コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

今大路道三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曲直瀬玄鑑から転送)
 
今大路道三
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 天正5年(1577年
死没 寛永3年9月19日1626年11月7日
改名 親純→親清(諱)
別名 玄鑑(号[1][2][注釈 1]、亀渓(字[1])、兵部大輔[2][注釈 2]
墓所 早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本)
官位 従五位下典薬助
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠
氏族 曲直瀬氏(曲直瀬今大路家)
父母 父:曲直瀬玄朔(二世道三)
母:初代曲直瀬道三の養女[3]
兄弟 女子(曲直瀬正琳妻)、親清(玄鑑、三世道三)、曲直瀬玄益、女子(片山延康妻)、女子(曲直瀬正因妻→岡本諸品妻)、女子(浦野与一郎妻→田中清六妻)、女子(岡野井氏妻)、女子
渡辺宮内少輔某の娘[3]
祐知[注釈 3]、女子(石尾治昌妻)、親昌(玄鎮、四世道三)、女子(後藤広世[注釈 4]妻)、女子(古田重弘妻)、女子(真瀬玄隆妻)
テンプレートを表示

今大路 道三(いまおおじ どうさん)は、安土桃山時代江戸時代医師[1][2]曲直瀬玄朔(二世道三)の子。名は親純、親清[1][3]、号は玄鑑[1][2]後陽成天皇より今大路の家名を賜り[3]、剃髪してのちに道三と称する[3](三世道三[2])。曲直瀬玄鑑[4]の名でも呼ばれる。今大路家は、初代曲直瀬道三の門人が興した曲直瀬各家の宗家となり[2][5]、道三を襲名して代々幕府の典薬頭(奥医師の上席)となった[5]

略歴

[編集]

父は曲直瀬玄朔(二世道三)。母は初代曲直瀬道三の養女[3](実の孫娘[5])。父より医術を学ぶ[1][6]

幼少より徳川秀忠に小姓として仕える[3]天正20年(1592年)2月28日、16歳の時に従五位下典薬助に任じられて昇殿を許され[3]後陽成天皇に拝して姓と今大路の家号を賜った[1][3]。その後剃髪し、僧位慶長4年(1599年)12月28日に法眼、慶長13年(1608年)4月5日に法印に昇った[3]

慶長13年(1608年)に徳川秀忠より700石の知行地(上総国武射郡・下総国印旛郡の内)を賜る[3]。慶長19年(1614年)の大坂の陣に従軍した[3]

元和9年11月(1624年1月)、東福門院の難産を救い[1][3](この時誕生したのが後の明正天皇である)、秀忠から脇差を賜った[3]

寛永3年(1626年)に将軍徳川家光と大御所秀忠が上洛した際、道三も秀忠に従って上洛したが、崇源院が重態に陥ったためにその治療を命じられ、急ぎ江戸へ向かった[3]。しかし道三自身も帰東の途上発病し[2][注釈 5]、9月19日に箱根宿で死去(50歳)[3]。箱根湯本の早雲寺に葬られた。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 元鑑[2]とも。『寛政重修諸家譜』には今大路家からの呈譜に「元鑑」とあると注記しつつ、「玄鑑」を記載している[3]
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』には「従五位下典薬助に叙任し、兵部大輔にあらため、昇殿をゆるされ」とある。『朝日日本歴史人物事典』(宗田一執筆)は「文禄1(1592)年朝廷典薬助(従五位下)に任ぜられ、兵部大輔と号し昇殿を許される」とある。
  3. ^ 京都愛宕の教学院住持。
  4. ^ 後藤庄三郎
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』によれば、崇源院治療の命を受けた時点ですでに病身であったという[3]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 今大路道三”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2020年1月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 宗田一. “今大路道三”. 朝日日本歴史人物事典. 2020年1月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第五百九十三「今大路」
  4. ^ 曲直瀬玄鑑”. 美術人名辞典. 2020年1月3日閲覧。[リンク切れ]
  5. ^ a b c 宗田一「曲直瀬(今大路)家系の疑問『日本医史学雑誌』第34巻第1号(1988年)
  6. ^ 山田恵美「曲直瀬玄朔の門人について『日本医史学雑誌』第59巻第2号(2013年)

参考文献

[編集]
  • 『日本人名大辞典』、講談社、2001年
  • 『朝日日本歴史人物事典』、朝日新聞社、1994年
  • 寛政重修諸家譜』巻第五百九十三「今大路」
    • 『寛政重修諸家譜 第四輯』国民図書、1923年(国立国会図書館デジタルコレクション:[1]