一柳頼寿
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保18年5月26日(1733年7月7日) |
死没 | 天明4年12月13日(1785年1月23日) |
改名 | 頼長、頼澄、頼寿[1][2] |
別名 | 民弥、主膳[1][2] |
戒名 | 恒一軒殿天遊英心[2] |
墓所 | 愛媛県西条市の仏心寺[2] |
官位 | 従五位下山城守、美濃守、上総介、但馬守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 伊予小松藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 一柳頼邦、玉林院 |
兄弟 |
頼寿、邦常、直義、杉浦正知正室、 喜多川久喬室ら |
妻 | 堅性院ら多数 |
子 |
頼忠、頼欽、寿厚、土屋昌寿、 村越成芳[注釈 1]、寿重[注釈 2]、 一柳直里室、神尾元喬室、 曲直瀬正隆室[注釈 3]ら |
一柳 頼寿(ひとつやなぎ よりかず[1])は、江戸時代中期から後期の大名。伊予国小松藩5代藩主。
生涯
[編集]享保18年(1733年)、第4代藩主・一柳頼邦の三男として生まれる[1]。母は玉林院。
三男だったが、長兄と次兄の早世により世子となる[1]。延享元年(1744年)の父の死去により12歳で跡を継いだ[1]。寛延元年(1748年)閏10月、将軍徳川家重に初謁[1]、同年12月山城守に叙任[1]。寛延2年(1749年)に初めて領国に入った[1]。宝暦5年、美濃守に遷る[1]。明和3年(1766年)5月、駿府加番を務める。
藩政においては竹鼻正脩を登用し、世子である頼欽の侍講に任じている[4]。
安永8年(1779年)8月7日、次男・頼欽に家督を譲って隠居[1]。官位は安永8年12月に上総介、天明2年(1782年)に但馬守にあらたまっている[1]。
天明4年(1784年)12月13日(16日とも[1][2])に江戸で死去した。享年52[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。