日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約
日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約 | |
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通称・略称 | 日豪友好協力基本条約 |
署名 | 1976年6月16日 |
署名場所 | 東京 |
発効 | 1977年8月20日 |
文献情報 | 昭和51年3月7日官報号外第12号条約第3号 |
言語 | 日本語、英語 |
条文リンク | 日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約 (PDF) - 外務省 |
日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約(にほんこくとオーストラリアとのあいだのゆうこうきょうりょくきほんじょうやく、英: Basic Treaty of Friendship and Cooperation)は、1976年6月16日に日本とオーストラリアの間に結ばれた条約。通称、オーストラリアとの友好協力基本条約[1]、日豪友好協力基本条約[2][3]、日豪基本条約[4]、奈良条約[5][6](NARA Treaty[7])。両国間の友好と協力の関係を確認し、その関係の拡大強化を目的とする条約である。
締結当時の日本の首相は三木武夫、オーストラリアの首相はマルコム・フレーザー。
1960年代以降両国は貿易面での関係を深め[8]、オーストリアは日本に鉄鉱石や石炭を、日本はオーストリアに機械や電気製品、自動車などを輸出していた[3][8]。しかし、1970年代前半には鉄鉱石や牛肉、砂糖(日豪砂糖交渉参照)といった個別分野において深刻な経済摩擦が生じており[3][8]、両国間の友好が根底から揺らぐことが危惧された[8]。
友好協力基本条約の締結はこうした状況を打破しようとするものであり[3]、1973年10月、ゴフ・ホイットラム首相(オーストラリア労働党)が来日した際に、ホイットラム首相は両国関係の基本的枠組みを定める「奈良条約」締結を提案[8]、交渉開始が合意された[5]。なお、NARA Treaty という通称は、ホイットラムが訪日中に奈良市を訪れたこと[9]に加え、Nippon-Australia Relations Agreement の意もある[7]。
1974年11月に正式の第一回交渉が行われたが[8]、交渉は長期化[8]。1975年11月にホイットラム政権に代わったマルコム・フレーザー政権(オーストラリア自由党)によって、1976年6月16日に締結されるに至った[8]。条約は、経済関係にとどまらない多方面での友好協力関係を深化させようとするものであった[3][8]。
脚注
[編集]- ^ 日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約 (PDF) - 外務省
- ^ “日豪友好協力基本条約調印40周年記念外務大臣表彰”. 外務省 (2016年8月19日). 2016年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e “日豪40周年、成熟した関係に 始まりはぎこちなく…”. 朝日新聞. (2016年10月19日) 2016年10月20日閲覧。
- ^ “日豪基本条約40周年記念式典”. 公益社団法人日・豪・ニュージーランド協会 公益社団法人日・豪・ニュージーランド協会 (2016年2月16日). 2016年10月20日閲覧。
- ^ a b “第2部 各説 第1章 各国の情報及びわが国とこれら諸国との関係 第2節 大洋州地域”. 昭和50年版わが外交の近況 上巻. 外務省. 2016年10月20日閲覧。
- ^ “日豪友好協力基本条約署名40周年記念の総領事表彰” (PDF). 在シドニー日本国総領事館 (2016年7月11日). 2016年10月20日閲覧。
- ^ a b “Japan country brief” (英語). オーストラリア外交通商省. 2016年10月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 清野健「オーストラリアの対日観 豪日関係に関する特別作業委員会の報告 (マイヤー報告) (1978) を中心に」『經營と經濟』第61巻第4号、長崎大学経済学部研究会、1982年3月、81-109頁、CRID 1050287297239823232、hdl:10069/28143、ISSN 02869101。}
- ^ “オーストラリア首相の訪日に際しての日豪共同コミュニケ”. 外務省 (1973年10月30日). 2016年10月20日閲覧。「データベース「世界と日本」 日本と大洋州関係資料集」所収
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- データベース「世界と日本」 日本と大洋州関係資料集 - 政策研究大学院大学 田中明彦研究室