山崎義苗
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦13年1月8日(1763年2月20日) |
死没 | 天明元年7月26日(1781年9月14日) |
改名 | (初名)幸之助 |
別名 | (通称)主税助 |
戒名 | 教外院覚法別傳 |
墓所 | 岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
氏族 | 近江山崎氏 |
父母 | 父:山崎義俊、母:側室 |
兄弟 | 義孝、黒田長堅、義苗、義徳、女子(早世)、義進、女子(松平康盛正室)、女子(戸川達邦正室、死別後久留島通正正室)、女子(松平正直正室、のち離縁) |
妻 | なし |
子 | 養子(実弟):義徳 |
山崎 義苗(やまざき よしたね)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領7代領主。
生涯
[編集]宝暦13年(1763年)1月8日 、備中国成羽領5代領主山崎義俊の三男として江戸で生まれる。母は義俊の側室。正室はなし。父方の従弟に豊後国森藩8代藩主久留島通嘉がいる。
安永8年(1779年)4月23日に兄義孝が嗣子なく没したため、同年7月5日、家督である成羽領5,000石を相続した。同年8月21日に家督相続許可の御礼として徳川家治に拝謁している。天明元年(1781年)6月15日、領地である成羽へのお国入りを許可されたが、翌7月26日に急逝した。享年19歳。家督は次弟の義徳が養子となり相続した[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ “画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月26日閲覧。