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山崎義苗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山崎 義苗
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦13年1月8日1763年2月20日
死没 天明元年7月26日1781年9月14日
改名 (初名)幸之助
別名 (通称)主税助
戒名 教外院覚法別傳
墓所 岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
氏族 近江山崎氏
父母 父:山崎義俊、母:側室
兄弟 義孝黒田長堅義苗義徳、女子(早世)、義進、女子(松平康盛正室)、女子(戸川達邦正室、死別後久留島通正正室)、女子(松平正直正室、のち離縁)
なし
養子(実弟):義徳
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山崎 義苗(やまざき よしたね)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領7代領主。

生涯

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宝暦13年(1763年)1月8日 、備中国成羽領5代領主山崎義俊の三男として江戸で生まれる。母は義俊の側室。正室はなし。父方の従弟に豊後国森藩8代藩主久留島通嘉がいる。

安永8年(1779年)4月23日に兄義孝が嗣子なく没したため、同年7月5日、家督である成羽領5,000石を相続した。同年8月21日に家督相続許可の御礼として徳川家治に拝謁している。天明元年(1781年)6月15日、領地である成羽へのお国入りを許可されたが、翌7月26日に急逝した。享年19歳。家督は次弟の義徳が養子となり相続した[1]

系譜

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脚注

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  1. ^ 画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月26日閲覧。

参考文献

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