一柳直昌
表示
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 明暦3年(1657年) |
死没 | 元禄14年6月20日(1701年7月25日) |
別名 | 伊右衛門[1]、縫殿[1](通称) |
戒名 | 智光院宗仁日信[1] |
墓所 | 麻布の妙祝寺[1] |
藩 | 播磨小野藩世嗣 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 |
父:一柳直次、母:一柳直家娘 養父:一柳末礼 |
兄弟 | 末礼、直昌、小出吉忠、加藤直泰養女 |
妻 | 清閑寺熈定娘[1] |
子 | 末昆、藤堂長熙継室 |
一柳 直昌(ひとつやなぎ なおまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての播磨国小野藩の世嗣。
生涯
[編集]明暦3年(1657年)[1]、一柳直次の次男として誕生[1]。
元禄元年(1688年)7月29日、同母兄である藩主・末礼に男子がなかったため、兄の養子となる[1]。同年9月18日に徳川綱吉に拝謁したが[1]、家督を相続することなく元禄14年(1701年)6月20日に没した[1]。享年45[1]。麻布の妙祝寺に葬られた[1]。
『寛政譜』によれば、正室である清閑寺熈定の娘との間に1男1女がある(ほかに側室との間に1女)[1]。のちに長男・末昆が小野藩嫡子となった[1]。
備考
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)