大平俊堅
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄8年(1565年)[1] |
死没 | 寛永19年2月2日(1642年3月2日) |
別名 | 角助、角右衛門 |
戒名 | 宗祐 |
墓所 | 海蔵寺(東京都文京区) |
幕府 | 江戸幕府広敷番 |
主君 | 織田信孝、徳川秀忠 |
氏族 | 橘氏流大平氏 |
父母 | 大平家次 |
妻 | 増田次右衛門の娘 |
子 |
虎松、吉蔵、俊宗室、富沢治部右衛門室、坂本久政室、二女 俊宗 |
大平 俊堅(おおひら としかた)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
生涯
[編集]祖父俊家は近江国甲賀郡岩室に住んだため岩室氏を称したが、父家次の代に大平氏に戻した。祖父は足利義輝に仕えたが、永禄の変の際に戦死。そのため父は甲賀に退去していた。後に父は織田信孝に仕えたため、自身も同じく信孝の家臣となった。天正11年(1583年)織田信孝が死去すると父と共に甲賀に隠退したが、後に九鬼嘉隆・池田景雄・青山忠成の客将となっている。後に父は徳川家康に仕えたが、自身は文禄元年(1592年)徳川秀忠の側衆となった。
慶長5年(1600年)会津征伐に従軍して宇都宮城まで従ったが、後に主命を帯びて山岡景友と共に近江で一揆の先導を命じられ、甲賀へと赴いた。大坂の陣にも従軍し、慶長20年(1615年)夏の陣では坂崎直盛隊の先駆けとなって功名をあげ、秀忠に賞された。この後、直盛と行軍の前後をめぐって論争を起こしている。戦後は褒章として黄金を与えられたが、本多正信はこの黄金を感状にも等しいものであると説いている。元和9年(1623年)大奥広敷番を命じられる。所領は大坂の陣後、上野国に200石を与えられていたが、家光の代に武蔵国児玉郡に移された。寛永11年(1638年)老齢をもって辞職。子は夭折していたため、服部氏から婿養子をとって家督を継がせた。
注釈
[編集]出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第592