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小野牛養

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小野牛養
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平11年10月5日739年11月10日
官位 従四位下皇后宮大夫
勲五等
主君 元正天皇聖武天皇
氏族 小野氏
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小野 牛養(おの の うしかい)は、奈良時代貴族官位従四位下皇后宮大夫

経歴

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元正朝初頭の霊亀2年(716年従五位下叙爵

聖武朝初頭の神亀元年(724年)3月に海道(東北地方太平洋沿岸地域)の蝦夷が起こした反乱を鎮圧するため[1]、4月に任ぜられた持節大将軍藤原宇合、副将軍・高橋安麻呂に続いて[2]、5月に牛養も出羽国蝦夷征討のため鎮狄将軍に任ぜられる。この遠征による成果は明らかでないが、同年11月末に宇合と牛養は平城京に帰還している[3]。翌神亀2年(725年)閏正月に遠征した将軍らに対する叙位叙勲が行われた際、藤原宇合や高橋安麻呂は叙位叙勲を受けている。一方で、牛養は少なくとも叙位が行われた形跡がないが、天平年間には勲五等を持っていることから、この時に勲五等の勲位のみを与えられた可能性もある。

神亀5年(728年正五位下に叙せられ、翌天平元年(729年)2月に発生した長屋王の変に際しては、右中弁として長屋王に対する罪状の糾問に参画している[4]。同年8月に従四位下に叙せられ、9月に聖武天皇の夫人・藤原安宿媛が皇后に冊立(光明皇后)されると、牛養は皇后宮大夫に任ぜられこれに仕える。天平2年(730年)には催造司監を兼ねて平城宮の造営も担当した。

天平11年(739年)10月5日卒去。最終位階は従四位下。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 続日本紀』神亀元年3月25日条
  2. ^ 『続日本紀』神亀元年4月7日条
  3. ^ 『続日本紀』神亀元年11月29日条
  4. ^ 『続日本紀』天平元年2月11日条
  5. ^ 『大日本古文書(編年文書)』1巻553頁

参考文献

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