メアリー・ピックフォード
メアリー・ピックフォード Mary Pickford | |||||||||
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メアリー・ピックフォード(1918年撮影) | |||||||||
生年月日 | 1892年4月8日 | ||||||||
没年月日 | 1979年5月29日(87歳没) | ||||||||
出生地 | カナダ・オンタリオ州 トロント | ||||||||
死没地 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州 サンタモニカ | ||||||||
国籍 |
カナダ アメリカ合衆国 | ||||||||
配偶者 |
オーエン・ムーア(1911–1920) ダグラス・フェアバンクス(1920–1936) チャールズ・ロジャース(1937–1979) | ||||||||
著名な家族 |
ロナルド(養子) ロクサンヌ(養女) | ||||||||
公式サイト | Mary Pickford Foundation | ||||||||
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メアリー・ピックフォード(Mary Pickford、1892年4月8日 - 1979年5月29日)は、カナダ・トロント出身の女優、プロデューサー。サイレント映画時代の大スターであり、「アメリカの恋人」と呼ばれて親しまれた。妹のロッティ・ピックフォードは女優、弟のジャック・ピックフォードは映画監督・プロデューサー。なお「メアリー」ではなく「メリー」の表記もよく使われる[1]。
生涯
[編集]ピックフォードの本名は、グラディス・マリー・スミス(Gladys Marie Smith)といった。アイルランド系カトリック教徒の両親のもとに生まれる。カナダの巡業劇団に参加し7歳より子役として活躍していたが、ニューヨークに移りブロードウェイの舞台に立つようになった。1909年、15歳の時に有名なD・W・グリフィス監督に認められて映画デビュー。小柄で若々しいピックフォードは、無邪気な少女役で長く人気を博した。
ピックフォードは年間100万ドル稼ぐ最初の女優であった[2](同時期のスターであった浪費家のグロリア・スワンソンと違い、貯金もする倹約家だった[要出典])。
1916年、自分自身のプロダクション「メアリー・ピックフォード・カンパニー」を設立。自分の出演する映画のプロデューサーを務めるなど、映画の制作も手掛ける最初の女優となった。
1919年、監督のD・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、チャールズ・チャップリンらと映画の制作・配給会社のユナイテッド・アーティスツ社を共同設立。同社の映画『青春の夢』や『小公子』などに主演。
1922年、ドイツの映画監督エルンスト・ルビッチをハリウッドに招き、制作した映画『ロジタ』に出演。
1929年の『コケット』でアカデミー主演女優賞を受賞した。
1933年に俳優業から引退。引退後はプロデューサーとして映画製作に参加したり、化粧品会社などを設立し実業家としても活躍した。83歳の1975年にアカデミー名誉賞を授与され、その4年後に亡くなった。
プライベートでは1920年にダグラス・フェアバンクスと結婚し、このカップルは"ピックフェア"と呼ばれ親しまれたが1936年に離婚した。
ピックフォードの名言「失敗とは転ぶことではなく、転んだまま起き上がらないことです」[3]。
主な出演作品
[編集]- 死の歌 A Pueblo Legend(1912年)
- 落花流水 Caprice(1913年)
- 鷲の友 The Eagle's Mate(1914年)
- シンデレラ Cinderella(1914年)
- 山家の娘 Fanchon, the Cricket(1915年)
- 優しき乙女 Esmeralda(1915年)
- 半生の悪夢 Poor Little Peppina(1916年)
- 印度の処女 Less Than the Dust(1916年)
- 一門の誇り The Pride of the Clan(1917年)
- 小米国人 The Little American(1917年) セシル・B・デミル 監督
- 農場のレベッカ Rebecca of Sunnybrook Farm(1917年)
- 小公女 The Little Princess(1917年)
- 闇に住む女 Stella Maris(1918年)
- 春のおとづれ How Could You, Jean?(1918年)
- 連隊の花 Johanna Enlists(1918年)
- 青年大尉キッド Johanna Enlists(1919年)
- 孤児の生涯 Daddy-Long-Legs(1919年)
- 十五、六の頃 The Hoodlum(1919年)
- 想い出の丘へ Heart o'the Hills(1919年)
- 青春の夢 Pollyanna(1920年)
- シャボンの泡 Suds(1920年)
- 愛の燈明 The Love Light(1921年)
- ナット The Nut(1921年)カメオ出演
- 勝手口から Through the Back Door(1921年)
- 小公子 Little Lord Fauntleroy(1921年)
- 嵐の国のテス Tess of the Storm Country(1922年)
- ロジタ Rosita(1923年) エルンスト・ルビッチ監督
- ドロシー・ヴァーノン Dorothy Vernon of Haddon Hall(1924年)
- アンニー可愛や Little Annie Rooney(1925年)
- ベン・ハー Ben Hur(1925年)ノンクレジット
- ダグラスの海賊 The Black Pirate(1926年)ノンクレジット
- 雀 Sparrows(1926年)
- デパート娘大学 My Best Girl(1927年)
- ガウチョ The Gaucho(1927年)
- コケット Coquette(1929年) アカデミー主演女優賞受賞
- じゃじゃ馬馴らし The Taming of the Shrew(1929年)- ウィリアム・シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の映画化
- お転婆キキ Kiki(1931年)
- 秘密 Secrets(1933年)
関連事項
[編集]- ピックフォードの名を取った「メアリー・ピックフォード」というカクテルがある。ラム酒とパイナップル・ジュースを使用し、1920年台に考案されたとされる。
- 谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』では、ヒロインのナオミの容貌をメアリー・ピックフォードに例える場面が繰り返し登場する。なお、原文では「メリー・ピクフォード」と表記されている[4]。
- 女形俳優の立花貞二郎は『サンフランシスコ・クロニクル』紙の記者に、「日本のメアリー・ピックフォード」と評された。
- 1932年ロス五輪馬術障害優勝の西竹一とは、夫ダグラス・フェアバンクスと共に親交があった。C・イーストウッド監督映画『硫黄島からの手紙』で、その事が描写されている。
- チャップリンを世に出したマック・セネットの自叙伝『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』(作品社、2014年)に、幼年期からのピックフォードのエピソードが多く書かれている。
- イギリスのシンガーソングライターケイティ・メルアの作品に、『"Mary Pickford (Used to Eat Roses)" 』(2007) がある。
脚注
[編集]- ^ 猪俣勝人・田山力哉『世界映画俳優全史 女優編』(教養文庫、1977年)、メリー ピックフォード - 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊) - コトバンク、『サイレント映画の黄金時代』(国書刊行会、2019年)など
- ^ Mary Pickford at Filmbug
- ^ “Mary Pickford Quotes (Author of Sunshine and Shadow)”. www.goodreads.com. Goodreads, Inc.. 2023年12月12日閲覧。 “we call "failure" is not the falling down, but the staying down.”
- ^ 谷崎潤一郎『痴人の愛』:新字新仮名 - 青空文庫