一柳直次
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和9年(1623年) |
死没 | 万治元年12月27日(1659年1月19日) |
別名 | 宇右衛門[1](通称) |
戒名 | 円智院殿礼翁宗正大居士[注釈 1] |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 小出氏、一柳氏 |
父母 | 小出吉親、一柳直家 |
兄弟 |
青龍院、杉原重長正室、加藤直泰正室、 小出英知、板倉重矩正室、直次、 半井成忠室、井上正義正室、小出吉明室、井上正義継室、小出重治室、金森七之助室ら |
妻 | 一柳直家娘[1] |
子 | 末礼、直昌、加藤直泰養女(板倉重種正室)、小出吉忠 [3] |
一柳 直次(ひとつやなぎ なおつぐ)は、江戸時代前期の大名。播磨国小野藩2代[要出典]藩主[注釈 2]。
生涯
[編集]元和9年(1623年)[1]、丹波園部藩主・小出吉親の次男として生まれる[1]。寛永10年(1633年)、11歳で徳川家光に初謁[1]。
寛永19年(1642年)、一柳家先代・直家の臨終に際して養子となる[1](直次の姉が、直家の弟である一柳直頼(小松藩主)の妻という縁にあたる)。直家は自らの娘を直次に娶せ遺領を継がせようとしたが[1]。しかしこれが末期養子の禁に抵触するという理由でとがめらた[1]。
寛永20年(1643年)3月15日に伊予国の1万8600石が収公された[1]。直家の娘と直次との結婚は許され、播磨国加東郡の1万石にが与えられた[1]。この結果、小野藩の所領は2万8600石から1万石に減少した。同年4月1日、直次は徳川家光に拝謁し、家光と家綱に刀を献上している[1]。5月、封地に赴く暇を賜う(参勤交代)[1]。
加東郡の分領支配のために置かれていた敷地陣屋(現在の小野市敷地町、大部小学校付近)は規模が小さかったとみられ[5]、承応2年(1653年)に直次は小野陣屋(小野市西本町、小野市立小野小学校付近)に移る[5]。
万治元年(1658年)12月27日[1]、江戸上野の寒松院で死去。享年36[1]。跡を長男の末礼が継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.157、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 47.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.157-158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』pp.157-158。
- ^ “小野藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2021年9月19日閲覧。
- ^ a b 佐野充彦「「おの歴史散歩」vol.52 「城下町」への憧憬やまず」『広報おの』第657巻、小野市、2014年12月、34頁、2021年9月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。