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4月6日、ドイツ軍は[[ユーゴスラビア王国]]([[ユーゴスラビア侵攻]])や[[ギリシャ王国]]など[[バルカン半島]]([[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]])、[[エーゲ海]]島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下([[クレタ島の戦い]])させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらに[[ジブラルタル]]攻撃を計画したが[[中立国]]スペインはこれを認めなかった。またこの間に[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]、[[ルーマニア王国]]を枢軸国に加えた。 |
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[[6月22日]]、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、[[イタリア]]、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦([[バルバロッサ作戦]])を開始し、[[独ソ戦]]が始まった<ref group="注釈">ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらは[[イギリス]]が意図的に流した[[偽情報]]と考え、侵攻に備えていなかった。</ref>。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは[[6月26日]]、ソ連に宣戦布告した([[継続戦争]])。開戦当初、[[赤軍]](当時の[[ソビエト連邦陸軍|ソ連陸軍]]の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かった[[ウクライナ]]、[[バルト三国]]等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が[[武装親衛隊]]に志願した。また、西ヨーロッパからも[[フランス義勇軍]] ([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|fr]]) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。 |
[[6月22日]]、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、[[イタリア]]、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦([[バルバロッサ作戦]])を開始し、[[独ソ戦]]が始まった<ref group="注釈">ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらは[[イギリス]]が意図的に流した[[偽情報]]と考え、侵攻に備えていなかった。</ref>。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは[[6月26日]]、ソ連に宣戦布告した([[継続戦争]])。開戦当初、[[赤軍]](当時の[[ソビエト連邦陸軍|ソ連陸軍]]の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かった[[ウクライナ]]、[[バルト三国]]等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が[[武装親衛隊]]に志願した。また、西ヨーロッパからも[[フランス義勇軍]] ([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|fr]]) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。 |
2020年8月16日 (日) 13:07時点における版
第二次世界大戦 | |
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左上:万家嶺の戦い 右上:第一次エル・アラメイン会戦 左中央:スターリングラード攻防戦 右中央:東部戦線におけるシュトゥーカ急降下爆撃機 左下:降伏文書に署名するドイツ元帥ヴィルヘルム・カイテル 右下:リンガエン湾侵攻 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1939年9月1日 - 1945年9月2日 | |
場所:ヨーロッパ、アジア、太平洋、北アフリカ他 | |
結果:連合国の勝利
世界秩序の変革(第二次世界大戦の影響) | |
交戦勢力 | |
連合国 大英帝国(1939-1945)
共同参戦国 |
枢軸国 ドイツ国(1939-1945) イタリア王国(1940-1943[1]) イタリア社会共和国 (1943-1945) 大日本帝国(1941-1945) ルーマニア王国(1941–1944) ハンガリー王国(1941–1945) フィンランド(1941-1944) ブルガリア王国(1941–1944) タイ(1942-1945) ビルマ国(1943-1945)など |
指導者・指揮官 | |
ジョージ6世 ネヴィル・チェンバレン (-1940) ウィンストン・チャーチル (1940-1945) クレメント・アトリー (1945) ヨシフ・スターリン アルベール・ルブラン (-1940) シャルル・ド・ゴール(1940-) ヴワディスワフ・シコルスキ 蒋介石 フランクリン・D・ルーズベルト (1941-1945) ハリー・S・トルーマン (1945) ロバート・メンジーズ ジョン・カーティン ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング 第2代リンリスゴー侯爵(-1943) 初代ウェーヴェル子爵(1943-) クアン・アパイウォン(1945-) |
アドルフ・ヒトラー (1939-1945) カール・デーニッツ(1945) ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 ベニート・ムッソリーニ 昭和天皇 東条英機(-1944) 小磯國昭 (1944-1945) 鈴木貫太郎(1945) イオン・アントネスク ホルティ・ミクローシュ ボリス3世 (1941-1943) キリル (1943-1945) リスト・リュティ ラーマ8世 プレーク・ピブーンソンクラーム |
損害 | |
死者 軍人1,700万人 民間人3,300万人 (諸説有り) |
死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説有り) |
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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II、略称:WWII、中国語: (繁体字)第二次世界大戰、ドイツ語: Zweiter Weltkrieg、フランス語: Seconde Guerre mondiale、ロシア語: Вторая мировая войнаה)は、1939年から1945年までの6年余りにわたって、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、オランダ、フランス、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた戦争で、第一次世界大戦以来の全世界的規模の戦争となった。
1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソビエト連邦によるポーランド侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告によりヨーロッパは戦場と化した。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアとの太平洋戦争(大東亜戦争)開戦によって、戦火は全世界に拡大し、人類史上最大規模の戦争となった。
概略
参戦した国
枢軸国は1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。
すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
また、イタリアなど連合国に降伏したあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。
戦域
第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋・オセアニア・インド洋、東南アフリカ全域を含むものに分けられる。
このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。
欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、アメリカ、フランス、カナダ、ブラジルなどが戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。
太平洋戦線は太平洋戦争と連合国により呼称され(当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが太平洋の島々とアラスカやハワイを含むアメリカやその領土のフィリピン、オーストラリアなどで戦った太平洋戦域、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域、英領ビルマや英領インド、英領セイロンややフランス領東アフリカで日本がイギリスやオーストラリアなどと戦った東南アジア戦域、そして中国大陸や満州国などで日本や満州国が中華民国とアメリカ、イギリスなどと戦った日中戦争に分けられる。
しかし、これら以外に中東や南米、中米、カリブ海、アリューシャン列島などでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。
戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため全面的な人的、物的資源の動員、投入が行われた。世界の61か国と当時の独立国の殆どが参戦し、総計で約1億1,000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
比較
第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦であったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断、戦艦を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信と空母を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されるため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた[2]。
使用された兵器には、著しく発達した航空機や戦車、潜水艦などに加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器がある。
総力戦も第一次世界大戦より徹底され、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者に対する国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別がなくなり、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。
またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対して組織的大量虐殺を戦争と並行して進めた。これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され[3]、その途上で200万人が死亡している[3]。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。
戦後
戦争中から連合国では、国際連合など戦後秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本の国力が戦後著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。この両国は戦後世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、その対立は1990年代に至るまでの長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。
また、欧州の白人諸国家の統治下にあったアジア、アフリカの植民地では民族自決そして独立の機運が高まって、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立し、結果として欧州列強の地位は著しく低下した。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。
経過(全世界における大局)
1939年9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍がポーランドへ侵攻。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もドイツの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。この侵略行為を非難され、ソ連は国際連盟から除名された。
1940年3月にはソ連はフィンランドから領土を割譲。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐し、さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行われたが、大損害を被り同年9月には上陸作戦は断念する。その結果ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。
1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。6月にドイツはソ連へ侵攻した(独ソ戦)。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いてアメリカのハワイも攻撃し(真珠湾攻撃)大勝利を勝ち取る。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、ドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、第二次世界大戦となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアムを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。
1942年に入っても戦勝を続ける日本軍は、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ、オランダの植民地のインドネシア、アメリカの植民地のフィリピンを占領した。さらに日本軍による本土への攻撃を数度に渡り受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本陸軍上陸対策を検討するほどになった。しかし同時期にドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。しかし日本軍は勢いを増しインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカルまで進出し、シドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。日本軍は6月にミッドウェー海戦で敗北するものの、同月にアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領、9月にアメリカ本土への空襲を数回にわたり行うなど勢いを増したほか、アメリカ海軍も各地で日本軍との戦いで敗北を続け、年末には稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。
1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、また各地でイギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、中盤になるとようやくアメリカやイギリスも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。また日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍のインド洋における共同作戦が活発になるが、イタリアが降伏し潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。ヨーロッパ前線においては同年には枢軸国が完全に劣勢となり、2月にはドイツがスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄。1943年7月に敗色が濃い中イタリアのムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)が北イタリアを支配する状況になる。また日本軍はガダルカナル戦[4] で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて伸び切ったため、同年後半には勢いを失い以降劣勢となり、日本軍はついに11月にオーストラリア本土への空襲を中止する。
1944年にはイギリス軍が日本軍にビルマでインパール作戦に勝利し、アメリカ軍が6月に行われたマリアナ沖海戦に勝利するなど連合軍の勢いがさらに増し、これに対し7月には日本で陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦でかつてない大勝利を収めたが、大勢には変わりなかった。ヨーロッパの連合軍はついにフランスに上陸。マーケット・ガーデン作戦など勝利を重ねオランダ、ベルギーなどを開放。ソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では8月のサイパン島陥落後、本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となり、10月に行われたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾き、冬にはアメリカ軍によるフィリピンへの再上陸と小規模ながら日本本土への空襲が始まった。
1945年に日本軍はフランス領インドシナに侵攻し(明号作戦)これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、同政権は崩壊しイタリア社会共和国も崩壊、ベニート・ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏しヨーロッパ戦争は終結した。日本も5月以降連日アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍機の空襲を受けたほか、本土周辺の制海権、制空権をほぼ失い、さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦で初めて本土を失い、8月に入ると6日に広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下が行われた。さらに同8日の中立国のソ連軍の参戦という事態にようやく同10日からの御前会議で降伏を決定し、同14日にポツダム宣言を正式に受諾。9月2日に降伏文書に調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。
背景(欧州・北アフリカ・中東)
ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。
しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土はすべて没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた[5]。
1921年、賠償の総額が1,320億金マルクに定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった。
1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[6]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行[6]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[7]。これによりハイパーインフレーションが発生し、軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[6]。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。
国際連盟設立
第一次世界大戦の戦勝国のイギリス、フランス、大日本帝国、イタリアといった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。
戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。
モンロー主義の動揺
ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資をともにしてフランスとの関係が深まった。そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、おもにカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、時限立法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これを阻止したい、欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した[8]。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1,450万人が命を落とし(ウクライナ大飢饉)[9]、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務省人民委員部(NKVD)と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。
旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。
ヴェルサイユ体制下の安定
戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて[10] 勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。
同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月に「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が組織された。1921年にはその原が暗殺されたものの、この前後の1922年に日本はワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、1923年には日英同盟が発展的解消された。1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入され、政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透して行くかに見えた。
一方、敗戦国のドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、破滅の底に落ちたドイツ経済は戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。
世界大恐慌
しかし、1929年10月24日から起きた一連ののニューヨーク証券取引所、ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、このような世界の状況を一変させた。
ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった。アメリカは1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこのころには生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。
世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中ごろになってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。失恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。
ファシズムの選択
この様な中でファシスト党のムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアの植民地化を意図してエチオピア侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した。
敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対するイタリアは全土を占領している状況を背景に、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国は1937年に脱退した。
金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況も深刻だった。大恐慌を受けた昭和恐慌となり失業者が激増した。さらに黄禍論が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリアやドイツ同様解決策を海外へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国、1932年に中国東北部に建国した満州国は陸軍中枢の言うことを聞かない関東軍のなすがままになり、翌年には国際連盟も脱退、さらに日中戦争が勃発するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカからも大きな反発を食らった。
さらに既存の政党政治や議会制民主主義に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰されたものの、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、近衛文麿政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。
総額が1,320億金マルクと、到底支払うことができないと思われた第一次世界大戦の賠償金の支払いを続けながら、アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[11]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。ようやく1932年には国際社会の援助により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった。
1933年1月にナチ党は、民主的選挙におけるドイツ人の圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦をけん制する役割をナチス政権のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行。これによってロカルノ体制は崩壊した。
このような状況下で、日本、ドイツ、イタリアという、イギリスやフランス、アメリカのように莫大な富と雇用を生みだす植民地を殆ど持たず、国際連盟を脱退、もしくは国際連盟からの経済制裁を浴び孤立した、軍国主義(日本)やファシズム(イタリアとドイツ)という共通点を持つ3国は急接近を始める。
宥和政策とその破綻
これに対し国際連盟は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。
ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前
ヒトラーの要求はさらにエスカレートして、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(en)を結ぶことでこれに対抗した。
1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した[12]。
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。
経過(欧州・北アフリカ・中東)
1939年9月1日、ドイツ軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスとフランスは9月3日、ドイツに宣戦布告した[注釈 1]。ポーランドは独ソ両国により分割・占領された。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが[13]、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国には1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日からドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、空中戦で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。 その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。
1944年6月にはフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。
1939年
9月1日早朝(CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。
ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。
ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。
一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。
一方ヒトラーも、英仏両国のネヴィル・チェンバレン首相とエドゥアール・ダラディエ首相はそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。
ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵がカティンの森事件で殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。
ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[14]、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマスまでには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。
11月8日、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたがすべて失敗に終わった。
ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。
しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 2]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。杉原領事の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。
なお、杉原領事同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山[15] や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス[16] がおり、ともに戦後のイスラエルの諸国民の中の正義の人に認定されている。
4月、ドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。
一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、860隻の船舶が急遽手配され、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間にフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊は撤退させることに成功した。この作戦ではさまざまな貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(おもに大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスのウィンストン・チャーチル首相はのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告。6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 3]。
なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織するかたわら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
なおヴィシー政権には、フランス植民地アルジェリアやモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどの主要植民地がつき、それぞれドイツ軍や日本軍との友好関係や軍の駐留を引き受けた。
それに対して7月3日、イギリス海軍H部隊が、ドイツ側戦力になることを防ぐべくフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにもかかわらず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候により港湾や船団へのドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。同月25日のイギリス海軍駆逐艦の護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。
上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令。このころ、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施した。イギリス国民とともに、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)が、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。
この年の9月27日、ドイツ、イタリア、日本は日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年
イギリスはイベリア半島先端の植民地[注釈 4]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど東地中海[注釈 5] を確保し反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。
3月11日に、中立国のアメリカはレンドリース法を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ソ連やイギリス、中華民国などの、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン戦線 (第二次世界大戦))、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリア、ハンガリー、ルーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった[注釈 6]。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連陸軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。また戦場に出現したソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車や、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつて無い深刻な敗北を喫した。
8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒否した。 ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離をおいていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保したうえで、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。
一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日に日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連は日本に送り込んだリヒャルト・ゾルゲら、スパイの情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。
ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポとナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人やレジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中で反ヒトラーの陰謀を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦)ここに大東亜(太平洋)戦争が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾のアメリカ海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日にアメリカとオランダが日本に宣戦を布告[17]。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。
1942年
この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにおいてナチス党の重要幹部が集結し「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行われた。これ以後、ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行した。
ドイツのみならず、ドイツの占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェーのみならずイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続された。最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、6百万人に達すると言われている。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。
同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。
イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した。これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果をあげている。しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、このころより英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。
ドイツ海軍は大西洋とインド洋の一部地域における連合国の海上封鎖を突破して、同盟国である日本がそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域からゴム、スズ、モリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械等の軍需品を日本にもたらした。日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、昭南やペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
8月23日からはスターリングラード攻防戦が開始された。まずドイツ軍は空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に冬の装備に弱い枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
1943年
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。
しかし、3月にはドイツ軍はマンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。
イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率31.4%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した他、対日戦においても暗号解読や通訳兵として貢献した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたアフリカ系アメリカ人も多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。
各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した(イタリアの講和)。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。
逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。
日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にはイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。
なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。また、イタリア租界のあった天津港など東アジアで活動していたイタリア海軍の艦船が、イタリア降伏後に日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し、神戸港などで自沈している。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。
さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14日 - 24日ケベック会談、10月19日 - 30日第3回モスクワ会談、11月22日 - 26日カイロ会談、11月28日 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。
1944年
1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からは夏季攻勢(バグラチオン作戦)が開始され[注釈 7]、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。
1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦で全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田喪失でドイツの石油供給は逼迫する。
一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランス・ノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的としたオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出しながら上陸した。ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し[18]、女性たちは強姦された[18][19]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 8]。
ドイツ軍は、上陸後の連合軍の進撃を食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついに戦線は突破され、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。8月16日には南フランスにも連合軍が上陸した(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。
ドイツ軍はパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、国外へ亡命する者もいた。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍は開発中の、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262やジェット爆撃機アラド Ar 234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化し、実戦投入したが、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは不可能だった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[20]。
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を試みた。冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、戦線を一時的に約130km押し戻された。また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる。
この頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
1945年
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。
ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され 1945年2月13日に、残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。 ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付く殆どの女性が強姦された [21]。 ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。
これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンから動こうとしなかった。
4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦いを参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラーラ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。
4月30日15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている[22]。 ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた女性のうち、その後、約10の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった[23]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。
無条件降伏
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。
翌午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。
これによりドイツ国、イタリア王国の二国の枢軸国が連合国側に無条件降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。
停戦後
5月8日午後11時1分に停戦が発効し、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様の事であり、戦時法に明らかに違反するものであった。
ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍中佐が腹毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせない「ウラン235」560キログラムが含まれていた。
なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカンやスペイン、ポルトガルやノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリやボリビアなどの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[3][24]。
この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。
ポツダム会談
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相(会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する)。4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。
この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が7月26日に行われた。一方で、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の蒋介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
背景(アジア・太平洋・オセアニア・アメリカ・東アフリカ)
満州事変と日中戦争、日本の参戦(1931年‐1941年)
満州事変と満洲国
1931年9月18日に南満州鉄道が爆破されたとして、日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍のあいだで戦闘が勃発。関東軍が奉天、南満州を占領する(満州事変)[25]。
12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満州での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満州における匪賊の討伐権が日本に認められた[26]。
1932年3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[27] および6項[28] についての条件が成立した。
前後して1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満洲国が中華民国から独立して建国宣言をした[25]。3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。
上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しないとしたうえで、中華民国には国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたことを指摘し、銃剣はボイコットへの適切な対応ではないとしつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。これを受けて5月5日、上海停戦協定で日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。
国際連盟脱退
だが1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係が悪化すると、国際連盟加盟各国の態度も硬化した。翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、さらに満州国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服としてスイスから帰国し、さらには3月に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となった。
五・一五事件と二・二六事件
1932年5月15日に、海軍の軍人らに犬養毅首相らが殺害されるという「五・一五事件」が起きていた。他にも内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった
さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて、首相官邸や高橋是清大蔵大臣私邸、斎藤実内大臣私邸や渡部錠太郎教育総監私邸などを襲い、岡田啓介首相は辛くも大丈夫だったが、高橋大蔵大臣や斎藤内大臣、渡部教育総監・陸軍大将などを殺害したクーデター未遂事件。いわゆる「二・二六事件」が起きた。
この事件の結果廣田弘毅が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。また、陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。
なお当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向けるという事件(やその未遂事件が)、「三月事件」(1931年)や「陸軍士官学校事件」(1934年)など度々起き、さらに陸海軍が組閣に口を出すということがまかり通るようになった。その結果、1910年代以降日本に浸透してきていた議会制民主主義が、軍人によるクーデター未遂事件が多発した1930年代以降、急激に軍国主義に傾いていく。
盧溝橋事件と日中戦争
満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、中華民国政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、日本軍との散発的な戦闘は続いていた。1936年12月7日に中華民国の張学良は蒋介石に対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蒋は張学良は中国共産党に惑わされていると一喝した[要出典]。12月12日、張学良の親衛隊が宿泊先を襲撃して蒋介石を拘束拉致した。蒋介石は中国共産党の周恩来らとの会談で反共姿勢から抗日姿勢への転換を最終的には受諾し、南京に12月26日に帰還した[要出典]。
1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[29]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[30]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[31]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[32]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[33]。
一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[34]。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[35]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[36] 対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[37]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[38]。
しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[39]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[40]。
盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[41][42]、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[43]。副参謀長張克侠[44] をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[43]。
第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていた[45]。
そしてついに1937年7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突である盧溝橋事件が勃発、ここに全面戦争である日中戦争が始まった。
一旦は中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定、通州事件や第二次上海事変、北平占領など日中戦争はまたたくまに中華民国全土に拡大していく。
欧米諸国でも中華民国内に租界を置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と列強はこぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間にいざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江のパナイ号事件、蕪湖のレディバード号事件等がおきたが、近衛内閣の広田弘毅外相(元首相)が何とか善処し、イギリスのロバート・クレイギー大使とアメリカのジョセフ・グルーから高く評価された。
1938年3月におきたドイツのオーストリア併合(アンシュルス)の翌週、第1次近衛内閣のもとで野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みた国家総動員法が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の強い反対を受けて、日本政府はベルリンオリンピックに次いで1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初の夏季オリンピックである東京オリンピックを7月に返上した。
日独伊の急接近
なお上記のように、ナチス政権下のドイツの極東政策は1936年には日独防共協定を結ぶ一方で、中独合作で中華民国と結ばれていた。中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蒋介石の個人顧問としてアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将をドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。
ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。しかし1938年にリッベントロップが外相に就任し、大島浩中将が10月に大使に就任すると日本重視の姿勢が決定的となり、中華民国に派遣されていた軍事顧問団は撤収、またイタリアに続きドイツ製武器の供給は停止することになった。
また天津に租界を持つイタリアも、1930年代中盤には元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問に、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問が中華民国に常駐し、フィアットやランチア、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニやアンサルドなどのイタリア製の兵器を大量に輸出し日中戦争に投入、日本側から抗議を受けていた。
しかし1935年に始まったエチオピア戦争での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同した事に対して、上海総領事として勤務した経験もあったガレアッツォ・チャーノ外相は「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印した。
さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月にはイタリアは満州国を承認し、両国は公使館を置き正式な外交関係を開始している。
これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも大豆の供給先として満州国からの全輸出量の5パーセントを占め、アメリカからの輸入をストップするなど、イタリアもドイツも完全に同盟関係にある日本重視となる。
ヨーロッパ開戦と第2次近衛内閣
1939年8月23日の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、これを受け当時の平沼騏一郎内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残して8月28日に政治責任を取り総辞職し、日本の政界も揺るがす大混乱となった。また大島浩大使もこの責任を取りベルリンより帰朝を命ぜられ、帰国後の12月27日に大使依願免職し、次の駐独大使にはドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」と言われた来栖三郎が継いだ。しかし続く阿部内閣も短命に終わり、対独同盟派の勢いは停滞した。
そのような中で9月1日にドイツがポーランドに侵略を開始、9月3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。ソ連も独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻した。
その後はドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったものの、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻したがすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大するに及び、7月には参謀総長閑院宮載仁親王と陸軍三長官会議により親英米派の米内内閣は辞任に追い込まれた。そのような中、1940年1月に日米通商航海条約が失効し、日米関係は開国以来の無条約時代に突入し、悪化しつつある情勢の打開が求められた。
日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣のあとを受けた第2次近衛内閣においては、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を主張する松岡洋右外相らの声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。
南京国民政府/汪兆銘政権成立
日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蒋介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[46][47][48][49]。汪兆銘は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[49]。
1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて国民党に総裁制が採用され、蒋介石が総裁、汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[48][50]。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[48]。一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[48]。こうしたなか、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[51]。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[48][49][52][51]。
6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蒋介石政権を維持したうえでの和平工作を考えていた[51]。10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった[49]。
1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった[53]。蒋介石が放った暗殺者は汪をねらったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になった[53]。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[53][54]。4月25日、影佐と接触した汪兆銘はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日に上海に到着した[54][55]。ハノイの事件は、汪兆銘が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[56]。
日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪兆銘の擁立を画策した。しかし1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[57]。最終段階において腹心とみられた部下が裏切ったことに汪兆銘はおおいに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[57]。
汪は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。
汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。
政府発足後に、イタリア王国やフランスのヴィシー政権、満州国などの枢軸国、バチカンなどが国家承認した。しかし蒋介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった[58]。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイ王国が汪兆銘の南京国民政府を承認した[59] のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。
日本軍の北部仏印進出と泰仏戦争
フランスのフィリップ・ペタンは、1940年に入りドイツの猛攻が続くなかマキシム・ウェイガン陸軍総司令官とともに対独講和を主張し、6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に独仏休戦協定が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。
これをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[60]。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った[61]。
6月22日に成立したヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー提督を後任の総督とした[62]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。
8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。
またフランスがドイツに敗れたこと、独仏休戦(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した[63]。
タイのプレーク・ピブーンソンクラーム政権は、フランスのヴィシー政権に対し、1893年の仏泰戦争でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスの領土と主権やフランス保護領カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府はこの要求を拒否した。
11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、物量に勝るタイ軍はフランス軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下におかれ武器や兵士の追加もままならないフランス軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。
戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイと友好国のフランスという、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本が、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。しかし両国の主張は平行線をたどり、日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた(タイ王国の勝利)。
日独伊三国同盟締結
さらに9月7日には新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。
実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が、1941年3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が加盟した。また、三国同盟実現には「親米」と言われた来栖では力不足との声が上がり、そこで1940年12月に大島が駐独大使に再任された。
これに対してアメリカのルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。
また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。中華民国南京政府と防共協定に加盟したスペイン(フランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、フランコ政権は戦争の前半期においては協力的な関係を持った。
アメリカの対日禁輸とレンドリース
1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、7月26日にはアメリカの日本への輸出切削油輸出管理法成立。8月には石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出許可制。10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止するなど次々と禁輸攻勢を打ち出し、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へのプレッシャーをかけて来ることとなった。
これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内には民間ルートでの開拓を断念した。
さらにアメリカは中立法に現れていた非介入主義をフランクリン・ルーズベルト大統領がさらに緩和し、1941年3月にはレンドリース法を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。
アメリカの日中戦争への軍事介入
またアメリカは、1940年8月に蒋介石総統と宋美齢夫人からの軍事支援の要請を受け、ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を設立し、ここに日中戦争への軍事介入を開始した。しかし日本軍を刺激しないようにあくまで「義勇軍」という名目を保った。
シェンノートは、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、シェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年春には中華民国に送る。
部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。シェンノートらAVGのメンバーは「民間人」として、友好国イギリスの植民地のビルマに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、英領ビルマのラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。
だが中華民国軍の事故の多さに悩まされた上に、最新鋭の零式艦上戦闘機をはじめとした最新の航空機に、練度が高い戦闘機乗りが多かった日本軍にフライングタイガースは苦戦を強いられ、その上に撃墜の多さによる出来高制の給与に、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。
独ソ戦と松岡外相更迭
1941年4月からは東京とワシントンD.C.で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、近衛首相ら日本政府側はこれを歓迎した。
しかしドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月に日ソ中立条約を結んだばかりの松岡外相は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、松岡外相の強硬な反対で白紙に戻った[64]。
さらに松岡外相は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりの独ソ間が、わずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃したことでここに独ソ戦が開かれ、その望みを打ち砕いた。
松岡外相はドイツに合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって暴走状態にあった松岡外相の更迭は、政権存続のための急務となっていた。ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させ、松岡はここで完全に外された。
しかし、松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は望んでいなかった[65]。松岡は「英米一体論」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた[65]。
日本軍の南部仏印進駐
1941年6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され(南進論)、フランスの同意の元で南部仏印への進駐が決まった。一方、7月には対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。その中で仏領インドシナを日本にとられることを危惧したアメリカは、日本に対する石油の輸出許可制をしくことで日本を揺さぶった。
その一方で、日本は本国がドイツ軍の占領下におかれ、ロンドンに置かれた亡命政府の下にあるオランダ領東インドと石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後オランダ領東インドの供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は6月に交渉を打ち切った。この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によってオランダ植民地政府側が供給する量は日本が求めた量の1/4に留められた。このせいで当時の日本では高オクタン価の航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけた。
さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本はフランスの同意の元での南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。なお現在のベトナムとは違い当時の仏印では油田は見つかっておらず、石油は掘れなかった。
日英米蘭関係の悪化
8月1日にアメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目のもと石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。
中でも日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、石油輸出の全面禁止は深刻な問題であり、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、日本ではアメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)による経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。
なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結した大西洋会談で、イギリス首相のチャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。これをうけて9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された[66]。
その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促をうけ、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した[67]。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はチャーチル首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[68]。しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうか」と返事をした[68]。
東條軍事内閣成立
陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「日米交渉も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び「五相会議」を開き、対英米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。
そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする近衛首相と豊田外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條陸相の間で対立が見られた[69]。
近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。(戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。近衞首相と東條陸相は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。
この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」は、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起き、その結果ますます止まらなくなった軍部の暴走と、さらに日本が近衛首相という「文民( =党人)政権」から、東條陸相兼首相という「軍事政権」への切り替えが行われ、国家を「戦時体制」に舵を向けたと、当然ながらイギリスやアメリカ、フランスやオランダなどの民主主義国家に受け止められるという、2つの点を完全に無視していた。
またこれまで日本では、岡田啓介や米内光政、桂太郎のように選挙を経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、この様な陸海軍が好きに国をコントロールする軍事独裁体制はかつてなく、しかしこの体制は結局敗戦時の鈴木貫太郎まで続くことになる。
ゾルゲ事件
なお、このような中で9月27日のアメリカ共産党員の北林トモや10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実や西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕され[70]。その後ドイツの「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙の記者をカバーとして、東京府に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。
捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。
その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14に逮捕され、東条英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった。
ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることが出来たと言われる。
ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[71]。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[72]。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。
しかし友邦ドイツの新聞記者という、万が一の時には外交的にも大問題となるケースに対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員、尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託、宮城や北林らの共産党員が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。
なお一方のソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。
南方作戦準備
東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[73]。10月14日に日本は対アメリカの最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。(これは当時の日本陸軍ができる最大の譲歩であった。)
11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤやシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」が指令され[74]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[75]。
これを受け、11月26日早朝に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「瑞鶴」、「飛龍」などからなる日本海軍機動部隊の第一航空艦隊は、南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、アメリカの出方により途中で引き返す可能性あることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。
また、太平洋航路の龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定だった。だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦と共に龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。しかし大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。なお日本郵船のロンドン線やハンブルク線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっていた。
ハル・ノート
11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権大使、に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。
この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」と言った譲歩を求める内容もあった。
この文章はあくまでハルの出した「基礎提案(Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と明確に書かれてあったが[76]、内容的には日本側の要望はすべて無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒」と認識した。
そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否か、また実際に「最後通牒」か否かなど重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。
マレー方面出撃
そのような中で日本本土から比較的距離の近い対イギリスやオランダ植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日に三亜で作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将は同地から出撃[77]。山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マレー半島とオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。
ワシントンD.C.の日本大使館では暗号機を1機残して廃棄を命じ、館員が残存文書を焼却した[78]。この様に対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎と野村吉三郎の両大使にハルとの交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。
対英米開戦と宣戦布告遅延
12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳外相に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。東郷から駐米大使の野村吉三郎宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。
「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃(以下はすべてアメリカ東海岸現地時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに到着したと見られる。
九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピストを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意な一等書記官の奥村勝蔵により修正・清書され、その為に時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは6日夜には、ブラジルへ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントンD.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。
12月7日の朝9時に大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。14分割目も奥村により修正・清書され、そして現地時間午後2時20分に特命全権大使の来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省において国務長官のコーデル・ハルに手交された。
しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。そのためにその後アメリカ政府より、日本政府の宣戦布告の遅延が非難されることになる。
さらに12月6日夜にルーズベルト大統領は昭和天皇に対する親書を送ったものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは開戦直前で手遅れであった[79]。
こうして日本はついに12月7日に、中華民国との戦いを続けながら、イギリス(オーストラリアやニュージーランド、英領マレーや同インドなども含む)、アメリカ(アメリカ領フィリピンなども含む)、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。なお本国はイギリスへ亡命)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線へと全世界に戦争範囲が広がり、まさに第二次世界大戦となる。
経過(アジア・太平洋・オセアニア・アメリカ・東アフリカ)
1941年
1941年12月8日午前1時35分(日本標準時)、この時間に行われた日本陸軍とイギリス陸軍との戦い(マレー作戦)により、アジア太平洋戦線における戦闘開始かつアジアにおける戦闘が第二次世界大戦へ発展した。
当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況をかんがみ、小沢治三郎中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[80]。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[81]。日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。
マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、イギリス陸軍の水際陣地に苦戦し日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功ししかも多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃した[82]。
かねてからイギリス陸軍は国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスよりドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。
イギリス空軍については、開戦前に現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ空軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国は、本土防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手いっぱいであり、遠くマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けてシンガポールなどマレー半島への運搬に時間がかかったため、開戦当時のイギリス空軍の中心はブルースター・F2Aバッファローやブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。
さらに、日本軍に対する技術研究が不十分なイギリス空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたために、日本軍の零式艦上戦闘機や一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。
また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要の香港攻撃を開始したほか、上海のイギリスやアメリカ租界を瞬く間に占領した。
日本軍のイギリス軍に対するマレー半島上陸開始の約1時間半後、山本五十六大将指揮の元、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ、真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。これは当時世界最大の空母機動部隊であった。
前日12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾に艦隊をそのまま在港させることとした。
また同日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、その「ワシントン時間午後1時」が、「ハワイ時間7時30分」であることを思いつく者はいなかった。
日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかったアメリカ海軍に対し、日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17など航空機328機破壊をはじめ2,400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還で終えた。その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[83] 作戦目的を達成した[84]。
なお、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる。なお、当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。
しかし、ルーズベルト大統領以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイのアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、ルーズベルト大統領は日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。
また、日本が日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなったが、アメリカもレンド・リース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていたことや、自国も米比戦争やシベリア出兵、第二次世界大戦以後もベトナム戦争などで宣戦布告なく戦争を行っていたこと、さらに当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであった。なお、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかったうえ、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃も完全に宣戦布告が行われなかったが、このように喧伝されることは無かった[注釈 9]。
かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国や中華民国南京国民政府[注釈 10] も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやアッツ島、フィリピンを失い、その上に本土の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。
なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[85]。戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[86]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[87][88]。
この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲にイギリス軍は敗走を続けた[89]。
日本陸海軍機がアメリカの植民地のフィリピンのアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。なおグアムにおける戦闘は1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民あわせて650名であった。
12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送にも担当し大活躍した。
12月8日に香港攻撃を開始した日本陸軍は、九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。さらに12日から攻撃を開始した香港島は、イギリス軍は頑強に抵抗し日本軍にも多くの死者を出したものの、貯水池を占拠され25日に降伏。日本陸軍は香港一帯を占領した(香港の戦い)。
捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了し、東南アジア戦線における日本軍の優位が完全に確定した。しかし日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオと、同じくポルトガル植民地の東ティモールには、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 11]。
12月23日には同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領した。この様な状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26[90]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開し、商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れる距離で砲撃、撃沈し、住人を恐怖のどん底においた[91]。
さらにはカリフォルニア州を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、一斉にアメリカ西海岸沿岸のサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど、アメリカ西海岸の複数の都市の軍事施設するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[92]。
1942年
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出した仏領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[93]。
1月に日本は、母国をドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命及び植民地政府とも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[注釈 12]、ジャワ島とスマトラ島[注釈 13] などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。なお1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、カンタス航空のショートエンパイア機が日本海軍機に撃墜され、乗客乗員13名が死亡する事件がおきている。なおこれは、同社によって2019年までで最大の死亡者が出た事故となっている。
日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦でオランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[94]、2月10日-11日にバンゼルマシンに上陸しこれを攻略した[95]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。この様な中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。
日本軍は9日にセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[96]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[97]。
ジョホールに迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫り、2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールに対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[98]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始[99]。11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた[100]。しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後にアーサー・パーシヴァル中将は山下奉文中将に降伏した[101]。
日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した[102]。日本の戦死1,713名、戦傷3,378名[103] に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで占領下に置いた。
2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。
2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。これで対米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃することとなり、アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。
翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという「ロサンゼルスの戦い」が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。連合国は連戦連敗により、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊はほぼ壊滅した。
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 14] のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。
イギリス艦隊は、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 15] へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
フィリピンの日本軍は、4月9日にバターン半島を攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出したバターン死の行進事件が発生している。もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた[104]。
マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた[105]。5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーの姿はすでになかった。3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。
4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母ホーネットから発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。
日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われた。
伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。
イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し[106]、南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。
その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 16][107]。
さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果をあげている。
日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。
日本海軍は、同年6月3日から行われたアリューシャン群島西部要地の攻略又は破壊を目的として行われたAL作戦で、アメリカ軍のアラスカのダッチハーバーへの空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。また6月6日には、アリューシャン群島のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する。
これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかったが、アメリカ軍にとっては自国の本土を取られた屈辱の日となった。
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この海戦は太平洋戦線で初の日本海軍の敗北となったが、この後も海戦での敗北やアメリカ本土空襲、本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退はまだまだ続いた。また、この海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。
6月20日には乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった
翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入ったところにあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25に対する爆撃を行ったものの、損傷を与えることはできなかった[108]。この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来、130年ぶりのものであった。
6月には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日にグイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナのザポリージャ、アラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル、包頭に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京へ向かい7月3日から7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。
しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が要請していた、辻政信陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[109]。
なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。そのご1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。さらに同月に行われた第一次ソロモン海戦では、日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。
9月9日と29日には、日本海軍の伊十五型潜水艦「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、マスコミに緘口令を敷き爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。先立ってサラトガが大破、9月にワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。
日本海軍は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。その後11月に行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失ったが、アメリカ軍とオーストラリア軍も2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失うなど大きな痛手を負い、さらに上記のように連合国の太平洋戦線での稼動空母が皆無という厳しい立場にあった。
日本軍の攻勢は各地でその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズなどのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍並びに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出しており、最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は1943年11月まで続いた。またインド洋一帯から日本軍の勢いを恐れたイギリス海軍をほぼ完全に放逐するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。
1943年
昨年暮れより行われていた「第一次アキャブ作戦」で、ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェー)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両及び自動車73両の捕獲に成功した。
またこの年に入っても、オーストラリア北部に対する日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈した他、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を挙げた。さらに1月29日に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦で、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を撃沈するという大きな戦果を挙げたが、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。
前年にラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シンと、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[110]。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。
国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたスバス・チャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースとともに行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。
その結果、空路よりは潜水艦での移動のほうが安全であると結論が出て、2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサンの乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖[111]でU180と日本海軍の伊号第二九潜水艦が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[112]。5月6日、潜水艦はスマトラ島北端に位置し海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着した。
3月より「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった[113]。放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付け[113]、その後太平洋前線のアメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー」も同年12月より行われた。
4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「い号作戦」を行った。この作戦は日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ海軍の駆逐艦アーロン・ワードやオーストラリア海軍のコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクを沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効的であることを証明した。
作戦の成功に満足した山本海軍大将[注釈 17] は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており(もちろん日本軍もアメリカ軍の暗号を傍受、解読していた)、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。またアメリカ軍は、日系アメリカ人二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた[114]。
5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。アメリカ領を初奪還すべく強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。
前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。北西オーストラリア各地の空軍基地が大きな損害を受けた結果、オーストラリア軍やイギリス軍、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。
これ以前から昭南やペナン、ジャカルタにおかれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦や封鎖突破船がインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。8月には「ルイージ・トレッリ」もこれに加わった。
しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった[115])。なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋及びインド洋の警備にあたった。
なおイタリアの降伏後には、天津のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。なお天津のイタリア租界は汪兆銘政権の管理下に置かれた。
南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍は軽巡洋艦神通を失うも、アメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を、アメリカ海軍駆逐艦グウィンを撃沈、軽巡洋艦ヘレナとホノルル、セントルイス、ブキャナン、ウッドワースとニュージーランド巡洋艦リアンダーを行動不能にさせた。また、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍の駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破し連合軍に完勝する。
なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のジョン・F・ケネディがアメリカ海軍の魚雷艇(PT-109)に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦天霧に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう[116]、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[117][118]。2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後[118]、一週間後に救助された[119]。
ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。
一方連合軍が劣勢のままのビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。また中国戦線ではアメリカ軍も加わり11月から常徳殲滅作戦が行われた。
11月に日本の東條英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。
一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。また同月から12月にブーゲンビル島で行われた一連の戦い(ろ号作戦、ブーゲンビル島沖海戦、ブーゲンビル島沖航空戦)では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。
また11月には、去年の2月から連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、戦線を伸ばしすぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。
1944年
ビルマ方面では日本陸軍とインド国民軍が共同で、イギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。
昭南からスバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦が開始し、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢である「大陸打通作戦」が開始された。
作戦自体は京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通するなど、周到な準備が行われ、また河南の中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったと言われる[120]。蒋鼎文によるとほとんど一揆のような状態だったという。
日本陸軍の攻撃を受けて、4月にはアメリカ軍は最新鋭爆撃機である出来たばかりのボーイングB-29の基地を成都まで後退させている。また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。12月まで中華民国軍とアメリカ軍を相手に続くが、計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた上、結果的に日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。
なおルーズベルトは開戦以来一貫して中華民国の蒋介石を強く信頼しかつ支持しており、カイロ会談の際に、蒋介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蒋介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。実際、これ以降蒋介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれる事はなくなった。
5月17日には、イギリス海軍とアメリカ海軍との合同機動部隊による、ジャワ島スラバヤの日本軍基地に対する航空攻撃「トランサム作戦」が行われ、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。
日本の陸海軍、緒戦の予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあったため、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「絶対国防圏」を昨年9月に御前会議で設けた。
しかし6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。これらの島では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される.
また6月に、中華民国の成都より九州の八幡製鐵所を主目的としてアメリカ軍の新型爆撃機であるボーイングB-29による日本初空襲が実施された。この空襲の主たる目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。その上に6機が撃墜されていろ。しかしこのB-29による日本本土初空襲が両国に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側はその出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。一方、アメリカでは本格的な日本本土初空襲成功の知らせは、すばらしいニュースとして大々的に報じられ、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。しかしその後の中華民国からの爆撃は九州を標的とした小規模なものとなり、本格的な本土空襲は11月にサイパン島とテニアンの基地が出来るのを待つこととなる。
戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。サイパン島が陥落した7月には岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸信介は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。
さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、7月22日に東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介がなかば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く[121]。
ヨーロッパでは連合国軍がフランスに再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にはヴィシー政権が事実上消滅した。これに対して日本政府は「フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しない」という見解をとり、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした[122]。これをうけて9月14日の最高戦争指導会議では「フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行う」ことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則的には現状を維持するものであった[123]。
8月にはアメリカ軍は占領したテニアン島とサイパン島の日本軍の基地の改修を解消し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、完成後には日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。実際この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。しかし日本軍もサイパン島から撤退したが、サイパン島にあるアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け大きな被害を出し続け、アメリカ軍は基地増設に4か月かかってしまう。
ビルマ戦線がイギリス軍とアメリカ軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には沖縄に十・十空襲が行われ、続いてアメリカ軍とオーストラリア軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、アメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。
この海戦でアメリカ海軍とオーストラリア海軍も空母3隻、駆逐艦3隻などを失うものの、日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、アメリカ海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ陸軍は日本陸軍が占領していたフィリピンのレイテ島へ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった上に多数を失った去年までとは違い、今やM4中戦車や火炎放射器、P-51戦闘機やP-47戦闘機など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ陸軍に対し、物質的に乏しい日本陸軍は敗走した。
日本は大量生産設備が整っておらず、その生産力はイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油や鉄鉱石などの物資のみならず、バナナやコーヒーなどをほぼ外地や勢力圏からの輸入に頼っていた。それさえも1944年末頃には、連合軍による通商破壊戦で外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。また、この事による日本本土の生活への衝撃は大きく、これ迄はレストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給をうけて成り立っていたものの、これ以降はこれらに対する配給も制限されていくことになる。
アメリカやイギリスのような10,000メートル上空を飛ぶ大型戦略爆撃機の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。11月3日からアメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害はオレゴン州市民6名の死亡と、ネバダ州やカリフォルニア州の数か所に山火事を起こす程度であった。
ただし風船爆弾による心理的効果は大きく、アメリカ陸軍は風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し[124](特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[125])、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した[124]。また日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四百型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。
なお、1942年に国防保安法、治安維持法違反などで死刑の判決を受けたソ連のスパイのリヒアルト・ゾルゲが、この年の11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された[126]。
1945年
1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月から3月にかけてフィリピン最大の都市であるマニラを奪回する戦いが日本軍とアメリカ軍の間で行われた[127]。
マニラの戦いでは市民をも巻き込んだ市街戦となり、10万人以上が死傷した。また日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたドイツ人神父など数十人、スペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。この時はアメリカ軍による被害も多かったにもかかわらず、「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にこれまで友好的であったスペインは日本と断交し、中立国のスイスも一時は日本に対して強硬な態度に変わった。
日本は南方の要所であるフィリピンの大半を失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源および食糧輸送の安全確保はより困難となった。実際日本本土では、この頃より急激に食料の流通が厳しくなっていく。
フィリピンが概ね陥落したことで、硫黄島や沖縄など日本の領土が次の目標になったことで、ついに日本でも終戦工作が本格化する。松岡元外相は旧友であり終戦工作に奔走していた吉田茂から、和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。また吉田は、牧野伸顕や近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、殖田俊吉を近衛に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって2月の近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束される。
なお日本陸軍は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、フランス領インドシナに駐屯していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動して戦闘を開始。連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府及び駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はインドシナを独立させた。
この頃においても中華民国との大陸打通作戦において優勢にあったインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、またかなりの戦力を維持していたのでイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行わなかったため、マレー半島や昭南、ジャワなどの占領地などとともにこのまま終戦までの間大きな戦闘もなく終わる。
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。島を要塞化した日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者は日本軍を上回った)を出した[128]。末に、硫黄島は陥落した。これ以降アメリカ軍は死傷者を多く出すことに慎重になり、イギリス軍やオーストラリア軍を前面に出すことになる。
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による小規模な日本本土空襲が行われていたが、この年に入り本格化していた。またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。3月10日未明、これまで一度も本格的な空襲を受けなかった台東区や新宿区、江戸川区など、東京の市街地を狙った東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。その後も東京は、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回大規模な空襲に見舞われた。
低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、ボーイングB-29護衛のノースアメリカンP-51DやF6F戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m の五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「橘花」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。
3月26日に沖縄の慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日に沖縄本島に上陸して沖縄戦が勃発、凄惨な地上戦となる。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな戦艦と十数の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。
連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は貨物機や練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、少数ながらも戦果は大きく、3月26日の1日で駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[129]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊の一式戦「隼」が、レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせている[注釈 18]。
また、アメリカ海軍やイギリス海軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていき、さらに戦艦などによる艦砲射撃や、空母機動部隊による日本沿岸の艦載機による空襲、機銃掃射を頻繫に行った。しかしこれ対する日本軍の反撃により連合国の爆撃機や艦載機の被撃墜数も比例して急増し、多い日は1日で日本上空で数十機が撃墜され、その分連合軍の死者や捕虜が出る状況になった[130]。
沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職した小磯國昭の後継に、鈴木貫太郎を近衛文麿や岡田啓介らは首相に推したが[131]、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し[132]、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った[133]。これに対して岡田が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め[134]、東條は反論できずに黙ってしまった[131]。こうして鈴木を後継首班にすることが決定された[135]。
鈴木の就任後、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが亡くなり訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。同じ頃、ドイツのアドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた[136]。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた[137]。
5月に入ると連合国による空襲は激しさを増し、東京や横浜、大阪などへ再び空襲が行われたほか、これまでは空襲を受けてこなかった百万都市の他、仙台、小田原、福岡、静岡、岡山、富山、徳島、熊谷、熊本、佐世保、四日市、奈良、北九州、彦根など、全国の60を超える中小各都市も終戦に至るまで空襲や機銃掃射にさらされることになる。
また、日本の領土であるものの、沖縄よりも本土に遠い台湾は、この頃よりアメリカ軍やイギリス軍の空襲や艦砲射撃に度々合うようになった。また同じく外地の朝鮮は、北部こそ連合軍の空襲に遭うことがあったものの、京城や釜山などの中心都市はほぼ無傷であった。また満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のアメリカ軍のボーイングB-29の空襲を受け始めた。
同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日にドイツが連合国に降伏。枢軸国で残るは日本とだけとなり、その日本は日ソ中立条約を根拠に中立を保つソ連を頼るしかなかった。しかしこれに先立つ2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ドイツを破った後のソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、英米ソによる首脳会談が行われた(イギリスはこの日に総選挙が行われクレメント・アトリーに首相が変わった)。
またこれに先立つ6月には、疎開先だった箱根の強羅ホテルでヤコフ・マリク大使は広田弘毅元首相の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながらいい返事はもらえず、その上で鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連によるより一層の和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た[138]。このような降伏の遅れは、その後のより強硬な内容のポツダム宣言や本土空襲、原子爆弾投下、ソ連の参戦のみならず、日本軍や連合軍の兵士だけでなく大都市から中規模都市に爆撃目標が移った日本の一般市民にもさらなる惨禍をもたらすことになった。
地上戦となった沖縄戦は、5月になっても義烈空挺隊など日本の軍民総動員による持久戦で連合軍を苦しめたが、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。18万8,136人が死亡し、うち一般住民は3万8千人に上った。アメリカ軍は7月2日に沖縄作戦終了を宣告したが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた。
沖縄での日本軍の徹底的な持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を無期限中止せざるを得なくなる。またアメリカやイギリス、オーストラリアやニュージーランド軍を中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、沖縄戦における日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、最終的に計画は実行されなかった。
7月26日には、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において、全13か条から成る宣言である全日本軍の降伏に関するポツダム宣言が発表された(8月9日に参戦したソビエト連邦は、後から加わり追認した)。ポツダム宣言をうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した[139]。なお7月27日に日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。
トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後には十数万人もの犠牲者が出た[140]。なお、当時日本でも独自に原子爆弾の開発を行っていたが、アフリカやドイツなどからウランなど必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画には及ばなかった。
原子爆弾を2発落とされても、まだ日本政府と軍は本土決戦に運命を託すと同時に、連合国の1国ながら、これまで日本との間に開戦していなかったソ連との中立条約の維持を唯一の根拠にした和平交渉にかすかな望みの綱をおいていた。しかしソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を一方的に破棄、8月8日午後11時(以下日本標準時)に対日宣戦布告し、翌9日の午前1時に満州国と日本へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ポツダム宣言に参加していないソ連政府は日本への侵攻と同時に参加した。
9日未明に、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、ソ連軍が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街がソ連軍の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、ソ連軍に対する市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。関東軍総司令部は急遽対応に追われ、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令。しかし日本政府がソ連の対日宣戦の事実を知ったのは、9日午前4時にソ連のタス通信がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に東郷外相に報告が上げられた。
これはソ連との中立条約の維持を唯一の根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の頼みの綱が切れた瞬間であった。この日以降日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく。
ソ連の参戦を受けて9日昼前に行われた最高戦争指導会議では「国体の護持」、「保障占領」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、ポツダム宣言を受諾をするという方針が優勢となった。しかし「国体の護持」のみに絞るとする東郷茂徳外相と、4条件にこだわる阿南惟幾陸相との間で激しく対立した[141]。特に阿南陸相は、米内光政海相とのやり取りで「戦局は5分5分、負けとは見てない」、「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」と主張し、さらに東郷外相からの「交渉が決裂したらどうするのか」という質問に「一戦を交えるのみ」と答えるなど[142]議論は平行線をたどり、さらに徹底抗戦派の豊田副武軍令部総長が、招かれてもいないのに大西瀧治郎軍令部次長を同席させるなど問題行為があった。結論は9日未明に開催される天皇臨席の御前会議に持ち越された。
ポツダム宣言受諾
8月9日午後11時50分(10日午前0時3分から行われたとの文献もある)から行われた御前会議での議論は、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍令部総長は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。しかし同盟国のドイツの政府は無条件降伏しすでになく、イギリスとアメリカ、オーストラリアなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国のソ連も先日の開戦により日本領土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で承認された。
日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。しかしその後も日本政府と軍内部、特に鈴木首相や東郷外相らと阿南陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾し、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、天皇の元の会議で決定されたにもかかわらず、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。
10日午前11時からソ連大使館側の要請によって貴族院貴賓室において東郷外相とヤコフ・マリク駐日ソ連大使の会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷外相は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻も開始された。
12日午前0時過ぎに連合国はアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った。その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの解釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した。
13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍と政府では「日本の回答が遅い」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむアメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ回答」を記したビラを散布している。さらに日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民及び前線に伝えなかったために、日本政府の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍との戦闘や爆撃は継続され、千葉(下記参照)や小田原、熊谷や土崎などへの空襲が継続された。
14日午前11時より行われた再度の御前会議では、まだ阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南陸相や梅津陸軍参謀総長は陸軍内でクーデターが起こることを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」訴えたことで、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、14日の夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が録音された。また加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
阿南陸相は御前会議の直後に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた。しかし15日未明には、陸軍軍人らにより玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生、森赳近衛師団長が殺害されたが。15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。
翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもって改めてポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、戦闘行為は停止された[143]。なお昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのは初めてのことであった。また日本はドイツのような軍と政府を含む無条件降伏ではなく、「ポツダム宣言」での英米中蘇の連合国側の諸条件を受諾した上での降伏であった。
公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーら日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。
なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。また満州では逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終了した。
停戦後
8月15日の玉音放送終了後、終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から阿南陸相の自決が報告された。また午後に大本営は大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[144]。日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。なお17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。
同じ17日に日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッドB-32を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降おこらなかった。
また、8月15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南惟幾陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った宇垣纏中将、ウルシー沖から伊401で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助大佐[145]、陸軍省参謀本部の大正天皇御野立所で切腹した晴気誠少佐。そして12月16日に連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれされその後自宅で服毒自殺した近衛文麿元首相など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、または連合国からの逮捕を逃れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数千人に渡った。また東条英機元陸相のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者もいた。
なおこの時点においても、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太、千島、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海などの沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモールなどの北東アジアから東南アジア、ラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満州国などの友好国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き上げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。
8月16日、連合軍は中立国スイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日には、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機で木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラスC-54でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦及び全権移譲の会談をするなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
しかし、これらを受け入れずジャワやビルマなどで勃発した独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)や、のちに個人の意思で中国共産党の人民解放軍に編入されたものも多かった[注釈 19]。さらには、ルバング島で日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎少尉の様に、1974年まで戦闘行為を継続していたものもいた。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機や九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器などがそのまま利用されるケースも多かった。
なお日本と同盟下にあったタイは、8月16日に日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した[146]。また、日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。
また、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
8月28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。また、同日大森の英米軍の捕虜収容所にアメリカ海軍の軽巡洋艦「サンファン」から上陸用舟艇が寄こされ、病院船「ビネボレンス」に怪我人などを収容していった。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も厚木基地に到着、横浜市内のホテルニューグランドに宿をとった。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、中華民国軍、ソ連軍、カナダ軍などの日本占領部隊も到着した。
降伏文書調印
9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、イギリス、オーストラリア、カナダ、アメリカ、中華民国、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席、さらには8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。ここに日本政府全権重光葵外相、大本営全権梅津参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
9月3日に連合国軍最高司令官総司令部は「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言をトルーマン大統領の言うとおりに反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)[147][† 1]。一方南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩んだ。
なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[148]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後戦犯として裁判に掛るものが多かった。
さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、シベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。その後帰国してきた軍人も、赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれているものも多かった[149]。また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国は混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。
犠牲者
軍人と民間人の犠牲者数の総計は世界で5〜8千万人に上るといわれている。
戦争裁判
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。
ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。
日本では戦争開始の罪、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、アメリカとソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。
しかしその一方で、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲、大阪大空襲、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲など、民間人の死傷を厭わない無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が枢軸国側による爆撃より遥かに大規模であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[注釈 20]、フィンランド、バルト三国に対する侵略行為、大戦末期のベルリンの戦い、ブダペスト包囲戦などのドイツなど枢軸国内におけるソ連兵による虐殺・暴行、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・暴行・略奪行為、降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。
また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留[注釈 21] の事例について、国際法違反の人道犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものがあったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例すべてが不問とされている。
サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする批判も存在する。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かったいわゆる「事後法」によって裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義も指摘されている。
敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかったことを、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
戦後処理
敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍やイギリス軍、ソ連軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦に挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。
一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている(再軍備も参照)。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連はバルト三国を併合する[150] とともに、東ヨーロッパでは戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中華人民共和国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容は、約75パーセントの人員を占めるアメリカ軍で、その次に約25パーセントの人員を占めるイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。オランダ軍や中華民国軍、カナダ軍やフランス軍、そして終戦土壇場になり日本へ侵略したソ連軍は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るに止めた。
戦勝国となったイギリス、アメリカ、ソ連、フランス、中華民国(そして1970年代以降戦勝国の座を中華民国から「引き継いだ」中華人民共和国)は、その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。イギリス、フランス、ソ連、中華民国、アメリカの5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をイギリス、フランス、アメリカ、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本兵がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わって近代戦術を指導するなどし、疲弊し勢力を失った宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに、共産軍の空軍設立に協力するなどした。
その後1960年代までの間に、インドやフィリピン、インドネシアやケニア、マレーシアやパキスタンなど多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。
戦争状態の終結と講和
ドイツを除く欧州枢軸国
旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は1947年2月10日、パリにおいて個別に行われた(パリ条約)。これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している[151]。
パリ条約の締結後、占領は解除される予定であったが、ハンガリーとルーマニアにおいてはオーストリアとの連絡路を確保するという名目でソ連軍による駐留が継続され、共産主義政権成立につながっていくことになる[152]。
イタリア
イタリア王国は1943年に「共同参戦国」として連合国と共に戦った経緯もあり、イタリア王国政府が存続を認められた上に、政権が自ら戦犯を裁き処罰する権利を与えられており、1946年までに戦犯裁判は終了している[153]。
ドイツ
ドイツにおいては中央政府の不在がベルリン宣言で宣言され、東西二つのドイツ政府が誕生したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ(西ドイツ)との戦争状態終結を宣言した。1955年にはソ連がドイツ(ドイツ民主共和国・東ドイツ)との戦争状態終結を宣言し、西ドイツからは占領軍が撤退し、東ドイツも占領状態が解除されたものの、ドイツ駐留ソ連軍が駐留を続けている。
またベルリンに関してはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国軍が駐留を継続している。1990年にはドイツ再統一が確実視される情勢となり、9月12日には東西ドイツとソ連・アメリカ・イギリス・フランスによるドイツ最終規定条約が結ばれた。1991年3月15日にこの条約が発効したことによりドイツの領域は確定して事実上の講和が実現し、1994年にはドイツ駐留ソ連軍が撤退した。ただしドイツ連邦共和国政府は「最終規定条約」を正式な講和条約とはしていない。
ポーランドは旧ソ連の影響下にあった1953年、ソ連と東ドイツの賠償免除協定で、東ドイツに対する賠償請求権を放棄させられている。ポーランドでは先の大戦においてユダヤ人300万人を含む600万人が亡くなるなど、この国はドイツによる最大の被害国である。しかし東西、また統一ドイツ政府による賠償は行われていない。
なお、2010年代においてもギリシアやポーランドに戦後賠償を求める動きがあるが、ドイツ側はドイツ最終規定条約や東ドイツが各国と結んでいた賠償放棄の合意などを根拠に応じていない[154][155]。だが2019年、ギリシャ議会も第二次世界大戦中にドイツから受けた損害賠償をドイツ政府に要求することを可決している。
ドイツの謝罪は当時の政府がドイツの名で行った行為に対するもので、補償対象も国内の被害者に限っている。現在のドイツは戦後に成立した別な国だという考えで、ドイツはポーランドやチェコなど周辺国の賠償要求には応じていない[156]。
日本
日本は大多数の連合国と日本との講和は1952年4月28日に発効した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)によって行われ、日本は占領状態から解放された。この条約にはソ連などが参加しておらず、特にソ連および承継国となったロシアと日本の平和条約は現在も締結されていない。しかしロシアを含む平和条約に参加していない各国と日本は個別に戦争終結に関する合意・条約を交わしており、1957年5月18日に発効したポーランドとの国交回復協定によって、旧連合国諸国との戦争状態は法的にすべて終結している。
戦時下の暮らし
日本
- 日用品・食料
- 日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の元に「ぜいたくは敵だ」との標語が多くみられた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で導入された木炭自動車が増え、1939年にはカフェーなどの営業が23時に制限された。
- 1940年には、外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止された。また、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。さらに、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入された。
- しかし、生活必需品や食料の生産及び流通はこれまでと変わらず、営業時間が制限されたにも拘らずレストランやビヤホール、料亭などの営業は通常通りに行われ、繁華街や遊園地、野球場では相変わらずの賑わいを見せた。
- 1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年には食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされ、政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った農家が売り渋りを行ったため、農家などによる闇取引が盛んになった[157]
- また生産量は変わらなかったにもかかわらず食糧の流通量が減った[158] 他、米など一部の食糧は配給制度が実施された。
- ただし、引きつづき食料の配給の優遇を受けていたレストランや食堂、ホテルや旅館などで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いた外地から原油などの資源や食料の調達も可能になり、これらの占領下に置いた地から自動車やレコードなども輸入された。このために戦後のテレビドラマで見られるような「戦中の飢えた姿」は真実ではなく、実際には大戦終結する1945年の初め頃までは生活必需品や食料が極端に不足することはなかった[159]。
- しかし、南方とのルートの制海権を連合国側に握られた1945年初めになると、コーヒーやバナナなどの外地からの食料のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が急激に減ったことから、食料の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していった[160]。
- なお連合国軍の潜水艦は日本の商船を532万トン撃沈した。攻撃対象として商船がほとんどの割合を占めたことから、潜水艦隊が通商破壊を意図していたことは明確であった[注釈 22]。しかし、電気やガス、水道については、燃料や原料の石炭が日本国内で自給できたため滞る事は無かった。
- 1945年も春頃に入ると、連合国軍機による相次ぐ本土空襲によって発電所や工場、鉄道や国道が破壊され、電力の供給がたびたび滞るようになった。その他、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。
- なお配給やその遅延による窮乏生活は終戦後も2、3年間続くこととなり、連合国の政府や諸外国の民間団体による助けもあったが、もともと日本は食料の産出量は多く、国によっては1950年代まで続いたヨーロッパ諸国に比べると回復は早かった。
- 軍需産業
- 日中戦争から英米開戦に至り、軍需の生産数はかつてないほどの量に達したが、徴兵年齢に達した多数の男性が徴兵されたために多くの熟練工も動員された。そのため英米開戦後1943年ころには多くの女性や大学生を含む非熟練工が現場に動員された。
- 1944年に入るとさらに多くの男性が徴兵されたため、中高校生までもが非熟練工として現場に動員された。
- 政治
- 1942年の第21回衆議院選挙は、1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置が第二次近衛内閣によってとられていた。対英米戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。
- 1942年2月23日には元首相の阿部信行を会長に戴いた翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数いっぱいの466人を選考・推薦していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。
- 推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、更に軍部や大日本翼賛壮年団をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。
- 言論
- 対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、朝日新聞や報知新聞などの右寄りの新聞や、さらに「隣組」を通じて管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求されたが、1942年に行われた第21回衆議院選挙の際など国民の間では政府に対する批判も行われた他、雑誌などでは政府批判も比較的自由に行われた[158]。
- しかし、東條内閣になった後は、戦争に反対する言論、特に共産主義者などの思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧し、この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂が憲兵隊に逮捕されている。
- 教育
- 小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。また1938年にはヒトラーユーゲントが来日し、東京市民から大歓迎された。1941年には国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による基礎教育、中等教育は変わらず行われた。しかし本土に対する連合国軍機の空襲の本格化を予想し、1944年8月4日には学童疎開が開始された。
- 対英米戦の開戦以降も大学や高等専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化しつつあった1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。
- 熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員)。また日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。
- 対英米戦の開戦以降はドイツ語やイタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、民間の間で「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された。しかし、東條内閣は「英語教育は必要である」とし、戦争中も高校以上での英語教育は続いた[158]。
- スポーツ
- 1940年夏に開催される予定であった東京オリンピックと同年開催の札幌オリンピックは、日中戦争の激化と国家総動員法のあおりを受けて開催権返上を余儀なくされたが、代わりに東亜競技大会が開催された。なお1940年のオリンピックは第二次世界大戦により中止された。
- なお、高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたものの、日本プロ野球はその後も継続して開催され、選手が戦場に持って行かれながらも1944年夏まで開催された。
- 大相撲も選手が戦場へ持って行かれながらも大戦末期まで変わらず行われたが、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。
- そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。これ以降の本場所は中止となった。
- ゴルフは戦争中でもプロの大会がしばらくは行われたが、1943年中盤には軽井沢のコースが閉鎖され、以降プロの大会が禁止されてしまった。
- テニスは戦争中でも行われ、大戦末期までアマチュアのプレイは行われた。
- モータースポーツも1936年にオープンした多摩川スピードウェイで盛んに行われたが、4輪は1939年に日中戦争の激化で中止、2輪も対英米戦開戦で中止された。
- 娯楽
- 日中戦争当時より日本の娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、1930年代後半のこの頃より『上海陸戦隊』(1939年)や『燃ゆる大空』(1940年)をはじめ、欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作、上映されるようになった。また、多くの歌手や芸人、俳優などが戦地や工場への慰問活動を行っている。
- 日本の娯楽映画は英米開戦後も多数制作され、1945年には当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め喜劇への検閲を廃止した。1945年の正月の東京の東横映画劇場は、喜劇役者古川ロッパの新作が満入り御礼の賑わいであったが、翌月から東京も空襲を受けるようになり、ついに4月には上映中止となった。しかし、さすがに数は減ったものの1945年夏の終戦直前まで日本では娯楽映画が作られた。
- なお、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされ、また取り締まり対応の警察の自主規制も多く、例えば上記の「ロッパ」から、「緑波」に改名された。
- 対英米戦開戦前までアメリカの映画は盛んに上映され、1941年夏までは映画会社の日本支社も営業していただけでなく、対英米開戦後にもアメリカ映画の上映は禁止していなかったものの、さすがに1941年12月27日に英米映画の上映は禁止になり[161]、映画配給社により映画の配給が統合され英米の映画が配給禁止となった。しかし香港や昭南などで没収された最新作が上映されたりした。なお、ドイツやフランスの映画は変わらず上映されたが、人気が低いうえに配給の制限により上映数は激減した。
- 日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居や漫画、玩具、中でも「のらくろ」は大ヒットし、空き地では「のらくろ」をもとにした戦争ごっこが定番になったが、1941年に「兵士を犬に例えるとは不謹慎」とされ連載中止された。
- 空襲
- 日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものにすぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[158]。
- しかし連合国軍機の空襲が1944年6月の九州北部からはじまり、さらに同年11月からは東京、名古屋、大阪方面にも空襲が始まった。これにより空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設けるために、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する「家屋疎開」が京都や静岡、新潟など中規模都市に至るまで行われる。
- 1945年に入ると空襲の回数が増え、室蘭や釜石、沖縄などの沿岸地域ではアメリカ軍艦による艦砲射撃やイギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。
- 地上戦
- 1945年以降の大戦末期では、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が行われた。さらに南樺太や北方領土の島々では、8月15日の停戦後にも関わらずソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
- 外地・南洋諸島(空襲と地上戦)
- 日本の主要な外地で、重要な軍事戦略拠点であった台湾島は英米戦の当初戦火を受けず、日中戦争当時から英米開戦後まで本土の食料原産地として賑わった。しかし、台北や台南、基隆などの大きな軍港や基地があったため、終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受けた。
- もう一つの日本の主要な外地であった朝鮮半島は、日中戦争から大東亜戦争に至るまで大きな戦禍に見舞われなかった上に、戦争中を通じて日本海を通じた本土との交通も比較的順調だったものの、大戦終盤には一部に連合国軍機の空襲を受ける地域があった他、1945年8月15日以降には、かねてから朝鮮半島に対する領土的野心を持っていたソ連軍が北部に侵攻した。
- なお外地の朝鮮半島は日中戦争当時より本土との間にパスポートなく行き来できたことから、多くの特に多くの朝鮮人が仕事を得るために、自らの意思で本土に渡っている(日本統治時代の朝鮮人徴用)上に、多くの人が戦後もお金のために日本に残っている。
- 南洋諸島は英米戦の末期にその殆どが戦場となり多くの戦死者を出した。一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いからで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は玉砕した。1944年6月のサイパン島での戦闘は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月にはテニアンの戦いが行われ、テニアンでも多数の民間人が犠牲になった。
- またアメリカ軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、第1海兵師団をペリリュー島に上陸させた。このペリリューの戦いにおいて、日本軍は従来の戦術からゲリラ戦と縦深防御戦術に転換したためアメリカ軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している[162]。
- ペリリューの戦い以後、1945年8月15日の日本の降伏まで、連合国軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、連合国軍によって日本本土との補給線を断たれた孤島では飢餓に見舞われ、ウォッジェ環礁やウォレアイ環礁などでは多数の餓死者を出した。
占領地
中華民国のほか、イギリス領シンガポール、香港、マレー半島やビルマ、オランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなど、日本の勝利により占領地となった地は即座に軍政が敷かれ、また、そのいくつかの地ではそれまで使用されていた英語名が即時に廃止され、「シンガポール」が「昭南」、香港の「ハッピーバレー競馬場」は「青葉峽競馬場」などと改名された。
また、教育ではそれまでの英語やオランダ語などが廃止され、日本語が第一外国語として教育の場で使われるようになった。また多くの地で軍票が発行され、それをもとにした切手や宝くじなども発行された。
さらに民間の企業も多くが現地に渡り、日本風の旅館やレストラン、料亭などが営業を開始し、これらを楽しむ軍人や官僚、民間人などで賑わった。また香港で接収されたイギリス系の百貨店「レーンクロフォード」には「松坂屋」が開店した。
またイギリス領マレー半島に住むイギリス人、アメリカ領フィリピンやグアム、アッツ島などに住むアメリカ人、オランダ領東インドに住むオランダ人の民間人は、1941年12月以降の日本軍の進出後はそれぞれの地の日本軍の保護下に置かれ、その一部は交換船によって返され、軍人はそれぞれの地域の捕虜収容所に置かれるか、日本の捕虜収容所に終戦まで置かれた。
在日外国民間人
立場による違い
在日外国民間人は、大別して同盟国人、中立国人そして敵性国人とに分けられる。当然のことながら、敵性国人は開戦から終戦に至るまで抑留所に入れられた(これは相互主義に基づき敵性国に住む日本人も同様であった。しかしアメリカやカナダのように、大使館員や駐在員などの一時在留者をのぞく、永住権を持つものの多くが強制収容所に入れられるという人種差別を元にした酷いケースもあった)が、同盟国人と中立国人は「友好国」ということもあり優遇された立場に置かれ、例えば食料配給も日本人よりもかなり優遇されていた(これも相互主義に基づき同盟国に住む日本人も同様であった)。
なお1942年から1943年にかけてイギリスとアメリカとの間に3回運航された交換船で、イギリス人やアメリカ人、ブラジル人やオーストラリア人などの敵性国民は、これらの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人やタイ人、満州国やドイツ人の駐在員や外交官、留学生と交換される形で帰国した[163]。
1943年9月29日以降は、全ての同盟国人や敵性国人を含む外国人の住んではいけない場所が決められ、神奈川県横浜市中心部や神奈川県横須賀市、千葉県木更津市など軍機が多い都市がこれに指定された。その後多くの西洋人が自主的に東京市内や横浜市内の指定地域外、または西洋人が多い別荘地の箱根や軽井沢に移ったが、これは結果的に1945年以降の連合国の空襲から逃れられるというメリットがあった。
また、1945年頭には神奈川県の全ての外国人の住人は箱根へ移るように通告され、同年7月には全ての同盟国人や敵性国人を含む外国人が地方への移動を通告されたが、これも同様であった。なおこれらの居住地の移動にかかる予算は、個人的なもの以外全て国費から払われ、これは同盟国人、中立国人、敵性国人いずれも全て同様であった。また1944年冬には、ドイツ、イタリア、タイ、中華民国(南京国民政府/汪兆銘政権)、満州国などの大使館の一部施設が、激しくなると予想される連合国の空襲から逃れ東京から神奈川県箱根に移った。
なおイタリアやフランス、そして大戦末期にはドイツなど、戦況やどの政権につくかで同盟国人から敵性国人と立場が一変するケースがあったものの、ドイツは1945年5月に枢軸国として敗北し、すなわち即座に敵性国人として抑留されるべきであったが、友好的な在日ドイツ人が多いことや日本側の都合で終戦に至るまで軟禁程度で済んだケースもあった。
同盟国
ドイツやイタリア、タイ王国や中華民国、フランス(ヴィシー政権)、自由インド仮政府、満州国などの同盟国の外交官や駐在員、ジャーナリストや留学生は、日中戦争後や英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同地域の同盟国の外交官や駐在員の多くも本国への帰国もままならなくなった。
さらに1941年の独ソ戦、同12月の日英米の開戦で、本国との連絡も潜水艦やそれによる手紙、無線に限定されることになった。しかし満州国や南京国民政府、タイ、フランス(仏印)や自由インド仮政府の国民は、同盟国であり距離的な問題も少ないことから英米の開戦後も比較的自由に移動できた[164]。
なお、ドイツ、イタリア、ブルガリア、フィンランド、タイ王国、ルーマニア、ハンガリーの「旧枢軸国国民」の国民は、1945年9月には凍結されていた銀行口座から生活費として限られた金額を下すことを連合軍から許可される[165] など、いくつかの記録が残っているが、中華民国や満州国、自由インド仮政府の国民と外交官については、戦後の連合国の占領時や帰国時の混乱からか明確な記録が残されていないが、自由インド仮政府のA.M・ナイルのように、連合国政府からの逮捕を逃れるべく地方に逃れたものもいた。
ドイツ
約3,000人の在日ドイツ人は外交官のみならず、オランダ領東インドからの引揚者や、シーメンスやボッシュ、バイエルやコメルツバンクなどの駐在員、大学院や大学の教員、留学生の多くが対英米戦開戦後も日本に残留した。またドイツ人は、食料の配給では1945年に入り日本人への配給が厳しくなってからも、優先的に食料品や缶詰などを配給されていた(これはドイツにおける日本人についても同様であった)[166]。また、日本やその占領地を拠点にしていた仮装巡洋艦やUボート、封鎖突破船などが拿捕したイギリスやアメリカなどの貨物船より、ソーセージやコンビーフ、ピーナツバターなど日本人が好まぬものを廻してもらうことも多くあった[166]。
東京だけで500人いたナチ党を中心とした住人組織が置かれ、相互監視が行われた。また、反ナチス的なドイツ人を取り締まるために、駐日ドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部の将校であるヨーゼフ・マイジンガーが駐在し、反ナチ的なドイツ人は捕えられ18人が収容所に入れられたほか、ヴィリー・フェルスターのような在日ドイツ人が危険人物として監視下に置かれた。また、1943年6月にジャーナリストのイヴァル・リスナーは、マイジンガーの調査により友人のヴェルネル・クローメ、日本人秘書およびドイツ人秘書と共にスパイ容疑で逮捕された。リスナーは憲兵に引き渡され日本の刑務所で2年間を過ごした。
1942年11月には、横浜港に停泊中のドイツ海軍の仮装巡洋艦「ウッカーマルク」が大爆発を起こして轟沈する「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」が起きた。多くのドイツ海軍の乗組員が被害を受けたが、爆発の原因は、大規模な被害により物証となるものが破壊されてしまった上に、戦時中のことであり現在でも明らかになっていない。連合国のスパイの犯行とも噂されたが、目撃者の証言などからウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙との説が有力である[167]。この事故により、ドイツ海軍の将兵ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になり、周辺の住民や労働者、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ大使館員のエルヴィン・ヴィッケルトをはじめ多数の重軽傷者を出した[167]。
また、ウッカーマルクとその近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた[168]。なお、1944年には東京の大森にあった独逸学園が軽井沢に疎開している。
1945年5月のドイツの敗戦後には、ドイツ本国が連合国の占領下に置かれたことで法的に「敵国人」扱いになり、外務省の命令でナチ党の解散、さらに党員バッジもつけることが禁止された。また占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態におかれ、さらに6月8日、日本政府は「ドイツ政府はもはや存在しない」として、ドイツ大使館並びにドイツ領事館の職務執行停止を正式に通告した[169] ことで、駐日ドイツ大使及び外交官としての地位を喪失した。なおこの際に日本政府は「独逸国大使」のスターマー宛に、5月25日の東京大空襲で焼失した[170] 旧ドイツ大使館の跡地を外務省の管理下に移すことを通知している[171]。
東京や関東にいたドイツ人は、6月以降戦争終結まで富士五湖近辺や軽井沢などの地方の別荘地などに送られた[159]。その頃はもはや日本人よりこれらの地に「収容」されている感じはなく、旧同盟国人が「軟禁」されている状況で、行動は許可が必要になったが軍機以外の場所は比較的自由で、撃墜された連合国軍のパイロットと間違われるのが唯一避けるべき行動であったという。
今や国家として存在しなくなったドイツが日本にとって事実上の「敵国」となり、ハインリヒ・ゲオルク・スターマー大使以下全ての大使館員らが軟禁された6月以降も、マイジンガーは日本の憲兵隊や特高と一種の協力関係を持ち、自動車の利用も許され、東京と大使らが軟禁されていた箱根の富士屋ホテル、他の大使館員らが軟禁状態に置かれた河口湖の富士ビューホテルを行き来しつつ、「反ナチス的」と目された在留ドイツ人の情報を憲兵隊や特高に流した[172]。
ドイツの敗戦後に河口湖や箱根、軽井沢に軟禁されたドイツ人は、8月の日本の終戦後に今度は関東を占領地域に置いたアメリカ軍により監視下に置かれた。その後連合軍によりナチス党関係者やマイジンガーら約50人が逮捕され、マイジンガーはヨーロッパに返されその地で死刑になった。またこれまでの日本政府の様に自由な行動は厳しく制限され、居住県外に出る際は理由と許可が必要になった[166]。最終的にユダヤ系、もしくは日本に第二次世界大戦前から住んでいた人を除くドイツ人(日独戦ドイツ兵捕虜の残留者など)は、1947年までに強制的にドイツに帰国させられた[166]。
イタリア
約300人の在日イタリア人は、1943年9月のイタリアの敗戦後まではドイツとともに同盟国の国民として安泰な地位にいたが、敗戦後にはイタリア王国側につくかイタリア社会共和国側に付くかでその地位が振り分けられた。民間人のうち190人はイタリア社会共和国につき、イタリア王国側についたたために抑留されたのはわずか10人にも満たなかったが、イタリア大使館内でイタリア社会共和国側につくことを拒否したものはマリオ・インデルリ大使以下武官を含む50人で、2人のみがイタリア社会共和国側についた。
イタリア社会共和国側につくことを拒否したものは、警察の監視下のもとで外交官は東京の田園調布にあるサンフランシスコ修道院に、民間人は京都大学の講師のフォスコ・マライーニのように、名古屋とその後は秋田の収容所で終戦までの間を過ごした(1943年9月9日に自沈したイタリア特務艦「カリテア」の150人ほどの軍人は兵庫県姫路市広畑区の捕虜収容所に収容された)。当然食料などの配給は同盟国であったころに比べ少なくなり、田畑で自分たちの分を自給自足することを余儀なくされた。
なお、イタリア王国側についた商務参事官のローモロ・アンジェローネは、抑留されたことを日本政府に強硬に抗議したが、これは当然のことと跳ね付けられた。アンジェローネ参事官自身は熱心なファシスト党員であり、日伊の通商に大いに貢献した外交官であるが、日本政府のイタリア王国側についたものに対する態度は冷静であった[173]。なお、上海に停泊中の「コンテ・ヴェルデ」は、連合国に降伏したイタリア王国政府の指令に基づいて船底を爆破し横転した。この時、日本占領域にあった「コンテ・ヴェルデ」を含む合計17隻のイタリア艦船がイタリア社会共和国につくことを拒否し自沈している。この事件は日本政府の心証を悪化させ、その後イタリア社会共和国につくことを拒否した在日イタリア人に対する冷静な処遇の一因になったとされる[174]。また、ミルコ・アルデマンニ館長の元、九段に1941年3月にオープンしたばかりのイタリア文化会館も閉館を余儀なくされた。
1945年8月以降に運航される予定であった第三次日米交換船には、イタリア王国側につくかイタリア社会共和国側につくかは関係なく、1943年9月に連合国に降伏した後に日本で抑留されていた在日イタリア大使館員や、第一次日米交換船に使用されたイタリア客船「コンテ・ヴェルデ」の乗組員ら民間人、さらに降伏に伴い日本海軍に接収(その後ドイツ海軍に貸与)されたイタリア海軍潜水艦の「ルイジ・トレッリ」などのイタリア海軍の軍人も含まれることになっていた。しかし第三次日米交換船は8月の終戦により運航されなかった。
なお、イタリア社会共和国は5月のドイツ降伏時に消滅し、その後はイタリア社会共和国側についていた者もドイツ人同様軟禁扱いされ、同国の代理大使オメロ・プリンチピニも、富士屋ホテルで抑留されたまま終戦を迎えている。また、マリオ・インデルリ元大使やカルロ・バルサモ元提督、ローモロ・アンジェローネ元商務参事官以下、イタリア王国側についた大使館関係者50人弱と民間人10数人、また横浜から疎開した27人のイタリア人が、秋田の敵国抑元留所で終戦を迎えている。これらのイタリア人外交官や将官の多くが、1945年の暮れから1946年初頭にかけて帰国している。
なお日本に残ったイタリア人もおり、カルロ・バルサモ提督の専属料理人のアントニオ・カンチェーミは戦後神戸に在留後、東京都港区に本店を構えるイタリア料理レストラン「アントニオ」のオーナーとなった。
満州国
満州国の大使館は東京の麻布区桜田町の広大な敷地内にあり、日中戦争中よりその場所で大使館として機能していたが、他の国の大使館同様に連合国の空襲を避けるため1944年秋より軽井沢に疎開し、そのまま終戦を迎えた。
フランス
数百人の在日フランス人は1940年7月のヴィシー政権の成立後や、1941年12月の英米開戦時も、駐日大使館とフランス領インドシナの植民地政府がヴィシー政権に就き日本との友好関係を保っていたために、自由フランス(ドゴール派)に付くことを表明した少数の外交官以外の在日フランス人は、中立国民と同様の扱いを受けていた。
さらに、1944年8月に行われた連合国軍によるフランス本土解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー=日本間の協定無効宣言が行われた後も、フランス領インドシナ植民地政府は、日本とともにインドシナ統治を継続するという微妙な位置についていたため、敵国人となることは逃れた。
その後1945年3月に行われた、日本軍によるフランス領インドシナの植民地政府への攻撃(明号作戦)以降は敵国人となったために、軽井沢などで警察の監視下のもと事実上の軟禁状態におかれることとなった。原則としてフランス人以外との接触は禁止されたが、軽井沢にいた数千人の中立国人との接触は自由に行われ、また地元の住人との接触も寛容であった。8月15日以降は自由となり、8月下旬以降に「戦勝国民」として連合国と接触した[175]。
中立国
在日人数が約200人以上に上ったスイスやバチカン、チリ、スペイン、ポルトガルなどの遠方の中立国の外交官や駐在員、船員や留学生の多くは、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたためヨーロッパ経由での帰国が困難になり、さらに1941年12月以降はアメリカなどが参戦したために、これらの国経由での帰国もままならなくなってしまった。
ただしソ連だけは、日本海およびシベリア鉄道経由で1945年8月9日の開戦まで自由に行き来出来た。またこのルートは、ビザが発行される限りアフガニスタンやトルコ、スウェーデンなどの中立国への帰国にも使われた。またヴィクトル・スタルヒンなど白系ロシア人は無国籍扱いであったが、幸いなことに日本ではソ連人と同様中立国人の扱いであった。
これらの中立国の国民はこれまで通りの生活、仕事を続けられ、配給以外の食料も潤沢に与えられた。駐日スイス公使であったカミーユ・ゴルジェ以下スイスの外交官は、対英米開戦後に日本政府が委託した中立国の外交官として、赤十字国際委員会の中央捕虜情報局の傘下に置かれ、日英米交換船の運航がきちんと行われているかどうかの同乗確認や、日本全国に及んだ連合国の国民の抑留所の監視などを行うなど、その信頼は高かった。
1943年9月以降外国人に居住不可地域が設けられたり、1944年末期に本土への空襲が増加すると予想した後は、中立国人の多くは軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルや別荘へ疎開して活動した。もちろんこれに伴う引っ越し費用はすべて日本政府が負担した。特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、利便性を考え三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイスの公使館が置かれる事となった。
なお1945年春には、軽井沢にトルコ大使館、フランス(ヴィシー政府)大使館、アルゼンチン大使館、アフガニスタン公使館、ルーマニア公使館、ポルトガル公使館、スウェーデン公使館、スペイン公使館、デンマーク公使館、スイス公使館と赤十字国際委員会などが置かれ、または疎開していた。
また1944年末以降にはソ連の大使館が箱根の強羅ホテルに置かれた。当時ソ連を通じた終戦交渉を模索していた東郷茂徳外相の意を受け、広田弘毅元首相がヤコフ・マリク大使と数度にわたって接触したことが知られている。
終戦により日本が連合国の占領下におかれたことで、これらの中立国の外交官は、日本が占領下におかれ「対象となる国家が存在しなくなった」ため、家族ともども連合国の船で帰国した[176]。
敵性国
1937年の日中戦争開戦後も、イギリスやフランス、オーストラリアやアメリカなどその後の連合国の駐在員や外交官、宣教師や留学生の多くは、日本や外地などで戦前と変わらない生活を行った。
しかし1941年12月の対英米開戦後には、日本とその占領地、そして枢軸国として参戦したタイ王国や満州国に取り残されたイギリス人やアメリカ人、オーストラリア人やカナダ人、ギリシア人やオランダ人、グアテマラ人やアルメニア人、ノルウェー人や英領インド人などの敵性国人の民間人は、開戦後次々と抑留所に収容され軟禁された。なお男性のみが抑留所に入れられ、女性は抑留されなかった。また日本の大学などで教員についていたイギリス人やアメリカ人、オランダ人などの外国人は開戦後も抑留所に入れられず、暫くの間はその地について仕事に就き通常の給与が与えられた。
これらの男性は戦時国際法に則り軍に管理された捕虜とは異なり、主に警察によって管理された。警備は厳重ではあったが、抑留者に対する取り調べや暴力を伴う違法行為などの国際法違反は皆無で[89]、また妻や娘など家族がいるもののみ外出も認められた。さらに日本という海に囲まれた国にあるため脱走は皆無であった。
なお全ての抑留者の情報は、戦時国際法に則りスイスのジュネーブの赤十字国際委員会の中に置かれた中央捕虜情報局に置かれることとなり、委員会駐日代表となったフリッツ・パヴァラッツイーニ博士が各地で数回にわたり中立国の局員の収容所の見学や聞き取りがおこなったが、生活や食事、医療や待遇などについての言動については日本側からは制限を課さず自由に行われた[89]。その結果、苦情は皆無ではなかったものの、おおむね良好であった[89]。
抑留、逮捕されるのは45歳以上の男子に限り、女性や子供は対象外であったが、男子でも45歳以上というのは地方では無視されがちであった。また福島県や秋田県、青森県や島根県などの地方では、田舎の警察にありがちな人種差別的、宗教的差別的観点から、独身女性(その多くが修道女であった)も抑留された[173] が、女性に対する抑留のような逸脱した地方警察の暴走および、国際法違反は本部から問題視され、1942年5月13日に解除、開放の命令がなされている。
しかし1942年9月以降方針が変わり、修道女や教師などの女性独身者と、宣教師や教師などの男性高齢者は抑留された。これはアメリカやイギリスが日本人の抑留者を男女問わず強制収容所に入れていたためであり、相互主義に基づくものであった。なお、妻や娘などの結婚女性は例外のままであった。これは男女差別なく収容所に入れていたイギリスやアメリカ、オーストラリアなどと違い、日本が連合国に比べ紳士的であったといえる。また、戦時中に日本海軍やドイツ海軍、イタリア海軍の軍艦によって拿捕されて、横浜港や神戸港などに連れて来られた連合国の軍艦の民間の乗務員や、民間船の船員や搭乗者なども、抑留者として抑留先に入れられた。
なお、これらの敵性国人の多くは、1942年から1943年にかけてアメリカとイギリスとの間に3回運航された交換船で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人やタイ人、ドイツ人の駐在員や外交官と交換される形で帰国した[163]。だが、フォード・モーターやワーナーメディア、パンアメリカン航空やP&Oなどの大企業勤務の者も、妻や息子、娘などの家族が日本人であることなどの個人的都合や、病気などの理由から帰国せず終戦までの間自主的に抑留された者もいた[89]。宣教師や修道女の多くも、信者を残して帰国できないなどの理由で日本に残った。
なお、戦前より日本に進出していたIBMや香港上海銀行、ゼネラル・モーターズやフォード・モーターなどの企業の資産は、日本政府により没収、売却されることもなく、戦中はすべて三菱信託銀行をはじめとする信託銀行に管理が任され、戦後はきちんと返還された。
首都圏ではバンドホテルやブラフホテルなどの洋風ホテルや、横浜ヨットクラブや根岸競馬場などのクラブハウス、船員会館やバターフィールド・アンド・スワイアーの社宅。神戸ではイースタンロッジなどのホテルやカナディアン・スクールの寄宿舎などの洋風施設など、全国34か所が抑留先に指定されたが、広島県や長崎県、北海道や福島県などの地方では洋風の施設がある抑留先を探すのはままならず、教会や修道院、保育園または自宅などが多かった[173]。
また、1943年中頃の第二次日米交換船の行き来により抑留者が劇的に減った後、同年暮れに抑留先が再編され、同時期にバンドホテルがドイツ海軍に借り上げられたことなどから、神奈川県の抑留所が横浜市戸塚区や神奈川県箱根、厚木市七沢、足柄の暁星学園の寮などに抑留先が移ったり、自宅に残っていた無職の老人や、妻などの家庭婦人、子どもまで対象になるなどの変更があった[177]。最終的に日本国内の連合国の民間人抑留所で、一時的なもの含むと北海道から九州まで全国50か所以上に上った。なお、これらの民間人抑留施設の家賃(から引っ越し代や食事代、治療費に至る)まですべて日本政府から終戦に至るまで支払われていたか、政府により施設そのものが買い取られていた。
食事は当初、都会のホテルやクラブハウスでは洋食をベースにした豪勢なものが提供されることも多く、他の抑留先でも外国人ということを考慮し肉やパン、スープなどもあった上に、1日3食で量も比較的考慮されていたため、日本人から「豪勢だ」と批判が出たり、太る者も少なくなかった[89]。なおこれらの代金はすべて日本政府から払われていた。なお妻などの家族や知人の日本人、信者からの差し入れも自由に行われた[173]。1943年中頃の日英米交換船の終了までは、先方に抑留されている日本人や同盟国人への配慮もあり、量や質もそれなりに配慮されたが、1944年以降はその量と質も外の配給とともに少なくなっていったうえに、配給だけでは足らずに、愛知県のイタリア人向け抑留所をはじめ、抑留者自ら農作業をし自らの食料を調達することも多くなった。また抑留所外に住む妻などの家族などの差し入れに対する警察官による横領も多くなっていった。
娯楽が無く、男性しかいない中で、抑留所内では、野球やサッカー、ジョギング、卓球、チェスやカードゲームなどが盛んに行われた。また横浜など抑留先が複数ある場合は、抑留先同士の交流を図るため野球などの交流戦が三渓園などで開催された[89]。なお、横浜球場に連合国軍人の捕虜収容所がおかれていたが、民間人と軍人捕虜の間は明確かつ厳密に区別され、それらとの交流は一切なかった。
また抑留所内では、新聞の購読や信仰の自由が保障され、プロテスタントやカトリック、長老派教会、またユダヤ教の僧侶や牧師などによるミサなども自由に行われた[178]。
医療も日本側として十分なものが行われており、また病気のために抑留を解かれ病院や自宅などで療養するものも多かった。しかし1944年の末以降は、戦況の悪化とそれによる感情の悪化により医療などの環境が悪くなり、また高度な医療を受けられないことや、長期にわたる療養のために亡くなる例もあった[173]。また1945年以降は連合国軍の空襲を受けて被災する抑留所も増えた。
さらに1945年8月9日以降、満州国やスイス、スウェーデンなどの数少ない同盟国と中立国を除く殆どの国が敵対国となってしまったが、15日の降伏まで抑留は続いた。15日にほとんどの抑留所と連合国の捕虜収容所で日本の降伏と解散が申し伝えられたが、16日以降も治安維持の観点や、抑留所や捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などが連合国軍機から投下されたことから、数日間から数週間は抑留先へ止まるものも多かった[177]。なお全国11か所の抑留所や、数十の捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などを落とす連合軍機などが、停戦後の8月中旬から9月初旬にわたり5機も墜落している。
戦時中に3度に渡って行われた日英米交換船により、終戦時には抑留所に置かれた抑留者は609人に減っており、一部のドイツ人やフランス人など、戦況により敵国人となり「軟禁」されたものを含めると抑留者は850人以上が確認されている。また、数千人の規模のイギリスやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドなどの連合国軍の戦時捕虜が、終戦時に日本とその占領下の収容所に収容されていた。
ドイツ
総統アドルフ・ヒトラーは大戦中、可能な限り国民生活水準の維持を考慮せざるを得なかった。これは第1次世界大戦の敗北が、社会主義者等、国民の裏切りによるもの、とヒトラーが見なし、同じ失敗を繰り返すのを懸念したからだった。しかし、食糧や生活必需品が配給制となることは避けられなかった。敗戦間際までドイツの喫茶店ではコーヒーを飲むことができたが、実際に供されたのは代用コーヒーであった。また、ソ連軍が侵攻する直前まで、牛乳配達や新聞配達が途絶えることは無かったという。
その一方、国民の裏切りを防止するため、各地に強制収容所を設置し、秘密警察ゲシュタポが国民生活を監視。反政府・反戦的言動を徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘン大学生の反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスは有名な「総力戦布告演説」を行い、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始された。軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力により、1944年には激しい空襲下でもドイツの兵器生産はピークに達した。
連合軍の空襲はすでに1940年から開始され、1942年5月にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。
総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレー等、庶民の娯楽の場が次々と閉鎖された。そのような状況にもかかわらず、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団等、ドイツのみならず世界を代表する楽団は敗戦直前まで何とか活動を続けた[179]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭い、それがドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍が侵攻した地域でのソ連軍による民間人へのレイプや虐殺などの噂を耳にすると、残虐な報復から逃れるため西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いには、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポや親衛隊は、逃亡兵や敵への内通者と見なした市民を即席裁判で処刑して回ったという。また各地の強制収容所は敗戦間際には、劣悪な環境と食料不足から伝染病が蔓延し、多数の死者を出した。その惨状は進駐した連合軍に強い衝撃を与えた。
フランス
- 本土と植民地
開戦後、ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いたが、ドイツによる占領後、徴兵された農民の多くはそのまま捕虜となり、植民地との貿易が途絶し、ドイツの戦時経済体制に組み込まれて農産物の生産量が激減、食糧や生活物資の供給は逼迫し、生活は困窮した。また戦場となった地域では、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ死亡した。
ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコ等多くの植民地はヴィシー政権についた。しかし同政権の植民地政府に対する拘束力はほとんど無く、フランス領西アフリカ等は、自由フランス側に参加していった。シリアとレバノンは独立し、連合国に加わった。一方、インドシナは1940年にヴィシー政権の了解のもとで日本軍の駐留を受け入れ、フランス植民地政府と日本軍による支配が1945年まで継続された。
- ドイツ占領下の本土
パリを含む北部と西部地域は、行政機構はドイツの軍政下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。ドイツはフランスでもユダヤ人迫害政策を実施し、ユダヤ人は外出時にダビデの星を衣服に付けることを義務付けられ、強制収容所に送られた者も多かった。ドイツの支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成し、その動きはマキのように、右派から共産主義者までの広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側も対抗して親ナチス的民兵団を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、自己保身や利害のため、自発的にドイツ軍に協力(対独協力者)したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。
非武装都市として破壊をまぬがれた中心都市パリでは、ドイツの軍政下でインフラストラクチャーの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したが、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったので、占領開始から暫くの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れ、また制限は有ったが、オペラ等の芸術活動も継続された。アンドレ・ジッドやパブロ・ピカソなどの独創的な作家・芸術家にとって、ドイツ軍占領下のパリはヴィシー政権統治下と比べ自由だと感じられたという。ヴィシー政権の検閲はナチスより対象が多かったためである。
1942年には北アフリカのフランス植民地が連合国の勢力下になり、フランス全土は枢軸国側に占領された。ドイツによる経済収奪は激化し、ドイツ経済の4分の1がフランスからの収奪で成り立っている有様だった。また、食糧事情も悪化し強制労働に従事させられる国民も多かった。一方、レジスタンス運動も激化し、サボタージュや破壊活動が増大した。
なお帰国しなかった日本人の早川雪洲や薩摩治郎八は、ドイツ軍占領と南部にヴィシー政権が設立された後もパリに住み、特に治郎八は戦前より日仏交流のために尽力しフランス人のみならず、在住邦人たちにも頼られていた。さらに2人ともに日本人ではあるものの対独協力に積極的でないために、1944年の連合軍によるパリ解放後も自由フランスや連合国軍による逮捕や追放を逃れた。
1944年6月以降、フランス本土からドイツ軍は敗走。ドイツ軍撤退後、対独協力者たちは糾弾され、住民から報復、リンチされた者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、「売国奴」、「売春婦」と言われ戦後長くその行為を非難された。
イギリス
- 大戦初期
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、1940年のベルギーやオランダ、フランスの降伏後は単独でドイツと戦った。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。なおイギリスのほぼ全土がドイツ軍の爆撃圏に入った。
また1942年頃まではドイツ軍の本土進攻が伝えられたことから、ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。なお1939年11月には、ロンドン航路についていた当時中立国の日本の日本郵船の照国丸が、テムズ川河口で機雷に触れ撃沈されている。
ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために漁業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり国民は困窮した生活を余儀なくされ、ガソリンやタイヤ、肉などあらゆるものが配給された。
- 大戦末期
1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。V-1のイギリスの被害は死者および重傷者24,165人を出した。
戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、ロンドンを中心とした大都市市民への心理的影響は決して小さく無かった。なおガソリンや食料品の配給は長く続き、菓子類への砂糖の統制は戦後の1953年まで続いた。
アメリカ
- 本土への攻撃と防衛体制
開戦後に、ハワイのパールハーバーにある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州、ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州のアリューシャン列島が、日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲や、日本海軍の潜水艦による砲撃を受けた他、西海岸一帯からハワイ、アラスカやメキシコにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。
これを受け、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯及びハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢におかれ続けたほか、1942年末までは学童疎開の実施が検討された。また、西海岸一帯でロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出るありさまであった。
さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されているすべてのアメリカドル紙幣にスタンプが押された[180]。また、このような対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が、西海岸一帯を中心で行われた[181]。
なお、ドイツ軍やイタリア軍による本土への攻撃は行われなかったものの、東海岸やメキシコ湾沿岸でのドイツ海軍潜水艦による通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[182]。
1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は終戦に至るまで継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[183]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。
- 日用品と食料配給制
1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、アメリカでも他国同様に肉類[180] や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。また、食料の需要を満たすために「勝利農場(Victory Garden)」と呼ばれる家庭農園が全国で行われた。
また、1941年12月以降、全土の一般家庭からの鉄やアルミニウムの回収、供用が行われたほか[183]、ガソリンやオイル、タイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[184] も行われ、生産台数及び販売台数が激減した。
同盟国もしくは中立国で、地続きでもあり、さらに船舶での運行も比較的安全に行われた上、当時世界最大の食肉産出国のアルゼンチンやブラジル、メキシコやカナダからの食肉の輸入が出来たことや、本土での原油生産が出来たこと、そして本土が日本軍の空襲や砲撃以外に大きな戦災を受けることがなかったこともあり、1940年以降のイギリス本土やドイツ、ポーランドなどのヨーロッパ諸国、1945年以降の日本本土のように食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が極端に滞った状況に置かれることはなかった。
しかし、肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[185] 。また、ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、ゴムの供給がひっ迫したため、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[185]。
- 国民の動員
アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%にあたる。単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[186]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。
また、全米で医師の多くが軍人として戦地へ軍医として取られたため、一般的な医師の往診が難しくなった。また太平洋沿岸では、日本軍による空襲や上陸に備えて学童疎開の実施が検討された。
- 人種差別
人種差別法の元で差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩りだされたものの、アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることはほとんどなかった。また、ある陸軍の将官が「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[187] ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していたものの、アフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、アメリカの勝利に大きく貢献した。
敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者が第442連隊戦闘団に志願して、戦場へと向かい、ヨーロッパ戦線で数々の戦功をたてたほか、兵士の日本語教育や日本軍の暗号解読などの任務につき、アメリカの勝利に大きく貢献した。
また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。
- 娯楽・スポーツ
バーやダンスクラブなどの営業制限が行われた。なお日本軍の上陸が危惧された太平洋沿岸で行われた灯火管制の実施時には、レストランや映画館などの夜間営業も制限された。また、戦意高揚を目的に「カサブランカ」をはじめとする娯楽プロパガンダ映画が多く製作された。
なお、メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止を余儀なくされるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。
ポルトガル
- 本土
アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。
中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[188]。
- 植民地
中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力のために連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。
さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[188]。
新たに登場した兵器・戦術・技術
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を、第二次世界大戦はこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金、科学力が亡命者を含み投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と四輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。
既存兵器の変化
- 兵器
第一次世界大戦で実用化が進んだ航空機は、大戦前から近代的な全金属製戦闘機であるドイツのメッサーシュミット Bf 109やイギリスのスーパーマリン スピットファイア、零式艦上戦闘機が実用化され戦場で活躍した。
爆撃機もショート スターリング、ハンドレページ・ハリファックス、アブロ・ランカスターやボーイング B-17、B-24、B-29等、発動機4発の大型戦略爆撃機が連合国側で多数登場した。またデ・ハビランド モスキートや三菱一〇〇式司令部偵察機等の高速偵察機、さらにメッサーシュミット Me 262等のジェット機やメッサーシュミット Me 163のロケット機等、新鋭機が次々と戦場に投入された。
発動機の出力は著しく向上し、レシプロで1,000馬力程度だった出力が過給機を含め、あらゆる技術がつぎ込まれ、戦争中には小型で2,000馬力、大型で3,000馬力を超えた。そのため、もはやレシプロは限界を迎え、大戦中に開発が済んだだけでもドイツ、イギリス、アメリカ、日本が開発を終え、その後のジェット機の実用化までわずか数年でたどり着いてしまう。これら航空機に導入された様々な技術は、戦後は民間でも盛んに使用され、出力向上のための技術は後年、自動車用発動機の改良に様々な形で役立てられた。
同じく第一次世界大戦に本格的な実用化が進んだ潜水艦は、ドイツのUボートや、空母型潜水艦である零式小型水上偵察機を艦内に収容した日本の伊十五型潜水艦や、3機の特殊攻撃機「晴嵐」が搭載可能であり、潜水空母とも俗称される伊四百型潜水艦など、さらなる大型化と多機能化を見せた。この潜水艦における兵器格納技術はミサイル搭載型の潜水艦へと進歩していくことになる。
戦車に関しては、ドイツ軍が編み出した電撃戦という戦術により、求められる性能は第一次世界大戦から大きく変化した。機動力を持つ戦車が要望されたが、装甲が薄く生存性の低い軽戦車は初期に最前線から退き、主力となる中戦車が登場した。戦前にはヴィッカース 6トン戦車を源流とする軽戦車が主力であったが、内燃機関の発達と共に武装・装甲が強化され、急激に重量を増した。連合国の戦車は30トン級(T-34、M4中戦車)が主力となった。開戦初期には主砲は37mm口径が主力だったが、後期には75mm口径以上が必須となった。傾斜した装甲によりその防御力も強化された。同時に戦車へ対抗する兵器も、成形炸薬弾による個人運用が可能な(バズーカ、パンツァーファウスト)の登場により進歩した。
新たな兵器
この戦争では航空機の性能が著しく向上し、空中戦を制するため制空権が重要となり、そのためレーダーの性能とその保持は交戦国にとって重要であった。レーダーは1940年のバトル・オブ・ブリテンで重要な役割を果たし、そのため攻撃目標でもあった。技術革新により小型化され、地上配備から、艦艇、後には夜間戦闘機や哨戒機等、航空機に搭載されるまでになった。
ドイツやアメリカ、日本等が開発した核兵器(原子爆弾)は、ドイツやイタリアからの亡命者の技術を持ってしてもアメリカが末期まで完成しなかったが、その威力と影響は大きく、その存在は冷戦時代を通じて現在も依然として非常に大きい。
大戦中期からドイツのエニグマなどの暗号解読のためイギリスのアラン・チューリングが中心になり研究・開発し、また弾道計算のためにドイツはコンピュータを研究・開発した。
ドイツ空軍は、巡航ミサイルの始祖ともいえるV-1有翼無人飛行爆弾を開発・生産し、実戦投入した。しかし、当時の制御技術では精密誘導は不可能であった。ドイツ陸軍は弾道ミサイルの始祖ともいえるV-2ロケットを実用化し、実戦投入した。これも当時の技術では、現在のミサイルほどの正確な誘導は不可能だったが、発射されたら迎撃不可能で、連合国側に実際の戦果より強い心理的影響を与えた。戦勝国にとって格好の技術略奪目標となり、競ってロケット技術に関する人物・物資を運び去った(アメリカの技術的略奪行為についてはペーパークリップ作戦を参照)。
兵站と機動
アメリカのダグラス DC-3やボーイング B-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、九五式小型乗用車、ジープ、シュビムワーゲンなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。
戦術
戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海戦(日本)、4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への空襲(アメリカ、イギリス)や、V-1やV-2などの飛行爆弾・弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした攻撃である特別攻撃隊(日本、ドイツ)、核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争や攻撃にも大きな影響を与えた。
技術・代用品の開発・製造
絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
評価
大戦と民衆
第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦では、一般民衆はさらに戦争と関わることを余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃(イギリス、アメリカ)、無差別爆撃(イギリス、アメリカ、ドイツ、日本)、原子爆弾の投下(アメリカ)、ホロコースト(ドイツ)など一民族への大量虐殺など、第二次世界大戦は第一次世界大戦より過酷な様相となり、空前絶後の被害が齎された。
さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動(フランス、ポーランド、イタリア、イギリス領シンガポール、アメリカ領フィリピン)が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。
長期に渡る動員によって引き起こされた産業界の労働力不足により、婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。このことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。
『よい戦争』
特に1970年代以降のアメリカでは、世界にアメリカの敗北と認識され、アメリカが世界から反感をもたれるきっかけとなったベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の勧善懲悪の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)[注釈 23]』としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
戦後の冷戦構造の中でのアメリカは、ソビエト連邦の動きに対抗すべく「反共産主義的」であるとの理由で、チリやボリビアなどの中南米諸国や、フィリピンや南ベトナムなどをはじめとするアジア諸国の軍事独裁政権を支援した。結果的にアメリカは1991年のソビエト崩壊により冷戦を勝ち抜いたが、経済面では西欧やアジアの発展の前に多極化が進んでおり、すでに1950年代のような絶対的な覇者とは言えない状況となった。
戦争で日本からの被害を受けたハワイ州とオレゴン州、カリフォルニア州を除き、国土と生産設備の大半を戦災から免れたアメリカは、軍事外交および経済力において突出した存在となったが、東欧・アジア・中米での共産勢力との戦いや中東での戦いなど、つねに共産陣営やイスラム教徒らとの戦いの当事者であることを求め続けられ、国民はの献身を求められ続けた。
また、アメリカとイギリスは日本の占領政策を連合国を代表して事実上決定した。政策の内容は、当初GHQ内部の民生局が主導する民主化優先のものであった。しかし、民生局に変わり参謀第二部が占領政策決定の主導権を握るようになると一変し、戦犯指定を受けた岸信介や児玉誉士夫らの釈放・警察予備隊の編成など保守的性格を強めた。また、これらは日本国内の社会党や共産党などの、ソ連や中華人民共和国から物理的、金銭的支援を受けた陣営に強く批判されることとなった(逆コース)。
民主主義と戦争
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)やネイティブ・アメリカン(先住民)、日系人なども従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[注釈 24] など差別は解消されなかった[注釈 25]。
参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカンも[注釈 26] も同様であった。
また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。
脚注
注釈
- ^ チェンバレン首相は「イギリスに戦争を強いたのは、アメリカとユダヤ人である」と語っていた。
- ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのドイツの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
- ^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ帝国が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意させた。
- ^ アフリカ方面では、アフリカ大陸に広大な植民地を持つフランスが降伏し、北部のフランス植民地、アルジェリアとチュニジア、モロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
- ^ イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海地域を「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
- ^ ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。
- ^ 奇しくも3年前の独ソ戦開始、バルバロッサ作戦発動日と同じ日付である
- ^ なお、国民の士気低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され10月18日、盛大な国葬が営まれた。
- ^ さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられたと勝手に日本が判断した時点で、これは宣戦布告に等しい、とみなす考えもある。最後通牒の項も参照。
- ^ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権。
- ^ しかし後にポルトガル政府の暗黙のもと、両地を事実上統治下においた
- ^ 当時はイギリスとオランダの植民地
- ^ オランダの植民地。
- ^ 現在のスリランカ
- ^ 正式にはドイツ占領下のフランス。
- ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティーは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した
- ^ 戦死後海軍元帥となる。
- ^ 「インディアナポリス」はこの損害の修理のためにアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦「伊58」に撃沈された。
- ^ 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した
- ^ カティンの森事件については1990年にソ連政府がスターリンの指示による犯行を認め遺憾の意を表明した。
- ^ 日本兵のシベリア抑留については1992年にロシアのエリツィン大統領が謝罪した
- ^ Joint Army - Navy Assessment Committee
- ^ スタッズ・ターケル(著)、中山容(訳)『よい戦争』晶文社、1985年7月。ISBN 4794959761。
- ^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
- ^ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く法の下では平等であっても社会的な生活階層に占める人種割合や下位の社会階層から抜け出ることが人種により差が残るなど世俗慣習として差別は依然として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
- ^ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号としてを用いた。コードトーカー参照。
出典
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関連項目
- List of Japanese government and military commanders of World War II
- かつて存在した特殊会社
- 第二次世界大戦の航空戦
- Aftermath of World War II
- Declarations of war during World War II
- Home front during World War II
- 第二次世界大戦の戦闘の一覧
- 第二次世界大戦の会談・会議
- 第二次世界大戦の軍事作戦の一覧
- 第二次世界大戦における女性
- 大衆文化における第二次世界大戦
- 戦争景気
外部リンク
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