利用者:桂鷺淵/寛政譜/d01
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- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 巻580~巻769を収録
- 国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/2
巻588-
[編集]巻第五百八十八
[編集]橘氏 |
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難波親王以来の橘氏の系譜。橘諸兄、楠木正成を経て安土桃山時代の楠木正虎に至る。
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旧刊本 34 |
§588-1
[編集]甲斐庄 庄五郎 正憲 |
考証あり。『寛永譜』では楠正成の後裔を称するが世系不明。今の呈譜に、正成の弟の楠正季が祖先で、正季は兄・正氏の家を継いだ。正季の三代の孫・正繁が河内国錦部郡甲斐庄に住して家号とした。正繁の九代の孫が備前俊正であるとする。按文では、官本の系図に正氏の子弟に正季が見られないとし「考ふべからず」と評価している。
甲斐庄正治が浜松で家康に仕える。正房は大坂の陣で功績を挙げ、旧領河内国錦部郡で2000石。正親は町奉行などを務め、4000石に加増。
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旧刊本 35 |
§588-2
[編集]会田 伊右衛門 資益 |
今の呈譜では滋野氏の一族と称し、滋野重道が信濃国小県郡海野村に住し、その子孫海野幸持が会田郷に住したことから家名としたという。按文は、滋野系真田氏の系図に会田を称する者は見られるが、重道・幸持の名が見られないとしている。
会田資久はもと北条家臣で、北条家没落後に武蔵国越谷に住し、家康・秀忠らが鷹狩の際に用いる御殿(越谷御殿)をその宅地に建設し、屋敷地として畑1町を賜る。資勝は家康に仕える。
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旧刊本 36 |
巻第五百八十九
[編集]§589-1
[編集]長谷川 ―― |
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旧刊本 37 |
§589-2
[編集]長谷川 |
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旧刊本 37 |
§589-3
[編集]長谷川 |
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旧刊本 38 |
§589-4
[編集]長谷川 |
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旧刊本 39 |
§589-6
[編集]紅林 |
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旧刊本 40 |
§589-5
[編集]紅林 |
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旧刊本 40 |
巻第五百九十
[編集]§590-1
[編集]山田 |
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旧刊本 41 |
§590-2
[編集]山田 |
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旧刊本 41 |
§590-3
[編集]山田 |
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旧刊本 42 |
§590-4
[編集]野尻 |
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旧刊本 42 |
§590-5
[編集]松井 ―― |
庶流よりの呈譜によれば、松井冠者源維義の末裔の松井山城守義行が今川氏親に仕え、二俣城に住したという。宗保は宗行の三代の孫という。
松井宗直が今川家没落後に徳川家康に仕え、関ヶ原合戦や大坂の陣に従軍。 |
旧刊本 43 |
§590-6
[編集]松井 十左衛門 信成 |
松井宗利(590-5)の三男・宗武が甲府徳川家に仕える | 旧刊本 43 |
§590-7
[編集]松井 三郎右衛門 保明 |
松井宗直(590-5)の二男・宗次が家康に召し出され、父の采地から200石を分与。宗重は駿河大納言忠長に附属、のち家光に召されて御宝蔵番となり旧知を与えられる。
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旧刊本 44 |
巻第五百九十一
[編集]§591-1
[編集]浅井 六之助 道利 |
呈譜によれば祖先は河内国田中村に住した田中伯耆守政弘。その9代の孫・伯耆守宗兼は近江国八幡山、ついで西三河浅井村に移住し浅井六之助忠清と改名したという。道忠はその4代孫と称す。
浅井道忠ははじめ桜井松平家(5-1)に属す。その後、伯父浅井範光 六郎三郎 に従い水野信元の許にあったが、桶狭間の合戦後に信元の命を受け、義元戦死の情報を大高城の家康に伝え、三河帰国の嚮導を務める。騎馬同心を預けられ、小栗吉忠とともに「三遠奉行」を務める。道多は駿河大納言忠長に附属されるが、忠長改易にともない細川興昌に預けられ、江戸に召し出される途上で死去(寛永11年)。子の政道はこれより先に大番として出仕(寛永9年没)。 |
旧刊本 44 |
§591-2
[編集]浅井 吉次郎 忠胤 |
浅井道忠(591-1)の二男・忠吉の系統。忠政が徳川秀忠に出仕。 | 旧刊本 45 |
§591-3
[編集]浅井 織部 成長 |
浅井忠政(591-2)の二男・成正が徳川家光に出仕。
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旧刊本 46 |
§591-4
[編集]黒田 左京 直儀 |
もと今川家臣。今の呈譜によれば祖の信濃守定綱は「大橘」を称し、その子広綱が黒田に改めたという。黒田光綱は三河国八名郡黒田郷に住し、今川氏真に仕えたのち家康に出仕、高井貞重とともに奥方の番を務めるという。お六の方(養儼院)は家康最晩年の側室。
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旧刊本 47 NDL写本 * |
巻第五百九十二
[編集]§592-1
[編集]大平 角十郎 俊房 |
もとは大平氏であったが、俊家が近江国甲賀郡岩室に住したため岩室を称した。甲賀に幽居した家次が大平に復したという。俊堅は九鬼嘉隆・池田秀雄・青山忠成らのもとにあり、のち徳川秀忠に出仕。関ケ原の戦いの際には甲賀において徳川方の一揆を組織。大坂の陣で功績を挙げた。 | 旧刊本 48 |
§592-2
[編集]牧 ―― |
呈譜によれば、斯波高経の子孫・義長が津川姓を称する。長治(正勝)はその二男といい、母方の姓を名乗るという。
牧正勝は尾張国長久手に住する。長正は家康に仕え、三方ヶ原の戦いで戦傷死。長勝は徳川家から滝川一益家臣に移って天目山の戦いに参加、その後徳川家に召し返される。 |
旧刊本 49 NDL写本 * |
§592-3
[編集]牧 助右衛門 義珍 |
牧長重(592-2)の二男・長高が召し出されて家を立てる。
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旧刊本 50 NDL写本 * |
§592-4
[編集]井関 乙三郎 親興 |
今の呈譜では菅原氏を称する。
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旧刊本 50 NDL写本 * |
§592-5
[編集]山中 平吉 輔俊 |
●山中某 備前守-●山中勝俊-●山中兼俊-●山中某 紀伊守-●山中為俊-●山中長俊 ⇒ |
旧刊本 51 |
巻第五百九十三
[編集]§593-1
[編集]今大路 中務大輔 正庸 |
医師曲直瀬道三・曲直瀬玄朔の家で、江戸幕府のもとで典薬頭を世襲。呈譜によれば宇多源氏(佐々木氏)で、佐々木成頼(源成頼)……馬淵広貞-堀部成綱……堀部親真-曲直瀬正盛(道三)と続くという。親清は禁裏から橘の姓と今大路の称号を下賜される。
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旧刊本 53 |
§593-2
[編集]曲直瀬 養安院 正雄 |
曲直瀬道三の弟子・曲直瀬正琳を祖とする。曲直瀬養安院を称する。今の呈譜によればもとは一柳氏で、一柳宣高(603-1)の末孫・恕心の子が正琳という。 | 旧刊本 55 |
§593-3
[編集]岡本 啓迪院 介寿 |
曲直瀬道三の弟子・岡本諸品(岡本玄冶)を祖とする。道三より「啓迪」の庵号を譲られ、代々「啓迪院」を称する。 | 旧刊本 56 |
§593-4
[編集]―― |
福富平左衛門家貞が家康に仕え3000石、2人の息子が2500石と500石で相続。長男の平左衛門は知行地での苛政・家臣への無道を理由に采地収公・追却。二男の家は息子の兵部が酒乱を理由として佐竹義都に召し預けられる。その息子の虎之助が赦免を受ける。 | 旧刊本 57 |
巻602:河野
[編集]巻第六百二
[編集]越智氏 |
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§602-1
[編集]河野 ―― |
彦狭島命にはじまる越智氏の系図。河野通清を経て、安土桃山時代の河野通直に至る。 | 旧刊本 82 |
巻603-604:一柳
[編集]巻第六百三
[編集]越智氏(河野庶流) |
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§603-1
[編集]一柳 ―― |
伊予西条藩主一柳家。 家祖の一柳宣高は河野通直の子であるとする。 |
旧刊本 86 |
§603-2
[編集]一柳 献吉 直郷 |
一柳直重(603-1)の二男・一柳直照が父の遺領から分知5000石を受ける
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旧刊本 87 |
巻第六百四
[編集]§604-1
[編集]一柳 土佐守 末英 |
播磨小野藩主家。一柳直盛(603-1)の次男・一柳美作守直家は父の領地より播磨加東郡で5000石分知。父の死後、遺領より播磨加東郡・伊予2郡(宇摩・周敷)で2万3600石を分知されて計2万8600石の大名になり、播磨国小野に住す〔この際には伊予川之江藩。一柳直家参照〕。直次への継承が末期養子の禁に抵触し、伊予1万8600石を収公され、播磨加東郡1万石の相続と家督相続が認められる。 | 旧刊本 88 |
§604-2
[編集]一柳 兵庫 頼親 |
伊予小松藩主家。一柳直盛(603-1)の三男・一柳蔵人直頼が、父の遺領から1万石を与えられる。 | 旧刊本 89 |
§604-3
[編集]一柳 ―― |
一柳直盛(603-1)の五男・一柳正三郎直澄ははじめ家臣神山長左衛門の養子となるが、伊勢神戸を去って浪人となり、甲府徳川家に仕える。直正のとき幕臣となる。勘之丞直里のとき、届け出の不正・賭博・家内取締不行届・遊興などが罪に問われ改易。 | 旧刊本 89 |
巻605:久留島
[編集]巻第六百五
[編集]§605-1
[編集]久留島 祥丸 通嘉 |
はじめ村上を称し、通総のとき来島、通春のとき久留島に改める。 清和源氏の信濃村上氏である可能性が高いが、寛永譜の通り河野庶流に配列するという。 通康は河野弾正少弼通直の婿となり、河野家を継ぐ。その後、弾正少弼通直の三男四郎通直に河野家の家督を譲る。
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旧刊本 90 |
§605-2
[編集]久留島 数馬 通在 |
久留島通春の二男・久留島出雲守通貞にはじまる家。 | 旧刊本 92 |
巻606-610:稲葉
[編集]巻第六百六
[編集]越智氏(河野支流) |
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§606-1
[編集]稲葉 能登守 弘通 |
河野氏出身の備中守通貞(塩塵)が美濃に移り稲葉を氏としたとされる。
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旧刊本 93 |
巻第六百七
[編集]§607-1
[編集]稲葉 百助 通碩 |
稲葉一通(606-1)の四男・稲葉庄右衛門通任が起した家。 | 旧刊本 99 |
§607-2
[編集]稲葉 伊織 通生 |
稲葉貞通の三男・稲葉修理亮通孝(母は織田信秀の娘)が、父の臼杵領内で1万4050余石を分知されるが、「故ありて」伏見を退去し所領は宗家の稲葉典通に収められる。稲葉通照は父の死後宗家のもとにあったが幕府に出仕。 | 旧刊本 99 |
§607-3
[編集]稲葉 ―― |
稲葉通照の二男・稲葉勘右衛門通政の起した家。稲葉彦七郎より系嗣不詳 | 旧刊本 100 |
§607-4
[編集]稲葉 ―― |
稲葉一鉄の長男・稲葉兵庫頭重通の家。「この家二家にわかれ、嫡流通重、庶流紀通がときにいたりて家たゆ」
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旧刊本 100 |
巻第六百八
[編集]§608-1
[編集]稲葉 丹後守 正諶 |
稲葉重通の養子(実は林惣兵衛政秀の子、母は安藤丹後守某の娘)・稲葉佐渡守正成が起した家。
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旧刊本 102 |
巻第六百九
[編集]§609-1
[編集]稲葉 ―― |
稲葉正則の二男・稲葉駿河守正倚が起した家。御書院番頭などを務め4000石を知行したのち、父の遺領から分知の7000石に置き換えられる。正恒が宗家を相続し采地収公。
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旧刊本 107 |
§609-2
[編集]稲葉 播磨守 正武 |
安房館山藩主家。稲葉正則の三男・稲葉備前守正員の立てた家。はじめ母方の毛利姓を称する。家綱に仕え中奥に候し1000俵を給されたが、病により致仕。父の死後、遺領から3000石を分置され、稲葉姓に復す。稲葉正明が御側を務め、加増を受けて大名に列する。 | 旧刊本 107 |
§609-3
[編集]稲葉 主水 正芳 |
稲葉正則の四男・正辰が、父の遺領から3000石を分知されて立てた家。 | 旧刊本 108 |
§609-4
[編集]稲葉 ―― |
稲葉正則の五男・稲葉下野守正直が、父の遺領から2000石を分けられて立てた家。 | 旧刊本 109 |
§609-5
[編集]稲葉 新太郎 通義 |
稲葉正則の八男・通周が、兄の領地から新田1000石を分けられて立てた家 | 旧刊本 109 |
巻第六百十
[編集]§610-1
[編集]稲葉 大膳 正順 |
稲葉正成の二男・稲葉八左衛門正次の立てた家。正次が没した際に正能・正定兄弟は幼少であり、祖父正成の請うところにより、青野5000石は正成の十男・正吉に与えられ、正能兄弟は正成に養育される。従弟の稲葉正則が、父の正勝が遺言したこととして、新田分3000石を分知。 | 旧刊本 110 |
§610-2
[編集]稲葉 主税 正朝 |
稲葉正能の三男・正之が建てた家 | 旧刊本 110 |
§610-3
[編集]稲葉 喜太郎 正陽 |
稲葉正次の二男・稲葉正貞の立てた家。従弟の稲葉正則が、父の正勝が遺言したこととして、2000石の分地を受ける | 旧刊本 110 |
§610-4
[編集]稲葉 ―― |
稲葉正成の十男・正吉の立てた家。兄・正次の遺領である美濃青野5000石を継承。 | 旧刊本 110 |
巻611-614:河野
[編集]巻第六百十一
[編集]§611-1
[編集]越智氏(河野庶流) |
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河野 長之助 通顕 |
室町時代前期の伊予守護・河野通之の末裔と称する(予州家)。河野通之―河野通元―河野通春―河野通安と続き、河野通安の子の河野通房が甲斐に赴いて武田家に仕えたという。 河野盛政(盛利・通泰)が武田家滅亡後徳川家康に仕える。
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旧刊本 112 |
§611-2
[編集]河野 主税 利通 |
河野通利(611-1)の二男・河野三左衛門通良が小十人から旗本になる。河野伝七郎通重(通良の実子)は義兄(通良の養子)の通常に200俵を分け、200石を継承、のち加増を受ける。
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旧刊本 113 |
§611-3
[編集]河野 亀次郎 通古 |
河野源兵衛通常は河野通良(611-2)の養子。通良にはのち実子の通重が生まれる。通良は通常に家督を継がせることを望んだが通常が固辞したといい、200俵を分けられて別家(それ以前に大番として与えられていた200俵は収められる)。 | 旧刊本 114 |
§611-4
[編集]河野 善十郎 通成 |
河野権右衛門通重は河野盛政(611-1)の二男。通重は駿府で家康に小姓として仕えたが、刃傷事件を起こした秋元長八郎をかくまい駿府から退去し、家康の勘気を受けて蟄居。大坂の陣の際に井伊直孝の陣に加わって戦功をあげ、勘気を許されたという経歴を持つ。大番から御鉄炮頭に進む。その後、配下の同心たちが町人に家を貸したり商売を行っていることが鷹狩中に徳川家光に見とがめられ、閉門処分。のちに勘気を許され、御鉄炮頭に復帰。 河野権右衛門通成(今の呈譜では河野通定)は弟に300石を分け、1200石を知行。御書院番士・御使番から長崎奉行・大目付に進むが「その勤めに応ぜざるにより職を奪われ出仕をとどめられ」る。 河野権九郎通護は御使番となるが、綱吉が紅葉山東照宮に参詣して帰ってきた際に「拝謁すべきの席にあらざりし事」により出仕停止、のち小普請に落とされる。
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旧刊本 114 |
巻第六百十二
[編集]§612-1
[編集]河野 ―― |
河野新太郎照長は通政の二男(ただし、兄の盛政との出生順に疑義がある)。武田勝頼に仕えたのち徳川家康に仕える。 庄右衛門照盛・照辰の父子は駿河大納言忠長に附属、忠長改易後にともに松平(池田)輝澄に預けられて播磨に住する。ともに赦免を受けるが、照辰が無嗣により絶家。
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旧刊本 116 |
§612-2
[編集]河野 仙太郎 通任 |
河野庄大夫照良は河野照盛(612-1)の長男、秀忠に召し出されて大番となり別家。
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旧刊本 116 |
§612-3
[編集]河野 八左衛門 通昭 |
河野八左衛門通親は、河野照盛(612-1)の三男。
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旧刊本 117 |
§612-4
[編集]河野 末五郎 通顕 |
河野照良(612-2)の二男・河野七右衛門通虎が召し出されて小十人となる。
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旧刊本 117 |
§612-5
[編集]河野 十郎左衛門 通馨 |
河野九郎左衛門通直は河野照盛(612-1)の四男。
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旧刊本 117 |
巻第六百十三
[編集]§613-1
[編集]河野 吉次郎 通亮 |
『寛永系図』によれば一遍(俗名を河野四郎通治とする)の末裔という家伝のある家。今の呈譜では河野左京大夫通宣の子孫という。 河野新兵衛通勝は織田信長に仕え、その子の新七郎通俊が豊臣秀吉を経て徳川家康に仕え、「御鷹のことをつとめ」る。河野通則のとき領知朱印状を与えられる(山城国吉祥院村が知行地の一つで、通則はここで没している)。
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旧刊本 118 |
§613-2
[編集]河野 頼母 利置 |
河野通清の末裔を称し、今の呈譜に通清八代の孫・河野壱岐守通遠の子孫という。河野藤左衛門氏吉は織田信長に仕え、熱田で人質生活をしていた徳川家康にひそかに百舌鳥を進呈したという。のち織田信雄から豊臣秀吉に仕え、その後は越後国に住していたが、関ケ原の合戦の際に徳川家康に召し出されたという。氏吉の二男・氏房は村上義明(村上頼勝)に仕え、その子にあたる氏勝も村上家に仕えていたが「元和四年に村上義明が所領を没収された際に」(同年は村上藩主村上忠勝(頼勝嗣子)が改易されている)徳川秀忠に召し出されて幕臣となる。
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旧刊本 119 |
§613-3
[編集]河野 久太郎 通美 |
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旧刊本 119 |
§613-4
[編集]河野 権兵衛 映通 |
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旧刊本 120 |
巻第六百十四
[編集]§614-1
[編集]河野 松庵 通久 |
家伝に河野刑部大輔通宣の子孫という。
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旧刊本 120 |
§614-2
[編集]河野 勘右衛門 通秀 |
河野豊前守通重は大蔵卿通宗(614-1)の子。寿林尼の養子となる。 | 旧刊本 122 |
巻615:庵原
[編集]巻第六百十五
[編集]§615-1
[編集]越智氏 |
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庵原 |
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旧刊本 123 |
§615-2
[編集]庵原 |
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旧刊本 123 |
§615-3
[編集]庵原 |
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旧刊本 123 |
§615-4
[編集]庵原 |
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旧刊本 124 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “元和四 幕府、越後村上義明の所領を没収し、その家臣河野氏勝を御家人となし”. 信濃史料 巻二十二 元和元年(1615)~. 2022年9月11日閲覧。