保科正率
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦2年2月11日(1752年3月26日) |
死没 | 文化12年10月14日(1815年11月14日) |
改名 | 秀太郎(幼名)、正率 |
戒名 | 安居院殿偶性一光大居士 |
墓所 | 東京都杉並区和泉の大円寺 |
官位 | 従五位下、弾正忠、越前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 上総国飯野藩主 |
氏族 | 保科氏 |
父母 | 父:保科正富、母:華愕院(於喜井)(永井直期の娘) |
兄弟 | 正率、九鬼隆晁、大岡清定、黒田直儀、正温 |
妻 | 正室:於艶(蘭香院、黒田長邦の娘) |
子 | 正徳、豊姫(榊原政令正室)、娘(保科正種室) |
保科 正率(ほしな まさのり)は、上総国飯野藩の第7代藩主。
生涯
[編集]宝暦2年(1752年)2月11日、第6代藩主・保科正富の長男として江戸で生まれる。明和7年(1770年)7月5日、父が隠居したため、家督を継いだ。12月には従五位下、弾正忠に叙位・任官する。
安永2年(1773年)6月5日、黒田長邦の三女・お屋さと結婚する[1]。このとき、福岡藩藩主・黒田治之から、紅白の縐紗2巻、鰑1折、白銀30枚を贈られている[1]。
寛政3年(1791年)10月、大坂城定番に任じられ、享和元年(1801年)5月まで務めている。その他にも大坂加番を3度、日光祭礼奉行を2度ほど歴任している。享和2年(1802年)6月3日、家督を長男の正徳に譲って隠居し、以後は南御殿で余生を送った。
系譜
[編集]父母
正室
- 於艶、蘭香院 ー 黒田長邦の娘
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 川添昭二、福岡古文書を読む会 校訂『黒田家譜』 第五巻(新訂)、文献出版、1983年2月3日。NDLJP:12208144/34。(要登録)