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一柳頼明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳 頼明
一柳頼明
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 安政5年7月15日1858年8月23日[1]
死没 大正9年(1920年1月16日[1]
改名 絃次郎(幼名)、頼明
別名 頼朗
戒名 幽松軒殿大勇宗義大居士
墓所 愛媛県西条市の仏心寺山
官位 従五位下
主君 明治天皇
伊予小松藩
氏族 一柳氏
父母 一柳頼紹、原田氏
兄弟 栄子、頼明紹念
一柳氏、武田サダ長女カク[2]
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一柳 頼明(ひとつやなぎ よりあき)は、伊予国小松藩第9代(最後)の藩主(知藩事)。

生涯

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安政5年(1858年)7月15日、第8代藩主・一柳頼紹の三男として生まれる。母は側室の原田氏。

慶応4年(1868年)2月、病気の父の代理として上洛する。同年4月、帰藩する。明治2年(1869年)12月7日、父の死去にともない、家督を相続する。同時に従五位となり、知藩事に就任した。2年後の明治4年(1871年)、廃藩置県に伴って免官された。

明治7年(1874年)6月に隠居[1]、弟の紹念(つぐむね)に家督を譲った。

頼明は明治18年(1885年)に一柳子爵家から分家[1]。大正9年(1920年)1月16日に63歳で死去した。

系譜

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  • 父:一柳頼紹(1822年 - 1869年)
  • 母:原田氏
  • 先妻:一柳氏
  • 後妻:カク - 武田サダ長女

頼明から家督を譲られた弟の紹念(万延元年(1860年)10月12日 - 昭和4年(1929年)3月12日)は、明治17年(1884年)、華族令施行により子爵に叙せられる。

紹念は大正3年(1914年)に隠居し、養子の直徳(なおえ、伊達宗徳七男)が家督を継承した。直徳の子・直俊(なおとし)の代で華族制度廃止を迎える。

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c d 平成新修旧華族家系大成』下、p.409
  2. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下、p.409。なお、同書では夫人としてカクのみが記されている

外部リンク

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当主
先代
一柳頼紹
小松一柳家
1869年 - 1874年
次代
一柳紹念