後桜町天皇
後桜町天皇 | |
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御歴代百廿一天皇御尊影より | |
即位礼 | 1763年12月31日(宝暦13年11月27日) |
大嘗祭 | 1764年11月30日(明和元年11月8日) |
元号 |
宝暦 明和 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 | 徳川家治 |
先代 | 桃園天皇 |
次代 | 後桃園天皇 |
誕生 | 1740年9月23日(元文5年8月3日) |
崩御 | 1813年12月24日(文化10年閏11月2日) |
陵所 | 月輪陵 |
追号 |
後桜町院 (後桜町天皇) |
諱 | 智子 |
称号 |
以茶宮 緋宮 |
父親 | 桜町天皇 |
母親 | 藤原舎子 |
皇居 | 平安宮(京都御所) |
親署 | |
皇室史における最後の女性天皇である。 |
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、1740年9月23日〈元文5年8月3日〉- 1813年12月24日〈文化10年閏11月2日〉)は、日本の第117代天皇(在位: 1762年9月15日〈宝暦12年7月27日〉- 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉)。諱は智子(としこ)[注釈 1]、幼名は以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)。
第115代桜町天皇の第二皇女。母は関白左大臣二条吉忠の女で桜町女御の二条舎子(青綺門院)。同母姉に早世した盛子内親王、異母弟に第116代桃園天皇。2024年(令和6年)現在、皇室史における最後の女性天皇である。
生涯
[編集]皇女・皇姉時代
[編集]元文5年(1740年)、桜町天皇と、その正妻女御舎子(のちの青綺門院)の間の嫡出腹の皇女として生まれた。舎子には皇子がなく、典侍定子(姉小路実武の娘)が生んだ皇子の八穂宮(のち茶地宮、遐仁親王、桃園天皇)が、舎子の「実子」として迎えられ、その御所で育てられた。
延享4年(1747年)、父桜町天皇の譲りを受けて異母弟の遐仁親王(桃園天皇)が即位。寛延3年(1750年)3月、11歳となった緋宮に内親王宣下があり「智子」と名付けられたが、翌月に父桜町上皇が崩御した。これにより、母の舎子は10歳の幼い天皇を「実母」として後見する立場となった。同年10月、幕府より青綺門院舎子に1000石の御料増地があり、あわせて智子内親王に300石の御料進献があった。成人前の皇女へ所領が進献されることは稀であり、朝廷は智子内親王を比丘尼御所に入寺させることは考えていなかったようである[1]。
天皇時代
[編集]宝暦12年(1762年)、異母弟桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた宝暦事件では、天皇が幼い頃から自分に付き従っていた側近たちを擁護して側近の追放を要請した摂関家との対立関係に陥ったことから、英仁親王が即位した場合に同じ事態が繰り返されることが憂慮された。このため、五摂家の当主ら[注釈 2]が秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したのである。ただし、英仁親王の即位が回避された背景については研究者の間でも意見に多少の違いがあり、幼帝の即位によって新たな側近衆の台頭を警戒したという説[2]、英仁親王への直系継承を支える仙洞(太上天皇)の存在が必要とされたからだという説[3]、英仁親王の養育に生母である一条富子の関与を求めた(当時の慣例では天皇と母后は同居しないことになっており、英仁が即位すると富子が養育に関われなくなる)からだという説[4]が出されている。
なお、この智子内親王を皇位継承者とした決定には、公家から強い批判と不満がわき起こった[5]。当時、左近衛権少将の野宮定晴は、この決定は「稀代の珍事、古今未曾有の事」であり、女帝の例は古代にあったがその後はないし、明正天皇の例は「末世奇代の例」なので先例たり得ないとし、儲君の英仁親王がいるにもかかわらず女帝を選択するのは「古今類なし、ひとえにこれ新儀」であり、「ああ末代王道衰弊の時」と嘆き、さらに「弟帝宝位を姉兄に譲る御事、また未だ聞かず」と批判を加え、「心神裂けるがごとく」(『定晴卿記』)と怒りを書き留めた[6]。
また、この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。こうして、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。
即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された。女帝の礼服(即位用の正装)と束帯(通常の正装・男帝の黄櫨染に相当)は明正天皇の例に従って白の無地を用いた[注釈 3]。礼服はほぼ男子の礼服に準じた形式で(纐纈裳が加わる)、束帯は裳唐衣五衣のいわゆる十二単であった。明正天皇の時にはまだ復興していなかった大嘗祭・新嘗祭の装束としては、御斎服・帛御服があるが、前者は男子同様の仕立てで髪型が大垂髪であることだけが異なり、後者は白平絹の裳唐衣五衣である。普段は大腰袴姿であった[7]。
代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御は譲位直前の1度だけであった。また庭上に降りる四方拝も、御座は設けるものの出御に及ばない例であった。基本的には男帝と同じ儀礼をこなしながらも、種々の便宜上出御を見合わせることも多かったようである[8]。なお、譲位後は色物の装束を着用しており、その控え裂が國學院大學に所蔵されている。
太上天皇として
[編集]在位9年の後、明和7年11月(西暦1771年1月)、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。
しかし安永8年(1779年)、皇子を残さぬまま後桃園天皇は崩御した。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとした[注釈 5]が、結局現関白九条尚実の推す典仁親王六男、9歳の祐宮(師仁、兼仁、光格天皇)に決まった。
皇統の傍流への移行以後も、後桜町上皇は幼主をよく輔導したといわれる。上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに寛政元年(1789年)の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭した[9]ことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。
天明2年(1782年)、天明の京都大火に際しては青蓮院に移り、ここを粟田御所と号した[注釈 6]。生母青綺門院の仮御所となった知恩院との間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。
天明7年(1787年)6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた[10]。
晩年は母方の実家として自分を支えた二条家の当主である左大臣二条治孝を関白に就けることを望んだ。しかし、治孝は関白としては「非器」とみなされて、朝廷・幕府両方から現任の鷹司政煕の慰留が行われ、最終的に後桜町上皇の崩御によって阻止されることになった[11]。
文化10年(1813年)、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。
文化人(歌人)
[編集]古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した。和歌の他にも漢学を好み、譲位後、院伺候衆であった唐橋在熙・高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。
系譜
[編集]後桜町天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
[編集]114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ はじめ智子を“さとこ”と訓じたが、霊元天皇諱の識仁(さとひと)と音が通うため、践祚後の宝暦12年7月29日“としこ”に改めた。
- ^ 近衛家から内前・師久、鷹司家から輔平、一条家から輝良、九条家から尚実。二条家当主で12歳の重良は不在。
- ^ なお、明正天皇の礼服は白生絹であったが、後桜町天皇の礼服は男帝の礼服の生地である龍文(無文の綾地綾)であった
- ^ なお、大腰袴は女官の服装といわれることが多いが、武家で徳川宗家・御三家・御三卿の正妻などの礼装のひとつ「袴着掻取」に用いることからわかるように、高貴な女性が小袖の上に袴を着てその上に袿などの装束を用いないときに使用する袴である。『後桜町天皇宸記』の天皇の即位以前の時期の記事に、さまざまな模様の小袖とともに袴を着た記事があるが、これも大腰袴の着用を示すとみてよい。
- ^ この時の伏見宮当主は18代邦頼親王。邦頼親王の長男の嘉禰宮(5歳)が候補に挙がった。
- ^ この時、光格天皇は聖護院を仮御所とし、恭礼門院は妙法院をそれぞれ行宮とした。
出典
[編集]- ^ 服藤早苗編『歴史の中の皇女たち』(小学館、2002年12月1日) pp. 122-123
- ^ 久保貴子「上皇・天皇の早世と朝廷運営―朝幕関係の展開―」(『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年)
- ^ 野村玄「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」(『日本歴史』701号、2006年)
- ^ 石田俊「近世朝廷における意思決定の構造と展開」(『日本史研究』618号、2014年)
- ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』(講談社、2011年6月24日) p.163
- ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』(講談社、2011年6月24日) pp. 163-164
- ^ 『旧儀御服記』ほか[注釈 4]。
- ^ 『続史愚抄』ほか。
- ^ BUSHOO!JAPAN (2023年8月3日). “最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由~現代皇室にも影響有り”. BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン). 2023年11月12日閲覧。
- ^ 八條忠基『有職植物図鑑』株式会社平凡社、2022年11月28日 。
- ^ 長坂良宏『近世の摂家と朝幕関係』(吉川弘文館、2018年2月20日) pp. 148-155
参考文献
[編集]- 宮内省図書寮 編『後桜町天皇実録』全4巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4-8433-2036-6
- 所 京子「後桜町女帝年譜稿」(『史窓』第58号、2001年2月) p353 - p363
- 所 京子「後桜町上皇年譜稿」(『岐阜聖徳学園大学紀要 外国語学部編』第40集、2001年3月) p92 - p116
- 野村 玄「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」(『日本歴史』701号、2006年) p69 - p84
- 藤田 覚『江戸時代の天皇』(講談社、2011年) ISBN 978-4-06-280736-4
外部リンク
[編集]- 京都大学歴史研究会 - 後桜町天皇
後桜町天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 桃園天皇 (遐仁) |
皇位 第117代天皇 1762年9月15日 - 1771年1月9日 宝暦12年7月27日 - 明和7年11月24日 |
次代 後桃園天皇 (英仁) |