車となった。廃車発生品のWAU102形や電源用SIVは[[国鉄105系電車|105系]]の体質改善工事の際に一部が再利用された。
==== リフレッシュ工事 ====
JR化後は室内のアコモ関係で他の車両との格差が目立つようになった。そこで、特別保全工事に室内のリフレッシュ工事を併施することになった。211系5000番台の水準をベースとしており、側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化、側扉・妻扉取替、握り棒・荷物棚のステンレス化、腰掛袖仕切取付、腰掛のバケットシート化、塗色変更などが施工された。ただし、全車同様ではなく、車両により改造メニューは異なっており、結果側扉、側窓、冷房などに差異が発生した。


==== ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換 ====
これらの改造が行われた車両は、朝夕を中心に中央西線([[名古屋駅|名古屋]] - [[瑞浪駅|瑞浪]]間)で3両+7両の10両編成を組みラッシュ時の輸送を行ったほか、[[関西本線]]でも3両編成が単独で運用された。しかし、老朽化とともに他形式が高速化するにつれてダイヤ上の足枷となり、[[JR東海313系電車|313系]]の導入に伴い[[1999年]](平成11年)に定期運用から離脱し、[[2001年]](平成13年)までに全車が廃車された。
[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]搭載に付随して、ブレーキ弁の改修が施工された。電源投入方式がJR東日本と異なるため非常抜取対応のME48形は導入せず、従来からのME40形に電気接点部分改造施工で対応。その後[[国鉄117系電車|117系]]などに採用されたME49系への交換が開始された。
[[ファイル:JNR EC Mc103-18.jpg|thumb|240px|クモハ103-18(2007年4月14日 美濃太田車両区)]]
現在はクモハ103-18の1両のみが[[美濃太田車両区]]に保管されているが、屋外に置かれているため腐食や褪色が見られる。モハ102形はすでに解体されているためユニットが組めず、また補機類もないことから自走できない。美濃太田車両区には他の車両も保管され、その一部([[国鉄381系電車|381系]]、[[国鉄80系気動車|キハ80系]]など)は[[2011年]](平成23年)開館予定の[[リニア・鉄道館]]に移動し展示される予定だが、クモハ103-18は展示の対象から外されており、解体される予定である。
{{-}}


=== JR西日本 ===
==== 座席モケット交換 ====
イメージアップの一環として、201・203・205系と同様の、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分入仕様に交換したが、その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。[[優先席|優先座席]]も青地に[[ピクトグラム]]の入ったものに交換されている。福知山線脱線事故によりJR東日本から転入した8両のうち、広島運転所に投入されたクハ103形は2廃車までJR東日本仕様のままであった。
894両を国鉄から承継した[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)は、初期 - 中期型の車両が多く在籍していたことから、積極的に延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。


==== 羽衣線関連 ====
==== 腐食対策 ====
延命の一環として、腐食の原因を取り除く改造がされた。
[[ファイル:JRW series103 Hagoromo.jpg|thumb|240px|right|羽衣線で運転される103系。写真は2500番台(後述)唯一の体質改善車が含まれる編成でもある。]]
[[阪和線#東羽衣支線|羽衣線]]には[[1987年]]に[[荷物車|荷物電車]]の[[国鉄143系電車#クモニ143形|クモニ143形]]改造の[[国鉄123系電車#クモハ123-5・6|クモハ123形、クモハ123-5および6]]が投入されたが、同時に[[日根野電車区]]のクハ103-194が[[ラッシュ時]]の3両運転用増結車として指定を受け、[[1995年]]に[[阪神・淡路大震災]]後の応援車両として貸し出されるまでの間専属で使用された。


; 窓閉塞
1989年秋から羽衣線は[[ワンマン運転]]を行うことになり、クハ103-194、クモハ123形2両および予備車として103系3両にワンマン運転対応改造が施工された。また、クハ103-194は1991年に[[#WAU102形による冷房化|WAU102形による冷房化]]と延命N工事を受けた。なお、クハ103-194転出後は、[[大阪環状線]]で使用されていたサハ103-758が朱色のままワンマン運転対応改造が施工され、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運転された。
: 雨水の浸入を防ぎ車体腐食の遅延化ならびに窓清掃の簡略化から、1990年より戸袋窓の、[[1997年]]からは妻面窓の閉鎖工事を施工した。森ノ宮所属車は2003年、奈良所属車は2004年、日根野所属車は2008年までに全車完了し、2020年4月現在で戸袋窓残存車は存在していない。妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から1枚固定ガラスへの交換車も存在している。
; 車体接合方法の変更
: [[国鉄201系電車|201系]]量産車と同等の車体を持つ1500番台以外の車両は、従来どおり台枠下面辺りまでスポット溶接で外板を貼り付けて構体を製造していた。そのため、毛管現象で下から雨水が滲み上がって台枠と外板をひどく腐食させる原因となっていた。
:腐食した鋼板をステンレスなど腐食しない素材に変えるのみならず、接合点を台枠上面近くに変更(外板の縦寸も変更し、接合点以下には貼らない)、溶接もスポット溶接から連続溶接に改め、内側からはシール材を充填した。台枠幅など以外は201系量産車とほぼ同じ構造となった(台枠が露出する関係でわずかに発生する段差は、パテで均すことで肉眼ではほぼ見分けがつかない)。主に体質改善工事で実施。
; 扉交換
: 腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製から[[ステンレス鋼|ステンレス]]製に交換している。新扉は車両によって窓の支持方法が異なるほか、貫通扉はオリジナルより窓下方が長いものであり、ほぼ全車が施工した。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られ金属地むき出しが多数である。
; 前面金属板設置
: 窓支持用Hゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆う施策である。
<gallery>
ファイル:JRW-103EC-kansai.jpg|クハ103形高運転台<br/>戸袋窓閉塞施工車
ファイル:JNR 103 interior.jpg|窓閉鎖車車内
ファイル:JR103系固定窓.jpg|延命N40車<br/>固定式妻窓(左側)<br/>新貫通扉
ファイル:JNR 103N door.jpg|ステンレス製扉<br/>金属枠支持(左)<br/>Hゴム支持(右)
ファイル:JR West 103 Series EMU 002.JPG|クハ103形0番台<br/>前面窓ステンレス<br/>側扉窓アルミ押さえ支持車
ファイル:JR103系2500番台.jpg|クモハ103形2500番台<br/>前面窓・側扉窓Hゴム支持車
</gallery>


==== スカート設置 ====
なお、阪神大震災後の応援運用を終えたクハ103-194は、事故廃車となったクハ103-839の補充として[[福知山線]]に転用、あわせて塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示機が手動であるなど異端な存在であったことから、[[#播但線投入(3500番台)|3500番台]]への運転台部品供出のため[[1997年]]に廃車となり、福知山線での運用期間は短かった。
201系などとともに、衝撃への耐久性を高める目的でスカート([[排障器]])が設置され、全先頭車に施工された。


==== 下関・広島地区転用改造 ====
1995年以降は、新たにワンマン運転対応改造を受けた103系の3両編成(クモハ103-23+モハ102-105+クハ103-26)が追加投入され、クモハ123形2両は[[国鉄72系電車#クモハ84形|クモハ84形]]置き換えのため[[岡山電車区]]に転出した。
[[ファイル:Hiroshima station train.JPG|thumb|200px|広島地区向け改造車]]
[[下関運転所]](現在の[[下関総合車両所運用検修センター]])の[[国鉄115系電車|115系]]非冷房車置換えのため、1992年の片町線への207系投入で余剰となった103系が[[山陽本線]]下関地区に投入されることになった<ref name="rp201801_p115" />。転入対応改造は[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]・[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]で施工された。塗装は[[クリーム1号]]に[[青20号]]の帯が入る瀬戸内色となった<ref name="rp201801_p129">「103系の”いろ色”」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号(通巻941号)、電気車研究会。129頁。</ref>。1993年に[[広島運転所]]に転属した。


当時の下関地区では行先表示に方向幕を使用せず[[行先標|行先表示板]](サボ)を使用していたため、各車両の車体側面にサボ受けが設置された<ref name="rp201801_p115" />。サボが設置されていた場所にあった弱冷車表記受け等は、扉の左側に移設されている<ref name="rp201801_p115" />。後に方向幕の使用が開始されたが、前面方向幕は未使用であり、運行表示器には編成番号が掲出されていた。サボ受けは方向幕使用開始後も残され、関西地区に再転属した編成でも未撤去であった。保安装置は[[自動列車停止装置#ATS-S|ATS-S]]・[[列車無線]]が搭載された。
また、2007年には2編成6両にワンマン運転対応改造が施工される一方、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。なお、ワンマン運転対応編成のうちの1編成は、通常は一般のサハ103形を挟んだ4両編成にて[[阪和線]]で使用されている。


==== WAU102形による冷房化 ====
==== 和田岬線転用改造 ====
[[ファイル:P1000148.JPG|thumb|240px|right|WAU102搭載車]]
[[ファイル:JRW series103 Wadamisaki.jpg|thumb|200px|和田岬線向け改造車]]
[[2001年]][[7月1日]]の[[和田岬線]]電化に伴い、6両編成1本が[[網干総合車両所明石支所]]に配置された<ref name="rp201801_p111">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、111頁。</ref>。森ノ宮電車区の第8編成<ref name="rp201801_p80">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。80頁。</ref>を6両編成に短縮し、2001年6月21日付で明石へ転入、編成はR1編成となった<ref name="JR電車編成表2018夏_p179">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2018夏』交通新聞社、2018年。179頁。</ref>。
JR西日本の冷房改造は、当初他の2社同様、国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、[[1988年]]より改造コスト削減と早期の改造進展のために車体にかかる重量が分散され、ダクト設置の必要もない、分散式のWAU102形を1両あたり3基搭載する方法に改められた。


転属前の塗装はオレンジ(朱色1号)であったが、2001年6月20日付でスカイブルー(青22号)に変更した<ref name="JR電車編成表2018夏_p179" />。全車両が延命N40工事施工車である<ref name="rp201801_p71" />。
冷房電源は通常のモハ102形へのMG増強ではなく、1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用[[静止形インバータ]] (SIV) 設置でまかなうこととされた。また、製造会社による形状の違いも認められており、[[東芝]]製と[[三菱電機]]製では外部ルーパー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。


日中は乗務員訓練にも使用されるため、運転台のワイパーが2本増設され計3本となった<ref name="rp201801_p111" />。乗務員室と客室間の仕切り窓は、金属支持の角型となっている<ref name="rp201801_p71" />。
WAU102形が設置された車両は各地に広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、特に関西地区では優先的に廃車が進められ、2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣予備編成4連1本の廃車をもって関西からは消滅。2007年10月現在で残存しているのは広島運転所の3両編成3本(順にクモハ103-48・2501・2502+モハ102-145・403・404+クハ103-86・171・170)計9両のみとなっている。なお、廃車時に取外された冷房装置や電源用SIVは[[国鉄105系電車#JR西日本|105系の体質改善工事]]の際に一部が再利用されている。


{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
==== 関西本線関連(2500・2550番台) ====
|+ 和田岬線用R1編成<ref name="JR電車編成表2018夏_p179" />
[[大和路線]]の愛称もつけられた[[関西本線]]では、国鉄時代(→[[#関西方面向け改造車(2000・2050番台)]])に引き続いて編成短縮と編成数増加が行われた。国鉄時代とは異なり、不足した先頭車は余剰となった中間車の改造でまかなわれることになり、1988年に以下の2形式7両が改造された。
|-style="border-top:solid 3px #00a7db;"
*クハ103形2500番台:モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501 - 2504
|style="width:5em;"|クハ103<br/>-247
*クハ103形2550番台:モハ103-233・242・243→クハ103-2551 - 2553
|style="width:5em;"|モハ103<br/>-389
|style="width:5em;"|モハ102<br/>-545
|style="width:5em;"|モハ103<br/>-397
|style="width:5em;"|モハ102<br/>-553
|style="width:5em;"|クハ103<br/>-254
|}


=== JR九州の改造工事 ===
2500番台はモハ102形からの改造車で、種車の前位に運転台を設置して方転し、偶数向き専用。2550番台はモハ103形からの改造車で奇数向き専用とされた。2500番台の方が1両多いのは、[[阪和線#東羽衣支線|羽衣線]]に転用されたクハ103-194(→[[#羽衣線投入]])の分を補充する必要があったためである。
==== 筑肥線向けワンマン化改造 ====
[[ファイル:JRK103.jpg|thumb|ワンマン用ドアスイッチおよびモニターが追加されている]]
2000年3月11日ダイヤ改正から西唐津 - 筑前前原間で車内で運賃を収受しないワンマン運転を開始した<ref>「唐津鉄道事業部」『JR電車編成表』2000年夏号、JRR、p.194。</ref>。ワンマン運転に対応するための改造工事を1999年末から2000年3月にかけて小倉工場で実施した<ref>「改造工事 九州旅客鉄道」『JR電車編成表』2000年夏号、JRR、p.359。</ref>。施工内容は車外スピーカーの追設・ドア開閉時に駅ホーム設置のカメラ映像を確認可能な安全確認用液晶モニターを設置している。


==== 筑肥線向けトイレ設置改造 ====
JR西日本の方針により、新設された運転台は、[[#1974年 - 1981年製造車|1974年から103系基本番台の最終製造まで採用された]]高運転台型ではなく、より古い低運転台・[[シールドビーム]]の「1次改良型(1971 - 73年)」とされた。
2002年度下期より本系列としては初となるトイレの設置が行われ、全編成の唐津向き先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレが設置された。これに際し、トイレ設置部分の側窓・妻窓が埋め込まれ、車椅子スペースとした側窓を1/4程度に縮小された。この改造によりJR九州の電車編成でのトイレ設置率は100 %を達成している。


=== その他の改造 ===
前面以外の改造は電装解除と旧モハ103形のパンタグラフの撤去にとどめられ、パンタグラフ脇の歩み板や、一部の車両では側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置された。台車も、種車のDT33形を小改造したのみ(改造後の形式はWDT33T形)で継続使用している。
; AU720形冷房装置搭載
: 松戸電車区所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのAU720形に交換した。効果の程は不明だが、一般車と区別なく廃車された。JR西日本でも日根野電車区所属車に同様の工事を施工した車両が存在する(WAU709形)。
<gallery>
ファイル:JR103P冷房機.jpg|WAU709形搭載車<br/>AU75形より小型のため[[ランボード]]長と不一致
ファイル:JNR 103P-air conditioner.jpg|WAU709形上部
</gallery>


== 性能・運用面での比較・評価など ==
その一方、2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設された。改造時は全車非冷房であったが、のちに全車とも[[#WAU102形による冷房化改造|分散式WAU102形による冷房化]]を受けている。しかし、種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は[[#播但線投入(3500番台)|3500番台]]への運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は[[大阪環状線]]で余剰となった、状態の良い他の103系に置換えられて[[2006年]]3月1日に全廃されている。
103系は様々な線区で使用されたことにより、駅間距離が長く高速運転を行う常磐快速線や京阪神緩行線、[[中央線快速|中央線特別快速]]の例のように線区特性などに合致しないケースなども多く見られた。経営判断としての投入なのであるが、それ自体に疑問を投げかけられた。故障などの頻度を他形式と比べた場合、103系は他形式より件数が多くなることに留意する必要はある。なお、原因を解明したとしても、それが展開されずに他線区でも同様な問題点が発生する。


=== 投入線区の拡大 ===
==== 片町線 一部電化関連(5000・2500番台) ====
==== 駅間距離の長い線区への進出 ====
[[ファイル:JR EC Mc103-5003.jpg|thumb|240px|right|クモハ103-5003 連結器下の機器が電気連結器]]
国鉄の新製通勤形電車は、特殊用途の[[国鉄301系電車|301系]]を除き全て103系で賄われることになったため、増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも投入されるようになっていった。1962年(昭和37年)の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い[[常磐線]](平均速度52.8 km/h)と[[京阪神緩行線]](同56.7 km/h)も含まれていたが、本系列の仕様決定は、これらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離(1.34 km)や平均速度が参考にされた。比較的駅間距離が長い路線向けにはMT46A形主電動機の界磁を40 %からさらに弱めた35 %にするなどの措置が必要であり、MT55形が35 %まで界磁を弱めているのはこれに対応するためでもある。
[[ファイル:JNR EC T102-2.jpg|thumb|240px|right|サハ102-2 電気連結器などを撤去した後の姿]]
[[1989年]]3月11日に[[片町線]](学研都市線)が全線電化されたが、その際に開設された[[松井山手駅]]以西は7両編成で運行できたものの、以東の各駅はホームなどが短く、そのままでは入線できなかった。そこで、松井山手駅以西から来た電車は松井山手駅で[[京橋駅 (大阪府)|京橋]]方4両を切離し、[[木津駅 (京都府)|木津]]方3両のみが木津方面に入線するという運用が行われることになり、同線の車両に連結・解放に備えた整備・改造が実施された。
:具体的には、京橋側からクハ103-モハ103-モハ102-'''サハ102'''+'''クモハ103'''-モハ102-クハ103という編成であった。


当時の多くの路線の[[鉄道の最高速度|最高速度]]は95 km/hであり、80 km/hを超える高速域では101系より加速力が高い<ref group="注">弱め界磁最終段の定格速度は101系の67.5 km/hに対して64.0 km/hで僅かに下回るが、電動機出力との相乗値では上回る。また100 km/h時のユニット当たり引張力が101系の約1,300 kgに対して約1,900 kg(111系とほぼ同じ)であることからも、103系の方が高速性能に優れることがわかる。</ref>ため大きな問題にはなっていない。しかし、[[快速列車]]から逃げ切るために高加速かつ最高速度の高い通勤電車を求めていた[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|大阪鉄道管理局]]には、1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、新形式を必要とするのか検討させている。大阪鉄道管理局では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や本系列)でも使えるとの認識を示した(詳細は[[京阪神緩行線#新形通勤電車構想]]を参照)。
翌[[1990年]]には木津乗り入れ編成を4両編成とする組成変更が行われ、
:クハ103-モハ103-'''モハ102'''+'''クモハ103'''-モハ102-'''サハ102'''または'''サハ103'''-クハ103と構成が変化した。
:なお、「+」は[[連結器#電気連結器|電気連結器]]、'''この書体'''は以下で説明する、改造を受けた車両である。
*クモハ103形5000番台:クモハ103-48, モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001, 5002 - 5016
:上記の分割・併合の迅速化のため、電気連結器と電気空気開閉器を搭載する制御電動車である。5001はクモハ103形の改造車であるが、のちの15両はモハ103形に運転台が設置されてまかなわれた。新番号は5004を除いて古い順に振り直されている。
:新設された運転台は、上記の[[#関西本線関連(2500・2550番台)|クハ103形2500・2550番台]]と同様に1次改良型タイプとされたが、5001番を含め、奥行きがやや広く取られており、運転台直後の戸袋窓が改造時からない。また、種車が多岐に渡るため、前面以外の形態は各車ごとに異なっている。
[[ファイル:JR EC Mc103-2507.jpg|thumb|240px|right|クモハ103-2507]]
:1993年 - 1995年に新造の[[JR西日本207系電車|207系]]投入により、順次電気連結器関連の装備を撤去のうえで他線に転用された。その際、5001は原番復帰、5002以降は5000番台時の車号-2501され、新たに'''クモハ103形2500番台'''と区分された。
:さらに、1997年 - 1998年にかけて9両が[[#播但線用(3500番台)|3500番台]]に改造され、2007年10月現在では[[広島運転所]]に48・2501・2502、[[日根野電車区]]に2503・2504・2505・2507の計2か所7両の配置となっている。2504はユニットを組むモハ102-451とともに体質改善40Nが、2503と2504は羽衣線用ワンマン運転対応工事が施工されている。
*サハ102形5000番台:サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001 - 5013
:上記クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から改造された付随車である。運用時、松井山手駅に残される関係で[[尾灯]]掛のみが設置され、運用範囲が狭いことからクモハ103形5000番台より3両少ない(4両編成そのものが3本少なかった)。
:電気連結器などの装備の設置の際、既存の床下機器と干渉したために車両が方向転換され、逆側の車端部に設置された。このため通常のサハ103形と前後逆になっており、取り扱いが異なることから、区分番台ではなく別形式が起こされた。やはり、5001を除いて新番号は古い順に振り直され、車両ごとに形態に差異がある。
:編成構成の変更により1年足らずで改造の意義が失われ、装備撤去と番号の-5000が行われて'''サハ102形0番台'''となった。ただし、車両の向きは戻されず、側面方向幕の設置位置<ref>向きが反転しているため、通常は編成内で偶数向きクハを除き揃っている側面方向幕の位置が逆側になる。</ref>など、向きの違いによる差異はその後も残っている。1993年からはクモハ103形5000番台とともに他線に転用され、1と9 - 13には延命N40も施工されたが、2006年から廃車が始まり、2008年に最後の1両となっていたサハ102-9が廃車となって、サハ102形は消滅した。


35 %まで界磁を弱めて高速特性を高めたが、定格速度は30 km/h台であることから、平均駅間距離が2 km台の京浜東北線<ref group="注">検討時の平均駅間距離は赤羽 - 蒲田間の値で、京浜東北線全体では2 km台となる。</ref>に[[1965年]](昭和40年)に投入する際には、以下の案も検討された。
*モハ102形5000番台:モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041→モハ102-5001 - 5013
* [[ノッチオフ]]の速度が上がったことから、本系列の歯車比を1:5.6にする。
:編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手として電気連結器、電気空気開閉器、尾灯掛が設置された、モハ102形0番台からの改造車である。内容はサハ102形5000番台に準じているが、<!--所定の位置に装備が収まったために-->方向転換はなされていない。
* MT54形主電動機により中速以上の特性を高めた通勤電車の可能性を模索。
:上記2形式同様、順次片町線から撤退して他線に転用された。その際などに電気連結器を撤去した車両もあったが、元の番号への復帰は、電気空気開閉器を撤去した段階で行われている。現在では体質改善工事を受けた車両もあるが、尾灯掛は残されているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なっている。
しかし、いずれも本系列に比べて電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間も経済性が高く、高速タイプにする必要はないとの結論を得た。これらの調査結果を受け、[[1967年]](昭和42年)末から常磐線に本系列が投入される際には、ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、新規開発されたメンテナンスフリーの[[ディスクブレーキ]]付き[[国鉄DT21形台車|TR212形]]付随台車を採用した<ref group="注">ブレーキ初速度が高い常磐線向けにこの台車を開発したのではなく、偶々開発終了と常磐線への投入時期が重なった。</ref>。


京阪神緩行線への投入から3年後の[[1972年]](昭和47年)3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90 km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、[[電気ブレーキ]]が作動せずに故障と紛らわしいと苦情が多発。保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えることなどが判明した。設計上95 km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧[[継電器]]を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が施工された<ref>交友社「電車」1973年(昭和48年)7月号に[[明石電車区]]と[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]担当者の記事あり。</ref>。
* サハ103形2500番台:モハ103-232 → サハ103-2501
:編成組成の変更に伴い、モハ103形0番台から改造された付随車である。
:4両編成のサハ102形は木津乗り入れの3両編成の増結に使われることとなったが、先述のとおり乗り入れ編成に対して4両編成は3本少なかったために車両不足が生じた。この際、2両は一般のサハ103形が用意されたが、残りの1両にはユニット相手のモハ102-387が[[#関西本線関連(2500・2550番台)|クハ103形2500番台]]に改造されたために余剰となっていた、モハ103-232が活用された。
:クハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態をもつ。片町線からの撤退時に余剰となり、改造時に[[#WAU102形による冷房化|WAU102形による冷房化]]および延命N工事を施工されていたが、僅か2年で廃車となった。


JR西日本では1991年度から[[JR東西線]]の開業を見越し、乗り入れ予定の片町線では地下線対応の[[JR西日本207系電車|207系]]に置き換えを始めた。捻出された103系は100両を超えそのほとんどが冷房車であったことから、関西本線・阪和線の非冷房車置き換えに転用されたが一部は山陽本線下関運転所に冷房化率改善のため転出<ref>「下関-広間の運用に投入 103系西へ」『鉄道ファン』1992年8月号、交友社、p.128。</ref>。103系は過去にも通勤区間で駅間の長い路線に投入されたことはあっても、近郊形電車の運用区間に直接転用されたことは無かった故に、鉄道雑誌ではその使用方法について疑問が投げかけられた。特に山陽本線岩国以西は105系トイレなし編成での運用実績は有ったが103系の投入により約半年で広島運転所に転配されている。
==== ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換 ====
[[自動列車停止装置|ATS-P形]]の導入に伴い、JR西日本でも対象線区で運用される本系列について、その運転台に装備されているブレーキ弁の改修が実施されている。ただし、電源投入方式がJR東日本のそれと異なるため非常抜取対応のME48形は導入されず、従来のME40形の電気接点部分の改造で対処されたほか、その後[[国鉄117系電車|117系]]などに採用されたME49系への交換が開始されている。


==== 座席モケット交換 ====
==== ダイヤ上の問題 ====
[[常磐快速線]]と[[阪和線]]で問題になった。これは103系単独の問題ではなく、運用上、阪和線では113系、常磐快速線では[[国鉄415系電車|401・403・415系]]と並行ダイヤを組むことになったためである。加速度が高く高速性能が劣る103系と、加速度が低く高速性能に優れる近郊形電車とで同一の線路を走り並行ダイヤを組んだため、どちらの特性もスポイルした。更に常磐快速線では[[国鉄485系電車|485系]](後に[[JR東日本651系電車|651系]]も加わる)、阪和線では[[国鉄381系電車|381系]]特急もそのダイヤの中に入りこんだため、ダイヤカット(列車の運転間隔の短縮)に苦労することになる。
イメージアップの一環として、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分が入ったものに交換された。その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。[[優先席]]も青地に[[ピクトグラム]]の入ったものに交換されており、こちらは現存する全車が施工済みである。なお、JR東日本から売却された8両のうち、広島運転所に投入された先頭車2両は現在もJR東日本仕様のままで残っている。


このため、東京鉄道管理局では1972年(昭和47年)の[[中央・総武緩行線]]分離後に首都圏の101系を常磐線に集結させ、上野~取手間の快速電車と取手以北へ行く中距離列車の加減速特性を近づけ、同時に松戸電車区の103系0番代を常磐快速線より平均駅間の狭い線区に転出させることが検討された。しかし、この計画は実現しなかった。元々、常磐線の103系は緩急分離以降4M4Tの8両編成になったため混雑が激しく、1973年3月からは編成に電動車2両を追加して10両編成に増車。結果的にMT比が上がったことで走行性能が改善された。常磐線快速電車と中距離列車の特性を揃えるという対策は、JR化後に前者をE231系、後者を[[JR東日本E531系電車|E531系]]に置き換えることでようやく実現した。
==== 腐食対策 ====
延命の一環として、腐食の原因を取り除く、各種の改造がなされた。
* '''窓閉塞'''
雨水の浸入を防いで車体の腐食を遅らせたり、窓の清掃を簡略化するため、[[1990年]]より[[戸袋]]窓の閉鎖工事が、[[1997年]]からは妻面窓の閉鎖工事が行われた。2007年7月現在で戸袋窓が残存しているのは日根野電車区、[[岡山電車区]]、広島運転所に4両編成1本ずつ、計12両のみである。また、妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から、一枚固定ガラスに交換された車両も存在する。
* '''扉交換'''
腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製から[[ステンレス鋼|ステンレス]]製に交換された車両がある。新しい扉は車両によって窓の支持方法が異なっている<!--施工時期の違い?-->ほか、貫通扉はオリジナルより窓が下方に長いものとなった。これらは現存するほぼ全車が施工済みである。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られて、大部分の車両では金属地むき出しとなっている。
* '''前面金属板設置'''
窓を支持するHゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆われた車両がある。この工事は金属枠支持の[[#体質改善工事|体質改善車]]、広島運転所所属車<ref>[[2003年]]から[[2005年]]の間、関西地区で金属板設置工事を施工されていた[[福知山線]]用の車両が転用され、2両のみ存在していたことがある。これらは現在[[阪和線]]に再転用されている。</ref>([[#広島支社投入]])、[[和田岬線]]専属車(→[[#和田岬線投入]])および[[#片町線 一部電化関連(5000・2500番台)|クモハ103形2500番台]]は対象外となっている。
<gallery perrow="3">
ファイル:JRW-103EC-kansai.jpg|クハ103形高運転台車。戸袋窓が閉塞されている。
ファイル:JR103系室内.jpg|窓閉鎖車の車内。写真はクハ103形の初期型車両。
ファイル:JR103系固定窓.jpg|固定式の妻窓(左側)と新しい貫通扉。延命N40車。
ファイル:JR103Nドア.jpg|ステンレス製の扉。右は窓がHゴム支持の物。左は窓が金属枠支持の物。
ファイル:JR West 103 Series EMU 002.JPG|前面窓ステンレス、側扉窓アルミ押さえ金支持の車両(クハ103形0番台)。
ファイル:JR103系2500番台.jpg|前面窓、側扉窓Hゴム支持の車両(クモハ103形2500番台)。
</gallery>
{{-}}<!-- ズレ防止の改行 -->


==== 広島支社投入 ====
=== 主電動機の性能比較 ===
==== 101系との主電動機比較 ====
[[下関地域鉄道部|下関運転所]]の[[国鉄115系電車|115系]]非冷房車置き換えのため、[[山陽本線]]下関地区に103系が投入されることになり、その転入整備が[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]と[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]で施工された。主な整備内容は同線用[[自動列車停止装置|ATS-S形]]や[[列車無線]]の取付、同線標準の瀬戸内色への塗装変更、方向幕不使用のため行先表示板(サボ)受けの設置などである。なおサボ受け設置位置に弱冷車表記があり、干渉したために移設された。ただし、弱冷車表記は移設前にも後にも使用されていない。
8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年(昭和43年)10月の山手線10両編成化の際には6M4Tとなるため、MT比が3:2となった。単純に編成出力だけを見れば101系の2,400 kWに対し本系列は2,640 kWと大きく、「10両ならば103系は不要で101系でいい<ref>「鉄道ファン訪問 -みたり きいたり はなしたり- 斎藤雅男氏」、『鉄道ファン』Vol.9 No.96 1969年6月号、交友社、p.34</ref>」という意見も存在した。


実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、定格引張力が小さい101系は<ref group="注">MT55、MT46ともに弱め界磁定格のため100 %界磁に換算して比較すると、電動車1ユニット当たり103系が約9500 kgに対して101系は約6300 kgとなり約1.5倍の差がある。</ref>本系列の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならなかった。
[[1992年]]5月から順次運行を開始したが、[[列車便所|トイレ]]を持たなかったことが不評であったため[[国鉄115系電車|115系]]などのトイレ付き近郊型電車に置き換えられて[[広島運転所]]に転属し、のちの転入車とともに広島地区へ活躍の場を移した。のちに行先表示板に代わって方向幕の使用が開始されたがサボ受けは残された。なお前面方向幕は広島支社に配置されている他形式と同様に使用されず、運行表示機には編成番号が掲出されている。


同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線の101系と本系列6M4T同士の試算では、以下のようになる。
方向幕使用開始後に転入した4両編成1本はサボ受けが設置されなかった。車両需給の関係で一部は関西地区に再転属し、サボ受けは使用されないものの撤去されなかったため、サボ受けがついた車両が関西地区でも見られた。
* 運転時分を同等とした場合の限流値は本系列で415 [[アンペア|A]]に対し101系では480 Aとなる{{refnest|group="注"|101系は限流値480 Aで63分、本系列は限流値415 Aで62分50秒の基準運転時分である<ref>鉄道ファン2006年4月号</ref>。}}。
* 同試算によると101系に比べ本系列の方が変電所設備や年間電力消費量を低減できるとされており、上記の編成出力だけを基準とした意見は必ずしも正確ではない。


101系のみならずMT46系主電動機を採用した形式は、主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)が不足しており、山手線のような加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足りない<ref>大城康世・川添雄司 「こんごの通勤電車」JREA1961年6月号、pp.14 - 17</ref>との試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系は全電動車でも問題点があるとされていた。
2007年から順次関西地区で余剰となった113系(一部を除き高速化対応を解除)に置き換えられて廃車となっている。また2008年に3本のみ配置されている3両編成のクハ103形(86・170・171)にトイレの設置が行われ、同時にトイレ部分にあった方向幕が移設されている。


さらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300 %にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える本系列は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことができる。
==== 岡山支社投入 ====
下関地区と同様に115系非冷房車を置き換えるため、[[1994年]]より、広島支社(→[[#広島支社投入]])に続いて[[西日本旅客鉄道岡山支社|岡山支社]]にも103系が投入された。こちらは[[岡山電車区]]に4両編成5本20両の比較的少数の配置で、[[山陽本線]]岡山地区や[[宇野線]]など用である。入線に際し、独自の「マスカット色(→[[#JR設定色]])」に塗装が変更された。


そもそもMT比1:1設計をMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年の京浜東北線10両編成投入の際に、長短所については検討しているが、省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認<ref>小林喜幹 「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」電車1965年6月号、pp.13 - 19</ref>している。したがって、同じMT比3:2の6M4Tでも101系より本系列の方が加速度の高いことがわかる。
これらはすべて0番台のクハ103形-モハ103形-モハ102形-クハ103形(→ [[#形式]])という編成構成であり、先頭車は[[#1971年 - 1972年製造車|1971 - 73年製造]]の「1次改良型」の前面形状、中間車は1971年以降のユニット窓装備車で揃えられていた。さらに、[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は全車一般的なAU75形1機搭載で、中間モハユニット3組が延命N40、それ以外の14両がNの[[#延命工事|延命工事]]と[[#腐食対策|戸袋窓閉塞]]が実施済みであるなど、編成ごとの差異は少なかった。


==== 国鉄電車用主電動機との比較 ====
長らくこの20両で推移していたが、[[2004年]]に[[国鉄213系電車#2003年10月以降|213系の「マリンライナー」からの転用]]を受けて運用を離脱。3編成が広島支社に、N40モハユニット1組が[[奈良電車区]]にそれぞれ転用され、このモハユニットと編成を組んでいた先頭車2両は廃車された。残った1編成は予備として岡山に残されたが[[2006年]]に廃車され、当初投入の車両は全車撤退となった。
電気鉄道用主電動機は固定歯車比の減速機構を通して車軸を駆動する関係で、主電動機に幅広い回転数変化とくに、弱め界磁時の高速回転に耐えることが求められる。このことを数値的に表すために主電動機の高速回転能力を示す指針としては出力よりもSRP (Specific Ratio Power) を用い、電動機進歩の比較としてSSRP (Specific Speed Ratio Power)<ref>松田新市(三菱電機伊丹製作所技術部長) 『高速度電動機と駆動装置』1958年6月、電気車研究会、pp.17 - 20。</ref><ref>『新訂直流電車中央鉄道学園編』1965年3月、交友社、pp.43 - 44。</ref>を用いることがある。ここでSRPとは許容回転数×(電動機出力÷定格回転数)(馬力HP)であり、SSRPはSRPを主電動機質量で除したものである。下記に国鉄の主な主電動機のSSRPとSRPを示す。


{| class="wikitable" style="float; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
しかし、前後して[[アーバンネットワーク]]での車両置き換えにともなって奈良電車区や[[日根野電車区]]で発生した余剰車の転入<!-- 理由は福知山線用に113系を戻した穴埋めか? -->があり、再び103系の運用が設定された。この時の投入車両は1994年投入分と同じ0番台であるものの、すべてクモハ103形-モハ102形-サハ103形-クハ103形の編成構成で、かつ初期車の率が高く1本は戸袋窓が存置されているなど、比較的状態が悪いものだった。現在までに数度の入れ替えがあり、クハ103形-モハ103形-モハ102形-クハ103形の構成の編成も在籍するようになっている。ただ、塗装は、元の配置場所(→[[#車両塗装]])のままで統一されていない。
|+ 国鉄電車用主電動機の能力<ref name="seinou-1964"/><ref>古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ電車用主電動機 (1)」『電車』1987年8月、交友社、pp.31-37。</ref><ref>石川誠(JR西日本車両部車両課) 「205系電車1000代の概要」『電車』1988年4月、交友社、pp.81-85。</ref>比較(参考値)
|-
!!!MT30!!MT40!!MT46A!!MT54!!MT55!!MT60!!MT61!!MT63!!WMT61A(JR西日本)
|-
|主な形式||モハ72形||モハ72形||101系||113系||103系||201系||205系||207系(国鉄)||205系1000番台
|-
|許容回転数 ([[rpm (単位)|rpm]]) ||2000||2000||4320||4320||4400||4850||4600||6000||5100
|-
|定格回転数 ([[rpm (単位)|rpm]]) ||780||870||1860||1630||1250||1890||1540||2200||1540
|-
|電動機出力 ([[キロワット|kW]]) ||128||142||100||120||110||150||120||150||120
|-
|電動機出力 ([[馬力|HP]]) ||171.7||190.4||134.1||160.9||147.5||201.2||160.9||201.2||160.9
|-
|SRP||440.3||437.7||355.4||426.4||479.8||516.3||480.6||548.7||532.9
|-
|電動機質量 ([[キログラム|kg]]) ||2100||1970||740||800||980||835||800||535||800
|-
|SSRP||0.21||0.22||0.48||0.53||0.49||0.62||0.60||1.03||0.67
|}


SRPの定義式は、許容回転数×(電動機出力÷定格回転数)と変形できるのでSRPはすなわち、設計安全最高速度と定格トルクの積に比例する値となる。したがって車両の設計安全最高速度と質量あたり出力を決めると、起動加速度はSRPにほぼ比例することが分かる。定格回転数が低いにもかかわらず許容回転数が高い103系のMT55は、SRPやSSRPで比較すれば、他の新性能電車向け主電動機に負けず劣らず軽量で高速回転に耐える優秀な主電動機であるのだが、「103系の高速運転時にはモーターがブンブンと回るだけ」と、高回転では103系のモーターが能力外であると勘違いさせるかのような記述<ref>曽根悟(東京大学教授) 「最近の通勤形電車における技術とサービスの設計思想」『鉄道ジャーナル』1993年9月、鉄道ジャーナル、pp.36 - 41。</ref>も見受けられる。ただしMT55を定格速度が低い103系のセッティング(歯数比と車輪径)で使う場合、定出力領域は64 [[キロメートル毎時|km/h]]で終わり、それ以上高速になると出力が落ちる。これは113系や115系(ともに歯数比は4.82〈17:82〉)の84 km/hに比べて低いばかりか、定格出力の小さい101系の67 km/hよりも低い数値<ref name="seinou-1964">『電車性能曲線追録』1964年、国鉄臨時車両設計事務所</ref>であり、高速域では主電動機の持つポテンシャルを出し切れていないことになる。
また、2008年末からは、広島運転所からの転入も発生している。こちらの塗装も、元の配置場所のままになっている<ref>『鉄道ファン』 交友社、2009年3月 P.193</ref>。


=== 通勤用車両の冷房化率の推移 ===
<gallery>
昭和40年代前半になると家庭でもクーラーが普及し始め、通勤型電車でもクーラーの要求が増していく。そこで国鉄では103系と113系にて冷房装置の試作を昭和45年に行い、昭和48年度より103系は冷房車製造を行っていく。冷房装置付きの103系が増備されることで各線区の冷房化率が上がった。
ファイル:JNR EC M103-497.jpg|当初投入分の内の一両。塗装が独自のものだった。
ファイル:JNR 103 oka H17.JPG|日根野区からの貸出車。茶屋町、2009年5月3日
ファイル:JNR 103 oka H18.JPG|奈良区からの貸出車。備中箕島 - 早島、2009年4月3日
ファイル:JNR 103 oka H19.JPG|広島運転所からの貸出車。茶屋町、2009年5月3日
</gallery>


国鉄広報部が毎年1回出している「数字でみた国鉄」では昭和49年版から通勤用車両の冷房化率が掲載されている。201系の量産が始まる昭和57年版までの冷房化率の推移を示す。一部は101系冷房改造車によるものも含まれるが、103系が昭和50年代に大量に増備された結果、通勤輸送における冷房化率が向上した。
==== スカート設置 ====
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="margin: margin:0em 0em 1em 2em; text-align: center; font-size: 90%; width:60em;"
201系などとともに、衝撃への耐久性を高める目的で[[排障器|スカート]]が設置された。すべての先頭車が施工済みである。
|-
!colspan="11"|東京・大阪付近の通勤用車両の冷房化率(各年7月現在)
|-
!!!1974年!!1975年!!1976年!!1977年!!1978年!!1979年!!1980年!!1981年!!1982年!!備考
|-
|中央本線||20 %||21 %||21 %||23 %||34 %||44 %||48 %||52 %||67 %||特別快速は100 %
|-
|山手線||31 %||31 %||39 %||41 %||54 %||66 %||72 %||74 %||76 %||
|-
|京浜東北線||7 %||7 %||18 %||52 %||64 %||64 %||65 %||66 %||68 %||
|-
|常磐快速||||||||13 %||23 %||38 %||48 %||52 %||56 %||
|-
|総武緩行||||||||||1 %||10 %||17 %||17 %||39 %||
|-
|南武||||||||||3 %||16 %||30 %||35 %||50 %||
|-
|横浜||||||||||17 %||31 %||44 %||48 %||59 %||
|-
|青梅||||||||||3 %||5 %||12 %||12 %||18 %||
|-
|武蔵野||||||||||||||||6 %||6 %||
|-
|東海道・山陽本線(緩行)||20 %||27 %||42 %||43 %||44 %||47 %||51 %||54 %||56 %||
|-
|大阪環状線||34 %||34 %||50 %||64 %||64 %||64 %||76 %||76 %||76 %||
|-
|阪和線||8 %||8 %||16 %||23 %||32 %||42 %||61 %||63 %||69 %||
|-
|片町線||||||||||12 %||28 %||33 %||33 %||33 %||
|}


==== 延命工事 ====
=== 他形式等との比較 ===
本形式は、製造期間が20年以上に及んだため、その間の技術向上などを反映しにくく、製造後30年近く経っても大量に残っていたこともあり、陳腐化していた<ref name="RP199503-sone">曽根悟(東京大学教授) 「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、電気車研究会、pp.28 - 29。</ref>。オイルショック以後の省エネという観点において回生ブレーキを装備していなかったことの指摘もある上、JR東日本が製造した209系通勤形電車の車内に103系電車との消費電力量比較が掲示されたことと相まって、浪エネと表現した記事も見られるようになる。鋼製車体で回生ブレーキを装備しない本形式が過去にどのような比較等をなされているかを示す。
国鉄時代の「特別保全工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。試験的なものを除くと、内容によって以下の4種に分かれる。
* '''延命N'''
: 製造から30年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換および内壁の張替が行われた工事で。1972年までに製造された車両の大半が該当している。
* '''延命NA'''
: 国鉄時代に特別保全工事を受けた車両に内壁の張替など前述の延命N工事と同様の工事が追加された工事。重複する部分は省略された。
* '''延命NB'''
: 初期車(窓がユニットサッシでない1970年以前の車両)が延命N工事と同時にWAU102形による冷房改造と、側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換が行われた工事。この工事を受けた車両は11両にとどまり、2006年4月までに全車が運用を終了し廃車となっている。
* '''延命N40'''
: 製造から40年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換・内壁の張替および窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など、上記3種よりも徹底した内容の工事が行われた工事である。主に1973年 - 1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも実施された。なお、この工事で採用された黒色サッシは取り付け部の枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少している。
<gallery perrow="3">
ファイル:JR West103orange01.jpg|延命N40車(低運転台)。側面の黒色サッシが特徴。
ファイル:JR103系N.jpg|延命N車(左)と延命N40車(右)。N40車の窓の方が若干小さい。
ファイル:L25_Tc103-516_680.jpg|延命NB工事車。(クハ103-516)
ファイル:JR103N室内2.jpg|延命N車の車内。内装が暖色系となっている。写真の車両の妻部はドア交換、窓閉塞。側扉は窓が金属支持で壁と同色のシール付。
ファイル:JR103N室内.jpg|延命N40車の車内。妻部はドア交換、窓の固定化がなされている。
</gallery>
{{-}}<!-- ズレ防止の改行 -->


==== 旧形国電や101系との電力消費量率の比較(1966年頃) ====
==== 体質改善工事 ====
103系が経済性が高いと言われた所以は、単にMT比1:1による運転が出来て車両費などが安いという点だけでなく、高い加速度と高い減速度によって同時代の他の抵抗制御車よりも[[消費電力]]量が少なく、経済運転が可能な点に依るところが大であった。設計当時は後者のメリットを語る記述が多かったが、[[1980年代]]以降に回生ブレーキ車が一般化し、さらに軽量[[オールステンレス車両|ステンレス]]や[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ車]]などが標準になってからは「103系は他系列より消費電力において経済的」というロジックは完全に過去のものとなっている。
[[ファイル:JNR EC Tc103-245.jpg|thumb|240px|right|体質改善工事試作車 クハ103-245<br />(2006年4月23日 上野芝駅)]]
[[1996年]]以降、後継車両の[[JR西日本207系電車|207系]]との落差改善と延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした、リニューアル工事が実施された。これらの工事を受けた車両の車両番号標記は、国鉄時代の丸ゴシック体から、JR西日本独特の書体に変更されている(ただし、森ノ宮区所属車に見られる制御車前面の車番表記は国鉄書体である)。


下表は103系が量産され始めた当時に試算された他形式との比較表であり、103系が他形式よりも有利であることがわかる{{Sfn|佐藤善一|1966|pp=2-6}}。電力消費率は、1 kmまたは1000 [[輸送量の単位|t・km]]あたりの消費電力量だが、ここでは1000 t・kmを用いている。また、消費電力量は運転時分を長くするとそれだけ減る傾向にあるが、103系の消費電力量、消費電力量率は他の形式に比べて運転時分が短い状態での数値である。同じ運転時分ベースで考えるとさらに103系の消費電力量等は下がる。
===== 体質改善40N =====
老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため、屋根の張上化、一部外板のステンレス化、屋根上通風器の撤去、側面ルーバー形状の変更、方向幕形状の変更、運転台の整備、運転台・ドア窓支持の変更(私鉄のような金属枠)、窓サッシの交換(ドア間は下段固定・上段上昇の3分割[[バス (交通機関)|バス]]風逆T字サッシ、車端部は固定1枚)、運行番号表示器・行先表示器・前灯部分の内支持化(初期は金属枠)、内壁・床の張替、座席クッションの更新、荷棚のパイプ化、照明へのカバー取付、扇風機のラインデリアへの交換、冷房風道のラインフロー化が実施された。
<gallery>
ファイル:JR West103orange03.JPG|クハ103形体質改善40N車(高運転台)。車体が大幅に改造されている。
ファイル:JR103R室内.jpg|体質改善40N車の車内。冷房風道がラインフロー化され、扇風機はラインデリアに改造されている。窓はUSJのラッピングシールが貼られているために通常より暗くなっている。
ファイル:JR103R室内2.jpg|体質改善40N車の車内。左写真の車両と同じ編成に組成される車両だが、こちらの風道は改造品。妻面は窓が閉塞され、貫通扉は体質改善車専用品に交換されている。
ファイル:JR103P室内.jpg|体質改善40N試作車の車内。座席が片持ち式となっており、下部が空洞化されている。
ファイル:JR103系R.jpg|方向幕部分の支持方法の違い。左は内支持、右は金属枠支持。
ファイル:JR103N扇風機.jpg|カバーが取り付けられた扇風機。ラインデリアへ交換されなかった車両に取り付けられ、乗客に直接風が当たるのを防いでいる。
ファイル:JR103系扇風機.jpg|(参考)通常の扇風機。首振り機能が付いている。
</gallery>


{| class="wikitable" style="float; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
この改造を最初に受けた8両編成1本(改造試作車)は、ドアエンジンが戸袋下部に設置された旧形国電以来のTK4形からドア上部設置の直動式に交換され、座席は全交換(207系と同一の、下部が空洞の片持ち式座席)、前灯は原形のまま、妻窓も残されたまま(後で埋められた)など、やや特殊な内容となっている。これらの工事内容は次第に簡略化が進み(冷房風道のラインフロー化をやめ従来風道の再用に、ラインデリア化をやめ扇風機の改造に変更など)、2002年からは後述の30N工事に移行した。
|+ 103系と旧形72系・101系の消費電力量率等の比較
{{-}}<!-- ズレ防止の改行 -->
|-
!線名||車種||編成と限流値||運転時分||電力消費率||比率||備考
|-
| rowspan="4" |山手線||旧形||5M3T 210 A||53分40秒||58.3 kWh/1000 t・km||100||
|-
|rowspan="2"|101系||6M2T 300 A||53分20秒||52.5 kWh/1000 t・km||90||
|-
|6M2T 480 A||48分40秒||55.4 kWh/1000 t・km||95||参考値。実際にこの限流値で運転されたことはない
|-
|103系||4M4T 415 A||50分00秒||48.6 kWh/1000 t・km||83||
|-
| rowspan="4" |京浜東北線||旧形||6M4T 210 A||79分20秒||47.7 kWh/1000 t・km||100||参考値。京浜東北線で旧形の10連は運転されていない
|-
|旧形||5M3T 210 A||78分50秒||47.9 kWh/1000 t・km||101||
|-
|101系||6M4T 480 A||73分20秒||46.0 kWh/1000 t・km||97||参考値。実際にこの限流値で運転されたことはない
|-
|103系||6M4T 415 A||72分40秒||44.0 kWh/1000 t・km||92||
|}


==== 113系やMT54の歯車比1:5.60車との比較(1975年頃) ====
===== 体質改善30N =====
同一駅間における運転時分は、起動加速度を高くとり低い速度で惰行に移る方が省エネになる。このように103系は駅間距離が長くても到着時分は113系などと遜色なく、消費電力量も少ない。車両の最高速度が高いからといって、必ずしも目的地への到達時間が短くなるわけではない<ref>入江孝徳 「地域化時代の象徴 117系と185系」『とれいん』2011年7月号、プレスアイゼンバーン、p.21。</ref>。
[[2002年]]以降新車投入ペースが速まり、種車となる103系の車齢も高まっていたことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小されたものである。特に直接保守面、接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡素化され、体質改善40Nに比べてドア・側窓・屋根樋などが原形のままとされている。1973年以降に製造された車両のうち、上記の5種類の更新工事を全く受けずに残っていたクハとモハが対象とされ、[[2005年]]までにそれに該当するクハ全車と1ユニット (M405-M'561、このユニットは廃車) を除くすべてのモハが実施されて終了した。
<gallery>
ファイル:JR West103orange02.jpg|体質改善30N車(低運転台)。前面は改造されているが、側面は原型に近い。
ファイル:JR103R室内3.jpg|体質改善30N車の車内。窓が原形で、照明カバーがない以外は上の体質改善40N車両に準じた内装となっている。
</gallery>
{{-}}<!-- ズレ防止の改行 -->


下表は113系と101系の主電動機をMT54にした架空形式、そして103系の3種類の形式を2M2T・300 %乗車、回復余力10 %という条件で1 km - 5 kmの駅間距離の運転時分と消費電力量を計算したものだが、113系は限流値が低く起動加速度が低いため、省エネ率なども低くなっている<ref>佐々木拓二(国鉄車両設計事務所) 「電気車の省エネルギー化」『電気車の科学』1975年1月号、電気車研究会、pp.19 - 22。</ref>。
==== 播但線投入(3500番台) ====
{| class="wikitable" style="float; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
{{鉄道車両
|+ 103系と113系・101系のMT54換装車(架空形式)の消費電力量と運転時分の比較
|車両名= 3500番台
|-
|社色 = #000000
!!!1 km!!2 km!!3 km!!4 km!!5 km!!備考
|画像 = JRW EC MC102-3508.jpg
|-
|pxl = 240px
|113系||12.5 kWh 106秒||19.0 kWh 154秒||24.4 kWh 199秒||29.2 kWh 244秒||33.3 kWh 289秒||
|画像説明= クモハ102形3500番台<br />(2007年8月14日 寺前駅)
|-
|unit = auto
|101'系||11.1 kWh 101秒||18.0 kWh 151秒||23.2 kWh 197秒||27.0 kWh 240秒||31.7 kwh 284秒||101系の主電動機をMT54に換装した架空形式
|起動加速度= 2.5
|-
|重量 = 42.0t(クモハ103) - 42.6t(クモハ102)
|103系||10.2 kWh 96秒||16.5 kWh 148秒||21.4 kWh 196秒||26.2 kWh 242秒||31.9 kWh 285秒||
|保安装置= [[自動列車停止装置|ATS-Sw, ATS-P]]
}}
|}
[[ファイル:JR EC Mc103-3508.jpg|thumb|200px|クモハ103形3500番台]]
[[1998年]]3月14日の[[播但線]][[姫路駅]] - [[寺前駅]]間の電化により、同区間で本系列が使用されることになった。車両は需要と[[ワンマン運転]]の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のためにすでに片側に運転台を持つ2500(← 5000)番台クモハユニットから9本が[[1997年]]から1998年にかけて改造され、[[網干総合車両所]]に投入された。


==== 営団6000系や301系などアルミ車との比較(1975年頃) ====
この改造により、新たに'''3500番台'''と区分された。JR東日本に同じ番台区分が存在した(→[[#八高線 一部電化関連(3500番台)]])が、関連性は全くなく、設定形式も重複していない。改造には状態の良い車両が選ばれたため、種車が新しいユニットが中心となっている。
鉄道車両の電力消費量は、編成重量に比例する。つまり車体が軽量であるほど、電力消費量は低くなるため、昭和30年代中頃よりステンレスやアルミによる車両軽量化が始まった。国鉄では、ステンレス車は試作車両のみに終わるが、営団地下鉄5号線(現、東京メトロ東西線)乗り入れ用として、昭和41年にアルミ車体の301系が103系をベースにして設計されている。しかし、アルミ車体は製造費が高いこともあって301系の製造は56両で終わり、その後は地下乗り入れ用の車両も103系が製造された。営団地下鉄9号線(現、東京メトロ千代田線)では営団側がアルミ車体回生ブレーキ付きの6000系を使用していたのに対し、国鉄側が回生ブレーキを持たず、電動車比率の高い103系であり、営団側からも早期のチョッパ制御など省エネ車の導入を要請されていた。一時は費用が掛かるため断念したが、1973年(昭和48年)末の[[オイルショック]]以後、省エネが[[社会問題]]となっていた事から、アルミ車体にした場合の効果を再考し、山手線などの冷房付き103系10両編成をアルミ車にした場合で各車両に10 [[トン|t]]荷重がかかった状態(満車は20 tで査定される)では消費電力量が11 [[パーセント|%]]削減できると予測している<ref>稲垣哲男(国鉄技術開発室)・渡辺朝紀(国鉄車両設計事務所) 「電車のアルミ化による電力節減」『JREA』1975年2月号、日本鉄道技術会、pp.25 - 29。</ref>。また、営団千代田線でも我孫子 - 代々木公園間で乗車率50 %で実測したのが下表で、車体の軽量化と回生ブレーキを有する事で営団6000系は103系に比べて消費電力量が40 %少ない結果となった。


{| class="wikitable" style="float; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
;編成構成は以下のとおり。
|+ 営団6000系と103系地下型との消費電力量比較
:↑寺前
|-
*クモハ103形3500番台:クモハ103-2506・2508 - 2515→クモハ103-3501 - 3509
!!!103系1000番台||営団6000系
:[[#片町線 一部電化関連(5000・2500番台)|クモハ103形2500番台]]から改造された車両。
|-
|編成||8M2T||6M4T
|-
|編成重量||358 t||288 t
|-
|力行電力 (kWh/km) ||25.0||20.1
|-
|回生電力 (kWh/km) ||0||-5.3
|-
|消費電力量 (kWh/km) ||25.0||14.8
|-
|比率||100||60
|}


==== 旧形国電や101系との比較(1981年頃) ====
*クモハ102形3500番台:モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501 - 3509
経済運転は、動力費が原価の部分であると考えるなら企業内で取り上げられて当然であり、各鉄道会社でも古くは蒸気機関車の石炭消費量の節約方法など活発に行われた。103系のような通勤電車の場合も同様に経済運転の手法が確立されており、通勤電車のように起動・停止が反復するものに関しては、定格速度を低く取る事で起動抵抗を早く抜け抵抗ロスを少なくし、高速域は界磁を弱めて対応することが得策である。一定駅間を同一時分で運転する場合は、加速度を高くとり惰行時間を多く取ればブレーキ初速が遅くなりブレーキによるエネルギー損失を防げ、加速度を大きく取ると103系のような直流直巻電動機を用いる場合、定格速度が低くなるが、逆に起動時の抵抗ロスを減らす効果がある。抵抗損失は抵抗の抜ける速度の二乗に比例して増大するため、101系や旧型国電に対して抵抗を抜ける速度が約30 km/hと低い103系は、これらの形式に比べて格段に抵抗損失が少なくなっている。結果として、103系を用いることで首都圏などの通勤線区では10 %程度省エネとなっている<ref>沼野稔夫(国鉄車両設計事務所電気車主任技師) 「鉄道車両の省エネルギー (1)」『電車』1981年2月号、交友社、pp.25 - 29。</ref>。
:モハ102形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ102形となった<ref>モハ102形の番号が2500台でないのは、クモハ103形と異なり[[#片町線 一部電化関連(5000・2500番台)|片町線 一部間電化]]に際して改造対象とならなかったためで、改造時に編成変更が行われたわけではない。</ref>。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせ、[[#1971年 - 1972年製造車|1971 - 73年製造]]の先頭車に準じた低運転台の「1次改良型」とされている。なお、一部に廃車車両から流用された部品が使用されており、機器捻出のために廃車された車両も存在する。


==== 駅間が長く高速運転できる形式との比較(1985年頃) ====
全車とも改造と同時に[[#体質改善40N|体質改善40N工事]]が施行された。一部、すでに[[#延命工事|延命N40工事]]が施工されている車両が存在し、該当車は重複施工となっている。内容は基本的に同時期の一般の体質改善車に準じているが、ワンマン運転時の運転席からの視認性向上のために運転台仕切りと妻面[[貫通扉]]の窓が拡大されているのが特徴となっている。また、車内で運賃収受が行われることから、運転台仕切りに[[バス (交通機関)|バス]]タイプの[[運賃表示器]]と非ワンマン時は運転台背面に格納できる[[運賃箱]]が設置されている。
103系電車が阪和線や東海道・山陽緩行線などに投入されると、駅間距離が長い路線では、一般に[[最高速度]]やブレーキ初速が高い運転がされているため、投入当初は苦情も多かった。しかし、原因の追及などによりそれらの不満は解消されることになる<ref name="denkisya197306"/>が、このことが恒久的な問題点だと記事にしたケース<ref name="RP199503-sone"/>などもあり、駅間が長く高速運転をする線区では103系は適さないと思われるようになった。


しかし車両設計事務所の川添雄司は「103系は駅間の長い路線や最高速度が高い路線など別形式が有利に見える路線でも、データを見ると103系に有利な数字が出るとしている。東海道本線・山陽本線などでは、3ドアの[[国鉄113系電車|113系]]を4ドアにしたような車両<ref group="注">もっとも近い特性の車両は[[東武鉄道|東武]][[東武8000系電車|8000系]]で、出力130kW、定格回転数1,750rpm(界磁82%)、歯車比は5.31。起動加速度は2.33km/h/sと低めだが、これは中間速度域の段数を増やし、駅間で『デラックスロマンスカー』[[東武1720系電車|1720系]]から“逃げ切る”ための設定だった。その一方、各停運用では103系よりさらに低速向けの[[東武2000系電車|2000系]]と同居したが、どちらも特に悪評は立っていない。阪和線と[[阪急電鉄]]ほど著名ではないが、この両者も常磐快速線と[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]の荒川橋梁上で比較対象とされがちな形式だった。</ref>でよいかもしれないが、比較すると103系の方が消費電力量が少ない。103系は駅間の短いところから長いところまで使える上に、価格も安い」と述べている<ref>川添雄司(国鉄車両部設計課課長) 「日本国有鉄道205系電車」『RAILFAN』1986年1月号、鉄道友の会、pp.17 - 20。</ref>。このことは前述の113系等との1 km - 5 kmの運転時分や消費電力量の比較などを見ても明らかである。
車外では、ワンマン運転時に一部扉が閉め切られることから、客用扉付近に出入口を明示するLED表示器が設置され、クモハ103-3503と-3509には運転台上部に冬季の[[架線]][[霜]]取用[[集電装置|パンタグラフ]]の増設準備がなされている。[[2005年]]から[[2007年]]にかけてクモハ102形に後述の[[#加古川線投入(3550番台)|3550番台]]と同型の[[列車便所|トイレ]]が設置され、該当部分の窓が埋め込まれた。塗装も独自のもの(→[[#JR設定色]])である。2009年以降、ATS-Pや[[緊急列車防護装置|TE装置]]の取り付けが順次行われている<ref>{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 2010夏|year=2010|publisher=交通新聞社|pages=p.169|id= ISBN 9784330143101}}</ref>。


==== 山手線205系との比較(1986年頃) ====
[[ファイル:JR BantanLine 103-0.jpg|thumb|200px|応援編成。投入当初で、比較的綺麗な状態。]]
1985年9月から1986年9月まで山手線の103系と205系それぞれ1編成に積算電力計を設置し、実車による消費電力量調査を行っている<ref>石川陽一(国鉄運転局設計課) 「電力消費量の比較 山手線の205系・103系」『電車』1987年3月号、交友社、pp.6 - 8。</ref>。力行時の効果は205系が軽量ステンレス車体やボルスタレス台車などの採用で編成あたり65トン軽いという要素があり、補機については103系が主抵抗器の強制冷却用ブロアモーターがあること、冷房装置が205系の省エネタイプのAU75Gに比べて古いタイプであることなどによる差も含んだデータとなっている。回生率などのデータはその路線での運転方法と綿密な関連があるので、このデータはあくまでも山手線のものである。
これらに加え、2006年3月には[[日根野電車区]]から[[阪和線]]で使用していた[[#0番台|0番台]]6両編成1本<ref>寺前方からクハ103-15+モハ103-15+モハ102-15+モハ103-16+モハ102-16+クハ103-16を借り入れていた。元は中間に[[#延命工事|延命N40工事]]を受けた[[#片町線 一部電化関連(5000・2500番台)|サハ102形]]サハ102-10および13が挟まれていたが、転入時に廃車された。</ref>が投入された。これは、姫路駅の高架化工事の進展によって山陽本線の線路と播但線の線路との間を構内入換で転線することが一時的に不可能となり、[[JR西日本221系電車#網干総合車両所所属車|221系電車]]による朝ラッシュ時の応援運用ができなくなったためである<ref>この間、車庫からの回送は一旦東へ走り、主に[[宝殿駅]]で折り返していた。</ref>。


{| class="wikitable" style="float; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
この6両はラッシュ時以外に使用されないことから、3500番台に実施された各種の改造はなされず、塗装も阪和線のスカイブルーから変更されなかった。同年11月に[[鉄道車両の検査|検査]]期限が近づき、かつ同時期に[[JR西日本223系電車#4次車|223系2000番台4次車]]投入で113系に余裕が発生したのを受けて同系列の6両編成と交換された。全車最初期の[[1964年]]製造で老朽化が進んでいたため、同年12月15日付けで全車廃車されている。
|+ 山手線での消費電力量比較 (kWh/km)
{{-}}
|-
!!!103系電車!!205系電車!!差!!備考
|-
|力行||23.14||19.85||3.29||
|-
|回生||0||-4.55||4.55||
|-
|補機||7.92||4.49||3.43||MG等
|-
|消費電力量||31.02||19.79||11.26||
|}


==== 京浜東北線205系・209系との比較(1993年頃) ====
==== 和田岬線投入 ====
[[ファイル:Wadamisaki-station 2002-04.jpg|thumb|240px|和田岬線103系]]
[[ファイル:Tc208-13.jpg|thumb|209系車内に貼り付けられていたステッカー。]]
[[京浜東北線]]に[[JR東日本209系電車|209系]]が配置されると、実際の消費電力量を車両サイドで調査している{{refnest|{{Cite journal|和書|author=畑正 |title=通勤電車の省エネルギー |date=2003-07-01 |publisher=社団法人 電気学会 |journal=電気学会誌 |volume=123 |number=7 |naid=10011449674 |pages=410-413 |ref=harv}} <ref group="注">JR東日本運輸車両部車両開発プロジェクトシステム電機グループリーダー</ref>元データは、畑正 「通勤型電車の省エネルギーについて」『JREA』1993年7月、日本鉄道技術協会、1993年<ref group="注">こちらにも209系が103系比47 %の記述あり。</ref>}}。この結果を受けて、209系には「この電車は、従来の半分以下の電力で走っています」のステッカーが貼られた。山手線205系での比較にあるように、103系は消費電力量の大きな冷房装置などを使っていることや抵抗器を強制冷却していることなどから、これらを含めると差はさらに広がる。
[[2001年]]の同線の電化に伴い、スカイブルーに塗られた[[#延命工事|延命N40工事車]]統一の6両編成1本が[[網干総合車両所]]明石支所に投入された。1本だけの配置のため、検査などで運用に就けない時には同区の[[JR西日本207系電車|207系]]などが代走する。


{| class="wikitable" style="float; text-align:center; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
また、同線に列車の運行が無い日中時間帯に乗務員訓練に使用されるため、前面にワイパーが3本取り付けられているなどの特徴がある。
|+ 京浜東北線での消費電力量比較 (kWh/km)
{{-}}<!-- ズレ防止の改行 -->
|-
!!!103系電車!!205系電車!!209系電車!!備考
|-
|力行||18.12||16.16||12.97||
|-
|回生||0||-4.19||-4.38||
|-
|補機||-||-||-||考慮していない
|-
|消費電力量||18.12||11.97||8.58||
|-
|比率||100||66||47||
|}


=== 大量生産の弊害 ===
==== 加古川線投入(3550番台) ====
103系は長期間にわたり大量に製造されたことから、試作後20年を経過した1980年代後半より、アコモデーション面での見劣り、オイルショック以後の省エネ施策の未対応、スピードアップ要求に対応出来ないほか、乗り心地面など様々な面が指摘されるようになる。103系と同時期に設計された国鉄車両も同様な問題点があったが、例えば101系が南武支線の6両を除いて[[1992年]]までには置きかえられた反面、103系は最終増備車が[[1984年]](昭和59年)製であることから、[[21世紀]]に入っても大量に残った。初期に製造された車両を少両数しか承継せず、比較的早い時期に近郊形電車で置き換えが可能だったJR東海は別にして、103系と同時期に製造され続け、103系同様に陳腐化した113系や115系電車を大量に抱えるJR東日本やJR西日本では置き換えのペースが遅く、新製車両との格差が広がる結果となった。
{{鉄道車両
|車両名= 3550番台
|社色 = #000000
|画像 = JR EC Mc102-3554.jpg
|pxl = 240px
|画像説明= クモハ102形3550番台<br />後部の窓がない部分にトイレが設置されている。<br />(2004年12月19日 西脇市駅)
|unit = auto
|起動加速度= 2.5
|重量 = 42.0t(クモハ103)・42.3t(クモハ103 2パンタ車)・42.6t(クモハ102)
|保安装置= [[自動列車停止装置|ATS-Sw]]
}}[[ファイル:JRWest1033550.JPG|thumb|200px|right|クモハ103形3550番台「2パンタ」車]]
[[2004年]]12月19日の[[加古川線]]全線電化に際し、[[播但線]]と同様(→[[#播但線投入(3500番台)]])と同様に[[ワンマン運転]]対応の2両編成が投入されることになった。[[網干総合車両所]]加古川派出所に8本が配置されたが、これらは様々な変更が加えられており、新たに'''3550番台'''と区分されている。


通常の[[大量生産]]される輸送機器では同一の製品を20年以上もそのまま作り続けることは、日本では例がない。例えば[[ホンダ・カブ|スーパーカブ]]のように基本設計の完成度が高く、登場時点で既に21世紀の製品にも劣らない信頼性を有していたものであっても、オイルショック以降の環境・安全面での要請の高まりに対応して大幅な改良が加えられた。しかし、103系電車は試作車落成後20年以上も製造が続けられ、目立った改良は1974年以降の生産分の先頭車両がATCに対応した高運転台タイプに改められた程度で、1980年代に[[国鉄205系電車|205系]]が登場するまで新世代の通勤車両は103系を置き換えなかった。これらは下記のような理由によるものである。
;編成構成は以下のとおり。
:↑[[谷川駅|谷川]]
*クモハ103形3550番台:モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551 - 3558
:モハ103形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ103形となった。
*クモハ102形3550番台:モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551 - 3558
:モハ102形0番台から改造された車両。運転台が設置され、クモハ102形となった。


==== 標準化による技術の停滞 ====
3500番台はクモハ103形ユニットの反対側のモハ102形に運転台が設置されて組成されたが、このグループは[[#体質改善40N|体質改善40N工事]]施工済みの中間モハユニットから改造された。これは、この時期体質改善工事は簡略化した[[#体質改善30N|体質改善30N工事]]に移行していたうえ、3500番台に改造されずに残っていたクモハ103形ユニットは年齢が高い車両が多く<ref>3500番台となった車両と同世代のクモハ103形ユニットは1組が残るのみである。</ref>、さらに、後述のとおり前面形状に変更があるため、既存の運転台がそのまま使えないという事情があったためである。
国鉄では[[1960年]](昭和35年)頃から日本国有鉄道規格、いわゆるJRS (Japanese National Railways Standards) が整備されはじめる<ref>中村菊雄(国鉄技師長室)ほか2名「16編 用品規格」『鉄道信号ハンドブック』1969年12月1日、信号保安協会、pp.1669 - 1672。</ref>。[[標準化]]の効果は費用が低減すること、品質が安定すること、作業能率が上がること、安全性が高まることなどメリットが多く<ref name="shingohoan1968-06">橋本道哉(国鉄技師長室)ほか2名「標準化とJRS(その2完)」『信号保安』1968年6月号、信号保安協会、pp.7 - 10。</ref>、大量の資材調達を行う国鉄が導入することは当然のことであった。標準化による技術の阻害については、標準品を継続して使いつつ技術の進歩を蓄積し、一定のタイミングでモデルチェンジを行うことで技術開発との調和ができると考えられていた<ref name="shingohoan1968-06"/>が、結果的には単純化の考えにより特定メーカーごとの特徴が出にくくなったこと、特定会社に有利にならないように配慮したことが逆にメーカーの競争力を奪ったことなど、技術革新テンポに合致せず技術の停滞を招く原因にもなり、JR化後に廃止された<ref>榎本龍幸(JR東日本総合企画本部経営管理部長)「JRS廃止にあたって」『鉄道電気』1988年1月号、鉄道現業社、p.1。</ref>。


==== 国鉄の財政赤字 ====
よって、種車捻出のために[[森ノ宮電車区]]や[[奈良電車区]]の103系編成から中間モハユニットが抜き取られ、両端に運転台が設置された。運転台形状はそれまでの改造車から大幅に変更されて、[[前照灯]]が窓下に配され、2編成連結時に乗客の通行ができるよう[[貫通扉]]が設置され、[[国鉄105系電車|105系]]に近いスタイルとなった。この措置は同時期に改造された[[国鉄115系電車#1600番台|クモハ115形1600番台]]との共通点が見られる。
車両を軽量化すれば維持費用が下がるほか、加速力が質量と関係があることから、加速性能や高速性能のアップが見込める。1960年代に入るとアルミやステンレス車体の試作車を製造し始め、国鉄でも関門トンネル用や営業車ではサロ153形やキハ35形などでステンレスを用いた車両を製造していたが、地下鉄東西線への乗り入れ用として[[1966年]](昭和41年)に全アルミ車体の[[国鉄301系電車|301系]]を完成させる<ref>岡田直昭(国鉄車両設計事務所)「301系軽合金電車要説 (1)」『電気車の科学』1966年9月号、電気車研究会、pp.19 - 22。</ref>。301系では1両あたり5 t近い車体軽量化が図られたほか、台車を空気ばね付きとして乗り心地を改善している。


アルミ車体の採用によって103系と同一走行システムを維持しつつ走行性能の問題点を解決できたが、素材の価格が鋼板の6倍から7倍するアルミを用いた車両を大量に製造することは国鉄には難しく、[[1971年]](昭和46年)の西船橋延長用の増備車は低コストな普通鋼車体・金属ばねの103系1200番台になった。これはアルミ車体軽量化で顕著な効果があったと認めながらも、財政事情が悪い国鉄では同じ予算で1両でも多くの車両を製造したいという考え<ref>岡田直昭(国鉄車両設計事務所次長)「国鉄のアルミ車とステンレス車」『鉄道ピクトリアル』1978年11月号、電気車研究会、pp.10 - 13。</ref>があり、財政赤字が車両の改善をも影響を及ぼしていることがわかる<ref group="注">鋼製車体や旧式な機器類に起因する点検費用増大は、本来、それを理由とした車両置き換えの動機となり得るものであるが、それは合理化と表裏一体の措置でもある。現場職員に膨大な余剰人員を抱え、その人事・労務対策に苦しんだ昭和40-50年代の国鉄では、大手私鉄と異なり、省人化のメリットを追求することが容易でなかった。</ref>。長期量産による初期製造コストの低さ(短期的費用の安さ。代わりに長期的には在来車同様のメンテナンスや重更新の必要性が発生する)と、「いくつかの欠点を度外視すれば、大方の用途において当面の必要性能を充足しうる」という103系の特性は、それが旧弊化・陳腐化していることが明白であっても、なお財政赤字の国鉄に増備を続行させる動機となったのである。
また、クモハ102形にJR西日本の103系で初めて[[列車便所|トイレ]]が設置された。これは洋式であるが、[[車椅子]]対応ではない。さらに、クモハ103形の一部は冬季の[[架線]][[霜]]取用に、運転台上部に[[集電装置|パンタグラフ]]が増設(以下2パンタ車と表記)されている。


==== チョッパ制御車の開発遅れ ====
[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]で改造された車両と[[下関地域鉄道部#下関車両センター|下関車両センター]]で改造された車両では、床面ビニールクロスの色や妻面部分化粧板の固定方法など細かい部分での仕様差がある。また、完成が電化より早く、登場からしばらくは[[網干駅]]や、網干総合車両所などに留置されていた。
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:right; font-size:90%; margin:0em 0em 1em 2em;"
|+ チョッパ制御電力節減比較<ref>佐々木拓二(国鉄車両設計事務所)「電気車の省エネルギー化」『電気車の科学』1975年1月号、電気車研究会、pp.19 - 22。</ref>
|-
! ||山手||京浜東北||中央
|-
|力行時の節減||4.4 %||3.0 %||0.6 %
|-
|回生時の節減||22.9 %||23.4 %||21.3 %
|}
営団地下鉄が[[1965年]](昭和40年)に銀座線の[[営団2000形電車|2000形]]を使用して国内初の[[電機子チョッパ制御|チョッパ]]試験を行い結果的に[[営団6000系電車|6000系]]電車として量産を開始した。国鉄でも[[1967年]](昭和42年)3月に101系電車を改造して力行チョッパ試験を行ったのち[[1969年]](昭和44年)11月には装置を一新し回生ブレーキも含めたテストを行った。しかし、回生ブレーキの結果に難があり、翌[[1970年]](昭和45年)11月にも現車試験を行ったが、回生ブレーキ時の界磁電流制御が今後の課題とされた<ref>{{Cite journal|和書|author=佐々木拓二 |title=チョッパ制御電車201系、その誕生までの思い出(1) : 鉄道事業者の技術者から見た技術開発と共同設計 |date=2010-05-01 |publisher=日本鉄道技術協会 |journal=JREA : 日本鉄道技術協会誌 |volume=53 |number=5 |naid=10026718124 |pages=35109-35113 |ref=harv}} </ref>。力行制御としては既に合格の域に達していたが、抵抗を低い速度で抜ける103系電車との比較では、重い装置を積んでチョッパ制御を力行だけで使うメリットがなく、回生ブレーキとの組み合わせが求められた。電機子チョッパ制御による回生ブレーキは発生電圧を抑える必要があったが、103系で用いているMT55は定格速度が低く、高い速度からの発電ブレーキでは発生電圧が高くなった。これらを改善するため、[[1972年]](昭和47年)に直並列チョッパ装置を開発し、工場での試験では高速からの回生ブレーキに対して有効であることが確認された。しかし、当時の労使関係から、[[1974年]](昭和49年)6月まで現車試験は行われなかった。


国鉄の場合、標準化の観点もあり、同一システムを近郊形などにも波及させる困難さが付きまとい、地下鉄のようにブレーキ初速度が低い場所や誘導障害の範囲が限定される状態では導入できる技術も、多くの路線で使うことになる国鉄車での採用には、様々な問題点をクリアしていかねばならなかった。特に標準品との兼ね合いで設計が制約されることがあり、直並列チョッパのような余計な開発時間が必要になる要因を作っていたのも事実である。[[1975年]](昭和50年)頃からは回生ブレーキの特殊性が理解され、チョッパ制御に適した主電動機の設計が認められることになり、チョッパ制御と対になるMT60主電動機の開発と、それを用いた回生システムなどが詰められていく<ref>{{Cite journal|和書|author=佐々木拓二 |title=チョッパ制御電車201系、その誕生までの思い出(2) : 鉄道事業者の技術者から見た技術開発と共同設計 |date=2010-06-01 |publisher=日本鉄道技術協会 |journal=JREA : 日本鉄道技術協会誌 |volume=53 |number=6 |naid=10027507746 |pages=35187-35192 |ref=harv}}</ref>。チョッパ制御の[[国鉄201系電車|201系]]試作車が登場したのは[[1979年]](昭和54年)1月であった。右表は電機子チョッパ制御車と103系の消費電力を試算したときの比率で、103系を100とした場合の節減率だが駅間の長い中央線では電機子チョッパ制御のメリットが他線に比べ少ないことがわかる。なお、回生失効は考慮していない。
3500番台とともに比較的分割・併合が多い路線に配置されるが、どちらも電気連結器などは未装備である。
{{-}}<!-- ズレ防止の改行 -->


==== 抜本的な性能特性改善の未実施 ====
==== 福知山線脱線事故関連 ====
同時期に製造され性能特性も近い[[営団5000系電車]]などは、回生ブレーキ化によるトンネル内発熱抑制や経済化、性能特性改善のため[[界磁添加励磁制御]]へ改造されている。他にも大手私鉄では、同時期の抵抗制御車が界磁添加励磁制御に改造された例が散見されるが、本形式ではそれらの改造は行われなかった。
[[ファイル:JR103keisitunaiE.jpg|thumb|200px|戸袋窓閉塞後のモハ102-841の車内。この車両は壁材が2色になっている。]]
2005年4月25日の[[JR福知山線脱線事故|福知山線脱線事故]]により被災した207系の一部廃車および既存車両の帯色変更工事、[[国鉄117系電車|117系]]の[[自動列車停止装置|ATS-P形]]非装備による同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足するようになった。このころは新車投入による[[網干総合車両所]]の[[国鉄113系電車|113系]]や[[宮原総合運転所]]の103系の廃車・転出がほぼ完了していて一時的に代替車の都合が付かない状態にあったため、必要車両をJR東日本から購入してまかなうこととなり、[[武蔵野線]]で使用されていた8両編成1本を同年7月28日付で譲り受けた。なお、到着までの間は森ノ宮電車区が貸し出した大阪環状線の車両が不足分を補っていた。


== 運用 ==
これらの車両は既存の西日本車と編成を組み替えられ、先頭2両が広島地区、残りの中間車6両が関西地区に配備され、現在までバラバラに使用されている。車両不足が解消されてくると順次[[#腐食対策|戸袋窓閉塞]]工事が行われたが、貫通扉は窓の小さいものを装備し続けており、深度の[[#延命工事|延命工事]]は行われていない。
本稿では各線区の103系の動向について、国鉄時代から分割民営化後を通じて述べる。


==== 現状 ====
=== 関東・東北地区 ===
==== 山手線・赤羽線 ====
以上のような改造を受けつつ多くの車両が今も運用を続けているが、置換えも進んでおり、短編成化で余剰となったサハをはじめWAU102形搭載車や老朽化した初期車、ユニット窓の1971 - 1972年製造車の一部、さらには体質改善40Nを受けたサハにも廃車が発生している。
[[ファイル:JNR103 198508 Uguisudani.jpg|thumb|山手線の103系(1985年)]]
[[ファイル:L25 akabane Tc103-273 750.jpg|thumb|赤羽線の103系混色編成(1979年)]]
103系の初投入路線である[[山手線]]には、[[1963年]]に試作車が登場し、翌1964年より量産車の投入が開始された<ref name="毛呂2012_p82">毛呂信昭『103系物語』82頁。</ref>。車体塗装はウグイス色([[黄緑6号]])が初めて採用された。新性能電車としては既にカナリアイエロー([[黄5号]])の101系が配置されていたが、103系の投入により中央・総武緩行線へ転属した<ref name="毛呂2012_p82" />。


量産車は1964年より[[池袋電車区]]・[[品川電車区]]への投入が進められ、101系の置き換えにより1969年に山手線の全車が103系となった<ref name="毛呂2012_p83">毛呂信昭『103系物語』83頁。</ref>。当初は8両編成であったが、混雑緩和のため10両編成化が行われ、1971年までに全編成が10両編成となった<ref name="毛呂2012_p84">毛呂信昭『103系物語』84頁。</ref>。
[[片町線]](学研都市線)、[[京阪神緩行線|東海道・山陽本線(JR京都・神戸線)]]、[[福知山線]](JR宝塚線)からは、[[JR東西線]]への入線対応や高速化のために207系に置き換えられてすでに消滅している。[[山陽本線]]岡山地区もロングシートである点やトイレがない点が不評であったために、[[国鉄213系電車|213系]]などに置き換えられて一旦は消滅したが、2006年に入ってから日根野電車区および奈良電車区の余剰車(すべて4両編成)がそれぞれそのままの塗装で、行先表示幕を変更のうえで転属、岡山支社管内の電化区間で運行を再開しているが、2010年3月のダイヤ改正で再び定期運用から外された。


[[ヨンサントオ|1968年10月1日のダイヤ改正]]には、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭で、56編成のうち34編成を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に夜間疎開していた。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、[[東京総合車両センター|大井工場の敷地内]]に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を[[1965年]](昭和40年)3月に開始すると共に、山手線のホーム[[有効長]]延伸工事も進めた。[[1967年]](昭和42年)4月3日に新品川電車区の[[留置線]]のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らした。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった<ref>「大崎電車区一部使用開始」『交通技術』1967年6月号、交通協力会、p.16。</ref>。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した<ref>加藤亮(国鉄工作局車両課) 「43年度国鉄車両計画」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、電気車研究会、pp.60 - 62。</ref>。
2006年 - 2007年には、JR京都・神戸・宝塚線系統に新型通勤形電車の[[JR西日本321系電車|321系]]が投入され、[[国鉄201系電車|201系]]が[[大阪環状線]]・[[桜島線]](JRゆめ咲線)・[[関西本線]]([[大和路線]])に、[[国鉄205系電車|205系]]が[[阪和線]]に転用された関係で、西日本全域で大規模な103系の転属と廃車が行われた。JR東日本の場合と異なり、JR西日本では今後もしばらく103系を使用する方針のため、編成替えにより延命工事施工車や後期製造車で状態不良車を置き換えるという103系同士の置き換えも多々見られた。これによって以前より数が減ったが、現在でも初期製造車、延命工事未施工車も在籍し営業運転が続けられている。


9月から増車用の新製車が山手線に配属されて、10月1日から8両編成の中間に組成し10両運転を開始した。このことにより山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみの貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事<ref>青嶋勇「読者短信 関東地方の国電ニュース」『鉄道ピクトリアル』1968年12月号、電気車研究会、p.93。</ref>であり、余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増車用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が緩和された<ref>「山手線10両運転に成果」『電気車の科学』1968年12月号、電気車研究会、p.5。</ref>。ラッシュ緩和に効果のある貫通編成だが、車庫の検修庫の設備が貫通編成の長さだけ必要な関係で、10両運転をしている他の線区では設備の都合で3両 + 7両編成などの分割編成にしなければならないケースもあったが、常磐線・京浜東北線など設備の整っている電車区の編成は一部が1970年(昭和45年)から10両貫通編成にて運転された。
=== JR九州 ===
==== 編成分割 ====
[[ファイル:Electric car type 103-1500 kyushu 1.jpg|thumb|right|240px|2代目九州色<br />3+3の6両編成で運行中の様子<br />(2008年8月4日 周船寺駅)]]
* 以下の2形式が改造された。
** クモハ103形1500番台
** クモハ102形1500番台
[[筑肥線]]の日中の電車の一部が3両編成で運転されることになり、元々6両編成であった編成を2分割して中間運転台を取付ける改造を実施した。元の先頭車の向きにより'''「クハ103形-モハ103形-改造クモハ102形(奇数編成)」'''と'''「改造クモハ103形-モハ102形-クハ103形(偶数編成)」'''の2通りの編成パターンが存在する。クハの前面貫通路が非常用なのに対し、改造先頭車は併結時に通路となるため[[国鉄105系電車|105系]]仕様の前面が取付けられた。また、自動幌や電気連結器が取付けられている点とATCが設置されていない点に相違点がある。6両編成9本のうち4本が改造され、3両編成8本となっているが、ATCを搭載した先頭車(クハ)の向きの違いにより運用は二種類に分けられている。


山手線の路線名は、戦後の[[連合国軍総司令部|GHQ]]による「YAMATE」のローマ字表記<ref>[https://www.asahi.com/train/gallery/yamanotesen/21_s.html 「やまのて」線に復活する前の「やまて」線電車。] - 朝日新聞デジタル</ref>より「やまてせん」と読まれていたが、1971年3月7日に「やまのてせん」が正式な読みとなり、103系の前面方向幕も「山手」から「山手線」に変更された<ref name="毛呂2012_p84" />。
現在、駅収受式[[ワンマン運転]]を行っている。ワンマン運転対応編成には車外スピーカーが追設されているほか、ドア開閉の際の安全確認対策として液晶モニターが取り付けられ、駅ホームに設置されたカメラの映像を確認して運転士がドアの開閉を行っている。先述のATCの関係から、[[西唐津駅|西唐津]] - [[筑前前原駅|筑前前原]]間でワンマンの3両編成として運行し、[[福岡市地下鉄空港線|地下鉄空港線]]に乗入れる際は筑前前原でクモハを中間に封じ込めるように奇数編成+偶数編成で6両編成を組んでから入線するという運行形態になっている。


山手線の一部であった池袋 - 赤羽間は、1971年3月15日に正式に[[赤羽線]]となった<ref name="毛呂2012_p84" />。赤羽線では1978年に従来の101系に代わり103系8両編成が投入されたが、103系で初となるカナリアイエロー([[黄5号]])に塗装された<ref name="毛呂2012_p87">毛呂信昭『103系物語』87頁。</ref>。
==== スカート設置 ====
国鉄時代に踏切事故対策として一部の先頭車に[[排障器|スカート]]を取付けたが、JR化後に全車取付を完了した。


[[1972年]][[6月23日]]、[[日暮里駅]]で[[京浜東北線]]の北行電車に山手線の内回り電車が追突する事故が発生した<ref name="毛呂2012_p85" />。これを契機に山手線と京浜東北線の保安装置の[[自動列車制御装置|ATC]]化が決定し、1974年より先頭車のATC対応車への置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p85">毛呂信昭『103系物語』85頁。</ref>。1981年12月6日より山手線・赤羽線のATC運転が開始されている<ref name="毛呂2012_p88">毛呂信昭『103系物語』88頁。</ref>。
==== トイレ設置 ====
2002年度下期より103系としては初めてとなるトイレ設置を行った。全編成の唐津側先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレを設置し、トイレ設置部分の側窓・妻窓は埋込まれ、車椅子スペースとされたトイレ向いも側窓が4分の1ほどに縮小されている。この改造でJR九州の電車編成のトイレ設置率100%が達成された。


1983年からは赤羽線の8両編成に2両を増結し、10両編成での運転が開始された<ref name="毛呂2012_p88" />。1984年2月1日のダイヤ改正で増備された1編成10両は、電動車ユニットに103系最終増備車の2ユニットと[[福知山線]]6両編成の4両編成短縮化で捻出された1ユニットが組み込まれたほか、先頭クハは中央・総武緩行線から転入の非ATC車がATC車に改造された<ref name="毛呂2012_p88" />。
==== 現状 ====
腐食対策も他番台より徹底されていて車両の状態は良いものの、[[自動列車運転装置]] (ATO) に対応しない点などから本来の製造目的であった地下鉄区間への乗入は1日18往復と減少している。また、VVVFインバータ制御の[[JR九州303系電車|303系]]に比べて、抵抗制御で回生ブレーキを持たない103系は停止・起動を繰返さない方がエネルギー効率の点で有利という理由で、快速列車にはしばらく303系ではなく本形式が充当されていた{{要出典|date=2007年8月}}<ref>303系が地下鉄線内で自動放送を行うのに対し、本形式は車掌が放送を行っており、快速運転をする際に案内がしやすいこともある。303系には快速運転をする際の自動放送が録音されていない。快速は地下鉄線内では各駅停車のため、上りの快速の一部を303系で運行する際、地下鉄線内での快速停車駅などの案内放送は不要である。</ref>が、その快速運用も上りのみ一部を303系に譲っている。しかし、3両のワンマン運転も本形式のみが対応しており、しばらくは置換えとはならない模様である。<!--(気動車の[[キハ31形]]にはトイレは装備されてない)-->


1985年3月より山手線への205系の投入が開始され、103系は置き換えの対象となった<ref name="毛呂2012_p88" />。1985年9月には[[埼京線]]が開業し、赤羽線区間も埼京線の系統に組み込まれるとともに、山手線・赤羽線から捻出された103系は埼京線用として[[川越電車区]]に転出した<ref name="毛呂2012_p88" />。
なお、地下鉄線内には[[ホームドア]]が設置されている。ホームドアの導入線区の車両には、通常ATOや[[電気指令式ブレーキ]]による[[定位置停止装置]] (TASC) が装備されるが、本系列には搭載されていない。


1985年11月には品川電車区が[[山手電車区]]に名称変更され、1986年には池袋電車区の車両も転入して山手線の全車が山手電車区へ集中配置となった<ref name="毛呂2012_p89" />。
== その他 ==
=== JR分社後共通して行われた改造 ===
* AU720形冷房装置搭載:松戸電車区(→[[松戸車両センター]])所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのものに交換した。効果の程は不明だが、結局一般車と区別なく廃車されている。また、JR西日本の[[日根野電車区]]・[[森ノ宮電車区]]でも同様の工事を施工された車両が運用されている(JR西日本での呼称はWAU709形)。
<gallery>
ファイル:JR103P冷房機.jpg|[[日根野電車区]]での採用例。本来の冷房機より小さいため、[[ランボード]]の長さと一致していない。
ファイル:JR103P冷房機2.jpg|上部。形状が本来の冷房機とは大きく異なっている。
</gallery>


1987年の国鉄分割民営化により、山手線用の103系は10両編成20本の210両がJR東日本へ継承された<ref name="毛呂2012_p89" />。民営化直後の1987年4月11日と12日には、JR東日本の103系5色を2両ずつ組み込んだ10両編成による「JRおもしろ電車」が山手線で運転された<ref name="rp200404_p49">芳田あきら「103系電車の興味」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、49頁。</ref><ref name="毛呂2012_p134">毛呂信昭『103系物語』134頁。</ref>。
=== 特殊用途・試験改造車両 ===
103系には、特殊な用途に使用されたり、車両試験を行うために改造された車両がある。


分割民営化後も引き続き205系への置き換えが実施された。1988年6月26日にさよなら運転が行われ<ref name="毛呂2012_p135">毛呂信昭『103系物語』135頁。</ref>、103系の山手線での運転は終了した。
==== 北海道へ渡った103系 ====
<!--ここは『鉄道ファン』1998年11月号 No.451のP.120の内容に準ずる -->
[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)では元々、[[鉄道の電化|電化区間]]が[[札幌市|札幌]]近郊の[[交流電化]]区間のみで、かつ札幌都市圏における国鉄の輸送シェアも本州に比べ著しく低かったことや、車両自体にも徹底した耐寒・耐雪構造が必要なことから、国鉄時代から1両も103系が配置されたことはなかったが、[[1998年]](平成10年)[[8月]]にJR東日本の廃車体が8両入線している。[[動力車|電動車]]はなく、クハとサハのみで、スカイブルーとエメラルドグリーンの混成編成を機関車牽引で北海道まで運び入れている。


==== 京浜東北線・根岸線 ====
ただし、この譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、この北海道への移動自体、偶然列車を目撃した複数の者がネット上の掲示板および交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』の1998年11月号 No.451のP.120に掲載された「103系が北海道へ」に[[津軽海峡線]]を[[国鉄ED79形電気機関車|ED79形50番台]]に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたため明らかになった。これらの車両が何の目的で北海道に集められたのかも分からないが、8両すべてが[[鉄道総合技術研究所|鉄道総研]]の所有物であったらしい。
[[ファイル:Type103-shinagawa-oimachi.jpg|thumb|京浜東北線の103系(1995年頃)]]
山手線に引き続き、1965年からは[[京浜東北線]]への103系の投入が開始された<ref name="毛呂2012_p89">毛呂信昭『103系物語』89頁。</ref>。[[蒲田電車区]]、[[浦和電車区]]、[[下十条電車区]]に順次配置され、旧性能車が順次置き換えられた<ref name="毛呂2012_p89" />。車体塗装はスカイブルー([[青22号]])が初めて採用された<ref name="毛呂2012_p89" />。


当初は8両編成であったが、10両編成化が念頭に置かれていた。下十条電車区では検車庫の長さが8両分しかなく、10両編成を7両と3両に分けて検査を行うこととなり、クモハ103形とクハ103形500番台が登場している<ref name="毛呂2012_p89" />。
『鉄道ファン』誌掲載の写真を見ると、大半の車両が窓、扉などの大幅な埋込、車体の延長または各部の欠取、クーラーの撤去、車番のRTRI-××への変更、密連から自連への換装などが行われている。また、この改造は[[東急車輛製造|東急車輛]]で行われた。


1970年からは101系も転入し、1971年までに京浜東北線の新性能化が完了した<ref name="毛呂2012_p90">毛呂信昭『103系物語』90頁。</ref>。[[根岸線]]は桜木町 - 磯子間の開通とともに横浜 - 桜木町間が編入され、1970年に磯子 - 洋光台間が、1973年に洋光台 - 大船間が延伸されて全通し、大宮 - 大船間での直通運転が開始された<ref name="rp200404_p59">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、59頁。</ref>。1976年からの103系追加投入により101系は武蔵野線に転出し、京浜東北線の全車両が103系となった<ref name="毛呂2012_p90" />。
その後は[[苗穂工場]]内に留置されていた。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。その後、同時期に廃車され、運転席などの窓を鉄板で塞がれた状態に改造された[[国鉄711系電車|711系]]3両編成2本と衝突実験を行ったとの話であるが、これらの車両から集められたデータが何の役に立ったのかも公にはされていない。


山手線と同じく京浜東北線にもATCが導入されるのに伴い、1974年より高運転台のATC車の投入が開始された<ref name="毛呂2012_p91">毛呂信昭『103系物語』91頁。</ref>。10両貫通編成も登場したほか、7両 + 3両の編成は6両 + 4両に組み替え、先頭に出る両端の先頭車がATC車となった<ref name="毛呂2012_p93">毛呂信昭『103系物語』93頁。</ref>。1981年に大宮 - 蒲田間で、1984年に蒲田 - 大船間でのATC運転が開始された<ref name="毛呂2012_p93" />。
; 参考:北海道へ渡った車両(所属は廃車直前のもの)
* クハ103-396・454・481・482・719・724
* サハ103-230・417
クハ103-396とサハ2両は松戸電車区所属でエメラルドグリーン塗装、他の5両は浦和電車区所属でスカイブルー塗装。


1986年のダイヤ改正より、京浜東北線の車両の所属は浦和電車区に集約された<ref name="毛呂2012_p93" />。
==== その他の試験 ====
* VVVF試験:JR東日本のクモハ103-87が東芝府中工場で[[可変電圧可変周波数制御|VVVF]][[インバータ]]装置を搭載する改造を行い、[[鎌倉車両センター|JR大船工場]]で試験が行われた。また、JR東海でも自社でクモハ103-4を改造してVVVF試験を行った。
* DDM試験(モハ103-502):JR東日本が開発中だった[[ダイレクトドライブ|ダイレクトドライブ・モーター]]の試験搭載車。同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子のVVVFインバータ化され、[[JR東日本E993系電車|ACトレイン(E993系)]]との比較実験に用いられたが、実験の終了にともない廃車されている。また、同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。
{{-}}


国鉄分割民営化ではJR東日本に継承された。1988年3月のダイヤ改正より、日中の田端 - 田町間で快速列車の運転が開始された<ref name="毛呂2012_p137">毛呂信昭『103系物語』137頁。</ref>。1989年には205系の10両編成4本が京浜東北線に配置され、捻出された103系は京葉線に転出した<ref name="毛呂2012_p137" />。
=== インドネシアへの売却 ===

[[2006年]](平成18年)現在、本系列の国内私鉄各社への売却実績はないが、[[2004年]](平成16年)にJR東日本の下記の16両がインドネシア鉄道会社 ([[:en:Kereta Api|PT. Kereta Api]]) に売却された。
1992年には新系列車両の試作車である[[JR東日本901系電車|901系]]が京浜東北線に投入され、翌1993年からは[[JR東日本209系電車|209系]]として量産が開始された<ref name="rp200404_p60">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、60頁。</ref>。209系の増備に伴って205系も他線区に転出し、京浜東北線の103系は1998年3月13日に運転を終了した<ref name="rp200404_p60" /><ref>鉄道ファン 2008年2月号 83頁</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"

==== 常磐線・成田線 ====
[[ファイル:JNR 103-0 Joban Line.jpg|thumb|常磐快速線の103系(2005年)]]
1966年頃、当時複線であった[[常磐線]]は混雑の悪化が著しく、旧性能車による10両編成での運転も行われていたが、慢性的な遅延が発生する状況にあった<ref name="毛呂2012_p94">毛呂信昭『103系物語』94頁。</ref>。この対策のため、京浜東北線に追加投入が検討されていた103系が1967年より常磐線に10両編成で投入され、[[松戸電車区]]に配置された<ref name="毛呂2012_p94" />。車体塗装はエメラルドグリーン([[青緑1号]])となった<ref name="毛呂2012_p94" />。

1971年に[[常磐快速線]]と[[常磐緩行線]]による[[綾瀬駅|綾瀬]] - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]間の複々線化が完成し、常磐緩行線と[[東京メトロ千代田線|営団地下鉄千代田線]]との相互直通運転が開始された。緩行線には地下鉄直通車として103系1000番台が投入され、グレーの車体にエメラルドグリーンの帯が入る外観となっている<ref name="毛呂2012_p95">毛呂信昭『103系物語』95頁。</ref>。

快速線は緩行線への利用客転移を見込んで8両編成に減車されたが、利用客転移は進まず快速線の混雑が悪化したため、1972年に再び10両編成に増車された<ref name="毛呂2012_p95" />。

1973年に[[成田線]]の[[成田駅|成田]] - 我孫子間(我孫子支線)が電化され、103系による上野 - 我孫子 - 成田間の直通運転が開始された<ref name="毛呂2012_p96">毛呂信昭『103系物語』96頁。</ref>。1982年には常磐緩行線の運行区間が[[取手駅|取手]]まで延長され、朝夕の通勤時間帯に取手まで乗り入れるようになった<ref name="毛呂2012_p96" />。

1984年より緩行線に[[国鉄203系電車|203系]]が投入・増備され、1986年までに103系1000番台の置き換えが完了した。捻出された103系1000番台は地上の快速線に転用されたほか、56両が[[国鉄105系電車|105系]]へ改造され、[[奈良線]]・[[和歌山線]]の電化開業と[[可部線]]の新性能化に充当された<ref name="毛呂2012_p96" />。103系1000番台は千代田線内での主抵抗器からの発熱や故障の多さなどが問題視されており、203系への置き換えにより解消される形となった<ref name="毛呂2012_p96" />。

国鉄分割民営化ではJR東日本に継承され、1988年3月13日のダイヤ改正より常磐快速線で103系15両編成の運転が開始された<ref name="毛呂2012_p159">毛呂信昭『103系物語』159頁。</ref>。10両編成に増結する5両編成は、京浜東北線の6両 + 4両編成を常磐線増結用として5両 + 5両編成に変更して転用され<ref name="rp200404_p65">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、65頁。</ref>、京浜東北線には山手線の205系転入で捻出された10両貫通編成5本が転入している<ref name="毛呂2012_p159" />。

常磐線は上野 - 取手間の通勤形直流電車を用いた運転と取手以北の近郊形交直流電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた[[1985年3月14日国鉄ダイヤ改正|1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正]]で近郊形電車は15両に編成を増強したが取手以南の通勤形電車は10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252 %と首都圏で最も混雑する路線となった。そこで通勤形車両の編成増強のため1988年3月改正をめどに設備工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完了することから12月1日より一部電車の15両運転を開始した<ref name="jreyouran">[https://web.archive.org/web/20061202155921if_/http://www.jreast.co.jp:80/youran/pdf/jre_youran_shogen.pdf JR東日本 会社要覧2006 JR東日本発足からのあゆみ] p.90([[インターネットアーカイブ]])</ref>。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである<ref>国井浩一 (JR東日本運輸車両部運用課)「常磐快速の15両化」『電車』1988年1月号、交友社、pp.24 - 27。</ref>。

1989年、中央・総武緩行線の地下鉄東西線直通車1200番台と301系の冷房化改造時の予備車として、1000番台10両編成1本が三鷹電車区に転出した<ref name="毛呂2012_p159" />。1991年の東西線直通10両編成化では1200番台の12両が余剰となり、常磐快速線に転用され松戸電車区に転入した<ref name="毛呂2012_p147" />。

2002年より[[JR東日本E231系電車|E231系0番台]]が常磐快速線へ新製投入され、103系の置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p162">毛呂信昭『103系物語』162頁。</ref>。松戸電車区は2004年6月1日に[[松戸車両センター]]へ改称された<ref name="毛呂2012_p162" />。

常磐快速線の103系は2006年3月17日に定期運用を終了し、4月8日にさよなら運転が行われた<ref name="毛呂2012_p162" />。これにより首都圏の103系は消滅となった。

==== 中央線快速 ====
101系による新性能化が完了していた[[中央線快速]]には、1973年の[[武蔵野線]]開業用の101系を捻出するため、103系の新製冷房車10両編成7本が[[豊田電車区]]に配置された<ref name="毛呂2012_p104">毛呂信昭『103系物語』104頁。</ref>。車体塗装はオレンジバーミリオン([[朱色1号]])となった<ref name="毛呂2012_p104" />。冷房車であったことから、当初は主に特別快速で使用された<ref name="毛呂2012_p104" />。

103系はその後も他線区からの転入や101系置き換え用の新製投入で増備されたが、1981年より[[国鉄201系電車|201系]]量産車の中央線快速への投入が開始され、中央快速線の103系は101系よりも早く1983年に撤退した<ref name="毛呂2012_p105">毛呂信昭『103系物語』105頁。</ref>。

==== 中央・総武緩行線 ====
[[ファイル:JNR 103 and 101 at Ochanomizu Station 19870211.jpg|thumb|中央・総武緩行線の103系(1987年2月)]]
1963年より101系による新性能化が進められていた[[中央・総武緩行線]]には、1979年に103系の投入が開始され、[[津田沼電車区]]に配置された<ref name="毛呂2012_p111">毛呂信昭『103系物語』111頁。</ref>。車体塗装は101系と同じカナリアイエロー([[黄5号]])となった。

1981年からは中央快速線への201系投入で捻出された103系が転入し、中央・総武緩行線への201系の新製投入も含めて101系の置き換えが進められた<ref name="毛呂2012_p111" />。

1986年には中野電車区の配置車両が[[三鷹電車区]]へ移管、津田沼電車区は[[習志野電車区]]へ改組された<ref name="毛呂2012_p111" />。101系はJR化後の1988年3月に中央・総武緩行線から撤退し<ref name="総武線120年_p150" />、103系が習志野電車区、201系が三鷹電車区の配置となった<ref name="毛呂2012_p140" />。

1988年12月5日、[[東中野駅]]で103系10両編成に201系10両編成が追突する事故([[東中野駅列車追突事故]])が発生し、追突された103系は先頭1両を除く9両が廃車となった<ref name="毛呂2012_p140">毛呂信昭『103系物語』140頁。</ref>。この補充として埼京線に投入予定の205系が中央・総武緩行線用として三鷹電車区に配置された<ref name="毛呂2012_p140" />。

1990年代末から2000年代に入ると、103系は故障が頻発するようになった<ref name="総武線120年_p150">三好好三『総武線120年の軌跡』JTBパブリッシング、2014年。150頁。</ref>。1998年より[[JR東日本209系電車|209系500番台]]が投入され、103系の置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p142">毛呂信昭『103系物語』142頁。</ref>。1999年には209系950番台が投入され、2000年からは[[JR東日本E231系電車|E231系]]による置き換えが進められた(209系950番台はE231系900番台に改番)。これにより、中央・総武緩行線の103系は2001年3月に撤退した。

==== 地下鉄東西線直通列車 ====
[[営団地下鉄]]東西線への直通運用では、1971年に[[国鉄301系電車|301系]]の増備車として103系1200番台が投入された<ref name="rp200404_p72" />。塗装はグレーに黄帯であったが、1988年の東中野事故後に205系の登場による誤乗防止のため[[1989年]](平成元年)より帯色が青帯に変更された<ref name="毛呂2012_p111" />(直通する東西線のラインカラーに合わせた)。

その後は1200番台・301系の冷房化改造に伴う予備車として常磐快速線の1000番台1編成10両が投入され、1991年には東西線直通10両編成化により余剰となった1200番台12両が常磐快速線に転出した<ref name="毛呂2012_p147">毛呂信昭『103系物語』147頁。</ref>。

[[JR東日本E231系電車|E231系800番台]]の投入に伴い、地下鉄東西線直通の103系は301系とともに2003年に運用を終了した<ref name="rp200404_p72">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、72頁。</ref>。

==== 横浜線 ====
[[ファイル:JRE-EC103-Yokohama-Line.jpg|thumb|横浜線の103系(1988年頃)]]
横浜線では旧性能車の72系が使用されていたが、1973年より[[蒲田電車区]]に配置された103系の運転が開始された<ref name="毛呂2012_p105" />。スカイブルー塗装のままで[[京浜東北線]]・[[根岸線]]との直通運転も行われ、誤乗防止のため正面に「横浜線」の大型方向板が掲出された<ref name="毛呂2012_p105" />。旧性能車は1979年までに置き換えが完了し、103系に統一された<ref name="毛呂2012_p105" />。

京浜東北線・根岸線のATC化に伴って、同線へ直通する横浜線の103系も先頭車がATC対応の高運転台車に変更された<ref name="毛呂2012_p106" />。塗装は[[山手線]]と同じウグイス色に統一された<ref name="毛呂2012_p106" />。103系は[[東神奈川電車区]]にも配置されていたが、1981年6月1日に蒲田電車区の配置に集約された<ref name="毛呂2012_p106" />。

JR化後の1988年より205系の新製投入が開始され、横浜線の103系は1989年をもって運用を終了、3月13日のダイヤ改正で205系に統一された<ref name="rp200404_p68">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、68頁。</ref>。

国鉄時代の1986年(昭和61年)8月には、同線用の103系を使用した団体臨時列車で、前面表示幕に「特急」を表示した「ミステリー列車」が運転され、秩父鉄道線にまで直通した。側面(乗務員室用ドアの後位側)には国鉄特急車両に貼り付けられていた「JNRマーク」も小型ながら貼り付けられた。団体臨時列車ではあるが、103系の「特急」としては{{要追加記述範囲|唯一の事例と思われる|date=2022-12}}。

==== 埼京線 ====
[[1985年]][[9月30日]]に[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - [[赤羽駅|赤羽]] - [[池袋駅|池袋]]間の運転系統として開業した[[埼京線]]では、開業時より103系が投入された。山手線や赤羽線で使用されていた車両から捻出され、[[川越線]]内に新設された[[川越電車区]]に配置された。大宮 - 川越間では川越線に乗り入れている。1986年には[[山手貨物線]]の線路への乗り入れにより[[新宿駅|新宿]]まで延伸された<ref name="毛呂2012_p119" />。

しかし騒音問題が発生した為、1989年より[[国鉄205系電車|205系]]の投入による置き換えが開始され、1990年12月10日で205系に統一、103系の埼京線での運用は終了した<ref name="毛呂2012_p136">毛呂信昭『103系物語』136頁。</ref>。

==== 川越線・八高線 ====
[[ファイル:JRE-EC103-3000-at-Omiya.jpg|thumb|川越線の103系(1988年頃)]]
1985年9月30日の[[埼京線]]の開業とともに、[[川越線]]は大宮 - [[川越駅|川越]] - [[高麗川駅|高麗川]]間が電化し、大宮 - 川越間は埼京線の列車の乗り入れが開始された<ref name="毛呂2012_p119" />。大宮 - 川越 - 高麗川間の区間列車用として、103系3000番台の3両編成5本が[[川越電車区]]に配置された<ref name="毛呂2012_p119" />。3000番台の改造種車は、[[仙石線]]で使用されていた[[国鉄72系電車|72系]]のアコモ改造車である<ref name="毛呂2012_p119" />。

1990年には区間運転が川越(一部[[南古谷駅|南古谷]]) - 高麗川間に短縮され、川越線内用編成による大宮駅への入線はなくなった<ref name="毛呂2012_p151">毛呂信昭『103系物語』151頁。</ref>。

1996年に[[八高線]]の[[八王子駅|八王子]] - 高麗川間が電化され、川越線の川越 - 高麗川間との直通運転が開始された。3000番台は[[豊田電車区]]よりサハ103形3000番台が転入し、全編成が4両編成に増結された<ref name="毛呂2012_p151" />。同時に0番台に半自動ドアボタンの設置を行った3500番台の4両編成1本が投入され、[[JR東日本209系電車|209系3000番台]]も4両編成4本が新製投入された<ref name="毛呂2012_p151" />。

2002年からの山手線E231系500番台の投入に伴い、捻出された205系の川越線用改造車である3000番台が投入され、103系3000番台の廃車が開始された。川越電車区は2004年6月1日付で[[川越車両センター]]に改称された<ref name="毛呂2012_p152" />。

2005年には[[東京臨海高速鉄道]]の[[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形]]を209系に編入した209系3100番台も登場し、残る103系3000番台と3500番台が順次廃車となった<ref name="毛呂2012_p152">毛呂信昭『103系物語』152頁。</ref>。川越・八高線の103系は、2005年10月<ref name="毛呂2012_p152" />の川越線電化20周年記念列車をもって営業運転を終了した。

==== 青梅・五日市線 ====
旧性能車が使用されていた[[青梅線]]・[[五日市線]]では、1976年より103系の営業運転が開始された<ref name="毛呂2012_p106">毛呂信昭『103系物語』106頁。</ref>。京浜東北線へのATC車投入に伴う捻出車が[[豊田電車区]]に転入したもので、塗装は京浜東北線時代のスカイブルーからオレンジバーミリオンに変更された<ref name="毛呂2012_p106" />。編成は当初は4両編成が入り、1977年からは3両編成も転入した<ref name="毛呂2012_p107" />。1977年からはラッシュ時に4両 + 3両の7両編成での運転を開始している<ref name="毛呂2012_p107" />。

翌1978年には五日市線の旧性能車[[国鉄クモハ40形電車|クモハ40形]]・[[国鉄72系電車|72系]]の置き換えのため、京浜東北線からの103系が5両編成で転入した<ref name="毛呂2012_p107" />。これにより[[中央線快速]]から直通の101系を除く青梅・五日市線内の列車が103系で揃えられ、旧性能車は1978年3月29日のさよなら運転をもって運用を終了した<ref name="毛呂2012_p107">毛呂信昭『103系物語』107頁。</ref>。

1985年のダイヤ改正で5両編成が6両編成となり、101系から改造のサハ103形750番台が増結された<ref name="毛呂2012_p107" />。1986年に3両編成が4両編成化される際は、[[仙石線]]の72系アコモ改造車から[[川越線]]用103系3000番台への改造で余剰となったモハ72形5両がサハ103形3000番台に改造されて編入された<ref name="毛呂2012_p108">毛呂信昭『103系物語』108頁。</ref>。

2000年からの[[中央・総武緩行線]]へのE231系投入により、捻出された[[三鷹電車区]]の201系が豊田電車区に転入し、103系の置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p146">毛呂信昭『103系物語』146頁。</ref>。青梅・五日市線の103系は2002年3月7日に定期運用を終了し、4月13日のさよなら運転をもって全廃となった<ref name="毛呂2012_p146" />。

==== 武蔵野線 ====
[[ファイル:Musashino 103 Niiza 20020527.jpg|thumb|武蔵野線の103系(2002年)]]
[[ファイル:103 series 38 Mitaka 20050625.jpg|thumb|三鷹駅・電車区開業75周年号(2005年6月25日)]]
1973年の開業時より[[豊田電車区]]配置の101系1000番台が使用されていた[[武蔵野線]]では、1980年に103系の高運転台非ATC車ほか6両編成1本が配置された<ref name="毛呂2012_p114">毛呂信昭『103系物語』114頁。</ref>。その後も103系は他線区からの転入も含めて増備され、1986年までに101系の運転が終了した<ref name="毛呂2012_p115" />。同年には豊田電車区所属の[[国鉄201系電車|201系]]6両編成も武蔵野線に投入されている<ref name="毛呂2012_p115" />。

1988年には[[京葉線]]が[[新木場駅]]まで延伸開業し、武蔵野線の列車は京葉線への直通運転を開始した<ref name="rp200404_p67">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、67頁。</ref>。1990年には京葉線の新木場駅 - 東京駅間が延伸開業した<ref name="rp200404_p67" />。1991年より武蔵野線の8両編成化が開始され、205系の投入と103系の増結により1996年に全編成の8両編成化が完了した<ref name="rp200404_p67" />。なお、201系はこの8両編成化完了により武蔵野線から撤退している<ref name="rp200404_p67" />。

1998年3月より武蔵野線列車の京葉線[[海浜幕張駅]]への乗り入れが開始された。2002年には増発用として[[中央・総武緩行線]]から捻出された205系のVVVFインバータ化改造車2編成が投入されている<ref name="毛呂2012_p157" />。

2003年度より、山手線E231系投入に伴う205系の転入と103系の置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p157">毛呂信昭『103系物語』157頁。</ref>。転入の205系はいずれもVVVF化改造車である<ref name="毛呂2012_p157" />。2004年3月には武蔵野線車両全車が京葉電車区に転属し、京葉電車区は2004年4月に[[京葉車両センター]]へ改称された<ref name="毛呂2012_p157" />。

2004年には、4両編成4本の16両が[[インドネシア]]の首都[[ジャカルタ]]に渡った<ref name="rp201801_p159" />。

2005年6月25日に[[三鷹駅]]と[[三鷹電車区]]の開業75周年を記念したイベント<ref>[https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20050506/index.html 三鷹駅・電車区開業75周年イベントの実施について] JR東日本八王子支社、2005年5月10日</ref>が実施され、武蔵野線用で京葉車両センター所属の103系8両編成(E38編成)による臨時快速列車「三鷹駅・電車区開業75周年号」が中央線の三鷹駅 - [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]間で1往復運転された<ref name="rp200509_p87">「三鷹駅・三鷹電車区開業75周年」『鉄道ピクトリアル』2005年9月号(通巻765号)、電気車研究会。p.87。</ref>。このE38編成は2005年7月23日に廃車となったが、[[JR福知山線脱線事故]]による車両不足を補うため[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]に譲渡されている<ref name="毛呂2012_p157" />。

武蔵野線の103系は、2005年12月8日に運転を終了した<ref name="毛呂2012_p157" />。

==== 京葉線 ====
[[ファイル:Keiyo 103 19960614.jpg|thumb|京葉線の103系(1996年)]]
[[1986年]][[3月3日]]のダイヤ改正により[[京葉線]]が[[西船橋駅|西船橋]] - 千葉港(後の[[千葉みなと駅|千葉みなと]])間で暫定開業し、蒲田電車区から京浜東北線用の103系が6両 + 4両の10両編成で[[津田沼電車区]]に転入した<ref name="毛呂2012_p119">毛呂信昭『103系物語』119頁。</ref>。日中は付属4両を切り離した6両編成で運用されたが、乗客が少ないことから後に基本編成が4両、付属編成が6両に振り替えられた<ref name="rp200404_p62">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、62頁。</ref>。

京葉線は1988年3月1日に[[新木場駅|新木場]] - [[南船橋駅|南船橋]]間、[[市川塩浜駅|市川塩浜]] - 西船橋間、千葉港 - [[蘇我駅|蘇我]]間が延伸開業し、1990年3月10日に新木場 - [[東京駅|東京]]間が開業して全通した<ref name="rp200404_p63">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、63頁。</ref>。全通に合わせて[[京葉電車区]]が発足し、京葉線車両は京葉電車区の所属に移管された<ref name="rp200404_p63" />。[[外房線]]・[[東金線]]への103系の乗り入れも開始され、[[誉田駅]]での分割併合に備えて[[電気連結器]]の設置改造も行われた<ref name="rp200404_p63" />。最初は外房線は[[上総一ノ宮駅]]、東金線(4両編成側)は[[成東駅]]までであったが、のちに[[横須賀・総武快速線|総武快速線]][[JR東日本E217系電車|E217系]]4両付属編成の勝浦乗り入れを京葉線からの基本6両編成に置き換えたため1998年12月8日から[[勝浦駅]]まで運用が拡大された。

2000年からの[[中央・総武緩行線]]へのE231系投入により捻出された[[三鷹電車区]]の201系が京葉電車区に転入し、103系の置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p155">毛呂信昭『103系物語』155頁。</ref>。2002年からは山手線へのE231系500番台の投入で捻出された205系が転入し、103系の分割併合可能編成が消滅した<ref name="毛呂2012_p155" />。モハ103-502はDDM(ダイレクトドライブモーター)駆動へ改造され、2003年5月より営業運転での試験が行われた<ref name="毛呂2012_p155" />。

京葉電車区は2004年1月1日付で[[京葉車両センター]]に改称され、2004年3月には豊田電車区所属の[[武蔵野線]]用103系が京葉車両センターに転入した<ref name="毛呂2012_p155" />。205系の転入はその後も続けられ、京葉線の103系は2005年11月18日に営業運転を終了した<ref name="毛呂2012_p155" />。

==== 南武線 ====
[[ファイル:103 set 21 Nambu Line Shukugawara 20010626.jpg|thumb|南武線の103系(2001年)]]
[[南武線]]の[[川崎駅|川崎]] - [[立川駅|立川]]間は101系による新性能化が完了していたが、101系の老朽化と冷房化率向上のため、1982年より[[豊田電車区]]の103系が[[中原電車区]]に転入した<ref name="毛呂2012_p115" />。

1987年のJR化後も残存していた101系の置き換えは、103系の転入と[[国鉄205系電車|205系]]の新製投入で行われた<ref name="rp200404_p70" />。川崎 - 立川間の101系は1991年に運転を終了し、以後は尻手 - 浜川崎間の[[南武支線]]の2両編成3本6両のみが101系で残った<ref name="毛呂2012_p150">毛呂信昭『103系物語』150頁。</ref>。

1987年頃、川崎アゼリアとタッグを組み、「アゼリア号」を運行した。詳細は[[南武線]]を参照。

南武線の保安装置の[[ATS-P]]化に伴い、103系の先頭車は高運転台ATCタイプのクハを両端に配する編成に統一された<ref name="毛呂2012_p150" />。

1993年に[[JR東日本209系電車|209系]]の6両編成1本が南武線に投入されたが、[[横浜線]]の増発に伴う205系1編成の捻出用であり、103系への影響はなかった<ref name="毛呂2012_p150" />。1997年2月にも209系の6両編成1本が南武線に投入されたが、南武線の増発用であり、103系への影響はなかった<ref name="rp200404_p70" /><ref name="毛呂2012_p150" />。

2002年より、山手線E231系500番台の投入に伴って捻出された山手線の205系が転入し、103系の置き換えが開始された<ref name="毛呂2012_p151" />。205系にはサハ205を先頭車化改造した1200番台も投入され、103系は順次廃車となった<ref name="毛呂2012_p151" />。南武線の103系は、2004年12月16日をもって営業運転を終了した<ref name="毛呂2012_p151" />。

==== 鶴見線 ====
[[ファイル:JNR103_Tsurumi_04p5678v.jpg|thumb|鶴見線の103系(2004年)]]
[[鶴見線]]では大川支線を除いて1980年度中に101系による新性能化が完了しており<ref name="rp200404_p70" />、103系は[[中原電車区]]配置車によりJR発足後の1990年7月28日に運用を開始した<ref name="毛呂2012_p158">毛呂信昭『103系物語』158頁。</ref>。103系は3両編成10本が投入され、101系の営業運転は1992年5月に終了した<ref name="毛呂2012_p158" />。

大川支線では[[武蔵白石駅]]の大川支線ホームの構造上の都合から、JR化後も17 m級旧型国電の[[国鉄クモハ12形電車|クモハ12形]]が使用されていたが、大川支線ホームの撤去により1996年より103系の運用に置き換えられた<ref name="rp200404_p70">猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、70頁。</ref>。

山手線へのE231系500番台の投入に伴い、205系1100番台が2002年から2005年にかけて103系置き換え用に投入された<ref name="毛呂2012_p158" />。鶴見線の103系は2005年12月に運用を終了し、最後に残った1編成は2006年4月28日付で廃車となった<ref name="毛呂2012_p158" />。

==== 仙石線 ====
[[ファイル:JR Senseki Line 103 Umikaze.jpg|thumb|仙石線の103系初期車による快速「うみかぜ」(1990年)]]
[[ファイル:L25 RT235 takasago N4045.jpg|thumb|RT-235編成の営業運転最終日(2009年10月21日)]]

東北地区唯一の直流電化路線である[[仙石線]]では旧性能車の置き換えとして首都圏の103系が[[陸前原ノ町電車区]]へ転入し、1979年10月1日に運転を開始した<ref name="毛呂2012_p112" />。転入の際には寒冷地向けの改造が行われ、一部区間で存在した[[タブレット閉塞]]への対応で運転席後部の戸袋窓が閉鎖されるなど、仙石線の事情に合わせた工事が行われた<ref name="毛呂2012_p113" />。

旧性能車は[[国鉄72系電車|72系]]のアコモ改造車970番台を除いて1980年までに、72系970番台も1984年に置き換えられ、仙石線の新性能化が完了した<ref name="毛呂2012_p113">毛呂信昭『103系物語』113頁。</ref>。72系970番台は103系3000番台に改造され、川越線と青梅・五日市線に投入された。1983年には仙石線全線が自動閉塞となった<ref name="毛呂2012_p113" />。

国鉄時代末期には2編成8両が冷房化改造された<ref name="毛呂2012_p113" />。このうち1編成4両は国鉄最終日の[[1987年]][[3月31日]]に[[国鉄105系電車|105系]]の2編成4両に改造され<ref name="毛呂2012_p113" />、石巻 - 矢本間の区間列車向けに投入された。

1990年より非冷房車置き換えのための103系が首都圏より転入し、仙石線向けの更新工事が施工された<ref name="毛呂2012_p162" />。前面ガラスの2枚窓化や側面ガラスのユニット窓化、運行番号表示器の種別幕化などが行われ、塗装も白と青の新塗装となった。1998年には高運転台車2編成が首都圏より転入し、これを機に「SENSEKI LINE」の文字の入った新塗装に変更されている。

陸前原ノ町電車区は1990年に移転して[[宮城野電車区]]となった。2000年には仙台 - 陸前原ノ町間が地下化され、仙台 - あおば通間が延伸開業した。2003年には宮城野電車区が仙台電車区宮城野派出所に改組された<ref name="毛呂2012_p165" />。

2003年より、首都圏でのE231系投入に伴って山手線の205系を先頭車化改造した3100番台が仙石線に転入した。103系は205系に置き換えられ、2004年をもって仙石線での103系の運転は一旦終了したが、1編成は廃車とならずに郡山工場で留置された<ref name="毛呂2012_p165">毛呂信昭『103系物語』165頁。</ref>。なお、2004年4月1日付で郡山工場は[[郡山総合車両センター]]に、仙台電車区宮城野派出所は[[仙台車両センター宮城野派出所]]に改称されている。

その後、[[多賀城駅]]の高架化工事の影響で運用本数が1本多く必要になり、郡山総合車両センターに留置されていた103系の1編成(RT-235編成)がトイレ設置やシングルアームパンタグラフ化などの改造を経て、2007年3月より営業運転を再開した<ref name="毛呂2012_p166">毛呂信昭『103系物語』166頁。</ref>。運用は平日の朝のみで、[[小鶴新田駅|小鶴新田]]から[[あおば通駅|あおば通]]へ、あおば通から[[東塩釜駅|東塩釜]]まで1往復、その後小鶴新田へ入庫となる限定運用であった<ref name="毛呂2012_p166" />。

2009年、[[京浜東北線]]への[[JR東日本E233系電車|E233系1000番台]]の増備により209系1編成が[[南武線]]に転出し、南武線の205系1200番台1編成が仙石線に転出して3100番台に改造された<ref name="毛呂2012_p166" />。この205系3100番台の追加転入に伴い、仙石線での103系の運転は2009年10月21日をもって終了となった<ref name="毛呂2012_p166" />。これをもってJR東日本管内の103系は全廃となった<ref name="毛呂2012_p166" />。

=== 中部地区 ===
==== 名古屋地区 ====
[[中央本線]]の名古屋口で最初の電化区間である[[名古屋駅|名古屋]] - [[瑞浪駅|瑞浪]]間では、[[国鉄72系電車|72系]]が5両 + 5両編成の10両編成で運用されていたが、1977年3月11日より103系の6両 + 4両の10両編成への置き換えが開始され、4月13日に103系化が完了した<ref name="毛呂2012_p108" />。

当初投入分の52両(予備車含む)は[[京浜東北線]]へのATC対応車の投入に伴う捻出車であり、先頭車側面へのサボ受けの設置や前面窓のデフロスタ設置等の工事が施工され、[[神領電車区]]に転入した<ref name="毛呂2012_p108" />。塗装はスカイブルー(青22号)とされたが、1978年に転入した10両には[[横浜線]]から転入したウグイス色の車両が含まれており、混色編成も存在した<ref name="毛呂2012_p109" />。

前面方向幕は当初は使用せず、1979年10月より「中央線」のステッカーが貼られた<ref name="毛呂2012_p109" />。1980年には冷房化改造車が登場したが、側面幕も白幕のまま使用されなかった。1985年度以降は青梅・五日市線からの転用で[[豊田電車区]]より冷房車6両含む8両が転入したが、オレンジバーミリオンのままの車両も一時期存在した<ref name="毛呂2012_p109" />。

1986年11月1日のダイヤ改正では輸送力適正化のため7両 + 3両に組み換え、3両編成単独での運用も開始された<ref name="毛呂2012_p109">毛呂信昭『103系物語』109頁。</ref>。冷房車は前面・側面の方向幕の使用が開始されている<ref name="毛呂2012_p109" />。

民営化によるJR東海への継承後は[[国鉄211系電車|211系5000番台]]が大量増備され、103系はラッシュ時のみの運用となった<ref name="毛呂2012_p166" />。1995年からは[[関西本線]]での運用も開始され、3両編成が[[亀山駅 (三重県)|亀山]]まで入線した<ref name="毛呂2012_p166" />。1999年の[[JR東海313系電車|313系]]の投入に伴って103系は1999年12月に運用を終了し、2001年に全廃となった<ref name="毛呂2012_p166" />。

{|style="margin:1em 1em 1em 3em; border:1px solid gray; text-align:center; font-size:90%;"
|-
|-
|{{TrainDirection|名古屋|中津川}}
|style="width:7em;"|クハ103-815
|style="width:7em;"|モハ103-752
|style="width:7em;"|モハ102-2009
|style="width:7em;"|クハ103-822
|-
|-
|
|クモハ103-105
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|モハ102-231
|+転入時
|サハ103-246
|クハ103-597
|-
|-
|クハ103-359
|クハ103
|ハ103-654
|ハ103
|モハ102-810
|モハ102
|クハ103-384
|クハ103
|+
|クハ103
|モハ102
|モハ103
|サハ103
|モハ102
|クモハ103
|}
|-
|-
|
|クモハ103-153
{|class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|モハ102-321
|+[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|1986年11月1日ダイヤ改正後]]
|サハ103-210
|クハ103-632
|クハ103
|モハ102
|クモハ103
|+
|クハ103
|モハ102
|モハ103
|サハ103
|サハ103
|モハ102
|クモハ103
|}
|}
|}
これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、すべて後期製造車もしくは車両更新工事施工車が選ばれた。その他の編成にも譲渡の計画があったが、その後103系より状態が良く、保守面において有利なオールステンレス車である[[東急8000系電車|東急8000系]]に変更されたため、103系の売却は16両で打切となった。

=== 関西・中国地区 ===
==== 大阪環状線・桜島線 ====
[[ファイル:JR West 103 series orange.jpg|thumb|クハ103-1ほか8両編成([[2007年]])]]
[[ファイル:Series103_LA4.jpg|thumb|大阪環状線の103系LA04編成。<br />([[2017年]][[9月15日]] 大正駅)]]
[[ファイル:JRW VIERRA Tamatsukuri.jpg|thumb|103系を模した商業施設「ビエラ玉造」(2014年)]]

[[大阪環状線]]・[[桜島線]]では、1969年12月から2017年10月3日まで103系が運用されていた。車両の車体色は[[朱色1号]]({{Color|#f15A22|■}} オレンジバーミリオン)。なお桜島線には6両編成も存在した。[[大和路線]]直通の区間快速として、[[JR難波駅]]から[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]まで乗り入れる運用もあったが、2016年(平成28年)10月3日より[[JR西日本221系電車|221系]]に置き換えられ消滅した。

関西では[[京阪神緩行線]]に次いで投入された大阪環状線の103系は、最初の編成として1969年12月に6両編成2本が[[森ノ宮電車区]]に配置された<ref name="毛呂2012_p101" />。車体塗装は103系で初のオレンジバーミリオン(朱色1号)となった<ref name="毛呂2012_p101" />。1971年より103系で初となる8両編成化が開始され、1976年に桜島線直通を除く全編成が8両編成となった<ref name="毛呂2012_p101" />。この増備では中間車の新製投入とともに、先頭車は首都圏のATC化に伴って捻出されたATC非対応車が転入している<ref name="毛呂2012_p102" />。

103系の増備により捻出された101系は[[淀川電車区]]へ転属し、[[片町線]]の新性能化に充当された<ref name="毛呂2012_p102" />。1985年には京阪神緩行線への201系導入で捻出された103系が転入し、大阪環状線・桜島線とも全車両が103系となった<ref name="毛呂2012_p102">毛呂信昭『103系物語』102頁。</ref>。

国鉄分割民営化時、大阪環状線・桜島線の103系は森ノ宮電車区の8両編成28本、6両編成5本の254両がJR西日本に継承された<ref name="毛呂2012_p102" />。大阪環状線では8両編成、桜島線では6両編成で運転されていた<ref name="毛呂2012_p179">毛呂信昭『103系物語』179頁。</ref>。桜島線内運転用の6両編成は、森ノ宮支所への入出区のため西九条駅-京橋駅間でも営業運転されていた<ref name="rf201906_p32">佐藤利生「オレンジバーミリオン物語」『鉄道ファン』2019年6月号、32頁。</ref>。

1989年に103系の6両編成2本が淀川電車区に転出し、101系6両編成2本が淀川電車区より転入した<ref name="毛呂2012_p179" />。101系は桜島線での運用を再開したが、101系の営業運転は1991年3月13日をもって終了した<ref name="毛呂2012_p180" />。

1995年には8両編成1本が体質改善40N工事のプロトタイプ車として投入され、1995年4月8日より営業運転を開始した<ref name="毛呂2012_p180">毛呂信昭『103系物語』180頁。</ref>。他の車両に対しても翌1996年度より改造が開始されている。2002年度以降は工事内容を簡素化した体質改善30N工事<ref name="毛呂2012_p180" />に移行した。

2001年、[[大阪市]][[此花区]]にテーマパーク「[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]」(USJ)が開業するのに伴い、桜島線では[[ユニバーサルシティ駅]]の開業とともに、西九条 - 桜島間に「JRゆめ咲線」の路線愛称が付与された<ref name="毛呂2012_p180" />。大阪環状線と桜島線の直通運転が実施されたほか、103系のうち桜島線内折返しの6両編成4本を体質改善40N車に揃えた(2本は日根野・宮原・奈良から転入)上で、USJのアトラクションにちなんだラッピングが施工された<ref name="毛呂2012_p180" />。生え抜き車からは2本が「パワーオブハリウッド号」と「アメリカの街並み風景号(後のスパイダーマン号)」となった。

2001年7月1日の山陽本線兵庫 - 和田岬間([[和田岬線]])の電化用として、森ノ宮区の8両編成1本が6両編成に短縮され、2001年6月21日付で[[網干総合車両所明石支所]]へ転出した<ref name="毛呂2012_p182" />。

2005年からの京阪神緩行線への[[JR西日本321系電車|321系]]の投入に伴い、[[国鉄201系電車|201系]]が森ノ宮電車区に転入した<ref name="毛呂2012_p182">毛呂信昭『103系物語』182頁。</ref>。これにより103系の一部廃車と奈良・日根野電車区への転出が行われ、2007年の時点で8両編成11本、6両編成4本となった<ref name="毛呂2012_p183" />。この大転配の際に、体質改善40N車から2両の余剰廃車が発生し、2006年2月1日付けでサハ103-486が、同年5月29日付けでサハ103-410がそれぞれ廃車された。

2011年のダイヤ改正で阪和線・大和路線との直通快速列車が増発され、環状運転の列車が減少したため、103系の28両が日根野電車区へ転出した<ref name="毛呂2012_p183" />。これにより森ノ宮電車区の103系8両編成は5編成に減少し、8両編成のクハは高運転台車のみとなった<ref name="毛呂2012_p183" />。2011年4月25日には大阪環状線が1961年の開業から50周年を迎え、103系1編成と201系1編成に記念ヘッドマークが掲出された<ref name="毛呂2012_p183" />。

2012年3月のダイヤ改正では、桜島線の線内折返し列車もUSJラッピング車を含めて8両編成となった<ref name="毛呂2012_p183" />。103系によるUSJラッピングは2012年12月をもって終了し、以後は201系にUSJラッピングが施工された<ref name="railf20121208" />。

2012年6月の組織改組により、森ノ宮電車区の車両は[[吹田総合車両所]]森ノ宮支所<ref name="rp201801_p65" />の所属となった。

「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、103系の1編成で関西のラジオ局「[[FM802]]」とJR西日本のコラボレーションによる「OSAKA POWER LOOP」のラッピングが施工され、2014年6月1日より運行を開始した<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2014/06/jr103la3osaka_power_loop.html 【JR西】103系LA3編成に"OSAKA POWER LOOP"ラッピング] RMニュース(鉄道ホビダス)、2014年6月3日。</ref>。2014年(平成26年)3月18日に[[玉造駅]]に隣接して開業した商業施設「ビエラ玉造」は、大阪環状線の103系をモチーフにした外装デザインとなっている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/kansai-14/ JR大阪環状線「巨大103系」玉造駅に出現!? ] マイナビニュース、2014年4月27日。</ref><ref name="rf201906_p32" />。

3扉車による快速の直通運転の増加で4扉車と3扉車が混在する中、整列乗車の課題解消や将来の[[ホームドア]]設置への対応のため、4扉の103系・201系は2016年(平成28年)より3扉ロングシートの[[JR西日本323系電車|323系]]への置き換えが決定した<ref name="rf201906_p32" />。323系導入前の2016年度初頭時点で103系は8両編成7本が存在したが、2016年12月24日の323系の営業運転開始より順次置き換えが進められ、2017年(平成29年)度初頭時点の103系の稼働編成は2編成のみとなっていた<ref name="rp201801_p6-7">「FADE OUT ―去りゆく103系―」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。6-7頁。</ref>。

103系で最後に残った2編成のうち、「OSAKA POWER LOOP」編成は2017年(平成29年)9月7日に営業運転を終了した<ref>[http://railf.jp/news/2017/09/08/163000.html 大阪環状線で103系「OSAKA POWER LOOP」の運転終了] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2017年9月8日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2017/09/10/203000.html 103系LA3編成「OSAKA POWER LOOP」が宮原へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2017年9月10日</ref>。オレンジバーミリオンで最後まで残った1編成も、形式数字の「103」にちなんだ2017年[[10月3日]]が最終運行となり<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/osakaloop_kaizou/detail.php?id=36 大阪で48年間走ったオレンジ色の電車 大阪環状線103系勇退] 西日本旅客鉄道 2017年9月5日</ref>、約48年間に及ぶ大阪環状線での103系の運用が終了した<ref>{{Cite news|title=さらば、オレンジ103系―大阪環状線で半世紀、ラストラン終え引退|newspaper=産経ニュース関西版|date=2017-10-3|url=https://www.sankei.com/article/20171003-LUS6L6WWRZKK3C46WNSG54TQRQ/|agency=産業経済新聞社|accessdate=2017-10-3}}</ref>。また当編成の引退と同時にオレンジバーミリオン(朱色1号)の103系の稼働車が消滅した<ref name="rp201801_p6-7" />。

引退後に先頭車のクハ103形843・802号車が[[京都鉄道博物館]]にて11月3日から6日まで展示された<ref name="rp201801_p65">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。65頁。</ref>。当初は大和路線ウグイス色の103系も展示される<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2017/10/page_11234.html 京都鉄道博物館でラストステージ!大阪環状線で半世紀近く活躍し、今回引退するオレンジ色の103系電車を期間限定で展示します] 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2017年10月2日</ref><ref>{{Cite news|title=JR大阪環状線103系、引退後に京都鉄道博物館で特別展示へ - 11/3から4日間|newspaper=マイナビニュース|date=2017-10-2|url=https://news.mynavi.jp/article/20171002-a180/|accessdate=2017-10-3}}</ref>予定であったが輸送上の都合によりクハ103形802号車に変更された<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/10/page_11351.html 京都鉄道博物館でラストステージ!オレンジ色の103系電車に特別なヘッドマーク取り付けならびに展示車両の一部変更] 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2017年10月23日</ref>。

==== 関西本線(大和路線)・奈良線・おおさか東線 ====
[[ファイル:Series103_NS413.jpg|thumb|奈良線の103系NS413編成。<br />([[2017年]][[12月30日]] )]]
[[ファイル:JRW series103-OsakaLoop.jpg|thumb|大阪環状線へ乗り入れる4両 + 4両の8両編成([[2011年]])]]
吹田総合車両所奈良支所所属の4両編成があり、奈良線を中心に運用されていた。車体色は[[黄緑6号]]({{Color|#9acd32|■}} ウグイス)で、先頭車の前面窓下に警戒帯を配する。

関西本線の湊町(後の[[JR難波駅|JR難波]]) - [[奈良駅|奈良]]間電化時に投入された101系の置き換えのため、京阪神緩行線への201系投入によって捻出された103系が1983年より投入された<ref name="rf201808_p97">「関西本線(加茂-JR難波間)ほかの103系」『鉄道ファン』2018年8月号、交友社。97頁。</ref>。当初は日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)の配置であり、日根野区への入出庫との兼ね合いから、編成の向きが(日根野区の阪和線用車両等と)逆になっている。その後も[[淀川電車区]](当時)・森ノ宮電車区など関西圏やのほか首都圏の各地から転入している。

1985年2月には、関西本線の101系の103系への全面置き換えが完了した<ref name="毛呂2012_p118">毛呂信昭『103系物語』118頁。</ref>。1985年3月14日のダイヤ改正で[[奈良電車区]]が開設され、関西本線の103系は同区の所属となった<ref name="毛呂2012_p118" />。

1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で編成両数を短くしつつ日中の運転本数を増やす施策が取られたため、国鉄末期から1994年にかけては日根野電車区等から転入したクモハ103 + モハ102 + クハ103の3両編成が投入され、単独運転またはラッシュ時には2編成を併結した6両編成で運転されていた。101系クハ100形からの改造車であるクハ103形2000番台も登場している<ref name="毛呂2012_p118" />。

分割民営化後は、6両編成12本、3両編成10本の計102両がJR西日本へ承継された。

1987年度には、阪和線への205系1000番台投入で捻出された日根野電車区の車両が転入した<ref name="rf201808_p97" />。短編成高頻度運転の輸送力増強のため、6両編成の一部はモハ103 + モハ102を電装解除・先頭車化改造したクハ103形2550・2500番台を組み込み4両編成化された<ref name="毛呂2012_p170">毛呂信昭『103系物語』170頁。</ref>。

1988年3月13日のダイヤ改正で関西本線の[[加茂駅 (京都府)|加茂]] - [[木津駅 (京都府)|木津]]間が電化され、加茂 - 湊町間には「[[大和路線]]」の路線愛称が制定された<ref name="rf201808_p97" />。加茂・奈良 - 湊町間には103系4両編成(ラッシュ時は併結8両編成)による快速列車が設定された<ref name="毛呂2012_p170">毛呂信昭『103系物語』170頁。</ref>。

1988年4月から10月にかけて、[[奈良県]][[奈良市]]で博覧会「[[なら・シルクロード博覧会]]」が開催された<ref name="rf201808_p97" />。その開催期間には関西本線から[[梅田貨物線]]を経由して[[新大阪駅|新大阪]]へ直通する臨時快速「シルクロード号」が運転され、奈良電車区の103系が使用された<ref name="毛呂2012_p170" /><ref name="rf201808_p97" />。

1993年以降、片町線やJR京都線・神戸線への207系の投入で捻出された103系が奈良電車区に転入し、より車齢の高い103系が代替された<ref name="rf201808_p98">「関西本線(加茂-JR難波間)ほかの103系」『鉄道ファン』2018年8月号、交友社。98頁。</ref>。片町線用であった淀川電車区からの転入車には自動解結装置を持つクモハ103・モハ102形5000番台とサハ102形もあり、1994年に自動解結装置の撤去と改番が行われている<ref name="rf201808_p98" />。

1994年より3両編成に付随車が組み込まれ、4両編成化された<ref name="rf201808_p98" />。一部編成には[[ATS-SW]]が設置され、3月より[[奈良線]]にも進出し、同線の[[国鉄113系電車|113系]]の運用が終了した<ref name="rf201808_p99" />。また、[[桜井線]]や[[和歌山線]]でも103系が運用された<ref name="rf201808_p98" />。明石電車区から奈良電車区へ貸出の4両編成2本のうち、[[岡山電車区]]へ転属予定とされた1編成(クハ103-221ほか)は、緑の[[マスカット (ブドウ)|マスカット]]色に白帯3本の塗装で運用された<ref name="rf201808_p99">「関西本線(加茂-JR難波間)ほかの103系」『鉄道ファン』2018年8月号、交友社。99頁。</ref>。

1994年度には明石電車区と日根野電車区から10両が転入し、6両が宮原電車区に転出している<ref name="毛呂2012_p170" />。関西本線の湊町駅は1994年9月4日に[[JR難波駅]]に改称され、1996年3月22日に地下駅となった<ref name="rf201808_p99" />。

国鉄時代からの前面の黄色警戒帯は1990年度に撤去されていたが、1996年度に白色の警戒帯が設けられた<ref name="毛呂2012_p171">毛呂信昭『103系物語』171頁。</ref><ref name="rf201808_p99" />。ウグイス色の車体が沿線の緑に溶け込み、保線作業員による識別が困難なためとされている<ref name="毛呂2012_p171" />。

2001年にはUSJ開業に伴うラッピング列車の運行開始により、森ノ宮との間で、先頭車の交換が行われた。転属された車両は「アメリカの街並み風景号(後のスパイダーマン号)」となった。

2005年より京阪神緩行線への321系の投入が開始され、同線の201系が森ノ宮電車区へ転属となった<ref name="毛呂2012_p171" />。これにより森ノ宮電車区の103系の一部が他線区へ転出し、奈良電車区への転入では103系老朽車やWAU102形による冷房改造車等に廃車が発生した<ref name="毛呂2012_p171" />。2006・2007年度には201系の6両編成が奈良電車区に配置され、103系6両編成の本数が減少した<ref name="毛呂2012_p172">毛呂信昭『103系物語』172頁。</ref>。

2008年3月に[[おおさか東線]]が[[放出駅|放出]] - [[久宝寺駅|久宝寺]]間で部分開業し、大和路線と同じく103系と201系の6両編成が投入された<ref name="毛呂2012_p173">毛呂信昭『103系物語』173頁。</ref>。2012年6月の組織改組により、奈良電車区の車両は[[吹田総合車両所]]奈良支所の所属となった<ref name="rf201808_p100">「関西本線(加茂-JR難波間)ほかの103系」『鉄道ファン』2018年8月号、交友社。100頁。</ref>。

[[環境省]]が2015年(平成27年)に[[国土交通大臣]]に提出した、奈良線の複線化事業に係る環境影響評価における、沿線環境対策についての指摘項目では、「適切な環境保全措置を講じ、転動音、車両機器音及び構造物音の低減を図ること」として、[[ロングレール]]化や、鉄橋におけるコンクリート床版化の極力導入と並び、「103系車両からの代替による低騒音型機器搭載車両の導入推進」が挙げられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/press/101807.html|title=奈良線第2期複線化事業(JR藤森~宇治・新田~城陽・山城多賀~玉水間複線化)に係る環境影響評価書に対する環境大臣意見の提出について(お知らせ)|accessdate=2021年4月8日|publisher=環境省|date=2015年12月18日}}</ref>。

4両編成は奈良線のほか、大和路線でも2本併結の8両編成で大阪環状線へ直通する区間快速でも使用されたが、2016年(平成28年)10月2日の運用改訂で221系に置き換えられ<ref name="rp201801_p66">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。66頁。</ref>、以後は奈良線系統のみとなった。ダイヤ乱れ時など都合により[[みやこ路快速]]の代走運用に入ることもある<ref>[https://railf.jp/news/2017/08/09/100000.html “みやこ路快速”を103系が代走] 鉄道ニュース(railf.jp)、2017年8月9日。</ref>。4両編成は両端クハの編成とクモハを含む編成が混在することになったが、2007年にクモハ103-2505の4両編成が日根野電車区へ転出したことにより前者に統一された。

[[大阪環状線]]から撤退した[[吹田総合車両所]]森ノ宮支所の201系に置き換えられ、2018年1月24日をもって103系は関西本線(木津駅 - 奈良駅間を除く)、おおさか東線から撤退した。

奈良線についても、[[吹田総合車両所]]日根野支所の205系による置き換えが進められ、最後に残ったNS407編成、NS409編成も2022年3月11日の営業運転が最後となり、定期運用を終了した。定期運用終了後も予備車扱いで吹田総合車両所奈良支所に留置されていたが、一度も運用に入ることはなく、2022年7月27日に2編成とも吹田総合車両所へ回送され、同月28日付で廃車された<ref name="JRR 2023w 360">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表』2023冬 交通新聞社、2022年、p.360。ISBN 9784330067223。</ref>。

==== 阪和線 ====
[[ファイル:Series103_HK609.jpg|thumb|阪和線の103系HK609編成。<br />([[2017年]][[7月15日]] 浅香駅)]]
[[ファイル:羽衣支線103系.jpg|thumb|羽衣支線の103系HL102編成。<br />([[2017年]][[7月15日]] )]]
[[ファイル:阪和線103系高運転台車.jpg|thumb|高運転台車クハ103-846ほか6両編成]]
吹田総合車両所日根野支所所属の6両・4両・3両編成があり、[[阪和線]](鳳 - 東羽衣間の羽衣支線含む)で使用されていた。

[[1968年]][[10月1日]]のダイヤ改正([[ヨンサントオ]])により、関西初の103系となる6両編成4本が[[鳳電車区]]に配置され、当初は主に快速列車で使用された<ref name="毛呂2012_p97">毛呂信昭『103系物語』97頁。</ref>。車体色は[[青22号]]({{Color|#00859E|■}} スカイブルー)となった<ref name="毛呂2012_p97" />。

阪和線の天王寺 - 鳳間は1965年(昭和40年)6月から6両運転を開始<ref>「国有鉄道建設編」『交通年鑑1965』1965年(昭和40年)3月、交通協力会、p.244。</ref><ref>「読者短信 阪和線だより」『鉄道ピクトリアル』1965年(昭和40年)8月、電気車研究会、p.75。</ref>したが、鳳以南から天王寺に運転されている快速列車の朝ラッシュ時の混雑が1965年(昭和40年)11月現在で319 %<ref>「ラッシュ時の混雑度の推移」『国鉄メモ1969』、日本国有鉄道広報部、p.50。</ref>となっていた。さらに鳳以南では1968年度までに26,000戸の住宅開発が予定されており快速列車の6両運転を計画していたが、1968年10月改正に合わせて設備が完成することから6両編成の103系を快速列車用として投入した。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の[[和歌山駅|和歌山]])- 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた<ref>「阪和線に新性能電車が運転される」『電車』1968年5月号、交友社、p.63。</ref>。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用に使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。

1974年には山手線から103系の6両編成10本が転入し、当初はウグイス色のままで、関西本線の101系と同じく前面に警戒帯としてカナリアイエロー(黄色5号)の帯が配されていた<ref name="毛呂2012_p97" />。1976年以降も京浜東北線からの103系の転入が進められ、[[1977年]]3月15日のダイヤ改正で羽衣支線を含めた新性能化が完了した<ref name="毛呂2012_p98">毛呂信昭『103系物語』98頁。</ref>。この新性能化で3両編成が必要となったため、関西初となるクモハ103形が[[浦和電車区]]より転入している<ref name="毛呂2012_p98" />。旧性能車は同年4月14日のさよなら運転をもって阪和線での運転を終了した<ref name="毛呂2012_p98" />。

阪和線の支線である鳳 - 東羽衣間([[羽衣線]])は3両編成の旧形国電により運転されていたが、1977年(昭和52年)春に阪和線用を含め33両が増備され、同区間用には103系を3両編成に組成して投入した。この投入により、同年4月14日改正にて阪和線新性能化が完了した<ref>村井輝夫(国鉄関西輸送計画室車務課)「阪和線のメモから」『電車』1977年8月号、交友社、pp.45-50。</ref>。3両編成を組むため編成はクモハ103-モハ102-クハ103となったが、103系の3両編成による運転はこの阪和線が最初のケースとなった。

[[1978年]]に[[紀勢本線]]の[[和歌山駅]] - [[新宮駅]]間が電化され、103系を含む鳳電車区の所属車は[[日根野電車区]]に転出した<ref name="毛呂2012_p98" />。1980年には、高運転台非ATC車を含む冷房車6両編成3本が新製投入された<ref name="毛呂2012_p99" />。1986年11月1日のダイヤ改正では短編成・高頻度運転化により4両編成が登場し、101系より改造のクハ103形2050番台も配属された<ref name="毛呂2012_p99">毛呂信昭『103系物語』99頁。</ref>。

阪和線の103系は、6両編成29本、4両編成17本、3両編成2本の計248両がJR西日本に継承された<ref name="毛呂2012_p99" />。

JR化後の[[1987年]][[6月21日]]、[[父の日]]にちなんで運転された臨時列車「お父さん感謝大漁号」は、日根野電車区の103系3両編成の間に同区の[[国鉄165系電車|165系]]3両編成を挟んだ混結6両編成で天王寺駅 - 和歌山駅 - [[和歌山市駅]]間を走行した<ref name="rp200404_p51">芳田あきら「103系電車の興味」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、51頁。</ref>。編成はクモハ103-モハ102 + クモハ165-モハ164-クハ165 + クハ103の6両編成であった<ref name="毛呂2012_p174">毛呂信昭『103系物語』174頁。</ref>。

1987年[[7月1日]]に[[国鉄123系電車|123系]]クモハ123-5・6が羽衣線に投入されると、日中はクモハ123形のみ、朝ラッシュ時にはクハ103-194を連結した3両編成での運転が行われた<ref name="rp200404_p51" />。クモハ123 + クモハ123 + クハ103という編成で、始発から朝ラッシュ時は3両編成、日中は1両、夕ラッシュ以後は2両編成という柔軟な運用になった<ref>「1両で運転される電車」『JR電車編成表』1988年冬号、JRR、pp.182 - 189。</ref>。

羽衣線では1989年10月20日から車内での運賃収受のないワンマン運転を103系で開始<ref>「日根野電車区」『JR電車編成表』1990年冬号、JRR、p.78。</ref>され、123系2両とともにワンマン化改造が行われた。

1994年の紀勢本線[[紀伊田辺駅]]・[[周参見駅]]への延長運転に備えて、4両編成4本に[[ATS-SW]]が設置され、識別のため前面に白帯が設けられた<ref name="毛呂2012_p175">毛呂信昭『103系物語』175頁。</ref>。後にATS-SWが対象全編成に設置されたため区別が不要になり、白帯は1999年度から2003年度にかけて撤去された<ref name="毛呂2012_p175" />。

1995年1月の[[阪神・淡路大震災]]後は先頭車が必要になったため、クハ103-194を他線区に転用する代わりに森ノ宮区のサハ103-758をワンマン化改造してクモハ123形2両の中間に組み込んだ<ref name="rp201801_p112" />。クモハ123-5・6は1995年に[[宇野線]]の[[JR西日本クモハ84形電車|クモハ84形]]置き換えのため[[岡山電車区]]へ転出し、羽衣線は103系による終日3両編成での運転に戻った<ref name="rp201801_p112" />。

2001年にはUSJの開業に伴い、6両編成1本が森ノ宮へ転属され、同車は「ユニバーサルグローブ号(後のセサミストリート号)」となった。

1999年には8両固定編成が登場し、同年5月10日のダイヤ改正より朝夕ラッシュ時の快速に充当された<ref name="毛呂2012_p175" />。2003年から2006年まで鳳駅 - 大阪環状線間で運転された区間快速には8両固定編成が充当された。

[[JR西日本225系電車|225系]]5000番台の導入により、4両2本併結の8両編成は2011年3月12日のダイヤ改正で姿を消した。このダイヤ改正では[[関空・紀州路快速]]の増発と紀州路快速の日根野以南の各駅停車化が行われ、103系と205系は日中は専ら天王寺駅 - 鳳間の普通列車の運用となり、日根野・和歌山方面は朝夕と夜間のみの運転となった<ref name="毛呂2012_p176">毛呂信昭『103系物語』176頁。</ref>。

2016年(平成28年)7月からの225系5100番台の投入に伴って、阪和線の103系は同年12月23日に4両編成が定期運用を離脱<ref>[https://railf.jp/news/2016/12/25/200000.html 日根野支所所属の103系4両編成が運用離脱] 鉄道ニュース(railf.jp)、2016年12月25日</ref>、2017年(平成29年)7月には6両編成が置き換えられ、阪和線本線での運用は終了した。2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正<ref name="hanwa">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/171215_00_keihanshin_1.pdf 2018年3月17日にダイヤ改正を実施します]}} - 西日本旅客鉄道近畿総括本部 2017年12月15日</ref>では羽衣線用の3両編成が225系5100番台4両編成に置き換えられ、阪和線の103系の運用は終了した。置き換えられた103系は全車廃車となった。

2017年10月12日、阪和線のHK607編成(クハ103-837ほか6両編成)が吹田総合車両所日根野支所から網干総合車両所明石支所に回送された<ref>[https://railf.jp/news/2017/10/13/140000.html 103系HK607編成が網干総合車両所明石支所へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2017年10月13日</ref>。日根野から明石に転属し<ref>ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2018夏』交通新聞社、2018年。359頁。</ref>、編成はR2編成となり<ref name="rp201801_p71" />、和田岬線用R1編成を置き換えると思われたが、営業運転に入ることなく2018年2月15日付で廃車となっている<ref name="JR電車編成表2018夏_p357" />。なお後述の通り、R1編成は2023年(令和5年)3月18日をもって引退した。{{-}}

==== 東海道・山陽緩行線(京阪神緩行線) ====
[[ファイル:JNR kuha103-154.jpg|thumb|200px|京阪神緩行線 クハ103-154先頭の7両編成(1983年)]]
[[ファイル:JNR 103 tokaido yamazaki.jpg|thumb|京阪神緩行線の103系ユニット窓非冷房車([[山崎駅 (京都府)|山崎駅]]、1983年)]]
[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]]の[[京都駅|京都]] - [[西明石駅|西明石]]間で[[複々線]]の内側線(電車線)を走行する各駅停車の運転系統は[[京阪神緩行線]](東海道・山陽緩行線)と呼ばれ、戦前型3扉車の[[国鉄51系電車|51系]]や[[国鉄72系電車|72系]]といった旧性能電車が使用されていたが、[[日本万国博覧会|大阪万博]]前年の[[1969年]]より103系の投入が開始された<ref name="毛呂2012_p100">毛呂信昭『103系物語』100頁。</ref>。

1969年8月に最初の7両編成1本が落成し、同年10月1日改正で運用が始まり、万博開催前の[[1970年]]2月までに7両編成15本の105両が投入された<ref name="毛呂2012_p100" />。配置は[[明石電車区]]、車体塗装は阪和線に続いてスカイブルー(青22号)となった<ref name="毛呂2012_p100" />。当時の京阪神緩行線では前面の行先表示を省略しており、前面方向幕には「普通」とのみ表示していた<ref name="毛呂2012_p100" />。運用開始後、前面窓に[[デフロスタ]]が追設された<ref name="毛呂2012_p101" />。

[[山陽新幹線]]の[[岡山駅|岡山]]開業に伴う[[1972年]][[3月15日]]のダイヤ改正では、[[新快速]]の[[国鉄153系電車|153系]]による日中15分間隔運転が開始されたが、同じ線路を走る緩行線の普通列車は、旧性能車では待避駅まで逃げ切るのが困難なため、新快速運転時間帯は103系に統一することとなった<ref name="毛呂2012_p101">毛呂信昭『103系物語』101頁。</ref>。103系は増発分を含む増備車109両が明石電車区に配置されたが、非冷房車ながらユニット窓とシールドビーム2灯となり、量産冷房車への過渡的な形態となった<ref name="毛呂2012_p101" />。この改正では緩行線の運転系統も変更され、従来は京都 - 西明石間と[[吹田駅 (JR西日本)|吹田]] - [[甲子園口駅|甲子園口]]間であったが、京都 - 甲子園口間と吹田 - 西明石間に分割された「串刺しダイヤ」となった<ref name="毛呂2012_p101" />。

1974年1月から3月にかけて、関西初の量産冷房車が京阪神緩行線に77両投入された<ref name="毛呂2012_p101" />。中間車は[[高槻電車区]]に新製配置されたが、先頭車は山手線・京浜東北線にATC対応車を投入して差し替えられたATC非対応の量産冷房車が転入した<ref name="毛呂2012_p101" />。当初は側面方向幕も含めて「普通」のみ表示であったが、同年秋頃より「京都」「西明石」など行先の表示が実施された<ref name="毛呂2012_p101" />。

1975年には完全新性能化を目的に80両が投入され、京阪神緩行線の全車両が103系となった<ref name="毛呂2012_p101" />。

1982年12月より、[[国鉄201系電車|201系]]の7両編成32本が京阪神緩行線に投入された<ref name="毛呂2012_p101" />。103系は関西本線・片町線の101系置き換え用として転出し、付随車は阪和線の快速8両編成化に用いられたほか、首都圏にも転出した<ref name="毛呂2012_p101" />。

1985年3月14日のダイヤ改正では、京阪神緩行線の一部列車が[[草津駅 (滋賀県)|草津]]・[[加古川駅|加古川]]まで延長された一方、昼間時間帯(10時から15時)は京都に入らず高槻折返しとなり、高槻以遠は快速が各駅に停車した<ref name="毛呂2012_p101" />。これにより日中は201系のみでの運用が可能となり、スピードアップと「串刺しダイヤ」の解消が行われ、103系の運用は朝夕のみとなった<ref name="毛呂2012_p101" />。[[1986年]][[11月1日]]のダイヤ改正より[[国鉄205系電車|205系]]の7両編成4本が投入され、103系は阪和線、首都圏に転出した<ref name="毛呂2012_p101" />。

京阪神緩行線の103系は、7両編成19本の133両がJR西日本に継承された<ref name="毛呂2012_p101" />。103系は引き続き201系・205系とともに運用されたが、103系の運転区間は京都 - 西明石間とされた<ref name="毛呂2012_p167">毛呂信昭『103系物語』167頁。</ref>。1988年には京都 - 大阪間に[[JR京都線]]、大阪 - 神戸 - 姫路間に[[JR神戸線]]の愛称が制定された。

民営化直後は非冷房車が7編成あったが、冷房化改造や宮原・淀川電車区への転出も進められ、1988年度時点で非冷房車は1編成となった<ref name="毛呂2012_p167" />。1990年には日根野電車区との間で非冷房車の1編成が差し替えられ<ref name="毛呂2012_p169" />、101系からの改造車であるクハ103-2052<ref name="rp199107_p43" />が転入した。同年3月31日付けでモハ103-230が廃車となり、JR西日本所属車では初の廃車となった。明石電車区で保留車となっていたモハ102-385は、1989年に事故廃車となった105系クハ105-7の代替として1990年に電装解除・先頭車化・冷房化の改造が実施され、105系のクハ104-551となった<ref name="rp201801_p109" />。同車は末期は日根野支所新在家派出所に配置され、2019年12月2日付けで廃車された。

1991年時点では明石電車区に7両編成15本(うち非冷房車1本)と保留車を含む110両が配置されていたが、103系の運用は朝夕ラッシュ時に限定されており、日中は京都駅や明石電車区などに留置された<ref name="rp199107_p43">渡辺晃「JR西日本の103系電車近況」『鉄道ピクトリアル』1991年7月号(通巻545号)、電気車研究会。43頁。</ref>。

クハ103-2052を含む非冷房車編成は1992年に4両編成化され、明石電車区の訓練車<ref name="rp200404_p55" />となったが、同年内にクハは廃車となり、電動車ユニットも奈良電車区に転属して旅客営業に復帰したことで消滅した<ref name="rp200404_p55">芳田あきら「103系電車の興味」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、55頁。</ref>。これにより明石区の103系は全車が冷房車となった<ref name="毛呂2012_p169" />。

[[1993年]]3月18日改正で[[福知山線]]([[JR宝塚線]])に[[JR西日本207系電車|207系0番台]]が投入されたことに伴い、福知山線103系の一部が宮原運転所から明石電車区へ転入、カナリアイエローからスカイブルーへ塗り替えとともに京阪神緩行線初の高運転台となった。

[[1994年]]には吹田工場高槻派出所に[[JR西日本207系電車|207系1000番台]]が新製配置され、同年3月1日に運用が開始された<ref name="毛呂2012_p169">毛呂信昭『103系物語』169頁。</ref>。103系は1994年[[3月24日]]に京阪神緩行線での運用を終了し、宮原・森ノ宮・奈良・日根野・岡山の各電車区と広島運転所に転出した<ref name="毛呂2012_p169" />。

==== 片町線 ====
[[ファイル:JR Katamachi Sta.jpg|thumb|片町線の103系([[片町駅]]、1989年10月)]]
[[片町線]]では[[国鉄40系電車|40系]]・[[国鉄42系電車|42系]]・[[国鉄72系電車|72系]]などの旧性能電車が1970年代まで使用されていたが、1976年に101系の導入が開始され、1978年には冷房車が導入されるなど近代化が進められた<ref name="毛呂2012_p112" />。[[1979年]][[10月1日]]のダイヤ改正では片町線の[[四条畷駅|四條畷]] - [[長尾駅 (大阪府)|長尾]]間の複線化、関西の国鉄で初の[[自動改札機]]の導入、6両編成化などの輸送改善が実施され、これに合わせて103系の新製冷房車が投入された<ref name="毛呂2012_p112" />。

103系は1979年に6両編成1本が[[淀川電車区]]に新造投入され、先頭車は高運転台車で初の非ATC車となった<ref name="毛呂2012_p112">毛呂信昭『103系物語』112頁。</ref>。車体塗装は[[大阪環状線]]と共通のオレンジバーミリオン(朱色1号)となった<ref name="rf201906_p33">佐藤利生「オレンジバーミリオン物語」『鉄道ファン』2019年6月号、33頁。</ref>。

翌1980年には7両編成3本が新製投入され、このうち1本は大阪環状線から転入の低運転台車が先頭に立った<ref name="毛呂2012_p112" />。1983年からは京阪神緩行線への201系投入で捻出された編成が転入し、1984年2月の福知山線103系6両編成の4両編成短縮化で捻出された電動車ユニットも転入した<ref name="毛呂2012_p112" />。

1985年、淀川電車区が[[桜ノ宮駅]]北側から[[放出駅]]付近に移転したため、[[西日本旅客鉄道吹田工場|吹田工場]]への入場経路変更の関係から全編成が方向転換された<ref name="毛呂2012_p112" />。同年から翌1986年にかけては、京阪神緩行線への201系投入で捻出された103系のサハが明石電車区より転入し、各編成が7両編成となった<ref name="毛呂2012_p112" />。

淀川電車区に所属する片町線の103系7両編成19本は、101系7両編成2本とともにJR西日本に継承された<ref name="毛呂2012_p112" />。1988年3月には片町線に「学研都市線」の路線愛称が制定され、ダイヤ改正により快速列車の運転が開始された<ref name="rf201906_p35">佐藤利生「オレンジバーミリオン物語」『鉄道ファン』2019年6月号、35頁。</ref>。

[[1989年]]3月11日に長尾 - [[木津駅 (京都府)|木津]]間の電化が完成し、長尾 - [[大住駅|大住]]間に[[松井山手駅]]が開業した<ref name="毛呂2012_p178">毛呂信昭『103系物語』178頁。</ref>。松井山手駅で分割併合を行うため、103系7両編成のうち13本を4両と3両に分割し、自動解結装置を設置する改造が行われた<ref name="毛呂2012_p178" />。奈良電車区や明石電車区からの転入車もあり、基本編成は付属編成より3本多い16本の配置となった<ref name="毛呂2012_p178" />。[[片町駅|片町]] - 松井山手間は7両で運転し、ホーム長の短い松井山手 - 木津間は3両で運転された<ref name="毛呂2012_p178" />。昼間時間帯は付属4両を切り離し、3両編成単独での快速運用も行われた<ref name="毛呂2012_p178" />。

101系の2編成は1989年に桜島線用として森ノ宮電車区へ転出し、片町線は103系に統一された<ref name="毛呂2012_p178" />。1990年には木津へ乗り入れる編成が4両編成となり、4両 + 3両から3両 + 4両に編成替えが行われた<ref name="毛呂2012_p178" />。転入車改造の3編成では、2編成に明石電車区から転入のサハ103形が、1編成は奈良電車区のモハ103-232がサハ103-2501に改造されて組み込まれた<ref name="毛呂2012_p178" />。

1991年には[[JR西日本207系電車|207系]]0番台の試作車7両編成1本が投入され、103系の非分割編成1本が森ノ宮電車区へ転出した<ref name="毛呂2012_p179">毛呂信昭『103系物語』179頁。</ref>。その後の207系の4両・3両編成の増備により103系は増解結運用から撤退し、快速は207系の運用となり、103系は片町 - 四條畷・松井山手間の普通列車での運用となった<ref name="毛呂2012_p179" />。103系の配置両数は半減し、森ノ宮、日根野、奈良、明石の各電車区のほか広島・下関の各運転所への転出が行われた<ref name="毛呂2012_p179" />。

1996年9月8日、最後に残った103系7両編成1本による[[さよなら運転]]が行われ、11日で営業運転を終了した<ref name="毛呂2012_p179" />。運用終了後の103系は宮原電車区に転出した<ref name="毛呂2012_p179" />。

1997年3月8日のダイヤ改正での[[JR東西線]]の開業に伴い、片町線は[[京橋駅 (大阪府)|京橋]] - 片町間が廃止となった<ref name="毛呂2012_p179" />。淀川電車区も車両の配置がなくなり、[[森ノ宮電車区]]放出派出所となった<ref name="毛呂2012_p179" />。

==== 福知山線(JR宝塚線) ====
[[ファイル:福知山線-1991年-01.jpg|thumb|福知山線の103系([[道場駅|道場]] - [[三田駅 (兵庫県)|三田]]間、1991年)]]
[[ファイル:L25 Miha103.jpg|thumb|塗装変更過渡期の103系(1998年)]]
[[1981年]][[4月1日]]に[[福知山線]]の[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎]] - [[宝塚駅|宝塚]]間が電化されるのに伴い、103系の6両編成6本36両が[[宮原電車区]]に新製投入された<ref name="毛呂2012_p115">毛呂信昭『103系物語』115頁。</ref>。クハは高運転台の非ATC車であり、車体塗装は関西の103系で初のカナリアイエロー([[黄5号]])となった<ref name="毛呂2012_p115" />。

乗客数の伸び悩みから、[[1984年]][[2月1日]]のダイヤ改正で4両編成に短縮され、中間電動車ユニットは他線区に転出した<ref name="毛呂2012_p115" />。1986年に福知山線が全線電化されると、103系は[[新三田駅|新三田]]まで運用範囲が拡大された。

福知山線の103系は、4両編成6本の24両がJR西日本に継承された<ref name="毛呂2012_p183">毛呂信昭『103系物語』183頁。</ref>。PRの施策として、103系には編成ごとに異なる「イエローライナー」のヘッドマークが掲出された<ref name="毛呂2012_p183" />。[[篠山口駅|篠山口]]までの乗り入れも行われたが、1991年度には運転区間が新三田までに短縮された<ref name="毛呂2012_p184" />。

[[1989年]][[3月11日]]のダイヤ改正では、明石電車区より非冷房・低運転台の4両編成3本がスカイブルー塗装で転入したが、同年5月にはWAU102形分散冷房装置での冷房化改造とカナリアイエローへの塗装変更が行われた<ref name="毛呂2012_p183" />。このうち1編成は1989年度内に日根野電車区に転出している<ref name="毛呂2012_p183" />。

1991年時点では宮原電車区に8編成32両が在籍し、分散冷房の低運転台車が2編成、残り6編成が高運転台車(宮原新製配置)となっていた<ref name="rp199107_p42-43">渡辺晃「JR西日本の103系電車近況」『鉄道ピクトリアル』1991年7月号(通巻545号)、電気車研究会。42-43頁。</ref>。1992年度には宮原電車区に207系の4両編成4本が配置され、103系は低運転台車2本が広島運転所に、新製配置車のうち2本が明石電車区へ転出した<ref name="毛呂2012_p184" />。残る103系は宮原新製配置の4両編成4本となった<ref name="毛呂2012_p184" />。

1993年度には明石電車区から転入の電動車ユニットが組み込まれ、再び6両編成となった<ref name="毛呂2012_p184">毛呂信昭『103系物語』184頁。</ref>。[[1994年]]8月に[[三田駅 (兵庫県)|三田]] - 新三田間で発生した踏切事故により、クハ103-839が廃車となっている<ref name="毛呂2012_p185" />。補充として奈良電車区より6両編成1本が転入したほか、事故編成の残存車は1995年の[[阪神・淡路大震災]]後の輸送力増強用として広島運転所からの借入車と組成した6両編成で使用された<ref name="毛呂2012_p185" />。

[[JR東西線]]が開業した[[1997年]][[3月8日]]のダイヤ改正では、宮原区の103系は全編成が7両編成となった<ref name="毛呂2012_p185">毛呂信昭『103系物語』185頁。</ref>。この改正では東海道本線の[[高槻駅|高槻]]までの乗り入れも開始された<ref name="毛呂2012_p185" />。207系の淀川・高槻電車区への転出と103系の淀川・森ノ宮電車区等からの転入により、宮原区の103系は低運転台車を含む7両編成8本となった<ref name="毛呂2012_p185" />。

1997年9月1日のダイヤ改正では、東海道本線への乗り入れ区間が[[京都駅|京都]]まで延長された<ref name="毛呂2012_p185" />。平日朝ラッシュ時・夜間には103系による尼崎 - 京都間の列車も設定され、尼崎 - 大阪間では[[塚本駅]]に停車する内側線を走行した<ref name="毛呂2012_p185" />。

1998年度より車体塗装のスカイブルーへの変更が実施され、2001年度をもって関西からカナリアイエローの103系が消滅した<ref name="毛呂2012_p186">毛呂信昭『103系物語』186頁。</ref>。

2001年にはUSJの開業により、サハを抜いた6両編成1本が森ノ宮へ転属し、同車は「ウッドペッカー号」となった。

[[2003年]]に[[網干総合車両所明石支所]]へ207系2000番台が56両投入されたのに伴い、宮原区の103系は2003年8月17日に営業運転を終了した<ref name="毛呂2012_p186" />。運用終了後は一部の付随車を除いて日根野・森ノ宮・奈良の各電車区と広島運転所に転出した<ref name="毛呂2012_p186" />。

[[2005年]][[4月25日]]に福知山線の尼崎 - [[塚口駅 (JR西日本)|塚口]]間で発生した[[JR福知山線脱線事故|脱線事故]]の影響により、森ノ宮電車区の103系1本がオレンジバーミリオン塗装のまま7両編成で貸し出され<ref name="rf201906_p39">佐藤利生「オレンジバーミリオン物語」『鉄道ファン』2019年6月号、39頁。</ref>、8月1日より京都 - [[甲子園口駅|甲子園口]]・新三田間で運用された<ref name="毛呂2012_p186" />。9月1日からはJR東日本からの譲渡車(元武蔵野線E38編成)を組成変更してスカイブルーに塗装変更した7両編成に変更され、[[JR西日本321系電車|321系]]投入前の11月30日まで運用された<ref name="毛呂2012_p186" />。運用離脱後は付随車が廃車となり、残る6両が日根野電車区へ転出した<ref name="毛呂2012_p186" />。

==== 和田岬線 ====
[[ファイル:Series103_R1.jpg|thumb|和田岬線の103系([[2017年]][[7月16日]] )]]
[[ファイル:Series103-Sanyo-Line.jpg|thumb|和田岬線103系のJR神戸線内回送列車(須磨 - 塩屋間)]]
[[山陽本線]]の支線で[[兵庫駅|兵庫]] - [[和田岬駅|和田岬]]間を結ぶ[[和田岬線]]では、客車列車時代には[[国鉄60系客車|オハ64形・オハフ64形]]が、1990年以降は気動車の[[国鉄キハ35系気動車|キハ35形・キクハ35形300番台]]が使用されていたが、2001年7月1日の電化に伴って103系の6両編成1本が和田岬線専用として投入された<ref>[http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2012/06/post_306.html 和田岬線は今...。(中)] 編集長敬白(鉄道ホビダス)、2012年6月8日。</ref>。森ノ宮電車区から網干総合車両所明石支所への転属車が使用され、塗装はスカイブルー(青22号)となった<ref name="毛呂2012_p186" />。編成はR1編成で、全車が延命N40工事車である<ref name="rp201801_p71" />。

和田岬線は朝夕のみの運転であり、休日は朝夕1往復ずつのみの運転となる<ref name="rp201801_p71" />。日曜日の日中や指定の日には、[[大久保駅 (兵庫県)|大久保駅]]での折返しを経て[[西明石駅|西明石]]まで回送され、明石支所へ入庫する<ref name="rp201801_p71" />。和田岬線への入線は[[鷹取駅]]と兵庫駅和田岬線ホームを結ぶ小運転線で行われるが、この小運転線を利用した「[[実設訓練センター|神戸乗務員訓練センター]]」(2000年開設)が設けられており、営業列車のない日中には103系R1編成による乗務員訓練も実施されている<ref name="rf200701_p45">来住憲司「JR西日本 103系現況」『鉄道ファン』2007年1月号、p.45。</ref>。

103系は1編成のみのため、検査等の場合は他形式による代走となる。当初の代走編成は201系と[[JR西日本207系電車|207系]]が使用された<ref name="rf200502_p26">鉄道友の会東京支部JR電車部会「201系四半世紀の歩み」『鉄道ファン』2005年2月号(通巻526号)、交友社p.26。</ref>が、201系の京阪神地区撤退後は207系で運用されている<ref name="rp201801_p71">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。71頁。</ref>。車内広告の掲出は行われていない<ref name="rp201801_p72" />。

明石支所の103系はR1編成のみであったが、2017年10月13日付で吹田総合車両所日根野支所より元HK607編成(クハ103-837ほか6両編成)が転入し、R2編成となった<ref name="rp201801_p70">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。70頁。</ref>。両端の先頭車は高運転台の体質改善40N車、中間車4両は体質改善30N車であった<ref name="rp201801_p72" />。R2編成は転属後、営業運転に入ることは一度もなく、2018年2月14日に吹田総合車両所本所へ回送され<ref>[https://railf.jp/news/2018/02/15/173000.html 103系R2編成が吹田へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2018年2月15日</ref>、翌2月15日付で廃車となった<ref name="JR電車編成表2018夏_p357">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2018夏』交通新聞社、2018年。357頁。</ref>。

2020年1月に検査出場したR1編成は、床下が台車のみグレーに塗装された<ref>[https://railf.jp/news/2020/01/22/160000.html 103系R1編成が出場試運転] 鉄道ニュース(railf.jp)、2020年1月22日。</ref>。

103系のスカイブルー色(青22号)および基本番台最後の定期運用となっていたが、2023年3月18日の運行をもって[[JR西日本207系電車|207系]]に置き換えられ運行を終了した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230227_00_press_skyblue.pdf|title=和田岬線で22年間走ったスカイブルーの103系の勇退!|publisher=西日本旅客鉄道|date=2023-02-27|access-date=2023-02-27}}</ref>。

==== 加古川線 ====
[[ファイル:JRW Kumoha103-3553 at Ao Station.jpg|thumb|加古川線の103系3550番台([[粟生駅]]、2018年)]]
2004年12月19日の[[加古川線]]の電化に合わせて、103系のワンマン化改造車3550番台の2両編成8本が[[JR西日本125系電車|125系]]新造車4両とともに投入され、[[厄神駅]]に隣接する[[加古川鉄道部]]に配置された<ref name="毛呂2012_p186" />。3550番台は体質改善40N工事済の0番台中間電動車ユニットの先頭車化改造車であり、森ノ宮電車区や奈良電車区からの転入である<ref name="rf200408_p95" />。加古川鉄道部は2009年7月に網干総合車両所の加古川派出所<ref name="rp201801_p72" />となった。車体塗装はエメラルドグリーン(青緑1号)。

103系の定期運用区間は[[加古川駅|加古川]] - [[西脇市駅|西脇市]]間であり、西脇市 - [[谷川駅|谷川]]間の定期運用は125系のみである<ref name="rp201801_p72" />。103系は通勤通学時間帯を中心に運用され、日中は125系単行が主体となっている<ref name="rp201801_p72">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。72頁。</ref>。西脇市 - 谷川間では125系の代走として使用されたことがあるほか<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/237715/ 【JR西】加古川線北部(谷川口)で103系が代走] RMニュース(鉄道ホビダス)、2011年9月1日。</ref>、団体臨時列車「歌声列車」として入線した実績がある<ref>[https://railf.jp/news/2015/01/19/180000.html 加古川線で103系による「歌声列車」運転] 鉄道ニュース(railf.jp)、2015年1月19日。</ref>。

2004年の電化当時より、103系の4編成で[[西脇市]]出身の[[美術家]]、[[横尾忠則]]によるデザインのラッピングが行われ、2012年まで運転された<ref>[https://railf.jp/news/2012/11/19/110000.html 加古川線でラッピング列車「走れ!Y字路」の最終運行] 鉄道ニュース(railf.jp)、2012年11月19日。</ref>。

2020年(令和2年)現在、運行中の103系エメラルドグリーン色(青緑1号)車両の唯一の配置線区となっている。

==== 播但線 ====
[[ファイル:Series103 Bantan-line.jpg|thumb|200px|播但線の103系3500番台([[溝口駅]]-[[香呂駅]]、2018年)]]
[[ファイル: JRW 103 base version sky blue Bantan Line Himeji Station 2006-03-27.jpg|thumb|200px|0番台6両編成(2006年)]]
1998年3月14日に[[播但線]]の[[姫路駅|姫路]] - [[寺前駅|寺前]]間が電化されるのに合わせ、103系のワンマン化改造車3500番台の2両編成9本が投入され、[[網干総合車両所]]に配置されている<ref name="rp201801_p74">日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、電気車研究会。74頁。</ref>。クモハ103形2500番台を含むユニットが種車であり、奈良電車区や日根野電車区から転入した<ref name="毛呂2012_p171" /><ref name="毛呂2012_p175" />。

2両編成のほか、2編成併結による4両編成の運用もあり、姫路・[[福崎駅|福崎]]・寺前の各駅では分割併合作業も行われる<ref name="rp201801_p74" />。

2019年以降の検査出場にて、全編成の床下が台車のみ灰色塗装となった。2020年出場のBH3編成のみ、尾灯がクリアレンズに変更されている<ref>{{cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/11/08/194500.html|accessdate=2024-12-07|title=103系3500番代BH3編成の台車が灰色に|publisher=鉄道ファン・[[交友社]]}}</ref>。2024年6月のBH3編成より、冷房装置がWAU709Aに更新されている<ref>{{cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2024/06/27/071500.html|accessdate=2024-12-07|title=103系3500番代BH3編成が試運転を実施|publisher=鉄道ファン・[[交友社]]}}</ref>。

1998年の電化開業以来、播但線では朝ラッシュ時に本線からの応援車両として宮原電車区の113系6両編成、後に網干総合車両所の[[JR西日本221系電車|221系]]6両編成が1往復運用されていたが、2006年3月26日の姫路駅山陽本線ホームの高架化で山陽本線と播但線の行き来が複雑になり、この運用が独立した<ref name="rf200701_p44" />。2006年3月18日より、日根野電車区から網干総合車両所に転属した103系0番台の6両編成1本が播但線での運用を開始した<ref name="rp200607_p126">「JR西日本103系の動き」『鉄道ピクトリアル』2006年7月号(通巻777号)、電気車研究会。126頁。</ref>。

転入した103系0番台はクハ103-15ほか6連<ref group="注">寺前方からクハ103-15 + モハ103-15 + モハ102-15 + モハ103-16 + モハ102-16 + クハ103-16。元は中間に延命N40工事を受けたサハ102-10・13も組み込まれていたが、転出時に廃車。</ref>で、編成番号はR10編成となった<ref name="rf200701_p44">来住憲司「JR西日本 103系現況」『鉄道ファン』2007年1月号、p.44。</ref>。塗装はスカイブルーのままで、平日朝ラッシュ時に運用される<ref name="rp200607_p126" />。所属標記は「神ホシ」に変更されたが、塗装変更はされず、[[1999年]]10月に次ぐ[[日本の鉄道車両検査|全般検査]]は行われなかった<ref name="rp200607_p126" />。

103系0番台6両編成は、2006年11月に[[JR西日本223系電車|223系2000番台]]4次車の投入で運用に余裕が発生した113系6両編成に変更されるまで運用された。全車最初期の[[1964年]]製造で老朽化が進んでいたため、2006年12月15日付で廃車された。
{{-}}

==== 岡山地区 ====
下関地区と同様に[[国鉄115系電車|115系]]非冷房車を置換えるため、[[1994年]]より広島支社に続いて[[西日本旅客鉄道岡山支社|岡山支社]]にも投入、同年4月25日より営業運転を開始した<ref>鉄道ファン1997年5月号 54頁</ref>。[[岡山電車区]]に4両編成5本20両配置で、[[山陽本線]]岡山地区や[[宇野線]]などで運用された。

塗装は独自の「マスカット色」に変更された。薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というもので、薄緑は[[マスカット (ブドウ)|マスカット]]が[[岡山県]]の名産品の1つであることに由来している。

{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|+ 1994年岡山地区転入編成構成
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|クハ103
|モハ103
|モハ102
|クハ103
|}
編成構成はすべて0番台でクハ103形は1次改良型と初期量産冷房車、中間車も1971年以降のユニット窓装備車で統一された。[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は全車一般的なAU75形を搭載する。中間MM'ユニット3組は延命N40工事車、他の14両は延命N工事車で、戸袋窓は全車とも閉塞施工済である。

長らく20両で推移したが、[[2004年]]に[[国鉄213系電車|213系]]「マリンライナー」の転用により運用離脱し、3編成が広島支社に、N40施工MM'ユニット1組が[[奈良電車区]]に転属し、MM'ユニットと編成を組成していたクハ2両は廃車された。広島地区への転属車両もしばらくはマスカット色で残り、瀬戸内色の車両と共通運用されていた。

残存1編成は2005年10月改正で定期運用を失い<ref> 『鉄道ファン』 交友社、2006年3月 P.172 </ref>予備車とされたが[[2006年]]に廃車され、完全に運用を離脱していた。その直後に[[アーバンネットワーク]]での車両置換えに伴い、奈良電車区・日根野電車区からの余剰車が転入して、本系列の運用が再開された。

{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|+ 2006年岡山地区転入編成構成
|-style="border-top:solid 3px #c00;"
|クモハ103
|モハ102
|サハ103
|クハ103
|}
1994年転入車と同じ0番台であるが、クモハ103形を含む編成構成かつ初期車の率が高く、1編成は戸袋窓が存置されていた。その後も車両交換があり、1994年転入車と同構成の編成も在籍するようになった。ただし、塗装は統一されていない。2008年末からは、広島運転所からの転入も行われたが、こちらも塗装変更は未施工のままである。なお岡山地区から103系は引退している<ref>『鉄道ファン』 交友社、2009年3月 P.193</ref>。

2010年3月の定期運用終了後も、代走や臨時列車での運転があったが<ref>[https://railf.jp/news/2010/08/08/124800.html 岡山電車区の103系が花火臨に] 鉄道ニュース(railf.jp)、2010年8月8日。</ref>、2010年12月までに廃車となり、岡山地区の103系は消滅した<ref name="毛呂2012_p190">毛呂信昭『103系物語』190頁。</ref>。

<gallery>
ファイル:JNR M103-497.jpg|モハ103-497<br/>1994年転入車
ファイル:JNR 103 oka H17.JPG|H17編成<br/>日根野電車区転入車
ファイル:JNR 103 oka H18.JPG|H18編成<br/>奈良電車区転入車
ファイル:JNR 103 oka H19.JPG|H19編成<br/>広島運転所転入車
</gallery>

==== 広島・下関地区 ====
[[ファイル:広島_D-01編成.jpg|thumb|クモハ103-48を擁する広島D-01編成(2015年廃車)]]
115系非冷房車の置き換えを目的として下関運転所に転属した103系は、[[1992年]]5月から運用開始したが、[[列車便所|トイレ]]を装備した近郊型電車に置き換えられ、1993年に[[広島運転所]]に転属した。以降は広島地区の[[山陽本線]]・[[呉線]]・[[可部線]]での運用となった。

2002年にクモハ-モハ-サハ-クハの4両編成3本がサハを脱車した3両編成となり、呉線の快速列車「[[安芸路ライナー]]」のワンマン運転用としてワンマン化改造が施工された<ref name="rp201801_p112" />。脱車されたサハは日根野電車区へ転属している。2008年にはこの3両編成3本のクハ103(86・170・171)にトイレが新設され、側面方向幕が移設されている<ref name="rp201801_p112" />。

4両編成は2007年から関西地区で余剰となった113系に順次置換えられ、2011年3月1日のE-07編成の廃車をもって全廃となった。残る3両編成3本は、2012年から2015年にかけて車体塗装が濃黄色の単色に変更された<ref name="rp201801_p129" />。この塗装は2009年度以降のJR西日本の地域色の1つで、瀬戸内地方の豊かな海に反射する陽光をイメージしたものである。床下機器もグレー一色に塗装された<ref>[http://railf.jp/news/2012/12/12/140000.html 103系D01編成が黄色一色で出場] - 『鉄道ファン』 交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2012年12月12日</ref>。

3両編成は[[JR西日本227系電車|227系]]への代替により2015年3月14日に全車が運用離脱、広島地区から103系が完全撤退した。運用離脱後の103系は[[下関総合車両所]]本所に回送され<ref>[https://railf.jp/news/2015/03/15/185500.html 103系D-03+D-02編成が下関へ] 鉄道ニュース(railf.jp)、2015年3月15日。</ref>、その後に解体された。

=== 九州地区 ===
==== 筑肥線 ====
[[ファイル:虹ノ松原と筑肥線103系.jpg|thumb|筑肥線の103系(2019年)]]
[[1983年]][[3月22日]]に[[筑肥線]][[姪浜駅|姪浜]] - [[唐津駅|唐津]]間、[[唐津線]]唐津 - [[西唐津駅|西唐津]]間が直流電化され、[[福岡市地下鉄空港線]]との相互直通運転を開始した<ref name="rp201801_p62">大塚孝「筑肥線近代化の主役 103系電車」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、62頁。</ref>。国鉄では相互直通用車両として103系1500番台の9編成54両が投入された<ref name="rp201801_p61">大塚孝「筑肥線近代化の主役 103系電車」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、61頁。</ref>。編成番号は3両単位で付与されており、E1 - E18編成となっている<ref name="rp201801_p61" />。

配置区所は西唐津機関区に仮配置とされたが、電化開業と同時に唐津運転区が開設され、103系は正式に同区の所属となった<ref name="rp201801_p62" />。名称は民営化後の1991年に唐津運輸区、1997年に[[唐津鉄道事業部]]唐津運輸センターと経て、2011年4月1日より唐津車両センターへ改称された<ref name="rp201801_p62" />。

1989年より、輸送量の少ない筑前前原以西で3両編成の運転が開始された。2000年からは筑前前原以西でワンマン運転が開始され、3両編成が駅収受タイプのワンマン対応車となった<ref name="rp201801_p63">大塚孝「筑肥線近代化の主役 103系電車」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、63頁。</ref>。2002年度末からは6両編成を含む全編成にトイレが設置された<ref name="rp201801_p63" />。

[[1995年]]10月28日の[[美咲が丘駅]]の開業に合わせて103系の塗装変更が開始され、前面が赤、側面が銀と扉部の赤を基調とした塗装となった<ref name="rp201801_p62" />。当初はシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)であったが、2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという[[JR九州303系電車|303系]]に準じたカラーリングの車両も登場している。

地下鉄空港線([[姪浜駅]]を含む、以下同様)には2004年までに[[ホームドア]]が設置されており、その動作には本来[[自動列車運転装置]] (ATO) 内にある[[定位置停止装置]] (TASC) 、ホームドア開閉を連動する戸閉制御切替装置などが必要とされる。しかし本番台にはこれらの機器は搭載されておらず、地下鉄区間に乗り入れる際は必ず車掌が乗務し、停止位置は運転士が目視で調整、ホームドアは車掌がホーム設備のスイッチで操作していた。

本来の製造目的であった地下鉄区間への乗り入れは、VVVFインバータ制御でATOを搭載する[[JR九州303系電車|303系]]の導入・増備時に車両運用を見直したことから、[[JR九州305系電車|305系]]運用開始前の2015年1月時点では1日18往復と減少した。

E01 - E10編成は、6両編成の運用において、検査などで編成の一方が運用を離脱したときには、両方のまたは一方の編成をE11 - E18編成で補ったことがあった。後者の場合でも幌枠のある先頭車(クモハ)が中間車(モハ)と連結され、貫通幌は通常どおりに使用可能であった。

地下鉄乗り入れの末期には、主に夏季を中心に地下鉄線内でのトラブルが続発した。2011年7月1日、[[大濠公園駅]]到着時に主回路故障、き電停止が発生し、所定停止位置より約10 m過ぎて停車、さらに煙が出ているとの通報があったため、乗客を地上部まで避難させる事態となった。原因は減流抵抗器内碍子に塵埃等が付着し、碍子の絶縁が低下したことで抵抗体の一部に電流が流れ、溶損に至ったというものであり、減流抵抗器内碍子の一斉点検を行い、不良の碍子を取り替えるなどの対策が講じられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway/safety/pdf/h24.pdf|title=安全報告書 平成24年|publisher=福岡市交通局|accessdate=2016-3-15}}</ref>。2012年7月29日には、[[唐人町駅]]で床下から火花と煙が出ているとの通報があり、運行を中止するトラブルが発生した。原因は、主制御器内にあるモーター電流を安全に遮断するためのタイミングを調整するタイマーリレーの不具合により、温度上昇で誤作動を起こし、モーター電流を完全に遮断する断流器にある減流抵抗器<ref group="注">断流器を流れる大電流を遮断すると、断流器内の電極が離れているのにもかかわらず、アークと呼ばれる閃絡現象が起こり、電流が流れ続けようとする現象が起こるため、大電流を遮断する前に、一旦減流抵抗器を回路に直列に挿入して、電流値をある程度少なくしてから遮断を行う減流遮断方式に使用される抵抗器である。</ref>に過大な電流が流れて焦損したためであり、JR九州は全編成のタイマーリレーを交換するなどの対応を行った<ref>{{Cite web|和書|url=http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_apps/upload/relpdfs/20130912101931.pdf|title=地下鉄空港線唐人町駅で発生した車両故障への対応の実施について|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2015-2-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140723100920/http://subway.city.fukuoka.lg.jp/subway_apps/upload/relpdfs/20130912101931.pdf|archivedate=2014-07-23}}</ref>が、同年9月には地下鉄線内で照明が消えて非常灯が点灯し、またしても運行を中止するトラブルが起こり、事態を重く見た[[福岡市交通局]]はJR九州に対して103系の早期更新を要請した<ref>西日本新聞 2012年9月8日</ref>。

このため2015年2月5日より筑肥線・福岡市地下鉄直通運転向け新型車両[[JR九州305系電車|305系]]の運行を開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www13.jrkyushu.co.jp/NewsReleaseWeb.nsf/Search/E867C26B516AF65D49257C71003FA85F?OpenDocument|title=平成26年春 筑肥線ダイヤ改正|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2014-1-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140220055154/http://www13.jrkyushu.co.jp/NewsReleaseWeb.nsf/Search/E867C26B516AF65D49257C71003FA85F?OpenDocument|archivedate=2014-02-20}}</ref>、同年3月14日のダイヤ改正までに計画の6編成36両が出揃った。これに伴い、2015年3月をもって本系列による福岡市営地下鉄空港線への乗り入れ運用は終了し、以後は筑前前原 - [[西唐津駅|西唐津]]間のみで運用されている。

305系投入と前後して、E02編成<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2014/12/05/173000.html|title=103系E02編成が配給輸送される|work=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] railf.jp 鉄道ニュース|date=2014-12-05|accessdate=2015-04-03}}</ref>・E01編成<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2015/02/06/160000.html|title=103系E01編成が小倉総合車両センターへ|work=鉄道ファン railf.jp 鉄道ニュース|date=2015-02-06|accessdate=2015-04-03}}</ref>・E03+E04編成<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2015/02/11/093000.html|title=103系E03+E04編成が小倉総合車両センターへ|work=鉄道ファン railf.jp 鉄道ニュース|date=2015-02-11|accessdate=2015-04-03}}</ref>・E05 + E06編成<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2015/02/22/163000.html|title=103系E06+E05が門司港へ|work=鉄道ファン railf.jp 鉄道ニュース|date=2015-02-21|accessdate=2015-04-03}}</ref>・E07 + E08編成<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2015/03/12/170000.html|title=103系E07+E08編成が門司港へ|work=鉄道ファン railf.jp 鉄道ニュース|date=2015-03-12|accessdate=2015-04-27}}</ref>が順次[[小倉総合車両センター]]へ配給回送されており、E01・E02編成の6両は2014年度中に廃車となり、その他の6両編成もすべて保留車となっている<ref>{{Cite journal|和書|year=2013|month=7|volume=53|issue=7|title=JR旅客会社の車両配置表|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]](別冊付録)|pages=32,48|publisher=[[交友社]]}}</ref>。

== 試験 ==
103系をベースにしていくつかの車両試験がおこなわれた。

=== チョッパ制御試験 ===
103系が量産を開始した直後から、[[電機子チョッパ制御]]の試験などが活発化し、[[1970年]](昭和45年)に[[阪神電気鉄道]]の[[阪神7001・7101形電車|7001・7101形]]が日本で最初のチョッパ制御営業車として運転を始めた<ref>刈田威彦(メトロ車両(株)代表取締役 元帝都高速度交通営団地下鉄車両部車両課)「電機子チョッパ制御の開発と車両制御技術」『鉄道ピクトリアル』1999年3月号、電気車研究会、pp.10 - 18。{{NAID|40002500315}}</ref>。国鉄でも[[1967年]](昭和42年)に101系を用いたチョッパ試験テストを行なったほか、103系を母体にして[[1969年]](昭和44年)11月23日から12月1日までモハ103-59に取り付けて根岸線で試験を行なったほか、[[1974年]](昭和49年)7月にもモハ103-57に取り付けて根岸線で試験を行なった<ref>福原俊一ほか2名『103系・301系通勤形直流電車』2000年8月1日、エアロエージェンシー、pp.126 - 127。</ref>。
{{main|電機子チョッパ制御#日本国有鉄道による試験}}

=== VVVF試験 ===
JR東日本では[[1990年]](平成2年)度から既存の抵抗制御車に対してのVVVF制御改造について研究を進めていたが[[1992年]](平成4年)2月にJR東日本のクモハ103-87を東芝府中工場で[[可変電圧可変周波数制御|VVVF]][[インバータ]]装置と901系のモーター等の搭載改造をおこないJR大船工場で現車試験を行った<ref>久保彰子(JR東日本東京地域本部運輸車両部検修課)「103系電車のVVVF改造(1)」『電車』1992年10月号、交友社、pp.60 - 63。</ref>。

JR東海でも、1990年8月に処分保留のクモハ103-4にVVVFインバータ装置を取り付け、クモハ103-4 + モハ102-77 + クハ103-88の3両編成を組んだ<ref name="Journal-1991-4">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1991年4月号RAILWAY TOPICS、p.109。</ref>。1990年9月3日 - 12月7にかけて[[東海道線 (名古屋地区)|東海道線]]や[[中央線 (名古屋地区)|中央西線]]で夜間を中心に走行試験を実施した<ref name="Journal-1991-4"/>。

=== DDM試験 ===
JR東日本が開発中であった[[ダイレクトドライブ|ダイレクトドライブ・モーター]](直接駆動電動機)をモハ103-502に搭載し、耐久試験を行った<ref name="JR-EAST-TECH-083142">東日本旅客鉄道『JR EAST Technical ReviewL』No.08 - Summer 2004 特集論文-2「{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_8/Tech-no.8-31-42.pdf 駆動電動機の革新(直接駆動式主電動機システムの開発まとめ)」]}}」pp.31 - 42。</ref><ref name="rp201801_p100">前納・永尾・芳田「103系改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、100頁。</ref>。これは[[試験車]]である[[JR東日本E993系電車|E993系]](ACトレイン)では、営業車両と異なり長期間の走行による耐久試験ができないことから選ばれたもので、京葉線で約10万 km走行させることを目標とした<ref name="JR-EAST-TECH-083142"/>。


[[永久磁石同期電動機]]駆動用制御装置としてIGBT素子によるVVVFインバータ化も同時施工されE993系との比較実験もされたが<ref name="JR-EAST-TECH-083142"/>、実験の終了に伴い廃車された。乗り心地に配慮して電動機の特性は103系に合わせられていた<ref name="JR-EAST-TECH-083142"/>。同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。この時の試験車両は武蔵野線で使用されていたクモハ103-104<ref name="rp201801_p100" />・モハ102-230である。
現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート([[排障器]])が設置され、元[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|都営6000形]]とともに、日本の[[政府開発援助|ODA・政府開発援助]]により整備された[[ジャカルタ]][[ジャボデタベック|首都圏]]の[[KRLジャボタベック|通勤電車]]で、有料の急行 (Ekspres) 、準急(Semi Ekspres, 2008年に種別廃止)およびEkonomi AC(2007年新設)用として使用されている。


モハ103-502は2002年6月28日付で大宮工場にてDDMの搭載と制御装置のVVVF化が行われ、2003年5月15日から12月にかけて京葉線で旅客営業運転が行われた<ref name="rp201801_p100" />。DDMは2006年3月に製造された[[JR東日本E331系電車|E331系]]の量産先行車でも採用されたが、量産車は登場しなかった<ref name="rp201801_p100" />。
当初、塗装は武蔵野線のオレンジのまま使用されていたが、その後窓周りが黄色のツートンに塗られた。現在はさらに新たな塗装に変更されている。また、現地でも'''JR 103'''と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している模様である。ただし、「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。


== 訓練機械 ==
行先表示は<!--元都営・東急車と同様に←一部では行先表示器を使用している-->前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用しない。またJR時代の行先表示幕を掲げたまま走行していることもある。この他、車内には東京・首都圏の路線図がそのまま掲出されているなど、JR当時の装備が至るところで散見できる。また、前面窓に投石対策として金網が取り付けられた。現在ではおもにジャカルタコタ - タンゲラン (Tangerang) 方面のEkspres, Ekonomi AC<!--およびブカシ線のSemi Ekspres←2008年で種別廃止-->に使用されている。
[[File:JRE-103_Higashiōmiya-Training_car.jpg|thumb|103系改造の訓練機械<br/>2008年]]
JR東日本では、前述した訓練車のほか廃車となった車両を改造して訓練機械としたものが存在する。こちらは機械扱いであることから車籍はない。老朽化が進み、非冷房であった101系改造の訓練機械を置き換えるため、1996年3月に[[大宮総合車両センター東大宮センター#東京・大宮総合訓練センター|東京・大宮総合訓練センター]](大宮総合車両センター東大宮センター構内)へ投入された<ref name="rf_199610">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年10月号 通巻426号 p.62 - 63</ref>。改造種車となったのは元豊田電車区所属のクモハ103-100 + モハ102-224である<ref name="rf_199610"/>。2両編成とするために、モハ102については同じく廃車となった浦和電車区のクハ103-332の前頭部を利用して先頭車化されている<ref name="rf_199610"/>。塗装はクリーム色に黄緑色の帯を配し、前面窓の周囲は黒色に塗られている<ref name="rf_199610"/>。
車端部は訓練教官が着席する指令室を設置し、各運転台へはテレビカメラを設置している<ref name="rf_199610"/>。保安装置については、クモハ103-100側がATS-PおよびATS-SN、モハ102-224側がATC(模擬装置)とATS-SNを装備している<ref name="rf_199610"/>。2008年に209系改造の訓練機械に置き換えられ、その後解体された。


== 車両 ==
== 塗 ==
{{色|節}}
{{色|節}}
101系と同様に、103系では車両塗色に[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]が制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は[[マンセル・カラー・システム|修正マンセル記号]]である。また、JR設定色は塗料も含めすべて公式な呼称が存在しないため最も一般的と思われる呼称で紹介している。
101系と同様に、103系では車両塗色に[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]が制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は[[マンセル・カラー・システム|修正マンセル記号]]である<ref>「車輌の塗色」『JR全車両ハンドブック』、企画室ネコ、レイルマガジン1989年2月増刊、pp.296-298。</ref>。また、JR設定色は公式な呼称が存在しないため最も一般的呼称で紹介している。


* なお、一部に車両の転属などで各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。
なお、一部各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。
** この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。


=== 基本5色 ===
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; float:center; margin:0px;"
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; float:center; margin:0px;"
!色
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!現在の運用線区〔 〕は所属
!過去の運用線区〔 〕は所属
!過去の運用線区〔 〕は所属
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|ウグイス{{Color|#C0FF00|■}}<br />([[黄緑6号]] 7.5GY6.5/7.8)
|ウグイス{{Color|#C0FF00|■}}<br/>([[黄緑6号]] 7.5GY6.5/7.8)
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*[[関西本線]][[大和路線]])・[[奈良線]]・[[和歌]]・[[桜井線]]〔[[奈良電車区]]
* [[山手線]]〔品川電車区→[[東京総合車両センター|手電車区]]・池袋電車区〕
* [[埼京線]]・[[川越線]]・[[八高線]]〔川越電車区→[[川越車両センター]]〕
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*[[山手線]]〔品川電車区→[[東京総合車両センター|山手電車区]]・池袋電車区〕
* [[横浜線]]・根岸線〔[[東神奈川電車区]]・蒲田電車区→蒲田電車区〕
*[[埼京線]][[川越線]]・[[八高線]]〔川越電車区→[[川越車両センター]]
* [[大阪環状線]][[奈良電車区]]吹田総合車両所奈良支所
*[[横浜線]]・根岸線〔[[東神電車区]]
* [[おおさか東線]]・[[和歌山]]〔奈電車区→総合両所奈良支所
* [[関西本線]]([[大和路線]])・[[奈良線]]・[[桜井線]](万葉まほろば線)〔[[奈良電車区]]→吹田総合車両所奈良支所〕
|[[ファイル:JNR EC T103-318.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC T103-318.jpg|none|150px]]
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|スカイブルー{{Color|#0080FF|■}}<br />([[青22号]] 3.2B5/8)
|スカイブルー{{Color|#0080FF|■}}<br/>([[青22号]] 3.2B5/8)
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*[[阪和線]]・[[紀勢本線]](きのくに線)〔[[日根野電車区]]〕
*山陽本線・[[宇野線]]・[[伯備線]]・[[福塩線]]・[[赤穂線]]〔[[岡山電車区]]〕
*[[山陽本線]]([[和田岬線]])〔[[網干総合車両所]]〕
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*[[和歌山線]]〔日根野電車区〕
* [[仙石線]]〔陸前原ノ町電車区→宮城野電車区〕
*[[仙石線]]〔陸前原ノ町電車区→宮城野電
* [[京葉線]]・[[外房線]]・[[東金線]]〔京葉電車区→[[京葉両センター]]
*[[京線]]・[[外房線]]・[[東金線]]〔京葉電車区[[京葉両センター]]〕
* [[京浜東北線]]・[[根岸線]]・横浜線〔[[浦和電車区]]・[[下十条運転区|下十条電車区]]・[[蒲田電]]・東神奈川電車区
** 横浜線はのちにラインカラーを上記の黄緑6号に変更。
*[[京浜東北線]]・[[根岸線]]・横浜線〔[[浦和電車区]]・[[下十条運転区|下十条電車区]]・[[蒲田電車区]]・東神奈川電車区〕
* [[中央本線|中央西線]]〔[[神領車両区|神領電車区]]〕
**横浜線はのちにラインカラーを上記の黄緑6号に変更。
*[[中央本線|中央西線]]〔[[神領車両区|神領電車区]]〕
* [[阪和線]]〔[[日根野電車区]]→吹田総合車両所日根野支所
*[[東海道本線]]・山陽本線([[JR京都線]]・[[JR神戸線]][[京阪神緩行線]])〔[[明石電車区]]→網干総合車両所・高槻電車区〕
* [[和歌山線]]・[[紀勢本線]](きのくに線)〔日根野電車区〕
* [[東海道本線]]・山陽本線([[JR京都線]]・[[JR神戸線]] : [[京阪神緩行線]]・[[和田岬線]])〔[[明石電車区]]→網干総合車両所・高槻電車区〕
* [[福知山線]](JR宝塚線)〔宮原運転所→[[宮原総合運転所]]〕201系進出により1998年からカナリアイエローから変更。
* [[播但線]]([[網干総合車両所]])
* [[播但線]]([[網干総合車両所]])
* 山陽本線・[[宇野線]]・[[伯備線]]・[[福塩線]]・[[赤穂線]]〔[[岡山電車区]]〕
|[[ファイル:JNR EC M103-140.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC M103-140.jpg|none|150px]]
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|エメラルドグリーン{{Color|#007b43|■}}<br />([[青緑1号]] 2BG5/8)
|エメラルドグリーン{{Color|#007b43|■}}<br/>([[青緑1号]] 2BG5/8)
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* [[常磐快速線|常磐線快速]]・[[成田線|成田線我孫子支線]]〔松戸電車区→[[松戸車両センター]]〕
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* [[常磐快速線|常磐線(快速)]]・[[成田線|成田線我孫子枝線]]〔松戸電車区→[[松戸車両センター]]〕
|[[ファイル:JNR EC M102-430.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC M102-430.jpg|none|150px]]
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|オレンジバーミリオン{{Color|#FF2500|■}}<br />([[朱色1号]] 0.5YR3/8.8)
|オレンジバーミリオン{{Color|#FF2500|■}}<br/>([[朱色1号]] 0.5YR3/8.8)
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*[[大阪環状線]]・[[桜島線]](JRゆめ咲線)・関西本線(大和路線)〔[[森ノ宮電車区]]〕
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*[[武蔵野線]]〔[[豊田車両センター|豊田電車区]]→京葉車両センター〕
* [[武蔵野線]]〔[[豊田車両センター|豊田電車区]]→京葉車両センター〕
*[[中央線快速]]〔豊田電車区・[[三鷹車両センター|三鷹電車区]]〕
* [[中央線快速]]〔豊田電車区・[[三鷹車両センター|三鷹電車区]]〕
*[[青梅線]]・[[五日市線]]〔豊田電車区〕
* [[青梅線]]・[[五日市線]]〔豊田電車区〕
*[[片町線]](学研都市線)〔[[淀川電車区]]〕
* [[片町線]](学研都市線)〔[[淀川電車区]]〕
* 関西本線(大和路線)〔森ノ宮電車区→吹田総合車両所森ノ宮支所〕
* [[大阪環状線]]・[[桜島線]](JRゆめ咲線)〔[[森ノ宮電車区]]→吹田総合車両所森ノ宮支所〕
|[[ファイル:JNR EC T102-2.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC T102-2.jpg|none|150px]]
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|カナリアイエロー{{Color|#FFF500|■}}<br />([[黄5号]] 2.5Y7.5/8.8)
|カナリアイエロー{{Color|#FFF500|■}}<br/>([[黄5号]] 2.5Y7.5/8.8)
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* [[鶴見線]]〔[[中原電車区]]〕
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*[[鶴見線]]〔[[中原電車区]]〕
* [[中央・総武緩行線]]〔津田沼電車区→[[習志野運輸区|習志野電車区]]・三鷹電車区
* [[赤羽線]]〔池袋電車区〕
*[[中央・総武緩行線]]〔津田沼電車区→[[習志野運輸区|習志野電車区]]・三鷹電車区〕
*[[赤羽線]]〔池袋電車区〕
* [[南武線]]〔中原電車区〕
*[[南武線]]〔電車区
* [[福知山線]](JR宝塚線)運転所→[[宮原総合運転所]]
*[[福知山線]](JR宝塚線)〔宮原運転所→[[宮原総合運転所]]〕
|[[ファイル:JRE-EC103.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JRE-EC103.jpg|none|150px]]
|}
|}
* 以上5種類は車体すべてを一色で塗装するものである。
* 以上5種類は車体すべてを一色で塗装するものである。


==== 地下鉄対応車両 ====
=== 地下鉄対応車両 ===
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{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; float:center; margin:0px;"
!色
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!過去の運用線区〔 〕は所属
!過去の運用線区〔 〕は所属
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|シルバーグレー([[灰色8号]] N7)<br />+エメラルドグリーン(青緑1号 2BG5/8){{Color|#E7E7E8|■}}{{Color|#009786|■}}
|シルバーグレー([[灰色8号]] N7)<br/>+ エメラルドグリーン(青緑1号 2BG5/8){{Color|#E7E7E8|■}}{{Color|#009786|■}}
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*[[常磐緩行線|常磐線緩行]]・[[東京地下鉄千代田線|東京地下鉄千代田線]]〔松戸電車区〕
* [[常磐緩行線|常磐線緩行]]・[[東京メトロ千代田線|営団地下鉄千代田線]]〔松戸電車区〕
|[[ファイル:JNR EC Tc103-1013.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Tc103-1013.jpg|none|150px]]
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|シルバーグレー(灰色8号 N7)<br />カナリアイエロー(黄5号 2.5Y7.5/8.8){{Color|#E7E7E8|■}}{{Color|#FFF500|■}}
|シルバーグレー(灰色8号 N7)<br/>+ カナリアイエロー(黄5号 2.5Y7.5/8.8){{Color|#E7E7E8|■}}{{Color|#FFF500|■}}
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|[[ファイル:JNR EC Mc102-1202.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Mc102-1202.jpg|none|150px]]
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|シルバーグレー(灰色8号 N7)<br />スカイブルー(青22号 3.2B5/8){{color|#E7E7E8|■}}{{color|#0080FF|■}}
|シルバーグレー(灰色8号 N7)<br/>+ スカイブルー(青22号 3.2B5/8){{color|#E7E7E8|■}}{{color|#0080FF|■}}
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* 中央・総武緩行線・[[東京地下鉄東西線|東京地下鉄東西線]]〔三鷹電車区〕
* 中央・総武緩行線 ・[[東京メトロ東西線|営団地下鉄東西線]]〔三鷹電車区〕
**直通運転開始当初の帯色はカナリアイエローだったが、[[1989年]](平成元年)より帯色をスカイブルーに変更した(直通する東西線のラインカラーに合わせた)。
|[[ファイル:JNR EC Mc102-1203.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Mc102-1203.jpg|none|150px]]
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|スカイブルー(青22号 3.2B5/8)<br />クリーム色([[クリーム1号]] 1.5Y7.8/3.3){{color|#0080FF|■}}{{color|#F7E19E|■}}
|スカイブルー(青22号 3.2B5/8)<br/>+ クリーム色([[クリーム1号]] 1.5Y7.8/3.3){{color|#0080FF|■}}{{color|#F7E19E|■}}
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*[[筑肥線]]・[[福岡市交通局|福岡市地下鉄]]空港線〔唐津運転区→[[唐津鉄道事業部#唐津運輸センター|唐津鉄道事業部唐津運輸センター]]〕
* [[筑肥線]]・[[唐津線]]・[[福岡市地下鉄空港線]]〔唐津運転区→[[唐津鉄道事業部唐津運輸センター]]〕
|[[ファイル:JNR EC Tc103-1508.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Tc103-1508.jpg|none|150px]]
|}
|}
*以上4種類は車体地色帯色の組み合わせ塗装である。
* 以上4種類は車体地色 + 帯色の組み合わせ塗装である。


=== JR設定色 ===
=== JR設定色 ===
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; float:center; margin:0px;"
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; float:center; margin:0px;"
!色
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!現在の運用線区〔 〕は所属
!現在の運用線区〔 〕は所属
!過去の運用線区〔 〕は所属
!過去の運用線区〔 〕は所属
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|九州色{{color|#afafb0|■}}{{color|#e2041b|■}}
|九州色{{color|#afafb0|■}}{{color|#e2041b|■}}
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*筑肥線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
* 筑肥線・唐津線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
** [[1995年]]10月からシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)というカラーリングに変更された。また2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという[[JR九州303系電車|303系]]に準じたカラーリングの車両も登場している。
** 写真は上が初代九州色、下が2代目九州色
** 写真は上が初代九州色、下が2代目九州色
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|&nbsp;
* 福岡市地下鉄空港線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
|[[ファイル:103-1500.jpg|none|150px]][[ファイル:JNR EC Tc103-1516.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Tc103-1504.jpg|none|150px]][[ファイル:KuHa103-1516 Chikuzen-Fukae 20060409.jpg|none|150px]]
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|仙石色□{{color|#0000AF|■}}{{color|#0080FF|■}}→□{{color|#0000AF|■}}
|仙石色□{{color|#0000AF|■}}{{color|#0080FF|■}}→□{{color|#0000AF|■}}
1,128行目: 3,572行目:
* 仙石線〔陸前原ノ町電車区→宮城野電車区〕
* 仙石線〔陸前原ノ町電車区→宮城野電車区〕
** 塗装が2回変わっている。詳細は[[仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両]]を参照。
** 塗装が2回変わっている。詳細は[[仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両]]を参照。
** 写真は上が初代仙石色、下が2代目仙石色
** 写真
*** 上:初代仙石色(クハ103形500番台・AU712形冷房機を搭載している)
*** 下:2代目仙石色(クモハ103形・簡易版仙石線リニューアル工事が施行されている)
|[[ファイル:JNR EC Tc103-580.jpg|none|150px]][[ファイル:JNR EC Mc103-155.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Tc103-580.jpg|none|150px]][[ファイル:JNR EC Mc103-155.jpg|none|150px]]
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|東海色{{color|#f8f4e6|■}}{{color|#FF2500|■}}{{color|#008000|■}}
|東海色{{color|#f8f4e6|■}}{{color|#FF6600|■}}{{color|#008000|■}}
|&nbsp;
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*中央西線・関西本線〔最終配置神領電車区〕
* 中央西線・関西本線〔最終配置 : 神領電車区〕
** リフレッシュ工事(後述)施工車に塗られた塗装。それまでの青22号から変更された。クリーム色をベースに、窓下にオレンジと緑色(「湘南色」、または「JR東海色」ともいう)の帯が入る。床下機器もグレー一色に塗装された。
** 写真はクハ103形。
|[[ファイル:JNR EC Tc103-77.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Tc103-77.jpg|none|150px]]
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1,144行目: 3,584行目:
|&nbsp;
|&nbsp;
|
|
*山陽本線(岡山地区)
* 山陽本線(岡山地区・広島地区)
** 薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というものだった。薄緑は[[マスカット (ブドウ)|マスカット]]が[[岡山県]]の名産品の1つであることに由来している。
** 写真はクハ103形。戸袋窓が閉鎖されている。
|[[ファイル:JNR EC Tc103-234.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JNR EC Tc103-234.jpg|none|150px]]
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|瀬戸内色{{color|#fff3b8|■}}{{color|#0000A0|■}}
|瀬戸内色{{color|#D6BC96|■}}{{color|#003F6C|■}}
|&nbsp;
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* [[広島シティネットワーク]]エリア(山陽本線・[[呉線]]・[[可部線]])〔[[広島運転所]]〕
* [[広島シティネットワーク]]エリア(山陽本線・[[呉線]]・[[可部線]])〔[[広島運転所]]〕
** クリーム地(クリーム1号)に青帯(青20号)が1本入る。前面行先表示器は撤去。側面行先表示器も入線当初は使用せず、[[行先票|サボ]]を使用していた。現在は[[方向幕]]を使用している。
** 写真はクモハ103形。WAU102形冷房機を搭載している。
|&nbsp;
|[[ファイル:L25_Mc103-2501_750.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:L25_Mc103-2501_750.jpg|none|150px]]
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|岡山・広島地区地域統一色{{color|#ffcc00|■}}
|瀬戸内地区地域統一色{{Color|#f8b500|■}}
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* 広島シティネットワークエリア(山陽本線・呉線・可部線)〔広島運転所〕
**JR西日本が2009年度から行っている地域に合わせた統一塗装で、瀬戸内地方の豊かな海に反射する陽光をイメージして、濃黄色の塗装が施される予定<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174601_799.html 広島支社 車体塗装の変更について]{{リンク切れ|date=2010年12月}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年12月9日</ref>。
|&nbsp;
|&nbsp;
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* [[広島シティネットワーク]]エリア(山陽本線・[[呉線]]・[[可部線]])〔[[広島運転所]]〕
|[[ファイル:JNR EC Mc103-48.jpg|none|150px]]
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|播但色[[DICカラーガイド|DIC N-727]]{{color|#DD0943|■}}
|播但色 ([[DICカラーガイド|DIC N-727]]) {{color|#DD0943|■}}
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* 播但線[[姫路駅]] - [[寺前駅]]間(網干総合車両所)
* 播但線[[姫路駅|姫路]] - [[寺前駅|寺前]]間(網干総合車両所)
** ワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレー([[DICカラーガイド|DIC N-958]])のアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には '''JR WEST JAPAN BANTAN103''' の文字が書かれている。
|&nbsp;
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|[[ファイル:JR EC Mc103-3508.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JR EC Mc103-3508.jpg|none|150px]]
1,173行目: 3,607行目:
|加古川色{{color|#00947a|■}}
|加古川色{{color|#00947a|■}}
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*加古川線([[加古川鉄道部]]→網干総合車両所)
* 加古川線([[加古川鉄道部]]→網干総合車両所)
** エメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には '''JR WEST JAPAN KAKOGAWA103''' の文字が書かれている。前面窓周りは黒色で塗装。
** 写真はクモハ102形。車両後部の窓が無い部分にトイレが設置されている。
|&nbsp;
|&nbsp;
|[[ファイル:JR EC Mc102-3554.jpg|none|150px]]
|[[ファイル:JR EC Mc102-3554.jpg|none|150px]]
1,181行目: 3,613行目:


=== ラッピング・イベント塗装 ===
=== ラッピング・イベント塗装 ===
==== 桜島線のUSJラッピング車 ====
* USJ用
森ノ宮電車区の6両編成4本が、沿線にある[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] (USJ) のPR車両として、それぞれ違ったテーマのラッピングを施された。全車両に40N体質改善工事を施工している(ユニバーサルグローブ号はラッピングと同時に施工)。2012年末までに201系と入れ替わる形で運行を終了し、24両全車両がスカイブルーまたはオレンジ色へ再塗装された。その後、225系・323系の導入により、2016年から2018年にかけて全車廃車された。
** 桜島線(JRゆめ咲線)(森ノ宮電車区)

: 沿線にある[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]の広告車。同線専用の4本がそれぞれ違ったテーマのラッピングを施されている。ラッピングは時折変更がある。ユニバーサルグローブ編成は改装時に車体が白1色に塗られており、セサミストリート編成になった現在でも妻面は白1色である。
各車両のデザイン名称とコンセプトは次の通り<ref>[https://web.archive.org/web/20010410004320/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n001220a.html 「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」− シャトル列車のデザインについて −](インターネットアーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2000年12月20日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20030618090400/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030320a.html JRゆめ咲線に新しいデザインのシャトル列車登場「セサミストリート 4−D ムービーマジック号」](インターネットアーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年3月20日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20040605170707/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/031217b.html JRゆめ咲線に新しいデザインのシャトル列車登場「アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号](インターネットアーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年12月17日</ref>。
: 以下の6枚の写真はいずれも体質改善40N工事が施行されているクハ103形のものである。
* パワーオブハリウッド号<ref group="注">←西九条 クハ103-255 + モハ103-398 + モハ102-554 + モハ103-399 + モハ102-555 + クハ103-256(全車森ノ宮の生え抜き編成)。</ref>(2001年1月-2012年3月<ref>[http://railf.jp/news/2012/03/21/123200.html 103系もと「パワーオブハリウッド」編成、日根野電車区へ転属] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2012年3月21日</ref>:スカイブルーに再塗装の上、日根野電車区へ転属。2018年6月20日付けで廃車。)
<gallery perrow="3">
** USJのメインアトラクションのキャラクターを用いて、華やかさやエキサイティングをイメージした車両。
ファイル:JNR EC Tc103-256.jpg|USJ・パワーオブハリウッド
* ウッディー・ウッドペッカー号<ref group="注">←西九条 クハ103-833 + モハ103-775 + モハ102-2032 + モハ103-782 + モハ102-2039 + クハ103-840 (ラッピング列車の運行開始に先駆け、宮原総合運転所から転属。)</ref>(2001年2月 - 2012年6月<ref>[http://railf.jp/news/2012/06/26/213000.html 103系SA2編成がオレンジ1色に] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2012年6月26日</ref>:スパイダーマン号の中間車を編入しオレンジ色に再塗装された。2018年1月22日付けで廃車。)
ファイル:JNR EC Tc103-240-2.jpg|USJ・スパイダーマン
**[[ウッディー・ウッドペッカー]]がアトラクションを紹介するリズミカルをイメージした車両。
ファイル:JNR EC Tc103-830-2.jpg|USJ・セサミストリート
* アメリカの街並風景号<ref group="注">←西九条 クハ103-799 + モハ103-504 + モハ102-660 + モハ103-396 + モハ102-552 + クハ103-240 (ラッピング列車の運行開始に先駆け、クハ103-799が奈良電車区から転属。残り5両は森ノ宮の生え抜き編成。)</ref>(2001年2月 - 2004年1月)
ファイル:JNR EC Tc103-840.jpg|USJ・ウッディー・ウッドペッカー
** 園内にあるロマンチックな街並風景をデザインした大人向けのシックをイメージした車両。
ファイル:JNR EC Tc103-830.jpg|USJ・ユニバーサルグローブ(消滅)
* ユニバーサルグローブ号<ref group="注">←西九条 クハ103-823 + モハ103-763 + モハ102-2020 + モハ103-764 + モハ102-2021 + クハ103-830(ラッピング列車の運行開始に先駆け、日根野電車区から転属。)</ref>(2001年2月 - 2003年4月)
ファイル:JNR EC Tc103-240-3.jpg|USJ・アメリカの街並風景(消滅)
** USJのロゴマークやグローブを用いてシンプルでワールドワイドをイメージした車両。
* セサミストリート 4−D ムービーマジック号(2003年4月 - 2012年10月<ref name="railf20121208">[http://railf.jp/news/2012/12/08/093000.html 103系SA1編成がオレンジ色に] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2012年12月8日</ref> :もとユニバーサルグローブ号。スパイダーマン号の中間車を編入し、オレンジ色に再塗装された。2016年10月7日付けで廃車。)
** 想像力豊かに4Dの楽しさが体験できる「セサミストリート 4−D ムービーマジック」の魅力を表現した車両。
* アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号<ref group="注">←西九条 クハ103-799 + モハ103-504 + モハ102-660 + モハ103-781 + モハ102-2038 + クハ103-240 (日根野からモハ103-781 + モハ102-2038が転属し、モハ103-396 + モハ102-552と差し替え)</ref>(2004年1月-2012年3月 :もとアメリカの街並風景号;2012年に先頭車2両は日根野電車区へ転属、中間車4両は2両ずつもとセサミストリート 4−D ムービーマジック号およびもとウッディー・ウッドペッカー号に組み込まれ、いずれもオレンジ色に再塗装された。日根野に転属した先頭車は2016年9月5日付けで廃車。)
** アトラクションのスリリングなアクションシーンをダイナミックに表現した車両。

<gallery>
ファイル:JNR EC Tc103-256.jpg|パワーオブハリウッド号
ファイル:JNR EC Tc103-240-2.jpg|アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号
ファイル:JNR EC Tc103-830-2.jpg|セサミストリート 4−D ムービーマジック号
ファイル:JNR EC Tc103-840.jpg|ウッディー・ウッドペッカー号
ファイル:JNR EC Tc103-830.jpg|ユニバーサルグローブ号
ファイル:JNR EC Tc103-240-3.jpg|アメリカの街並風景号
</gallery>
</gallery>

* 加古川線用
** 加古川線(加古川鉄道部)
==== 加古川線の横尾忠則ラッピング車 ====
加古川線用の2両編成4本には[[横尾忠則]]がデザインした車両が、加古川線が電化された2004年12月19日から運用されていた。2011年5月15日から[[日本の鉄道車両検査|全般検査]]のため順次運用を終了し<ref>[https://web.archive.org/web/20110426171150/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20110422-OYT8T01131.htm さよなら「ラッピング電車」] - 読売新聞 2011年4月23日(インターネットアーカイブ)</ref>、2012年11月18日をもって運行を終了したため、現在は全8編成が通常塗装である。各編成の運転開始日・終了日・テーマは次の通り。
: [[横尾忠則]]デザインで3551 (M1) 編成は2004年12月の運用開始時から「眼のある電車」としてチェックに目玉の(題名は「見る見る速い」)、3552 (M2) 編成は2005年12月から[[宇宙]]の(題名は「銀河の旅」)、3555 (M5) 編成は2006年3月からマーブル模様(題名は「滝の音、電車の音」)、3558 (M8) 編成は2007年6月から夜のY字路(題名は「走れ!Y字路」)のラッピングが施されている。

* アニメ・ドリームトレイン1999用
* 眼のある電車「見る見る速い」( M1 編成、2004年12月19日 - 2011年5月15日)
** 緑のある中で目立たなければならず、列車の外を眺める眼と列車を眺める人々の眼を表現するために、車体に眼がデザインされたもの。
* 「銀河の旅」( M2 編成、2005年12月18日 - 2011年6月19日)
** 加古川線の電化1周年を記念してデザインされた。
* 「滝の音、電車の音」( M5 編成、2006年3月12日 - 2011年10月10日)
** [[加東市]]発足を記念してデザインされた。
* 「走れ!Y字路」( M8 編成、2007年6月10日 - 2012年11月18日)
** [[西脇市]]の夜のY字路がモデルになっている。

4種類のラッピング以外にさらに2種類ラッピング案が存在していたが、経費不足と[[JR福知山線脱線事故]]を連想させる内容が含まれていたため、採用は見送られた<ref>[https://web.archive.org/web/20111011110533/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004538189.shtml 横尾忠則さんのデザイン2点 お蔵入り JR電車] - [[神戸新聞]]、2011年10月10日(インターネットアーカイブ)</ref>。

<gallery>
ファイル:JRW kumoha102 3551.jpg|「眼(め)のある電車」
ファイル:JRW kumoha102 3552.jpg|「銀河の旅」
File:2007-08-26 JR- Yakujin Station,Kakogawa Line JNR103系改造車両 横尾忠則「走れ!Y字路」 8260243.JPG| 「走れ!Y字路」(正面)
File:2007-08-26 JR- Yakujin Station,Kakogawa Line JNR103系改造車両 横尾忠則「走れ!Y字路」 8260234.JPG| 「走れ!Y字路」(横)
</gallery>

==== 播但線「銀の馬車道」 ====
[[ファイル:JRW EC 103-3507 ginno basha michi color.jpg|thumb|200px|銀の馬車道号<br/>(2009年2月15日 福崎 - 甘地間)]]
[[生野銀山]]([[朝来市]])と[[飾磨港]]([[姫路市]])を結ぶ約49 [[キロメートル|km]]の馬車専用道路であった[[生野鉱山寮馬車道]]、通称「銀の馬車道」をPRするためにデザインされた車両で、網干総合車両所に所属する2両編成3本にラッピングが施されている<ref>『鉄道ピクトリアル』2008年5月号、電気車研究会、p.86。</ref><ref>
[https://web.archive.org/web/20080303144410/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000857487.shtml 播但線にラッピング電車 銀の馬車道PR](インターネットアーカイブ)- 神戸新聞 2008年3月1日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140410074556/http://web.pref.hyogo.lg.jp/ch04/documents/000120252.pdf ニュースひめれん 2008年9月号] - 中播磨県民局姫路土木事務所 鉄道高架対策室(インターネットアーカイブ)</ref>。
[[ファイル:JR EC Mc103+Mc102-3506.jpg|左|400px]]
[[ファイル:JR EC Mc103+Mc102-3507.jpg|左|400px]]
[[ファイル:JR EC Mc103+Mc102-3509.jpg|左|400px]]

{{-}}

==== そのほか ====
; アニメ・ドリームトレイン1999用
: イベントに合わせて車体を旧形客車を模したぶどう色2号に塗装した。
: イベントに合わせて車体を旧形客車を模したぶどう色2号に塗装した。
* 関門・海峡物語
; 関門・海峡物語
{{節stub}}
{{節スタブ}}
; OSAKA POWER LOOP
<gallery perrow="3">
: 「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、森ノ宮電車区のLA3編成に大阪環状線沿線の街の魅力を表現したラッピングが施され<ref>[http://railf.jp/news/2014/06/02/110000.html 103系に「OSAKA POWER LOOP」ラッピング] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2014年6月2日</ref>、2014年6月1日から2017年9月7日まで運転された。2017年11月27日付けで廃車。
ファイル:JRW kumoha102 3551.jpg|加古川線・眼のある電車
::デザインは地元のFM802が担当した。
ファイル:JNR EC M103-734.jpg|アニメ・ドリームトレイン1999(モハ103形)
:
ファイル:JNR EC Tc103-207.jpg|関門・海峡物語(クハ103形・戸袋窓が閉鎖されている)
: 各車デザイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2014/05/page_5659.html|title=「大阪環状線改造プロジェクト」進行中!
ラッピング列車「OSAKA POWER LOOP」が登場します!|accessdate=2021年1月25日|publisher=}}</ref>
:: クハ103-848 歴史(作:曄田依子)
:: モハ102-650 ランドマーク(作:さくらいはじめ)
:: モハ103-494 食(作:イフクカズヒコ)
:: サハ103-370 パワースポット(作:カンバラクニエ)
:: サハ103-475 自然(作:MARUMIYAN)
:: モハ102-644 伝統芸能(作:山下良平)
:: モハ103-488 地域交流(作:寺田マユミ)
:: クハ103-841 アーバンスポット(作:HR-FM)

<gallery>
ファイル:JNR M103-734.jpg|アニメ・ドリームトレイン1999(モハ103形)
ファイル:JNR EC Tc103-207.jpg|関門・海峡物語
ファイル:JRW series103 Osaka Loop-OSAKA POWER LOOP.jpg|OSAKA POWER LOOP
</gallery>
</gallery>

<!--ノートで議論済・USJ塗装も問題なしとの見解が出ています よってノートに更なる提起が無い限りUSJ車の画像は元に戻します-->
== 事故廃車 ==
* 1970年5月20日、根岸線新杉田 - 洋光台間で下り電車が土砂崩壊に乗り上げ、前位側2両にあたるクハ103-548とモハ102-169が大破した<ref>「5月のメモ帳」『鉄道ピクトリアル』1970年7月号、電気車研究会、p.106。</ref>。その結果この2両は1971年3月27日付けで廃車<ref>「車両の動き」『鉄道ピクトリアル』1971年8月号、電気車研究会、p.88。</ref>となっている。モハ102-169とペアを組むモハ103-105は整備の上、新たに製造されたモハ102-445とペアを組んで復帰している(窓枠の異なる車両同士でのユニット)。

* 1988年12月5日、中央緩行線東中野駅構内に停車中の103系10両編成に、後続の201系10両編成が追突する事故([[東中野駅列車追突事故#3回目の事故(1988年)|東中野駅列車追突事故]])<ref>「鉄道の話題」『鉄道ピクトリアル』1989年3月号、電気車研究会、p.110。</ref>が発生した。103系の後位側9両(クハ103-277・モハ103-334・モハ102-490・サハ103-326・モハ103-21・モハ102-21・サハ103-327・モハ103-336・モハ102-492)のうち中間車8両が回復不能として1989年3月23日付け<ref>「廃車車両 (63年度)」『JR電車編成表 1989年夏号』1989年7月、ジェー・アール・アール、p.211。</ref>で、先頭車のクハ103-277が1989年7月25日付け<ref>「廃車車両 (元年度)」『JR電車編成表 1990年冬号』1990年1月、ジェー・アール・アール、p.209。</ref>で廃車となっている。

* 1994年8月3日、福知山線三田 - 新三田間で[[福知山線川除中踏切事故|上り電車がトラックと衝突]]<ref>「Feedback Monthly 1994-8」『鉄道ファン』1994年11月号、交友社、p.140。</ref>、前位側先頭車であるクハ103-839が大破した。その結果同車は1994年8月10日付けで廃車<ref>「廃車車両 (6年度上期)」『JR電車編成表 1995年冬号』1995年1月、ジェー・アール・アール、p.231。</ref>となっている。

== 譲渡車 ==
=== JR東日本からJR西日本への譲渡 ===
[[ファイル:JRE 103-MusashinoLine.jpg|thumb|譲渡前の武蔵野線E38編成(2005年6月)]]
[[ファイル:JR103keisitunaiE.jpg|thumb|200px|モハ102-841<br/>戸袋窓閉塞後車内]]
2005年4月25日の[[JR福知山線脱線事故|福知山線脱線事故]]により被災した207系の廃車および帯色変更工事、[[国鉄117系電車|117系]]の同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足した。そのためJR東日本武蔵野線で運用されていた8両編成1本が同年7月28日付でJR西日本に譲渡された。譲渡後は先頭車が広島地区で2010年まで<ref>[http://rail.hobidas.com/photo/archives/2012/05/103e-04.html 103系 広E-04編成] 随時アップ:消えた車輌写真館(鉄道ホビダス)、2012年5月28日。</ref>、中間車は阪和線や大阪環状線などで2011年まで使用された<ref>[http://rail.hobidas.com/photo/archives/2013/05/103e38.html 103系E38編成] 随時アップ:消えた車輌写真館(鉄道ホビダス)、2013年5月28日。</ref>。

{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 1em 1em 3em;"
|-
|style="width:5em;"|クハ103<br/>-828
|style="width:5em;"|モハ102<br/>-842
|style="width:5em;"|モハ103<br/>-686
|style="width:5em;"|モハ102<br/>-841
|style="width:5em;"|モハ103<br/>-685
|style="width:5em;"|モハ102<br/>-840
|style="width:5em;"|モハ103<br/>-684
|style="width:5em;"|クハ103<br/>-821
|}

同社に入籍後は、既存車と編成を組み替えられ、以下の配置経歴を持つ。
* クハ103-821・828 : 広島運転所(E04編成)
* モハ103-684 + モハ102-840 + モハ103-685 + モハ102-841 : 宮原総合運転所→日根野電車区(K801編成→K606編成)
* モハ103-686 + モハ102-842 : 森ノ宮電車区(モリ17編成)→奈良電車区(NS402編成)→日根野電車区(J404編成→J414編成)

車両不足解消後には戸袋窓閉塞工事が施工されたが、貫通扉は廃車まで窓の小さいものを装備し続けた。

2010年6月21日付でクハ103-821・828が廃車となった。また2011年3月にモハ103-686 + モハ102-842が吹田工場へ、4月にはモハ103-684 + モハ102-840 + モハ103-685 + モハ102-841も幡生工場へ廃車回送された。

=== インドネシアへの譲渡 ===
[[2004年]](平成16年)、JR東日本が武蔵野線で運用していた103系のうち、4両編成16両がインドネシアの鉄道会社PT Kereta Api(現.[[KRLコミューターライン|PT Kereta Commuter Indonesia]])(以降PT KCI)に有償譲渡された<ref name="rp201801_p159">井上幸彦「ジャカルタに渡った103系」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、159頁。</ref>。

{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="width:7em;"|クハ103-815
|style="width:7em;"|モハ103-752
|style="width:7em;"|モハ102-2009
|style="width:7em;"|クハ103-822
|-
|クモハ103-105
|モハ102-231
|サハ103-246
|クハ103-597
|-
|クハ103-359
|モハ103-654
|モハ102-810
|クハ103-384
|-
|クモハ103-153
|モハ102-321
|サハ103-210
|クハ103-632
|}

これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、後期製造車または車両更新工事施工車が選ばれた。その後は[[東急8000系電車|東急8000系]]・[[東急8500系電車|8500系]]を導入したため16両で終了となった。現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート([[排障器]]と前面窓に[[投石]]対策として[[金網]]が設置され、元[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|都営6000形]]や東京メトロ(営団)の車両とともに日本の[[政府開発援助|ODA]]により整備された[[ジャカルタ]][[ジャボデタベック|首都圏]]の通勤電車で、以前は有料の急行 (Ekspres) ・準急(Semi Ekspres/2008年に種別廃止)・Ekonomi AC(2007年新設)用として運用されていたが、営業運転終了までは冷房付各駅停車「Commuter Line」に使用されていた。

当初、塗装は武蔵野線時代のまま使用されたが、その後窓周りに黄色が塗られてツートンとなった。2008年秋頃には濃い青を基調とした新たな塗装に変更、2011年にはJR東海色を基調した塗装、運行終了まではKCI標準色で運行された。現地でも'''JR 103'''と呼ばれており、[[鉄道の車両番号|車番]]は日本での製造時から付番されていたものを[[ステンシルテンプレート|ステンシル]]で記入している。ただし、「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。行先表示は前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用しない。車内にはJR時代の路線図がそのまま掲出されている。老朽化および元JR205系の譲渡に伴い、2016年(平成28年)に運行終了した。
<gallery>
ファイル:Depok Express.JPG|1代目塗装
ファイル:Jabotabek 103 Series - KeYo 21F-27F.JPG|3代目塗装
</gallery>

=== 北海道へ渡った103系 ===
JR北海道では、[[鉄道の電化|電化区間]]が全て[[交流電化|交流]]であることから、国鉄時代から1両も本系列が配置されたことはなかったが、[[1998年]](平成10年)8月に103系8両が機関車牽引で入線した<ref>「103系電車が北海道へ」『鉄道ファン』1998年11月号、交友社、p.120。</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-427/ 103系、全3,447両のうち8両が北海道に送られていた] マイナビニュース、2017年10月21日。</ref>。

譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、雑誌の投稿を含めても交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』の1998年11月号 No.451のP.120に掲載された「103系が北海道へ」に[[津軽海峡線]]を[[国鉄ED79形電気機関車|ED79形50番台]]に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたのみである。

この103系は『鉄道ファン』同号掲載の写真、および苗穂で撮影されYoutubeに投稿された動画から以下の状態が確認された。
* 一部の車両が鉄板による窓・扉などの埋め込み
* 一部の車両が片エンドの鋼体を骨組みのみに改造
* 車番をRTRI-A、RTRI-C2、RTRI-D3などへ変更(RTRIは[[鉄道総合技術研究所]]の英語略称)
* 連結器を密着式から自動式への換装
この改造は[[東急車輛製造]]で施工された<ref name="rp200404_p56">芳田あきら「103系電車の興味」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、56頁。</ref>。

その後は[[苗穂工場]]内に留置された。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。

なお苗穂工場到着後、追加で側面ドアの埋め込みや、妻面に鉄枠や鉄板で補強をされ、側面に衝突試験で用いられるターゲットマークを貼付された姿も、YouTubeに投稿された動画から確認できる。

収集されたデータの目的は公開されていないが、実験結果は英文にて2003年に公開されている<ref>Yasushi UJITA, Kohji FUNATSU, Yasufumi SUZUKI., "[https://doi.org/10.2219/rtriqr.44.28 Crashworthiness Investigation of Railway Carriages]" QR of RTRI, Vol.44, No.1, 2003年3月。pp.28-33、{{doi|10.2219/rtriqr.44.28}}。鉄道総合技術研究所</ref>。
; 譲渡車一覧(所属は廃車時)
:* クハ103-396・454・481・482・719・724
:* サハ103-230・417
:** クハ103-396・サハ2両:松戸電車区所属エメラルドグリーン塗装
:** ほかの5両:浦和電車区所属スカイブルー塗装。

== 編成表 ==

岡山電車区

1999年4月1日<ref>ザ・ラストモーメント『115系と国鉄近郊型電車』p.111</ref>

{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:1em 0em 2em 3em;"
|+H編成
! rowspan="2" |編成番号
| colspan="4" |{{列車方向|姫路・岡山|宇野・三原・広島・可部}}
|-
|クハ103
|モハ103
|モハ102
|クハ103
|-
!H1
|201
|306
|462
|202
|-
!H2
|209
|314
|470
|210
|-
!H3
|221
|497
|653
|222
|-
!H4
|227
|437
|593
|228
|-
!H5
|233
|493
|649
|234
|}

== 保存車 ==
{| class="wikitable"
|+ 103系保存車・保管車一覧
|-
!画像
!style="width:15%" |番号
!所属
!最終配置
!廃車
!style="width:30%" |所在地
!備考
|-
|
|クハ103-713
|JR東日本
|京葉
|2005年11月22日
|[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[大成町 (さいたま市)|大成町]]3丁目47<br/>[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]
|乗務員室側約9 mのカットボディが保存されている。当初はスカイブルーであったが、2017年(平成29年)のキッズプラザリニューアルに際し、白ベースにオレンジ・スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス・エメラルドグリーンの103系がまとった5色を水玉で配した模様に塗り替えられた。
高運転台車では唯一の保存車である。
|-
|[[ファイル:Kuha103-525 Toshiba-test-car.jpg|150px]]
|クハ103-525
|JR東日本
|中原
|1994年10月13日
|([[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]東芝町1 [[東芝]][[東芝府中事業所|府中事業所]]→)<br/>[[千葉県]][[いすみ市]]作田1298<br/>[[ポッポの丘]]
|譲渡後、機器類を改造された状態で東芝府中事業所にて留置。車体はオレンジ一色に塗り替えられている。<br/>[[2020年]][[4月14日]]、同所保管のクモニ83006([[国鉄クモニ83形電車]])と共にポッポの丘へ向け陸送された。
|-
|[[ファイル:JNR Mc103-18.jpg|150px]]
|クモハ103-18
|JR東海
|神領
|2001年9月14日
|[[岐阜県]][[美濃加茂市]]<br/>[[美濃太田車両区]]
|屋外留置のため腐食や褪色が見られる。[[2011年]][[3月14日]]にオープンした[[リニア・鉄道館]]の展示リストには入っていない。
|-
|[[ファイル:Kuha103-1.jpg|150px]]
|クハ103-1
|JR西日本
|日根野
|2011年3月30日
|[[京都府]][[京都市]][[下京区]]観喜寺町<br/>[[京都鉄道博物館]]
|クハ103形のトップナンバー。2011年3月まで阪和線で使用され、廃車後は一時期[[吹田総合車両所]]に保管されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2013/11/10/213000.html|title=吹田総合車両所が一般公開される|publisher=交友社(railf.jp)|accessdate=2014-01-14}}</ref>が、スカイブルーからオレンジバーミリオンに塗装変更して[[2015年]][[3月2日]]に吹田総合車両所から搬出され<ref>[http://railf.jp/news/2015/03/03/150000.html クハ103-1が京都鉄道博物館に向けて甲種輸送される] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2015年3月3日</ref>、京都鉄道博物館に搬入された。103系の保存車では唯一戸袋窓が封鎖されている。
|-
|
|クモハ103-110
|JR西日本
|岡山
|2009年7月3日
|[[大阪府]][[大東市]]平野屋1丁目4−1<br/>大阪府立消防学校<br/>'''※非公開'''
|もと阪和線用。2009年に廃車となった際、消防学校の整備工事が進められていたため、同校の訓練施設として譲渡された<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/161118 103系電車は今も人命救助を陰で支えている] - 伊原薫、東洋経済オンライン、2017年3月7日</ref><ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/shobogakko/kinou/tetudou.html 大阪府/鉄道車両事故訓練施設] - 大阪府</ref><ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/shobogakko/gaiyou/index.html 大阪府/学校の概要]の「[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/10525/00000000/sisetugaiyou.doc 各階施設名称・面積]」</ref>。
|-
|
|クモハ103-147
|JR東日本
|松戸
|2006年5月10日
|colspan=2|個人へ譲渡(所在地非公開)
|}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 通史 ===
=== 通史 ===
* 福原俊一・永尾信幸・前納浩一『103系・301系通勤形直流電車』(車両史編さん会、2000年)<!-- 著者名は車両史編さん会公式サイトhttp://homepage2.nifty.com/hensankai/Hensan_103-1.htmlで確認できます。永尾氏・前納氏も併記されています -->
* [[福原俊一 (電車発達史研究家)|福原俊一]]・永尾信幸・前納浩一 『103系・301系通勤形直流電車』(車両史編さん会、2000年)<!-- 著者名は車両史編さん会公式サイト http://homepage2.nifty.com/hensankai/Hensan_103-1.html で確認できます。永尾氏・前納氏も併記されています -->
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』156号、1964年4月 特集国鉄通勤電車
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』156号、1964年4月 特集 : 国鉄通勤電車
* 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』1985年5月号 No.447 特集:103系通勤形電車
* 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』1985年5月号 No.447 特集 : 103系通勤形電車
* 交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1993年4月号・5月号 No.384・385 特集:103系通勤形電車(12)
* 交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1993年4月号・5月号 No.384・385 特集 : 103系通勤形電車 (12)
* 「103系が北海道へ」(読者投稿)/交友社『鉄道ファン』1998年11月号 No.451 P.120
* 「103系が北海道へ」(読者投稿)/交友社『鉄道ファン』1998年11月号 No.451 P.120
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2003年12月臨時増刊号、鉄道友の会編「車両研究――1960年代の鉄道車両」(『車両研究』と略す)
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2003年12月臨時増刊号、鉄道友の会編「車両研究――1960年代の鉄道車両」
** 久保田博福原俊一インタビュー 1960年代前半の国鉄車両計画動力近代化計画
** {{Cite journal|和書|author=[[久保田博]] |author2=福原俊一 |title=インタビュー 1960年代前半の国鉄車両計画/動力近代化計画--久保田博 (車両研究--1960年代の鉄道車両) |date=2003-12 |publisher=鉄道図書刊行会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=53 |number=12 |naid=40006014806 |pages=16-31 |ref=harv}}
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集:103系電車
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集 : 103系電車
* 電研究会『鉄道ピクトリアル』20058月号 No.764 特集:惜別 JR東日本103系
** 鉄道ピクトリアル編集部「103系電車―その誕生から現在まで」『鉄道ピクトリアル』20044月号、10-31頁。
** 芳田あきら「103系電車の興味」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、49-56頁。
** 猪口信「国鉄~JR 首都圏通勤線区の輸送変遷史」『鉄道ピクトリアル』2004年4月号、57-72頁。
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年8月号 No.764 特集 : 惜別 JR東日本103系
* 斎藤幹雄「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 P.107 - P.112
* 斎藤幹雄「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 P.107 - P.112
* 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集:101系 その顔の世界
* 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集 : 101系 その顔の世界
* 大熊孝夫103系通勤形電車 誕生までのはなし」/交友社鉄道ファン2006年4月号 No.540 P.83 - P.105
* {{Cite |和書|author=大熊孝夫 |title=103系通勤形電車 誕生までのはなし |publisher=交友社|journal=鉄道ファン |date=2006-04 |series=No.540 |pages=83-105 |ref=harv}}
* 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集究極の標準形通勤電車103系
* 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集:究極の標準形通勤電車103系
* 特集究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 P.152 - P.153
* 特集 : 究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 P.152 - P.153
* 来住憲司「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.32 - P.49
* 来住憲司「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.32 - P.49
* 岡本祐次「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.50 - P.53
* 岡本祐次 「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.50 - P.53
* 編集部「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『[[鉄道ジャーナル]]』2006年8月号 No.478 P.52 - P.61
* 編集部「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『[[鉄道ジャーナル]]』2006年8月号 No.478 P.52 - P.61
* 毛呂信昭『103系物語』<span spyle="font-size:90%">戦後日本の高度成長を支えた通勤型電車</span>([[JTBパブリッシング]] 2012年6月発行 ISBN 9784533086991)
=== 専門記事 ===
* 杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』(JTBパブリッシング 2013年11月発行 ISBN 9784533094231
# 岡部達郎(国鉄本社施設局停車場課)「中央線(東京-三鷹間)の増強計画について」『交通技術』1958年3月号、1958年、P.2 - P.6。
* [[交通新聞社]]『103系メモリアル』 2013年11月発行 ISBN 9784330423135
# 伊東正信(国鉄総裁室調査課)「昭和33年度国鉄の工事計画について」『交通技術』1958年5月号、1958年、P.6 - P.8。
* {{Cite journal|和書|author=城戸宏之(JR西日本鉄道本部車両部) |year=1998 |month=3 |title=JR西日本播但線電化開業用車両の改造 |journal=Rolling stock & Machinery |volume = 6 |issue = 3 |pages= 21 - 24 |publisher=日本鉄道車両機械技術協会 |ref = R&M0603}}
# 酒井弘(国鉄本社電気局電力課)「通勤輸送に対処する自営電源と送電網」『交通技術』1958年6月号、1958年、P.32 - P.33。
* 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2018年1月号 No.941 特集 : 103系電車
# 国鉄臨時車両設計事務所 『これからの鉄道車両』1959年1月、1959年、P.11 - P.15。
#塚長一郎(京浜急行両部長) 「補償線輪付両用主電動機について」『電気車の科学19595月号、1959年、P.11 - P.14
** 平石貴「103系電車 新製のあゆみ」『鉄道ピクトリアル20181月号、10-32頁
** 日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、65-82頁。
# 塚本清治(国鉄技師長室)「昭和34年度の技術課題について」『交通技術』1959年7月号、1959年、P.2 - P.5。
** 前納浩一・永尾信幸・芳田あきら「103系の改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号 83-117頁。
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* 交友社『鉄道ファン』2018年11月号 No.691 特集:103系55年の軌跡
# 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急"HE車"の概要」『電気鉄道』1960年1月号、1960年、P.18 - P.21。
* 交友社『鉄道ファン』2019年6月号 No.698 特集:オレンジバーミリオン物語
# 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車(1)」『電気車の科学』1960年2月号、1960年、P.12 - P.15。
# 「通勤電車とドア」『交通技術』1960年2月号、1960年、P.27。
# 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車(続)」『電気車の科学』1960年3月号、1960年、P.21 - P.26。
# 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急HE車(高性能高経済車)の概要(1)」『電車』1960年4月号、1960年、P.12 - P.20。
# 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急HE車(高性能高経済車)の概要(2)」『電車』1960年5月号、1960年、P.32 - P.39。
# 真宅正博・井上等(国鉄臨時車両設計事務所) 「国鉄試作電力回生ブレーキ電車」『電気鉄道』1960年9月号、1960年、P.25 - P.29。
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# 井ノ口章太郎(国鉄本社電気局電力課)「国鉄関東地区の電気需要と供給力」『交通技術』1961年3月号、1961年、P.2 - P.5。
# 小沼清志(国鉄技師長室)「昭和36年度の国鉄技術課題」『運転協会誌』1961年6月号、1961年、P.26 - P.27。
# 大城康世・川添雄司(国鉄外務部・元国鉄関東支社大井工場)「こんごの通勤電車」『JREA』1961年6月号、1961年、P.14 - P.17。
# 太田清水(国鉄鉄道技術研究所電気材料調査研究室) 「H種絶縁」『電気鉄道』1961年9月号、1961年、P.23 - P.24。
# 太田益次(大阪鉄道管理局電気部変電課) 「大阪環状線の時間短縮に伴う運転用電力について」『電気鉄道』1962年6月号、1962年、P.6 - P.8。
# 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「今後の電車用主電動機」『電車』1962年7月号、1962年、P.36 - P.43。
# 萩原仁太郎(仙台鉄道管理局福島電力区・元千葉鉄道管理局電力課) 「トロリー線の集電摩耗とその対策について」『電気鉄道』1962年9月号、1962年、P.9 - P.12。
# 久保田博(国鉄工作局車両課補佐) 「103系通勤電車誕生のいきさつ」『電車』1963年1月号、1963年、P.27 - P.34。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、1963年、P.35 - P.44。
# 河合肇(国鉄運転局客貨車課)「新形通勤電車103系および101系の次期投入線区について」『電車』1963年1月号、1963年、P.45 - P.51。
# 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「103系電車の概要」『電気車の科学』1963年2月号、1963年、P.6 - P.10。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「新通勤形103系電車」『電気鉄道』1963年3月号、1963年、P.11 - P.13。
# 佐藤武士(静鉄静岡運転所) 「新形電車における1ユニット不動の推定法と運転扱いについて」『電車』1964年3月号、1964年、P.26 - P.37。
# 寺島和年(前大鉄運転部電車課長)「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.25 - P.27。
# 久保田博(仙鉄運転部長・元本社工作局)「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.35 - P.37。
# 小沢耕一(東鉄運転部電車課長)「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.4 - P.6。
# 石本祐吉(川崎製鉄KK千葉製鉄所)「通勤形電車はどうあるべきか」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、1964年、P.72 - P.73。
# 加藤精一(国鉄大井工場第1電車職場長)・望月旭(国鉄浜松工場製缶職場長) 「電車用主電動機の性能向上」『電車』1964年4月号、1964年、P.66 - P.76。 (注:ガラスバインドとハンダレス整流子関係)
# 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (1) 」『電車』1964年5月号、1964年、P.12 - P.18。
# 小沢耕一(東鉄運転部電車課長) 「東京付近の通勤輸送をめぐって」『電車』1964年5月号、1964年、P.45 - P.54。
# 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「ユニット不動の推定法と運転扱いについてを読んで」『電車』1964年5月号、1964年、P.66 - P.68。
# 運転局客貨車課 「新形電車現行使用限流値調べ」『電車』1964年5月号、1964年、P.18。
# 大石一男(静鉄静岡運転所) 「現場から見たユニット不動時の運転の問題について」『電車』1964年6月号、1964年、P.52 - P.53。
# 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (2) 」『電車』1964年6月号、1964年、P.85 - P.93。
# 「103系量産車の運転性能試験が実施される!!」『電車』1964年7月号、1964年、P.31。
# 丹羽一夫(元運輸省都市交通課専門官・現運輸省保安課補佐) 「東京およびその周辺における都市交通について」『電車』1964年8月号、1964年、P.22 - P.27。
# 「国鉄中央線と地下鉄5号線との相互直通車両の規格仕様に関する覚え書が交換された」『電車』1964年8月号、1964年、P.54 - P.56。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4)  国電103系の運転台 (1) 」『電車』1964年10月号、1964年、P.73 - P.78。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4)  国電103系の運転台 (2) 」『電車』1964年11月号、1964年、P.32 - P.35。
# 「新らしい機器の紹介 C2000形空気圧縮機」『電車』1964年12月号、1964年、P.31 - P.33。
# 小田急電鉄株式会社 『新設計の通勤車について』1965年2月1日、1965年、P.1 - P.16。 (注:2600形の設計時資料)
# 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、1965年、P.19 - P.22。
# 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、1965年、P.23 - P.25。
# 伊東正行(東京急行電鉄株式会社電気部変電課変電係長)「回生制動により生ずる回転変流機の逆流防止装置」『電気鉄道』1965年6月号、1965年、P.8 - P.11。
# 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その2)」『電気鉄道』1965年6月号、1965年、P.20 - P.22。
# 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、1965年、P.13 - P.19。
# 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その2) ダブルシンプルカテナリ (1) 」『電気鉄道』1965年8月号、1965年、P.24 - P.26。
# 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その3) ダブルシンプルカテナリ (2) 」『電気鉄道』1965年9月号、1965年、P.21 - P.24。
# 柿沼道夫・後閑始(東京鉄道管理局田端電力区)「東鉄における電車線路の保守について(その6) ダブトロ工事の施行および今後の保守」『電気鉄道』1966年1月号、1966年、P.27 - P.31。
# 石塚健次郎・山口義雄・杉野治之・小沼栄(以上 東鉄池袋電車区電車検査掛)・藤巻亀忠(東鉄池袋電車区電車運転士)「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、1966年、P.13 - P.17。
# 佐藤善一(国鉄電気局電化課)「列車運転における電力消費率」『電気鉄道』1966年9月号、1966年、P.2 - P.6。
# 高藤茂(国鉄池袋電車区長)「運転業務研究会をかえりみて」『電気鉄道』1966年11月号、1966年、P.24 - P.27。 (注:103系電車のブレーキ衝動対策関係)
# 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第2章トロリー線について)」『電気鉄道』1966年12月号、1966年、P.39 - P.43。
# 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第3章き電線について)」『電気鉄道』1967年1月号、1967年、P.31 - P.35。
# 内田真・藤村敏郎(以上 国鉄鉄道技術研究所)・権藤豊義・府川有治・佐藤善一・冨中昭三(以上 国鉄電気局電化課)「大都市通勤輸送区間における大電流き電回路の現状と問題点」『電気鉄道』1967年4月号、1967年、P.2 - P.18。
# 山本幸司・粥川昭二・飯島薫・塙三郎(以上 国鉄品川電車区)「ATS-B形諸問題の現状と対策について」『電気鉄道』1967年6月号、1967年、P.17 - P.21。(注:列車運転時の電圧変動関係)
# 金子一彦(国鉄新宿変電区)「車両の空転によるき電用高速しゃ断器の動作について」『電気鉄道』1968年2月号、1968年、P.16 - P.20。
# 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (I) 」『電気鉄道』1968年3月号、1968年、P.9 - P.12。
# 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (II) 」『電気鉄道』1968年4月号、1968年、P.22 - P.24。
# 猪野淳之助(国鉄車両設計事務所次長)「通勤電車設計の展望」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、1968年、P.4 - P.7。
# 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「国鉄通勤電車の配置運用と見通し」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、1968年、P.8 - P.10。
# 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (III) 」『電気鉄道』1968年5月号、1968年、P.19 - P.21。
# 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (IV) 」『電気鉄道』1968年6月号、1968年、P.18 - P.21。
# 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (V) 」『電気鉄道』1968年8月号、1968年、P.13 - P.15。
# 宇津木弘(東京西局運転部電車課)「青梅・五日市線に103系電車を迎えて」『電車』1977年3月号、1977年、P.37 - P.40。
# 角野勇・春日井竹次(以上 国鉄大阪電気幸司局) 「桜井線・和歌山線(王寺・五条間)及び草津線の電車線路設備の概要」『電気鉄道』1980年4月号、1980年、P.13 - P.17。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (1) 」『電車』1981年2月号、1981年、P.25 - P.29。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (2) 」『電車』1981年3月号、1981年、P.18 - P.23。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (3) 」『電車』1981年4月号、1981年、P.22 - P.25。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (4) 」『電車』1981年5月号、1981年、P.52 - P.54。
# 島秀雄(宇宙開発事業団理事長) 「電車列車の経済運転について」『電気車の科学』1982年7月号、1982年、P.56 - P.57。
# 加進昇(車両設計事務所電気車補佐) 「界磁制御車両について(昭和58年度技術課題の成果)」『電車』1984年10月号、1984年、P.18 - P.23。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (1)  -パソコンによる-」『電車』1986年1月号、1986年、P.26 - P.31。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (2)  -パソコンによる-」『電車』1986年2月号、1986年、P.15 - P.21。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (3)  -パソコンによる-」『電車』1986年3月号、1986年、P.10 - P.14。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (4)  -パソコンによる-」『電車』1986年4月号、1986年、P.16 - P.20。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (5)  -パソコンによる-」『電車』1986年6月号、1986年、P.23 - P.28。
# 石川陽一(車両局設計課)「電力消費量の比較 山手線の205・103系」『電車』1987年3月号、1987年、P.6 - P.9。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (1) 」『電車』1987年8月号、1987年、P.31 - P.37。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (2) 」『電車』1987年9月号、1987年、P.25 - P.29。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (3) 」『電車』1987年10月号、1987年、P.24 - P.29。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (4) 」『電車』1987年11月号、1987年、P.19 - P.26。
# 須永宏資・田部井賢夫(以上 JR東日本下十条運転区経済運転プロジェクトチーム) 「経済運転実践の研究」『電車』1987年11月号、1987年、P.21 - P.29。
# 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、1987年、P.20 - P.23。
# 国井浩一(JR東日本運輸車両部運用課)「常磐線快速の15両化」『電車』1988年1月号、1988年、P.24 - P.27。
# 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (1) 」『電車』1988年5月号、1988年、P.17 - P.24。
# 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (2) 」『電車』1988年7月号、1988年、P.33 - P.39。
# 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (3) 」『電車』1988年8月号、1988年、P.49 - P.57。
# 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、1995年、P.28 - P.29。
# 曽根悟(工学院大学電気工学科教授) 「私鉄高性能車は何をもたらしたか」『鉄道ピクトリアル』2003年1月号、2003年、P.10 - P.18。
# 日本規格協会 「JIS E 4001 鉄道車両用語:1999」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、2008年、P.957 - P.1032。
# 日本規格協会 「JIS E 6002 通勤用電車の性能通則:1989」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、2008年、P.2026 - P.2030。


=== 地下鉄対応・他形式からの改造番台 ===
=== 地下鉄対応・他形式からの改造番台 ===
*{{Cite book|和書|doi=10.11501/2359885|chapterurl={{NDLDC|2359885/11}}|title=鉄道工場|volume=36|issue=10(421号)|publisher=レールウエー・システム・リサーチ|date=1985-10|chapter=72,79系を100系3000代に改造 |authors=銭場佑浩 ; 瀧口敏|pages=18-19}}
* 中村新一・野元 浩「103系3000番代<!--←原典のタイトルがこのとおりなので「3000番台」とはしないこと-->通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 P.65 - P.67
* 中村新一・野元浩「103系3000番代<!--←原典のタイトルがこのとおりなので「3000番台」とはしないこと-->通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 P.65 - P.67
* 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 P.96 - P.103<br/>
* 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 P.96 - P.103
: 当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
** 当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
* 久保 敏「<span style="font-size:90%;">旧形国電から103系に変身したウグイス色電車</span> 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 P.105 - P.109
* 久保敏「<span style="font-size:90%">旧形国電から103系に変身したウグイス色電車</span> 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 P.105 - P.109
* 芳田あきら・前納浩一・永尾信幸「103系に編入された101系電車―サハ103形750番代とクハ103形2000・2050番代―」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号(通巻874号)、電気車研究会。56-65頁。
* 大塚孝「筑肥線近代化の主役103系電車 九州の103系1500番代35年のあゆみ」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2018年1月号 No.941 P.57 - P.64

=== 専門記事 ===
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# {{Cite book|和書|doi=10.11501/2248492|chapterurl={{NDLDC|2248492/5}}|title=交通技術|volume=13|issue=3(143号)|publisher=交通協力会|date=1958-03|chapter=中央線(東京 - 三鷹間)の増強計画について|author=岡部達郎(国鉄本社施設局停車場課)|pages=2-6}}
# {{Cite book|和書|doi=10.11501/2248494|chapterurl={{NDLDC|2248494/7}}|title=交通技術|volume=13|issue=5(145号)|publisher=交通協力会|date=1958-05|chapter=昭和33年度国鉄の工事計画について|author=伊東正信(国鉄総裁室調査課)|pages=6-8}}
# {{Cite book|和書|doi=10.11501/2248495|chapterurl={{NDLDC|2248495/21}}|title=交通技術|volume=13|issue=6(146号)|publisher=交通協力会|date=1958-06|chapter=通勤輸送に対処する自営電源と送電網|author=酒井弘(国鉄本社電気局電力課)|pages=32-33}}
# 国鉄臨時車両設計事務所『これからの鉄道車両』1959年1月、pp.11 - 15。
# 大塚長一郎(京浜急行電鉄車両部長)「補償線輪付車両用主電動機について」『電気車の科学』1959年5月号、pp.11 - 14。
# {{Cite book|和書|doi=10.11501/2248509|chapterurl={{NDLDC|2248509/6}}|title=交通技術|volume=14|issue=7(160号)|publisher=交通協力会|date=1959-07|chapter=昭和34年度の技術課題について|author=塚本清治(国鉄技師長室)|pages=2-5}}
# 榊原三郎(国鉄運転局客貨車課補佐)「昭和35年度電車計画の展望」『電車』1960年1月号、pp.28 - 33。
# 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急"HE車"の概要」『電気鉄道』1960年1月号、pp.18 - 21。
# 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急2400形HE車 (1)」『電気車の科学』1960年2月号、pp.12 - 15。
# {{Cite book|和書|doi=10.11501/2248517|chapterurl={{NDLDC|2248517/18}}|title=交通技術|volume=15|issue=2(168号)|publisher=交通協力会|date=1960-02|chapter=技術時評 通勤電車とドア|pages=27}}
# 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急2400形HE車(続)」『電気車の科学』1960年3月号、pp.21 - 26。
# 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急HE車(高性能高経済車)の概要 (1)」『電車』1960年4月号、pp.12 - 20。
# 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急HE車(高性能高経済車)の概要 (2)」『電車』1960年5月号、pp.32 - 39。
# 真宅正博・井上等(国鉄臨時車両設計事務所)「国鉄試作電力回生ブレーキ電車」『電気鉄道』1960年9月号、pp.25 - 29。
# 真家昇(東鉄局電力課)「中央線電車線路整備工事について」『電気鉄道』1960年10月号、pp.14 - 16。
# {{Cite book|和書|doi=10.11501/2248531|chapterurl={{NDLDC|2248531/7}}|title=交通技術|volume=16|issue=3(182号)|publisher=交通協力会|date=1961-03|chapter=国鉄関東地区の電気需要と供給力|author=井ノ口章太郎(国鉄本社電気局電力課)|pages=2-5}}
# 小沼清志(国鉄技師長室)「昭和36年度の国鉄技術課題」『運転協会誌』1961年6月号、pp.26 - 27。
# 大城康世・川添雄司(国鉄外務部・元国鉄関東支社大井工場)「こんごの通勤電車」『JREA』1961年6月号、pp.14 - 17。
# 太田清水(国鉄鉄道技術研究所電気材料調査研究室)「H種絶縁」『電気鉄道』1961年9月号、pp.23 - 24。
# 太田益次(大阪鉄道管理局電気部変電課)「大阪環状線の時間短縮に伴う運転用電力について」『電気鉄道』1962年6月号、pp.6 - 8。
# 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「今後の電車用主電動機」『電車』1962年7月号、pp.36 - 43。
# 萩原仁太郎(仙台鉄道管理局福島電力区・元千葉鉄道管理局電力課) 「トロリー線の集電摩耗とその対策について」『電気鉄道』1962年9月号、pp.9 - 12。
# 久保田博(国鉄工作局車両課補佐)「103系通勤電車誕生のいきさつ」『電車』1963年1月号、pp.27 - 34。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、pp.35 - 44。
# 河合肇(国鉄運転局客貨車課)「新形通勤電車103系および101系の次期投入線区について」『電車』1963年1月号、pp.45 - 51。
# 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「103系電車の概要」『電気車の科学』1963年2月号、pp.6 - 10。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「新通勤形103系電車」『電気鉄道』1963年3月号、pp.11 - 13。
# 佐藤武士(静鉄静岡運転所)「新形電車における1ユニット不動の推定法と運転扱いについて」『電車』1964年3月号、pp.26 - 37。
# 寺島和年(前大鉄運転部電車課長)「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.25 - 27。
# 久保田博(仙鉄運転部長・元本社工作局)「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.35 - 37。
# 小沢耕一(東鉄運転部電車課長)「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.4 - 6。
# 石本祐吉(川崎製鉄KK千葉製鉄所)「通勤形電車はどうあるべきか」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.72 - 73。
# 加藤精一(国鉄大井工場第1電車職場長)・望月旭(国鉄浜松工場製缶職場長) 「電車用主電動機の性能向上」『電車』1964年4月号、pp.66 - 76。(注 : ガラスバインドとハンダレス整流子関係)
# 久保卓三(国鉄運転局客貨車課)「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (1)」『電車』1964年5月号、pp.12 - 18。
# 小沢耕一(東鉄運転部電車課長)「東京付近の通勤輸送をめぐって」『電車』1964年5月号、pp.45 - 54。
# 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所技師)「ユニット不動の推定法と運転扱いについてを読んで」『電車』1964年5月号、pp.66 - 68。
# 運転局客貨車課 「新形電車現行使用限流値調べ」『電車』1964年5月号、p.18。
# 大石一男(静鉄静岡運転所)「現場から見たユニット不動時の運転の問題について」『電車』1964年6月号、pp.52 - 53。
# 久保卓三(国鉄運転局客貨車課)「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (2)」『電車』1964年6月号、pp.85 - 93。
# 「103系量産車の運転性能試験が実施される!!」『電車』1964年7月号、p.31。
# 丹羽一夫(元運輸省都市交通課専門官・現運輸省保安課補佐)「東京およびその周辺における都市交通について」『電車』1964年8月号、pp.22 - 27。
# 「国鉄中央線と地下鉄5号線との相互直通車両の規格仕様に関する覚え書が交換された」『電車』1964年8月号、pp.54 - 56。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (1)」『電車』1964年10月号、pp.73 - 78。
# 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (2)」『電車』1964年11月号、pp.32 - 35。
# 「新らしい機器の紹介 C2000形空気圧縮機」『電車』1964年12月号、pp.31 - 33。
# 小田急電鉄株式会社『新設計の通勤車について』1965年2月1日、pp.1 - 16。(注 : 2600形の設計時資料)
# 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.19 - 22。
# 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.23 - 25。
# 伊東正行(東京急行電鉄株式会社電気部変電課変電係長)「回生制動により生ずる回転変流機の逆流防止装置」『電気鉄道』1965年6月号、pp.8 - 11。
# 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その2)」『電気鉄道』1965年6月号、pp.20 - 22。
# 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、pp.13 - 19。
# 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その2) ダブルシンプルカテナリ (1)」『電気鉄道』1965年8月号、pp.24 - 26。
# 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その3) ダブルシンプルカテナリ (2)」『電気鉄道』1965年9月号、pp.21 - 24。
# 柿沼道夫・後閑始(東京鉄道管理局田端電力区)「東鉄における電車線路の保守について(その6) ダブトロ工事の施行および今後の保守」『電気鉄道』1966年1月号、pp.27 - 31。
# 石塚健次郎・山口義雄・杉野治之・小沼栄(以上 東鉄池袋電車区電車検査掛)・藤巻亀忠(東鉄池袋電車区電車運転士)「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、pp.13 - 17。
# {{Cite journal|和書|author=佐藤善一 |title=列車運転における電力消費率 |date=1966-09 |publisher=鉄道電化協会 |journal=電気鉄道 |volume=20 |number=9 |naid=40018094663 |pages=2-6 |ref=harv}} (国鉄電気局電化課)
# 高藤茂(国鉄池袋電車区長)「運転業務研究会をかえりみて」『電気鉄道』1966年11月号、pp.24 - 27。(注 : 103系電車のブレーキ衝動対策関係)
# 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第2章トロリー線について)」『電気鉄道』1966年12月号、pp.39 - 43。
# 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第3章き電線について)」『電気鉄道』1967年1月号、pp.31 - 35。
# 内田真・藤村敏郎(以上 国鉄鉄道技術研究所)・権藤豊義・府川有治・佐藤善一・冨中昭三(以上 国鉄電気局電化課)「大都市通勤輸送区間における大電流き電回路の現状と問題点」『電気鉄道』1967年4月号、pp.2 - 18。
# 山本幸司・粥川昭二・飯島薫・塙三郎(以上 国鉄品川電車区) 「ATS-B形諸問題の現状と対策について」『電気鉄道』1967年6月号、pp.17 - 21。(注 : 列車運転時の電圧変動関係)
# 金子一彦(国鉄新宿変電区)「車両の空転によるき電用高速しゃ断器の動作について」『電気鉄道』1968年2月号、pp.16 - 20。
# 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (I)」『電気鉄道』1968年3月号、pp.9 - 12。
# 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (II)」『電気鉄道』1968年4月号、pp.22 - 24。
# 猪野淳之助(国鉄車両設計事務所次長)「通勤電車設計の展望」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.4 - 7。
# 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「国鉄通勤電車の配置運用と見通し」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.8 - 10。
# 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (III)」『電気鉄道』1968年5月号、pp.19 - 21。
# 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (IV)」『電気鉄道』1968年6月号、pp.18 - 21。
# 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (V)」『電気鉄道』1968年8月号、pp.13 - 15。
# 宇津木弘(東京西局運転部電車課)「青梅・五日市線に103系電車を迎えて」『電車』1977年3月号、pp.37 - 40。
# 角野勇・春日井竹次(以上 国鉄大阪電気幸司局)「桜井線・和歌山線(王寺・五条間)及び草津線の電車線路設備の概要」『電気鉄道』1980年4月号、pp.13 - 17。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (1)」『電車』1981年2月号、pp.25 - 29。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (2)」『電車』1981年3月号、pp.18 - 23。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (3)」『電車』1981年4月号、pp.22 - 25。
# 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (4)」『電車』1981年5月号、pp.52 - 54。
# [[島秀雄]](宇宙開発事業団理事長)「電車列車の経済運転について」『電気車の科学』1982年7月号、pp.56 - 57。
# 加進昇(車両設計事務所電気車補佐)「界磁制御車両について(昭和58年度技術課題の成果)」『電車』1984年10月号、pp.18 - 23。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (1) -パソコンによる-」『電車』1986年1月号、pp.26 - 31。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (2) -パソコンによる-」『電車』1986年2月号、pp.15 - 21。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (3) -パソコンによる-」『電車』1986年3月号、pp.10 - 14。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (4) -パソコンによる-」『電車』1986年4月号、pp.16 - 20。
# 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (5) -パソコンによる-」『電車』1986年6月号、pp.23 - 28。
# 石川陽一(車両局設計課)「電力消費量の比較 山手線の205・103系」『電車』1987年3月号、pp.6 - 9。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (1)」『電車』1987年8月号、pp.31 - 37。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (2)」『電車』1987年9月号、pp.25 - 29。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (3)」『電車』1987年10月号、pp.24 - 29。
# 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (4)」『電車』1987年11月号、pp.19 - 26。
# 須永宏資・田部井賢夫(以上 JR東日本下十条運転区経済運転プロジェクトチーム)「経済運転実践の研究」『電車』1987年11月号、pp.21 - 29。
# [[曽根悟]](東京大学教授電気工学)「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、pp.20 - 23。
# 国井浩一(JR東日本運輸車両部運用課)「常磐線快速の15両化」『電車』1988年1月号、pp.24 - 27。
# 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課)「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (1)」『電車』1988年5月号、pp.17 - 24。
# 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課)「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (2)」『電車』1988年7月号、pp.33 - 39。
# 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課)「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (3)」『電車』1988年8月号、pp.49 - 57。
# 曽根悟(東京大学教授電気工学)「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、pp.28 - 29。
# 曽根悟(工学院大学電気工学科教授)「私鉄高性能車は何をもたらしたか」『鉄道ピクトリアル』2003年1月号、pp.10 - 18。
# [[日本規格協会]]「JIS E 4001 鉄道車両用語:1999」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.957 - 1032。
# 日本規格協会「JIS E 6002 通勤用電車の性能通則:1989」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.2026 - 2030。
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=== 国鉄資料 ===
=== 国鉄資料 ===
# 車両設計事務所 『103系通勤形直流電車』1964年
# 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1964年
# 車両設計事務所 『103系通勤形直流電車』1971年3月
# 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1971年3月
# 車両設計事務所 『電車性能曲線』1962年
# 車両設計事務所『電車性能曲線』1962年
# 車両設計事務所 『電車性能曲線(追録)』1964年2月
# 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1964年2月
# 車両設計事務所 『電車性能曲線(追録)』1969年3月
# 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1969年3月
# 車両設計事務所 『電気機関車性能曲線』1962年
# 車両設計事務所『電気機関車性能曲線』1962年
# 運転局 『電車車加速力曲線1966
# 車両設計事務所新性能電車用主電19683月
# 運転局 『速度定数便覧1972
# 運転局『電車気動車加力曲線1966
# 運転局『速度定数便覧』1972年


== 脚注 ==
=== 参考資料 ===
==== 運転・設備・理論に関わるもの ====
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# 福崎直治(国鉄工作局)・沢野周一(国鉄工作局)『電車と電気機関車』岩波書店、1964年4月30日
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# 川島泰太郎(国鉄東鉄局運転部電車課)『電車運転曲線と操縦理論』交友社、1955年6月25日
# 竹崎確(国鉄技師長室)『運転総論』ヘッドライト社、1967年12月1日
# 運転設備研究会編(国鉄運転局 明本昭義ほか24名)『運転設備』日本鉄道運転協会、1973年3月25日
# 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道(改訂版)』電気学会、1964年5月25日(12版)
# 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道ハンドブック』電気学会、1962年9月20日
# 内田富彦(国鉄運転局列車課)『輸送計画論』交通書房、1956年8月10日
# 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 理論編』日本鉄道図書、1964年12月25日
# 吉江一雄(元国鉄輸送局設備課)『電車輸送と建設』交友社、1981年5月1日(再版)
# 井上進(元JR東日本運輸車両部輸送課長)ほか7名『列車ダイヤと運行管理』成山堂書店、2008年11月28日
# 大沢健(国鉄東京鉄道管理局運転部調査課)『目で見てわかる運転取扱規程技術図典』交友社、1968年6月20日(改訂再版)
# 電車運転理論研究会編(関東鉄道学園運転第一科長 一杉治夫ほか2名)『電車運転理論』交友社、2006年8月30日(24版)

==== 歴史に関わるもの ====
# 佐藤信之(亜細亜大学講師)『首都圏の国電 戦後の発展史』グランプリ出版、2005年6月20日
# 佐藤信之(亜細亜大学講師)『東京圏鉄道プロジェクト 都市鉄道整備の展開』電気車研究会、1995年1月10日

==== 構造に関わるもの ====
# 菊池直助(元中央鉄道学園運転第2課長)ほか9名『直流電車』交友社、1965年3月1日(新訂改版)
# 松田新市『高速度電動機と駆動装置』電気車研究会、1958年6月25日
# 入江則公(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両の基礎理論』1984年10月1日(再版)
# 川添雄司(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両概論』電気車研究会、1971年12月1日
# 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 構造編1』日本鉄道図書、1964年9月20日
# 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか15名『電車運転工学 構造編2』日本鉄道図書、1966年7月1日
# 関東鉄道学園電車研究会『直流用新形電車教本』交友社、1986年3月8日(改訂増補12版)
# 国鉄大井工場電車修繕研究会編『電車の修繕』交友社、1969年7月15日(改訂再版)
# 『鉄道技術研究所80年史』日本国有鉄道鉄道技術研究所、1987年3月31日
# 浅野幸夫(国鉄運転局車務課課長補佐)ほか4名『車両用無接点装置の基礎と応用』交友社、1972年2月18日(4版)
# 久保田博(国鉄小倉工場長)『最新鉄道車両工学』交友社、1972年12月10日(改訂4版)
# 杉山武史(国鉄鉄道技術研究所)ほか26名『鉄道車両と設計技術』大河出版、1980年12月15日

==== 鉄道会社の経営等全般に関わるもの ====
{{refbegin|2}}
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1960』日本国有鉄道、1960年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1961』日本国有鉄道、1961年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1963』日本国有鉄道、1963年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1964』日本国有鉄道、1964年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1965』日本国有鉄道、1965年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1966』日本国有鉄道、1966年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1967』日本国有鉄道、1967年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1968』日本国有鉄道、1968年
# 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1969』日本国有鉄道、1969年
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 昭和34年版』日本国有鉄道、1959年10月
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 昭和37年版』日本国有鉄道、1962年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1963 昭和38年版』日本国有鉄道、1963年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1964 昭和39年版』日本国有鉄道、1964年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1965 昭和40年版』日本国有鉄道、1965年12月20日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1966 昭和42年版』日本国有鉄道、1966年10月14日 <!--昭和42年版は原文まま-->
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1967 昭和42年版』日本国有鉄道、1967年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1968 昭和43年版』日本国有鉄道、1968年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1969 昭和44年版』日本国有鉄道、1969年10月5日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1970 昭和45年版』日本国有鉄道、1970年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1971 昭和46年版』日本国有鉄道、1971年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1972 昭和47年版』日本国有鉄道、1972年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1973 昭和48年版』日本国有鉄道、1973年10月30日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1974 昭和49年版』日本国有鉄道、1974年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1975 昭和50年版』日本国有鉄道、1975年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1976 昭和51年版』日本国有鉄道、1976年10月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1977 昭和52年版』日本国有鉄道、1977年10月20日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1978 昭和53年版』日本国有鉄道、1978年10月30日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1979 昭和54年版』日本国有鉄道、1979年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1980 昭和55年版』日本国有鉄道、1980年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1981 昭和56年版』日本国有鉄道、1981年
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1982 昭和57年版』日本国有鉄道、1982年12月1日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1983 昭和58年版』日本国有鉄道、1983年12月15日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1984 昭和59年版』日本国有鉄道、1985年1月30日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1985 昭和60年版』日本国有鉄道、1985年10月14日
# 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1986 昭和61年版』日本国有鉄道、1986年10月14日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 30年版』交通協力会、1955年3月10日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 31年版』交通協力会、1956年3月10日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 32年版』交通協力会、1957年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1961』交通協力会、1961年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1962』交通協力会、1962年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1963』交通協力会、1963年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1964』交通協力会、1964年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1965』交通協力会、1965年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1966』交通協力会、1966年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1967』交通協力会、1967年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1968』交通協力会、1968年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1969』交通協力会、1969年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1970』交通協力会、1970年2月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1971』交通協力会、1971年3月1日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1972』交通協力会、1972年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1974』交通協力会、1974年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1975』交通協力会、1975年3月20日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1976』交通協力会、1976年3月10日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1977』交通協力会、1977年3月10日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1978』交通協力会、1978年3月10日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1979』交通協力会、1979年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1981』交通協力会、1981年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1982』交通協力会、1982年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1983』交通協力会、1983年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1984』交通協力会、1984年3月15日
# 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1985』交通協力会、1985年3月15日
# 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1988』交通協力会、1988年3月15日
# 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1989』交通協力会、1989年3月15日
# 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1990』交通協力会、1990年3月15日
# 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1991』交通協力会、1991年3月15日
# 国土交通省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 2004』交通協力会、2004年3月25日
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[https://www.youtube.com/watch?v=UXBtEmdcw8s 【秘蔵映像】混色編成も!? 全国で活躍”103系”の歴史を一挙公開] 日テレNEWS 2023.3.18
abc順に配列する。<!-- 註記:サイト名称はサイトのオリジナル表記に合わせて、あえて全角としてあるものがあります。 -->
*[http://club103.kokuden.com CLUB103] - 各車ごとの写真など
*[http://www2.ocn.ne.jp/~jbtbk/ JABOTABEK RAILNEWS] - インドネシア売却車のレポート


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== 関連項目 ==
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[[zh:日本國鐵103系力動]]
[[Category:近畿車輛製の電車]]
[[Category:日立製作所製の電車]]
[[Category:汽車製造製の電車]]
[[Category:帝國車輛工業製の電車]]

2024年12月17日 (火) 05:42時点における最新版

国鉄103系電車
JR西日本所属の103系電車
(左からオレンジスカイブルーウグイス(低運転台))
(2017年10月28日 吹田総合車両所
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
九州旅客鉄道
製造所 汽車製造東急車輛製造近畿車輛川崎車輛/川崎重工業日本車輌製造帝國車輛工業日立製作所東芝
種車 国鉄72系970番台(3000番台)
国鉄101系(クハ103形2000・2050番台、サハ103形750番台)
製造年 1963年(試作車)
1964年 - 1984年(量産車)
製造数 3,447両
改造数 56両(3000番台、クハ103形2000・2050番台とサハ103形750番台の合計)
主要諸元
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500 V
最高運転速度 100 km/h[1]
起動加速度 2.0[* 1] - 3.3 km/h/s[* 2]
減速度(常用) 3.5 km/h/s
減速度(非常) 5.0 km/h/s
車両定員 48(席)+88(立)=136名[* 3]
54(席)+90(立)=144名[* 4]
全長 20,000 mm[1]
全幅 2,870 mm[1]
全高 3,935 mm
車体 普通鋼
台車 ウイングばね式コイルばね台車
DT33(電動車)
TR201(付随車)
車輪径 910 mm (電動車)
860 mm (付随車)
固定軸距 2,300 mm (電動車)
2,100 mm (付随車)
主電動機 直流直巻電動機
MT55形
主電動機出力 110 kW×4基 / 両
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比 6.07[1](860 mm車輪で5.73に相当)
制御方式 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
バーニア制御(地下鉄対応型)
制御装置 国鉄制式CS20形
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
手ブレーキ
保安装置 ATS-B/S/Sn/ST/SW/SK/P,ATC(運用路線によって異なる)
  1. ^ 4M4T編成
  2. ^ 8M2T編成(1000番台)
  3. ^ 先頭車
  4. ^ 中間車
テンプレートを表示

国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車である。1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

本項では、インドネシアの鉄道会社(PT. Kereta Api)に譲渡された車両についても記述する。

概要

[編集]

国鉄初の新性能通勤電車として1957年に登場した101系を基本に、駅間距離の短い線区の運転やMT比1:1の編成を組成可能な経済性を重視し、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で設計され、3,447両が製造された[2]。新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系から編入され、総数は3,503両であるが、後述する105系への改造や老朽化、事故廃車などにより、全車が同時に存在した時期はない。

基本的な構成は、前級に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・幅1,300 mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持主電動機直巻整流子電動機を用いた抵抗制御MM'ユニット方式である。

本系列の設計は帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄東西線乗入用のアルミニウム合金製車両である301系の基本[3]となったほか、地方電化路線用の105系にも応用[4]された。

JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれた。その後老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)が所有していた該当車両は2001年(平成13年)、東日本旅客鉄道(JR東日本)が所有していた該当車両は2009年(平成21年)に形式消滅となっており、2023年2月1日現在残存するのは西日本旅客鉄道(JR西日本)が関西圏で運用する40両と九州旅客鉄道(JR九州)が筑肥線で運用する15両の合計55両である[5]

分割民営化時(1987年)から2022年までの在籍両数[6]
JR東日本 JR東海 JR西日本 JR九州 総計
1987年(昭和62年) 2,418両 70両 894両 54両 3,436両
1988年(昭和63年) 2,418両 70両 894両 54両 3,436両
1989年(平成元年) - - - 54両 -
1990年(平成02年) 2,359両 64両 893両 54両 3,370両
1991年(平成03年) 2,208両 64両 888両 54両 3,214両
1992年(平成04年) - 64両 850両 54両 -
1993年(平成05年) 2,055両 51両 821両 54両 2,981両
1994年(平成06年) 1,979両 51両 817両 54両 2,901両
1995年(平成07年) 1,845両 50両 809両 54両 2,758両
1996年(平成08年) 1,734両 50両 804両 54両 2,642両
1997年(平成09年) 1,640両 50両 795両 54両 2,539両
1998年(平成10年) 1,489両 50両 777両 54両 2,370両
1999年(平成11年) 1,350両 50両 777両 54両 2,231両
2000年(平成12年) 1,284両 17両 775両 54両 2,130両
2001年(平成13年) 1,052両 10両 775両 54両 1,887両
2002年(平成14年) 939両 0両 771両 54両 1,764両
2003年(平成15年) 605両 - 770両 54両 1,429両
2004年(平成16年) 331両 - 734両 54両 1,119両
2005年(平成17年) 146両 - 718両 54両 918両
2006年(平成18年) 31両 - 656両 54両 741両
2007年(平成19年) 4両 - 587両 54両 645両
2008年(平成20年) 4両 - 524両 54両 582両
2009年(平成21年) 4両 - 458両 54両 506両
2010年(平成22年) 0両 - 430両 54両 484両
2011年(平成23年) - - 358両 54両 412両
2012年(平成24年) - - 296両 54両 350両
2013年(平成25年) - - 288両 54両 342両
2014年(平成26年) - - 278両 54両 332両
2015年(平成27年) - - 269両 48両 317両
2016年(平成28年) - - 268両 21両 289両
2017年(平成29年) - - 198両 21両 219両
2018年(平成30年) - - 98両 18両 116両
2019年(令和元年) - - 48両 15両 63両
2020年(令和02年) - - 48両 15両 63両
2022年(令和04年) - - 40両 15両 55両
2023年(令和05年) - - 40両 15両 55両

開発の経緯

[編集]

101系全電動車化計画の頓挫

[編集]

1957年(昭和32年)に国鉄初の新性能電車として登場したモハ90形(後の101系通勤形電車)は当時の民鉄の高性能車に匹敵する加速度・減速度などを備え、国鉄の通勤輸送力の要として期待された[7]。しかし、試運転を重ねるうちに所定の加速度設定では電流が、き電設備に負荷をかけることがわかり、営業運転開始時から101系は本来の性能を出せず[8]、オール電動車編成を持て余すことになる。初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も変電所容量や架線設備が適合するかのチェックを見落としていた[9]。既に1957年(昭和32年)度にモハ90形が150両分予算計上されており、1958年(昭和33年)春から夏にかけて落成したが、量産車も本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる[10]。モーター数を減らした編成で運転した方が車両新製費用が安いことから、1958年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。

101系電車の使用方法の検討

[編集]
第2次5ヵ年計画での昭和40年度編成両数想定[11]
混雑時 閑散時 備考
編成 時隔 編成 時隔
京浜東北 8 2'00" 8 5'00" -
山手 8 2'00" 8 4'00" -
赤羽 8 5'30" 4 5'30" -
中央急行 10 2'00" 8 5'00" -
中央緩行 8 2'30" 8 5'00" -
南武 6 3'00" 4 6'00" -
横浜 8 10'00" 2 - 4 15'00" -
常磐 9 3'00" 6 6'00" 混雑時の時隔は中距離電車等との平均

1959年(昭和34年)に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成の8両編成で運転されていた。1950年代後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6 %以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法にも、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が可能かどうかの検討が始められる。

これらの観点から、1959年(昭和34年)11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T + 付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた[12]。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年(昭和34年)秋頃から実用化[13]され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、モーターを冷やす時間が少ないことから、101系は不利になった。

新形通勤電車の構想

[編集]

101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年(昭和35年)2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた[14]。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用抑速ブレーキとして国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、京阪電気鉄道が1959年(昭和34年)2月以降1650型の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており[15]、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き2000型の営業運転を開始した[16]。また、小田急電鉄では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした2400形がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)度中に落成している。

架線温度上昇問題

[編集]

中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84 %に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上した[17][18]。この問題は、架線を平行に並べるツインシンプルカテナリー方式を用いることで改善できることもあり、中央線と中央・総武緩行線の工事を行った。

101系のパワーアップを検討

[編集]

101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年(昭和35年)3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、初期費用が高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120 kWのMB3039A形[19]電動機を101系2両に搭載し、1961年(昭和36年)1月に中央線や山手線で試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、編成単位での長期試験を行うことも検討された[20]

限界性能の6M4T化

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1960年(昭和35年)初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足[21]にあったことから、101系を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入した[22]。これを実現させるには編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた[23]

標準形通勤電車の設計へ

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新形通勤電車の投入候補線区[9]
候補線区 検討
対象
平均駅間
距離 (km)
平均速度
(km/h)
中央緩行 1.27 39.6
総武 1.74 46.0
京浜東北 1.45 44.4
阪和 1.26 38.6
常磐 - 2.64 52.8
京阪神緩行 - 3.29 56.7

一方、首都圏の通勤事情は悪化し、1961年(昭和36年)1月には中央線朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる[24][25]。この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系を4M3Tで投入を開始した。101系の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える必要があり、旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系は両開きドアであることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系の設計がまとまるまでの間、中央線用に設計された[26]101系を性能的に適さない山手線や総武線などに増備されたのはラッシュ輸送改善のためであり、101系を入れても新性能電車投入のスピードアップなどの効果が薄いため、これらの通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低費用で大量量産する新形通勤電車が必要となった(詳細は国鉄101系電車#計画の頓挫参照)。

101系では当初全M車編成で3.2 km/h/sという加速度が目標[27]とされたが、6M4T化により2.0 km/h/sの加速度と3.0 km/h/sの減速度になった。新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0 km/h/sの加速度に留め、3.5 km/h/sという減速度を目指すことになった[28]

運転時隔と車両性能の検討

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場内信号機建植に特例がある区間(昭和40年)[29]
線名 区間
東北本線 東京 - 大宮間(電車線)
東海道本線 東京 - 横浜間(電車線)
根岸線 横浜 - 磯子間[注 1]
山手線 電車線
中央本線 東京 - 高尾間
総武本線 御茶ノ水 - 千葉間
常磐線 日暮里 - 松戸間
大阪環状線 全線

国鉄では列車同士の追突を防止するために列車の進路を閉塞という区画で区切り信号機により追突を防止する信号保安というシステムを用いた。列車と列車の運転時隔を縮めるためには前を走る列車が駅に停車中に、後続の列車が進行信号で走行する必要があるが、ラッシュ時は客扱いに30秒以上停車する駅もあり、運転時隔を2分以下とするには駅から先行列車が迅速に発車し、後続列車が進行信号で駅に進入するシステムが必要となる。京浜東北線と山手線が同一線上を走っていた1952年10月よりラッシュ時に各々3分40秒間隔、双方合わせると1分50秒間隔運転を開始した際には、後続列車に進行信号を現示し停車時間を確保するために一部の駅のホーム中間に信号機を増設した[30]。モハ90形通勤電車においては、高加速度にて駅から早く発車し運転時隔を縮めようとしたが、電力設備が追いつかず、旧形国電とさほど変わらぬ加速度に落ち着いたが、運転時分を短縮するにはホーム中間に信号機を設ける方法は効果的なことから、京浜東北線と山手線が分離運転を始めた1956年11月19日以降も大部分の駅にホーム中間信号機を設置したが、それ以外にも信号機をこれまでの赤・黄・緑の3灯現示以外に25 km/h以下での進行を指示する警戒信号(黄 + 黄)や65 km/h以下で進む減速信号(黄 + 緑)などの多灯信号機を導入し駅手前に短い閉塞区間を設けるなどの措置を講じた[31]

ホーム中間信号機が設置してある線区での運転時隔は、列車最後部がホーム中間の信号機を通過するまでの走行時間が重要となり、その場合は4.0 km/h/sの高加速度でも2.0 km/h/sの加速度でも運転時隔に差がないことが判明した。ホーム中間に信号機がある場合、後続列車への影響は駅を出た列車の最後尾がホームを出た先にある出発信号機を通過する時間ではなく、ホーム中間の信号機を通過するまでの時間が重要となり、ホーム中間の信号機は列車停止位置の最後尾から100 m以下であるため、列車の起動加速度を究極まで高めても効果が低いためだ。運転時分の算定にはブレーキ初速度やホーム中間の信号機の位置、列車の長さなど、いくつかのパラメータを与えれば求まる計算式があり、それらを様々な条件を当てはめてシミュレートした結果、起動加速度2.0 km/h/s・減速度2.5 km/h/s程度、ブレーキ初速度60 km/h程度、ホーム中間の信号機を設けていることが適していることがわかった[32]。これらのことから、新形通勤電車の設計にあたっては、起動時の電流量が多くなり電力設備に負荷をかける加速度を高めるのではなく、加速度は低く2.0 km/h/s程度に抑え、ブレーキ減速度を3.5 km/h/sと高めにとることにした[33]

なお、場内信号機の建植位置は、運転保安設備基準規程[注 2]により駅の列車停止位置より150 m以上外方と決められているが、表の路線は特例としてホーム中央などに場内信号機を設置した。1961年(昭和36年)当時の山手線品川 - 新宿 - 田端間でホーム中間に信号機が設置されていたのは一部の駅だけであった[34]が、1974年までに全駅でホーム中間に信号機の整備が完了[35]している。

主電動機の設計

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101系が中央線など駅間距離が長い路線でないと使えない電車になってしまったのは、オール電動車で設計されていたものをモーターの付いていない車両を編成中に増やしたことによるモーターの過負荷が原因である。特に通勤線区は駅間距離が短い路線が多いため、101系電車で運転しようとすると、モーター車の比率を高めるか限流値を下げて運転速度を落とすしかなかった。これは、101系に用いられているMT46Aという主電動機の熱容量が小さかったからである。熱容量にはモーターの絶縁材が大きく関わっており、MT46Aの温度上昇限度は電機子が特別B種の120度まで、界磁がH種で150度までの制約があり、電流を流した時に発生する熱は電流の二乗に比例するため、大きな電流を流して加速度を高めると電動機の大きな過熱を招いて絶縁材の寿命が短くなる。温度が8度上がるだけで絶縁材の寿命が半減するという「8度半減則」という法則[36]もあり、許容温度以上の負荷使用は、特別な場合を除き避けなければならなかった。

RMS電流は求める線区の運転曲線から列車の電流量を計算により求める手法[37]である。その列車が実際に運転を行った後は、主電動機の温度が上昇するが、これを最初から一定の電流を流して同様な温度上昇になる数値を計算により求めることともいえる。よって、その列車が運転曲線通りに運転できるかどうかは、RMS電流を計算して主電動機の連続定格電流以下か、一時間定格電流の80 %以下の電流値であることが求められる。ちなみに、基準運転時分作成のための速度定数業務では速度定数査定基準規程(昭和39年12月10日)によって様々な条件が課せられるが、主電動機の温度制限に関する第33条の内容は下記の通り。

  • 第33条 主電動機の温度は、次の各号に揚げる場合、その温度上昇の許容限度内にあるとみなす。
    1. 運転線図における加速区間の平均加速電流及びその他区間の電流が1時間定格以内の場合
    2. 運転全区間のR.M.S電流(平均二乗平方根電流)が1時間定格の80 %以内の場合
    3. 運転線図に基づいて温度上昇を計算した結果が許容限度内にある場合

限流値を一時間定格電流以下に設定して運転する旧形国電と違い、MT46以降の電車用主電動機は電流の過負荷に対する耐性が一時間定格電流の160 %までで設計されており、起動電流を大きく取って加速度を高めると、モーターが過負荷運転になる場合もあった。そこで1959年(昭和34年)の秋頃から、主電動機の温度上昇限度をオーバーせずに運転線図を作成し運転計画を立てることが当然となり、RMS電流計算により推定する[38]ことが基本となった。

前述のように、101系をモデルチェンジした新型車両では回生ブレーキの採用や出力の増強が見送られ、運転時隔や架線への影響、消費電力量などの経済性なども含めて通勤用途に適した主電動機を新たに設計することになった。消費電力量や起動電流の面からは定格速度を低く取る方が良いが、低く取りすぎると力行率が増して回復運転余力がなくなるほか、高速運転のために極端に界磁を弱める必要が出たり、電気ブレーキ使用時に過電圧になる問題があった[39]。これらを勘案し、標準形通勤電車用としてMT55形主電動機を開発した。回生ブレーキの採用は定期的に発生する維持費用の低減をはるかに上回る試算になったため見送られた[9]

103系通勤電車用としては、端子電圧375 VのMT55が設計された。想定される速度域や消費電力量などを考慮し、全界磁定格回転数は1,250 rpmで103系に搭載した場合の定格速度は33.5 km/hという中速形の電動機となった。

本系列の投入先

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新型通勤電車の概要がまとまると、どの線区に投入するかが焦点となった。1962年(昭和37年)6月頃には本系列を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされた。

1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300 Aでの運転を想定しており、限流値を350 A → 480 Aにするための変電所増強計画が提案・検討された。変電所増強時点で、本系列4M4Tで限流値415 Aの場合、101系6M2Tの限流値480 Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことが可能と判断されたため、本系列の山手線投入を早急に決定しなければ、不要な変電所増強を行うことになる。このため1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新型通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて本系列は山手線に投入し、101系を総武緩行線に転用することが決定された。

1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われた。電動車比率が上がったことから限流値は300 Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたが、変電所増強が完了するまで、新性能化がされながらも旧性能車並に制約を受けざるを得なかったのが、当時の首都圏電力事情である。

量産

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1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成が落成し、9か月に渡る試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入った。試運転では問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。1964年(昭和39年)5月より量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度で202両が製造された。捻出された101系(カナリアイエロー)は中央・総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で運用された。

103系は1964年以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、1970 - 1980年代(昭和40 - 50年代)の首都圏近畿圏など日本都市圏通勤輸送を支えた。JR化後は3500両近い103系がJRに承継されたが運用線区の変更や置き換えなどが行われた。

製造名目

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103系は大量に生産されたが、何の目的で製造されたかという製造名目がある。年度計については早期債務や1次債務での発注は年度初めに投入される部分であるが、1960年代前年度末までに入っていたことがあり、それに従い、年度末までに投入された予算は年度をまたいでも前年度で計上しているものもある。

年度ごと製造両数と製造名目[40]
年度 年度計 累計 製造予算 製造数 製造名目 投入先
1962年
(昭和37年)
8両 8両 昭和37年度本予算 8両 103系試作車新製 山手線
1964年
(昭和39年)
202両 210両 昭和38年度第3次債務 16両 総武線新性能化用 山手線
昭和38年度第4次債務 40両 総武線新性能化用 山手線
昭和39年度民有 16両 総武線新性能化用 山手線
昭和39年度第2次民有 112両 総武線新性能化用 山手線
昭和39年度早期債務 18両 総武線新性能化用 山手線
1965年
(昭和40年)
350両 560両 昭和39年度第3次債務 90両 総武線新性能化用 山手線
昭和40年度民有 136両 京浜東北線新性能化用 京浜東北線
昭和40年度第2次民有 124両 京浜東北線新性能化用 京浜東北線
1966年
(昭和41年)
445両 1005両 昭和40年度早期債務 42両 京浜東北線新性能化用 京浜東北線
昭和40年度第2次債務 108両 京浜東北線新性能化および10両化用・
総武線新性能化用
京浜東北、山手線
昭和41年度本予算 100両 京浜東北線新性能化および10両化用 京浜東北線
昭和41年度第1次債務 195両 京浜東北線新性能化用・
赤羽線新性能化用・
長野原線電化用
京浜東北、山手線
1967年
(昭和42年)
158両 1163両 昭和42年度本予算 48両 総武線新性能化用 山手線
昭和42年度本予算追加 110両 常磐線新性能化用(御殿場線・内房線木更津電化用) 常磐線
1968年
(昭和43年)
158両 1321両 昭和42年度第3次債務 64両 山手線10両化用・
阪和線新性能化用
山手、阪和線
昭和43年度第1次債務 94両 総武線新性能化用 山手線
1969年
(昭和44年)
117両 1438両 昭和43年度第5次債務 49両 東海道山陽線新性能化用 東海道山陽線
昭和44年度本予算追加 68両 大阪環状線増発用・
東海道山陽線新性能化用
大阪環状、東海道山陽線
1970年
(昭和45年)
179両 1617両 昭和44年度第2次債務 22両 山手線10両化用 山手線
昭和44年度第3次債務 10両 根岸線洋光台延長用 京浜東北線
昭和44年度第4次債務 87両 呉線電化用・
吾妻線大前、地下鉄東西線西船橋、常磐緩行線開業用
常磐、山手、総武、常磐線
昭和45年度民有 60両 常磐緩行線開業用 常磐線
1971年
(昭和46年)
85両 1702両 昭和45年度第1次債務 60両 常磐緩行線開業用 常磐線
昭和46年度本予算 25両 東海道山陽線新性能化用 東海道山陽線
1972年
(昭和47年)
293両 1995両 昭和46年度第1次債務 93両 常磐緩行線開業用 常磐線
昭和46年度第3次債務 44両 東西線津田沼乗入用・
常磐線10両化用
総武、常磐線
昭和47年度民有 156両 武蔵野線、根岸線大船開業用・
京浜東北線増結増発用・
山手線増発用
中央、山手線
1973年
(昭和48年)
257両 2252両 昭和48年度民有 92両 関西線電化用・
大阪環状線輸送力増強用
大阪環状線
昭和47年度第3次債務 10両 我孫子線電化用 山手線
昭和48年度第3次民有 155両 東海道山陽線、横浜線、阪和線新性能化 山手、中央線
1974年
(昭和49年)
60両 2312両 昭和48年度第2次債務 60両 横浜線新性能化用 京浜東北線
1975年
(昭和50年)
175両 2487両 昭和49年度第1次債務 80両 東海道山陽線新性能化用 東海道山陽、山手線
昭和49年度第3次債務 40両 南武線新性能化用・
大阪環状線輸送力増強用
京浜東北、大阪環状線
昭和50年度本予算 55両 片町線、阪和線新性能化用・
武蔵野線延長用
京浜東北、大阪環状線
1976年
(昭和51年)
233両 2720両 昭和50年度第1次債務 45両 片町線新性能化用 京浜東北、大阪環状線
昭和50年度第3次債務 112両 阪和線、青梅五日市線新性能化・武蔵野線延長用 京浜東北、大阪環状線
昭和51年度本予算 76両 阪和線、中央西線新性能化・武蔵野線延長用 京浜東北線
1977年
(昭和52年)
191両 2911両 昭和51年度第1次債務 181両 南武線、青梅五日市線新性能化 京浜東北、山手線
昭和52年度本予算 10両 成田線増発用 京浜東北、山手線
1978年
(昭和53年)
155両 3066両 昭和52年度第1次債務 38両 紀勢線電化用・
東西線増発用
京浜東北、総武線
昭和52年度第2次債務 21両 東海道山陽線、中央西線輸送力増強 京浜東北、山手、東海道山陽線
昭和53年度本予算 96両 101系取替用・
仙石線新性能化用
山手、中央、総武線
1979年
(昭和54年)
183両 3249両 昭和53年度第1次債務 52両 101系取替用・
仙石線新性能化用
京浜東北、山手、総武線
昭和53年度第2次債務 91両 横浜線新性能化用・
片町線輸送力増強用
京浜東北、山手、総武、片町、大阪環状線
昭和53年度第3次債務 40両 鶴見線新性能化用 総武線
1980年
(昭和55年)
130両 3379両 昭和54年度第2次債務 94両 101系取替用・
阪和線、横浜線、武蔵野線輸送力増強用
中央、阪和、京浜東北、片町、大阪環状線
昭和54年度第3次債務 18両 福知山線電化用 福知山線
昭和55年度本予算 18両 福知山線電化用 福知山線
1982年
(昭和57年)
54両 3433両 昭和56年度第1次債務 12両 筑肥線電化用 筑肥線
昭和56年度第3次債務 42両 筑肥線電化用 筑肥線
1983年
(昭和58年)
14両 3447両 昭和57年度第3次債務 10両 赤羽線10両化用 赤羽線
昭和57年度第4次債務 4両 山手線増発用 山手線

構造

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特記のない場合、0番台の量産車についての解説としている。

車体

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車体は101系をベースに片側両開き4扉、普通鋼が採用されたが変更点がある。製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車で相違が大きい。屋根コンタは肩部から順に250R・1,000R・2,500R・5,000R(1500番台を除く)[41]

車内の床は101系ではリノリウムコルク材を使用)が貼られていたが、リノリウムを塗り固めた構造では修繕作業に手間がかかることから、103系では床面痛み対策として床鋼板の上に床仕上げ剤を装着した簡易な構造に変更された[42][注 3]。遮音性・遮熱性は損なわれた一方で、101系とは異なりA基準を満たした構造となった。床の厚みが薄いことから台枠底面の高さが上昇したが、床面高さは101系と同じに揃えられたため、後年に登場した101系改造編入車などとの連結時は、車体裾の高さが不揃いとなった[43]

運転台窓は101系と同じく非貫通の3枚分割窓であるが、101系より幅が広くなり、高さが上下に小さくなっている[43]。これは運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐための配慮である。夏季の通気性向上のため、運転台下部正面中央にも外気導入口が追加された。正面行先表示器の寸法も横方向に拡大された[44]

主電動機および電動発電機冷却風取入口は電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式が採用された[45]。モーター付き車両の側面には主電動機などの回転機の冷却風の取込用として風取り入れ口を設けた[46]

側面の客用扉は、101系と同様の幅1,300 mmの両開き扉が片側に4箇所配置された[44]。両開き式客用扉のドアエンジン機構が変更され、西武建設(→西武所沢車両工場)が西武鉄道451系電車向けに開発した両開き扉の連動開閉機構「ST式戸閉装置」が導入された[47]。1基のドアエンジン(TK4形)とドア上鴨居に仕込まれた連動ベルトで構成され、低費用で簡略ながら作動の確実性も高い開閉機構となっている。

後期に増備された先頭車では、視認性向上のため従来の低運転台から高運転台に変更された。地下鉄直通用の1000番台・1200番台では、前面に非常用の貫通扉が設置された。1500番台では従来の103系と異なる車体となり、基本形態は201系に、前面スタイルは105系に準じたものとなった。

乗務員室

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クハ103-235 運転台

運転台の機器配置は、人間工学を取り入れたユニット式となった[47]。メーター類は視認性を重視した配置となり、マスコン・ブレーキハンドル・運転士座席は操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられた。扱いやすさの観点から、多用するスイッチ類は制御卓に集約された。

主要装置

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主電動機

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主電動機は、1時間定格出力110 kWのMT55形である[48]。MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、主電動機を低回転数トルク特性を重視して定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計とした。原設計は日立製作所が担当[49]。MT55は直径が大きいため、電動台車の車輪径は旧型電車並みの910 mmと大きくなっている[50]

高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で最大限弱めることとし、弱め界磁率を35 %と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時におけるRMS電流を1時間定格の80 %、回復余力を10 %と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、主電動機出力は110 kWとした[51]。定格速度は36.5 km/hとなり、定格回転数は1,350 rpmとなった。これは定格速度が低く、実際では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85 %界磁上においてバランスをとっている[52]。また最大許容端子電圧をMT54などの750 Vではなく900 Vまでにしたことで、電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。

製造年度により初期型のMT55、中期型でISOネジ採用のMT55A、冷却ファン構造が強化された後期型MT55Aの計3種類が存在しており、いずれも同一機能で完全互換性がある。後期型MT55AはMT55、前期型MT55Aと走行時の音が異なる。

  • MT55形の主要諸元
    • 1時間定格出力 = 110 kW / 375 V / 330 A / 1350 rpm(85 %界磁)[注 4]
    • 85 %界磁定格速度 = 36.5 km/h[注 5]
    • 加速度 = 4M4T時2.0(6M4T時2.3)km/h/s[注 6]

台車・駆動装置

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台車はコスト低減のため、枕ばねにコイルばねが採用された[42]。電動台車は主電動機のMT55形が大直径化したのに合わせ、車輪径は通常の860 mmより大きい910 mm、ホイールベースは通常の2100 mmより長い2300 mmとなった[45]

試作車では電動台車はDT26C形が、付随台車はTR62X形が搭載された[48]。電動台車DT26C形はクモヤ791形用のDT26形の枕ばねをコイルばねに変更したもので[45]DT21形の派生形式である。付随台車のTR62X形は、クハ111形等で用いられるTR62形のブレーキシューを片押し式踏面ブレーキに変更したものである[45]

量産車では電動台車にDT33形が、付随台車にTR201形が搭載された[53]。DT33形はDT26C形の、TR201形はTR62X形の量産化形式である。付随台車は量産の途中でTR201形のブレーキを再度ディスクブレーキ化したTR212形に変更された。

駆動方式は101系と同様の中空軸平行カルダン駆動方式である[50]歯車比は低速性能に重点を置くため、101系の15:84=5.60に対して103系では15:91=1:6.07とされた[50]。860 mmの車輪径で換算すると、1:5.73に相当する。

ブレーキ

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ブレーキ装置は101系と同様、発電ブレーキを併用する電磁直通ブレーキのSELDが採用された[54]。電動空気圧縮機は、従来の国鉄新性能電車の標準型だったMH80-C1000に代わり容量を拡大したMH113-C2000Mが採用され[48]、搭載車両はM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約された。

山手線の103系が40 km/hから50 km/hの間で電気ブレーキを掛けた場合に前後衝動が激しく、乗客にけが人が出ることもあった。そこで運転士が2段ブレーキを用いて対策を講じたが、ブレーキ距離などの問題があった。原因究明の結果、103系のMT55は電気ブレーキの立ち上がり時に急激に電流が流れることで大きなブレーキが発生していたことがわかった。対策後、ブレーキ時の衝動は少なくなった[55]

その他機器

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電動発電機は101系の主抵抗器冷却送風機兼用形から独立させ、車体側面の給気口から冷却風を散り入れる構造に変更された[45]。地下形を除く初期非冷房車は、115系165系でも用いられた容量20 kVAのMH97-DM61がM'車(モハ102形)に搭載された[48]

パンタグラフは、高圧引通線の短縮化などを目的にM車(クモハ103形・モハ103形)に搭載された。形式は101系後期車と同じPS16形である[48]

性能

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103系は国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、主に比較的駅間が短く運転速度の低い線区で使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35 %まで弱めて高速特性を近郊形電車の111系並に設定[56]している。設計当時多くの路線で最高速度が95 km/hであったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などにも投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造[57]を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策[58]などを施した車両も存在した。

なお、最初の投入先が山手線であったことから駅間距離が短い山手線専用形式と言われたこと[59]もあったが、当時の関係者によって完全に否定[60]されている。最高速度は100 km/hとなっているが、MT比1:1では90 km/hを超えると加速余力は少なく95 km/h程度である[61]

形式

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本系列は電動車にMM'ユニット方式を採用しており、モハまたはクモハ103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は慣例に準じて記述する。車両の方向は東海道本線基準で奇数向きは東京寄り、偶数向きは神戸寄りを表す。

クモハ103形 (Mc)
モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器などの主回路を構成する機器群を搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期の1965年(昭和40年)から1968年(昭和43年)の3年間に限られた。3両〜5両を組成する場合にはこの形式が必要となる[注 7]
クモハ102形 (Mc')
モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機(MG)MH97-DM61や空気圧縮機(CP)MH113-C2000Mなどの機器を搭載する。偶数向き専用。国鉄は車種が増えることを避けたために1970年から製造された1200番台5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形から改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となった。
モハ103形 (M)
クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様にパンタグラフと主制御器を搭載する。
モハ102形 (M')
クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に電動発電機(MG)MH97-DM61と空気圧縮機(CP)MH113-C2000Mを搭載する。
クハ103形 (Tc)
制御車。75 - 91および線区の事情で方向転換した車両を除く0・900・1000・1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。クモハ103形と同時に製造された500番台は偶数向き専用で、101系ではクハ100形に相当する。
サハ103形 (T)
運転台のない付随車で量産化開始の1964年から製造された。

新造車

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103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番により仕様の判別が可能である。

試作車

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1963年3月に先行試作車として新造された車両で、山手線用に4両編成2本の8両が製造された[47]。新製配置は池袋電車区である[62]。量産車との相違点を以下に示す。

台車はコイルばね台車で、電動車がDT26C形、付随車がTR62X形を装着した[48]。DT26C形はクモヤ791形のDT26形が、TR62X形は近郊型111系・修学旅行用155系用のTR62形がベースとなっている[45]

ブレーキは、高速域は電動車の発電ブレーキのみで、低速域は付随車の空気ブレーキも付加する方式が採用された。空気圧縮機は101系のC1000形を大容量化したC2000形が試用されることとなり、モハ102-1には歯車直結式のMH113-C2000M、モハ102-2には電動機直結式のMH114-C2000Nがそれぞれ搭載された[48]。ジャンパ連結器はKE58形2基(19芯×2)となった[54]

車体塗装はウグイス色(黄緑6号[63]となり、車両番号はウグイス色の地に白文字とされた。

103系試作車は1963年3月25日に落成後、東北本線で公式試運転が行われた[63]。続いて東海道本線や山手線でも試運転が行われ、1963年12月より営業運転に投入された[64]

改良を加えた量産車が1964年に登場するのを前に、先行試作車は1からの番号を量産車に転用することとなり、1964年3月31日付で900番台に改番された[64]。1967年には量産化改造が行われている[45]

0番台

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0番台
クモハ103-131
2004年8月28日 大川駅
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
主要諸元
起動加速度 2.0 km/h/s
自重 最小 - 25.8 t(サハ103 1964年度車)
最大 - 40.2 t(モハ102 1974年度車)
保安装置 ATS-SW
ATS-P
ATS-Ps
ATC-6(1974年以降製造の一部、すでに消滅)
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試作車での試験結果を経て、ブレーキの改良や台車等の設計変更を行った量産車として、0番台が1964年5月に登場した[54]

1984年までに3184両が製造された、103系の基本形式である。長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年による区分である。

初期車

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1964年から1967年にかけて製造されたクモハ103-1 - 133・モハ103-1 - 159・モハ102-1 - 292・クハ103-1 - 114・501 - 616・サハ103-1 - 225の計1039両が該当する。山手線向けを皮切りに、首都圏各線区へ導入された。

山手線に先行投入されていた試作車では4両編成2本の8両編成を組んでいたが、量産車では8両貫通編成とされたため、新形式のサハ103形が追加された。京浜東北線向けは下十条電車区の検修線が8両分しか確保できないため、7両 + 3両の10両編成を組むこととなり、1965年に103系初の制御電動車としてクモハ103形が投入された[53]。クモハ103形は奇数向き専用であり、編成で対となるクハは偶数向きに固定されていたため、1966年より偶数向き専用としてクハ103形500番台が登場している[65]

車体は試作車とほぼ同様であるが、ウグイス色の地色に対する文字の表記が白から黒に変更された[53]。引き通し線は試作車が101系と同じKE58形2本であったものを、量産車ではKE70形1本に変更された[53]

台車は試作車の実績を踏まえた改良が行われ、電動台車がDT33に、付随台車がTR201にそれぞれ変更された[53]。ブレーキは試作車では発電ブレーキ優先の構造であったが、ブレーキ距離が長くなり空転も頻発したため、101系と同じく発電ブレーキ・空気ブレーキを併用する方式に変更された[66]。空気圧縮機は試作車で試用された2種類のうち、歯車直結式のMH113-C2000Mに統一された[53]

前照灯は、101系と同じく250 W白熱灯1灯が装備された。白熱灯は1970年(昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車・クモハ103-1 - 155)に採用されている。

1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」から、客用ドアがステンレス製に変更されており、それ以前に製造された鋼製ドア車もステンレス製のものに交換されたが、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用車両も存在している。

ディスクブレーキ採用車

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上記に続いて1967年から1970年にかけて製造された量産車グループで、クモハ103-134 - 155・モハ103-160 - 278・モハ102-293 - 433・クハ103-115 - 177・617 - 638・サハ103-226 - 305の計447両が該当する。

1967年(昭和42年)の「昭和42年度本予算追加車」では高速運転を行う常磐線に初投入されており、高速域からのブレーキ対策として付随車の台車ディスクブレーキ装備のTR212形に変更されている[67]。続く「昭和42年度第3次債務車」は阪和線に投入され、関西初の103系となった。

1967年11月にはバーニヤ制御の試作車として電動車ユニット3組6両が投入され、910番台に区分された[65]

クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、本グループで製造が打切られた。

試作冷房車

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クハ103-178
試作冷房車
床下にMGを搭載

1968年(昭和43年)に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)が初代5000系・5100系電車増備車に冷房を装備したのを皮切りに、私鉄において冷房を取付けたロングシート車両が登場した[注 8]のに呼応し、私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して10両編成1本が山手線に試験投入された[68][69]

113系では既存の非冷房車に試作の冷房装置が改造搭載されたが、103系の試作冷房車は113系と異なり新製車の投入となった[70]

試作車冷房編成[注 9]
 
(大崎駅基準)
← 渋谷・新宿・池袋
上野・東京・品川 →
車両番号 クハ103-179 モハ103-279 モハ102-434 サハ103-306 モハ103-280 モハ102-435 サハ103-307 モハ103-281 モハ102-436 クハ103-178
冷房装置
製造会社
AU75X形
三菱電機
AU74X形
日立製作所
AU73X形
東京芝浦電気
扇風機 あり なし あり なし あり なし あり
風道構造 2本 1本 2本 1本 2本 1本 2本

冷房方式の比較・検討のために以下の仕様となった。

  • 異なるメーカーの試作した3種の試作冷房装置集中式)を屋根上に搭載。AU73X[71]、AU74X[72]、AU75X[73]の3種類で、いずれも容量は48.84 kW(42,000 kcal/h)である[70]
    • 冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental) を意味するサフィクス(接尾辞、拡張子)。
  • 同じ冷房装置を搭載する車両でも、各車で送風ダクト本数(1本方式または2本方式)や室内通風口の位置といった風道構造、扇風機の有無などの差を付けた[68]
  • 冷房電源用のMG は、通常のモハ102形搭載とは別途に編成両端のクハ103形に出力210 kVAのMH129-DM88(出力電圧:三相交流440V,60Hz)が1基ずつ搭載され、それぞれ5両給電とした[74][75]

冷房装置の本体構造には次の大きな相違点がある。

  • AU73X形:AU74X形…冷房装置の内部に3基の凝縮器と圧縮機を内蔵[68]
  • AU75X形…冷房装置の内部に2基の大型凝縮器と圧縮機を内蔵[68]
    • 1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2が有利であったが、製造・保守費用の点ではAU75X形の方が有利。

後に東京芝浦電気(東芝)と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を試作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定された[76][77]。試験の結果、天井ダクト本数は大きく関係しないことから1本ダクト方式を採用、また扇風機を併用することが効果的であると結論づけられた[76]。翌1971年以降、冷房装置と扇風機を併用したAU75系としてこれら3社の手で量産が開始された。

このグループはクハ103形最後の白熱灯式前照灯採用車であるが、冷房搭載のほかに以下の設計変更が行われた。

  • 客室窓を製造工数低減と気密性向上の観点から外ハメ式のユニット窓に変更[70]、運転席下の通風口を省略。
  • 客室座席を人間工学に配慮した新型に変更
    • 座面低下・奥行きの延長・背もたれの角度も増大を実施
  • 座席下の客室ヒーターとその設置方法を改良
    • 暖房放射面積の増大と暖房能力の強化の観点から、従来7人掛け中央に1基設置→U字型の取付幅が広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置へ変更

当初は池袋電車区(現在の池袋運輸区)に配置されていたが、1978年(昭和53年)の冷房試験終了後に量産冷房車と同仕様に改造。その際に側面車端部への電動行先表示器の取り付けと前面の行先表示器の電動化も同時に施工された。1979年(昭和54年)以降は山手線のATC化に伴う転配により、各車が転属を繰り返すようになった。

2000年(平成12年)4月3日に習志野電車区(現在の習志野運輸区)配置の4両より廃車が始まり、2005年(平成17年)11月22日に京葉車両センター配置のサハ103-307をもって廃車となった。

1次改良車

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クハ103-184
1次改良車グループ

保守の省力化を図る改良が加えられたグループで、1972年2月に登場した[78]。モハ103-282 - 330・モハ102-437 - 486・クハ103-180 - 212・サハ103-308 - 323の計148両が該当する。モハ102形がモハ103形より1両多いのは、1971年5月の根岸線洋光台事故で廃車となったモハ102-169の補填としてモハ102-445が製造されたためである[79]

側窓は試作冷房車と同じユニット窓となり、前照灯は1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯となった[78]。主制御器は限流継電器の無接点化など保守の省力化を図ったCS20D形に変更された。冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口が復活している。

発注時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたが、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから「1次改良車」とも呼ばれる。なお、これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。

冷房化はグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されず、分割民営化後に軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する[注 10]。冷房改造時にクハ103形の前面通風口は埋込まれており、現存車両はすべて後述の1973年(昭和48年)製造車と同一形状となった。

昭和46年度第3次債務車(モハ103-316以降、モハ102-472以降)では、103系1200番台の増備車とともに主電動機がISOネジ採用のMT55A形に変更された[80]

京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区(現・網干総合車両所明石支所)に新製配置されており、クハ103形は188が松戸電車区(現・松戸車両センター)に新製配置された以外はすべて明石電車区の配置となった[81]

量産冷房車

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クハ103-239

前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載して製造されたグループで、1973年に製造されたモハ103-331 - 413・モハ102-487 - 569・クハ103-213 - 268・サハ103-324 - 359の計258両が該当する。ただし、京浜東北線に配置されたモハ103-373 - 382・モハ102-529 - 538は、非冷房車編成に組み込まれることから非冷房車として製造された(後にAU75系冷房装置にて冷房改造)。

冷房装置はモハ103-410、モハ102-566、クハ103-266、サハ103-357まではAU75A形、以降はロールフィルター内蔵のAU75B形が採用された。

冷房用の電動発電機 (MG) は、試作冷房車と異なり制御・補助回路との兼用とした出力160 kVAのMH135-DM92がモハ102形に搭載され、自車を含め4両までの給電に対応した[80]。これは本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮したものである。これにあわせて、車体2・4位側[注 11]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。

居住性の改善目的で、座席の奥行きが550 mmに拡大された[82]。また、蛍光灯の出入口部への増設が実施された[81]

後位側面に電動行先表示器が設置され、前面の行先表示器も電動式となった[82]。前面幕は位置若干変更が実施され、側面幕下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更された。クハ103形の前面通風口は冷房化により再び廃止された。

行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓は廃止された[80]。客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、その下の妻窓上段が固定化された[80]

中央快速線高尾駅など、終着駅での折返しによる長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設し、各車両の両端2か所の側引戸を閉、中央2か所を開とする事が可能となった[80]。しかし、営業運転での実際の使用例はなかったとされる[80]

京浜東北線に投入された非冷房車は、MGも従来の20 kVAのものであり、側面の行先表示器も省略された[81]

当初、山手線・中央線快速(主に特別快速で運用された)および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して関東配属の先頭車の多くは1974年(昭和49年)に新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属した。「低運転台 + 新造時からシールドビーム」形態のクハ103形は関東地区では極めて少数派となった。中央線快速残存車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼電車区に転属。さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。

高運転台ATC・非ATC車

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1974年から1981年にかけて増備されたモハ103-414 - 786・モハ102-570 - 899及び2001 - 2043・クハ103-269 - 499及び701 - 844・846・848・850・サハ103-360 - 503の計1268両が該当する。クハ103形は将来の山手線・京浜東北線のATC化に対応するとともに、運転環境向上のため高運転台が採用された。

増備の過程でクハ103形は車両番号が499に達したため、以降の増備車は500番台との重複を避けて701以降の飛び番が付与された[83]。モハ102形も同様に車両番号が899に達したため、以降は1000番台・1200番台との重複を避けて2001以降の飛び番が付与された[83]。飛び番に伴う番台区分はない。

踏切事故対策や視認性向上のため、運転台部分は300 mm高い高運転台構造に変更され、正面窓の位置も高くなった[81]。正面窓下にはステンレスの飾り帯が設置され、デザイン上のアクセントとなった[84]。窓下の面が間延びしないようにとの配慮も込められている。

ATC化のための準備として、運転台後部にATC装置(ATC-6)を搭載する機器室が設置され、乗務員室が客室側に600 mm食い込む形となった。この機器室の設置に伴い、同部分の戸袋窓は廃止された[85]。ブレーキ弁はME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更された。昭和52年度本予算車より、ATC装置を本格搭載して落成した[85]

クハ103形は奇数向き車と偶数向き車で別仕様とされており、ATC運転時は奇数・偶数の向きを固定して使用された[85]。これはATCの信号波が上下線で異なるためである[84]

北陸トンネル火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、A-A基準に準拠した。妻扉のガラスが網入りになり、消火器が増設された(1両につき2箇所に)。1977年後期製造車からは座席下の蹴込み板がステンレス製になるなど、車内の完全無塗装化が行われた。

1973年製造車で設置が開始された半閉回路は、使用時間帯の選定が困難とされたため、クハ103-317以降から廃止された[85]

後に中央快速線や福知山線などのATC非設置線区にも投入されることになり、対応するクハ103-797・799 - 808・810 - 815・817 - 844・846・848・850はATC関連非装備で製造され[注 12]、ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME40A形ブレーキ弁装備で落成した。

本グループの途中から主電動機MT55Aの自己冷却ファンの形状が変更されている。なおMT55とMT55Aのファンの相違による2種の計3種類とも完全互換性があり、全般検査の機会に台車の交換が行われた事から、製造年が古い車輌にMT55A後期型、新しい車輌にMT55が搭載されるなど多様な形態が見られた。なお自己冷却ファンは外扇型である。

なお、サハ103形は本グループをもって製造終了となった。

最終増備車

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モハ102-2050

103系の最終増備車であり、モハ103-787 - 793・モハ102-2044 - 2050の計14両が該当する。103系の後継車として201系の増備が開始されていたが、1984年の赤羽線の10両編成化と山手線の増発用として1983年 - 1984年に中間電動車ユニットのみが増備された[86]

屋根はゴム布張り屋根から塗屋根へ変更され[86]、クーラー・パンタグラフの横のランボードは201系と同一形状に変更された。各窓支持Hゴムは、材質変更により白から黒に変更された[83]。側扉開口部周囲は完全溶接化されている。冷房装置は部品にメーカー間の共通性を持たせた改良形のAU75E形に変更され[86]、キセはステンレスとなった。

赤羽線の10連化および山手線輸送改善の件名で新製され、池袋電車区に配属された。

  • モハ103-787 - 791 + モハ102-2044 - 2048の5ユニットがカナリア色で赤羽線用。
  • モハ103-792・793 + モハ102-2049・2050の2ユニットがウグイス色で山手線用。

その後、カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年(昭和60年)9月末の埼京線開業による受持区所の変更のため川越電車区(現在の川越車両センター)に転属し、そのまま埼京線で運用された。分割民営化時には全車JR東日本に承継されたが、2002年から2005年にかけて全車廃車され、特に1984年製造車は経年18年での廃車になった。

クハ103形500番台

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クハ103-580

1965年(昭和40年)に京浜東北線への本系列投入が開始されたが、当初は基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていたことと、下十条電車区と蒲田電車区では検修線が10両分無かったことから3両と7両に編成を分割して使うこととなった。投入当時は京浜東北線の10両設備が未完成であったことから2両 + 6両の8両編成で使用された。2両と6両に分ける必要があるため奇数向きの先頭車としてクモハ103形が設計され、反対側はクハ103形0番台が連結された。しかし、クモハ103と対になるクハ103形は向きが偶数向きに固定されることから、両渡り式のクハ103形0番台では、ジャンパ栓納めや床下の配線が一部省略できること、両栓のジャンパ連結器を片栓の物にできることで費用を下げることが図れることから、1966年(昭和41年)4月以降の10両編成対応の製造分から、偶数向きの片渡り式にしたクハ103形500番台に設計変更された。クハ103形0番台との外見上の違いは、正面右下にあったジャンパ連結器納めがない点である。クハ103-617番以降の台車がディスクブレーキのTR212形に変更されている。また、陸前原ノ町区の車両の一部はジャンパ栓を片栓から両栓に改造している。

試作番台

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900番台

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モハ103-902

1963年に登場した先行試作車は当初は-1を称していたが、量産車登場前の1964年(昭和39年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された[86]。車両番号の文字色も量産車と同じ黒文字となった。

  • モハ103/モハ102-1・2→モハ103/モハ102-901・902
  • クハ103-1 - 4→クハ103-901 - 904
    • 上記改番のため、クハ103-1 - 4・モハ103/モハ102-1 - 2は「2代目」車両。

1967年(昭和42年)2月に量産車化改造が施工された後は量産車と混用されたが、最終配置はクハ103形が豊田電車区で青梅五日市線、電動車ユニットが川越電車区で埼京線で、それぞれ老朽化により最後まで冷房化されることなく1992年(平成4年)までに全車廃車となった。

モハ103形・モハ102形910番台

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加減速時に発生する空転を防止する観点から、超多段バーニア式制御器を搭載した試作車として、1967年に910番台が登場した[86]。制御器搭載のモハ103-911 - 913とユニット間の引通線を一部変更したモハ102-911 - 913の合計3ユニット6両が製造された[86]

主制御器はCS30形で、制御段数は力行55段・ブレーキ51段と大幅に増加している(従来のCS20Cでは力行29段)[86]。品川電車区に配置され、山手線で試験が行われた結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用された[87]。精密なバーニア機構は製造費用が高く保守にも手間がかかることから、地下鉄直通用の1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。

山手線で910番台は1編成に集約の上で運用されていたが、同線の205系化により他線区に転出させる際、特殊な制御器淘汰を名目に以下の転用改造が施工された。

  • 冷房改造され160 kVAのMGを搭載していたモハ102-911・913以外の4両については電装解除のうえ、後述のサハ103形800番台に改造。
  • モハ102-911は浦和電車区に転属、モハ103-107とユニットを組成。
  • モハ102-913は豊田電車区に転属、モハ103-62とユニットを組成。
    • 新ユニット組成車は、ほぼ同時期に保全工事を施工された非冷房車(後にAU712形で冷房化)。
    • ユニットを組替で捻出されたモハ102-172・62はサハ103形800番台に改造。

1994年にモハ102-913が、1995年にモハ102-911が廃車となり区分番台消滅した。

地下鉄対応車両

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地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と並行して製造された。乗入先各線はすべて保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。

1000番台

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1000番台
1000番台 登場時の塗色
1985年
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
製造年 1970年 - 1971年
製造数 160両
運用開始 1970年
引退 2004年
投入先 常磐緩行線ほか
主要諸元
編成 16編成
軌間 1067mm
起動加速度 3.3 km/h/s
減速度 3.2km/h/s
保安装置 ATS-B
ATS-P
ATC-4(CS-ATC)
ATC-3(WS-ATC)(三鷹電車区転属車のみ)
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1000番台常磐快速線転用後
2003年4月7日

常磐線の複々線化に伴い、常磐緩行線帝都高速度交通営団(営団、現・東京地下鉄千代田線直通運転1971年に開始されることとなった[75]。営団側では電機子チョッパ制御車の6000系が投入されたが、国鉄では地下線乗り入れ用に設計変更された103系が投入されることとなり、千代田線直通用として1970年(昭和45年)に登場したのが103系1000番台である[88]

10両編成16本160両が製造され、松戸電車区(現在の松戸車両センター)に配置された。

A-A基準に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材が使用された[86]。クハ103形前面に非常用の貫通扉が設置され、前面窓ガラスは301系と同様の傾斜が付いたものとなった[78]。乗入協定に従い、前照灯はシールドビーム2灯となった。千代田線用ATC-6機器を乗務員室直後の床上搭載としたため、乗務員扉後部の戸袋窓は廃止された[74]

塗装は灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯[88]となり、前面窓下へは警戒の意味で太帯が配置された[89]。前面運行番号表示窓上方と側面幕板部には、青21号の国鉄マーク(JNRマーク)が掲出された。

主制御器は、910番台で試用されたCS30をベースとした改良型のバーニヤCS40形制御器が搭載された[90]。トンネル内での騒音防止の観点から、主抵抗器冷却には送風機を使用しない自然通風式が採用された[90]。主回路ヒューズ箱は屋上へ移設された[74]

地下鉄線内の33パーミルの急勾配で故障した際に別編成で救援可能な性能を確保するため、編成中両先頭車以外の全車を電動車化した8M2Tの編成となった[91]。電動発電機は301系と同じく容量10 kVAのMH124-DM77が搭載された[90]

落成から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。千代田線開通以後は長らく千代田線直通専用に充てられたが、営団が新造した回生ブレーキが使用可能な電機子チョッパ制御車6000系より電力消費量が格段に多く、両者の車両使用料に格差が生じたことや、抵抗器からの排熱によってトンネル内温度が上昇する・オーバーヒートにより車内の床が焦げ、ホームや車内の乗客にも熱風が浴びせられるという問題が発生した。これは、千代田線の駅間距離が比較的長く地下区間で高速走行を行い、特に単線シールドトンネル内での空気流動が少なく抵抗器の冷却が充分にできなかったのが理由である[注 13]

1984年から1986年(昭和61年)3月までに203系へ置き換えられ(詳細は常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照)、捻出された本区分番台は以下の経過をたどった。

近畿・広島地区用105系への改造・転用
56両は105系に改造され、奈良線桜井線和歌山線紀勢本線和歌山 - 和歌山市間の電化開業用および可部線の旧形電車置換用として、奈良電車区および広島運転所へ転属。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時にはJR西日本に継承。
地上線(常磐快速線・成田線)への転用
松戸区残存の104両は地上線(常磐快速線と成田線の我孫子 - 成田間)に転用され、ATC機器を撤去。青緑1号一色に塗色変更された。
後に地上用0番台とも混結されるようになり、冷房装置も搭載された[注 14]

1989年(平成元年)には10両編成1本が営団東西線乗入用として三鷹電車区(現在の三鷹車両センター)に転属し、営団東西線用ATC-3(色灯式信号用ATC)・デッドマン装置付マスコンハンドル化・塗色変更を施工した[注 15][92]

廃車は2002年(平成14年)からで、松戸区の車両は常磐快速線・成田線へのE231系0番台の投入によって2004年(平成16年)3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台の投入によって2003年(平成15年)5月30日に運用を終了し全車廃車となった。

1200番台

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1200番台
1200番台
2003年5月25日
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
製造年 1970年 - 1978年
製造数 35両
引退 2003年
投入先 中央・総武緩行線ほか
主要諸元
起動加速度 3.3 km/h/s
自重 29.1 t(クハ103) - 37.2 t(クモハ102)
保安装置 ATS-B
ATS-P
ATC-3(WS-ATC)
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クハ103-1201
常磐快速線転用後
1993年2月1日 我孫子

中央・総武緩行線・営団東西線直通運転用のグループで、301系の増備車にあたる。301系は製造費用が高く保守内容も異なるため、103系をベースに東西線直通用の増備車として製造されたのが103系1200番台である[87][88]。1970年(昭和45年)に1本(7両)、1972年(昭和47年)・1978年(昭和53年)にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。

台車・車体・主要機器等は103系1000番台と同様であるが、1200番台のATC機器は東西線のWS-ATC(国鉄名称:ATC-3型)対応機器が搭載された。地上信号バックアップ形で大型の機器室を必要としないため、乗務員室直後の戸袋窓が復活している[93]

301系と同じ7両 (6M1T) 編成を基本としたため、301系でクモハ300形に相当するクモハ102形 (Mc') が設定された[93]。機器配置を301系に合わせたため、蓄電池の搭載車などが他番台と異なる。雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の103系と共通とした。

塗装は1000番台を基調にライトグレー(灰色8号)に黄帯(黄5号)の塗装となった[88]。ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったことから「銀色の電車」という案内が行われていた。黄帯は後に青帯に変更されている[87]

地上型のマイナーチェンジに合わせ、1972年増備の第2編成以降は側窓にユニット窓が採用された[78]。座席寸法も301系と同一に変更した。主電動機も第2編成以降はISOネジ採用のMT55Aを搭載した[78]。また、1978年増備の第4・第5編成は、当時営団地下鉄線内での冷房使用が認められていなかったため、既に冷房装置の設置が標準装備となっていた時期にもかかわらず、非冷房車として製造された。

1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、35両全車がJR東日本に継承され、全車がAU712形集約分散式冷房装置により冷房改造を施工し、一部は常磐快速線に転用された。最後の1200番台となったK9編成が、2003年7月31日に大宮工場(現在の大宮総合車両センター)へ廃車回送された。これをもって本区分番台は消滅した。

1500番台

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1500番台
クハ103-1513(製造当初)
1983年2月24日 西ノ宮駅(現・西宮駅
基本情報
運用者 日本国有鉄道
九州旅客鉄道
製造年 1982年
製造数 54両
投入先 筑肥線
主要諸元
起動加速度 2.5 km/h/s
自重 34.1 t(クハ103) - 42.2 t(クモハ102)
保安装置 ATS-SK
ATC-9
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クハ103-1514 車内
国鉄103系電車 クモハ103-1512 走行音 (唐津線西唐津-唐津間、2023年8月20日)

唐津線筑肥線・福岡市地下鉄1号線(現在の空港線)直通運転用として、1982年に6両編成 (4M2T) 9本54両が製造された。唐津電車区(現在の唐津車両センター)に配置され、編成番号は3両ずつに分かれている。

製造当時、既に常磐緩行線・千代田線直通用として電機子チョッパ制御203系電車が製造されたが、筑肥線は筑前前原以西の駅間距離が長く列車密度も低いため、ブレーキ頻度や回生負荷の面で電機子チョッパ制御車を導入しても省エネ効果や回生制動力が期待できないことから、費用の安い103系が一部設計変更のうえ導入された[94]

1500番台のみ、日立製作所でも製造された(川崎重工業と分担)。

車体構造や内装は本番台と同時期に製造されていた201系を基本としている。A-A基準準拠のため、先頭車両は105系に近似した貫通扉を有する前面デザインが採用された[95]。窓周りの額縁部は105系では黒色ジンカートであったが、103系1500番台ではFRPとなった[96]。側窓は上段下降・下段上昇のユニット窓となり、戸袋窓は103系で唯一新造時より省略されている[87]

冷房装置はAU75Gが搭載された[97]。内装天井部の冷風吹出口はラインフロー式であるが、横流ファンや首振扇風機のような補助送風機は併設されていない。

車体塗装は、玄界灘をイメージしたスカイブルー(青22号)にクリーム色(クリーム1号)の帯が採用された[96]。窓まわりの配色はクリーム色となっている。クハ103形の正面には国鉄車を示すJNRマークが掲出された[96]

機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、主制御器は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に自然通風式主抵抗器を使用するために手直ししたCS20D-G3形が搭載された。電動発電機は、費用削減のため153系廃車発生品を流用した出力110 kVAのMH128D-DM85Dが搭載された[98][99]

折返時などの長時間停車での車内保温のため、4ドアのうち3ドアを締切るドアカット機能が搭載された[95]

1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で全車がJR九州に継承されたが、同社に継承された本系列は本グループのみである。分割民営化後、4本が先頭車化改造により3両編成化されたため、2010年(平成22年)時点で13本54両となった。3両編成は限定運用、6両編成は303系代走運用も担当した。なお、クハ103-1504は1998年(平成10年)3月に今宿駅付近で強風により脱線したが、復旧している。

乗り入れ先の地下鉄線はATO路線であり、市営地下鉄の車両ではこの機能を利用したワンマン運転を行っているが、当グループにはATO装置が搭載されておらず、地下鉄線内はATCを利用して運転を行っていた。また同線内のホームドアとの連動もできないため、地下鉄線内では車掌が乗務し、ドア開閉は車掌スイッチとともにホームドア開閉スイッチを操作していた。

2014年(平成26年)7月31日、JR九州より後継となる305系の投入が発表された。6両編成6本が製造され、2015年(平成27年)2月5日より営業運転を開始している。これに伴い順次地下鉄乗り入れ運用から離脱し、6両編成5本と3両編成2本が廃車となり、JR九州小倉総合車両センターにて解体された。現在では残った3両編成が筑前前原西唐津の間でワンマン列車として運行されている。

大韓民国(韓国)仕様派生形式

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共通点
  • 103系がベース
  • 1974年から製造
  • 地下区間の直流1,500Vと地上区間の交流20 kV・60 Hzに対応した交直流電車
  • 1000、1200番台301系営団5000系を折衷したような前面
  • 登場時は6両編成で、のちに韓国製の中間車が組み込まれて8連化(1984年)、10連化(1989年)
  • 日本製は既に全廃し、現在走っているのは全て韓国製

改造車

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103系は長期間にわたり使用されているため、国鉄時代から様々な改造工事が行われている。車両自体の用途を変更するための改造工事では、他系列から103系化されたもの、103系から他系列に改造したもの、中間車の先頭車改造、中間車の電装解除などが行われている。

他形式から103系化されたもの
  • 101系サハ101形のサハ103形750番台化(国鉄)
  • 101系クハ101形のクハ103形2050番台化(国鉄)
  • 101系クハ100形のクハ103形2000番台化(国鉄)
  • 72系の103系3000番台化(国鉄)
中間車の先頭車改造
  • モハ103形1500番台のクモハ103形1500番台化(JR九州)
  • モハ102形1500番台のクモハ102形1500番台化(JR九州)
  • モハ103形のクハ103形2550番台化(JR西日本)
  • モハ102形のクハ103形2500番台化(JR西日本)
  • モハ103形のクモハ103形5000番台化(JR西日本)
  • モハ102形のクモハ102形3500番台化(JR西日本)
  • モハ103形のクモハ103形3550番台化(JR西日本)
  • モハ102形のクモハ102形3550番台化(JR西日本)
中間車の電装解除など
  • モハ103形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本)
  • モハ102形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本)
  • モハ103形のサハ103形2500番台化(JR西日本)
  • モハ102形0番台・2000番台のモハ102形5000番台化(JR西日本)
  • サハ103形のサハ102形5000番台化(JR西日本)
  • モハ103形のモハ103形3500番台化(JR東日本)
  • モハ102形2000番台のモハ102形3500番台化(JR東日本)
先頭車の改造
  • クモハ103形0番台のクモハ103形5000番台化(JR西日本)
  • クモハ103形5000番台のクモハ103形2500番台化(JR西日本)
  • クモハ103形5000番台のクモハ103形3500番台化(JR西日本)
  • クハ103形0番台のクハ103形3500番台化(JR東日本)

他形式からの編入車

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103系と車体構造の違いが少ない101系のうち、103系が量産を開始した後も総武線10両化用として製造された101系付随車や制御車は、経年が浅いため103系に編入された。また、仙石線用の72系アコモ車は旧形車の下回りに車体を103系ベースで製造して組み合わせたもので、車体自体の経年が浅かったことから下回りを103系に合わせて改造編入した。

サハ103形750番台

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サハ103-778
1987年8月 放出駅

1964年(昭和39年)度から赤字経営となった国鉄では、合理化と経費の削減が求められた。新製費用の抑制等のため、101系付随車のサハ101形を103系に編入する改造が行われ、サハ103形750番台が登場した[100]。1973年から1986年にかけて、751 - 780の30両が改造された[101]

共通の改造内容として、ジャンパ連結器のKE-57からKE-70への交換、貫通幌の交換が行われている[101]。サハ100形も同様工事を施工して700番台とする計画も存在したが実施されなかった。サハ101形の裾高さがサハ103形よりやや低く、台車もDT21T形もしくはTR64形という若干の差異がある。

下記の30両が国鉄時代に改造されているが経年の浅い101系の車両を選んでいる。改造時期・種車形態・改造内容により以下の5種に細分できる。

  1. サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751 - 767
    • 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置を施工。
  2. サハ101-123・124・126→サハ103-768 - 770
    • 改造時にAU75形で冷房化されていたサハ101形が種車のグループ。側面行先表示器は未設置。
  3. サハ101-282・299→サハ103-771・772
    • 2.と同形態だが、種車がサハ101形200番台のグループ。200番台はMG・CPを搭載車であったが、改造時に撤去。側面行先表示器は未設置。101系試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に搭載。
  4. サハ101-115・116・127・128→サハ103-773 - 776
    • 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房・側面行先表示器ともに未設置。JR東日本継承車の775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車された。JR東日本継承車の774は豊田→中原→松戸と転属し、松戸区では101系の系列で唯一のエメラルドグリーンに塗装された[102]
  5. サハ101-119・120・121・122→サハ103-777 - 780
    • 改造時にAU75形で冷房化改造済のサハ101形が種車のグループ。改造時に側面行先表示器を設置。779以外の3両はJR西日本継承後の1993年に台車をTR212形に交換。

分割民営化時にはJR東日本とJR西日本に継承された。一部は延命工事が施工されたが、早期に廃車対象となり、JR西日本のサハ103-765が2002年10月25日付で廃車となったのを最後に全廃となった[103]

クハ103形2000・2050番台

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クハ103-2001

1986年(昭和61年)の関西本線大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策[注 16]に伴い先頭車が不足したため、余剰となった101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の番台区分とされた。

クハ103形2000番台
  • 非冷房のクハ100形から改造された車両。奈良電車区に配属され、主に関西本線で運用。
    • クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001 - 2004
クハ103形2050番台
  • 非冷房のクハ101形から改造された車両。日根野電車区に配属され、主に阪和線で運用。
    • クハ101-78・83→クハ103-2051・2052

前述のサハ103形750番台同様、車体には手が加えられていないが、101系と本系列では前面の窓形状が異なっているため、差異が目立っている。冷房装置・側面行先表示器の搭載は未施工のままであった。分割民営化時には2000番台・2050番台の全車がJR西日本に継承された[103]

1989年8月27日、阪和線で6両編成の和歌山発天王寺行き快速列車での運用中にクハ103-2051のブレーキが効かなくなり、天王寺駅車止めに衝突した[103]。2051は日根野電車区で修復されたものの、営業運転に復帰することなく1991年9月30日付で廃車となった[103]。2052は1991年(平成3年)に阪和線のATS-P形化に際し対応工事を施工されないまま京阪神緩行線に転用され、その後明石電車区の訓練車となったが、1992年11月30日付けで廃車となった[103]

関西線の2000番台も運用期間は短く、1991年度中に営業運転から撤退した[103]1992年(平成4年)までに全車廃車され、101系から改造のクハ103形は区分消滅した。

3000番台

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川越線の3000番台(2004年6月5日)
青梅・五日市線時代のサハ103-3004

1985年に川越線電化が完成し、大宮 - 川越 - 高麗川間の区間運転用電車が必要となった。これに対応するための改造車として登場したのが3000番台である[104]

種車は1974年(昭和49年)に仙石線用72系4両編成5本計20両の車体を同時期製造の103系と同等の車体に更新[注 17]したアコモデーション改良車のモハ72形970番台・クハ79形600番台で、1985年 - 1986年大井工場大船工場大宮工場新津車両所にて103系への編入改造を施工した。

モハ72形970番台・クハ79形600番台は、1980年までに103系投入による仙石線の未更新旧形車両が置換え後も運用されていたが、1985年の103系への統一により運用を離脱した[105]。しかし、車体更新からの経年が浅く状態も良かったため、旧性能電車の新性能化[注 18]により103系への改造が行われ、国鉄としては稀な改造工事となった。

編成は72系時代の4両編成5本から3両編成5本へ組み替えられ、クモハ102形 + モハ103形 + クハ103形の3両編成となった。モハ72形5両は休車となったが、1985年 - 1986年にかけてサハ103形に改造され、青梅・五日市線3両編成の4両編成化に使用された[106]

なお、形式ごとの種車には以下の関連がある[105]

  • クハ79600番台(偶数)→クモハ102形3000番台
  • クハ79600番台(奇数)→クハ103形3000番台
  • モハ72970番台(偶数)→モハ103形3000番台
  • モハ72970番台(奇数)→サハ103形3000番台

車体は種車とほぼ同様であるが、仙石線時代はタブレット閉塞が使用されていたため運転室扉直後の戸袋窓がなく、タブレット衝突保護板が設置されていた[107]。一部は保護板を撤去し埋め込まれた。仙石線時代の検査担当であった郡山工場へ機関車牽引で配給回送される際に用いられた外吊式の標識灯掛けフックは、後に一部車両からは撤去された。冷房化改造・側面行先表示器の搭載は、経費の都合で見送られた。

種車の台枠は72系オリジナル車からの流用であり、若干裾が長くなっている。このため、先頭車は若干面長な顔つきとなっている。

川越線も仙石線同様に冬期寒冷となるため、72系時代からのTK8形半自動扉[注 19]が継続使用された。半自動用の取手には小型埋込式、大型外付式の2種類の形状が存在し、両方を装備する車両も存在した[107]

台車は1985年の集中台検[注 20]の廃止、および工場の予備品見直しにより捻出したDT33形台車を電動車に搭載し、クハ103形には101系廃車発生品のDT21T形が搭載された[108]

モハ103形のパンタグラフは種車と搭載位置は変わらず、ユニット外側(クハ側)に搭載された[105]。床下機器類の配置も0番台と逆位置となる。制御器をはじめとする機器は新品としたが、機器・部品の有効活用が行われた。

主電動機は103系標準品のMT55(1編成のみMT55A)である。電動発電機 (MG) は、モハ72形のMH97A-DM61Aをクモハ102形に流用した[107]。冷却風は主電動機・MGともフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用されたため、モハ72形時代からの車体側面の風道・取入口はモハ103形への改造時に1両を除いて埋め込まれた。

編成は以下の通り。

72系アコモ改良車仙石線編成
石巻
仙台
クハ
79600
モハ
72970
モハ
72970
クハ
79600
103系3000番台川越線区間運転車編成
← 高麗川
大宮 →
クモハ102
3001 - 3005
モハ103
3001 - 3005
クハ103
3001 - 3005

1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正で青梅・五日市線の増結用3両編成が4両編成化されることになり、休車となっていたモハ72形がサハ103形3000番台に改造された[105]。側面の空気取入口は埋め込まれている。電動車であったことから、屋根上にパンタグラフ台が残るなどの特徴のほか、機器類も流用品である。オレンジバーミリオン(朱色1号)に塗装され豊田電車区配置となり、3両編成に組み込まれて4両編成化された。

103系3000番台青梅・武蔵五日市線組込編成
立川
クモハ103
0番台
モハ102
0番台
サハ103
3000番台
クハ103
500・900番台

分割民営化では全車がJR東日本に継承され、その後AU712形冷房装置とSC24形インバータを搭載して冷房化、同時に側面行先表示器(先頭車のみ)も搭載する改造が施工された。

1996年(平成8年)には、八高線八王子 - 高麗川間の電化完成に伴い同線でも運用開始されるとともに、輸送力増強と新たに投入された本系列3500番台改造車、209系3000番台と編成を合わせることから、サハ103形3000番台を川越線用3000番台編成に組み込み4両編成となった。これにより3000番台は川越電車区配置となり、以下の編成が組成された。

103系3000番台川越電車区編成
 
← 八王子・高麗川
川越・大宮 →
 
編成番号 クモハ102
3000番台
モハ103
3000番台
サハ103
3000番台
クハ103
3000番台
廃車
ハエ51 3001
(大井)
3001
(大井)
3001
(大井)
3001
(大井)
2004年10月
ハエ52 3002
(大宮)
3002
(大宮)
3002
(大井)
3002
(大宮)
2005年5月
ハエ53 3003
(大宮)
3003
(大宮)
3003
(大井)
3003
(大宮)
2005年11月
ハエ54 3004
(大船)
3004
(大船)
3004
(大井)
3004
(大船)
2003年11月
ハエ55 3005
(新津)
3005
(新津)
3005
(大井)
3005
(新津)
2004年11月
  • ( )内は本系列化改造施工工場。
  • 旧番号との対照は72系の該当項目を参照。

老朽化により205系3000番台・209系3100番台への置換えで廃車が進行し、2005年(平成17年)10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運用を終了。その後もハエ53編成が予備車扱いで残存したが[注 21]、11月中旬までに全車廃車・解体され区分消滅した。車端部装着の製造銘版には昭和28年(1953年)や昭和29年(1954年)など改造種車の製造年が記載され、通算で製造から50年以上も現役で活躍した。

JR東日本の系列内改造車

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サハ103形800番台

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CS30形超多段バーニア式制御器搭載試作車の910番台ユニットは一般車とは混結運用ができないことから、山手線から転用する際には以下の2グループに分かれた。

  1. 別ユニットのモハ103形とユニットを組成
    • モハ102-911 + (モハ103-62)
    • モハ102-913 + (モハ103-107)
      • ユニット組成時にモハ102形2両はAU75形冷房改造車、モハ103形は非冷房車。後にモハ103形はAU712形で冷房化。
  2. サハ103形化改造
    • CS30形制御器搭載のモハ103-911 - 913・モハ102-912・上述のユニット解除されたモハ102形2両の計6両は以下の改造を施工されサハ103形800番台となり、松戸電車区配置で常磐快速線に投入された。
      • 電装関係機器の撤去
      • モハ103形はパンタグラフの撤去とベンチレータの設置
      • 台車をTR201形へ交換
        • モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→サハ103-801 - 806
      • 全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載(後者は側面方向幕設置未施工)。国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が1993年(平成5年)に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が2003年(平成15年)に廃車。

モヤ102形(訓練車)

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モヤ102-3

1991年に同社では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の教育訓練のため保留車を整備することになった。一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなったことも一因である。

本系列の訓練車は非冷房車3両3編成が整備され、豊田電車区・浦和電車区・松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。浦和・豊田配置のモハ102形は、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため事業用車両に変更となり、新形式のモヤ102形となった(モハ102-138・140→モヤ102-1・2)。

1991年整備訓練車編成
豊田電車区 クモハ103-44 モヤ102-1 クハ103-522
浦和電車区 クモハ103-45 モヤ102-2 クハ103-540
松戸電車区 クモハ103-64 モハ102-168 クハ103-54

その後、改造種車が非冷房だったこと、ATCATS-SATS-Pが未搭載で本線運転に制約があったことから、1995年に冷房車の4両3編成と交代となった。豊田・浦和配置編成は、モヤ102形に改造された(モハ102-508・519→モヤ102-3・4)。

1995年整備訓練車編成
豊田電車区 クハ103-341 モハ103-363 モヤ102-4 クハ103-342
浦和電車区 クハ103-399 モハ103-352 モヤ102-3 クハ103-400
松戸電車区 クハ103-335 モハ103-274 モハ102-429 クハ103-336
  • 浦和配置車は、同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、2000年に廃車。
  • 豊田配置車は、201系四季彩編成が訓練車を兼ねることから、2001年に廃車。
  • 松戸配置車は、MM'ユニットが同区我孫子派出の車輪転削装置改修に伴う予備車確保のために白帯や「訓練車」の文字を消して営業車に復帰した経歴を持つ。2006年に廃車。

これにより本系列の訓練車編成は消滅した。

3500番台

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八高線・川越線用の3500番台(2004年6月5日)

1996年(平成8年)3月の八高線八王子 - 高麗川間の電化では、川越線用3000番台が同線でも運用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が不足した。そのため、209系3000番台4本が新製されたほか、本系列の0番台4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置の改造を施工され川越電車区に投入された。

本改造施工車は新たに3500番台に区分された。半自動扉は3000番台の手動開閉方式に対し、押ボタン開閉方式とされた[109]。なお、3500番台はJR西日本に播但線用区分車が存在するが、関連ならびに重複車番はない。

103系3500番台川越電車区編成
 
← 八王子・高麗川
川越・大宮 →
ハエ56 クハ103
-3501
モハ102
-3501
モハ103
-3501
クハ103
-3502
旧番号 (725) (2047) (790) (738)

3000番台と共通運用されたが、2005年(平成17年)4月に廃車・解体された。

JR西日本の系列内改造車

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クハ103形2500・2550番台

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クハ103-2551
クハ103-2503(冷房改造後)

1988年3月13日のダイヤ改正で、JR西日本の関西本線電化区間に「大和路線」の愛称が付与された[110]。このダイヤ改正に伴って6両編成1本を4両編成2本として編成数が増加される際、不足した先頭車を中間電動車の電装解除・先頭車化改造で補うこととなった[110]

モハ102形を種車とするクハ103形2500番台は4両が改造され、方向転換を行い偶数向き専用となった[110]。モハ103形が種車のクハ103形2550番台は3両が改造され、奇数向き専用となっている[110]。2500番台が1両多いのは、羽衣線に転用されたクハ103-194の補充のためである[110]

新設された運転台は高運転台型ではなく、1次改良型と同様の低運転台・シールドビームタイプとなった[110]。改造時は非冷房であったが、窓下の吸気口は設けられていない[108]。台車は種車のDT33形から主電動機や駆動装置を撤去し、WDT33T形としたものを使用している[111]

2550番台ではパンタグラフの撤去が行われたが、パンタグラフ台が存置された[110]。一部車両では側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置されている[111]。2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設された。

改造車の新旧番号対照は以下の通り[111]

クハ103形2500番台
  • モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501 - 2504
クハ103形2550番台
  • モハ103-233・242・243→クハ103-2551 - 2553

1990年度にWAU102形による冷房化と延命N工事が施工された[111]。しかし種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は播但線用3500番台へ運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は状態のよい余剰車に置換えられて2006年3月1日に全廃された。

5000番台・サハ102形

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クモハ103-5003
密着連結器下に電気連結器を装備
サハ102-2
電気連結器撤去後

1989年(平成元年)3月11日に片町線(学研都市線)の長尾 - 木津間が電化されたのに際し、電化時に開設された松井山手駅京橋寄りの4両を切り離し、以東の各駅には輸送需要の関係から木津寄りの3両が入線する分割併合運用が実施されることとなった[110]。分割併合対象の編成は Tc-M-M'-T' + Mc-M'-Tc の組成となり、T'車とMc車に分割併合用の電気連結器を設ける改造が行われ、5000番台が登場した[108]

その後、松井山手以東が3両編成では輸送力不足となり、翌1990年には Tc-M-M' + Mc-M'-T'-Tc として4両編成が木津に乗り入れるよう組成変更が行われた[112]

← 京橋
木津 →
1989年3月11日 - 1990年
クハ103 モハ103 モハ102 サハ102(5000番台) (連結) クモハ103(5000番台) モハ102 クハ103
松井山手分離編成   木津直通編成
1990年 -
クハ103 モハ103 モハ102(5000番台) (連結) クモハ103(5000番台) モハ102 サハ103または102 クハ103
松井山手分離編成   木津直通編成

分割併合部分にあたるモハ103形は、電気連結器と電気空気開閉器を搭載したクモハ103形5000番台に改造された。木津への乗り入れ編成は増結編成より3編成多く必要となり、羽衣支線のクモハ103-48を含む3両編成と大阪環状線の6両が転入し、改造時に冷房化(WAU102形)と側面方向幕設置が施工された[110]

クモハ103形5000番台の運転台は、クハ103形2500・2550番台と同様に1次改良型タイプだが、クモハ103形から改造の5001を含めて奥行きが広くなり、改造時に運転台直後の戸袋窓が閉鎖されている[112]

松井山手駅に残される4両編成側の連結部の先頭車化改造は行わず、サハに電気連結器を設置する等の改造が行われた[110]。サハ103形に電気連結器などを装備すると、既存の床下機器(低圧ツナギ箱)と干渉するため、方向転換を行っての電気連結器の設置によりサハ102形5000番台に改造された[110]。分割併合側の幌には蓋が設けられ、妻面には標識灯掛が設置された[110]

クモハ103形5000番台
5001はクモハ103形が種車、他はモハ103形に運転台が設置された[113]。新番号は5004を除いて古い順に振り直された。
  • クモハ103-48・モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001 - 5016
サハ102形5000番台
クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から13両が改造された[114]。5001を除いて新番号は古い順に振り直されている。
  • サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001 - 5013

1990年3月の編成構成の変更により、サハ102形5000番台は1年足らずで自動解結装置が撤去され、サハ102形0番台となった[112]。サハ102形は再びの方向転換は行われず、側面方向幕の設置位置が逆側になるなど、サハ103形との外観差異はその後も残った。電気連結器はモハ102形に移設され、改造車はモハ102形5000番台となった[112]

モハ102形5000番台
編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手としてモハ102形0番台から改造された。改造内容はサハ102形5000番台に準じているが、方向転換はされていない。
  • モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041 → モハ102-5001 - 5013
サハ102形0番台
編成組成の変更に伴い、サハ102形5000番台から改造された付随車[114]。自動解結装置の撤去後も方向の再転換は行われず、引き続きサハ102形に区分された。
  • サハ102-5001 - 5013 → サハ102-1 - 13

当初4両編成に組成されていたサハ102形を木津直通編成に転用されたが、車両不足が生じた[112]。2両は一般のサハ103形が転用されたが、残りの1両はユニット相手のモハ102-387がクハ103形2500番台に改造され余剰となったモハ103-232を種車として、サハ103-2501に改造された[101]。同時にWAU102形による冷房改造および延命N工事が施工された[112]

サハ103形2500番台
編成組成の変更に伴いモハ103形0番台から改造された付随車で、クハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態である。
  • モハ103-232 → サハ103-2501

1990年の207系投入で103系の分割併合運用は終了し、5001は原番復帰、5002以降は車番を-2501の2500番台に区分された[115]。なお、48(←5001)は新製時からクモハ103である車両で最後の現存車両であり、広島運転所が最終配置となった。

サハ102形は1・9 - 13に延命N40が施工されたが、2008年に9が廃車されて形式消滅した。モハ102形は廃車となった車両がある一方で体質改善工事施工車もあるが、標識灯掛が残存しているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なる。サハ103-2501は廃車となった。

クモハ103形2500番台

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クモハ103-2507 (2011年3月廃車)

1992年より片町線に207系の量産車が投入され、同線の103系は大和路線など他線区に転用された[112]。転用先では分割併合を行わないため、分割併合装置を撤去した5000番台は改番が行われた[112]

クモハ103-5001とモハ102形5000番台は原番号に復帰し、クモハ103形の5002以降は2500番台となり、番号順に1ずれて改番された[115]。他線転用時などに電気連結器を撤去した車両もあったが、電気空気開閉器を撤去した段階で番号が変更されている[115]

  • クモハ103-5002 - 5016→クモハ103-2501 - 2515

クモハ103形2500番台は1997年 - 1998年にかけて9両が播但線用3500番台に改造され、2011年には日根野電車区に在籍していた元5008(→2507)が廃車、2015年には広島運転所に在籍していた元5001~5003(→48・2501・2502)が廃車となり、平成末期時点では日根野電車区に2503・2504・2505が残存していた。このうち2503・2504は羽衣線用ワンマン運転対応、2504は編成全車が体質改善40N工事を施工、2503は全車が非ユニットサッシ車である。両者とも2018年3月の羽衣線4両化まで運行され、年度内に廃車されている。2505は羽衣線ワンマン運転非対応で、2016年の225系5100番台導入時まで運行され2018年に廃車となった。

3500番台

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3500番台(JR西日本)
クモハ103-3508
基本情報
運用者 西日本旅客鉄道
種車 103系0番台
改造年 1997年 - 1998年
改造数 18両
投入先 播但線
主要諸元
起動加速度 2.5 km/h/s
自重 42.0 t(クモハ103) - 42.6 t(クモハ102)
保安装置 ATS-SW
ATS-P
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1998年3月14日の播但線姫路 - 寺前間の電化完成に伴い、同区間で本系列が投入されることになった。需要とワンマン運転の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のためにクモハ103形2500(元・5000)番台ユニットから9本が1997年から1998年にかけて3500番台に区分改造され、網干電車区(現・網干総合車両所)に配置された。

モハ102形の先頭車化改造が行われ、体質改善工事とワンマン化改造も施工された[116]。改造種車には状態の良い車両が選定されたため、製造の新しいユニットが中心である。設計は吹田工場が担当し[117]、改造は吹田工場と鷹取工場で施工されている[118]。クモハ103形とクモハ102形は同番号同士でユニットを組み、車両番号の下一桁と編成番号の数字は一致している。編成記号はBHである。

塗装はワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレー (DIC N-958) のアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には JR WEST JAPAN BANTAN103 の文字が書かれている。

JR東日本にも同じ3500番台の区分が存在したが、関連性や設定形式が異なるために車番重複はない[115]

クモハ103形3500番台
寺前側の制御電動車。クモハ103形2500番台が種車。3503・3509は運転台上部にパンタグラフを追加設置するためのパンタ台を設置[119]
  • クモハ103-2506・2508 - 2515→クモハ103-3501 - 3509
クモハ102-3508
クモハ102形3500番台
姫路側の制御電動車。改造種車になっていたクモハ103形2500番台とユニットを組むモハ102形0番台に運転台の設置改造を施工。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせた1971 - 73年製造の「1次改良型」とし、新造された運転台妻鋼体を取り付け、乗務員扉や運転台機器は同時期に廃車となったクハ103形を流用している[118]
  • モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501 - 3509

同時に体質改善40N工事を施行。一部に延命N40工事施工車が存在するが、重複施工となった。

クモハ103-3501・クモハ102-3501編成は、体質改善40N施工車で乗降ドアのガラスの支持方が205系と同様であり、ガラス周りに金属フチがない異端車[119]。これは種車のクモハ103-5007時代の延命N40工事時に交換されたものである[115]

また本区分ではワンマン運転時対応のため以下の特化した装備を持つ。

  • 運転席からの視認性向上のために運転台仕切りの設置と妻面貫通扉の窓を拡大し、明るい室内を実現[117]
  • 車内で運賃収受が行われることから、運転台仕切りにバスタイプの運賃表示器運賃箱[注 22]を設置[120]
  • ワンマン運転時に一部扉が閉め切られることから車外客用扉付近に出入口を明示するLED表示器を設置。

また、直通予備ブレーキの追加のほか、自動解結装置、耐雪ブレーキも装備されている[121]

ワンマン対応工事と同時にEB装置が設置された。2005年から2007年にかけて、クモハ102形にトイレが設置された[122]。2009年以降、ATS-PやTE装置の取付が行われている[123]。2014年度にはクモハ103-3503および3509のパンタグラフが2基搭載化された[122]

3550番台

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3550番台
クモハ102-3554
後部の窓がない部分がトイレ
基本情報
運用者 西日本旅客鉄道
種車 103系0番台
改造数 16両
投入先 加古川線
主要諸元
起動加速度 2.5 km/h/s
自重 42.0 t(クモハ103)・42.3 t(クモハ103 2パンタ車)・42.6 t(クモハ102)
保安装置 ATS-SW
テンプレートを表示

2004年(平成16年)12月19日の加古川線全線電化に伴い、同線にワンマン運転対応の2両編成8本が投入された[115]。網干総合車両所加古川派出所に配置されている。編成はクモハ103形・クモハ102形の2両編成で、それぞれモハ103形・モハ102形からの先頭車化改造車となっている[124]。車両番号は播但線用の3500番台に続いて3550番台へ区分された[125]

改造施工は吹田工場と下関車両センターで行われ、前面は播但線用の3500番台と異なり、地上用の103系で初の貫通型となった[126]。種車は森ノ宮電車区・奈良電車区に所属していた体質改善40N工事施工済のMM'ユニットであり、先頭車化改造とワンマン化改造が行われた[126]。電気連結器などは未装備である。落成が電化より早く、登場からしばらくは網干駅や、網干総合車両所などに留置された。

この時期の体質改善は簡略化した30N工事に移行していた上にクモハ103形ユニットは車齢の高いものが多く[注 23]、前面形状を変更[注 24]することから既存の運転台が使えないという事情があった。

運転台形状は大幅に変更され、前照灯を窓下に配置し、2編成併結時に乗客の通行ができるよう貫通扉を設置し、105系に近いスタイルとなった。この措置には同時期に改造された115系の岡山地区での改造車クモハ115形1600番台との共通点が見られる。

塗装はエメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には JR WEST JAPAN KAKOGAWA103 の文字が書かれている。前面窓周りは黒色で塗装された。

クモハ103形3550番台
モハ103形0番台に運転台設置改造を施工した谷川方制御電動車。3555・3556・3558は運転台側屋根上に冬期架線霜取用パンタグラフを増設している[113]
  • モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551 - 3558
クモハ102形3550番台
モハ102形0番台に運転台設置改造を施工した加古川方制御電動車。同社の本系列で初めて洋式車椅子非対応トイレを設置した。
  • モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551 - 3558

JR九州の系列内改造車

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クモハ103・102形1500番台

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筑肥線筑前前原を境に輸送量が大きく異なることから、以西運用の短編成化を行うことになり、1989年(平成元年)にJR九州小倉工場で6両編成9本のうち4本に対して3両編成8本に分割する改造が施工された。

1500番台編成
タイプ
編成番号
6両 クハ103 モハ103 モハ102 モハ103 モハ102 クハ103 E01 + E02, E03 + E04
E05 + E06, E07 + E08
E09 + E10
3両A クハ103 モハ103 クモハ102[* 1]   E11, E13, E15, E17
3両B   クモハ103[* 1] モハ102 クハ103 E12, E14, E16, E18
  1. ^ a b 6両→3両編成で運転台設置改造施工車
  • 編成番号 +1500で各形式の車両番号となる(6両編成車は3両一単位で編成番号が付けられている)

改造内容の概略は、6両編成組成時の3両目となるモハ102形と4両目となるモハ103形にクハ103形1500番台相等の運転台を取付、それぞれクモハ102形クモハ103形としたものである。そのため改造該当編成は2種類のパターンとなった。以下で改造の詳細・特徴について解説をする。

  • 形式変更のみで車両番号はモハ時代のものを踏襲。
  • クハ103形の前面貫通路が地下鉄区間での非常脱出用であるのに対し、クモハ2形式の貫通路は併結時に通路となるため幌枠・貫通幌(貫通幌はクモハ103のみ)を装備する。
  • 分割併結時の省力化ならびに時間短縮化の観点から電気連結器を装備する。
  • 福岡市地下鉄空港線用ATCは未搭載。(当初から当番台にATOを搭載する車両は存在しない)

地下鉄に乗り入れる際はATC未搭載であること、クハに貫通幌がないことからクモハを先頭車とせずにATCを搭載したクハを先頭車とし、クモハ同士を中間に向かい合わせで連結して6両編成を組んだ。このため、6両編成を組む場合、6両編成と同様に偶数番号編成と奇数番号編成の組み合わせのみ編成可能である。また、6両編成の片割れの偶数番号編成と3両編成の奇数番号編成、あるいは逆に6両編成の片割れの奇数番号編成と3両編成の偶数番号編成を連結して6両編成で走行することが可能である。3両編成で運行される区間は筑前前原 - 西唐津間に限定される。

他系列への改造車

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105系への改造

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クモハ105形500番台
仙石線のクハ105-105
クハ104-551

1984年10月奈良線和歌山線五条駅 - 和歌山駅間)の電化開業と、可部線の旧型電車72系の置き換えのため、常磐緩行線への203系投入で捻出された103系1000番台を中心に、0番台を含む61両が1M方式の105系に改造された[127][128]

中間車からの先頭化改造車では105系新造車と同形態の運転台ブロックを接合し、従来からの先頭車は種車の運転台が活用された[129]。クハのうち制御引き通し線が車体の1–3位側を通る車両はクハ104形に、2–4位側を通る車両はクハ105形に区分された[130]

改造による形式の変更と両数は以下の通り[105]。分割民営化後はJR西日本に継承された。

  • モハ103形1000番台 → クモハ105形500番台(21両)
  • モハ102形1000番台 → クモハ105形500番台(11両)、クハ104形500番台(10両)
  • クハ103形1000番台 → クハ105形0番台(14両)
  • クハ103形0番台 → クハ105形100番台(4両)
  • サハ103形0番台 → クハ104形600番台(1両)

1986年度末には、仙石線の冷房改造車4両編成1本が105系の2両編成2本に改造された[105]。先頭化改造では103系0番台と同形態の非貫通の運転台が設置された[128]

改造による形式の変更は以下の通り[105]。分割民営化後はJR東日本に継承された。

  • クモハ103形0番台 → クモハ105形100番台
  • クハ103形0番台 → クハ105形100番台
  • モハ103形0番台 → クモハ105形600番台
  • サハ103形0番台 → クハ105形600番台

JR化後の1989年11月に発生した桜井線の踏切事故により、ダンプカーとの衝突で側面後部が大破したクハ105-7が廃車となった[115]。代替として明石電車区で保留車となっていた非冷房車のモハ102-385が105系に改造され、クハ104-551となった[115]。廃車となったクハ105-7の運転台が接合され、電装解除とWAU102形冷房装置による冷房化を行い、冷房電源用に70 kVAのMGが設置された[115]

  • モハ102形0番台 → クハ104形550番台[127]

モハ102-385とユニットを組んでいたモハ103-230は、この改造に際して余剰廃車となっている[115]

延命工事

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車両の寿命は各社の規程などにより決められているが、置き換え時期を延命工事により伸ばし、その間の車両投資を抑制することで調達・製造~使用~廃棄の段階で必要となる費用を低減する効果や、陳腐化したアコモデーションの改善効果がある。

  • 特別保全工事(国鉄・JR東日本・JR東海・JR西日本)
  • リフレッシュ工事(国鉄・JR東海)
  • 延命N工事(JR西日本)
  • 延命NA工事(JR西日本)
  • 延命NB工事(JR西日本)
  • 車両更新工事(JR東日本)
  • 延命N40工事(JR西日本)
  • 体質改善40N工事(JR西日本)
  • 体質改善30N工事(JR西日本)

国鉄時代の延命工事

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特別保全工事

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1980年代に入ると103系は製造後20年が経過することになったが、当時の国鉄は財政難で新車への早期置き換えが困難であったため、全般検査1回分程度の延命を図る特別保全工事が施工された[105]。この工事は1981年(昭和56年)度に国鉄小倉工場が423系に対して施行したのが最初であるが、103系では1981年度にクハ103-1で初めて施工され[131]、翌1982年(昭和57年)度から本格的な工事が行われるようになった。工事はJR化後にも施工されている[105]

主な改造内容は車体腐食部分の貼り替え、配管や配線の引き直しなどである[105]。関東地区では車内化粧板の暖色化、座席モケットの茶色化などのアコモデーション改良も行われた[131]ほか、関西地区では同時に屋根の塗り屋根化、側引戸やドアレールのステンレス化なども同時に施工された例がある[131]

リフレッシュ工事(国鉄)

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関西地区の103系は国鉄分割民営化直前時点で製造後18年以上の車両が1000両以上在籍しており、JR西日本に継承後も10年から15年ほどの継続使用が必要なため、民営化後に行う更新工事の試作として特別保全工事を一歩進めたリフレッシュ工事が施工された[132]。この工事内容の一部は民営化後の延命N工事にも継承されている[132]

改造内容は特別保全工事の内容に加え、関西向けの特別保全工事で行われなかったアコモデーション改良を行い、各所のステンレス・アルミ材化も行われた[132]。座席と床・壁が接する巾木部分にFRP材の面取りが設置されたほか、貫通扉は103系一般車で初のステンレス製となった[132]

JR東日本の延命工事

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車両更新工事

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国鉄時代から特別保全工事が施工されていたが、同社では、1988年(昭和63年)から一層徹底した延命工事に切り替えられた。施工対象は、主に1967年 - 1972年製造車で、一部は冷房化も施工された。

  • 工事内容
    • 屋根鋼板補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
    • 雨樋取替
    • 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺)
    • 側窓枠取替
    • 外板塗装更新
    • 空気配管取替および除湿装置取付
    • 主回路配線引替
    • ジャンパ連結器の取替および片栓車の両栓化
    • 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
    • 室内化粧板とカーテン取替
    • シートモケット取替(フットライン入り)
    • 握り棒・荷物棚のステンレス
    • 吊手の取替
    • 側扉を除いた各ゴム類の黒ゴム化(戸先・戸当り・Hゴム・押えゴム)
    • 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式。一部車両はドア自体をゴムの無い金属押え方式のものに交換したほか、更新前に金属押さえ方式に交換された車両はそのままとした。)

本工事は複数の工場が担当しており、車内でも化粧板の柄や腰掛モケットが異なるなど、仕様に差異が見られる。*大井工場施工車の一部は袖仕切設置が施工され、長野工場施行車はドアコック蓋が原型のままである、など。

1992年(平成4年)に低費用で量産可能な209系が登場するとJR東日本は更新工事を中止し、老朽車の置換えに移行した。そのため、後期車の大半は未更新車であり、後期車の多い中央・総武線では更新車の比率が他の路線に比べて低かった。

仙石線向けアコモデーション改善工事

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末期の103系更新車(RM-155編成)
ベンチレーター撤去後の屋根の状況(サハ103-234)

国鉄時代より在籍していた仙石線の103系は非冷房の初期車が多かったことから、JR化後の1989年より首都圏への205系投入で余剰となった車齢の浅い103系冷房車が転入し、初期車が置き換えられた[133]

仙石線への転用に際しては、首都圏における車両更新工事の内容に加えて、仙石線の事情を考慮したアコモデーション改善工事が施工された[134]。改造に伴う区分変更・改番は行われていない。一部は冷房化率100 %を早期に達成するため、未更新のまま入線した車両もある(その後、改めて改造を施工して再入線している)。

前面は窓が2枚窓となり、運行番号表示器は列車愛称・種別表示器に交換された。郡山工場への入場回送用の標識灯掛けも前面下部に設置されている。塗装は上からアイボリー・青(太線)・スカイブルー(側扉はアイボリー単色)に変更された。AU712形による冷房改造車では、側面方向幕が未設置の車両にも更新時に方向幕が設置された。偶数側クハに関しては、AU712で側面幕が搭載された唯一の例となっている。

窓は上段下降・下段固定のユニット窓に交換され、ドア窓の大型化などが行われた[134]。扉はボタン式の半自動ドアとなり[134]、ドアブザーの設置が行われた。座席はバケットシート化され、袖仕切が設置された[134]。内壁も張替が行われ、先頭車にはゴミ箱も設置された(のちに撤去)。

最終投入車で1994年投入のRM-155編成は、首都圏で更新済みであったことなどから工事が簡略化され、ユニット窓化と客用引戸の交換が省略された[133]

1998年には、105系の置き換えのため、車両更新工事施工済みの4両編成2本(RT-299・371編成)が京浜東北線より追加転入した[133]。先頭車は高運転台のATC車、中間車は非ユニット窓車であり、この編成も窓とドアの交換が省略された[133]。先頭車はATC機器の撤去と戸袋窓の設置、前面のステンレス飾帯の撤去が行われている[133]。塗装もこの高運転台車編成で白にコバルトブルーを配した「SENSEKI LINE色」に変更され、のちに従来車も変更されている。

のちにRT-105・107・131・235編成ではモハ103形に霜取り用のパンタグラフが増設され2基搭載となり、2000年には扇風機やベンチレーターの撤去も施工された[134]

2002年より205系3100番台への置換えが開始され、103系は2004年7月までに運用を終了し、RT-235編成を除く17編成が廃車・解体された。RT-235編成は2007年に仙石線での運用を再開し、2009年まで運用された。

JR東海の延命工事

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リフレッシュ工事(JR東海)

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モハ102-97
C-AU711A形冷房改造・リフレッシュ工事施工

103系はJR化後も引き続き特別保全工事が行われたが、211系5000番台が増備されると室内のアコモ関係の格差が目立つようになった。このため、特別保全工事の内容に加えて接客設備の水準を新造車並みにグレードアップするリフレッシュ工事が1989年より開始され、1990年度までに50両に施工された[135]

側窓・妻窓は上段下降・下段固定のユニット窓となり、側扉・妻扉はステンレス製に交換された[135]。内装は白色の化粧板となり、妻扉の車内側に化粧板が貼付けられた[135]。座席は袖仕切り付きのバケットシートとなり、握り棒・荷物棚が独立したタイプとなっている[135]。一部の車両では、客用扉の窓の大型化と車内側への化粧板貼付けも行われている[135]

車体塗装は従来のスカイブルー(青22号)からクリーム地にオレンジ・緑帯の湘南色を配するJR東海カラーに変更された[135]。床下機器もグレー一色に塗装された。塗色変更当初は前面にJRマークがなく、帯に切れ目がなかった。

JR西日本の延命工事

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延命N・NA工事

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国鉄時代の「特別保全工事」と国鉄末期の「リフレッシュ工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。

延命N
製造から30年の使用を目指し外板整備・機器の一部更新・配管の交換および化粧板の張替・客室扉のステンレス化・妻窓の固定化など。1972年までの製造車大半が該当。白熱灯1灯装備の制御車は2灯シールドビーム化、非冷房車には同時に冷房改造を受けたものが大半であったが、一部例外もあった。
延命NA
国鉄時代の特別保全工事施工車を対象とし、内壁の張替など前述の延命N工事に準じた工事を施工。一部車両には、客用扉がHゴムを廃した金属押さえのものに交換されたものが存在し、内側に化粧板を張り付けた形態も見られた。

延命NB・N40工事

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延命NB
1970年(昭和45年)以前製造の初期車が対象で延命N工事と同時にWAU102形搭載冷房改造・側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換を施工。施工車両は11両に留まり、2006年(平成18年)4月までに全車廃車となった。
延命N40
製造から40年の使用を目指し、従来の延命N・NA工事内容に加え、塗装総剥離塗り替え・雨樋のFRP化・窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など。主に1973年 - 1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも施工。この工事で採用された黒色サッシは取付部枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少。なお、延命NA工事で行われた客用扉の交換は見送られている。

体質改善工事(40N)

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1996年(平成8年)以降、後継の207系との落差改善ならびに延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした体質改善工事が施工された。工事施工車の車番標記は、国鉄時代の丸ゴシック体→JR西日本独特の書体(モリサワ新ゴ)に変更された。40N体質改善工事は1995年度から2001年度にかけて129両に、30N体質改善工事は2002年度から2004年度にかけて48両に施工された。

40N車では老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため以下の工事を施工した。

  • 張り上げ屋根化
  • 屋根上通風器の撤去
  • 一部外板のステンレス化
  • 側面ルーバーの形状変更
  • 方向幕の形状変更
  • 運転台の整備
  • 運転台・ドア窓支持の変更
  • 運行番号表示器・行先表示器・前灯部分の内支持化
  • ドア間窓を下段固定・上段上昇の3分割バス風逆T字サッシに交換
  • 車端部窓を固定1枚窓サッシに交換
  • 内壁・床の取り替え
  • 座席クッションの更新
  • 荷棚を金網式からパイプ式化
  • 照明へのカバー取付
  • 扇風機→ラインデリアへの交換
  • 冷房風道のラインフロー化
  • 車内スピーカーの更新・増設

本工事の施工1号となった8両編成1本(試作改造車)[注 25]は、以下の相違点がある[136]。量産改造車では、費用対効果の面から採用は見送られたものである[136]

  • ドアエンジンがTK4形(座席下内蔵型)からドア上部設置の直動式に交換[136]
  • 座席全交換(207系と同一の下部が空洞の片持ち式)[136]。暖房器をつり下げ式に取り替え[136]
  • 前灯は原形維持
  • 補助電源装置を電動発電機(MG)から静止形インバータ(SIV)に取り替え[136]東洋電機製造製・IGBT3レベル方式・160 kVA)[137]
  • 妻窓残存(のちの検査で埋込まれた)
  • 下枠交差式パンタグラフの取り付け(のちの検査で菱形に戻った)

後にこの編成はサハを除き日根野電車区へ転属したが、2013年(平成25年)3月に廃車となった。その後もサハは、日根野から転属して来た体質改善40N (LA1) 編成の中間に組み込まれて運用されていたが、323系投入に伴い、2017年(平成29年)1月に、廃車前提で吹田工場に回送された。

陳腐化対策の場合、資本的追加とみなされ減価償却の対象とされることもあり、将来の新車投入計画に合わせて工事内容は順次縮小された[138]。工事内容も次第に冷房風道のラインフロー化→従来風道の再用やラインデリア(1998年度 - )→扇風機などの簡略化が進み、2002年度からは後述の30N工事に移行した[136]

40N体質改善工事は以下の車両に施工された(太字は3550番台に再改造)。

← 奈良・和歌山
大阪 →
クハ103 モハ103 モハ102 サハ103 サハ103 モハ103 モハ102 クハ103 竣工 初期配置 備考
245 387 543 404 409 408 564 264 1996.3.30 森ノ宮 体質改善工事試作車
481 637 1996.12.6 奈良
510 666 415 1997.1.11 森ノ宮
496 652 1997.2.27 奈良
255 398 554 1997.3.28 森ノ宮 パワー・オブ・ハリウッド号ラッピング
482 638 1997.4.18 奈良
384 1997.4.18 森ノ宮
371 256 1997.6.11 森ノ宮 パワーオブハリウッド号ラッピング(クハ)
399 555 1997.7.5 森ノ宮 パワー・オブ・ハリウッド号ラッピング
182 1997.7.22 奈良
240 1997.7.28 森ノ宮 アメリカの街並風景→スパイダーマン号ラッピング
239 1997.9.2 奈良
483 1997.9.2 森ノ宮
396 552 1997.9.30 森ノ宮 アメリカの街並風景号ラッピング
399 528 684 1997.12.26 森ノ宮
529 685 400 1998.4.22 森ノ宮
488 644 1998.6.12 奈良 OSAKA POWER LOOP
504 660 482 1998.7.10 森ノ宮 アメリカの街並風景→スパイダーマン号ラッピング
509 665 370 1998.8.31 森ノ宮 OSAKA POWER LOOP(サハ)
521 677 425 1998.9.29 森ノ宮
490 646 401 1999.1.22 森ノ宮
402 491 647 1999.2.9 森ノ宮
424 520 676 1999.2.26 森ノ宮
410 1999.3.12 森ノ宮
659 815 660 816 2000.7.11 日根野
726 882 728 884 2000.8.12 奈良
799 2000.9.26 奈良 アメリカの街並風景→スパイダーマン号
833 775 2032 782 2039 840 2000.9.26 宮原 ウッドペッカー号ラッピング
730 886 484 2000.10.30 森ノ宮
731 887 806 2000.11.30 森ノ宮
836 2000.12.18 奈良
714 870 2001.2.20 森ノ宮
823 763 2020 764 2021 830 2001.2.27 森ノ宮 ユニバーサルグローブ→セサミストリート号ラッピング
841 848 2001.3.12 奈良 OSAKA POWER LOOP
475 2001.3.15 森ノ宮 OSAKA POWER LOOP
715 871 800 2001.3.31 森ノ宮
827 767 2024 768 2025 834 2001.10.18 日根野
486 2001.11.6 森ノ宮
804 2001.11.21 奈良
837 781 2038 786 2043 846 2002.1.12 宮原 スパイダーマン号ラッピング(モハ103-781・モハ102-2038)
← 奈良・和歌山
大阪 →
クモハ103 モハ102 クハ103 竣工 初期配置 備考
2504 451 192 1997.11.12 日根野 羽衣線ワンマン対応
← 寺前
姫路 →
クモハ103 クモハ102 竣工 初期配置 備考
3501 3501 1998.3.5 網干 播但線ワンマン対応
3502 3502 1997.12.20
3503 3503 1998.3.6
3504 3504 1997.10.8
3505 3505 1998.2.3
3506 3506 1997.12.15
3507 3507 1998.2.26
3508 3508 1997.9.24
3509 3509 1998.2.26

体質改善工事(30N)

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2002年度以降、新車投入ペースが速まり本系列の車齢も高まったことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小された[136]。直接保守面・接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡略化され、体質改善40Nに比べて側扉・側窓・屋根雨樋などが原形のままとされた[136][138]。主な修繕内容は、車体腐食部の修繕、化粧板の交換、つり革の増設、荷棚の交換に留めている[136]。この形態にはサハ103形、クモハ103形は存在しない。

2002年9月13日付けで竣工した奈良電車区所属のクハ103-797 + モハ103-494 + モハ102-650の3両が初の30N体質改善車となった。その後も、1973年以降に製造された車両のうち、延命工事を含む上述5種類の更新未施工のクハ103形とMM'ユニットが施工対象とされた。2005年3月までに2両(モハ103-405 + モハ102-561)[注 26]を除く全車両に施工された。

← 奈良・和歌山
大阪 →
クハ103 モハ103 モハ102 モハ103 モハ102 クハ103 竣工 初期配置 備考
797 494 650 2002.9.13 奈良 OSAKA POWER LOOP(モハ)
784 2041 2002.10.11 宮原
533 689 2002.11.15 森ノ宮
771 2028 2003.3.26 宮原
525 681 2003.3.28 森ノ宮
425 581 2003.6.27 森ノ宮
424 580 2003.7.28 森ノ宮
831 773 2030 774 2031 838 2003.8.28 奈良
843 850 2004.1.20 奈良
386 542 244 2004.2.14 森ノ宮
829 2004.3.26 奈良
769 2026 2004.7.9 日根野
802 2004.7.16 奈良
785 2042 2004.7.23 森ノ宮
825 765 2022 766 2023 832 2004.10.14 日根野
779 2036 844 2004.12.15 日根野
835 777 2034 842 2005.1.28 日根野
783 2040 2005.2.21 日根野
261 2005.3.19 森ノ宮

改造

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改造工事は、形式間改造と呼ばれるもの、耐用年数を延長するための延命工事の他に、線区の特性に合わせた付加設備を追加するもの、車両の性能や旅客設備の向上を図るものなどがある。

103系は様々な線区に使用されたこともあり、線区固有の設備を車両に追加設置する工事などもあった。また、機能的な面や腐食対策などでも改善が加えられるケースも含めて、下記のような項目にて改造された。ここでは国鉄時代とJR化後に大きく分けて説明する。国鉄時代からJR化後も継続して工事を続けたものは国鉄時代に始めた改造の方で取り上げる。

  • 前照灯シールドビーム化改造
  • 屋根の塗り屋根化改造
  • 冷房取付改造
  • 前面排障器取付改造
  • ドアの半自動改造
  • パンタグラフの2台化改造
  • ワンマン運転対応改造
  • トイレ設備取付改造
  • 自動分割解結装置取付改造
  • 電気連結器取付改造
  • 列車無線取付改造
  • ATC機器取付改造
  • ATS-P機器取付改造
  • 戸袋窓埋込改造
  • 妻窓埋込改造
  • ドアレール座ステンレス化改造
  • ガラス抑え方式変更改造

国鉄時代の改造工事

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国鉄は1970年代になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、別の用途に振り向けた。

101系の103系連結対応工事

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1970年(昭和45年)12月10日より大阪環状線の一部を8両編成化した。大阪環状線は101系または103系の6両編成が25本配置されており、ラッシュ時2分40秒間隔運転を行っていたが、8両編成化にあたりラッシュ時の時隔を3分に戻し、捻出される6両編成4本24両を既存の6両編成に組み入れる編成替えを行い、6両編成12本を8両編成12本に組成し直した[139]

大阪環状線の101系は4M2Tの6両編成から6M2Tの8両編成への組成変更が行われた結果、サハ4両が余剰となった。これを活用するため、103系6両編成2本が101系のサハに併結改造を行って組み込んだ8両編成となった[140]森ノ宮電車区のサハ100-55・58・サハ101-55・58の計4両が対象で、ジャンパ連結器のKE57形2基からKE70形1基への交換と貫通幌の交換が吹田工場で施工された。この改造は後のサハ103形750番台への布石になったといわれている[141][140]

改造に伴う車両番号の変更は行われず、1979年(昭和54年)度にジャンパ栓が復元され、片町線の101系による新性能化用として淀川電車区に転属した[142]

冷房化改造

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103系は1973年(昭和48年)以降の製造車は基本的に冷房車となったが、それまでの非冷房車も1975年(昭和50年)度以降冷房改造工事を行った。冷房装置は新製冷房車と同じAU75形の集中冷房装置で、搭載にあたり車体の補強や側面行き先表示器の追加を行なった。冷房用電源もモハ102形に160 kVAのMGを搭載することになり、既存の20 kVAのMGと交換した。これらは新製冷房車に準じたものである。また、これらとは別に1975年夏に関西地区で先頭車のみ非冷房車の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように施工された。その後関東地区にも同様の事例が発生したが、こちらでは両端の乗務員室内に新たに冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を取付けた。1981年(昭和56年)度からは中京地区でも冷房改造が始まり、冷房制御スイッチ取付が施工された。

前照灯シールドビーム化改造

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初期製造の先頭車は前照灯に白熱灯を装備していたが、1971年登場の1000番台は営団地下鉄との協定によりシールドビーム2灯となり、0番台も1972年製造のクハ103-180以降で1000番台同様のシールドビーム2灯となった[143]

1972年の日暮里駅での追突事故で被災したクハ103-544の復旧工事の際、1975年に大井工場(現在の東京総合車両センター)で試験的にシールドビーム2灯が改造で設置された[143]。別の事故で被災したクハ103-4も、1977年の復旧の際にシールドビーム化が施工された[144]

1979年7月に全般検査を施工したクモハ103-69より、本格的なシールドビーム化が開始された[143]。未改造のまま白熱灯で残存した車両も存在し、京葉電車区(現在の京葉車両センター)所属のクハ103-562が最後まで白熱灯で残っていたが、2000年(平成12年)11月6日付で廃車となり、103系の白熱灯車は消滅した[143]

中央本線名古屋地区転用改造

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クモハ103-36
中央本線名古屋地区対応改造車

1977年3月より中央本線(中央西線名古屋地区)の旧型国電置換え用として103系が投入され[145]、転用に伴う改造工事が浜松工場で施工された[146]

行先表示には方向幕は使用せず、先頭車側面に行先表示用のサボ受けが設けられた[145]。前面の運転台窓にはデフロスタが設けられ、助士席側にワイパーが増設された[145]。後にデフロスタは熱線入りガラスに交換された際に撤去されている[145]

仙石線転用改造

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クモハ103-9
仙石線対応改造車

1979年より仙石線の旧形車(主に72系)の置換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車投入で捻出された山手線・京浜東北線・横浜線・青梅・五日市線で運用されていた0番台初期車が転用された。仙石線の事情に合わせた転用改造が行われ、全車スカイブルー塗装で入線している。

寒冷地対策のため、側出入口の半自動ドア化・取手取り付け、客室ヒーターの増設が行われた[145]。前面窓ガラスにデフロスタが設置され(後に熱線入ガラスと交換されたため撤去)、ワイパーが増設された[145]タブレット使用区間が存在したため、乗務員室扉直後の戸袋窓をタブレット衝突による破損防止の観点から埋込まれた[145]。保安装置はATS-B形に代わりATS-S形車上装置が搭載された[145]

1983年度の常磐緩行線の203系投入に伴う1000番台の快速線転用などにより、0番台4両編成4本が捻出されて仙石線に投入された[145]。これにより72系のアコモデーション改良車が置き換えられ、後の新性能化で103系3000番台に編入されている。自動信号化後でタブレットが廃止されたため、運転台後部の戸袋窓閉鎖は未施工である[145][注 27]。クモハ103-144 + モハ102-308は冷房化改造も行われた[145]

国鉄末期の1986年にクハ103-10・42・74の3両に対し、車内に清涼飲料水の自動販売機とゴミ箱が設置された(いずれも後に撤去)。

2本を除き全編成が非冷房編成であり、冷房編成のうち1本は1987年(昭和62年)に105系の2両編成2本に改造されている[145]

全車JR東日本に継承されたが、更新車の導入により1993年までに全車廃車となった。

0番台と1000番台の併結対応改造

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クハ103-188

0番台は乗務員間連絡ブザーに非分離式を採用していたが、1000番台は営団地下鉄との協定により分離式を採用していた[147]。非常用ブザーと乗務員連絡電話用の回路が異なったため、1000番台と0番台の併結運転は不可能であった[141]

1984年(昭和59年)の203系の投入で1000番台が常磐緩行線から常磐快速線に転用される際、2編成でクハ103形0番台2両 + 1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じた[147]。このため、該当編成に組まれるクハ103形0番台の乗務員室に非常用ブザーの取付、非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付が行われ、識別のため車体側面の車両番号下部に白線が追加された[141]

対象はクハ103-93・188・627・636の4両であった[141]。188は車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)が併せて実施された。

その後、1000番台の方が地上線の方式に改造されることとなり、識別は解消された[141]

1500番台へのスカート設置

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1500番台では踏切事故対策として国鉄時代から先頭車にスカートを取付を施工開始し、JR九州移行後に全車完了した。

JR東日本の改造工事

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本系列は、大量輸送に特化した国鉄の標準型通勤形電車という形態から、20年以上に渡り製造が継続された。そのため性能・設備面では陳腐化が目立ったが、1983年(昭和58年)3月の中央線快速が201系への、1986年(昭和61年)4月の常磐緩行線が203系への置換え完了を除き進行しておらず、分割民営化時には現役車両は全て承継された。しかし、その後はJR各社で新型車の開発・投入による置換えにより廃車が進行した。その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造施工例も多く、様々な新区分番台も発生した。

また、運用路線ごとに特化した仕様への改造も施工された。

  • 南武線・鶴見線用(全車)京浜東北線・常磐快速線用(一部)…外幌取付とそれに伴う妻窓閉鎖。
  • 京葉線用…先頭車にスカート(排障器)を取付。
  • 常磐快速線用…運行番号表示器をLED式に変更。

しかし、1990年代からは205系・209系E231系などの置換えにより廃車が進行した。首都圏では2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱。同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転、その翌日の車両展示会を最後に営業運転が終了し、仙石線では最後まで残っていたRT-235編成が2009年(平成21年)10月21日に営業運転を終了した。

これにより、同社の本系列は消滅。なお、以下で同社が施工した大規模改造工事について解説を行う。

AU712形による冷房化

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FTUR-300-102形搭載車
冷房電源MG供給形AU712搭載車

国鉄時代から非冷房車に対して冷房改造工事を行ったが、従来からのAU75系冷房装置(重量約750 kg)での改造は構体の補強なども踏まえ、1両あたり2,000万円から3,000万円の費用と1ヶ月半から2ヶ月半程度の改造期間を要した[148]。そこで、JR九州が1987年(昭和62年)度から冷房能力20.93 kW(18,000 kcal/h)×2の床置形のAU2Xを開発し[149]、費用・工期ともに三分の一で改造できるようになり、冷房化率100 %を達成した。しかし、乗客の多い通勤形電車の場合の必要な冷房能力を計算したところ、240 %乗車時に30 %の人が快適と感じるには48.84 kW(42,000 kcal/h)の能力が必要である[150]。これらを考慮して、JR東日本では同年9月に集約分散式日立FTUR-300-102形が試作され、サハ103-128の屋根上に2基が設置された[109]

1988年(昭和63年)度からは、同様な屋根上配置のAU712形冷房装置(冷房能力24.42 kW ≒ 21,000 kcal/hを各車2基)を開発して冷房改造を進めた。AU712形冷房機の原設計と製造は三菱電機が担当しており、AU712形の重量は約335 kg/1基、SC24形インバータの重量は350 kg(実測値)である[151][152][153][148]。従来のAU75系列での改造に代わって正式に採用され、1990年までに331両が改造された[109]。改造内容が大幅に簡略されたことから、車両工場ではなく電車区でも改造工事が可能となり、冷房化率を大きく向上させた[148]

当初の冷房用電源はモハ102形に搭載されるMGによったが、同年下期からは自車給電用として屋根上にSC24形冷房電源用インバータ(28 kVA・VVVF制御[注 28])が設置された[151][152][153][154]。電源が電動発電機(三相交流440V,60Hz)の場合は稼働率制御方式(ON/OFF制御)となり、SC24形インバータの場合は容量可変制御(インバータ制御)となる[148]

自車給電SC24形インバータ搭載車では他車供給用の引き通し線は持たず、Mc-M'-T-Tcの編成でT車以外の各車がAU75系搭載車、T車がAU712形搭載のSC24形インバータ電源車の場合、T車に引き通し線がないためTc車で冷房が使用できなかった[154]。サハ103形3000番台は、AU712での冷房改造の際にSC24形インバータと引き通し線が併設されている[154]

MG給電車は2005年(平成17年)にモハ103-185 + モハ102-340の廃車により営業車両から退き、SC24形インバータ搭載車は0番台は2004年にクハ103-125の廃車で消滅し、3000番台も2005年に全廃された。側面の行先表示器の設置も行われたが、その対象は一部に留まっている。クハ103の偶数向き車は原則設置されず、仙石線更新工事施行車に後付けされた例があるのみで、SC24形インバータ搭載型に至ってはクモハ103と3000番台の両先頭車だけであった。

ATS-P設置改造

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クモハ103形ATS-P搭載車を先頭とした編成

京葉線では1988年12月1日新木場駅までの開業の際にATS-Pが設置されることとなり、京葉線用と武蔵野線用の103系にATS-Pの設置工事が開始された[155]。このうちクモハ103形は機器搭載スペースの不足のため、運行番号窓の部分に機器を設置して運行番号表示窓を埋め、運行表示器は前面窓部に設置した[155]。なお、1989年以降の設置車では運行番号幕部への設置はされず、運行番号幕窓も維持されている[155]

1988年12月5日に発生した東中野駅列車追突事故以降、JR東日本ではATS-P化を促進させた。単に機器搭載のみならず、ME40形ブレーキ弁搭載車の大半はME48形への交換が行われた。

電気連結器設置改造

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クハ103-574
自動分併装置取付車

1989年から分割併合運用の多い以下のクハ103形に自動分併装置取付工事取付が施工された。

  • 京葉電車区…基本編成蘇我方・付属編成東京方
  • 豊田電車区…青梅・五日市線用4両編成
  • 松戸電車区…基本編成取手方・付属編成上野方
    • 松戸区基本編成の一部には、取手方先頭車にクモハ103形が組込まれていたが、他車両基地からの転入車も活用しクハ103形に統一した上で施工。

1200番台塗色変更・10両編成化関連

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301系(左)と103系1200番台(右)の併結
2002年8月28日 西船橋

1989年(平成元年)に中央・総武緩行線に205系が黄帯[注 29]で登場し、誤乗防止の観点から帯色をスカイブルー(青22号)に変更[注 30]した。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更された。1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし[注 31]、白色の巨大なJRマークを先頭車の側面窓下に貼付するという小変化があった。

ラインカラー変更とほぼ同時期に冷房改造が若干早期に行われたため、冷房改造された黄帯編成も存在した。同時にクモハ102形を除く全形式に側面行先表示器を搭載し、前面方向幕も連電動化された[注 32]

1991年(平成3年)12月1日ダイヤ改正では東西線完全10両化により、7両編成で残存していた本系列5本(35両)と301系2本(14両)は全て10両編成に組み替えられた。余裕が生じていたため12両が常磐快速・成田線用として松戸電車区に転出[注 33]した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(のちのK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。

残存車は、7両編成時代の旧K12・K13編成を中心に以下の車両を組み合わせ10両の新K6・K7編成を組成した。

  • モハ103・102-1202[注 34] : 松戸転出の旧K9編成から捻出
  • モハ103-1207 + モハ102-1205 : 残存の旧K11編成から捻出
  • サハ103-429・430[注 35] : 浦和電車区から転入

モハ103-1207 + モハ102-1205を抜き取った旧K11編成は、5両編成で新K9編成となり[注 36]、同じく10両編成化で5両編成で残った301系と組成した。*のちに301系5両編成が廃車されたため、予備編成となった。

編成表(10両統一後)
 
号車 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
編成番号 K6 クハ103
-1204
モハ103
-1211
モハ102
-1208
モハ103
-1210
モハ102
-1207
サハ
103-430
モハ103
-1214
モハ102
-1210
モハ103
-1212
クモハ102
-1204
K7 クハ103
-1205
モハ103
-1202
モハ102
-1202
モハ103
-1207
モハ102
-1205
サハ103
-429
モハ103
-1213
モハ102
-1209
モハ103
-1215
クモハ102
-1205
K9 クハ103
-1203
モハ103
-1208
モハ102
-1206
モハ103
-1209
クモハ102
-1203
 

前面強化工事

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成田線大菅踏切事故運転士殉職したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事が1995年3月末までに施工された。113系などは車両基地で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、本系列では検査入場の際に工場にて鋼板を取り付ける工事を施工した。1974年以降に製造された高運転台車は製造当初から前面が強化されているため改造対象外であった。1993年12月までの大宮工場にて施工された車両(全車が豊田車両センター所属車)は尾灯上部の足掛けが外側に設置されている。インドネシアに譲渡された初期先頭車はこの形態。

仙石線RT-235編成復活時の改造

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仙石線での本系列運用は2004年7月に一旦終了したが、2006年以降に予定された多賀城駅付近の立体交差化工事の際に車両不足が想定[注 37]されることから、本編成のみ郡山総合車両センターで留置された。2006年11月に同センターで復帰のための整備が施工され、2007年3月19日より営業運転に復帰した[133]

クハ103-235に車椅子対応の大型トイレが設置され[注 38]、モハ103-343のパンタグラフはシングルアーム式2基に換装された[133](本系列初かつ唯一)。台車はグレー塗装化、座席モケットは205系と同タイプに変更されている。保安装置はATS-SNからATS-Psに変更された。

復帰後は平日朝のラッシュ時に区間運転2往復限定で運用された。しかし、老朽化と首都圏配置車の需給調整の結果、南武線209系2200番台投入により205系が捻出できることになり、2009年10月21日を最後に営業運転を終了[156]、同月26日に郡山総合車両センターへ廃車回送され、JR東日本管内の103系は全廃となった[157]。4両とも2009年10月28日付で廃車となり[133]、2010年1月に解体された[158]

仙台車両センター宮城野派出所RT-235編成
← 石巻
クハ103-235 モハ103-343 モハ102-499 クハ103-236
  • 4両とも中央線快速→中央総武緩行線→仙石線と転属してきた車両である。

入換車への転用

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クモハ103-11とクモハ102-1201の2両は、1993年の廃車後に大船工場の入換車に転用され、従来の101系2両による入換車が置き換えられた[159]。クモハ103-11は1990年7月1日付で、クモハ102-1201は同年4月2日付で廃車となったものである[159]

クモハ103-11のパンタグラフは運転台側へ移設され、クモハ102-1201には貫通扉に作業用の小窓が設置された[159]。両車とも先頭部への前照灯の増設が行われている[159]

JR東海の改造工事

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国鉄からの継承車70両は1965年(昭和40年)から翌1966年(昭和41年)にかけて製造された初期車両であったことから、一部の冷房車を含む20両は廃車し、残った50両にリフレッシュ工事などの改良工事を施工した。

C-AU711A形による冷房化

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JR東日本のAU712形と同様に(厳密にはJR東海の方が先行)工期短縮と改造費用低減の観点から、C-AU711A形集約分散式搭載による改造工事が施工された[160][135]。1988年度から翌年度にかけて12両に施工され、非冷房で残った16両はAU75改造車の4両とともに廃車となっている[135]。側面方向幕の設置は施工されなかった[135]

C-AU711A形集約分散式冷房機の重量は約280 kg/基で、能力20.93 kW ≒ 18,000 kcal/hの装置を屋根上に2基搭載するものである[160]。モハ102-76・81・96・97の4両は、冷房電源確保のためMGが撤去され、4両分の給電能力を有するC-SC24形静止形インバータ(SIV・定格容量120 kVA)に取り替えられた[160][135]

ドア点検蓋の設置

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JR東海の103系には、側引戸のドア点検蓋の設置も行われた[135]。特別保全工事・リフレッシュ工事とは別工事となったが、50両全車に施工されている[135]

電動方向幕の使用

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国鉄時代は前面の方向幕部分に「中央線」と表示し、行先案内には先頭車側面の行先表示板(サボ)を使用していたが、JR化後の1987年度より方向幕付車両で電動方向幕の使用が開始された[135]。前面幕にも側面用の幕が流用されたため、前面幕窓の上下に余白が入る形となった[135]

JR西日本の改造工事

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承継車両の多くが初期から中期型車であったことから、延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。

羽衣線向けワンマン化改造

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ワンマン改造車
羽衣線用2500番台
画像の編成は唯一体質改善車が含まれる

阪和線の支線である羽衣線には1987年(昭和62年)にクモニ143形荷物電車改造のクモハ123-5・6日根野電車区に投入されたが、同時にラッシュ時に3両編成で運転する際、123系の増結車としてクハ103-194が用意された。1989年(平成元年)秋からはワンマン運転を行うことになり、車外に外部スピーカー等が設置されるなどのワンマン化改造が施工された[161]

改造の対象はクハ103-194・クモハ123形2両で、および予備車としてクモハ103-77 + モハ102-186 + クハ103-545の3両でも施工されている。なお、クハ103-194および予備車3両は1990 - 91年にWAU102形による冷房化改造と延命N工事が施工された。車内で運賃収受を行わないタイプのワンマン運転であり、同様のワンマン運転はJR九州の筑肥線、JR西日本の103系では呉線でも行われた。車内に運賃箱を設置した車内収受タイプは播但線や加古川線でも行われている。

1995年阪神・淡路大震災の後、クハ103-194はJR神戸線の応援編成として貸し出され、代替として大阪環状線で使用されたサハ103-758に朱色のままワンマン化改造を施工し、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運用された[162]。応援運用を終えたクハ103-194は、事故廃車となったクハ103-839の補充として福知山線に転出し、塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示器が手動であるなど異端な存在であったことから、1997年9月1日に、播但線用3500番台への運転台部品供出のために廃車された。

1995年(平成7年)、クモハ123形2両はクモハ84形置き換えのため岡山電車区に転出し、交代でワンマン化改造を施工した103系3両編成(クモハ103-23 + モハ102-105 + クハ103-26)が投入された。2007年(平成19年)には2編成(クモハ103-2503 + モハ102-396 + クハ103-162・クモハ103-2504 + モハ102-451 + クハ103-192)にワンマン化改造が施工され、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。

WAU102形による冷房化

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WAU102形搭載車

JR西日本の冷房改造は、当初は国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、1988年(昭和63年)より改造に必要な費用の削減と早期の改造進展のため、WAU102形分散式を1両あたり3基搭載する方法に改められた。

冷房電源は1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用静止形インバータ (SIV) 搭載で対応している。WAU102形は製造会社による形状の違いも認められており、東芝製と三菱電機製では外部ルーバー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。

WAU102形搭載車は同社エリアに広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、優先的に廃車が進められた。2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣線予備編成の廃車をもって近畿圏からは消滅し227系投入により最後まで残った広島圏の車両も廃車となった。廃車発生品のWAU102形や電源用SIVは105系の体質改善工事の際に一部が再利用された。

ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換

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ATS-P搭載に付随して、ブレーキ弁の改修が施工された。電源投入方式がJR東日本と異なるため非常抜取対応のME48形は導入せず、従来からのME40形に電気接点部分改造施工で対応。その後117系などに採用されたME49系への交換が開始された。

座席モケット交換

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イメージアップの一環として、201・203・205系と同様の、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分入仕様に交換したが、その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。優先座席も青地にピクトグラムの入ったものに交換されている。福知山線脱線事故によりJR東日本から転入した8両のうち、広島運転所に投入されたクハ103形は2廃車までJR東日本仕様のままであった。

腐食対策

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延命の一環として、腐食の原因を取り除く改造がされた。

窓閉塞
雨水の浸入を防ぎ車体腐食の遅延化ならびに窓清掃の簡略化から、1990年より戸袋窓の、1997年からは妻面窓の閉鎖工事を施工した。森ノ宮所属車は2003年、奈良所属車は2004年、日根野所属車は2008年までに全車完了し、2020年4月現在で戸袋窓残存車は存在していない。妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から1枚固定ガラスへの交換車も存在している。
車体接合方法の変更
201系量産車と同等の車体を持つ1500番台以外の車両は、従来どおり台枠下面辺りまでスポット溶接で外板を貼り付けて構体を製造していた。そのため、毛管現象で下から雨水が滲み上がって台枠と外板をひどく腐食させる原因となっていた。
腐食した鋼板をステンレスなど腐食しない素材に変えるのみならず、接合点を台枠上面近くに変更(外板の縦寸も変更し、接合点以下には貼らない)、溶接もスポット溶接から連続溶接に改め、内側からはシール材を充填した。台枠幅など以外は201系量産車とほぼ同じ構造となった(台枠が露出する関係でわずかに発生する段差は、パテで均すことで肉眼ではほぼ見分けがつかない)。主に体質改善工事で実施。
扉交換
腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製からステンレス製に交換している。新扉は車両によって窓の支持方法が異なるほか、貫通扉はオリジナルより窓下方が長いものであり、ほぼ全車が施工した。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られ金属地むき出しが多数である。
前面金属板設置
窓支持用Hゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆う施策である。

スカート設置

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201系などとともに、衝撃への耐久性を高める目的でスカート(排障器)が設置され、全先頭車に施工された。

下関・広島地区転用改造

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広島地区向け改造車

下関運転所(現在の下関総合車両所運用検修センター)の115系非冷房車置換えのため、1992年の片町線への207系投入で余剰となった103系が山陽本線下関地区に投入されることになった[138]。転入対応改造は吹田工場鷹取工場で施工された。塗装はクリーム1号青20号の帯が入る瀬戸内色となった[163]。1993年に広島運転所に転属した。

当時の下関地区では行先表示に方向幕を使用せず行先表示板(サボ)を使用していたため、各車両の車体側面にサボ受けが設置された[138]。サボが設置されていた場所にあった弱冷車表記受け等は、扉の左側に移設されている[138]。後に方向幕の使用が開始されたが、前面方向幕は未使用であり、運行表示器には編成番号が掲出されていた。サボ受けは方向幕使用開始後も残され、関西地区に再転属した編成でも未撤去であった。保安装置はATS-S列車無線が搭載された。

和田岬線転用改造

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和田岬線向け改造車

2001年7月1日和田岬線電化に伴い、6両編成1本が網干総合車両所明石支所に配置された[161]。森ノ宮電車区の第8編成[164]を6両編成に短縮し、2001年6月21日付で明石へ転入、編成はR1編成となった[165]

転属前の塗装はオレンジ(朱色1号)であったが、2001年6月20日付でスカイブルー(青22号)に変更した[165]。全車両が延命N40工事施工車である[166]

日中は乗務員訓練にも使用されるため、運転台のワイパーが2本増設され計3本となった[161]。乗務員室と客室間の仕切り窓は、金属支持の角型となっている[166]

和田岬線用R1編成[165]
クハ103
-247
モハ103
-389
モハ102
-545
モハ103
-397
モハ102
-553
クハ103
-254

JR九州の改造工事

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筑肥線向けワンマン化改造

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ワンマン用ドアスイッチおよびモニターが追加されている

2000年3月11日ダイヤ改正から西唐津 - 筑前前原間で車内で運賃を収受しないワンマン運転を開始した[167]。ワンマン運転に対応するための改造工事を1999年末から2000年3月にかけて小倉工場で実施した[168]。施工内容は車外スピーカーの追設・ドア開閉時に駅ホーム設置のカメラ映像を確認可能な安全確認用液晶モニターを設置している。

筑肥線向けトイレ設置改造

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2002年度下期より本系列としては初となるトイレの設置が行われ、全編成の唐津向き先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレが設置された。これに際し、トイレ設置部分の側窓・妻窓が埋め込まれ、車椅子スペースとした側窓を1/4程度に縮小された。この改造によりJR九州の電車編成でのトイレ設置率は100 %を達成している。

その他の改造

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AU720形冷房装置搭載
松戸電車区所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのAU720形に交換した。効果の程は不明だが、一般車と区別なく廃車された。JR西日本でも日根野電車区所属車に同様の工事を施工した車両が存在する(WAU709形)。

性能・運用面での比較・評価など

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103系は様々な線区で使用されたことにより、駅間距離が長く高速運転を行う常磐快速線や京阪神緩行線、中央線特別快速の例のように線区特性などに合致しないケースなども多く見られた。経営判断としての投入なのであるが、それ自体に疑問を投げかけられた。故障などの頻度を他形式と比べた場合、103系は他形式より件数が多くなることに留意する必要はある。なお、原因を解明したとしても、それが展開されずに他線区でも同様な問題点が発生する。

投入線区の拡大

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駅間距離の長い線区への進出

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国鉄の新製通勤形電車は、特殊用途の301系を除き全て103系で賄われることになったため、増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも投入されるようになっていった。1962年(昭和37年)の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い常磐線(平均速度52.8 km/h)と京阪神緩行線(同56.7 km/h)も含まれていたが、本系列の仕様決定は、これらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離(1.34 km)や平均速度が参考にされた。比較的駅間距離が長い路線向けにはMT46A形主電動機の界磁を40 %からさらに弱めた35 %にするなどの措置が必要であり、MT55形が35 %まで界磁を弱めているのはこれに対応するためでもある。

当時の多くの路線の最高速度は95 km/hであり、80 km/hを超える高速域では101系より加速力が高い[注 39]ため大きな問題にはなっていない。しかし、快速列車から逃げ切るために高加速かつ最高速度の高い通勤電車を求めていた大阪鉄道管理局には、1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、新形式を必要とするのか検討させている。大阪鉄道管理局では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や本系列)でも使えるとの認識を示した(詳細は京阪神緩行線#新形通勤電車構想を参照)。

35 %まで界磁を弱めて高速特性を高めたが、定格速度は30 km/h台であることから、平均駅間距離が2 km台の京浜東北線[注 40]1965年(昭和40年)に投入する際には、以下の案も検討された。

  • ノッチオフの速度が上がったことから、本系列の歯車比を1:5.6にする。
  • MT54形主電動機により中速以上の特性を高めた通勤電車の可能性を模索。

しかし、いずれも本系列に比べて電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間も経済性が高く、高速タイプにする必要はないとの結論を得た。これらの調査結果を受け、1967年(昭和42年)末から常磐線に本系列が投入される際には、ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、新規開発されたメンテナンスフリーのディスクブレーキ付きTR212形付随台車を採用した[注 41]

京阪神緩行線への投入から3年後の1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90 km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキが作動せずに故障と紛らわしいと苦情が多発。保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えることなどが判明した。設計上95 km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧継電器を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が施工された[169]

JR西日本では1991年度からJR東西線の開業を見越し、乗り入れ予定の片町線では地下線対応の207系に置き換えを始めた。捻出された103系は100両を超えそのほとんどが冷房車であったことから、関西本線・阪和線の非冷房車置き換えに転用されたが一部は山陽本線下関運転所に冷房化率改善のため転出[170]。103系は過去にも通勤区間で駅間の長い路線に投入されたことはあっても、近郊形電車の運用区間に直接転用されたことは無かった故に、鉄道雑誌ではその使用方法について疑問が投げかけられた。特に山陽本線岩国以西は105系トイレなし編成での運用実績は有ったが103系の投入により約半年で広島運転所に転配されている。

ダイヤ上の問題

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常磐快速線阪和線で問題になった。これは103系単独の問題ではなく、運用上、阪和線では113系、常磐快速線では401・403・415系と並行ダイヤを組むことになったためである。加速度が高く高速性能が劣る103系と、加速度が低く高速性能に優れる近郊形電車とで同一の線路を走り並行ダイヤを組んだため、どちらの特性もスポイルした。更に常磐快速線では485系(後に651系も加わる)、阪和線では381系特急もそのダイヤの中に入りこんだため、ダイヤカット(列車の運転間隔の短縮)に苦労することになる。

このため、東京鉄道管理局では1972年(昭和47年)の中央・総武緩行線分離後に首都圏の101系を常磐線に集結させ、上野~取手間の快速電車と取手以北へ行く中距離列車の加減速特性を近づけ、同時に松戸電車区の103系0番代を常磐快速線より平均駅間の狭い線区に転出させることが検討された。しかし、この計画は実現しなかった。元々、常磐線の103系は緩急分離以降4M4Tの8両編成になったため混雑が激しく、1973年3月からは編成に電動車2両を追加して10両編成に増車。結果的にMT比が上がったことで走行性能が改善された。常磐線快速電車と中距離列車の特性を揃えるという対策は、JR化後に前者をE231系、後者をE531系に置き換えることでようやく実現した。

主電動機の性能比較

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101系との主電動機比較

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8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年(昭和43年)10月の山手線10両編成化の際には6M4Tとなるため、MT比が3:2となった。単純に編成出力だけを見れば101系の2,400 kWに対し本系列は2,640 kWと大きく、「10両ならば103系は不要で101系でいい[171]」という意見も存在した。

実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、定格引張力が小さい101系は[注 42]本系列の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならなかった。

同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線の101系と本系列6M4T同士の試算では、以下のようになる。

  • 運転時分を同等とした場合の限流値は本系列で415 Aに対し101系では480 Aとなる[注 43]
  • 同試算によると101系に比べ本系列の方が変電所設備や年間電力消費量を低減できるとされており、上記の編成出力だけを基準とした意見は必ずしも正確ではない。

101系のみならずMT46系主電動機を採用した形式は、主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)が不足しており、山手線のような加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足りない[173]との試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系は全電動車でも問題点があるとされていた。

さらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300 %にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える本系列は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことができる。

そもそもMT比1:1設計をMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年の京浜東北線10両編成投入の際に、長短所については検討しているが、省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認[174]している。したがって、同じMT比3:2の6M4Tでも101系より本系列の方が加速度の高いことがわかる。

国鉄電車用主電動機との比較

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電気鉄道用主電動機は固定歯車比の減速機構を通して車軸を駆動する関係で、主電動機に幅広い回転数変化とくに、弱め界磁時の高速回転に耐えることが求められる。このことを数値的に表すために主電動機の高速回転能力を示す指針としては出力よりもSRP (Specific Ratio Power) を用い、電動機進歩の比較としてSSRP (Specific Speed Ratio Power)[175][176]を用いることがある。ここでSRPとは許容回転数×(電動機出力÷定格回転数)(馬力HP)であり、SSRPはSRPを主電動機質量で除したものである。下記に国鉄の主な主電動機のSSRPとSRPを示す。

国鉄電車用主電動機の能力[177][178][179]比較(参考値)
MT30 MT40 MT46A MT54 MT55 MT60 MT61 MT63 WMT61A(JR西日本)
主な形式 モハ72形 モハ72形 101系 113系 103系 201系 205系 207系(国鉄) 205系1000番台
許容回転数 (rpm) 2000 2000 4320 4320 4400 4850 4600 6000 5100
定格回転数 (rpm) 780 870 1860 1630 1250 1890 1540 2200 1540
電動機出力 (kW) 128 142 100 120 110 150 120 150 120
電動機出力 (HP) 171.7 190.4 134.1 160.9 147.5 201.2 160.9 201.2 160.9
SRP 440.3 437.7 355.4 426.4 479.8 516.3 480.6 548.7 532.9
電動機質量 (kg) 2100 1970 740 800 980 835 800 535 800
SSRP 0.21 0.22 0.48 0.53 0.49 0.62 0.60 1.03 0.67

SRPの定義式は、許容回転数×(電動機出力÷定格回転数)と変形できるのでSRPはすなわち、設計安全最高速度と定格トルクの積に比例する値となる。したがって車両の設計安全最高速度と質量あたり出力を決めると、起動加速度はSRPにほぼ比例することが分かる。定格回転数が低いにもかかわらず許容回転数が高い103系のMT55は、SRPやSSRPで比較すれば、他の新性能電車向け主電動機に負けず劣らず軽量で高速回転に耐える優秀な主電動機であるのだが、「103系の高速運転時にはモーターがブンブンと回るだけ」と、高回転では103系のモーターが能力外であると勘違いさせるかのような記述[180]も見受けられる。ただしMT55を定格速度が低い103系のセッティング(歯数比と車輪径)で使う場合、定出力領域は64 km/hで終わり、それ以上高速になると出力が落ちる。これは113系や115系(ともに歯数比は4.82〈17:82〉)の84 km/hに比べて低いばかりか、定格出力の小さい101系の67 km/hよりも低い数値[177]であり、高速域では主電動機の持つポテンシャルを出し切れていないことになる。

通勤用車両の冷房化率の推移

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昭和40年代前半になると家庭でもクーラーが普及し始め、通勤型電車でもクーラーの要求が増していく。そこで国鉄では103系と113系にて冷房装置の試作を昭和45年に行い、昭和48年度より103系は冷房車製造を行っていく。冷房装置付きの103系が増備されることで各線区の冷房化率が上がった。

国鉄広報部が毎年1回出している「数字でみた国鉄」では昭和49年版から通勤用車両の冷房化率が掲載されている。201系の量産が始まる昭和57年版までの冷房化率の推移を示す。一部は101系冷房改造車によるものも含まれるが、103系が昭和50年代に大量に増備された結果、通勤輸送における冷房化率が向上した。

東京・大阪付近の通勤用車両の冷房化率(各年7月現在)
1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 備考
中央本線 20 % 21 % 21 % 23 % 34 % 44 % 48 % 52 % 67 % 特別快速は100 %
山手線 31 % 31 % 39 % 41 % 54 % 66 % 72 % 74 % 76 %
京浜東北線 7 % 7 % 18 % 52 % 64 % 64 % 65 % 66 % 68 %
常磐快速 13 % 23 % 38 % 48 % 52 % 56 %
総武緩行 1 % 10 % 17 % 17 % 39 %
南武 3 % 16 % 30 % 35 % 50 %
横浜 17 % 31 % 44 % 48 % 59 %
青梅 3 % 5 % 12 % 12 % 18 %
武蔵野 6 % 6 %
東海道・山陽本線(緩行) 20 % 27 % 42 % 43 % 44 % 47 % 51 % 54 % 56 %
大阪環状線 34 % 34 % 50 % 64 % 64 % 64 % 76 % 76 % 76 %
阪和線 8 % 8 % 16 % 23 % 32 % 42 % 61 % 63 % 69 %
片町線 12 % 28 % 33 % 33 % 33 %

他形式等との比較

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本形式は、製造期間が20年以上に及んだため、その間の技術向上などを反映しにくく、製造後30年近く経っても大量に残っていたこともあり、陳腐化していた[181]。オイルショック以後の省エネという観点において回生ブレーキを装備していなかったことの指摘もある上、JR東日本が製造した209系通勤形電車の車内に103系電車との消費電力量比較が掲示されたことと相まって、浪エネと表現した記事も見られるようになる。鋼製車体で回生ブレーキを装備しない本形式が過去にどのような比較等をなされているかを示す。

旧形国電や101系との電力消費量率の比較(1966年頃)

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103系が経済性が高いと言われた所以は、単にMT比1:1による運転が出来て車両費などが安いという点だけでなく、高い加速度と高い減速度によって同時代の他の抵抗制御車よりも消費電力量が少なく、経済運転が可能な点に依るところが大であった。設計当時は後者のメリットを語る記述が多かったが、1980年代以降に回生ブレーキ車が一般化し、さらに軽量ステンレスアルミ車などが標準になってからは「103系は他系列より消費電力において経済的」というロジックは完全に過去のものとなっている。

下表は103系が量産され始めた当時に試算された他形式との比較表であり、103系が他形式よりも有利であることがわかる[182]。電力消費率は、1 kmまたは1000 t・kmあたりの消費電力量だが、ここでは1000 t・kmを用いている。また、消費電力量は運転時分を長くするとそれだけ減る傾向にあるが、103系の消費電力量、消費電力量率は他の形式に比べて運転時分が短い状態での数値である。同じ運転時分ベースで考えるとさらに103系の消費電力量等は下がる。

103系と旧形72系・101系の消費電力量率等の比較
線名 車種 編成と限流値 運転時分 電力消費率 比率 備考
山手線 旧形 5M3T 210 A 53分40秒 58.3 kWh/1000 t・km 100
101系 6M2T 300 A 53分20秒 52.5 kWh/1000 t・km 90
6M2T 480 A 48分40秒 55.4 kWh/1000 t・km 95 参考値。実際にこの限流値で運転されたことはない
103系 4M4T 415 A 50分00秒 48.6 kWh/1000 t・km 83
京浜東北線 旧形 6M4T 210 A 79分20秒 47.7 kWh/1000 t・km 100 参考値。京浜東北線で旧形の10連は運転されていない
旧形 5M3T 210 A 78分50秒 47.9 kWh/1000 t・km 101
101系 6M4T 480 A 73分20秒 46.0 kWh/1000 t・km 97 参考値。実際にこの限流値で運転されたことはない
103系 6M4T 415 A 72分40秒 44.0 kWh/1000 t・km 92

113系やMT54の歯車比1:5.60車との比較(1975年頃)

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同一駅間における運転時分は、起動加速度を高くとり低い速度で惰行に移る方が省エネになる。このように103系は駅間距離が長くても到着時分は113系などと遜色なく、消費電力量も少ない。車両の最高速度が高いからといって、必ずしも目的地への到達時間が短くなるわけではない[183]

下表は113系と101系の主電動機をMT54にした架空形式、そして103系の3種類の形式を2M2T・300 %乗車、回復余力10 %という条件で1 km - 5 kmの駅間距離の運転時分と消費電力量を計算したものだが、113系は限流値が低く起動加速度が低いため、省エネ率なども低くなっている[184]

103系と113系・101系のMT54換装車(架空形式)の消費電力量と運転時分の比較
1 km 2 km 3 km 4 km 5 km 備考
113系 12.5 kWh 106秒 19.0 kWh 154秒 24.4 kWh 199秒 29.2 kWh 244秒 33.3 kWh 289秒
101'系 11.1 kWh 101秒 18.0 kWh 151秒 23.2 kWh 197秒 27.0 kWh 240秒 31.7 kwh 284秒 101系の主電動機をMT54に換装した架空形式
103系 10.2 kWh 96秒 16.5 kWh 148秒 21.4 kWh 196秒 26.2 kWh 242秒 31.9 kWh 285秒

営団6000系や301系などアルミ車との比較(1975年頃)

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鉄道車両の電力消費量は、編成重量に比例する。つまり車体が軽量であるほど、電力消費量は低くなるため、昭和30年代中頃よりステンレスやアルミによる車両軽量化が始まった。国鉄では、ステンレス車は試作車両のみに終わるが、営団地下鉄5号線(現、東京メトロ東西線)乗り入れ用として、昭和41年にアルミ車体の301系が103系をベースにして設計されている。しかし、アルミ車体は製造費が高いこともあって301系の製造は56両で終わり、その後は地下乗り入れ用の車両も103系が製造された。営団地下鉄9号線(現、東京メトロ千代田線)では営団側がアルミ車体回生ブレーキ付きの6000系を使用していたのに対し、国鉄側が回生ブレーキを持たず、電動車比率の高い103系であり、営団側からも早期のチョッパ制御など省エネ車の導入を要請されていた。一時は費用が掛かるため断念したが、1973年(昭和48年)末のオイルショック以後、省エネが社会問題となっていた事から、アルミ車体にした場合の効果を再考し、山手線などの冷房付き103系10両編成をアルミ車にした場合で各車両に10 t荷重がかかった状態(満車は20 tで査定される)では消費電力量が11 %削減できると予測している[185]。また、営団千代田線でも我孫子 - 代々木公園間で乗車率50 %で実測したのが下表で、車体の軽量化と回生ブレーキを有する事で営団6000系は103系に比べて消費電力量が40 %少ない結果となった。

営団6000系と103系地下型との消費電力量比較
103系1000番台 営団6000系
編成 8M2T 6M4T
編成重量 358 t 288 t
力行電力 (kWh/km) 25.0 20.1
回生電力 (kWh/km) 0 -5.3
消費電力量 (kWh/km) 25.0 14.8
比率 100 60

旧形国電や101系との比較(1981年頃)

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経済運転は、動力費が原価の部分であると考えるなら企業内で取り上げられて当然であり、各鉄道会社でも古くは蒸気機関車の石炭消費量の節約方法など活発に行われた。103系のような通勤電車の場合も同様に経済運転の手法が確立されており、通勤電車のように起動・停止が反復するものに関しては、定格速度を低く取る事で起動抵抗を早く抜け抵抗ロスを少なくし、高速域は界磁を弱めて対応することが得策である。一定駅間を同一時分で運転する場合は、加速度を高くとり惰行時間を多く取ればブレーキ初速が遅くなりブレーキによるエネルギー損失を防げ、加速度を大きく取ると103系のような直流直巻電動機を用いる場合、定格速度が低くなるが、逆に起動時の抵抗ロスを減らす効果がある。抵抗損失は抵抗の抜ける速度の二乗に比例して増大するため、101系や旧型国電に対して抵抗を抜ける速度が約30 km/hと低い103系は、これらの形式に比べて格段に抵抗損失が少なくなっている。結果として、103系を用いることで首都圏などの通勤線区では10 %程度省エネとなっている[186]

駅間が長く高速運転できる形式との比較(1985年頃)

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103系電車が阪和線や東海道・山陽緩行線などに投入されると、駅間距離が長い路線では、一般に最高速度やブレーキ初速が高い運転がされているため、投入当初は苦情も多かった。しかし、原因の追及などによりそれらの不満は解消されることになる[58]が、このことが恒久的な問題点だと記事にしたケース[181]などもあり、駅間が長く高速運転をする線区では103系は適さないと思われるようになった。

しかし車両設計事務所の川添雄司は「103系は駅間の長い路線や最高速度が高い路線など別形式が有利に見える路線でも、データを見ると103系に有利な数字が出るとしている。東海道本線・山陽本線などでは、3ドアの113系を4ドアにしたような車両[注 44]でよいかもしれないが、比較すると103系の方が消費電力量が少ない。103系は駅間の短いところから長いところまで使える上に、価格も安い」と述べている[187]。このことは前述の113系等との1 km - 5 kmの運転時分や消費電力量の比較などを見ても明らかである。

山手線205系との比較(1986年頃)

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1985年9月から1986年9月まで山手線の103系と205系それぞれ1編成に積算電力計を設置し、実車による消費電力量調査を行っている[188]。力行時の効果は205系が軽量ステンレス車体やボルスタレス台車などの採用で編成あたり65トン軽いという要素があり、補機については103系が主抵抗器の強制冷却用ブロアモーターがあること、冷房装置が205系の省エネタイプのAU75Gに比べて古いタイプであることなどによる差も含んだデータとなっている。回生率などのデータはその路線での運転方法と綿密な関連があるので、このデータはあくまでも山手線のものである。

山手線での消費電力量比較 (kWh/km)
103系電車 205系電車 備考
力行 23.14 19.85 3.29
回生 0 -4.55 4.55
補機 7.92 4.49 3.43 MG等
消費電力量 31.02 19.79 11.26

京浜東北線205系・209系との比較(1993年頃)

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209系の車内に貼り付けられていたステッカー。

京浜東北線209系が配置されると、実際の消費電力量を車両サイドで調査している[189]。この結果を受けて、209系には「この電車は、従来の半分以下の電力で走っています」のステッカーが貼られた。山手線205系での比較にあるように、103系は消費電力量の大きな冷房装置などを使っていることや抵抗器を強制冷却していることなどから、これらを含めると差はさらに広がる。

京浜東北線での消費電力量比較 (kWh/km)
103系電車 205系電車 209系電車 備考
力行 18.12 16.16 12.97
回生 0 -4.19 -4.38
補機 - - - 考慮していない
消費電力量 18.12 11.97 8.58
比率 100 66 47

大量生産の弊害

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103系は長期間にわたり大量に製造されたことから、試作後20年を経過した1980年代後半より、アコモデーション面での見劣り、オイルショック以後の省エネ施策の未対応、スピードアップ要求に対応出来ないほか、乗り心地面など様々な面が指摘されるようになる。103系と同時期に設計された国鉄車両も同様な問題点があったが、例えば101系が南武支線の6両を除いて1992年までには置きかえられた反面、103系は最終増備車が1984年(昭和59年)製であることから、21世紀に入っても大量に残った。初期に製造された車両を少両数しか承継せず、比較的早い時期に近郊形電車で置き換えが可能だったJR東海は別にして、103系と同時期に製造され続け、103系同様に陳腐化した113系や115系電車を大量に抱えるJR東日本やJR西日本では置き換えのペースが遅く、新製車両との格差が広がる結果となった。

通常の大量生産される輸送機器では同一の製品を20年以上もそのまま作り続けることは、日本では例がない。例えばスーパーカブのように基本設計の完成度が高く、登場時点で既に21世紀の製品にも劣らない信頼性を有していたものであっても、オイルショック以降の環境・安全面での要請の高まりに対応して大幅な改良が加えられた。しかし、103系電車は試作車落成後20年以上も製造が続けられ、目立った改良は1974年以降の生産分の先頭車両がATCに対応した高運転台タイプに改められた程度で、1980年代に205系が登場するまで新世代の通勤車両は103系を置き換えなかった。これらは下記のような理由によるものである。

標準化による技術の停滞

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国鉄では1960年(昭和35年)頃から日本国有鉄道規格、いわゆるJRS (Japanese National Railways Standards) が整備されはじめる[190]標準化の効果は費用が低減すること、品質が安定すること、作業能率が上がること、安全性が高まることなどメリットが多く[191]、大量の資材調達を行う国鉄が導入することは当然のことであった。標準化による技術の阻害については、標準品を継続して使いつつ技術の進歩を蓄積し、一定のタイミングでモデルチェンジを行うことで技術開発との調和ができると考えられていた[191]が、結果的には単純化の考えにより特定メーカーごとの特徴が出にくくなったこと、特定会社に有利にならないように配慮したことが逆にメーカーの競争力を奪ったことなど、技術革新テンポに合致せず技術の停滞を招く原因にもなり、JR化後に廃止された[192]

国鉄の財政赤字

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車両を軽量化すれば維持費用が下がるほか、加速力が質量と関係があることから、加速性能や高速性能のアップが見込める。1960年代に入るとアルミやステンレス車体の試作車を製造し始め、国鉄でも関門トンネル用や営業車ではサロ153形やキハ35形などでステンレスを用いた車両を製造していたが、地下鉄東西線への乗り入れ用として1966年(昭和41年)に全アルミ車体の301系を完成させる[193]。301系では1両あたり5 t近い車体軽量化が図られたほか、台車を空気ばね付きとして乗り心地を改善している。

アルミ車体の採用によって103系と同一走行システムを維持しつつ走行性能の問題点を解決できたが、素材の価格が鋼板の6倍から7倍するアルミを用いた車両を大量に製造することは国鉄には難しく、1971年(昭和46年)の西船橋延長用の増備車は低コストな普通鋼車体・金属ばねの103系1200番台になった。これはアルミ車体軽量化で顕著な効果があったと認めながらも、財政事情が悪い国鉄では同じ予算で1両でも多くの車両を製造したいという考え[194]があり、財政赤字が車両の改善をも影響を及ぼしていることがわかる[注 47]。長期量産による初期製造コストの低さ(短期的費用の安さ。代わりに長期的には在来車同様のメンテナンスや重更新の必要性が発生する)と、「いくつかの欠点を度外視すれば、大方の用途において当面の必要性能を充足しうる」という103系の特性は、それが旧弊化・陳腐化していることが明白であっても、なお財政赤字の国鉄に増備を続行させる動機となったのである。

チョッパ制御車の開発遅れ

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チョッパ制御電力節減比較[195]
山手 京浜東北 中央
力行時の節減 4.4 % 3.0 % 0.6 %
回生時の節減 22.9 % 23.4 % 21.3 %

営団地下鉄が1965年(昭和40年)に銀座線の2000形を使用して国内初のチョッパ試験を行い結果的に6000系電車として量産を開始した。国鉄でも1967年(昭和42年)3月に101系電車を改造して力行チョッパ試験を行ったのち1969年(昭和44年)11月には装置を一新し回生ブレーキも含めたテストを行った。しかし、回生ブレーキの結果に難があり、翌1970年(昭和45年)11月にも現車試験を行ったが、回生ブレーキ時の界磁電流制御が今後の課題とされた[196]。力行制御としては既に合格の域に達していたが、抵抗を低い速度で抜ける103系電車との比較では、重い装置を積んでチョッパ制御を力行だけで使うメリットがなく、回生ブレーキとの組み合わせが求められた。電機子チョッパ制御による回生ブレーキは発生電圧を抑える必要があったが、103系で用いているMT55は定格速度が低く、高い速度からの発電ブレーキでは発生電圧が高くなった。これらを改善するため、1972年(昭和47年)に直並列チョッパ装置を開発し、工場での試験では高速からの回生ブレーキに対して有効であることが確認された。しかし、当時の労使関係から、1974年(昭和49年)6月まで現車試験は行われなかった。

国鉄の場合、標準化の観点もあり、同一システムを近郊形などにも波及させる困難さが付きまとい、地下鉄のようにブレーキ初速度が低い場所や誘導障害の範囲が限定される状態では導入できる技術も、多くの路線で使うことになる国鉄車での採用には、様々な問題点をクリアしていかねばならなかった。特に標準品との兼ね合いで設計が制約されることがあり、直並列チョッパのような余計な開発時間が必要になる要因を作っていたのも事実である。1975年(昭和50年)頃からは回生ブレーキの特殊性が理解され、チョッパ制御に適した主電動機の設計が認められることになり、チョッパ制御と対になるMT60主電動機の開発と、それを用いた回生システムなどが詰められていく[197]。チョッパ制御の201系試作車が登場したのは1979年(昭和54年)1月であった。右表は電機子チョッパ制御車と103系の消費電力を試算したときの比率で、103系を100とした場合の節減率だが駅間の長い中央線では電機子チョッパ制御のメリットが他線に比べ少ないことがわかる。なお、回生失効は考慮していない。

抜本的な性能特性改善の未実施

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同時期に製造され性能特性も近い営団5000系電車などは、回生ブレーキ化によるトンネル内発熱抑制や経済化、性能特性改善のため界磁添加励磁制御へ改造されている。他にも大手私鉄では、同時期の抵抗制御車が界磁添加励磁制御に改造された例が散見されるが、本形式ではそれらの改造は行われなかった。

運用

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本稿では各線区の103系の動向について、国鉄時代から分割民営化後を通じて述べる。

関東・東北地区

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山手線・赤羽線

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山手線の103系(1985年)
赤羽線の103系混色編成(1979年)

103系の初投入路線である山手線には、1963年に試作車が登場し、翌1964年より量産車の投入が開始された[198]。車体塗装はウグイス色(黄緑6号)が初めて採用された。新性能電車としては既にカナリアイエロー(黄5号)の101系が配置されていたが、103系の投入により中央・総武緩行線へ転属した[198]

量産車は1964年より池袋電車区品川電車区への投入が進められ、101系の置き換えにより1969年に山手線の全車が103系となった[199]。当初は8両編成であったが、混雑緩和のため10両編成化が行われ、1971年までに全編成が10両編成となった[200]

1968年10月1日のダイヤ改正には、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭で、56編成のうち34編成を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に夜間疎開していた。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、大井工場の敷地内に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を1965年(昭和40年)3月に開始すると共に、山手線のホーム有効長延伸工事も進めた。1967年(昭和42年)4月3日に新品川電車区の留置線のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らした。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった[201]。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した[202]

9月から増車用の新製車が山手線に配属されて、10月1日から8両編成の中間に組成し10両運転を開始した。このことにより山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみの貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事[203]であり、余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増車用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が緩和された[204]。ラッシュ緩和に効果のある貫通編成だが、車庫の検修庫の設備が貫通編成の長さだけ必要な関係で、10両運転をしている他の線区では設備の都合で3両 + 7両編成などの分割編成にしなければならないケースもあったが、常磐線・京浜東北線など設備の整っている電車区の編成は一部が1970年(昭和45年)から10両貫通編成にて運転された。

山手線の路線名は、戦後のGHQによる「YAMATE」のローマ字表記[205]より「やまてせん」と読まれていたが、1971年3月7日に「やまのてせん」が正式な読みとなり、103系の前面方向幕も「山手」から「山手線」に変更された[200]

山手線の一部であった池袋 - 赤羽間は、1971年3月15日に正式に赤羽線となった[200]。赤羽線では1978年に従来の101系に代わり103系8両編成が投入されたが、103系で初となるカナリアイエロー(黄5号)に塗装された[206]

1972年6月23日日暮里駅京浜東北線の北行電車に山手線の内回り電車が追突する事故が発生した[207]。これを契機に山手線と京浜東北線の保安装置のATC化が決定し、1974年より先頭車のATC対応車への置き換えが開始された[207]。1981年12月6日より山手線・赤羽線のATC運転が開始されている[208]

1983年からは赤羽線の8両編成に2両を増結し、10両編成での運転が開始された[208]。1984年2月1日のダイヤ改正で増備された1編成10両は、電動車ユニットに103系最終増備車の2ユニットと福知山線6両編成の4両編成短縮化で捻出された1ユニットが組み込まれたほか、先頭クハは中央・総武緩行線から転入の非ATC車がATC車に改造された[208]

1985年3月より山手線への205系の投入が開始され、103系は置き換えの対象となった[208]。1985年9月には埼京線が開業し、赤羽線区間も埼京線の系統に組み込まれるとともに、山手線・赤羽線から捻出された103系は埼京線用として川越電車区に転出した[208]

1985年11月には品川電車区が山手電車区に名称変更され、1986年には池袋電車区の車両も転入して山手線の全車が山手電車区へ集中配置となった[209]

1987年の国鉄分割民営化により、山手線用の103系は10両編成20本の210両がJR東日本へ継承された[209]。民営化直後の1987年4月11日と12日には、JR東日本の103系5色を2両ずつ組み込んだ10両編成による「JRおもしろ電車」が山手線で運転された[210][211]

分割民営化後も引き続き205系への置き換えが実施された。1988年6月26日にさよなら運転が行われ[212]、103系の山手線での運転は終了した。

京浜東北線・根岸線

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京浜東北線の103系(1995年頃)

山手線に引き続き、1965年からは京浜東北線への103系の投入が開始された[209]蒲田電車区浦和電車区下十条電車区に順次配置され、旧性能車が順次置き換えられた[209]。車体塗装はスカイブルー(青22号)が初めて採用された[209]

当初は8両編成であったが、10両編成化が念頭に置かれていた。下十条電車区では検車庫の長さが8両分しかなく、10両編成を7両と3両に分けて検査を行うこととなり、クモハ103形とクハ103形500番台が登場している[209]

1970年からは101系も転入し、1971年までに京浜東北線の新性能化が完了した[213]根岸線は桜木町 - 磯子間の開通とともに横浜 - 桜木町間が編入され、1970年に磯子 - 洋光台間が、1973年に洋光台 - 大船間が延伸されて全通し、大宮 - 大船間での直通運転が開始された[214]。1976年からの103系追加投入により101系は武蔵野線に転出し、京浜東北線の全車両が103系となった[213]

山手線と同じく京浜東北線にもATCが導入されるのに伴い、1974年より高運転台のATC車の投入が開始された[215]。10両貫通編成も登場したほか、7両 + 3両の編成は6両 + 4両に組み替え、先頭に出る両端の先頭車がATC車となった[216]。1981年に大宮 - 蒲田間で、1984年に蒲田 - 大船間でのATC運転が開始された[216]

1986年のダイヤ改正より、京浜東北線の車両の所属は浦和電車区に集約された[216]

国鉄分割民営化ではJR東日本に継承された。1988年3月のダイヤ改正より、日中の田端 - 田町間で快速列車の運転が開始された[217]。1989年には205系の10両編成4本が京浜東北線に配置され、捻出された103系は京葉線に転出した[217]

1992年には新系列車両の試作車である901系が京浜東北線に投入され、翌1993年からは209系として量産が開始された[218]。209系の増備に伴って205系も他線区に転出し、京浜東北線の103系は1998年3月13日に運転を終了した[218][219]

常磐線・成田線

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常磐快速線の103系(2005年)

1966年頃、当時複線であった常磐線は混雑の悪化が著しく、旧性能車による10両編成での運転も行われていたが、慢性的な遅延が発生する状況にあった[220]。この対策のため、京浜東北線に追加投入が検討されていた103系が1967年より常磐線に10両編成で投入され、松戸電車区に配置された[220]。車体塗装はエメラルドグリーン(青緑1号)となった[220]

1971年に常磐快速線常磐緩行線による綾瀬 - 我孫子間の複々線化が完成し、常磐緩行線と営団地下鉄千代田線との相互直通運転が開始された。緩行線には地下鉄直通車として103系1000番台が投入され、グレーの車体にエメラルドグリーンの帯が入る外観となっている[221]

快速線は緩行線への利用客転移を見込んで8両編成に減車されたが、利用客転移は進まず快速線の混雑が悪化したため、1972年に再び10両編成に増車された[221]

1973年に成田線成田 - 我孫子間(我孫子支線)が電化され、103系による上野 - 我孫子 - 成田間の直通運転が開始された[222]。1982年には常磐緩行線の運行区間が取手まで延長され、朝夕の通勤時間帯に取手まで乗り入れるようになった[222]

1984年より緩行線に203系が投入・増備され、1986年までに103系1000番台の置き換えが完了した。捻出された103系1000番台は地上の快速線に転用されたほか、56両が105系へ改造され、奈良線和歌山線の電化開業と可部線の新性能化に充当された[222]。103系1000番台は千代田線内での主抵抗器からの発熱や故障の多さなどが問題視されており、203系への置き換えにより解消される形となった[222]

国鉄分割民営化ではJR東日本に継承され、1988年3月13日のダイヤ改正より常磐快速線で103系15両編成の運転が開始された[223]。10両編成に増結する5両編成は、京浜東北線の6両 + 4両編成を常磐線増結用として5両 + 5両編成に変更して転用され[224]、京浜東北線には山手線の205系転入で捻出された10両貫通編成5本が転入している[223]

常磐線は上野 - 取手間の通勤形直流電車を用いた運転と取手以北の近郊形交直流電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正で近郊形電車は15両に編成を増強したが取手以南の通勤形電車は10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252 %と首都圏で最も混雑する路線となった。そこで通勤形車両の編成増強のため1988年3月改正をめどに設備工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完了することから12月1日より一部電車の15両運転を開始した[225]。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである[226]

1989年、中央・総武緩行線の地下鉄東西線直通車1200番台と301系の冷房化改造時の予備車として、1000番台10両編成1本が三鷹電車区に転出した[223]。1991年の東西線直通10両編成化では1200番台の12両が余剰となり、常磐快速線に転用され松戸電車区に転入した[227]

2002年よりE231系0番台が常磐快速線へ新製投入され、103系の置き換えが開始された[228]。松戸電車区は2004年6月1日に松戸車両センターへ改称された[228]

常磐快速線の103系は2006年3月17日に定期運用を終了し、4月8日にさよなら運転が行われた[228]。これにより首都圏の103系は消滅となった。

中央線快速

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101系による新性能化が完了していた中央線快速には、1973年の武蔵野線開業用の101系を捻出するため、103系の新製冷房車10両編成7本が豊田電車区に配置された[229]。車体塗装はオレンジバーミリオン(朱色1号)となった[229]。冷房車であったことから、当初は主に特別快速で使用された[229]

103系はその後も他線区からの転入や101系置き換え用の新製投入で増備されたが、1981年より201系量産車の中央線快速への投入が開始され、中央快速線の103系は101系よりも早く1983年に撤退した[230]

中央・総武緩行線

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中央・総武緩行線の103系(1987年2月)

1963年より101系による新性能化が進められていた中央・総武緩行線には、1979年に103系の投入が開始され、津田沼電車区に配置された[231]。車体塗装は101系と同じカナリアイエロー(黄5号)となった。

1981年からは中央快速線への201系投入で捻出された103系が転入し、中央・総武緩行線への201系の新製投入も含めて101系の置き換えが進められた[231]

1986年には中野電車区の配置車両が三鷹電車区へ移管、津田沼電車区は習志野電車区へ改組された[231]。101系はJR化後の1988年3月に中央・総武緩行線から撤退し[232]、103系が習志野電車区、201系が三鷹電車区の配置となった[233]

1988年12月5日、東中野駅で103系10両編成に201系10両編成が追突する事故(東中野駅列車追突事故)が発生し、追突された103系は先頭1両を除く9両が廃車となった[233]。この補充として埼京線に投入予定の205系が中央・総武緩行線用として三鷹電車区に配置された[233]

1990年代末から2000年代に入ると、103系は故障が頻発するようになった[232]。1998年より209系500番台が投入され、103系の置き換えが開始された[234]。1999年には209系950番台が投入され、2000年からはE231系による置き換えが進められた(209系950番台はE231系900番台に改番)。これにより、中央・総武緩行線の103系は2001年3月に撤退した。

地下鉄東西線直通列車

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営団地下鉄東西線への直通運用では、1971年に301系の増備車として103系1200番台が投入された[235]。塗装はグレーに黄帯であったが、1988年の東中野事故後に205系の登場による誤乗防止のため1989年(平成元年)より帯色が青帯に変更された[231](直通する東西線のラインカラーに合わせた)。

その後は1200番台・301系の冷房化改造に伴う予備車として常磐快速線の1000番台1編成10両が投入され、1991年には東西線直通10両編成化により余剰となった1200番台12両が常磐快速線に転出した[227]

E231系800番台の投入に伴い、地下鉄東西線直通の103系は301系とともに2003年に運用を終了した[235]

横浜線

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横浜線の103系(1988年頃)

横浜線では旧性能車の72系が使用されていたが、1973年より蒲田電車区に配置された103系の運転が開始された[230]。スカイブルー塗装のままで京浜東北線根岸線との直通運転も行われ、誤乗防止のため正面に「横浜線」の大型方向板が掲出された[230]。旧性能車は1979年までに置き換えが完了し、103系に統一された[230]

京浜東北線・根岸線のATC化に伴って、同線へ直通する横浜線の103系も先頭車がATC対応の高運転台車に変更された[236]。塗装は山手線と同じウグイス色に統一された[236]。103系は東神奈川電車区にも配置されていたが、1981年6月1日に蒲田電車区の配置に集約された[236]

JR化後の1988年より205系の新製投入が開始され、横浜線の103系は1989年をもって運用を終了、3月13日のダイヤ改正で205系に統一された[237]

国鉄時代の1986年(昭和61年)8月には、同線用の103系を使用した団体臨時列車で、前面表示幕に「特急」を表示した「ミステリー列車」が運転され、秩父鉄道線にまで直通した。側面(乗務員室用ドアの後位側)には国鉄特急車両に貼り付けられていた「JNRマーク」も小型ながら貼り付けられた。団体臨時列車ではあるが、103系の「特急」としては唯一の事例と思われる[要追加記述]

埼京線

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1985年9月30日大宮 - 赤羽 - 池袋間の運転系統として開業した埼京線では、開業時より103系が投入された。山手線や赤羽線で使用されていた車両から捻出され、川越線内に新設された川越電車区に配置された。大宮 - 川越間では川越線に乗り入れている。1986年には山手貨物線の線路への乗り入れにより新宿まで延伸された[238]

しかし騒音問題が発生した為、1989年より205系の投入による置き換えが開始され、1990年12月10日で205系に統一、103系の埼京線での運用は終了した[239]

川越線・八高線

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川越線の103系(1988年頃)

1985年9月30日の埼京線の開業とともに、川越線は大宮 - 川越 - 高麗川間が電化し、大宮 - 川越間は埼京線の列車の乗り入れが開始された[238]。大宮 - 川越 - 高麗川間の区間列車用として、103系3000番台の3両編成5本が川越電車区に配置された[238]。3000番台の改造種車は、仙石線で使用されていた72系のアコモ改造車である[238]

1990年には区間運転が川越(一部南古谷) - 高麗川間に短縮され、川越線内用編成による大宮駅への入線はなくなった[240]

1996年に八高線八王子 - 高麗川間が電化され、川越線の川越 - 高麗川間との直通運転が開始された。3000番台は豊田電車区よりサハ103形3000番台が転入し、全編成が4両編成に増結された[240]。同時に0番台に半自動ドアボタンの設置を行った3500番台の4両編成1本が投入され、209系3000番台も4両編成4本が新製投入された[240]

2002年からの山手線E231系500番台の投入に伴い、捻出された205系の川越線用改造車である3000番台が投入され、103系3000番台の廃車が開始された。川越電車区は2004年6月1日付で川越車両センターに改称された[241]

2005年には東京臨海高速鉄道70-000形を209系に編入した209系3100番台も登場し、残る103系3000番台と3500番台が順次廃車となった[241]。川越・八高線の103系は、2005年10月[241]の川越線電化20周年記念列車をもって営業運転を終了した。

青梅・五日市線

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旧性能車が使用されていた青梅線五日市線では、1976年より103系の営業運転が開始された[236]。京浜東北線へのATC車投入に伴う捻出車が豊田電車区に転入したもので、塗装は京浜東北線時代のスカイブルーからオレンジバーミリオンに変更された[236]。編成は当初は4両編成が入り、1977年からは3両編成も転入した[242]。1977年からはラッシュ時に4両 + 3両の7両編成での運転を開始している[242]

翌1978年には五日市線の旧性能車クモハ40形72系の置き換えのため、京浜東北線からの103系が5両編成で転入した[242]。これにより中央線快速から直通の101系を除く青梅・五日市線内の列車が103系で揃えられ、旧性能車は1978年3月29日のさよなら運転をもって運用を終了した[242]

1985年のダイヤ改正で5両編成が6両編成となり、101系から改造のサハ103形750番台が増結された[242]。1986年に3両編成が4両編成化される際は、仙石線の72系アコモ改造車から川越線用103系3000番台への改造で余剰となったモハ72形5両がサハ103形3000番台に改造されて編入された[146]

2000年からの中央・総武緩行線へのE231系投入により、捻出された三鷹電車区の201系が豊田電車区に転入し、103系の置き換えが開始された[243]。青梅・五日市線の103系は2002年3月7日に定期運用を終了し、4月13日のさよなら運転をもって全廃となった[243]

武蔵野線

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武蔵野線の103系(2002年)
三鷹駅・電車区開業75周年号(2005年6月25日)

1973年の開業時より豊田電車区配置の101系1000番台が使用されていた武蔵野線では、1980年に103系の高運転台非ATC車ほか6両編成1本が配置された[244]。その後も103系は他線区からの転入も含めて増備され、1986年までに101系の運転が終了した[245]。同年には豊田電車区所属の201系6両編成も武蔵野線に投入されている[245]

1988年には京葉線新木場駅まで延伸開業し、武蔵野線の列車は京葉線への直通運転を開始した[246]。1990年には京葉線の新木場駅 - 東京駅間が延伸開業した[246]。1991年より武蔵野線の8両編成化が開始され、205系の投入と103系の増結により1996年に全編成の8両編成化が完了した[246]。なお、201系はこの8両編成化完了により武蔵野線から撤退している[246]

1998年3月より武蔵野線列車の京葉線海浜幕張駅への乗り入れが開始された。2002年には増発用として中央・総武緩行線から捻出された205系のVVVFインバータ化改造車2編成が投入されている[247]

2003年度より、山手線E231系投入に伴う205系の転入と103系の置き換えが開始された[247]。転入の205系はいずれもVVVF化改造車である[247]。2004年3月には武蔵野線車両全車が京葉電車区に転属し、京葉電車区は2004年4月に京葉車両センターへ改称された[247]

2004年には、4両編成4本の16両がインドネシアの首都ジャカルタに渡った[248]

2005年6月25日に三鷹駅三鷹電車区の開業75周年を記念したイベント[249]が実施され、武蔵野線用で京葉車両センター所属の103系8両編成(E38編成)による臨時快速列車「三鷹駅・電車区開業75周年号」が中央線の三鷹駅 - 高尾駅間で1往復運転された[250]。このE38編成は2005年7月23日に廃車となったが、JR福知山線脱線事故による車両不足を補うためJR西日本に譲渡されている[247]

武蔵野線の103系は、2005年12月8日に運転を終了した[247]

京葉線

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京葉線の103系(1996年)

1986年3月3日のダイヤ改正により京葉線西船橋 - 千葉港(後の千葉みなと)間で暫定開業し、蒲田電車区から京浜東北線用の103系が6両 + 4両の10両編成で津田沼電車区に転入した[238]。日中は付属4両を切り離した6両編成で運用されたが、乗客が少ないことから後に基本編成が4両、付属編成が6両に振り替えられた[251]

京葉線は1988年3月1日に新木場 - 南船橋間、市川塩浜 - 西船橋間、千葉港 - 蘇我間が延伸開業し、1990年3月10日に新木場 - 東京間が開業して全通した[252]。全通に合わせて京葉電車区が発足し、京葉線車両は京葉電車区の所属に移管された[252]外房線東金線への103系の乗り入れも開始され、誉田駅での分割併合に備えて電気連結器の設置改造も行われた[252]。最初は外房線は上総一ノ宮駅、東金線(4両編成側)は成東駅までであったが、のちに総武快速線E217系4両付属編成の勝浦乗り入れを京葉線からの基本6両編成に置き換えたため1998年12月8日から勝浦駅まで運用が拡大された。

2000年からの中央・総武緩行線へのE231系投入により捻出された三鷹電車区の201系が京葉電車区に転入し、103系の置き換えが開始された[253]。2002年からは山手線へのE231系500番台の投入で捻出された205系が転入し、103系の分割併合可能編成が消滅した[253]。モハ103-502はDDM(ダイレクトドライブモーター)駆動へ改造され、2003年5月より営業運転での試験が行われた[253]

京葉電車区は2004年1月1日付で京葉車両センターに改称され、2004年3月には豊田電車区所属の武蔵野線用103系が京葉車両センターに転入した[253]。205系の転入はその後も続けられ、京葉線の103系は2005年11月18日に営業運転を終了した[253]

南武線

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南武線の103系(2001年)

南武線川崎 - 立川間は101系による新性能化が完了していたが、101系の老朽化と冷房化率向上のため、1982年より豊田電車区の103系が中原電車区に転入した[245]

1987年のJR化後も残存していた101系の置き換えは、103系の転入と205系の新製投入で行われた[254]。川崎 - 立川間の101系は1991年に運転を終了し、以後は尻手 - 浜川崎間の南武支線の2両編成3本6両のみが101系で残った[255]

1987年頃、川崎アゼリアとタッグを組み、「アゼリア号」を運行した。詳細は南武線を参照。

南武線の保安装置のATS-P化に伴い、103系の先頭車は高運転台ATCタイプのクハを両端に配する編成に統一された[255]

1993年に209系の6両編成1本が南武線に投入されたが、横浜線の増発に伴う205系1編成の捻出用であり、103系への影響はなかった[255]。1997年2月にも209系の6両編成1本が南武線に投入されたが、南武線の増発用であり、103系への影響はなかった[254][255]

2002年より、山手線E231系500番台の投入に伴って捻出された山手線の205系が転入し、103系の置き換えが開始された[240]。205系にはサハ205を先頭車化改造した1200番台も投入され、103系は順次廃車となった[240]。南武線の103系は、2004年12月16日をもって営業運転を終了した[240]

鶴見線

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鶴見線の103系(2004年)

鶴見線では大川支線を除いて1980年度中に101系による新性能化が完了しており[254]、103系は中原電車区配置車によりJR発足後の1990年7月28日に運用を開始した[256]。103系は3両編成10本が投入され、101系の営業運転は1992年5月に終了した[256]

大川支線では武蔵白石駅の大川支線ホームの構造上の都合から、JR化後も17 m級旧型国電のクモハ12形が使用されていたが、大川支線ホームの撤去により1996年より103系の運用に置き換えられた[254]

山手線へのE231系500番台の投入に伴い、205系1100番台が2002年から2005年にかけて103系置き換え用に投入された[256]。鶴見線の103系は2005年12月に運用を終了し、最後に残った1編成は2006年4月28日付で廃車となった[256]

仙石線

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仙石線の103系初期車による快速「うみかぜ」(1990年)
RT-235編成の営業運転最終日(2009年10月21日)

東北地区唯一の直流電化路線である仙石線では旧性能車の置き換えとして首都圏の103系が陸前原ノ町電車区へ転入し、1979年10月1日に運転を開始した[257]。転入の際には寒冷地向けの改造が行われ、一部区間で存在したタブレット閉塞への対応で運転席後部の戸袋窓が閉鎖されるなど、仙石線の事情に合わせた工事が行われた[258]

旧性能車は72系のアコモ改造車970番台を除いて1980年までに、72系970番台も1984年に置き換えられ、仙石線の新性能化が完了した[258]。72系970番台は103系3000番台に改造され、川越線と青梅・五日市線に投入された。1983年には仙石線全線が自動閉塞となった[258]

国鉄時代末期には2編成8両が冷房化改造された[258]。このうち1編成4両は国鉄最終日の1987年3月31日105系の2編成4両に改造され[258]、石巻 - 矢本間の区間列車向けに投入された。

1990年より非冷房車置き換えのための103系が首都圏より転入し、仙石線向けの更新工事が施工された[228]。前面ガラスの2枚窓化や側面ガラスのユニット窓化、運行番号表示器の種別幕化などが行われ、塗装も白と青の新塗装となった。1998年には高運転台車2編成が首都圏より転入し、これを機に「SENSEKI LINE」の文字の入った新塗装に変更されている。

陸前原ノ町電車区は1990年に移転して宮城野電車区となった。2000年には仙台 - 陸前原ノ町間が地下化され、仙台 - あおば通間が延伸開業した。2003年には宮城野電車区が仙台電車区宮城野派出所に改組された[259]

2003年より、首都圏でのE231系投入に伴って山手線の205系を先頭車化改造した3100番台が仙石線に転入した。103系は205系に置き換えられ、2004年をもって仙石線での103系の運転は一旦終了したが、1編成は廃車とならずに郡山工場で留置された[259]。なお、2004年4月1日付で郡山工場は郡山総合車両センターに、仙台電車区宮城野派出所は仙台車両センター宮城野派出所に改称されている。

その後、多賀城駅の高架化工事の影響で運用本数が1本多く必要になり、郡山総合車両センターに留置されていた103系の1編成(RT-235編成)がトイレ設置やシングルアームパンタグラフ化などの改造を経て、2007年3月より営業運転を再開した[260]。運用は平日の朝のみで、小鶴新田からあおば通へ、あおば通から東塩釜まで1往復、その後小鶴新田へ入庫となる限定運用であった[260]

2009年、京浜東北線へのE233系1000番台の増備により209系1編成が南武線に転出し、南武線の205系1200番台1編成が仙石線に転出して3100番台に改造された[260]。この205系3100番台の追加転入に伴い、仙石線での103系の運転は2009年10月21日をもって終了となった[260]。これをもってJR東日本管内の103系は全廃となった[260]

中部地区

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名古屋地区

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中央本線の名古屋口で最初の電化区間である名古屋 - 瑞浪間では、72系が5両 + 5両編成の10両編成で運用されていたが、1977年3月11日より103系の6両 + 4両の10両編成への置き換えが開始され、4月13日に103系化が完了した[146]

当初投入分の52両(予備車含む)は京浜東北線へのATC対応車の投入に伴う捻出車であり、先頭車側面へのサボ受けの設置や前面窓のデフロスタ設置等の工事が施工され、神領電車区に転入した[146]。塗装はスカイブルー(青22号)とされたが、1978年に転入した10両には横浜線から転入したウグイス色の車両が含まれており、混色編成も存在した[261]

前面方向幕は当初は使用せず、1979年10月より「中央線」のステッカーが貼られた[261]。1980年には冷房化改造車が登場したが、側面幕も白幕のまま使用されなかった。1985年度以降は青梅・五日市線からの転用で豊田電車区より冷房車6両含む8両が転入したが、オレンジバーミリオンのままの車両も一時期存在した[261]

1986年11月1日のダイヤ改正では輸送力適正化のため7両 + 3両に組み換え、3両編成単独での運用も開始された[261]。冷房車は前面・側面の方向幕の使用が開始されている[261]

民営化によるJR東海への継承後は211系5000番台が大量増備され、103系はラッシュ時のみの運用となった[260]。1995年からは関西本線での運用も開始され、3両編成が亀山まで入線した[260]。1999年の313系の投入に伴って103系は1999年12月に運用を終了し、2001年に全廃となった[260]

← 名古屋
中津川 →
転入時
クハ103 サハ103 モハ102 クモハ103
クハ103 モハ102 モハ103 サハ103 モハ102 クモハ103
1986年11月1日ダイヤ改正後
クハ103 モハ102 クモハ103
クハ103 モハ102 モハ103 サハ103 サハ103 モハ102 クモハ103

関西・中国地区

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大阪環状線・桜島線

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クハ103-1ほか8両編成(2007年
大阪環状線の103系LA04編成。
2017年9月15日 大正駅)
103系を模した商業施設「ビエラ玉造」(2014年)

大阪環状線桜島線では、1969年12月から2017年10月3日まで103系が運用されていた。車両の車体色は朱色1号 オレンジバーミリオン)。なお桜島線には6両編成も存在した。大和路線直通の区間快速として、JR難波駅から加茂駅まで乗り入れる運用もあったが、2016年(平成28年)10月3日より221系に置き換えられ消滅した。

関西では京阪神緩行線に次いで投入された大阪環状線の103系は、最初の編成として1969年12月に6両編成2本が森ノ宮電車区に配置された[262]。車体塗装は103系で初のオレンジバーミリオン(朱色1号)となった[262]。1971年より103系で初となる8両編成化が開始され、1976年に桜島線直通を除く全編成が8両編成となった[262]。この増備では中間車の新製投入とともに、先頭車は首都圏のATC化に伴って捻出されたATC非対応車が転入している[263]

103系の増備により捻出された101系は淀川電車区へ転属し、片町線の新性能化に充当された[263]。1985年には京阪神緩行線への201系導入で捻出された103系が転入し、大阪環状線・桜島線とも全車両が103系となった[263]

国鉄分割民営化時、大阪環状線・桜島線の103系は森ノ宮電車区の8両編成28本、6両編成5本の254両がJR西日本に継承された[263]。大阪環状線では8両編成、桜島線では6両編成で運転されていた[264]。桜島線内運転用の6両編成は、森ノ宮支所への入出区のため西九条駅-京橋駅間でも営業運転されていた[265]

1989年に103系の6両編成2本が淀川電車区に転出し、101系6両編成2本が淀川電車区より転入した[264]。101系は桜島線での運用を再開したが、101系の営業運転は1991年3月13日をもって終了した[266]

1995年には8両編成1本が体質改善40N工事のプロトタイプ車として投入され、1995年4月8日より営業運転を開始した[266]。他の車両に対しても翌1996年度より改造が開始されている。2002年度以降は工事内容を簡素化した体質改善30N工事[266]に移行した。

2001年、大阪市此花区にテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ)が開業するのに伴い、桜島線ではユニバーサルシティ駅の開業とともに、西九条 - 桜島間に「JRゆめ咲線」の路線愛称が付与された[266]。大阪環状線と桜島線の直通運転が実施されたほか、103系のうち桜島線内折返しの6両編成4本を体質改善40N車に揃えた(2本は日根野・宮原・奈良から転入)上で、USJのアトラクションにちなんだラッピングが施工された[266]。生え抜き車からは2本が「パワーオブハリウッド号」と「アメリカの街並み風景号(後のスパイダーマン号)」となった。

2001年7月1日の山陽本線兵庫 - 和田岬間(和田岬線)の電化用として、森ノ宮区の8両編成1本が6両編成に短縮され、2001年6月21日付で網干総合車両所明石支所へ転出した[267]

2005年からの京阪神緩行線への321系の投入に伴い、201系が森ノ宮電車区に転入した[267]。これにより103系の一部廃車と奈良・日根野電車区への転出が行われ、2007年の時点で8両編成11本、6両編成4本となった[268]。この大転配の際に、体質改善40N車から2両の余剰廃車が発生し、2006年2月1日付けでサハ103-486が、同年5月29日付けでサハ103-410がそれぞれ廃車された。

2011年のダイヤ改正で阪和線・大和路線との直通快速列車が増発され、環状運転の列車が減少したため、103系の28両が日根野電車区へ転出した[268]。これにより森ノ宮電車区の103系8両編成は5編成に減少し、8両編成のクハは高運転台車のみとなった[268]。2011年4月25日には大阪環状線が1961年の開業から50周年を迎え、103系1編成と201系1編成に記念ヘッドマークが掲出された[268]

2012年3月のダイヤ改正では、桜島線の線内折返し列車もUSJラッピング車を含めて8両編成となった[268]。103系によるUSJラッピングは2012年12月をもって終了し、以後は201系にUSJラッピングが施工された[269]

2012年6月の組織改組により、森ノ宮電車区の車両は吹田総合車両所森ノ宮支所[270]の所属となった。

「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、103系の1編成で関西のラジオ局「FM802」とJR西日本のコラボレーションによる「OSAKA POWER LOOP」のラッピングが施工され、2014年6月1日より運行を開始した[271]。2014年(平成26年)3月18日に玉造駅に隣接して開業した商業施設「ビエラ玉造」は、大阪環状線の103系をモチーフにした外装デザインとなっている[272][265]

3扉車による快速の直通運転の増加で4扉車と3扉車が混在する中、整列乗車の課題解消や将来のホームドア設置への対応のため、4扉の103系・201系は2016年(平成28年)より3扉ロングシートの323系への置き換えが決定した[265]。323系導入前の2016年度初頭時点で103系は8両編成7本が存在したが、2016年12月24日の323系の営業運転開始より順次置き換えが進められ、2017年(平成29年)度初頭時点の103系の稼働編成は2編成のみとなっていた[273]

103系で最後に残った2編成のうち、「OSAKA POWER LOOP」編成は2017年(平成29年)9月7日に営業運転を終了した[274][275]。オレンジバーミリオンで最後まで残った1編成も、形式数字の「103」にちなんだ2017年10月3日が最終運行となり[276]、約48年間に及ぶ大阪環状線での103系の運用が終了した[277]。また当編成の引退と同時にオレンジバーミリオン(朱色1号)の103系の稼働車が消滅した[273]

引退後に先頭車のクハ103形843・802号車が京都鉄道博物館にて11月3日から6日まで展示された[270]。当初は大和路線ウグイス色の103系も展示される[278][279]予定であったが輸送上の都合によりクハ103形802号車に変更された[280]

関西本線(大和路線)・奈良線・おおさか東線

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奈良線の103系NS413編成。
2017年12月30日
大阪環状線へ乗り入れる4両 + 4両の8両編成(2011年

吹田総合車両所奈良支所所属の4両編成があり、奈良線を中心に運用されていた。車体色は黄緑6号 ウグイス)で、先頭車の前面窓下に警戒帯を配する。

関西本線の湊町(後のJR難波) - 奈良間電化時に投入された101系の置き換えのため、京阪神緩行線への201系投入によって捻出された103系が1983年より投入された[281]。当初は日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)の配置であり、日根野区への入出庫との兼ね合いから、編成の向きが(日根野区の阪和線用車両等と)逆になっている。その後も淀川電車区(当時)・森ノ宮電車区など関西圏やのほか首都圏の各地から転入している。

1985年2月には、関西本線の101系の103系への全面置き換えが完了した[282]。1985年3月14日のダイヤ改正で奈良電車区が開設され、関西本線の103系は同区の所属となった[282]

1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で編成両数を短くしつつ日中の運転本数を増やす施策が取られたため、国鉄末期から1994年にかけては日根野電車区等から転入したクモハ103 + モハ102 + クハ103の3両編成が投入され、単独運転またはラッシュ時には2編成を併結した6両編成で運転されていた。101系クハ100形からの改造車であるクハ103形2000番台も登場している[282]

分割民営化後は、6両編成12本、3両編成10本の計102両がJR西日本へ承継された。

1987年度には、阪和線への205系1000番台投入で捻出された日根野電車区の車両が転入した[281]。短編成高頻度運転の輸送力増強のため、6両編成の一部はモハ103 + モハ102を電装解除・先頭車化改造したクハ103形2550・2500番台を組み込み4両編成化された[283]

1988年3月13日のダイヤ改正で関西本線の加茂 - 木津間が電化され、加茂 - 湊町間には「大和路線」の路線愛称が制定された[281]。加茂・奈良 - 湊町間には103系4両編成(ラッシュ時は併結8両編成)による快速列車が設定された[283]

1988年4月から10月にかけて、奈良県奈良市で博覧会「なら・シルクロード博覧会」が開催された[281]。その開催期間には関西本線から梅田貨物線を経由して新大阪へ直通する臨時快速「シルクロード号」が運転され、奈良電車区の103系が使用された[283][281]

1993年以降、片町線やJR京都線・神戸線への207系の投入で捻出された103系が奈良電車区に転入し、より車齢の高い103系が代替された[284]。片町線用であった淀川電車区からの転入車には自動解結装置を持つクモハ103・モハ102形5000番台とサハ102形もあり、1994年に自動解結装置の撤去と改番が行われている[284]

1994年より3両編成に付随車が組み込まれ、4両編成化された[284]。一部編成にはATS-SWが設置され、3月より奈良線にも進出し、同線の113系の運用が終了した[285]。また、桜井線和歌山線でも103系が運用された[284]。明石電車区から奈良電車区へ貸出の4両編成2本のうち、岡山電車区へ転属予定とされた1編成(クハ103-221ほか)は、緑のマスカット色に白帯3本の塗装で運用された[285]

1994年度には明石電車区と日根野電車区から10両が転入し、6両が宮原電車区に転出している[283]。関西本線の湊町駅は1994年9月4日にJR難波駅に改称され、1996年3月22日に地下駅となった[285]

国鉄時代からの前面の黄色警戒帯は1990年度に撤去されていたが、1996年度に白色の警戒帯が設けられた[286][285]。ウグイス色の車体が沿線の緑に溶け込み、保線作業員による識別が困難なためとされている[286]

2001年にはUSJ開業に伴うラッピング列車の運行開始により、森ノ宮との間で、先頭車の交換が行われた。転属された車両は「アメリカの街並み風景号(後のスパイダーマン号)」となった。

2005年より京阪神緩行線への321系の投入が開始され、同線の201系が森ノ宮電車区へ転属となった[286]。これにより森ノ宮電車区の103系の一部が他線区へ転出し、奈良電車区への転入では103系老朽車やWAU102形による冷房改造車等に廃車が発生した[286]。2006・2007年度には201系の6両編成が奈良電車区に配置され、103系6両編成の本数が減少した[287]

2008年3月におおさか東線放出 - 久宝寺間で部分開業し、大和路線と同じく103系と201系の6両編成が投入された[288]。2012年6月の組織改組により、奈良電車区の車両は吹田総合車両所奈良支所の所属となった[289]

環境省が2015年(平成27年)に国土交通大臣に提出した、奈良線の複線化事業に係る環境影響評価における、沿線環境対策についての指摘項目では、「適切な環境保全措置を講じ、転動音、車両機器音及び構造物音の低減を図ること」として、ロングレール化や、鉄橋におけるコンクリート床版化の極力導入と並び、「103系車両からの代替による低騒音型機器搭載車両の導入推進」が挙げられている[290]

4両編成は奈良線のほか、大和路線でも2本併結の8両編成で大阪環状線へ直通する区間快速でも使用されたが、2016年(平成28年)10月2日の運用改訂で221系に置き換えられ[291]、以後は奈良線系統のみとなった。ダイヤ乱れ時など都合によりみやこ路快速の代走運用に入ることもある[292]。4両編成は両端クハの編成とクモハを含む編成が混在することになったが、2007年にクモハ103-2505の4両編成が日根野電車区へ転出したことにより前者に統一された。

大阪環状線から撤退した吹田総合車両所森ノ宮支所の201系に置き換えられ、2018年1月24日をもって103系は関西本線(木津駅 - 奈良駅間を除く)、おおさか東線から撤退した。

奈良線についても、吹田総合車両所日根野支所の205系による置き換えが進められ、最後に残ったNS407編成、NS409編成も2022年3月11日の営業運転が最後となり、定期運用を終了した。定期運用終了後も予備車扱いで吹田総合車両所奈良支所に留置されていたが、一度も運用に入ることはなく、2022年7月27日に2編成とも吹田総合車両所へ回送され、同月28日付で廃車された[293]

阪和線

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阪和線の103系HK609編成。
2017年7月15日 浅香駅)
羽衣支線の103系HL102編成。
2017年7月15日
高運転台車クハ103-846ほか6両編成

吹田総合車両所日根野支所所属の6両・4両・3両編成があり、阪和線(鳳 - 東羽衣間の羽衣支線含む)で使用されていた。

1968年10月1日のダイヤ改正(ヨンサントオ)により、関西初の103系となる6両編成4本が鳳電車区に配置され、当初は主に快速列車で使用された[294]。車体色は青22号 スカイブルー)となった[294]

阪和線の天王寺 - 鳳間は1965年(昭和40年)6月から6両運転を開始[295][296]したが、鳳以南から天王寺に運転されている快速列車の朝ラッシュ時の混雑が1965年(昭和40年)11月現在で319 %[297]となっていた。さらに鳳以南では1968年度までに26,000戸の住宅開発が予定されており快速列車の6両運転を計画していたが、1968年10月改正に合わせて設備が完成することから6両編成の103系を快速列車用として投入した。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の和歌山)- 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた[298]。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用に使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。

1974年には山手線から103系の6両編成10本が転入し、当初はウグイス色のままで、関西本線の101系と同じく前面に警戒帯としてカナリアイエロー(黄色5号)の帯が配されていた[294]。1976年以降も京浜東北線からの103系の転入が進められ、1977年3月15日のダイヤ改正で羽衣支線を含めた新性能化が完了した[299]。この新性能化で3両編成が必要となったため、関西初となるクモハ103形が浦和電車区より転入している[299]。旧性能車は同年4月14日のさよなら運転をもって阪和線での運転を終了した[299]

阪和線の支線である鳳 - 東羽衣間(羽衣線)は3両編成の旧形国電により運転されていたが、1977年(昭和52年)春に阪和線用を含め33両が増備され、同区間用には103系を3両編成に組成して投入した。この投入により、同年4月14日改正にて阪和線新性能化が完了した[300]。3両編成を組むため編成はクモハ103-モハ102-クハ103となったが、103系の3両編成による運転はこの阪和線が最初のケースとなった。

1978年紀勢本線和歌山駅 - 新宮駅間が電化され、103系を含む鳳電車区の所属車は日根野電車区に転出した[299]。1980年には、高運転台非ATC車を含む冷房車6両編成3本が新製投入された[301]。1986年11月1日のダイヤ改正では短編成・高頻度運転化により4両編成が登場し、101系より改造のクハ103形2050番台も配属された[301]

阪和線の103系は、6両編成29本、4両編成17本、3両編成2本の計248両がJR西日本に継承された[301]

JR化後の1987年6月21日父の日にちなんで運転された臨時列車「お父さん感謝大漁号」は、日根野電車区の103系3両編成の間に同区の165系3両編成を挟んだ混結6両編成で天王寺駅 - 和歌山駅 - 和歌山市駅間を走行した[141]。編成はクモハ103-モハ102 + クモハ165-モハ164-クハ165 + クハ103の6両編成であった[302]

1987年7月1日123系クモハ123-5・6が羽衣線に投入されると、日中はクモハ123形のみ、朝ラッシュ時にはクハ103-194を連結した3両編成での運転が行われた[141]。クモハ123 + クモハ123 + クハ103という編成で、始発から朝ラッシュ時は3両編成、日中は1両、夕ラッシュ以後は2両編成という柔軟な運用になった[303]

羽衣線では1989年10月20日から車内での運賃収受のないワンマン運転を103系で開始[304]され、123系2両とともにワンマン化改造が行われた。

1994年の紀勢本線紀伊田辺駅周参見駅への延長運転に備えて、4両編成4本にATS-SWが設置され、識別のため前面に白帯が設けられた[305]。後にATS-SWが対象全編成に設置されたため区別が不要になり、白帯は1999年度から2003年度にかけて撤去された[305]

1995年1月の阪神・淡路大震災後は先頭車が必要になったため、クハ103-194を他線区に転用する代わりに森ノ宮区のサハ103-758をワンマン化改造してクモハ123形2両の中間に組み込んだ[162]。クモハ123-5・6は1995年に宇野線クモハ84形置き換えのため岡山電車区へ転出し、羽衣線は103系による終日3両編成での運転に戻った[162]

2001年にはUSJの開業に伴い、6両編成1本が森ノ宮へ転属され、同車は「ユニバーサルグローブ号(後のセサミストリート号)」となった。

1999年には8両固定編成が登場し、同年5月10日のダイヤ改正より朝夕ラッシュ時の快速に充当された[305]。2003年から2006年まで鳳駅 - 大阪環状線間で運転された区間快速には8両固定編成が充当された。

225系5000番台の導入により、4両2本併結の8両編成は2011年3月12日のダイヤ改正で姿を消した。このダイヤ改正では関空・紀州路快速の増発と紀州路快速の日根野以南の各駅停車化が行われ、103系と205系は日中は専ら天王寺駅 - 鳳間の普通列車の運用となり、日根野・和歌山方面は朝夕と夜間のみの運転となった[306]

2016年(平成28年)7月からの225系5100番台の投入に伴って、阪和線の103系は同年12月23日に4両編成が定期運用を離脱[307]、2017年(平成29年)7月には6両編成が置き換えられ、阪和線本線での運用は終了した。2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正[308]では羽衣線用の3両編成が225系5100番台4両編成に置き換えられ、阪和線の103系の運用は終了した。置き換えられた103系は全車廃車となった。

2017年10月12日、阪和線のHK607編成(クハ103-837ほか6両編成)が吹田総合車両所日根野支所から網干総合車両所明石支所に回送された[309]。日根野から明石に転属し[310]、編成はR2編成となり[166]、和田岬線用R1編成を置き換えると思われたが、営業運転に入ることなく2018年2月15日付で廃車となっている[311]。なお後述の通り、R1編成は2023年(令和5年)3月18日をもって引退した。

東海道・山陽緩行線(京阪神緩行線)

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京阪神緩行線 クハ103-154先頭の7両編成(1983年)
京阪神緩行線の103系ユニット窓非冷房車(山崎駅、1983年)

東海道山陽本線京都 - 西明石間で複々線の内側線(電車線)を走行する各駅停車の運転系統は京阪神緩行線(東海道・山陽緩行線)と呼ばれ、戦前型3扉車の51系72系といった旧性能電車が使用されていたが、大阪万博前年の1969年より103系の投入が開始された[312]

1969年8月に最初の7両編成1本が落成し、同年10月1日改正で運用が始まり、万博開催前の1970年2月までに7両編成15本の105両が投入された[312]。配置は明石電車区、車体塗装は阪和線に続いてスカイブルー(青22号)となった[312]。当時の京阪神緩行線では前面の行先表示を省略しており、前面方向幕には「普通」とのみ表示していた[312]。運用開始後、前面窓にデフロスタが追設された[262]

山陽新幹線岡山開業に伴う1972年3月15日のダイヤ改正では、新快速153系による日中15分間隔運転が開始されたが、同じ線路を走る緩行線の普通列車は、旧性能車では待避駅まで逃げ切るのが困難なため、新快速運転時間帯は103系に統一することとなった[262]。103系は増発分を含む増備車109両が明石電車区に配置されたが、非冷房車ながらユニット窓とシールドビーム2灯となり、量産冷房車への過渡的な形態となった[262]。この改正では緩行線の運転系統も変更され、従来は京都 - 西明石間と吹田 - 甲子園口間であったが、京都 - 甲子園口間と吹田 - 西明石間に分割された「串刺しダイヤ」となった[262]

1974年1月から3月にかけて、関西初の量産冷房車が京阪神緩行線に77両投入された[262]。中間車は高槻電車区に新製配置されたが、先頭車は山手線・京浜東北線にATC対応車を投入して差し替えられたATC非対応の量産冷房車が転入した[262]。当初は側面方向幕も含めて「普通」のみ表示であったが、同年秋頃より「京都」「西明石」など行先の表示が実施された[262]

1975年には完全新性能化を目的に80両が投入され、京阪神緩行線の全車両が103系となった[262]

1982年12月より、201系の7両編成32本が京阪神緩行線に投入された[262]。103系は関西本線・片町線の101系置き換え用として転出し、付随車は阪和線の快速8両編成化に用いられたほか、首都圏にも転出した[262]

1985年3月14日のダイヤ改正では、京阪神緩行線の一部列車が草津加古川まで延長された一方、昼間時間帯(10時から15時)は京都に入らず高槻折返しとなり、高槻以遠は快速が各駅に停車した[262]。これにより日中は201系のみでの運用が可能となり、スピードアップと「串刺しダイヤ」の解消が行われ、103系の運用は朝夕のみとなった[262]1986年11月1日のダイヤ改正より205系の7両編成4本が投入され、103系は阪和線、首都圏に転出した[262]

京阪神緩行線の103系は、7両編成19本の133両がJR西日本に継承された[262]。103系は引き続き201系・205系とともに運用されたが、103系の運転区間は京都 - 西明石間とされた[313]。1988年には京都 - 大阪間にJR京都線、大阪 - 神戸 - 姫路間にJR神戸線の愛称が制定された。

民営化直後は非冷房車が7編成あったが、冷房化改造や宮原・淀川電車区への転出も進められ、1988年度時点で非冷房車は1編成となった[313]。1990年には日根野電車区との間で非冷房車の1編成が差し替えられ[314]、101系からの改造車であるクハ103-2052[315]が転入した。同年3月31日付けでモハ103-230が廃車となり、JR西日本所属車では初の廃車となった。明石電車区で保留車となっていたモハ102-385は、1989年に事故廃車となった105系クハ105-7の代替として1990年に電装解除・先頭車化・冷房化の改造が実施され、105系のクハ104-551となった[115]。同車は末期は日根野支所新在家派出所に配置され、2019年12月2日付けで廃車された。

1991年時点では明石電車区に7両編成15本(うち非冷房車1本)と保留車を含む110両が配置されていたが、103系の運用は朝夕ラッシュ時に限定されており、日中は京都駅や明石電車区などに留置された[315]

クハ103-2052を含む非冷房車編成は1992年に4両編成化され、明石電車区の訓練車[316]となったが、同年内にクハは廃車となり、電動車ユニットも奈良電車区に転属して旅客営業に復帰したことで消滅した[316]。これにより明石区の103系は全車が冷房車となった[314]

1993年3月18日改正で福知山線JR宝塚線)に207系0番台が投入されたことに伴い、福知山線103系の一部が宮原運転所から明石電車区へ転入、カナリアイエローからスカイブルーへ塗り替えとともに京阪神緩行線初の高運転台となった。

1994年には吹田工場高槻派出所に207系1000番台が新製配置され、同年3月1日に運用が開始された[314]。103系は1994年3月24日に京阪神緩行線での運用を終了し、宮原・森ノ宮・奈良・日根野・岡山の各電車区と広島運転所に転出した[314]

片町線

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片町線の103系(片町駅、1989年10月)

片町線では40系42系72系などの旧性能電車が1970年代まで使用されていたが、1976年に101系の導入が開始され、1978年には冷房車が導入されるなど近代化が進められた[257]1979年10月1日のダイヤ改正では片町線の四條畷 - 長尾間の複線化、関西の国鉄で初の自動改札機の導入、6両編成化などの輸送改善が実施され、これに合わせて103系の新製冷房車が投入された[257]

103系は1979年に6両編成1本が淀川電車区に新造投入され、先頭車は高運転台車で初の非ATC車となった[257]。車体塗装は大阪環状線と共通のオレンジバーミリオン(朱色1号)となった[317]

翌1980年には7両編成3本が新製投入され、このうち1本は大阪環状線から転入の低運転台車が先頭に立った[257]。1983年からは京阪神緩行線への201系投入で捻出された編成が転入し、1984年2月の福知山線103系6両編成の4両編成短縮化で捻出された電動車ユニットも転入した[257]

1985年、淀川電車区が桜ノ宮駅北側から放出駅付近に移転したため、吹田工場への入場経路変更の関係から全編成が方向転換された[257]。同年から翌1986年にかけては、京阪神緩行線への201系投入で捻出された103系のサハが明石電車区より転入し、各編成が7両編成となった[257]

淀川電車区に所属する片町線の103系7両編成19本は、101系7両編成2本とともにJR西日本に継承された[257]。1988年3月には片町線に「学研都市線」の路線愛称が制定され、ダイヤ改正により快速列車の運転が開始された[318]

1989年3月11日に長尾 - 木津間の電化が完成し、長尾 - 大住間に松井山手駅が開業した[319]。松井山手駅で分割併合を行うため、103系7両編成のうち13本を4両と3両に分割し、自動解結装置を設置する改造が行われた[319]。奈良電車区や明石電車区からの転入車もあり、基本編成は付属編成より3本多い16本の配置となった[319]片町 - 松井山手間は7両で運転し、ホーム長の短い松井山手 - 木津間は3両で運転された[319]。昼間時間帯は付属4両を切り離し、3両編成単独での快速運用も行われた[319]

101系の2編成は1989年に桜島線用として森ノ宮電車区へ転出し、片町線は103系に統一された[319]。1990年には木津へ乗り入れる編成が4両編成となり、4両 + 3両から3両 + 4両に編成替えが行われた[319]。転入車改造の3編成では、2編成に明石電車区から転入のサハ103形が、1編成は奈良電車区のモハ103-232がサハ103-2501に改造されて組み込まれた[319]

1991年には207系0番台の試作車7両編成1本が投入され、103系の非分割編成1本が森ノ宮電車区へ転出した[264]。その後の207系の4両・3両編成の増備により103系は増解結運用から撤退し、快速は207系の運用となり、103系は片町 - 四條畷・松井山手間の普通列車での運用となった[264]。103系の配置両数は半減し、森ノ宮、日根野、奈良、明石の各電車区のほか広島・下関の各運転所への転出が行われた[264]

1996年9月8日、最後に残った103系7両編成1本によるさよなら運転が行われ、11日で営業運転を終了した[264]。運用終了後の103系は宮原電車区に転出した[264]

1997年3月8日のダイヤ改正でのJR東西線の開業に伴い、片町線は京橋 - 片町間が廃止となった[264]。淀川電車区も車両の配置がなくなり、森ノ宮電車区放出派出所となった[264]

福知山線(JR宝塚線)

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福知山線の103系(道場 - 三田間、1991年)
塗装変更過渡期の103系(1998年)

1981年4月1日福知山線尼崎 - 宝塚間が電化されるのに伴い、103系の6両編成6本36両が宮原電車区に新製投入された[245]。クハは高運転台の非ATC車であり、車体塗装は関西の103系で初のカナリアイエロー(黄5号)となった[245]

乗客数の伸び悩みから、1984年2月1日のダイヤ改正で4両編成に短縮され、中間電動車ユニットは他線区に転出した[245]。1986年に福知山線が全線電化されると、103系は新三田まで運用範囲が拡大された。

福知山線の103系は、4両編成6本の24両がJR西日本に継承された[268]。PRの施策として、103系には編成ごとに異なる「イエローライナー」のヘッドマークが掲出された[268]篠山口までの乗り入れも行われたが、1991年度には運転区間が新三田までに短縮された[320]

1989年3月11日のダイヤ改正では、明石電車区より非冷房・低運転台の4両編成3本がスカイブルー塗装で転入したが、同年5月にはWAU102形分散冷房装置での冷房化改造とカナリアイエローへの塗装変更が行われた[268]。このうち1編成は1989年度内に日根野電車区に転出している[268]

1991年時点では宮原電車区に8編成32両が在籍し、分散冷房の低運転台車が2編成、残り6編成が高運転台車(宮原新製配置)となっていた[321]。1992年度には宮原電車区に207系の4両編成4本が配置され、103系は低運転台車2本が広島運転所に、新製配置車のうち2本が明石電車区へ転出した[320]。残る103系は宮原新製配置の4両編成4本となった[320]

1993年度には明石電車区から転入の電動車ユニットが組み込まれ、再び6両編成となった[320]1994年8月に三田 - 新三田間で発生した踏切事故により、クハ103-839が廃車となっている[322]。補充として奈良電車区より6両編成1本が転入したほか、事故編成の残存車は1995年の阪神・淡路大震災後の輸送力増強用として広島運転所からの借入車と組成した6両編成で使用された[322]

JR東西線が開業した1997年3月8日のダイヤ改正では、宮原区の103系は全編成が7両編成となった[322]。この改正では東海道本線の高槻までの乗り入れも開始された[322]。207系の淀川・高槻電車区への転出と103系の淀川・森ノ宮電車区等からの転入により、宮原区の103系は低運転台車を含む7両編成8本となった[322]

1997年9月1日のダイヤ改正では、東海道本線への乗り入れ区間が京都まで延長された[322]。平日朝ラッシュ時・夜間には103系による尼崎 - 京都間の列車も設定され、尼崎 - 大阪間では塚本駅に停車する内側線を走行した[322]

1998年度より車体塗装のスカイブルーへの変更が実施され、2001年度をもって関西からカナリアイエローの103系が消滅した[323]

2001年にはUSJの開業により、サハを抜いた6両編成1本が森ノ宮へ転属し、同車は「ウッドペッカー号」となった。

2003年網干総合車両所明石支所へ207系2000番台が56両投入されたのに伴い、宮原区の103系は2003年8月17日に営業運転を終了した[323]。運用終了後は一部の付随車を除いて日根野・森ノ宮・奈良の各電車区と広島運転所に転出した[323]

2005年4月25日に福知山線の尼崎 - 塚口間で発生した脱線事故の影響により、森ノ宮電車区の103系1本がオレンジバーミリオン塗装のまま7両編成で貸し出され[324]、8月1日より京都 - 甲子園口・新三田間で運用された[323]。9月1日からはJR東日本からの譲渡車(元武蔵野線E38編成)を組成変更してスカイブルーに塗装変更した7両編成に変更され、321系投入前の11月30日まで運用された[323]。運用離脱後は付随車が廃車となり、残る6両が日根野電車区へ転出した[323]

和田岬線

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和田岬線の103系(2017年7月16日
和田岬線103系のJR神戸線内回送列車(須磨 - 塩屋間)

山陽本線の支線で兵庫 - 和田岬間を結ぶ和田岬線では、客車列車時代にはオハ64形・オハフ64形が、1990年以降は気動車のキハ35形・キクハ35形300番台が使用されていたが、2001年7月1日の電化に伴って103系の6両編成1本が和田岬線専用として投入された[325]。森ノ宮電車区から網干総合車両所明石支所への転属車が使用され、塗装はスカイブルー(青22号)となった[323]。編成はR1編成で、全車が延命N40工事車である[166]

和田岬線は朝夕のみの運転であり、休日は朝夕1往復ずつのみの運転となる[166]。日曜日の日中や指定の日には、大久保駅での折返しを経て西明石まで回送され、明石支所へ入庫する[166]。和田岬線への入線は鷹取駅と兵庫駅和田岬線ホームを結ぶ小運転線で行われるが、この小運転線を利用した「神戸乗務員訓練センター」(2000年開設)が設けられており、営業列車のない日中には103系R1編成による乗務員訓練も実施されている[326]

103系は1編成のみのため、検査等の場合は他形式による代走となる。当初の代走編成は201系と207系が使用された[327]が、201系の京阪神地区撤退後は207系で運用されている[166]。車内広告の掲出は行われていない[328]

明石支所の103系はR1編成のみであったが、2017年10月13日付で吹田総合車両所日根野支所より元HK607編成(クハ103-837ほか6両編成)が転入し、R2編成となった[329]。両端の先頭車は高運転台の体質改善40N車、中間車4両は体質改善30N車であった[328]。R2編成は転属後、営業運転に入ることは一度もなく、2018年2月14日に吹田総合車両所本所へ回送され[330]、翌2月15日付で廃車となった[311]

2020年1月に検査出場したR1編成は、床下が台車のみグレーに塗装された[331]

103系のスカイブルー色(青22号)および基本番台最後の定期運用となっていたが、2023年3月18日の運行をもって207系に置き換えられ運行を終了した[332]

加古川線

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加古川線の103系3550番台(粟生駅、2018年)

2004年12月19日の加古川線の電化に合わせて、103系のワンマン化改造車3550番台の2両編成8本が125系新造車4両とともに投入され、厄神駅に隣接する加古川鉄道部に配置された[323]。3550番台は体質改善40N工事済の0番台中間電動車ユニットの先頭車化改造車であり、森ノ宮電車区や奈良電車区からの転入である[126]。加古川鉄道部は2009年7月に網干総合車両所の加古川派出所[328]となった。車体塗装はエメラルドグリーン(青緑1号)。

103系の定期運用区間は加古川 - 西脇市間であり、西脇市 - 谷川間の定期運用は125系のみである[328]。103系は通勤通学時間帯を中心に運用され、日中は125系単行が主体となっている[328]。西脇市 - 谷川間では125系の代走として使用されたことがあるほか[333]、団体臨時列車「歌声列車」として入線した実績がある[334]

2004年の電化当時より、103系の4編成で西脇市出身の美術家横尾忠則によるデザインのラッピングが行われ、2012年まで運転された[335]

2020年(令和2年)現在、運行中の103系エメラルドグリーン色(青緑1号)車両の唯一の配置線区となっている。

播但線

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播但線の103系3500番台(溝口駅香呂駅、2018年)
0番台6両編成(2006年)

1998年3月14日に播但線姫路 - 寺前間が電化されるのに合わせ、103系のワンマン化改造車3500番台の2両編成9本が投入され、網干総合車両所に配置されている[336]。クモハ103形2500番台を含むユニットが種車であり、奈良電車区や日根野電車区から転入した[286][305]

2両編成のほか、2編成併結による4両編成の運用もあり、姫路・福崎・寺前の各駅では分割併合作業も行われる[336]

2019年以降の検査出場にて、全編成の床下が台車のみ灰色塗装となった。2020年出場のBH3編成のみ、尾灯がクリアレンズに変更されている[337]。2024年6月のBH3編成より、冷房装置がWAU709Aに更新されている[338]

1998年の電化開業以来、播但線では朝ラッシュ時に本線からの応援車両として宮原電車区の113系6両編成、後に網干総合車両所の221系6両編成が1往復運用されていたが、2006年3月26日の姫路駅山陽本線ホームの高架化で山陽本線と播但線の行き来が複雑になり、この運用が独立した[339]。2006年3月18日より、日根野電車区から網干総合車両所に転属した103系0番台の6両編成1本が播但線での運用を開始した[340]

転入した103系0番台はクハ103-15ほか6連[注 48]で、編成番号はR10編成となった[339]。塗装はスカイブルーのままで、平日朝ラッシュ時に運用される[340]。所属標記は「神ホシ」に変更されたが、塗装変更はされず、1999年10月に次ぐ全般検査は行われなかった[340]

103系0番台6両編成は、2006年11月に223系2000番台4次車の投入で運用に余裕が発生した113系6両編成に変更されるまで運用された。全車最初期の1964年製造で老朽化が進んでいたため、2006年12月15日付で廃車された。

岡山地区

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下関地区と同様に115系非冷房車を置換えるため、1994年より広島支社に続いて岡山支社にも投入、同年4月25日より営業運転を開始した[341]岡山電車区に4両編成5本20両配置で、山陽本線岡山地区や宇野線などで運用された。

塗装は独自の「マスカット色」に変更された。薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というもので、薄緑はマスカット岡山県の名産品の1つであることに由来している。

1994年岡山地区転入編成構成
クハ103 モハ103 モハ102 クハ103

編成構成はすべて0番台でクハ103形は1次改良型と初期量産冷房車、中間車も1971年以降のユニット窓装備車で統一された。冷房装置は全車一般的なAU75形を搭載する。中間MM'ユニット3組は延命N40工事車、他の14両は延命N工事車で、戸袋窓は全車とも閉塞施工済である。

長らく20両で推移したが、2004年213系「マリンライナー」の転用により運用離脱し、3編成が広島支社に、N40施工MM'ユニット1組が奈良電車区に転属し、MM'ユニットと編成を組成していたクハ2両は廃車された。広島地区への転属車両もしばらくはマスカット色で残り、瀬戸内色の車両と共通運用されていた。

残存1編成は2005年10月改正で定期運用を失い[342]予備車とされたが2006年に廃車され、完全に運用を離脱していた。その直後にアーバンネットワークでの車両置換えに伴い、奈良電車区・日根野電車区からの余剰車が転入して、本系列の運用が再開された。

2006年岡山地区転入編成構成
クモハ103 モハ102 サハ103 クハ103

1994年転入車と同じ0番台であるが、クモハ103形を含む編成構成かつ初期車の率が高く、1編成は戸袋窓が存置されていた。その後も車両交換があり、1994年転入車と同構成の編成も在籍するようになった。ただし、塗装は統一されていない。2008年末からは、広島運転所からの転入も行われたが、こちらも塗装変更は未施工のままである。なお岡山地区から103系は引退している[343]

2010年3月の定期運用終了後も、代走や臨時列車での運転があったが[344]、2010年12月までに廃車となり、岡山地区の103系は消滅した[345]

広島・下関地区

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クモハ103-48を擁する広島D-01編成(2015年廃車)

115系非冷房車の置き換えを目的として下関運転所に転属した103系は、1992年5月から運用開始したが、トイレを装備した近郊型電車に置き換えられ、1993年に広島運転所に転属した。以降は広島地区の山陽本線呉線可部線での運用となった。

2002年にクモハ-モハ-サハ-クハの4両編成3本がサハを脱車した3両編成となり、呉線の快速列車「安芸路ライナー」のワンマン運転用としてワンマン化改造が施工された[162]。脱車されたサハは日根野電車区へ転属している。2008年にはこの3両編成3本のクハ103(86・170・171)にトイレが新設され、側面方向幕が移設されている[162]

4両編成は2007年から関西地区で余剰となった113系に順次置換えられ、2011年3月1日のE-07編成の廃車をもって全廃となった。残る3両編成3本は、2012年から2015年にかけて車体塗装が濃黄色の単色に変更された[163]。この塗装は2009年度以降のJR西日本の地域色の1つで、瀬戸内地方の豊かな海に反射する陽光をイメージしたものである。床下機器もグレー一色に塗装された[346]

3両編成は227系への代替により2015年3月14日に全車が運用離脱、広島地区から103系が完全撤退した。運用離脱後の103系は下関総合車両所本所に回送され[347]、その後に解体された。

九州地区

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筑肥線

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筑肥線の103系(2019年)

1983年3月22日筑肥線姪浜 - 唐津間、唐津線唐津 - 西唐津間が直流電化され、福岡市地下鉄空港線との相互直通運転を開始した[348]。国鉄では相互直通用車両として103系1500番台の9編成54両が投入された[349]。編成番号は3両単位で付与されており、E1 - E18編成となっている[349]

配置区所は西唐津機関区に仮配置とされたが、電化開業と同時に唐津運転区が開設され、103系は正式に同区の所属となった[348]。名称は民営化後の1991年に唐津運輸区、1997年に唐津鉄道事業部唐津運輸センターと経て、2011年4月1日より唐津車両センターへ改称された[348]

1989年より、輸送量の少ない筑前前原以西で3両編成の運転が開始された。2000年からは筑前前原以西でワンマン運転が開始され、3両編成が駅収受タイプのワンマン対応車となった[350]。2002年度末からは6両編成を含む全編成にトイレが設置された[350]

1995年10月28日の美咲が丘駅の開業に合わせて103系の塗装変更が開始され、前面が赤、側面が銀と扉部の赤を基調とした塗装となった[348]。当初はシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)であったが、2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという303系に準じたカラーリングの車両も登場している。

地下鉄空港線(姪浜駅を含む、以下同様)には2004年までにホームドアが設置されており、その動作には本来自動列車運転装置 (ATO) 内にある定位置停止装置 (TASC) 、ホームドア開閉を連動する戸閉制御切替装置などが必要とされる。しかし本番台にはこれらの機器は搭載されておらず、地下鉄区間に乗り入れる際は必ず車掌が乗務し、停止位置は運転士が目視で調整、ホームドアは車掌がホーム設備のスイッチで操作していた。

本来の製造目的であった地下鉄区間への乗り入れは、VVVFインバータ制御でATOを搭載する303系の導入・増備時に車両運用を見直したことから、305系運用開始前の2015年1月時点では1日18往復と減少した。

E01 - E10編成は、6両編成の運用において、検査などで編成の一方が運用を離脱したときには、両方のまたは一方の編成をE11 - E18編成で補ったことがあった。後者の場合でも幌枠のある先頭車(クモハ)が中間車(モハ)と連結され、貫通幌は通常どおりに使用可能であった。

地下鉄乗り入れの末期には、主に夏季を中心に地下鉄線内でのトラブルが続発した。2011年7月1日、大濠公園駅到着時に主回路故障、き電停止が発生し、所定停止位置より約10 m過ぎて停車、さらに煙が出ているとの通報があったため、乗客を地上部まで避難させる事態となった。原因は減流抵抗器内碍子に塵埃等が付着し、碍子の絶縁が低下したことで抵抗体の一部に電流が流れ、溶損に至ったというものであり、減流抵抗器内碍子の一斉点検を行い、不良の碍子を取り替えるなどの対策が講じられた[351]。2012年7月29日には、唐人町駅で床下から火花と煙が出ているとの通報があり、運行を中止するトラブルが発生した。原因は、主制御器内にあるモーター電流を安全に遮断するためのタイミングを調整するタイマーリレーの不具合により、温度上昇で誤作動を起こし、モーター電流を完全に遮断する断流器にある減流抵抗器[注 49]に過大な電流が流れて焦損したためであり、JR九州は全編成のタイマーリレーを交換するなどの対応を行った[352]が、同年9月には地下鉄線内で照明が消えて非常灯が点灯し、またしても運行を中止するトラブルが起こり、事態を重く見た福岡市交通局はJR九州に対して103系の早期更新を要請した[353]

このため2015年2月5日より筑肥線・福岡市地下鉄直通運転向け新型車両305系の運行を開始[354]、同年3月14日のダイヤ改正までに計画の6編成36両が出揃った。これに伴い、2015年3月をもって本系列による福岡市営地下鉄空港線への乗り入れ運用は終了し、以後は筑前前原 - 西唐津間のみで運用されている。

305系投入と前後して、E02編成[355]・E01編成[356]・E03+E04編成[357]・E05 + E06編成[358]・E07 + E08編成[359]が順次小倉総合車両センターへ配給回送されており、E01・E02編成の6両は2014年度中に廃車となり、その他の6両編成もすべて保留車となっている[360]

試験

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103系をベースにしていくつかの車両試験がおこなわれた。

チョッパ制御試験

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103系が量産を開始した直後から、電機子チョッパ制御の試験などが活発化し、1970年(昭和45年)に阪神電気鉄道7001・7101形が日本で最初のチョッパ制御営業車として運転を始めた[361]。国鉄でも1967年(昭和42年)に101系を用いたチョッパ試験テストを行なったほか、103系を母体にして1969年(昭和44年)11月23日から12月1日までモハ103-59に取り付けて根岸線で試験を行なったほか、1974年(昭和49年)7月にもモハ103-57に取り付けて根岸線で試験を行なった[362]

VVVF試験

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JR東日本では1990年(平成2年)度から既存の抵抗制御車に対してのVVVF制御改造について研究を進めていたが1992年(平成4年)2月にJR東日本のクモハ103-87を東芝府中工場でVVVFインバータ装置と901系のモーター等の搭載改造をおこないJR大船工場で現車試験を行った[363]

JR東海でも、1990年8月に処分保留のクモハ103-4にVVVFインバータ装置を取り付け、クモハ103-4 + モハ102-77 + クハ103-88の3両編成を組んだ[364]。1990年9月3日 - 12月7にかけて東海道線中央西線で夜間を中心に走行試験を実施した[364]

DDM試験

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JR東日本が開発中であったダイレクトドライブ・モーター(直接駆動電動機)をモハ103-502に搭載し、耐久試験を行った[365][366]。これは試験車であるE993系(ACトレイン)では、営業車両と異なり長期間の走行による耐久試験ができないことから選ばれたもので、京葉線で約10万 km走行させることを目標とした[365]

永久磁石同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子によるVVVFインバータ化も同時施工されE993系との比較実験もされたが[365]、実験の終了に伴い廃車された。乗り心地に配慮して電動機の特性は103系に合わせられていた[365]。同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。この時の試験車両は武蔵野線で使用されていたクモハ103-104[366]・モハ102-230である。

モハ103-502は2002年6月28日付で大宮工場にてDDMの搭載と制御装置のVVVF化が行われ、2003年5月15日から12月にかけて京葉線で旅客営業運転が行われた[366]。DDMは2006年3月に製造されたE331系の量産先行車でも採用されたが、量産車は登場しなかった[366]

訓練機械

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103系改造の訓練機械
2008年

JR東日本では、前述した訓練車のほか廃車となった車両を改造して訓練機械としたものが存在する。こちらは機械扱いであることから車籍はない。老朽化が進み、非冷房であった101系改造の訓練機械を置き換えるため、1996年3月に東京・大宮総合訓練センター(大宮総合車両センター東大宮センター構内)へ投入された[367]。改造種車となったのは元豊田電車区所属のクモハ103-100 + モハ102-224である[367]。2両編成とするために、モハ102については同じく廃車となった浦和電車区のクハ103-332の前頭部を利用して先頭車化されている[367]。塗装はクリーム色に黄緑色の帯を配し、前面窓の周囲は黒色に塗られている[367]。 車端部は訓練教官が着席する指令室を設置し、各運転台へはテレビカメラを設置している[367]。保安装置については、クモハ103-100側がATS-PおよびATS-SN、モハ102-224側がATC(模擬装置)とATS-SNを装備している[367]。2008年に209系改造の訓練機械に置き換えられ、その後解体された。

塗色

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101系と同様に、103系では車両塗色にラインカラーが制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は修正マンセル記号である[368]。また、JR設定色は公式な呼称が存在しないため最も一般的な呼称で紹介している。

なお、一部は各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。

基本5色

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過去の運用線区〔 〕は所属
ウグイス
黄緑6号 7.5GY6.5/7.8)
スカイブルー
青22号 3.2B5/8)
エメラルドグリーン
青緑1号 2BG5/8)
オレンジバーミリオン
朱色1号 0.5YR3/8.8)
カナリアイエロー
黄5号 2.5Y7.5/8.8)
  • 以上5種類は車体すべてを一色で塗装するものである。

地下鉄対応車両

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過去の運用線区〔 〕は所属
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+ エメラルドグリーン(青緑1号 2BG5/8)
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+ カナリアイエロー(黄5号 2.5Y7.5/8.8)
シルバーグレー(灰色8号 N7)
+ スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
スカイブルー(青22号 3.2B5/8)
+ クリーム色(クリーム1号 1.5Y7.8/3.3)
  • 以上4種類は車体地色 + 帯色の組み合わせ塗装である。

JR設定色

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現在の運用線区〔 〕は所属 過去の運用線区〔 〕は所属
九州色
  • 筑肥線・唐津線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
    • 写真は上が初代九州色、下が2代目九州色
  • 福岡市地下鉄空港線〔唐津運輸区→唐津鉄道事業部唐津運輸センター〕
仙石色□→□  
東海色  
  • 中央西線・関西本線〔最終配置 : 神領電車区〕
マスカット色  
  • 山陽本線(岡山地区・広島地区)
瀬戸内色  
瀬戸内地区地域統一色  
播但色 (DIC N-727)  
加古川色  

ラッピング・イベント塗装

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桜島線のUSJラッピング車

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森ノ宮電車区の6両編成4本が、沿線にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) のPR車両として、それぞれ違ったテーマのラッピングを施された。全車両に40N体質改善工事を施工している(ユニバーサルグローブ号はラッピングと同時に施工)。2012年末までに201系と入れ替わる形で運行を終了し、24両全車両がスカイブルーまたはオレンジ色へ再塗装された。その後、225系・323系の導入により、2016年から2018年にかけて全車廃車された。

各車両のデザイン名称とコンセプトは次の通り[369][370][371]

  • パワーオブハリウッド号[注 50](2001年1月-2012年3月[372]:スカイブルーに再塗装の上、日根野電車区へ転属。2018年6月20日付けで廃車。)
    • USJのメインアトラクションのキャラクターを用いて、華やかさやエキサイティングをイメージした車両。
  • ウッディー・ウッドペッカー号[注 51](2001年2月 - 2012年6月[373]:スパイダーマン号の中間車を編入しオレンジ色に再塗装された。2018年1月22日付けで廃車。)
  • アメリカの街並風景号[注 52](2001年2月 - 2004年1月)
    • 園内にあるロマンチックな街並風景をデザインした大人向けのシックをイメージした車両。
  • ユニバーサルグローブ号[注 53](2001年2月 - 2003年4月)
    • USJのロゴマークやグローブを用いてシンプルでワールドワイドをイメージした車両。
  • セサミストリート 4−D ムービーマジック号(2003年4月 - 2012年10月[269] :もとユニバーサルグローブ号。スパイダーマン号の中間車を編入し、オレンジ色に再塗装された。2016年10月7日付けで廃車。)
    • 想像力豊かに4Dの楽しさが体験できる「セサミストリート 4−D ムービーマジック」の魅力を表現した車両。
  • アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号[注 54](2004年1月-2012年3月 :もとアメリカの街並風景号;2012年に先頭車2両は日根野電車区へ転属、中間車4両は2両ずつもとセサミストリート 4−D ムービーマジック号およびもとウッディー・ウッドペッカー号に組み込まれ、いずれもオレンジ色に再塗装された。日根野に転属した先頭車は2016年9月5日付けで廃車。)
    • アトラクションのスリリングなアクションシーンをダイナミックに表現した車両。

加古川線の横尾忠則ラッピング車

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加古川線用の2両編成4本には横尾忠則がデザインした車両が、加古川線が電化された2004年12月19日から運用されていた。2011年5月15日から全般検査のため順次運用を終了し[374]、2012年11月18日をもって運行を終了したため、現在は全8編成が通常塗装である。各編成の運転開始日・終了日・テーマは次の通り。

  • 眼のある電車「見る見る速い」( M1 編成、2004年12月19日 - 2011年5月15日)
    • 緑のある中で目立たなければならず、列車の外を眺める眼と列車を眺める人々の眼を表現するために、車体に眼がデザインされたもの。
  • 「銀河の旅」( M2 編成、2005年12月18日 - 2011年6月19日)
    • 加古川線の電化1周年を記念してデザインされた。
  • 「滝の音、電車の音」( M5 編成、2006年3月12日 - 2011年10月10日)
    • 加東市発足を記念してデザインされた。
  • 「走れ!Y字路」( M8 編成、2007年6月10日 - 2012年11月18日)
    • 西脇市の夜のY字路がモデルになっている。

4種類のラッピング以外にさらに2種類ラッピング案が存在していたが、経費不足とJR福知山線脱線事故を連想させる内容が含まれていたため、採用は見送られた[375]

播但線「銀の馬車道」

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銀の馬車道号
(2009年2月15日 福崎 - 甘地間)

生野銀山朝来市)と飾磨港姫路市)を結ぶ約49 kmの馬車専用道路であった生野鉱山寮馬車道、通称「銀の馬車道」をPRするためにデザインされた車両で、網干総合車両所に所属する2両編成3本にラッピングが施されている[376][377][378]

そのほか

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アニメ・ドリームトレイン1999用
イベントに合わせて車体を旧形客車を模したぶどう色2号に塗装した。
関門・海峡物語
OSAKA POWER LOOP
「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、森ノ宮電車区のLA3編成に大阪環状線沿線の街の魅力を表現したラッピングが施され[379]、2014年6月1日から2017年9月7日まで運転された。2017年11月27日付けで廃車。
デザインは地元のFM802が担当した。
各車デザイン[380]
クハ103-848 歴史(作:曄田依子)
モハ102-650 ランドマーク(作:さくらいはじめ)
モハ103-494 食(作:イフクカズヒコ)
サハ103-370 パワースポット(作:カンバラクニエ)
サハ103-475 自然(作:MARUMIYAN)
モハ102-644 伝統芸能(作:山下良平)
モハ103-488 地域交流(作:寺田マユミ)
クハ103-841 アーバンスポット(作:HR-FM)

事故廃車

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  • 1970年5月20日、根岸線新杉田 - 洋光台間で下り電車が土砂崩壊に乗り上げ、前位側2両にあたるクハ103-548とモハ102-169が大破した[381]。その結果この2両は1971年3月27日付けで廃車[382]となっている。モハ102-169とペアを組むモハ103-105は整備の上、新たに製造されたモハ102-445とペアを組んで復帰している(窓枠の異なる車両同士でのユニット)。
  • 1988年12月5日、中央緩行線東中野駅構内に停車中の103系10両編成に、後続の201系10両編成が追突する事故(東中野駅列車追突事故[383]が発生した。103系の後位側9両(クハ103-277・モハ103-334・モハ102-490・サハ103-326・モハ103-21・モハ102-21・サハ103-327・モハ103-336・モハ102-492)のうち中間車8両が回復不能として1989年3月23日付け[384]で、先頭車のクハ103-277が1989年7月25日付け[385]で廃車となっている。
  • 1994年8月3日、福知山線三田 - 新三田間で上り電車がトラックと衝突[386]、前位側先頭車であるクハ103-839が大破した。その結果同車は1994年8月10日付けで廃車[387]となっている。

譲渡車

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JR東日本からJR西日本への譲渡

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譲渡前の武蔵野線E38編成(2005年6月)
モハ102-841
戸袋窓閉塞後車内

2005年4月25日の福知山線脱線事故により被災した207系の廃車および帯色変更工事、117系の同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足した。そのためJR東日本武蔵野線で運用されていた8両編成1本が同年7月28日付でJR西日本に譲渡された。譲渡後は先頭車が広島地区で2010年まで[388]、中間車は阪和線や大阪環状線などで2011年まで使用された[389]

クハ103
-828
モハ102
-842
モハ103
-686
モハ102
-841
モハ103
-685
モハ102
-840
モハ103
-684
クハ103
-821

同社に入籍後は、既存車と編成を組み替えられ、以下の配置経歴を持つ。

  • クハ103-821・828 : 広島運転所(E04編成)
  • モハ103-684 + モハ102-840 + モハ103-685 + モハ102-841 : 宮原総合運転所→日根野電車区(K801編成→K606編成)
  • モハ103-686 + モハ102-842 : 森ノ宮電車区(モリ17編成)→奈良電車区(NS402編成)→日根野電車区(J404編成→J414編成)

車両不足解消後には戸袋窓閉塞工事が施工されたが、貫通扉は廃車まで窓の小さいものを装備し続けた。

2010年6月21日付でクハ103-821・828が廃車となった。また2011年3月にモハ103-686 + モハ102-842が吹田工場へ、4月にはモハ103-684 + モハ102-840 + モハ103-685 + モハ102-841も幡生工場へ廃車回送された。

インドネシアへの譲渡

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2004年(平成16年)、JR東日本が武蔵野線で運用していた103系のうち、4両編成16両がインドネシアの鉄道会社PT Kereta Api(現.PT Kereta Commuter Indonesia)(以降PT KCI)に有償譲渡された[248]

クハ103-815 モハ103-752 モハ102-2009 クハ103-822
クモハ103-105 モハ102-231 サハ103-246 クハ103-597
クハ103-359 モハ103-654 モハ102-810 クハ103-384
クモハ103-153 モハ102-321 サハ103-210 クハ103-632

これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、後期製造車または車両更新工事施工車が選ばれた。その後は東急8000系8500系を導入したため16両で終了となった。現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート(排障器と前面窓に投石対策として金網が設置され、元都営6000形や東京メトロ(営団)の車両とともに日本のODAにより整備されたジャカルタ首都圏の通勤電車で、以前は有料の急行 (Ekspres) ・準急(Semi Ekspres/2008年に種別廃止)・Ekonomi AC(2007年新設)用として運用されていたが、営業運転終了までは冷房付各駅停車「Commuter Line」に使用されていた。

当初、塗装は武蔵野線時代のまま使用されたが、その後窓周りに黄色が塗られてツートンとなった。2008年秋頃には濃い青を基調とした新たな塗装に変更、2011年にはJR東海色を基調した塗装、運行終了まではKCI標準色で運行された。現地でもJR 103と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している。ただし、「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。行先表示は前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用しない。車内にはJR時代の路線図がそのまま掲出されている。老朽化および元JR205系の譲渡に伴い、2016年(平成28年)に運行終了した。

北海道へ渡った103系

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JR北海道では、電化区間が全て交流であることから、国鉄時代から1両も本系列が配置されたことはなかったが、1998年(平成10年)8月に103系8両が機関車牽引で入線した[390][391]

譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、雑誌の投稿を含めても交友社『鉄道ファン』の1998年11月号 No.451のP.120に掲載された「103系が北海道へ」に津軽海峡線ED79形50番台に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたのみである。

この103系は『鉄道ファン』同号掲載の写真、および苗穂で撮影されYoutubeに投稿された動画から以下の状態が確認された。

  • 一部の車両が鉄板による窓・扉などの埋め込み
  • 一部の車両が片エンドの鋼体を骨組みのみに改造
  • 車番をRTRI-A、RTRI-C2、RTRI-D3などへ変更(RTRIは鉄道総合技術研究所の英語略称)
  • 連結器を密着式から自動式への換装

この改造は東急車輛製造で施工された[159]

その後は苗穂工場内に留置された。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。

なお苗穂工場到着後、追加で側面ドアの埋め込みや、妻面に鉄枠や鉄板で補強をされ、側面に衝突試験で用いられるターゲットマークを貼付された姿も、YouTubeに投稿された動画から確認できる。

収集されたデータの目的は公開されていないが、実験結果は英文にて2003年に公開されている[392]

譲渡車一覧(所属は廃車時)
  • クハ103-396・454・481・482・719・724
  • サハ103-230・417
    • クハ103-396・サハ2両:松戸電車区所属エメラルドグリーン塗装
    • ほかの5両:浦和電車区所属スカイブルー塗装。

編成表

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岡山電車区

1999年4月1日[393]

H編成
編成番号
← 姫路・岡山
宇野・三原・広島・可部 →
クハ103 モハ103 モハ102 クハ103
H1 201 306 462 202
H2 209 314 470 210
H3 221 497 653 222
H4 227 437 593 228
H5 233 493 649 234

保存車

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103系保存車・保管車一覧
画像 番号 所属 最終配置 廃車 所在地 備考
クハ103-713 JR東日本 京葉 2005年11月22日 埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47
鉄道博物館
乗務員室側約9 mのカットボディが保存されている。当初はスカイブルーであったが、2017年(平成29年)のキッズプラザリニューアルに際し、白ベースにオレンジ・スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス・エメラルドグリーンの103系がまとった5色を水玉で配した模様に塗り替えられた。

高運転台車では唯一の保存車である。

クハ103-525 JR東日本 中原 1994年10月13日 東京都府中市東芝町1 東芝府中事業所→)
千葉県いすみ市作田1298
ポッポの丘
譲渡後、機器類を改造された状態で東芝府中事業所にて留置。車体はオレンジ一色に塗り替えられている。
2020年4月14日、同所保管のクモニ83006(国鉄クモニ83形電車)と共にポッポの丘へ向け陸送された。
クモハ103-18 JR東海 神領 2001年9月14日 岐阜県美濃加茂市
美濃太田車両区
屋外留置のため腐食や褪色が見られる。2011年3月14日にオープンしたリニア・鉄道館の展示リストには入っていない。
クハ103-1 JR西日本 日根野 2011年3月30日 京都府京都市下京区観喜寺町
京都鉄道博物館
クハ103形のトップナンバー。2011年3月まで阪和線で使用され、廃車後は一時期吹田総合車両所に保管されていた[394]が、スカイブルーからオレンジバーミリオンに塗装変更して2015年3月2日に吹田総合車両所から搬出され[395]、京都鉄道博物館に搬入された。103系の保存車では唯一戸袋窓が封鎖されている。
クモハ103-110 JR西日本 岡山 2009年7月3日 大阪府大東市平野屋1丁目4−1
大阪府立消防学校
※非公開
もと阪和線用。2009年に廃車となった際、消防学校の整備工事が進められていたため、同校の訓練施設として譲渡された[396][397][398]
クモハ103-147 JR東日本 松戸 2006年5月10日 個人へ譲渡(所在地非公開)

脚注

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注釈

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  1. ^ 昭和40年当時、磯子 - 大船間は未開業。
  2. ^ 第46条第1項第3号
  3. ^ 101系は後年、関西地区の水害で床材の芯に入っているコルクが吸水膨張し修理不能となり大量廃車を出したが、103系の構造ではこうした不具合は生じない。
  4. ^ 回転数は全界磁時1250 rpm、35 %界磁時2370 rpm。最高回転数4400 rpm。
  5. ^ 全界磁時33.5 km/h、35 %界磁時64.0 km/h。
  6. ^ 1000・1200・1500番台を除く。
  7. ^ ただし、1987年(昭和62年)からの常磐快速線での15両編成運転開始から2000年頃までは、増結用付属5両編成の一部に2M3T(下り寄りからTcMM'TTc)の編成があり、成田線で単独運行されたこともある。
  8. ^ 通勤型電車というカテゴリーでは、それ以前の1959年(昭和34年)に名古屋鉄道5500系電車が冷房を装備して登場しているが、クロスシート車両であり登場当初優等列車に優先的に使用されていたことには注意する必要がある。
  9. ^ 番号は従来車の続番。
  10. ^ JR西日本に継承された車両のうち、JR化後にWAU102形で冷房改造された車両については、側面の電動方向幕の取り付けが行われていない。
  11. ^ 東海道本線基準で山側。
  12. ^ クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設搭載工事を施工し、池袋電車区へ転属。
  13. ^ 後述する1200番台は東西線にシールドトンネルが少なく地上区間も多いことから、抵抗器の冷却についても問題なく、冷房取り付け改造も受けて2003年(平成15年)まで活躍している。
  14. ^ 当初AU75系→AU712。
  15. ^ 東西線乗り入れで運用された車両で唯一、AU75で冷房化改造が行われていた編成であった。
  16. ^ 国鉄では1980年代より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策(フリークエント・サービス、広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期には全国的に先頭車が不足する傾向にあった。1984年2月1日国鉄ダイヤ改正1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照。
  17. ^ ただし、冷房装置や側面行先表示器は未搭載。
  18. ^ 理由として、車体は新形であるが老朽化を含め下回りは旧性能電車のため検査周期が短く対費用効果の観点からも不利であったこと。埼京線開通の際に投入予定であった本系列が同じ路線を走行する場合に性能的にダイヤ編成上の障害となる恐れがあったためとされる。
  19. ^ 停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬期の車内保温の目的で装備される。
  20. ^ 予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換などとしてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。
  21. ^ 予備車期間中に205系3000番台の車両故障で代走運用に投入され、これが本当の最終運用となった。
  22. ^ ラッシュ対応として、可能な限り客室に出っ張りを作らないように配慮。
  23. ^ 3500番台となった車両と同世代のクモハ103形ユニットは2011年3月廃車となった。
  24. ^ 粟生駅(三木鉄道廃止前は厄神駅も)で他社線乗り換え時には、2編成併結時でも無人駅と同様に1番前の車両の運賃箱でJR線の運賃を精算する必要があるため、貫通形にする必要がある。
  25. ^ クハ103-245 + モハ103-387 + モハ102-543 + サハ103-409 + サハ103-404 + モハ103-408 + モハ102-564 + クハ103-264
  26. ^ 2011年3月30日をもって廃車。
  27. ^ クモハ103-1・2・144・149・クハ103-74・81・92・503の8両。
  28. ^ SC24形インバータは容量可変制御(VVVF)であり、定電圧定周波数制御(CVCF ≒ SIV)ではない。
  29. ^ 本系列の塗装変更が完了するまでは、「総武・中央線各駅停車」の透明ステッカーを205系編成の黄色帯の上部分に貼付して対応した。
  30. ^ 帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。
  31. ^ 灰色で塗りつぶしていた時期もある。
  32. ^ この改造により「快速 中野」などの種別表示も追加。
  33. ^ 松戸転出車は、クモハ102形には電気連結器取り付けが見送られたほか、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があったことから1993年 - 1994年にかけてすべて廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの1000番台は2002年以降の廃車である。
  34. ^ 三鷹区では冷房用電源を装備していたMM'ユニット6組のみで、10両編成では2組の組成が必要なことから、第3 - 5編成が残存した。転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにもかかわらず、モハ103・102-1202(三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車)が残されたのは冷房電源のためであり、この2両は松戸転出車廃車後も2003年5月まで運用され続けた。
  35. ^ 元々A-A基準、AU75形集中式冷房装置装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入。
  36. ^ この編成には両方の先頭車に幌が取り付けられた。
  37. ^ 構内配線の変更から折返し駅が多賀城から東塩釜まで延長されたため、運用増加による予備編成が確保された。
  38. ^ 当初は準備工事で営業運転開始時に設置完了。
  39. ^ 弱め界磁最終段の定格速度は101系の67.5 km/hに対して64.0 km/hで僅かに下回るが、電動機出力との相乗値では上回る。また100 km/h時のユニット当たり引張力が101系の約1,300 kgに対して約1,900 kg(111系とほぼ同じ)であることからも、103系の方が高速性能に優れることがわかる。
  40. ^ 検討時の平均駅間距離は赤羽 - 蒲田間の値で、京浜東北線全体では2 km台となる。
  41. ^ ブレーキ初速度が高い常磐線向けにこの台車を開発したのではなく、偶々開発終了と常磐線への投入時期が重なった。
  42. ^ MT55、MT46ともに弱め界磁定格のため100 %界磁に換算して比較すると、電動車1ユニット当たり103系が約9500 kgに対して101系は約6300 kgとなり約1.5倍の差がある。
  43. ^ 101系は限流値480 Aで63分、本系列は限流値415 Aで62分50秒の基準運転時分である[172]
  44. ^ もっとも近い特性の車両は東武8000系で、出力130kW、定格回転数1,750rpm(界磁82%)、歯車比は5.31。起動加速度は2.33km/h/sと低めだが、これは中間速度域の段数を増やし、駅間で『デラックスロマンスカー』1720系から“逃げ切る”ための設定だった。その一方、各停運用では103系よりさらに低速向けの2000系と同居したが、どちらも特に悪評は立っていない。阪和線と阪急電鉄ほど著名ではないが、この両者も常磐快速線と伊勢崎線の荒川橋梁上で比較対象とされがちな形式だった。
  45. ^ JR東日本運輸車両部車両開発プロジェクトシステム電機グループリーダー
  46. ^ こちらにも209系が103系比47 %の記述あり。
  47. ^ 鋼製車体や旧式な機器類に起因する点検費用増大は、本来、それを理由とした車両置き換えの動機となり得るものであるが、それは合理化と表裏一体の措置でもある。現場職員に膨大な余剰人員を抱え、その人事・労務対策に苦しんだ昭和40-50年代の国鉄では、大手私鉄と異なり、省人化のメリットを追求することが容易でなかった。
  48. ^ 寺前方からクハ103-15 + モハ103-15 + モハ102-15 + モハ103-16 + モハ102-16 + クハ103-16。元は中間に延命N40工事を受けたサハ102-10・13も組み込まれていたが、転出時に廃車。
  49. ^ 断流器を流れる大電流を遮断すると、断流器内の電極が離れているのにもかかわらず、アークと呼ばれる閃絡現象が起こり、電流が流れ続けようとする現象が起こるため、大電流を遮断する前に、一旦減流抵抗器を回路に直列に挿入して、電流値をある程度少なくしてから遮断を行う減流遮断方式に使用される抵抗器である。
  50. ^ ←西九条 クハ103-255 + モハ103-398 + モハ102-554 + モハ103-399 + モハ102-555 + クハ103-256(全車森ノ宮の生え抜き編成)。
  51. ^ ←西九条 クハ103-833 + モハ103-775 + モハ102-2032 + モハ103-782 + モハ102-2039 + クハ103-840 (ラッピング列車の運行開始に先駆け、宮原総合運転所から転属。)
  52. ^ ←西九条 クハ103-799 + モハ103-504 + モハ102-660 + モハ103-396 + モハ102-552 + クハ103-240 (ラッピング列車の運行開始に先駆け、クハ103-799が奈良電車区から転属。残り5両は森ノ宮の生え抜き編成。)
  53. ^ ←西九条 クハ103-823 + モハ103-763 + モハ102-2020 + モハ103-764 + モハ102-2021 + クハ103-830(ラッピング列車の運行開始に先駆け、日根野電車区から転属。)
  54. ^ ←西九条 クハ103-799 + モハ103-504 + モハ102-660 + モハ103-781 + モハ102-2038 + クハ103-240 (日根野からモハ103-781 + モハ102-2038が転属し、モハ103-396 + モハ102-552と差し替え)

出典

[編集]
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  • 城戸宏之(JR西日本鉄道本部車両部)「JR西日本播但線電化開業用車両の改造」『Rolling stock & Machinery』第6巻第3号、日本鉄道車両機械技術協会、1998年3月、21 - 24頁。 
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2018年1月号 No.941 特集 : 103系電車
    • 平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、10-32頁。
    • 日向旭「JR西日本 103系の現況」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号、65-82頁。
    • 前納浩一・永尾信幸・芳田あきら「103系の改造工事―改造項目逆引き事典」『鉄道ピクトリアル』2018年1月号 83-117頁。
  • 交友社『鉄道ファン』2018年11月号 No.691 特集:103系55年の軌跡
  • 交友社『鉄道ファン』2019年6月号 No.698 特集:オレンジバーミリオン物語

地下鉄対応・他形式からの改造番台

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  • 銭場佑浩 ; 瀧口敏「72,79系を100系3000代に改造」『鉄道工場』 36巻、10(421号)、レールウエー・システム・リサーチ、1985年10月、18-19頁。doi:10.11501/2359885https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2359885/11 
  • 中村新一・野元浩「103系3000番代通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 P.65 - P.67
  • 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 P.96 - P.103
    • 当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
  • 久保敏「旧形国電から103系に変身したウグイス色電車 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 P.105 - P.109
  • 芳田あきら・前納浩一・永尾信幸「103系に編入された101系電車―サハ103形750番代とクハ103形2000・2050番代―」『鉄道ピクトリアル』2013年4月号(通巻874号)、電気車研究会。56-65頁。
  • 大塚孝「筑肥線近代化の主役103系電車 九州の103系1500番代35年のあゆみ」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2018年1月号 No.941 P.57 - P.64

専門記事

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  1. 岡部達郎(国鉄本社施設局停車場課)「中央線(東京 - 三鷹間)の増強計画について」『交通技術』 13巻、3(143号)、交通協力会、1958年3月、2-6頁。doi:10.11501/2248492https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2248492/5 
  2. 伊東正信(国鉄総裁室調査課)「昭和33年度国鉄の工事計画について」『交通技術』 13巻、5(145号)、交通協力会、1958年5月、6-8頁。doi:10.11501/2248494https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2248494/7 
  3. 酒井弘(国鉄本社電気局電力課)「通勤輸送に対処する自営電源と送電網」『交通技術』 13巻、6(146号)、交通協力会、1958年6月、32-33頁。doi:10.11501/2248495https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2248495/21 
  4. 国鉄臨時車両設計事務所『これからの鉄道車両』1959年1月、pp.11 - 15。
  5. 大塚長一郎(京浜急行電鉄車両部長)「補償線輪付車両用主電動機について」『電気車の科学』1959年5月号、pp.11 - 14。
  6. 塚本清治(国鉄技師長室)「昭和34年度の技術課題について」『交通技術』 14巻、7(160号)、交通協力会、1959年7月、2-5頁。doi:10.11501/2248509https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2248509/6 
  7. 榊原三郎(国鉄運転局客貨車課補佐)「昭和35年度電車計画の展望」『電車』1960年1月号、pp.28 - 33。
  8. 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急"HE車"の概要」『電気鉄道』1960年1月号、pp.18 - 21。
  9. 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急2400形HE車 (1)」『電気車の科学』1960年2月号、pp.12 - 15。
  10. 技術時評 通勤電車とドア」『交通技術』 15巻、2(168号)、交通協力会、1960年2月、27頁。doi:10.11501/2248517https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2248517/18 
  11. 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急2400形HE車(続)」『電気車の科学』1960年3月号、pp.21 - 26。
  12. 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急HE車(高性能高経済車)の概要 (1)」『電車』1960年4月号、pp.12 - 20。
  13. 山村秀幸(小田急車両課長)「小田急HE車(高性能高経済車)の概要 (2)」『電車』1960年5月号、pp.32 - 39。
  14. 真宅正博・井上等(国鉄臨時車両設計事務所)「国鉄試作電力回生ブレーキ電車」『電気鉄道』1960年9月号、pp.25 - 29。
  15. 真家昇(東鉄局電力課)「中央線電車線路整備工事について」『電気鉄道』1960年10月号、pp.14 - 16。
  16. 井ノ口章太郎(国鉄本社電気局電力課)「国鉄関東地区の電気需要と供給力」『交通技術』 16巻、3(182号)、交通協力会、1961年3月、2-5頁。doi:10.11501/2248531https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2248531/7 
  17. 小沼清志(国鉄技師長室)「昭和36年度の国鉄技術課題」『運転協会誌』1961年6月号、pp.26 - 27。
  18. 大城康世・川添雄司(国鉄外務部・元国鉄関東支社大井工場)「こんごの通勤電車」『JREA』1961年6月号、pp.14 - 17。
  19. 太田清水(国鉄鉄道技術研究所電気材料調査研究室)「H種絶縁」『電気鉄道』1961年9月号、pp.23 - 24。
  20. 太田益次(大阪鉄道管理局電気部変電課)「大阪環状線の時間短縮に伴う運転用電力について」『電気鉄道』1962年6月号、pp.6 - 8。
  21. 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「今後の電車用主電動機」『電車』1962年7月号、pp.36 - 43。
  22. 萩原仁太郎(仙台鉄道管理局福島電力区・元千葉鉄道管理局電力課) 「トロリー線の集電摩耗とその対策について」『電気鉄道』1962年9月号、pp.9 - 12。
  23. 久保田博(国鉄工作局車両課補佐)「103系通勤電車誕生のいきさつ」『電車』1963年1月号、pp.27 - 34。
  24. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「103系電車の概要」『電車』1963年1月号、pp.35 - 44。
  25. 河合肇(国鉄運転局客貨車課)「新形通勤電車103系および101系の次期投入線区について」『電車』1963年1月号、pp.45 - 51。
  26. 井上等(国鉄臨時車両設計事務所技師)「103系電車の概要」『電気車の科学』1963年2月号、pp.6 - 10。
  27. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「新通勤形103系電車」『電気鉄道』1963年3月号、pp.11 - 13。
  28. 佐藤武士(静鉄静岡運転所)「新形電車における1ユニット不動の推定法と運転扱いについて」『電車』1964年3月号、pp.26 - 37。
  29. 寺島和年(前大鉄運転部電車課長)「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.25 - 27。
  30. 久保田博(仙鉄運転部長・元本社工作局)「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.35 - 37。
  31. 小沢耕一(東鉄運転部電車課長)「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.4 - 6。
  32. 石本祐吉(川崎製鉄KK千葉製鉄所)「通勤形電車はどうあるべきか」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.72 - 73。
  33. 加藤精一(国鉄大井工場第1電車職場長)・望月旭(国鉄浜松工場製缶職場長) 「電車用主電動機の性能向上」『電車』1964年4月号、pp.66 - 76。(注 : ガラスバインドとハンダレス整流子関係)
  34. 久保卓三(国鉄運転局客貨車課)「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (1)」『電車』1964年5月号、pp.12 - 18。
  35. 小沢耕一(東鉄運転部電車課長)「東京付近の通勤輸送をめぐって」『電車』1964年5月号、pp.45 - 54。
  36. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所技師)「ユニット不動の推定法と運転扱いについてを読んで」『電車』1964年5月号、pp.66 - 68。
  37. 運転局客貨車課 「新形電車現行使用限流値調べ」『電車』1964年5月号、p.18。
  38. 大石一男(静鉄静岡運転所)「現場から見たユニット不動時の運転の問題について」『電車』1964年6月号、pp.52 - 53。
  39. 久保卓三(国鉄運転局客貨車課)「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (2)」『電車』1964年6月号、pp.85 - 93。
  40. 「103系量産車の運転性能試験が実施される!!」『電車』1964年7月号、p.31。
  41. 丹羽一夫(元運輸省都市交通課専門官・現運輸省保安課補佐)「東京およびその周辺における都市交通について」『電車』1964年8月号、pp.22 - 27。
  42. 「国鉄中央線と地下鉄5号線との相互直通車両の規格仕様に関する覚え書が交換された」『電車』1964年8月号、pp.54 - 56。
  43. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (1)」『電車』1964年10月号、pp.73 - 78。
  44. 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師)「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (2)」『電車』1964年11月号、pp.32 - 35。
  45. 「新らしい機器の紹介 C2000形空気圧縮機」『電車』1964年12月号、pp.31 - 33。
  46. 小田急電鉄株式会社『新設計の通勤車について』1965年2月1日、pp.1 - 16。(注 : 2600形の設計時資料)
  47. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.19 - 22。
  48. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.23 - 25。
  49. 伊東正行(東京急行電鉄株式会社電気部変電課変電係長)「回生制動により生ずる回転変流機の逆流防止装置」『電気鉄道』1965年6月号、pp.8 - 11。
  50. 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所)「電気車の性能と容量(その2)」『電気鉄道』1965年6月号、pp.20 - 22。
  51. 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、pp.13 - 19。
  52. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その2) ダブルシンプルカテナリ (1)」『電気鉄道』1965年8月号、pp.24 - 26。
  53. 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その3) ダブルシンプルカテナリ (2)」『電気鉄道』1965年9月号、pp.21 - 24。
  54. 柿沼道夫・後閑始(東京鉄道管理局田端電力区)「東鉄における電車線路の保守について(その6) ダブトロ工事の施行および今後の保守」『電気鉄道』1966年1月号、pp.27 - 31。
  55. 石塚健次郎・山口義雄・杉野治之・小沼栄(以上 東鉄池袋電車区電車検査掛)・藤巻亀忠(東鉄池袋電車区電車運転士)「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、pp.13 - 17。
  56. 佐藤善一「列車運転における電力消費率」『電気鉄道』第20巻第9号、鉄道電化協会、1966年9月、2-6頁、NAID 40018094663  (国鉄電気局電化課)
  57. 高藤茂(国鉄池袋電車区長)「運転業務研究会をかえりみて」『電気鉄道』1966年11月号、pp.24 - 27。(注 : 103系電車のブレーキ衝動対策関係)
  58. 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第2章トロリー線について)」『電気鉄道』1966年12月号、pp.39 - 43。
  59. 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工)「電車線路用裸電線について(第3章き電線について)」『電気鉄道』1967年1月号、pp.31 - 35。
  60. 内田真・藤村敏郎(以上 国鉄鉄道技術研究所)・権藤豊義・府川有治・佐藤善一・冨中昭三(以上 国鉄電気局電化課)「大都市通勤輸送区間における大電流き電回路の現状と問題点」『電気鉄道』1967年4月号、pp.2 - 18。
  61. 山本幸司・粥川昭二・飯島薫・塙三郎(以上 国鉄品川電車区) 「ATS-B形諸問題の現状と対策について」『電気鉄道』1967年6月号、pp.17 - 21。(注 : 列車運転時の電圧変動関係)
  62. 金子一彦(国鉄新宿変電区)「車両の空転によるき電用高速しゃ断器の動作について」『電気鉄道』1968年2月号、pp.16 - 20。
  63. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (I)」『電気鉄道』1968年3月号、pp.9 - 12。
  64. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (II)」『電気鉄道』1968年4月号、pp.22 - 24。
  65. 猪野淳之助(国鉄車両設計事務所次長)「通勤電車設計の展望」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.4 - 7。
  66. 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「国鉄通勤電車の配置運用と見通し」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.8 - 10。
  67. 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課)「電気車の運転性能 (III)」『電気鉄道』1968年5月号、pp.19 - 21。
  68. 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (IV)」『電気鉄道』1968年6月号、pp.18 - 21。
  69. 高橋金吾(国鉄運転局列車課)「電気車の運転性能 (V)」『電気鉄道』1968年8月号、pp.13 - 15。
  70. 宇津木弘(東京西局運転部電車課)「青梅・五日市線に103系電車を迎えて」『電車』1977年3月号、pp.37 - 40。
  71. 角野勇・春日井竹次(以上 国鉄大阪電気幸司局)「桜井線・和歌山線(王寺・五条間)及び草津線の電車線路設備の概要」『電気鉄道』1980年4月号、pp.13 - 17。
  72. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (1)」『電車』1981年2月号、pp.25 - 29。
  73. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (2)」『電車』1981年3月号、pp.18 - 23。
  74. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (3)」『電車』1981年4月号、pp.22 - 25。
  75. 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師)「電気車両の省エネルギー (4)」『電車』1981年5月号、pp.52 - 54。
  76. 島秀雄(宇宙開発事業団理事長)「電車列車の経済運転について」『電気車の科学』1982年7月号、pp.56 - 57。
  77. 加進昇(車両設計事務所電気車補佐)「界磁制御車両について(昭和58年度技術課題の成果)」『電車』1984年10月号、pp.18 - 23。
  78. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (1) -パソコンによる-」『電車』1986年1月号、pp.26 - 31。
  79. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (2) -パソコンによる-」『電車』1986年2月号、pp.15 - 21。
  80. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (3) -パソコンによる-」『電車』1986年3月号、pp.10 - 14。
  81. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (4) -パソコンによる-」『電車』1986年4月号、pp.16 - 20。
  82. 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課)「運転曲線の作成 (5) -パソコンによる-」『電車』1986年6月号、pp.23 - 28。
  83. 石川陽一(車両局設計課)「電力消費量の比較 山手線の205・103系」『電車』1987年3月号、pp.6 - 9。
  84. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (1)」『電車』1987年8月号、pp.31 - 37。
  85. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (2)」『電車』1987年9月号、pp.25 - 29。
  86. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (3)」『電車』1987年10月号、pp.24 - 29。
  87. 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課)「機器別シリーズ 電車用主電動機 (4)」『電車』1987年11月号、pp.19 - 26。
  88. 須永宏資・田部井賢夫(以上 JR東日本下十条運転区経済運転プロジェクトチーム)「経済運転実践の研究」『電車』1987年11月号、pp.21 - 29。
  89. 曽根悟(東京大学教授電気工学)「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、pp.20 - 23。
  90. 国井浩一(JR東日本運輸車両部運用課)「常磐線快速の15両化」『電車』1988年1月号、pp.24 - 27。
  91. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課)「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (1)」『電車』1988年5月号、pp.17 - 24。
  92. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課)「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (2)」『電車』1988年7月号、pp.33 - 39。
  93. 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課)「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (3)」『電車』1988年8月号、pp.49 - 57。
  94. 曽根悟(東京大学教授電気工学)「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、pp.28 - 29。
  95. 曽根悟(工学院大学電気工学科教授)「私鉄高性能車は何をもたらしたか」『鉄道ピクトリアル』2003年1月号、pp.10 - 18。
  96. 日本規格協会「JIS E 4001 鉄道車両用語:1999」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.957 - 1032。
  97. 日本規格協会「JIS E 6002 通勤用電車の性能通則:1989」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.2026 - 2030。

国鉄資料

[編集]
  1. 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1964年
  2. 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1971年3月
  3. 車両設計事務所『電車性能曲線』1962年
  4. 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1964年2月
  5. 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1969年3月
  6. 車両設計事務所『電気機関車性能曲線』1962年
  7. 車両設計事務所『新性能電車用主電動機』1968年3月
  8. 運転局『電車気動車加速力曲線』1966年
  9. 運転局『速度定数便覧』1972年

参考資料

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運転・設備・理論に関わるもの

[編集]
  1. 福崎直治(国鉄工作局)・沢野周一(国鉄工作局)『電車と電気機関車』岩波書店、1964年4月30日
  2. 川島泰太郎(国鉄東鉄局運転部電車課)『電車運転曲線と操縦理論』交友社、1955年6月25日
  3. 竹崎確(国鉄技師長室)『運転総論』ヘッドライト社、1967年12月1日
  4. 運転設備研究会編(国鉄運転局 明本昭義ほか24名)『運転設備』日本鉄道運転協会、1973年3月25日
  5. 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道(改訂版)』電気学会、1964年5月25日(12版)
  6. 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道ハンドブック』電気学会、1962年9月20日
  7. 内田富彦(国鉄運転局列車課)『輸送計画論』交通書房、1956年8月10日
  8. 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 理論編』日本鉄道図書、1964年12月25日
  9. 吉江一雄(元国鉄輸送局設備課)『電車輸送と建設』交友社、1981年5月1日(再版)
  10. 井上進(元JR東日本運輸車両部輸送課長)ほか7名『列車ダイヤと運行管理』成山堂書店、2008年11月28日
  11. 大沢健(国鉄東京鉄道管理局運転部調査課)『目で見てわかる運転取扱規程技術図典』交友社、1968年6月20日(改訂再版)
  12. 電車運転理論研究会編(関東鉄道学園運転第一科長 一杉治夫ほか2名)『電車運転理論』交友社、2006年8月30日(24版)

歴史に関わるもの

[編集]
  1. 佐藤信之(亜細亜大学講師)『首都圏の国電 戦後の発展史』グランプリ出版、2005年6月20日
  2. 佐藤信之(亜細亜大学講師)『東京圏鉄道プロジェクト 都市鉄道整備の展開』電気車研究会、1995年1月10日

構造に関わるもの

[編集]
  1. 菊池直助(元中央鉄道学園運転第2課長)ほか9名『直流電車』交友社、1965年3月1日(新訂改版)
  2. 松田新市『高速度電動機と駆動装置』電気車研究会、1958年6月25日
  3. 入江則公(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両の基礎理論』1984年10月1日(再版)
  4. 川添雄司(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両概論』電気車研究会、1971年12月1日
  5. 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 構造編1』日本鉄道図書、1964年9月20日
  6. 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか15名『電車運転工学 構造編2』日本鉄道図書、1966年7月1日
  7. 関東鉄道学園電車研究会『直流用新形電車教本』交友社、1986年3月8日(改訂増補12版)
  8. 国鉄大井工場電車修繕研究会編『電車の修繕』交友社、1969年7月15日(改訂再版)
  9. 『鉄道技術研究所80年史』日本国有鉄道鉄道技術研究所、1987年3月31日
  10. 浅野幸夫(国鉄運転局車務課課長補佐)ほか4名『車両用無接点装置の基礎と応用』交友社、1972年2月18日(4版)
  11. 久保田博(国鉄小倉工場長)『最新鉄道車両工学』交友社、1972年12月10日(改訂4版)
  12. 杉山武史(国鉄鉄道技術研究所)ほか26名『鉄道車両と設計技術』大河出版、1980年12月15日

鉄道会社の経営等全般に関わるもの

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  1. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1960』日本国有鉄道、1960年
  2. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1961』日本国有鉄道、1961年
  3. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1963』日本国有鉄道、1963年
  4. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1964』日本国有鉄道、1964年
  5. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1965』日本国有鉄道、1965年
  6. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1966』日本国有鉄道、1966年
  7. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1967』日本国有鉄道、1967年
  8. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1968』日本国有鉄道、1968年
  9. 日本国有鉄道広報部『国鉄メモ1969』日本国有鉄道、1969年
  10. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 昭和34年版』日本国有鉄道、1959年10月
  11. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 昭和37年版』日本国有鉄道、1962年10月14日
  12. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1963 昭和38年版』日本国有鉄道、1963年10月14日
  13. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1964 昭和39年版』日本国有鉄道、1964年10月14日
  14. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1965 昭和40年版』日本国有鉄道、1965年12月20日
  15. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1966 昭和42年版』日本国有鉄道、1966年10月14日
  16. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1967 昭和42年版』日本国有鉄道、1967年10月14日
  17. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1968 昭和43年版』日本国有鉄道、1968年10月1日
  18. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1969 昭和44年版』日本国有鉄道、1969年10月5日
  19. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1970 昭和45年版』日本国有鉄道、1970年10月1日
  20. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1971 昭和46年版』日本国有鉄道、1971年10月1日
  21. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1972 昭和47年版』日本国有鉄道、1972年10月1日
  22. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1973 昭和48年版』日本国有鉄道、1973年10月30日
  23. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1974 昭和49年版』日本国有鉄道、1974年10月1日
  24. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1975 昭和50年版』日本国有鉄道、1975年10月1日
  25. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1976 昭和51年版』日本国有鉄道、1976年10月1日
  26. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1977 昭和52年版』日本国有鉄道、1977年10月20日
  27. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1978 昭和53年版』日本国有鉄道、1978年10月30日
  28. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1979 昭和54年版』日本国有鉄道、1979年10月14日
  29. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1980 昭和55年版』日本国有鉄道、1980年10月14日
  30. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1981 昭和56年版』日本国有鉄道、1981年
  31. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1982 昭和57年版』日本国有鉄道、1982年12月1日
  32. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1983 昭和58年版』日本国有鉄道、1983年12月15日
  33. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1984 昭和59年版』日本国有鉄道、1985年1月30日
  34. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1985 昭和60年版』日本国有鉄道、1985年10月14日
  35. 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1986 昭和61年版』日本国有鉄道、1986年10月14日
  36. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 30年版』交通協力会、1955年3月10日
  37. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 31年版』交通協力会、1956年3月10日
  38. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 32年版』交通協力会、1957年3月15日
  39. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1961』交通協力会、1961年3月20日
  40. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1962』交通協力会、1962年3月20日
  41. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1963』交通協力会、1963年3月20日
  42. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1964』交通協力会、1964年3月20日
  43. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1965』交通協力会、1965年3月20日
  44. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1966』交通協力会、1966年3月20日
  45. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1967』交通協力会、1967年3月20日
  46. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1968』交通協力会、1968年3月20日
  47. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1969』交通協力会、1969年3月15日
  48. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1970』交通協力会、1970年2月20日
  49. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1971』交通協力会、1971年3月1日
  50. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1972』交通協力会、1972年3月20日
  51. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1974』交通協力会、1974年3月20日
  52. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1975』交通協力会、1975年3月20日
  53. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1976』交通協力会、1976年3月10日
  54. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1977』交通協力会、1977年3月10日
  55. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1978』交通協力会、1978年3月10日
  56. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1979』交通協力会、1979年3月15日
  57. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1981』交通協力会、1981年3月15日
  58. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1982』交通協力会、1982年3月15日
  59. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1983』交通協力会、1983年3月15日
  60. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1984』交通協力会、1984年3月15日
  61. 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1985』交通協力会、1985年3月15日
  62. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1988』交通協力会、1988年3月15日
  63. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1989』交通協力会、1989年3月15日
  64. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1990』交通協力会、1990年3月15日
  65. 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1991』交通協力会、1991年3月15日
  66. 国土交通省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 2004』交通協力会、2004年3月25日

外部リンク

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  1. ^ 地球環境保全への貢献”. 東海旅客鉄道. 2023年11月29日閲覧。