稲葉景通
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稲葉景通像(臼杵市・月桂寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永16年4月25日(1639年5月27日) |
死没 | 元禄7年閏5月20日(1694年7月12日) |
改名 | 虎助、景通 |
戒名 | 本光院殿一空宗真大居士 |
墓所 | 大分県臼杵市の月桂寺 |
官位 | 従五位下・右京亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 豊後臼杵藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 父:稲葉信通、母:織田信良の次女・光浄院 |
兄弟 | 景通、知通、通行、花山院定誠室、織田信久正室ら |
妻 | 有馬忠頼の娘・長 |
子 | 養子:知通 |
稲葉 景通(いなば かげみち)は、豊後国臼杵藩の第5代藩主。
略歴
[編集]寛文13年(1673年)、父の死去により跡を継ぐ。民政に尽力して善政を施し、城の整備や海岸整備、港町整備や新町の開発などを行なって藩の確立を期した。さらに人事制度においても、地方知行制を廃止して寺社奉行、小姓頭、勘定頭などを設置し、藩政の刷新を図った。元禄7年(1694年)閏5月20日、56歳で死去し、跡を弟の知通が継いだ。
臼杵藩中興の名君と言われている。
系譜
[編集]父母
正室
- 長、通玄院 ー 有馬忠頼の娘
養子
- 稲葉知通 ー 実弟
本能寺の変は明智光秀が織田信長を襲撃し、自害に追い込んだことで著名であるが、景通はその両方を高祖父に持つ[1][2]。