稲葉信通
表示
稲葉信通像(臼杵市・月桂寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長13年4月7日(1608年5月20日) |
死没 | 寛文13年6月24日(1673年8月6日) |
改名 | 彦四郎、虎、貞通 |
戒名 | 本覚院殿一関宗如大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 豊後臼杵藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 父:稲葉一通、母:細川忠興の三女・多羅 |
兄弟 | 信通、通綱、通広、通任、溝口宣直正室、日根野雅行室、山崎俊家正室、本多忠隆室 |
妻 |
正室:織田信良の次女・光浄院 継室:織田信良の三女・天量院 側室:宮崎氏 |
子 | 景通、知通、通行、花山院定誠室、織田信久正室ら |
稲葉 信通(いなば のぶみち)は、豊後国臼杵藩の第4代藩主。
生涯
[編集]寛永18年(1641年)、父の死去により跡を継ぐ。民政に尽力し、文武を奨励し、土木事業や社寺の再建を行なうなどして藩政の基礎を固めた。江戸府内の火消し役、公家の接待役、女院御所の造営、日根野吉明改易後の府内藩在番、高力高長改易後の唐津藩在番を務めた。寛文13年(1673年)6月24日、66歳で死去し、跡を長男・景通が継いだ。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。
系譜
[編集]父母
正室、継室
- 光浄院 ー 織田信良の次女(正室)
- 天量院 ー 織田信良の三女(継室)
側室
- 宮崎氏
子女
本能寺の変は明智光秀が織田信長を襲撃し、自害に追い込んだことで著名であるが、信通は光秀の曾孫ながら[2]正室、継室とも信長の曾孫を迎えている[3]。