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映画を撮り始めたころには怪獣のことは忘れて『[[仁義なき戦い]]』に傾倒しており、自身も社会問題を題材にすることを目指していたが、デビュー後に世界に通用するエンターテイメントは何か考えたところ、ハリウッドに対抗できる題材は怪獣映画だと思い至った{{R|BOK62}}。自身のデビュー当時は怪獣映画をやりたいと言っても笑い話にしかならなかったが、後年にハリウッドで[[モンスター・ヴァース]]が制作された際には、当時の考えは間違いではなかったと思えるようになったという{{R|BOK62}}。
映画を撮り始めたころには怪獣のことは忘れて『[[仁義なき戦い]]』に傾倒しており、自身も社会問題を題材にすることを目指していたが、デビュー後に世界に通用するエンターテイメントは何か考えたところ、ハリウッドに対抗できる題材は怪獣映画だと思い至った{{R|BOK62}}。自身のデビュー当時は怪獣映画をやりたいと言っても笑い話にしかならなかったが、後年にハリウッドで[[モンスター・ヴァース]]が制作された際には、当時の考えは間違いではなかったと思えるようになったという{{R|BOK62}}。


幼少期、最初に鑑賞した映画『[[モスラ]]』は、両親とともに観た幸福な体験として記憶されているという{{R|モスラ映画大全16|平成ガメラP200}}。後年、『[[ゴジラvsモスラ]]』の制作発表当時の特報に監督名が記載されていなかったことから、東宝プロデューサーの[[富山省吾]]へ監督への起用を要望する年賀状を送っていた{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|金子修介|1998|p=8}}{{R|東宝SFSE0110|GMK超全集2|モスラ映画大全16|平成ガメラP200|GMKC73}}}}。これは実現に至らなかったが、地上のゴジラを空中からモスラが攻撃するとの構想は、後に手がけた『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』でのガメラとギャオスの戦いに継承された{{R|東宝SFSE0110|モスラ映画大全16}}。また、『ガメラ』への起用時には、『vsモスラ』の件を知っていた大映プロデューサーの[[砂本量|鈴木良紀]]から「ゴジラの仇をガメラで討ちましょう」と言われたという{{R|平成ガメラP200|GMKC73}}。その後、『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』でモスラを登場させているが、当初の企画における[[大怪獣バラン#バラン|バラン]]の代わりであったため、モスラを爆散させたことや[[小美人]]を出せなかったことなどが心残りであったと述べている{{R|モスラ映画大全16}}。なお、ゴジラシリーズの中で好きな怪獣として[[キングギドラ#メカキングギドラ|メカキングギドラ]]を挙げている{{R|ソノラマGMK69}}。
幼少期、最初に鑑賞した映画『[[モスラ]]』は、両親とともに観た幸福な体験として記憶されているという{{R|モスラ映画大全16|平成ガメラP200}}。後年、『[[ゴジラvsモスラ]]』の制作発表当時の特報に監督名が記載されていなかったことから、東宝プロデューサーの[[富山省吾]]へ監督への起用を要望する年賀状を送っていた{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|金子修介|1998|p=8}}{{R|東宝SFSE0110|GMK超全集2|モスラ映画大全16|平成ガメラP200|GMKC73}}}}。これは実現に至らなかったが、地上のゴジラを空中からモスラが攻撃するとの構想は、後に手がけた『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』でのガメラとギャオスの戦いに継承された{{R|東宝SFSE0110|モスラ映画大全16}}。また、『ガメラ』への起用時には、『vsモスラ』の件を知っていた大映プロデューサーの[[砂本量|鈴木良紀]]から「ゴジラの仇をガメラで討ちましょう」と言われたという{{R|平成ガメラP200|GMKC73}}。その後、『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』でモスラを登場させているが、当初の企画における[[大怪獣バラン#バラン|バラン]]の代わりであったため、モスラを爆散させたことや[[小美人]]を出せなかったことなどが心残りであったと述べている{{R|モスラ映画大全16}}。なお、ゴジラシリーズの中で好きな怪獣として[[キングギドラ (平成VSシリーズ)#メカキングギドラ|メカキングギドラ]]を挙げている{{R|ソノラマGMK69}}。


== 作風および評価など ==
== 作風および評価など ==

2023年10月27日 (金) 22:50時点における版

かねこ しゅうすけ
金子 修介
生年月日 (1955-06-08) 1955年6月8日(69歳)
出生地 日本の旗 日本東京都渋谷区
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1978年 -
公式サイト 金子修介 公式情報サイト
主な作品
受賞
ブルーリボン賞
監督賞
第38回『ガメラ 大怪獣空中決戦[1]
その他の賞
ヨコハマ映画祭
監督賞
1988年1999年の夏休み
1995年ガメラ 大怪獣空中決戦
日本SF大賞
第17回『ガメラ2 レギオン襲来[1]
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金子 修介かねこ しゅうすけ1955年[出典 1]6月8日 - )は、日本映画監督

略歴

東京都[出典 2]渋谷区初台[5]出身。東京都立三鷹高等学校東京学芸大学教育学部卒業。大学卒業時には小学校教員国語科教員免許を取得している。

渋谷区立幡代小学校の同級生に劇作家の野田秀樹[2][1]、大学映研の先輩部員に映画監督の押井守がいる[2]

東京学芸大学では映像芸術研究会に所属(押井の直接の後輩にあたる)。自主映画の制作ニュースを載せる新聞を発行して製作資金を集めて、コメディ映画を撮影した[6][7]

大学を卒業後、1978年に映画会社日活へ入社[出典 2]日活ロマンポルノ助監督を務めていた1981年に、 押井の手がけていたテレビアニメ版『うる星やつら』第3話の脚本で商業デビュー。同作品での脚本担当はわずか3回(6話)分にすぎないが、アニメオリジナルエピソードに先鞭をつける役割を果たした。

その後、脚本の書ける助監督として何本かのロマンポルノで助監督兼任または単独で脚本を執筆したのち、1984年2月に日活ロマンポルノ『宇能鴻一郎の濡れて打つ』で商業監督デビューした[出典 2]。同年6月に、にっかつ撮影所の契約社員となり、1985年にニュー・センチュリー・プロデューサーズへ移籍。1987年、ヤクザコメディ『恐怖のヤッちゃん』をヤクザ映画の総本山、東映京都撮影所で撮るという難しい企画で初の他社撮影所進出に成功(しかも同撮影所はロマンポルノの先輩、田中登神代辰巳がともに苦杯をなめた因縁の地であった)。以降、松竹、東宝と大手撮影所を総なめにし、現在はフリーランスの立場で映画製作を手がけている。

なお、自主映画出身でロマンポルノ『ピンクカット 太く愛して深く愛して』にゲスト監督として招聘された森田芳光とは、同作品および引き続いて日活撮影所協力で製作された『家族ゲーム』にもついたほか、監督昇進後も角川映画の『メイン・テーマ』で助監督を務めるなど、親密な関係であった。ロマンポルノでは、青春ものを得意とする小原宏裕らの現場に多くついている。

1995年、『ガメラ 大怪獣空中決戦』で第38回ブルーリボン賞監督賞および映画芸術誌邦画ベスト10で第1位、1996年に『ガメラ2 レギオン襲来』で第17回日本SF大賞を受賞。

人物

両親は、日本共産党の党員で、雑誌『今日のソ連邦』を購読していた[8]。父の金子徳好は、「アメリカはベトナムから手を引け」などの反戦ゼッケンを8年もの間、胸に付けて通勤し続けた。母の金子静枝は切絵作家、弟の金子二郎は脚本家である。脚本家の金子鈴幸は息子、映画監督の金子由里奈は娘。

小学生のころから石森章太郎の『マンガ家入門』を手本にマンガを描き始め、中学3年生のときには 『COM』にも投稿。高校に入学した1971年より8ミリ映画による自主映画の製作を始め、映画青年となる。

小学生のころは自作の怪獣事典を作るほどの怪獣少年であった[9][10]。小学校時代の学芸会では、同級生であった野田秀樹とダンボールなどで作った怪獣を演じたという[11][1]。小学1年生の時に観た『キングコング対ゴジラ』では、ゴジラが引き分けることに納得がいかず、ゴジラが勝つ漫画を自作した[10]

映画を撮り始めたころには怪獣のことは忘れて『仁義なき戦い』に傾倒しており、自身も社会問題を題材にすることを目指していたが、デビュー後に世界に通用するエンターテイメントは何か考えたところ、ハリウッドに対抗できる題材は怪獣映画だと思い至った[1]。自身のデビュー当時は怪獣映画をやりたいと言っても笑い話にしかならなかったが、後年にハリウッドでモンスター・ヴァースが制作された際には、当時の考えは間違いではなかったと思えるようになったという[1]

幼少期、最初に鑑賞した映画『モスラ』は、両親とともに観た幸福な体験として記憶されているという[12][13]。後年、『ゴジラvsモスラ』の制作発表当時の特報に監督名が記載されていなかったことから、東宝プロデューサーの富山省吾へ監督への起用を要望する年賀状を送っていた[出典 3]。これは実現に至らなかったが、地上のゴジラを空中からモスラが攻撃するとの構想は、後に手がけた『ガメラ 大怪獣空中決戦』でのガメラとギャオスの戦いに継承された[3][12]。また、『ガメラ』への起用時には、『vsモスラ』の件を知っていた大映プロデューサーの鈴木良紀から「ゴジラの仇をガメラで討ちましょう」と言われたという[13][16]。その後、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』でモスラを登場させているが、当初の企画におけるバランの代わりであったため、モスラを爆散させたことや小美人を出せなかったことなどが心残りであったと述べている[12]。なお、ゴジラシリーズの中で好きな怪獣としてメカキングギドラを挙げている[4]

作風および評価など

映画スタッフ編成では、いわゆる「○○組」といった形ではなく、作品ごとにチームを組むスタイルのため、固定スタッフは多くないが、撮影監督高間賢治とは10作品以上で、作曲家大谷幸とも8作品で組んでいる。

少女アイドル好きで知られ、アイドル映画で起用されることも多いが、自身の企画においても若手女優のキャスティングに偏重している。

ロマンポルノ時代には山本奈津子イヴ水島裕子・かとうみゆき、一般映画では深津絵里小沢なつき中山美穂宮沢りえ斉藤由貴織田裕二佐伯日菜子、最近作でも優香上戸彩藤原竜也らを起用しており、その演出手腕にも定評がある[出典 4]

オタク歴を公言している世代としては映画監督デビュー第1号である[注釈 1]。それもロマンポルノという特殊な分野においてアニメパロディを織り込んで注目を集め[注釈 2]、その後も『ゴジラvsモスラ』の監督立候補など、怪獣映画を作ることに関心を寄せ、『ウルトラQ』映画化の頓挫を経験した後、『ガメラ 大怪獣空中決戦』の成功で怪獣映画というジャンルに新風を吹き込んだ[13]。自らの嗜好と趣味を絶え間なくアピールし続けることにより、撮りたい映画を撮れる環境を作り上げていった努力の軌跡である。

怪獣映画の2大シリーズであるゴジラガメラを両方とも撮った経験を持つ、最初の監督でもある。さらに、テレビドラマにおいては『ウルトラマンマックス』も演出しており、その劇中でソフトビニール人形を使った子供の遊びとして「ゴジラ対ガメラ」を意図的に構成してみせた[11]。このシーンは金子が直接東宝プロデューサーの富山省吾角川映画に許可を得ており、権利関係から再放送やソフト化の際にはカットされている[11]

物語を観客に信じさせるための強固な理屈作りを重視しており、原作ものでも原作にない設定を加えている[1]。怪獣映画では、観客は2体以上の怪獣を観たいと分析しているが、2体以上では理屈付けが難しく、ガメラやゴジラでは対戦相手に古代からの因縁を設けている[1]

『ガメラ』の撮影では、自衛隊の全面協力を受けたことが『朝日新聞』と『読売新聞』に興味本位で取り上げられ、『しんぶん赤旗』同紙日曜版には自衛隊を賛美するものと同作の完成前から批判する読者投稿が掲載された[20]。しかし、自身は「日本の自衛のためには憲法九条の二項の戦力の保持は改正して軍隊として認めるべきだが、集団的自衛権を否定して軍事同盟も破棄すべき」とする持論を挙げており[21]、自衛隊のメディア戦略なども理解している。そして、映画の完成前から批判意見を載せた『しんぶん赤旗』に反論する自らの意見を掲載させている[22]。ただし、『ガメラ』の監督作品全3作とも戦闘機が撃墜されるシーンが自衛隊から協力をもらうために不採用となった件に関しては、後年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(以下『GMK』)で実在しない防衛軍を設定し、その戦闘機が住宅地へ墜落して火災が発生するシーンを映像化してみせた[23]。同作品については、日米安全保障条約が締結されておらず[1]戦争放棄のために兵器の所有を認めている世界観であるとしている[10]

ガメラシリーズのころから自身でも特撮の演出も手掛けたいと希望し、『GMK』では自身で造型の打ち合わせや絵コンテの制作を行った後に特殊技術の神谷誠へ委ねるというスタイルをとった[3]。金子は、自身で怪獣に芝居をつけたいという想いもあったが、実際の現場を見て自身では細かい芝居をつけることはできなかっただろうと感じ、神谷を信頼して正解であったと述べている[3]

脚本家の長谷川圭一は、かつて金子組で装飾スタッフを務めており、執筆した脚本を金子に読んでもらってアドバイスを受けるなどを経て、デビューに至った[4]。そのつながりから金子は、『GMK』で長谷川を脚本家として起用している[4]

俳優との関係

津川雅彦には、CMを演出した縁から可愛がってもらったといい、金子作品には短いシーンでも出演することが多い[16]。津川は、金子について義理人情に厚く、笑顔が可愛いので惚れてしまったと語っていた[24]

『GMK』で主演を務めた新山千春は、金子について「独特な雰囲気の方」と評しており、新山の役作りが金子の考えと違うものであっても頭ごなしに否定はせず、指示もわかりやすく伸び伸びと演技できたと語っている[24]。同作品に出演した小林正寛も金子からいろいろなことを教えてもらい愛情を感じたと述べ、葛山信吾は「非常にマイペースな方」と述懐している[24]

1993年の作品『卒業旅行 ニホンから来ました』の撮影時、主演の織田裕二との間でトラブルが発生し、その顛末を公開直後の『シナリオ』誌に寄稿した[25]。同誌では、製作裏話とともに織田への批判を述べている。また、『卒業旅行』の撮影に関しては『ガメラ監督日記』の中で「本が3冊書けるぐらい」の経験をした、と綴っている[26]

作品

映画

テレビアニメ

テレビドラマ

オリジナルビデオ

オリジナルDVD

演劇

PV

出演

映画(出演)

  • ピンクカット 太く愛して深く愛して(1983年) - お色気理容室の客
  • 家族ゲーム (1983年) - クボタ書店の店員
  • メイン・テーマ(1984年) - 宴会場のボーイ

テレビ

DVD

ラジオ

著作

ムック
小説
  • 夏休みなんかいらない(ムーブ、GEN-SAKU!文庫、2011年)電子書籍[注釈 3]

脚注

注釈

  1. ^ やはりSF、特撮、アニメ、アイドルなどのオタク趣味に強くこだわり、作品の多くにも反映させ続けているピンク映画監督に金子の2歳年少の渡邊元嗣がいるが、渡邊が『E.T.』にオマージュを捧げたデビュー作『女教師・淫らな放課後』が封切られたのは『濡れて打つ』と同年同月(1週間後)である。なお、螢雪次朗は両監督の作品に共通した常連俳優であり、金子と同年でやや早くデビューした滝田洋二郎のミステリ趣味濃厚な作品群のほとんどにも主演している。
  2. ^ みんなあげちゃう』ではウルトラの母を登場させている[11]。ガメラを登場させる案もあったが、大映から断られている[11]
  3. ^ 月刊誌『GEN-SAKU!』vol.1 - 5(2011年4月22日 - 8月26日)で連載された作品。2014年にWEBドラマ化された。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n バトル・オブ・キングギドラ 2020, pp. 62–64, 「金子修介インタビュー」
  2. ^ a b c Shusuke's Profile”. 金子修介 公式情報サイト. 2015年10月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 東宝SF特撮映画シリーズSPECIAL EDITION 2001, pp. 10–11, 「[インタビュー] 金子修介」
  4. ^ a b c d ソノラマMOOK 2002, pp. 69–73, 「金子修介監督×大久保賢一(映画評論家)対談」
  5. ^ 金子修介 監督のワークショップ 松濤アクターズギムナジウム 2023年3月29日閲覧。
  6. ^ 押井守『すべての映画はアニメになる』徳間書店〈アニメージュ叢書〉、2004年、138 - 139頁。ISBN 4198618283。「アニメ雑誌『アニメージュ』掲載の 押井と金子の対談記事再録」 
  7. ^ 植草信和 編「対談 押井守 金子修介 ぼくたちの過去・現在・未来」『押井守全仕事 増補改訂版 「うる星やつら」から「アヴァロン」まで』キネマ旬報社〈キネ旬ムック〉、2001年1月31日、39頁。ISBN 4-87376-560-9 
  8. ^ 金子修介「三大怪獣 地球最大の決戦 怪獣映画と革命家族」『別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃』洋泉社、2009年、p24
  9. ^ 金子修介 1998, pp. 12–18.
  10. ^ a b c GMK超全集 2002, pp. 36–40, 「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃完全攻略 金子修介監督インタビュー」
  11. ^ a b c d e 宇宙船編集部 編「監督!監督!監督! 金子修介」『ウルトラマンマックス マックス!マックス!マックス!怪獣大画報』円谷プロダクション 監修、朝日ソノラマファンタスティックコレクション〉、2006年10月30日、52-53頁。ISBN 4257037350 
  12. ^ a b c d モスラ映画大全 2011, pp. 16–17, 文・金子修介「モスラへの思いを遂げる日」
  13. ^ a b c d 平成ガメラパーフェクション 2014, pp. 200–205, 「平成ガメラ スタッフインタビュー 金子修介」
  14. ^ 金子修介 1998, p. 8.
  15. ^ GMK超全集 2002, p. 2, 富山省吾「世紀を越えて「金子ゴジラ」は誕生した。」
  16. ^ a b c GMKコンプリーション 2022, pp. 73–75, 「金子修介インタビュー」
  17. ^ アイドル映画30年史 2003, pp. 181–182, 松井修「少女映画・満開の季節」.
  18. ^ アイドル映画30年史 2003, pp. 192–197, 馬買野宏 聞き手・構成「監督列伝90's 金子修介インタビュー」.
  19. ^ 武藤起一、森直人 編「80-90年代を代表する注目の作家たち(1) 14 金子修介」『〈日本製映画〉の読み方 1980-1999』フィルムアート社〈CINE LESSON 6〉、1999年7月2日、70-71頁。ISBN 4-8459-9995-1 
  20. ^ 金子修介 1998, p. 245.
  21. ^ 切通理作 2002, p. 440.
  22. ^ 金子修介 1998, p. 245 - 246.
  23. ^ 切通理作 2002, p. 439.
  24. ^ a b c ソノラマMOOK 2002, pp. 64–68, 「メインキャスト13名インタビュー」
  25. ^ 金子修介「『卒業旅行 ニホンから来ました』演出ノート――にっちもさっちもどうにもブルドッグ」『シナリオ』、日本シナリオ作家協会、1993年10月、[要ページ番号] 
  26. ^ “金子修介監督と撮影で大モメした織田裕二”. 日刊ゲンダイ (日刊現代). (2012年10月29日). オリジナルの2014年5月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140518160047/http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/139379 2014年5月18日閲覧。 

出典(リンク)

参考文献

外部リンク