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磐城団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

磐城団(いわきだん)は、9世紀から10世紀の日本で陸奥国に置かれた軍団の一つで、当時の磐城郡、現在のいわき市にあったと推定される。

歴史

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古代日本の軍団制は大宝元年(701年)の大宝令までに実施されたと推定される。陸奥国では8世紀に蝦夷との戦争が激化しており、複数の軍団が存在したはずだが、軍団の名はわずかしか伝わっていないので、磐城団が置かれたかは不明である。

2軍団になった弘仁2年(811年)に磐城団はなく、弘仁6年(815年)8月の6団体制[1]でも置かれなかった。確実に存在するのは承和15年(847年)で、前の6団に磐城団が見えないこと、この後陸奥国は7団体制で続いたことから、815年と847年の間に磐城団が新設されたと推定される。推定設置年をもう少し狭めようとする説が様々にある。

史料中、磐城団への唯一の言及は、『続日本後紀』承和15年(847年)5月13日の記事で、この日に磐城団の少毅陸奥丈部臣継島と擬主帳伊具郡麻続郷の戸主陸奥臣善福が、阿倍陸奥臣を与えられた[2]

磐城団の兵士は、白河団行方団安積団の兵士とともに、交代で多賀城国府に上って守備にあたった[3]

10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されており、その中に磐城団があったと推測される。廃止時期は不明だが、この頃既に軍団は形骸化していた。

脚注

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  1. ^ 類聚三代格』巻第十八。黒板勝美・編『類聚三代格(後編)・弘仁格抄』551-552頁。
  2. ^ 『続日本後紀』承和15年(847年)5月辛未(13日)条。
  3. ^ 元慶年間(877年から884年)の太政官符に、鎮守府の守備にあたる軍毅が15人、国府守備にあたる軍毅が20人とある。前者を北部の3軍団、後者を磐城団を加えた南部の4軍団と按分すれば、5人ずつで割り切れる。平川南『漆紙文書の研究』282頁。

参考文献

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  • 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)、ISBN 4-642-02244-9 に所収。論文初出は『続日本紀研究』199号、1978年10月。
  • 平川南『漆紙文書の研究』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-02232-5