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一柳直昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳直昌
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦3年(1657年
死没 元禄14年6月20日1701年7月25日
別名 伊右衛門[1]、縫殿[1](通称)
戒名 智光院宗仁日信[1]
墓所 麻布の妙祝寺[1]
播磨小野藩世嗣
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直次、母:一柳直家
養父:一柳末礼
兄弟 末礼、直昌、小出吉忠加藤直泰養女
清閑寺熈定[1]
末昆藤堂長熙継室
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一柳 直昌(ひとつやなぎ なおまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての播磨国小野藩の世嗣。

生涯

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明暦3年(1657年)[1]一柳直次の次男として誕生[1]

元禄元年(1688年)7月29日、同母兄である藩主・末礼に男子がなかったため、兄の養子となる[1]。同年9月18日に徳川綱吉に拝謁したが[1]、家督を相続することなく元禄14年(1701年)6月20日に没した[1]。享年45[1]。麻布の妙祝寺に葬られた[1]

『寛政譜』によれば、正室である清閑寺熈定の娘との間に1男1女がある(ほかに側室との間に1女)[1]。のちに長男・末昆が小野藩嫡子となった[1]

備考

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  • 元禄年間成立と考えられる『土芥寇讎記』では兄の末礼(末朝)が酷評されているが、批判のひとつとして同腹の弟である「猪右衛門」が藩政への参加を望んでも用いず、蟄居させたというものがある[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.159、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.159。
  2. ^ 佐藤宏之「色欲に耽る大名・酷評される大名」『「土芥寇讎記」の基礎的研究』pp.11-13

参考文献

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