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蝦夷征討(えみしせいとう)は、古代東北経営(こだいとうほくけいえい)、古代東北政策(こだいとうほくせいさく)、または古代東北史(こだいとうほくし)において、日本の古代東北の経営に進出したヤマト政権や後身となる古代日本の律令国家(朝廷)が、蝦夷社会に対して律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制の中に編成していく対蝦夷政策のうち、いわゆる征夷政策を指す。中央史観の強かった時代には古代東北経営全般を指して蝦夷征伐(征討)と呼ばれたが、古代東北経営の実態は時代により懐柔政策、移民政策、征夷政策、民夷融和政策などの変遷がみられる。
本項目では日本の古代東北経営における対蝦夷政策全般について記述する。
古墳時代
神武天皇即位前紀
奈良時代に成立した日本の歴史書『日本書紀』に以下の歌が載せられている[原 1][1]。
愛瀰詩烏 毗儾利毛々那比苫 比苫破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒 — 『日本書紀』神武天皇即位前紀戌午年十月条
この歌は神武天皇の即位前に、道臣命が大来目部の軍勢を率いて八十梟帥の残党を破った時の戦勝歌とされている[1]。愛瀰詩とあることからこの歌は蝦夷(えみし)についての最も古い言及とされるが、一方では伝説の域を出ないとする考えもある[2][要ページ番号]。
国文学の研究によれば、本来は神武天皇との関わりがなく、ヤマト政権の外征軍である大来目部が大王の命を受けて未服属の地域に軍事的遠征をおこなっていた4世紀頃に凱歌として歌われていたものと推察されている[1]。
倭王武の上表文
ヤマト政権による国土統一が進んだ5世紀後期、順帝の昇明2年(478年)に倭王武が中国南朝の宋の皇帝に送った「倭王武の上表文」中に以下の記述がある[1]。
「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」 — 『宋書』倭国伝「倭王武の上表文」より大意
倭王武は稲荷山古墳出土鉄剣の銘文中にみえる獲加多支鹵大王、すなわち雄略天皇であると推定されている[1]。上表文によれば「王の先祖が自ら甲冑を纏い、山川を跋渉し、戦を続け、東は毛人55カ国を征し、西は衆夷66カ国を服し、海北へ渡り95カ国を平らげる」とあり、雄略天皇の代にはほぼ国家統一は成っていた様子を窺い知ることが出来る[1]。また、ヤマト政権によって平定されたとされる東日本の諸地域の人々を指して毛人の文字が使用されている点には大いに注目される[1]。
日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている[2][要ページ番号]。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である[2][要ページ番号]。
飛鳥時代
国造制
『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」には、6世紀中頃から後半頃にかけて130の国造の設置時期や系譜について記載されている[3]。それによると国造分布の北限は、太平洋側では亘理地方(思国造)と伊具地方(伊久国造)、日本海側では越後平野中部(高志深江国造)と佐渡(佐渡国造)である[3]。この段階において、太平洋側では会津地方を除く福島県全域と宮城県最南部の亘理・伊具地方まで、日本海側では新潟県南半までは国造が置かれているため、すでにヤマト政権の内国地域として支配領域の中に編入されていた[3]。
このことから、当時ヤマト政権が「エミシ」の地と観念されていたのは上記の国造が置かれていない地域より以北、すなわち福島県会津地方や山形県全域、新潟県新潟市周辺、宮城県仙台市周辺であったと推測される[3]。
大化改新
律令国家成立と城柵の建置
ヤマト政権は大化改新を画期に律令国家建設に向けての諸政策を進め、地方行政として国郡里制の整備、編戸制の実施、戸籍・計帳といった公文書の作成、班田収授法の実施、租庸調・雑徭などの徴税が全国へとおよんでいく[4][5]。
中央政府(朝廷)による東北経営が本格化すると、越後平野北半と仙台平野に相次いで城柵が設置された[5]。『日本書紀』によると、日本海側では大化3年(647年)に越国渟足柵(現在の新潟県新潟市)、大化4年(648年)には磐舟柵(現在の新潟県村上市)が設置されている[5]。『日本書紀』中には太平洋側の城柵設置を示す記事はないものの、郡山遺跡I期官衙(現在の仙台市太白区)が越国渟足柵に対応する陸奥国の城柵遺跡と考えられている[5]。また7世紀代に造営された柵として越国都岐沙羅柵や陸奥国優嗜曇柵が知られている[5]。
越後平野と仙台平野
7世紀代に城柵が造営された越後平野、仙台平野、米沢盆地といった地域ではエミシが反乱を起こしたことを伝える史料などは一切ない[5]。
これらの地域は弥生時代以来の稲作農耕文化がそれなりに発展し、古墳時代前期より大型古墳の造営など古墳文化の昴揚もみらるため、もともと関東地方や中部地方以西の国造制施行地域に住む人々とあまり大きく変わらない農耕文化や信仰文化をもっていたと考えられる[5]。
近隣の城柵を拠点とした律令国家の支配を抵抗もなく受け容れ、やがて内国地域の社会・住人と区別しがたいほどに同化していった[5]。
大宝律令施行時点で越後平野、仙台平野、米沢盆地、山形盆地は律令国家の支配体制に組み込まれ、それらよりも北方の諸地域が「エミシ」の地と定められることとなった[5]。
大宝元年体制
大宝律令と蝦夷
8世紀初頭に大宝律令が施行されると、以後「エミシ」に対する用字として「蝦夷」が一般的に定着している[5]。
律令国家が新たに経営を推進したのが大崎平野と庄内平野であった[6]。しかし越後平野や仙台平野の時と違い、律令国家の蝦夷経営はやがて大きな障碍にぶつかると、現地住民である蝦夷の抵抗に遭う[6]。
庄内平野の蝦夷反乱と出羽建国
大宝律令の施行から10年も経たず、東北地方の日本海側では蝦夷による反乱が発生していたようである[7]。威奈真人大村骨蔵器に刻まれた銘文によると、慶雲2年(705年)頃に越後守威奈大村が越後北疆方面の蝦虜に対して仁政を施したという[7]。「越後北疆の蝦虜」は庄内平野の蝦夷集団と解釈されており、当時は越後国に属していた庄内平野で小規模な騒擾が生じていたため、それを抑えるために大村が越後守として渟足柵に赴任して柔懐鎮撫にあたったものと推察される[7]。
大村の後任として阿倍真公が出羽守に任ぜられると、和銅元年9月28日(708年11月14日)、越後国の庄内地方に出羽郡が新設された[7]。このことが現地の蝦夷系住人に困惑や抵抗の感情をもたらしたようで、中央政府は和銅2年3月6日(709年4月20日)に陸奥国と越後国の蝦夷が出羽柵の柵戸ら非蝦夷系の住人に危害を加える事件がたびたび発生していたことを理由に、陸奥鎮東将軍・巨勢麻呂や征越後蝦夷将軍・佐伯石湯などを派遣した[原 2][8][7]。両最高指揮官の肩書きが陸奥国側では「陸奥鎮東将軍」、越後国側では「征越後蝦夷将軍」と書き分けられ、越後国側には副将軍がともなっていることから、日本海側の蝦夷が蜂起していたことがうかがえる[7]。
これより以後、蝦夷社会と律令国家の衝突は史料上に「蝦夷反乱」という形で国家側の記録が残るようになる[8]。
庄内平野の蝦夷反乱から3年後の和銅5年9月23日(712年10月27日)、出羽郡を中心に新たに出羽国が建てられた[原 3][9]。
大崎平野の建郡
奥羽脊梁山脈の東の陸奥国側では、庄内平野の蝦夷反乱の際に一時的に政情不安の状態に陥っていたようだが、その後は比較的平穏な状態が続いていた[10]。
『続日本紀』慶雲4年5月26日(707年6月30日)条の記述によると、7世紀中頃の白村江の戦いで唐軍の捕虜となり、40年あまりを唐土ですごしたのち、解放されて帰朝した3人の中に陸奥国信太郡出身の壬生五百足という人物がいたことが知られている[10]。一般的に景雲4年より以前に信太郡が成立していた証左とされ、8世紀初頭には大崎平野でも律令国家による建郡の動きがあったことがうかがえる[10]。しかし庄内平野とは異なり、大崎平野では建郡によって蝦夷反乱が引き起こされることはなかった[10]。
奈良時代
和銅元年体制
蝦夷族長への君姓賜与
和銅3年3月10日(710年4月13日)に元明天皇が藤原京から平城京へと遷都した。
平城遷都直後の和銅3年4月21日(710年5月23日)、律令国家は陸奥国側の蝦夷族長らに対して「君(キミ)の姓(カバネ)」を賜わり、編戸(戸籍・計帳に登載され、口分田を与えられて租庸調などの租税や労役を追う公民)と同じ待遇を保障することを許可している[原 4][11]。これは蝦夷族長クラスの住人から公民化を願い出たものと考えられており、以来、君姓は律令国家の支配秩序の中に編成された蝦夷族長が名乗る姓として制度化されていく[11]。なお天平宝字3年10月8日(759年11月2日)には「君」の字が「公」の字に改められており、蝦夷族長の君姓も公姓へと換えられている[原 5][11]。
霊亀元年10月(715年)、邑良志別君・須賀君の姓を持つ蝦夷族長の請願によって、彼らの本拠地近傍に郡家が建てられた[11]。陸奥の蝦夷第三等爵邑良志別君宇蘇弥奈の請願の主旨は、「邑良志別君一族は親族の死亡により勢力が著しく弱体化したため、常に狄徒の襲撃に怯えており、その憂いを除くために香河村に郡家を建てたい」というものであった[原 6][11]。蝦夷須賀君古麻比留の請願の主旨は、「自分たち須賀君一族は先祖以来毎年昆布を国家に貢献してきたが、送付先である陸奥国府までは往還に20日をも要し、たいへん辛苦が多いので、近くの閇村に郡家を建てて百姓(公民)と同様の待遇をえて、永く昆布の貢献をおこないたい」というものであった[原 6][12]。
移民政策と陸奥国分割
和銅6年12月、大崎平野に丹取郡が建てられた[13]。近年の見解では、大崎地方中部以北の広大な地域を占める大規模な郡で、のちに丹取郡・志太郡・黒川郡・色麻郡などの諸郡が母胎となって黒川以北十郡が分立したと考えられている[13]。
霊亀元年5月30日(715年7月5日)、坂東6国(相模国・上総国・常陸国・上野国・武蔵国・下野国)から陸奥国へ富民1000戸の大量移民があった[原 7][13]。
養老2年5月、陸奥国の石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡の5郡と常陸国の菊田郡を石城国、陸奥国の白河郡・石背郡・会津郡・安積郡・信夫郡の5郡を石背国とした[13]。これによって陸奥国の領域は宮城県中南部の柴田郡・名取郡・伊具郡・宮城郡の4郡と大崎平野の黒川郡・色麻郡・志太郡・丹取郡の4郡を併せた狭小なものになったとみられる[13]。
大崎平野の蝦夷反乱
養老4年9月28日(720年11月2日)、大崎平野の蝦夷が反乱して按察使上毛野広人を殺害した[原 8][14]。
朝廷は翌9月29日(11月3日)に持節征夷将軍多治比県守と副将軍下毛野石代を陸奥側に、持節鎮狄将軍阿倍駿河を出羽側へと派遣した[原 9][14]。
戦闘経過は不明だが、養老5年4月9日(721年5月9日)には持節征夷将軍と持節鎮狄将軍がそろって帰還している[原 10][14]。
神亀元年体制
政策の変更
養老4年に起きた大崎平野の蝦夷反乱のあと、陸奥国内では新たな政策が実施されていく[15]。養老6年(722年)に蝦夷反乱の大きな要因となった蝦夷への収奪強化の緩和をはかるため、陸奥国内の租庸調を停止した[15]。また蝦夷による貢納や奉仕への反対給付の財源確保を目指して、国内の公民から蝦夷に対する禄として支給するための税布が徴収されるようになった[15]。
その前後(神亀元年4月以前)には石城国と石背国が陸奥国へと短期間で再併合され、広域陸奥国が復活している[15]。これは蝦夷支配を担う陸奥国の行政と財政両面での体制強化を実現するための施策とみられる[15]。
同時期に鎮守府の設立も推進された[15]。鎮守府は鎮兵(専業兵士)を率いて東北の辺境を守護する軍政府で、鎮守将軍以下鎮官によって統括された[15]。鎮兵の出身地の多くは坂東八国[注 1]である[15]。
海道の蝦夷反乱
新たな政策によって陸奥国側に住む蝦夷への懐柔が積極的に進められていた最中の神亀元年3月25日(724年4月22日)、陸奥国で海道の蝦夷が反乱して陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺害した[原 11][15]。このとき反乱の主体となった海道の蝦夷とは、太平洋沿岸地域(現在の宮城県北部から岩手県南部)に住む蝦夷と推定されている[15]。
反乱発生後の同年4月7日(5月4日)に征夷持節将軍藤原宇合、副将軍高橋安麻呂とする征夷軍が鎮圧のために派遣された[原 12][15]。5月24日(6月19日)には鎮狄将軍小野牛養の軍勢も出羽国へと派遣されている[原 13][15]。反乱の平定を終えた宇合らは事件発生後8ヶ月が経過した11月29日(12月19日)に平城京へと帰還した[原 14][15]。
海道の蝦夷反乱について樋口知志は、大崎平野の蝦夷反乱とは発生のメカニズムがやや異なり、海道地方に住む蝦夷集団と律令国家側勢力との間の交易上のトラブルに端を発したのではないか、また律令国家は朝貢に訪れる蝦夷族長への禄の支給体制を整えていたが海道蝦夷たちの不満を抑えるには至らなかったのではないかとしている[15]。
多賀城の創建
神亀元年、多賀城が創建された[16]。天平宝字6年12月1日(762年12月20日)に恵美朝狩(朝獦)が多賀城を修造した記念として作られた多賀城碑の碑文には、神亀元年に按察使兼鎮守将軍大野東人によって設置されたと記されている[16]。多賀城跡の発掘調査成果に基づいて建造は養老年間(717年から724年)よりおこなわれていたとの推察もあり、神亀元年は完成年を示すものである可能性もある[16]。いずれにしても養老4年の大崎平野の蝦夷反乱、神亀元年の海道の蝦夷反乱ときわめて深い関わりをもっていたことは間違いない[16]。
蝦夷反乱というかたちで顕在化した律令国家の東北経営の破綻に対して新たな蝦夷支配体制を構築していこうとする政策基調の下に、多賀城の造営や同時期の大崎平野における城柵や官衙の整備、造営などの諸事情が強力に推進されることになった[16]。神亀元年の蝦夷反乱が終息して多賀城の造営がほぼ成ったと考えられる同年の冬頃以降には、その後半世紀もの長い間にわたって国家と蝦夷との間で戦闘がおこなわれた形跡は一切確認されていない[16]。
陸奥出羽連絡路の開削
天平5年12月26日(734年2月4日)、庄内平野の出羽柵が秋田平野の秋田村高清水岡(秋田県秋田市)へと移設され、雄勝郡が建郡された[原 15][17]。高清水岡の出羽柵は律令国家と北方蝦夷社会が共有する交易推進のための施設としての性格をもっていたため、現地の蝦夷社会に動揺や軍事的緊張をもたらした形跡はあまりみられない[17]。
天平9年1月22日(737年2月25日)、陸奥按察使兼鎮守将軍大野東人が多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請した[原 16]。中央政府から持節大使藤原麻呂、副使佐伯豊人、副使坂本宇頭麻佐らが派遣されると、同年2月より連絡路の建設が進められた[18]。この計画に対して山道と海道の蝦夷の間に疑念が広がったため、海道地方には遠田郡郡領遠田君雄人、山道地方には北上盆地中部の有力族長和我君計安塁を派遣して同様を鎮めさせた[18]。藤原麻呂以下指揮官が多賀城はじめ6城柵を警固する中、大野東人が騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰服狄俘249人を率いて陸奥国賀美郡から出羽国最上郡玉野まで80里の山道を建設した[18]。さらに玉野から比羅保許山までの80里の道も開通させたが、出羽守田辺難波の献策によって比羅保許山から雄勝までの50里については未着工のまま撤退している[18]。律令国家と蝦夷社会との間で軍事的緊張が発生することはなかった[18]。
桃生城と雄勝城の造営
天平宝字3年(759年)9月、陸奥国桃生城と出羽国雄勝城がほぼ同時期に完成した[19]。
雄勝城は孝謙太上天皇の父である聖武天皇によって命じられていたものの、大野東人が果たせず終わった難事業だったが、藤原朝猟らが蝦夷を教導しつつ一戦も交えず完成させた[原 17][20]。
桃生城は黒川以北十郡のひとつ牡鹿郡の当時の領域より大河北上川(旧北上川)を東へ越えた対岸の丘陵地帯に築かれた[21]。天平宝字元年8月より1年足らずの間に1690人の蝦夷や俘囚が帰降してきたので、天平10年閏7月14日(738年9月2日)の勅に準じて水田耕作を営ませて王民とし、辺境守備軍に充てることが定められている[原 18][21]。『続日本紀』天平宝字2年6月11日(758年7月20日)の記事中で「帰降(まつろ)へる夷俘」について「或は本土を去り離れて、皇化に帰慕し、或は身を戦場に捗りて、賊と怨を結ぶ」と述べられていることから、桃生城の造営が契機となって蝦夷社会内部に分裂や内紛が形成されていった可能性が考えられる[21]。
道嶋氏の台頭
伊治城の造営
神護景雲元年10月15日(767年11月10日)、造営開始から完成まで30日に満たない異例の速さで陸奥国の栗原地方に伊治城が完成した[原 19][22]。この城柵は蝦夷豪族や蝦夷系有力者による貢献や支援を受けて造営されたと考えられている[22]。また軍事力については、陸奥国の正規軍にあまり依存せず、蝦夷や俘囚らの保有する武力が常備軍に充当されていた可能性がある[22]。
論功行賞によると田中多太麻呂、石川名足、大伴益立、上毛野稲人、大野石本、道嶋三山、吉弥侯部真麻呂の7人が叙位を受けている[原 19][23]。このうち三山は伊治城造営の実質的な推進主体で最大の功績者であったため、地方豪族出身でありながら中央貴族官僚と同等の厚遇を与えられた[23]。真麻呂は俘囚出身の人物であり、三山に協力して蝦夷・俘囚らに働きかけて造営事業への協力や伊治城下への移住を促した[22]。
伊治城造営直後の神護景雲元年12月8日(768年1月2日)、道嶋嶋足が陸奥国大国造、道嶋三山が陸奥国造となり道嶋氏は最盛期を迎える[24]。近年、道嶋氏は上総地方の住人であったが、7世紀中頃に牡鹿地方へと移住してきたことが明らかになった[25]。
調庸制の改正
神護景雲2年9月15日(768年10月29日)、陸奥国は積雪が多く、初夏(4月)に調を京進して季秋(9月)に本郷へと帰るため、百姓(公民)の生業が甚だしく妨げられていることを理由に、百姓より徴収した調庸物を一旦陸奥国に留め置き、10年に1度だけ京進したい旨を中央政府へと要望し、これを許可された[原 20][26]。この要望が陸奥国・出羽国の調庸物京進停止の端緒となった可能性が高い[26]。陸奥国の調庸物は他国と変わりなく調布や様々な特産品か収取されていたが、この時期から蝦夷に対する夷禄として支給される狭布や蝦夷への饗宴で消費される米穀へと品目が替えられている[27]。陸奥国の調庸制が本来の都への貢進制度から、夷禄や食糧米といった蝦夷に対する支給物を調達するための制度に作り替えられはじめた[28]。
このように調・庸が現地で消費されるようになった一方、交易雑物制によって陸奥国・出羽国から葦鹿皮(ニホンアシカ)や独犴皮など毛皮類が、陸奥国では他にも砂金や昆布(マコンブ)、策昆布(ミツイシコンブ)、細昆布(ホソメコンブ)が特産物として都へ送られていたとみられる[29]。また、蝦夷系住人によって飼養された馬と鷹が、調庸制や交易雑物制とは別の収取システムによって蝦夷社会から国家側社会へともたらされていたと考えられる[29]。調庸物や正税利稲といった公民の手になる生産物を、毛皮・昆布・金・馬・鷹など蝦夷社会の生産物に変換して収取する体制が創出された[28]。
栗原郡と桃生郡の建郡
神護景雲2年12月、称徳天皇の勅で伊治城、桃生城に移住を願う者の課役の免除が決定した[30]。翌神護景雲3年3月1日、農桑の利を求めて桃生城、伊治城に移住する者に賦役令に定める給復規定を上回る優復を与えるよう法令が改正された[30]。
神護景雲3年6月9日(769年7月16日)、陸奥国に栗原郡が置かれる[31][30]。2日後の6月11日(769年7月18日)には浮宕百姓2500余人が陸奥国伊治村に移住させられている[30]。
蝦夷の上京朝貢
神護景雲3年1月2日(769年2月12日)、元日朝賀の儀に陸奥の蝦夷が参列して拝賀している[原 21][32]。1月7日(769年2月17日)に法王宮で五位以上の官人が参列する宴がおこなわれ、そこにも蝦夷が招かれて道鏡より1人1領ずつ緋袍を与えられている[原 22][32]。1月17日(769年2月27日)には平城宮の朝堂で文武百官の主典以上の官人と陸奥の蝦夷に対して饗宴がおこなわれ、蝦夷には叙位と賜物がなされている[原 23][32]。
一括賜姓と公民化
神護景雲3年3月13日(767年9月13日)、陸奥国内諸郡の住人64人に下記の新姓が与えられている[原 24][33]。
- 白河郡の丈部子老、賀美郡の丈部国益、標葉郡の丈部賀例努ら10人に阿倍陸奥臣
- 安積郡の丈部直継足には安倍安積臣
- 信夫郡の丈部大庭らには阿倍信夫臣
- 柴田郡の丈部嶋足には安倍柴田臣
- 会津郡の丈部庭虫ら2人には阿倍会津臣
- 磐城郡の丈部山際には於保磐城臣
- 牡鹿郡の春日部奥麻呂ら3人には武射臣
- 曰理郡の宗何部池守ら3人には湯坐曰理連
- 白河郡の靱大伴部継人、黒川郡の靱大伴部弟虫ら8人には靫大伴連
- 行方郡の大伴部三田ら4人には大伴行方連
- 苅田郡の大伴部人足には大伴苅田臣
- 柴田郡の大伴部福麻呂には大伴柴田臣
- 磐瀬郡の吉弥侯部人上には磐瀬朝臣
- 宇多郡の吉弥侯部文知には上毛野道奥公
- 名取郡の吉弥侯部老人、賀美郡の吉弥侯部大成ら9人には上毛野名取朝臣
- 信夫郡の吉弥侯部足山守ら7人には上毛野鍬山公
- 新田郡の吉弥侯部豊庭には上毛野中村公
- 信夫郡の吉弥侯部広国には下毛野静戸公
- 玉造郡の吉弥侯部念丸ら7人には下毛野俯見公
この一括賜姓は、陸奥大国造道嶋嶋足が朝廷へと働きかけたことによるものであった[原 24][33]。
神護景雲3年11月25日(769年12月27日)、牡鹿郡の俘囚大伴部押人が「大伴部一族は紀伊国名草郡片岡里の出身で、先祖の大伴部直が征夷に従軍して小田郡嶋田村に居住したが、子孫は蝦夷によって虜にされたので代々俘囚として扱われるようになった」とし、俘囚からの調庸の民(公民)になることを請願して許可された[原 25][34]。神護景雲4年4月1日(770年4月30日)、今度は黒川以北十郡に住む俘囚3920人が押人と同様の請願をおこない、3920人全員が公民となっている[原 26][35]。請願した3920人は戸や世帯の代表者の男子の可能性が高く、背後には家族である老若男女がいたことになり、おそらく万単位の人数が俘囚の身分を免じられて公民として処遇を受けるようになった[35]。
樋口知志は、黒川以北十郡では俘囚身分が事実上消滅したものと考えてよく、他方では本拠地名に公のカバネを合わせた姓を持つ蝦夷身分の蝦夷族長層はその後も公民身分に編入されぬまま残されたものと推測している[35]。
道嶋氏の凋落
神護景雲4年8月4日(770年8月28日)、称徳天皇が皇嗣を定めぬまま病没すると、白壁王(光仁天皇)が皇太子に立てられた[36]。白壁王は同年10月1日(10月23日)に平城京の太極殿で即位することとなった [36]。
天武系から天智系へ
宇漢迷公宇屈波宇逃還事件
神護景雲4年8月10日(770年9月3日)[注 2]、奥地の出身と思われる蝦夷族長宇漢迷公宇屈波宇が突然徒族を率いて本拠地に逃げ帰った[原 27][37][38]。陸奥国は使者を送って帰参を促したが、宇屈波宇は憤激して応じず「1、2の同族を率いて城柵を襲撃する」と揚言した(宇漢迷公宇屈波宇逃還事件)[原 27][38]。陸奥国から報告を受けた中央政府は道嶋嶋足を派遣して事実関係の調査をおこなっている[原 27][38]。
陸奥国政への介入
光仁天皇即位直前の神護景雲4年9月16日(770年10月9日)、道鏡の姦計を告げて排斥した功績により、坂上苅田麻呂が鎮守将軍に叙任された[39][40]。苅田麻呂は道嶋嶋足とともに藤原仲麻呂の乱で武功を挙げた人物である[41][40]。しかし在任期間は僅か6ヵ月で、翌宝亀2年閏3月1日(771年4月20日)には後任の佐伯美濃が鎮守将軍と陸奥守を兼任している[40]。
中央政府政界と陸奥国政界の捻れ現象に対して、光仁朝は道嶋氏の陸奥国支配体制に次第に抑圧・介入の動きを強めていく[40]。
宝亀2年から3年の夏にかけて、陸奥国司の陣容が大きく変化しつつあった[42]。2年閏3月には佐伯美濃が陸奥守と鎮守将軍を兼ね、7月には笠道引が陸奥介となり、3年4月には粟田鷹主が陸奥員外介となっている[42]。道嶋氏寄りとみられる前陸奥守石川名足と前陸奥介田口安麻呂の2人もほどなく都へ帰還したとみられ、道嶋三山も鷹主と入れ替わりで陸奥員外介の任を退いた[42]。
宝亀3年9月27日(772年10月27日)、大伴駿河麻呂が陸奥按察使に任命された[43]。駿河麻呂は老齢を理由に固辞したが、光仁天皇は「此の国(陸奥)は、元来、人を択び、以て其の任を授く」と固辞を許さなかった[43]。翌年7月21日(773年8月13日)に駿河麻呂は鎮守将軍も兼ねることになる[43]。
上京朝貢の停止
宝亀5年1月16日(774年3月3日)、上京した出羽の蝦夷・俘囚に対して朝堂で饗宴や叙位、賜禄の儀がおこなわれた[原 28][44]。しかし21日(8日)に蝦夷・俘囚の上京朝貢が唐突に停止されている[原 28][44]。
光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。また、光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある[45]。
三十八年戦争
名称について
後世に文室綿麻呂が「宝亀五年より当年に至るまで、惣て三十八歳、辺寇屡動きて、警□絶ゆること無し」と述べているように[原 29]、奈良時代末期の桃生城襲撃事件から平安時代初期の弘仁二年の征夷まで38年におよぶ「征夷の時代」がはじまる[46][47]。
俗に「三十八年戦争」とも呼ばれるが、その時期区分は征夷の方法によって三期[48]ないし四期[2][要ページ番号]に分類される。以下は三時期に区分して、宝亀5年の海道蝦夷の反乱による桃生城の襲撃に対する征夷から宝亀11年の覚鱉城築城計画までの6年間を「第一期」、宝亀11年の伊治公砦麻呂の乱に対する征夷から桓武朝末期の延暦24年に行われた徳政相論による征夷中止の決定までの25年間を「第二期」、徳政相論から弘仁2年までの6年間を「第三期」とする[48]。
なお三十八年戦争という用語は、虎尾俊哉が1975年刊行の著書ではじめて使用したものである[49]。これに対して遠藤昭一は、1994年刊行の著書『私観アテルイ像を求めて : 三十八年騒乱迷走記』の中で「無論三十八年の間戦いつづけたわけではないので、時には武力を使わない静かな時もあったでしょう。時には一方的に「騒乱状態」を作り出し、その「騒乱」を鎮めるために「戦争」状態になったこともあります。「三十八年」は良いとして「戦争」という概念なり言葉が適当かは今後の検討を要するところでしょう」と論じて「三十八年騒乱」という用語を使っている。
第一期
桃生城襲撃事件
蝦夷の上京朝貢の停止から半年後の宝亀5年7月頃、海道地方の蝦夷らの間で騒擾状態となった[50]。陸奥按察使兼守鎮守将軍大伴駿河麻呂はこの事態に対処するために都に奏状を呈し征夷の是非について光仁天皇に敕断を求めると、天皇は人民を慮って征討軍を興すべきではないと指示を出した[原 30][50]。しかし駿河麻呂は二度目の奏状で「蝦狄が野心を改めず、しばしば辺境を侵して、あえて王命を拒むと」報じて征夷を強く訴えたため、天皇は征夷もやむなしと判断して宝亀5年7月23日(774年9月3日)に征夷決行の許可を命じる[原 30][50][47]。
その2日後の宝亀5年7月25日(774年9月5日)、駿河麻呂は海道蝦夷の叛徒が橋を焼き道を塞いで往来を絶ち、桃生城を襲撃して西郭を破ったため、軍勢を興して討伐にあたったことを報じる陸奥国解を都へと送った[原 30][51][47]。平城京から多賀城までの飛駅は片道7日程度を要するため、7月23日に出された征夷の勅許は7月25日の時点で陸奥国には届いていなかった(桃生城襲撃事件)[51][47]。
桃生城襲撃の報を受けた中央政府は宝亀5年8月2日(774年9月12日)、坂東の8国に対して陸奥国から急を告げてきた場合には直ちに援兵を派遣できるよう、500から2000人の軍兵を集めて待機させておくよう命じた[51][52]。
宝亀5年8月24日(774年10月4日)、駿河麻呂から「犬や鼠などが悪さをした程度の小事件にすぎず、しばしば侵掠はあるものの大した害はなく、草木が繁茂する時期に征夷をするのは得策ではない」との理由で征夷の中止を進言する奏状が天皇の許に届けられる[原 31][46][52]。天皇は駿河麻呂から征夷の実施を申請してきたにもかかわらず、征夷の中止を求めてきたことに激怒して、即日、駿河麻呂を譴責する勅を下した[原 31][46][52]。
遠山村征討戦
宝亀5年9月頃、大伴駿河麻呂は海道蝦夷の拠点のひとつである陸奥国遠山村を征圧した[原 32][53][52]。報告を受けた光仁天皇は、宝亀5年10月4日(774年11月12日)に使者を遣わして御服や綵帛を賜って慰労した[原 32][53][52]。
宝亀6年11月15日(775年12月12日)に論功行賞があり、駿河麻呂に正四位上勲三等、紀広純に正五位下勲五等、百済王俊哲に勲六等が授けられ、1790人余に叙位・叙勲を行っている[原 33][53][52]。
山海二道蝦夷征討戦
宝亀7年1月末頃、陸奥国から同年4月上旬を期日として陸奥国軍2万人を発して山道と海道の蝦夷を征討する計画が申請された[原 34][54][55]。中央政府は宝亀7年2月6日(776年2月29日)に征討計画を承認、出羽国に軍士4000人をもって雄勝方面より山道蝦夷の西辺を攻めて陸奥国の征討を支援するよう指示した[原 34][54][55]。
宝亀7年7月以前に陸奥国で駿河麻呂が死去、征夷は広純らに引き継がれた[56]。
宝亀7年5月2日(776年5月23日)、出羽国志波村の賊と戦った出羽国軍が不利となったため、中央政府は下総国、下野国、常陸国の騎兵を援軍として現地に向かわせている[56]。
宝亀7年9月13日(776年10月29日)には陸奥国の俘囚395人を大宰府管内諸国に移配、11月29日(777年1月13日)には出羽国の俘囚358人を大宰府および讃岐国に移配して、78人を在京の諸司および参議以上に賤(奴婢)として与えている[56]。
宝亀9年6月25日(778年7月24日)、陸奥国司と出羽国司以下2267人に対して叙位・叙勲が行われた[57]。この時、外正六位上吉弥候伊佐西古と蝦夷爵第二等伊治公砦麻呂の2人の蝦夷系豪族も地方人として最高位に近い外従五位下を与えられている[57]。
駿河麻呂の山海二道蝦夷征討計画について樋口知志は、征討される蝦夷社会の側にとってはあまりにも理不尽なものであったといわざるをえないと論じている[54]。
伊治公呰麻呂の乱
宝亀11年1月頃、蝦夷の賊が北方より大崎平野に侵入して百姓に危害を加える事件が起こった[原 35][58]。
宝亀11年2月2日(780年3月12日)、陸奥国司は覚山道蝦夷の本拠である胆沢の地を攻略するため、新たに覚鱉城を造営することを申し出る(覚鱉城造営計画)[原 35][58][59]。
宝亀11年3月、按察使紀広純が陸奥介大伴真綱と牡鹿郡大領道嶋大楯らを伴って覚鱉城造営の用務で俘軍を率いて伊治城に入城した[60]。
宝亀11年3月22日(780年5月1日)[注 3]に此治郡大領伊治公呰麻呂が突如反乱を起こして紀広純と大楯の2人を殺害した[61][60][62]。
数日後、賊徒(反乱軍)は無人となった多賀城を襲撃し、府庫を略奪、火を放って焼き払った[61][60][62]。
正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある[63][要ページ番号]。
第二期
天応元年の征夷
藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781年)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。
延暦八年の征夷
延暦8年(789年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという(巣伏の戦い)。
『続日本紀』延暦8年6月3日条には官軍の純粋な戦闘死は25人とみえ[原 36]、一方で『続日本紀』延暦8年7月17日条には89人の敵軍兵士の首を取ったとあり[原 37]、同じ巣伏の戦いにおける官軍と胆沢蝦夷軍の戦闘死者数であるならば、官軍は相当善戦したことになる[64]。しかし延暦8年6月3日条での官軍は阿弖流爲率いる胆沢蝦夷軍に翻弄され、惨敗を喫しているため、その際に敵軍兵士の首を89級も挙げることが出来たとは考えがたい[64]。
そのため延暦八年の征夷は、5月下旬から末頃に起こった巣伏の戦いと呼ばれる第一次胆沢合戦の後に、第二次胆沢合戦が起こっていた可能性が指摘されている[64]。
延暦十三年の征夷
延暦13年(794年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。
延暦二十年の征夷
延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。このとき蝦夷の族長・阿弖流爲は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が五百余人を率いて降伏したこと[注 4]、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対し阿弖利爲と母禮が河内国椙山で斬られたことが記録されている。また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されている。
徳政相論
延暦24年12月7日(805年12月31日)、桓武天皇は藤原緒嗣と菅野真道に天下の徳政について議論させ、征夷と造都の中止を主張した緒嗣の議を善しとして停廃することを決めた(徳政相論)[原 38][65][66]。
征夷軍士、鎮兵の派遣や柵戸の移配、征夷のための物資の調達などの蝦夷政策が徳政相論以後は基本的に停止され、蝦夷政策に必要な人と物は一部を除いて陸奥国や出羽国で確保されるようになる[67]。このような体制は在京の田村麻呂によって構想されたとみられる[67]。
第三期
弘仁二年の征夷
弘仁2年(811年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている[2][要ページ番号]。
平安時代
三十八年戦争後
民夷融和政策
文室綿麻呂による軍事行動を最後に律令国家の征夷は終焉して「民夷融和政策」と呼ばれる公民と蝦夷との身分差の解消をはかろうとする一種の同和政策が推進されていく[68]。
弘仁3年6月2日(812年7月13日)、諸国の夷俘が朝制を遵守せずに多くの法を犯して教化が難しい状態であるとして、夷俘の中から夷俘長を1人選んで夷俘を監督させることが定められた[原 39][69]。
弘仁4年11月21日(813年12月17日)、入京越訴の多発を理由として、夷俘問題を専門に担当する夷俘専当国司が置かれた[69]。同年11月24日(813年12月20日)には、再度敕が発せられて全国の国司の介以上が一斉に夷俘専当国司に任命されている[69]。
弘仁5年12月1日(815年1月14日)、嵯峨天皇は官人や百姓が帰降した蝦夷や俘囚個人に対して「夷俘」と蔑称することを禁止し、官職や位階をもつ人に対しては官位姓名で、もたない人に対しても姓名で呼ぶべきことを命じた[原 40][68]。
以後、組織だった蝦夷征討は停止し、朝廷の支配下に入った夷俘、俘囚の反乱が記録されるのみとなったが、津軽や渡島の住民は依然蝦夷と呼ばれた[70][要ページ番号]。夷俘、俘囚の反乱の主なものとしては、元慶の乱、天慶の乱などがある[70][要ページ番号]。
移配蝦夷の処遇と闘争
移配先で富裕化すると善行によって叙位されるなど、律令国家側に順応する移配蝦夷が存在した[71]。一方では、貧困と社会的差別の中で抵抗を続けていた移配蝦夷も存在し、しばしば入京越訴と反乱が発生していた[71]。
移配蝦夷の反乱は弘仁5年(814年)に出雲国、嘉祥元年(848年)に上総国、貞観17年(875年)に下総国と下野国、元慶7年(883年)に上総国で発生している[71]。貞観17年5月10日(875年6月16日)に起きた下総国の反乱では、第一報を受けた中央政府が俘囚の反乱を「俘虜の怨乱」と述べている[71]。朝廷から移配蝦夷の怨みが反乱の原因として認識されていた[71]。しかし移配蝦夷が必ずしも好戦的であったわけではなく、問題が起きると所管の国司に訴えていたが、問題が放置されたり、不当な判決を下される事が多かったため朝廷に直接上訴し、それでも解決しない場合に最後の手段として反乱を起こしていた[69]。
移配蝦夷は9世紀初頭以降、防人などの軍事力として利用されるようになる[72]。貞観11年12月5日(870年1月10日)、夷俘50人を1番として1ヵ月交替で鴻臚館や津厨などを守らせることとなった[72]。寛平7年3月13日(895年4月11日)には博多警固所に夷俘50人を置くことが定められている[72]。大宰府以外にも承和6年4月2日(839年5月18日)に右近衛将監坂上当宗と近衛俘夷が伊賀国名張郡山中で銭貨を偽造していた群盗を逮捕した例[原 41]、貞観9年11月に伊予国宮崎村の海賊を討つために瀬戸内海沿岸の諸国に俘囚を招き募ることを命じた例などがある[72]。
奥郡騒乱
承和の騒擾
承和4年4月16日(837年5月23日)、鳴子火山が噴火したため、陸奥国司に玉造塞の温泉石神を鎮めて夷狄を教諭するよう命じた[原 42][73]。
承和4年4月21日(837年5月28日)、鎮守将軍匝瑳末守が、去年の春から今年の春に至るまで、百姓が妖言をして騒擾が止まず、奥郡の民が住居を捨てて逃げ出していると報告した[原 43][74]。この報告を受けた陸奥出羽按察使坂上浄野は、栗原桃生以北の俘囚に控弦が多く、国家への反復も定まらず、非常事態が発生すれば防御しがたいので、援兵1000人を徴発して派遣することを決定し、その事後承諾を中央政府に求めている[原 43][74]。
承和7年3月26日(840年5月1日)、陸奥守良峰木連と前鎮守将軍匝瑳末守は、奥郡の民がともに庚申年を称して逃亡する者があとを絶たないので、騒ぎを静めるため援兵2000人を徴発したことを報告している[原 44][74]。また承和7年(840年)は干支が庚申にあたり、60年前の庚申年である宝亀11年(780年)には伊治公砦麻呂の乱が、その60年前の庚申年である養老4年(720年)には大崎平野の蝦夷反乱があったことから、奥郡騒乱は「庚申年には蝦夷反乱が起こる」との言い伝えが広まるきっかけとなった[14][74]。
蝦夷系豪族の台頭
奥郡騒乱に対して対処療法的に援兵の動員、磐城団の増設、国府弩師の再置、公出挙利率の5割から3割への引き下げ、5年間の給復などの軍事力強化と民の負担軽減対策が講じられたが、本質的な対策は蝦夷系豪族を登用して辺境支配の担い手とすることであった[75]。承和2年(835年)から同7年(840年)にかけて俘囚に外五位を授与する例が6例あり、律令国家が奥郡の支配や騒乱の沈静化に蝦夷系豪族の保有する武力を積極的に利用した証左とみられる[75]。
蝦夷系豪族の登用と、その支配力に依拠した支配体制の構築は、俘囚の系譜を引く奥六郡の安倍氏や山北三郡の清原氏といった大豪族の台頭に繋がったと考えられる[75]。なお前九年の役、後三年の役については、文献上征討対象である安倍氏、清原氏を俘囚とするものがあるものの、近年では両者とも官位を有する下級貴族階級であったとする説が有力になってきている[70][要ページ番号]。
元慶の乱
出羽俘囚の乱
研究と評価
樋口知志は、2013年刊行の著書『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』の中で、古代の蝦夷については蝦夷=アイヌ説に立脚した論調が散見され、古代日本人の外側に位置した異族的集団であったように捉えられることも少なくない[76]。しかし現在では学会の共有財産となる標準的な見解が成立しており、蝦夷の中には渡嶋(北海道)の蝦夷など極めて僻遠の地の集団も含まれるが、本州内に居住していた蝦夷については現代日本人の祖先のうちの一群であった[76]。奈良時代から平安時代初期には奥羽両国の蝦夷が関東から九州まで全国に移住させられたことがあり、各地に血統を伝えている[76]。現代日本人の身体の中には大概、征服者と被征服者の双方の血がともに流れていることになる[76]。東北人だけが蝦夷の後裔として敗れし者の血を承け継いでいるわけではないとしている[76]。
年表
- 敏達天皇10年(581年) : 蝦夷の寇。
- 舒明天皇9年(637年) : 蝦夷反乱し入朝せず、上毛野形名が妻の活躍により征討に成功。
- 大化3年(647年) : 渟足柵設置。
- 大化4年(648年) : 磐舟柵設置。
- 斉明天皇4年(658年) : 阿倍比羅夫が遠征し、降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。
- 斉明天皇5年(659年) : 阿倍比羅夫蝦夷を討ち、一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
- 斉明天皇6年(660年) : 阿倍比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。同年、比羅夫は夷50人余りを献じる。
- 和銅元年(708年)頃 : 出羽柵設置。
- 和銅2年(709年) : 蝦夷が良民を害し、巨勢麻呂、佐伯石湯、紀諸人らが征討に出発。諸国の兵器を出羽国に送る。
- 和銅5年(712年) : 出羽国設置
- 養老4年(720年) : 陸奥国の蝦夷の反乱、按察使上毛野広人殺害。多治比県守征討。
- 神亀元年(724年) : 海道の蝦夷の反乱、陸奥大掾佐伯児屋麻呂殺害。小野牛養、出羽の蝦夷を征討。大野東人が多賀城築城。
- 天平5年(733年) : 秋田城(出羽柵を移動)設置。
- 天平9年(737年) : 牡鹿柵設置。
- 天平宝字3年(759年) : 雄勝城・桃生城築城。
- 神護景雲元年(767年) : 伊治城築城。
- 宝亀元年(770年) : 宇漢迷公宇屈波宇逃還事件。
- 宝亀5年(774年) : 桃生城襲撃事件
- 宝亀5年(774年) : 紀広純、大伴駿河麻呂派遣、桃生城に侵攻した蝦夷を征討(~宝亀6年)。(三十八年戦争の開始)
- 宝亀7年(776年) : 陸奥国、蝦夷征討。志波村の蝦夷反逆、佐伯久良麻呂投入、胆沢地方の蝦夷征討。
- 宝亀8年(777年) : 出羽において戦闘継続、出羽国軍蝦夷に敗れるも翌年までには一旦反乱収束。
- 宝亀11年(780年) : 陸奥国長岡郡に蝦夷侵入。覚鱉城(かくべつじょう)築城。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)勃発、牡鹿郡大領道嶋大楯、紀広純殺害。多賀城炎上。藤原継縄、大伴益立、紀古佐美、大伴真綱、安倍家麻呂ら投入。百済王俊哲投入。出羽国府後退とする説あり。
- 天応元年(781年) : 藤原小黒麻呂投入。戦果を挙げ征夷軍一旦解散。
- 延暦8年(789年) : 紀古佐美、佐伯葛城らによる蝦夷征討。大規模な対蝦夷軍事行動はじまる。巣伏の戦いで征夷軍大敗。巨勢野足投入。
- 延暦10年(791年) : 文屋大原、大伴弟麻呂、百済王俊哲、多治比浜成、坂上田村麻呂投入。
- 延暦13年(794年) : 征夷副将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐。
- 延暦16年(797年) : 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官。
- 延暦20年(801年) : 坂上田村麻呂、閉伊村まで平定。
- 延暦21年(802年) : アテルイ、モレら降伏、処刑。胆沢城築城。
- 延暦22年(803年) : 紫波城築城。
- 延暦24年(805年) : 藤原緒嗣、蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。
- 弘仁2年(811年) : 幣伊村征討。和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置。文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。
- 貞観11年(869年) : 貞観地震
- 元慶2年(878年) : 出羽の夷俘反乱(元慶の乱)
- 天慶2年(939年) : 出羽の俘囚反乱(天慶の乱)
- 永承6年(1051年)-康平5年(1062年) : 安倍氏征討(前九年の役)。
- 延久2年(1070年) : 延久蝦夷合戦
- 永保3年(1083年)-寛治元年(1087年) : 清原氏征討(後三年の役)。
- 康和6年(1104年)-永久元年(1113年)頃 : 藤原基頼が「出羽常陸并北国凶賊」を討つ。
- 文治5年(1189年) : 奥州藤原氏征討。(奥州合戦)
- 文永5年(1268年) : 津軽の蝦夷反乱。安藤氏討たれる。
- 元応2年(1320年)-嘉暦3年(1328年) : 安藤氏の乱(蝦夷大乱)。
関連資料
脚注
原典
- ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戌午年十月条
- ^ 『続日本紀』和銅二年三月壬戌(六日)条
- ^ 『続日本紀』和銅五年九月己丑(二十三日)条
- ^ 『続日本紀』和銅三年四月辛丑(二十一日)条
- ^ 『続日本紀』天平宝字三年十月辛丑(八日)条
- ^ a b 『続日本紀』霊亀元年十月丁丑(二十九日)条
- ^ 『続日本紀』霊亀元年五月庚戌(三十日)条
- ^ 『続日本紀』養老四年九月丁丑(二十八日)条
- ^ 『続日本紀』養老四年九月戊寅(二十九日)条
- ^ 『続日本紀』養老五年四月乙酉(九日)条
- ^ 『続日本紀』神亀元年三月甲申(二十五日)条
- ^ 『続日本紀』神亀元年四月丙申(四日)条
- ^ 『続日本紀』神亀元年五月壬午(十九日)条
- ^ 『続日本紀』神亀元年十一月乙酉(二十九日)条
- ^ 『続日本紀』天平五年十二月己未(二十六日)条
- ^ 『続日本紀』天平九年正月丙申(二十二日)条
- ^ 『続日本紀』天平宝字四年正月丙寅(四日)条
- ^ 『続日本紀』天平宝字二年六月辛亥(十一日)条
- ^ a b 『続日本紀』神護景雲元年十月辛卯(十五日)条
- ^ 『続日本紀』神護景雲二年九月壬辰卯(二十二日)条
- ^ 『続日本紀』神護景雲三年正月辛羊(二日)条
- ^ 『続日本紀』神護景雲三年正月丙子(七日)条
- ^ 『続日本紀』神護景雲三年正月丙戌(十七日)条
- ^ a b 『続日本紀』神護景雲三年三月辛巳(十三日)条
- ^ 『続日本紀』神護景雲三年十一月己丑(二十五日)条
- ^ 『続日本紀』宝亀元年四月朔(一日)条
- ^ a b c 『続日本紀』宝亀元年八月己亥(十日)条
- ^ a b 『続日本紀』宝亀五年正月庚申(二十日)条
- ^ 『日本後紀』弘仁二年閏十二月辛丑(十一日)条
- ^ a b c 『続日本紀』宝亀五年七月庚申(二十三日)条
- ^ a b 『続日本紀』宝亀五年八月辛卯(二十四日)条
- ^ a b 『続日本紀』宝亀五年十月庚午(四日)条
- ^ 『続日本紀』宝亀六年十一月乙巳(十五日)条
- ^ a b 『続日本紀』宝亀七年二月甲子(六日)条
- ^ a b 『続日本紀』宝亀十一年二月丁酉(二日)条
- ^ 『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条
- ^ 『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条
- ^ 『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅(七日)条
- ^ 『続日本紀』弘仁三年六月戊子(二日)条
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- ^ a b 『続日本後紀』承和四年四月癸丑(二十一日)条
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注釈
出典
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関連項目