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山崎義俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山崎 義俊
時代 江戸時代中期
生誕 元文5年7月11日1740年8月3日
死没 享和元年7月8日1801年8月16日
改名 (初名)幸之助、(家督相続前)久留島通有
別名 (通称)主税助
戒名 天覚院風外勧月
墓所 岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺
官位 なし
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
氏族 久留島氏近江山崎氏
父母 実父:久留島光通、実母:側室(高野氏)
養父:山崎信盛、養母:仙石政房の娘・弁子
兄弟 久留島通祐義俊久留島通同、女子(青木一新正室)、女子(渡辺信綱継室)、女子(高井綽房正室)、女子(青木直美正室)、女子(久留島通高正室)、女子(高井綽房養女)ら
黒田長邦の娘・此子
義孝黒田長堅義苗義徳、女子(早世)、義進、女子(松平康盛正室)、女子(戸川達邦正室、死別後久留島通正正室)、女子(松平正直正室、のち離縁)
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山崎 義俊(やまざき よしとし)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領5代領主。

生涯

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元文5年(1740年7月11日豊後国森藩5代藩主久留島光通の六男として江戸にて生まれる。母は光通の側室高野氏。初名は久留島通有[1]。実兄に豊後国森藩6代藩主久留島通祐、実弟に豊後国森藩7代藩主久留島通同、義兄に摂津国麻田藩8代藩主青木一新和泉国伯太藩3代藩主渡辺信綱らがいる。正室は筑前国秋月藩5代藩主黒田長邦の娘・此子。この婚姻関係により筑前国秋月藩6代藩主黒田長恵出雲国広瀬藩6代藩主松平近貞上総飯野藩7代藩主保科正率らと義兄弟の関係となった。尚、久留島家と山崎家は遠縁に当たる。久留島光通の義父・森藩4代藩主久留島通政の継室(土佐国高知藩4代藩主山内豊昌の養女)の義姉が讃岐国丸亀藩2代藩主京極高豊の正室となっている。この京極高豊の四男が讃岐国多度津藩初代藩主京極高通であり、その正室は備中国成羽領2代領主山崎義方の娘である。

宝暦8年(1758年)12月3日、父光通の義妹(従妹)の夫で備中国成羽領3代領主山崎尭治の嫡男山崎信盛が急逝したため、末期養子として成羽領5,000石の家督を相続した。家督相続の際に改名し山崎義俊となった。宝暦9年(1759年)3月15日、家督相続許可の御礼として9代将軍徳川家重に拝謁している。同年6月12日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は養父信盛と同様に罪人預かりなどを命じられている。安永7年(1778年)12月12日、幕府に隠居を願い出て許されたため、家督である成羽領5,000石を長男義孝に譲り隠居した。ただ長男義孝は翌年早世し、さらにその遺跡を継いだ次男義苗、四男で筑前国秋月藩主の黒田長堅も相次いで早世するなど、息子達に次々先立たれ不幸が続いた。最終的に三男義徳が成羽領5,000石の家督を継承した。享和元年(1801年7月8日、江戸にて死去。享年62歳[2]

系譜

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脚注

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  1. ^ 寛政重脩諸家譜. 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年3月13日閲覧。
  2. ^ 画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月13日閲覧。
  3. ^ 画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月13日閲覧。

参考文献

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