「谷垣専一」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Category:1913年生を除去; Category:1912年生を追加 (HotCat使用) |
m Bot作業依頼: 文部大臣の改名に伴うリンク修正依頼 - log |
||
16行目: | 16行目: | ||
|サイン = |
|サイン = |
||
|国旗 = 日本 |
|国旗 = 日本 |
||
|職名 = 第100代 [[ |
|職名 = 第100代 [[文部大臣]] |
||
|内閣 = [[第2次大平内閣]] |
|内閣 = [[第2次大平内閣]] |
||
|就任日 = [[1979年]][[11月9日]] |
|就任日 = [[1979年]][[11月9日]] |
||
29行目: | 29行目: | ||
|退任理由2 = 在職のまま死去 |
|退任理由2 = 在職のまま死去 |
||
}} |
}} |
||
'''谷垣 専一'''(たにがき せんいち、[[1912年]](明治45年)[[1月18日]]<ref name=":0" /> - [[1983年]](昭和58年)[[6月27日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[従三位]][[勲一等]]。[[ |
'''谷垣 専一'''(たにがき せんいち、[[1912年]](明治45年)[[1月18日]]<ref name=":0" /> - [[1983年]](昭和58年)[[6月27日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[従三位]][[勲一等]]。[[文部大臣]]。妻は陸軍中将[[影佐禎昭]]の長女安紀。第24代[[自由民主党総裁]]の[[谷垣禎一]]は長男。 |
||
== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
||
[[京都府]][[福知山市]]の[[造り酒屋]][[谷垣松次郎]]の五男として生まれた。[[第三高等学校 (旧制)|三高]]、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]][[法学部|法律学科]]を卒業後、1936年、[[農林水産省|農林省]]入省(農務局嘱託<ref name="Nihon kanryōsei 1986 - 2000">『日本官僚制総合事典』[[東京大学出版会]]、2001年11月発行、317頁</ref>)。農地局管理部長、農林経済局農業協同組合部長などを経て<ref >『日本の官庁』国土政策研究会、1977年、38頁</ref>、[[1955年]]10月に[[農林水産省大臣官房#農林省大臣官房長|大臣官房長]]、1956年6月に畜産局長となる<ref>『議会制度百年史:衆議院議員名鑑』[[大蔵省]][[国立印刷局|印刷局]]、[[1990年]]、349頁</ref>。 |
[[京都府]][[福知山市]]の[[造り酒屋]][[谷垣松次郎]]の五男として生まれた。[[第三高等学校 (旧制)|三高]]、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]][[法学部|法律学科]]を卒業後、1936年、[[農林水産省|農林省]]入省(農務局嘱託<ref name="Nihon kanryōsei 1986 - 2000">『日本官僚制総合事典』[[東京大学出版会]]、2001年11月発行、317頁</ref>)。農地局管理部長、農林経済局農業協同組合部長などを経て<ref >『日本の官庁』国土政策研究会、1977年、38頁</ref>、[[1955年]]10月に[[農林水産省大臣官房#農林省大臣官房長|大臣官房長]]、1956年6月に畜産局長となる<ref>『議会制度百年史:衆議院議員名鑑』[[大蔵省]][[国立印刷局|印刷局]]、[[1990年]]、349頁</ref>。 |
||
退官後、[[農林中央金庫]][[監事]]を務めたが<ref name=":0">{{Cite web|title=谷垣 専一(タニガキ センイチ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B0%B7%E5%9E%A3%20%E5%B0%82%E4%B8%80-1676936|website=コトバンク|accessdate=2020-02-16|language=ja|first=新訂 政治家人名事典|last=明治~昭和}}</ref>、[[1960年]]に[[芦田均]]の地盤を引き継いで自由民主党公認で[[京都府第2区 (中選挙区)|京都2区]]から[[第29回衆議院議員総選挙]]に出馬し当選、[[吉田茂]]の流れを汲む[[宏池会]]に所属した(当選同期に[[宇野宗佑]]・[[海部俊樹]]・[[仮谷忠男]]・[[細田吉蔵]]・[[小沢辰男]]・[[佐々木義武]]・[[田沢吉郎]]・[[伊藤宗一郎]]・[[久保田円次]]・[[田川誠一]]・[[渋谷直蔵]]・[[藤井勝志]]など)。その後、衆院選には8回の当選を重ねた。この間、建設政務次官、厚生政務次官、自由民主党副[[幹事長]]を歴任。1976年の衆院選で落選も、1979年1月の衆院補選で復帰。その後[[ |
退官後、[[農林中央金庫]][[監事]]を務めたが<ref name=":0">{{Cite web|title=谷垣 専一(タニガキ センイチ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B0%B7%E5%9E%A3%20%E5%B0%82%E4%B8%80-1676936|website=コトバンク|accessdate=2020-02-16|language=ja|first=新訂 政治家人名事典|last=明治~昭和}}</ref>、[[1960年]]に[[芦田均]]の地盤を引き継いで自由民主党公認で[[京都府第2区 (中選挙区)|京都2区]]から[[第29回衆議院議員総選挙]]に出馬し当選、[[吉田茂]]の流れを汲む[[宏池会]]に所属した(当選同期に[[宇野宗佑]]・[[海部俊樹]]・[[仮谷忠男]]・[[細田吉蔵]]・[[小沢辰男]]・[[佐々木義武]]・[[田沢吉郎]]・[[伊藤宗一郎]]・[[久保田円次]]・[[田川誠一]]・[[渋谷直蔵]]・[[藤井勝志]]など)。その後、衆院選には8回の当選を重ねた。この間、建設政務次官、厚生政務次官、自由民主党副[[幹事長]]を歴任。1976年の衆院選で落選も、1979年1月の衆院補選で復帰。その後[[文部大臣]]([[第2次大平内閣]])となった。 |
||
宏池会では[[宮澤喜一|宮沢喜一]]を支える七奉行の一人であった。1983年5月引退を表明し療養していたが<ref name=":0" />、1983年6月27日、71歳で死去。同年の[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]][[補欠選挙]]では、息子の禎一が地盤を承継して出馬、当選を果たしている。 |
宏池会では[[宮澤喜一|宮沢喜一]]を支える七奉行の一人であった。1983年5月引退を表明し療養していたが<ref name=":0" />、1983年6月27日、71歳で死去。同年の[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]][[補欠選挙]]では、息子の禎一が地盤を承継して出馬、当選を果たしている。 |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
<references />{{文部科学大臣|1979年-1980年|[[ |
<references />{{文部科学大臣|1979年-1980年|[[文部大臣]]}} |
||
{{衆議院地方行政委員長|1972年}} |
{{衆議院地方行政委員長|1972年}} |
||
{{DEFAULTSORT:たにかき せんいち}} |
{{DEFAULTSORT:たにかき せんいち}} |
2020年12月30日 (水) 08:56時点における版
谷垣専一 たにがき せんいち | |
---|---|
| |
生年月日 | 1912年1月18日 |
出生地 | 京都府福知山市 |
没年月日 | 1983年6月27日(71歳没) |
出身校 |
東京帝国大学 (現・東京大学) |
前職 | 国家公務員(農林省) |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 妻・谷垣安紀 |
親族 | 長男・谷垣禎一 |
第100代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月9日 - 1980年7月17日 |
選挙区 | 京都府第2区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1960年11月21日 - 1983年6月27日 |
谷垣 専一(たにがき せんいち、1912年(明治45年)1月18日[1] - 1983年(昭和58年)6月27日)は、日本の政治家。従三位勲一等。文部大臣。妻は陸軍中将影佐禎昭の長女安紀。第24代自由民主党総裁の谷垣禎一は長男。
来歴・人物
京都府福知山市の造り酒屋谷垣松次郎の五男として生まれた。三高、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、1936年、農林省入省(農務局嘱託[2])。農地局管理部長、農林経済局農業協同組合部長などを経て[3]、1955年10月に大臣官房長、1956年6月に畜産局長となる[4]。
退官後、農林中央金庫監事を務めたが[1]、1960年に芦田均の地盤を引き継いで自由民主党公認で京都2区から第29回衆議院議員総選挙に出馬し当選、吉田茂の流れを汲む宏池会に所属した(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・伊藤宗一郎・久保田円次・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。その後、衆院選には8回の当選を重ねた。この間、建設政務次官、厚生政務次官、自由民主党副幹事長を歴任。1976年の衆院選で落選も、1979年1月の衆院補選で復帰。その後文部大臣(第2次大平内閣)となった。
宏池会では宮沢喜一を支える七奉行の一人であった。1983年5月引退を表明し療養していたが[1]、1983年6月27日、71歳で死去。同年の衆議院議員補欠選挙では、息子の禎一が地盤を承継して出馬、当選を果たしている。